
【仁和寺】弘法大師 誕生 ~幼少期、青年期、成人前期〜

〜幼少期、青年期、成人前期〜
夜が明ける前の四国・室戸岬。荒れる波の音が響くなか、
断崖にひとりの若者が座っていました。
風は冷たく、着ている衣も薄いのですが、
彼はじっと目を閉じて心の奥深くと向き合っていました。
その若者の名は、空海(くうかい)。
のちに「弘法大師」と呼ばれ、千年以上にわたって語り継がれる偉人です。
空海が生まれたのは、774年。現在の香川県善通寺市のあたりにある、
佐伯家という有力な家柄でした。家族は教養も高く、文化や学問を大切にする環境で育ちました。
空海は小さなころから、たいへん聡明で、本を読むのが大好きでした。
言葉を覚えるのも早く、詩や漢詩をつくる才能もずば抜けていたそうです。
字も上手で、幼いころから「この子は並みの子ではない」と言われていたといいます。
やがて都に上り、「大学(だいがく)」という国家のエリート育成機関に入学しました。そのままいけば役人になり、安定した将来が約束されていたはずです。
しかし、空海はその道を自ら捨てます。
小さい時から、知性に優れておったのか
空海は幼いころから知性に恵まれていただけでなく、
物ごとの本質に強く興味を持っていました。
たとえば、「人はなぜ生きるのか」「どうすれば人は本当に救われるのか」など、普通の子どもでは考えないような深い問いを自分の中に持っていたそうです。
学問においても、ただ暗記したり点数を取るのではなく、
「本質を知る」「世の中に役立てる」ことに強くこだわっていたと伝えられています。
そのため、都の大学で学ぶうちに、
空海はだんだんと違和感を覚えるようになります。
「今の自分にとって大切なのは、国家の役に立つための勉強ではない。
もっと人の苦しみや、生きる意味に直接向き合うような学びがしたい」
そんな強い思いから、空海は大学をやめ、山へこもって厳しい修行の道へと進むことを決めたのです。
30代の転換期

空海と、わたしの歩む道
「自分には、できないかもしれないな」と
ふと立ち止まって思うことがあります。
私は19歳でお坊さんになりました。
でも、まだまだ未熟で、分からないことばかりです。
そんなとき、いつも心に思い浮かべる人がいます。
それは、弘法大師・空海(くうかい)です。
空海は30歳のとき、仏教の中でもとくに深い教えである「密教(みっきょう)」を学ぶため、命がけで中国(当時の唐)に渡りました。
そして、32歳、33歳のころに密教の教えと本を日本に持ち帰り、
日本でも教えを広めていきました。
私も、同じくらいの年齢になってきましたが、
正直なところ、そんなすごいことが自分にできるとは思えません。
それでも私は、この仏の道を歩んでいきたいと思っています。
空海は、「密教を広める」という大きな目的のために、自分の人生をかけて努力しました。私もその思いを、今の時代に合ったかたちで伝えていきたいのです。
密教は、難しいものと思われがちです。
でも、本当は「すべての命が、仏とつながっている」という
やさしくてあたたかい教えです。
私はこの教えを、できるだけ分かりやすく
たくさんの人に伝えていきたいと思っています。
日本での密教には、大きく分けて
「真言宗(しんごんしゅう)」と「天台宗(てんだいしゅう)」があります。
比叡山の最澄(さいちょう)、高野山の空海。
このふたりは若いころに唐へ渡り、それぞれに学び、日本に仏教を広めました。
真言宗では、「今ここに仏さまがいる」と感じることを大切にしています。
言葉(真言)や手の形(印)、曼荼羅(まんだら)など
目に見えるかたちを通して、目に見えない仏の世界を感じることができます。
これが密教のすばらしさです。
でも今の時代、仏教や密教は、どこか遠い存在になってしまっているようにも感じます。
「お正月やお盆にだけ、お寺に行く」
それが、今の仏教との関わりだとしたら
私はそこに新しい風を吹かせたいのです。
日々の暮らしの中に、空海の教えがあること。
仏さまが、いつも見守ってくれていること。
そのあたたかさを、もっとたくさんの人に届けたいと思っています。
私が今こうして仏教にかかわることができているのは、
空海が道をつくってくださったおかげです。
空海という人は、たくさん勉強し、強い信念を持ち努力を続けた人でした。
特別な力を持った人というよりも、
「ひたむきに、自分の道を歩んだ人」なのです。
その姿は、今を生きる私たちにも、大きな勇気をくれます。
空海の教えは、昔の話ではなく、今の時代にも生きています。
私もまた、その教えの中の一滴になれたらと思っています。
仏教が、少しでもみなさんにとって近いものになりますように。
密教の知恵が、心をあたためる灯(ともしび)となりますように。
これからも私は、この道を、静かに、そして熱い気持ちで歩んでいきます。