
居酒屋秋田や、酒と笑いの奮闘記 そしてその先は……
■どん底の一年目
三十五年間の会社生活を終え、私は翌年から居酒屋を始めることにしまた。
私の名字が秋田谷(あきたや)なので、屋号も「秋田や」としました。いろいろと考え抜いた末に、最終的には分かりやすく、柔らかく、優しい雰囲気を出したいという思いから、この名前に落ち着いたのです。
調理師免許もなく、飲食店で働いた経験もありません。周囲からは「無謀だ」「本当にやるのか?」と心配され、要は「後悔するから辞めておけ」という声ばかりでした。
電機メーカーの営業畑で生きてきた私には、飲食の世界で活かせる技術など何一つありません。まったくのゼロからの船出でした。居酒屋を開業して三年続く店は三割にも満たない――そんな厳しい現実を知りながら、それでも私は前に進むことにしました。
開店日は二〇一六年一月八日。
年が明けての八日、末広がりの「八」にあやかり、「良いご縁に恵まれますように!」とすがるような思いも込めました。冬晴れの空は澄み切り、キリッと身が引き締まるような冷たい空気の中で、私は新しい人生の扉を開きました。緊張と不安が入り混じり、胸の奥がじんわりと熱くなるような朝でした。
初日は、地元のテニス仲間や会社時代の同僚、そして店舗工事を担当してくださった方々が顔を出してくれました。あらかじめ用意していた料理を出し、なんとか形にはなったものの、所詮は仲間内の開店祝い。本当に試されるのは、その温かい流れがゆっくり落ち着き始めた、その先でした。
振り返れば、当時の料理はどれも素人の域を出ていなかったと思います。刺身、天ぷら、煮物……一般的な居酒屋料理ではあるものの、「秋田やらしさ」と呼べるものは何一つなく、出来栄えも今一つ……いや、当時を知る常連なら「ゼロ」と言うかもしれません。
開店から半年ほどは、東京在住の小中高の同級生、大学の寮仲間、合気道部の仲間、元の会社関係、地元の友人たちが冷やかし半分で予約を入れてくれました。友人や知り合いが「様子見に来たよ」「冷やかしに来たよ」と言いながら立ち寄ってくれ、店はなんとかぎわいましたが、そのにぎわいは半年限定の“花火”のようなものでした。
一年目の日記には毎日の天気、売上、客数、特記事項が記されています。今読み返すと、背筋がゾッとするような数字が並んでいます。当時の店の雰囲気も、自分の心境も、「日本酒をゆっくり楽しむ空間」とは程遠いものでした。
常連客は増えず、開業前に策定した事業計画との乖離は広がるばかり。「二年やってダメなら閉める」と決めて始めた居酒屋稼業。その“二年”の折り返し地点で、私はすでに崖っぷちに立っていました。
最初は妻に手伝ってもらいましたが、妻は飲食に興味があるわけでもなく、接客経験もなく得意ではありませんでした。もともとやりたくないのを無理にお願いしていたこともあり、お客さまの前に立つと、どうしても動きが固く不自然な感じになってしまいます。やはり妻では難しいと早々に諦め、次に頼ったのは高校生の娘でした。飲食店でのバイト経験があり、キッチンも接客もテキパキこなしてくれました。お客さまからの評判も良かったのですが、部活や勉強で忙しく、長く続けることはできませんでした。
毎月月末には家賃に見合う利益も出ず、銀行口座の残高は減る一方。新聞は夕刊をやめ、自宅の固定電話も解約し、外で飲むことも控えました。生活を切り詰めながら、「本当に続けられるのか」と自問する日々。あまりの苦しさに、定休日や空いた時間にアルバイトでもしようかと真剣に考えたこともありました。店を続けたい気持ちと、現実の厳しさの間で、心がすり減っていくような毎日でした。
そして――開店した年の八月。“ニッパチ”と言われる一年で最も暇な時期。その言葉を、身をもって思い知ることになります。
八月一日(月)、お客さまゼロから始まりました。お盆前の金曜日、十二日もゼロ。十三日(土)はようやくお一人。十二日から二十日までの営業日五日間の売上は、合計一万六千九百六十六円。一日あたりにすると、平均三千三百九十三円。八月の売上はとうとう二十万円にも届きませんでした。店の静けさと向き合う日々が続き、あの月は売上も気持ちも、まさに“どん底”でした。
更に、当時は会計を円単位で行っていたため、「一円単位なんて聞いたことないよ」「小銭がないよ」と、お客さまから思わず苦笑いしてしまうような声をいただくこともありました。何もかもが手探りで、“ど素人が始めた居酒屋”そのものでした。
会社勤めの頃は転勤や残業は当たり前で、毎月毎月売上数字を求められ、結果責任を持たなければなりません。しかし、会社の看板に守られていました。嫌な上司のもとでは理不尽なことも多かったものの、毎月決まった日に給料が振り込まれ、年に二回ボーナスも振り込まれるのです。今で言うパワハラ、モラハラなどは一時の苦痛や不快を乗り切れば終わるものでした。しばらく憂鬱な時期もあったし、理不尽な転勤や処遇もありましたが、毎月給料が振り込まれ生活に困るようなことはありませんでした。いま思えば、どれほど恵まれた環境だったのか。独立して初めて、そのありがたさを痛感しました。
「本当に居酒屋をやりたかったのか?」 「ここで辞めたら、次は何をる?」 「三年続く店は三割に満たない……居酒屋秋田やはその三割に入れるか?」
どんよりとした暗い気持ちを抱えながら、それでも店に立ち続けました。そして、あの八月を境に、少しずつ、ほんの少しずつですが、光が差し始めることになります。その光の一つが、後に“救世主”となる、かんちゃんとの出会いでした。
■救世主のバイトの名はかんちゃん
開店から一年が過ぎようとしていた頃、店は少しずつお客さまが増えてきたものの、週末やイベントの日はどうしても人手が足りなくなっていました。妻にも娘にも手伝ってもらいましたが、それぞれの事情があり、長く続けてもらうのは難しい状況でした。「そろそろ本格的にバイトを入れないと……」そう思いながらも、なかなか踏み出せずにいたのです。
そんなある日の夜。三人組の女性客が座敷席に入り、日本酒を楽しみながら明るく盛り上がっていました。飲み方も所作もきれいで、キッチンから眺めているこちらまで心が和むような、気持ちのいい“女子会”でした。
お会計のために座敷へ向かうと、その中の一人が、いきなりこう言ったのです。 「マスター!バイトに使ってもらえませんか?」
あまりに突然で、思わず聞き返しそうになりました。しかし、その言葉には迷いがなく、こちらをまっすぐ見つめる目に、なぜか“ご縁”のようなものを感じました。
その女性こそ、後に秋田やを支えてくれるかんちゃんこと神田さんでした。
かんちゃんは福島県郡山市出身の看護師さんで、週末の金曜日・土曜日に働きたいと言ってくれました。一応、形だけの面接をしましたが、心の中ではすでに「お願いします!」と決めていました。
実際に働いてもらうと、その判断が間違っていなかったことをすぐに思い知ります。看護師の仕事を終えてから、時には夜勤明けでそのまま来てくれることもありましたが、いつも笑顔で明るく、気持ちが入っているのです。私が迷ったりしていると、「マスター、それ私やりますね!」と自然に動いてサポートしてくれます。
ある時、お客さまから酎ハイの注文が入りました。私は酎ハイを飲んだこともなく、どう作ればいいのかも分からず固まっていたところに、かんちゃんがササッと材料を揃え、手際よく作ってお客さまに出してくれました。ハイボールの樽が切れた時も同じです。 「マスター、ウイスキーありますか?」 「あるけど……」 と言う間に、かんちゃんはウイスキーでハイボールを作り、お客さまへ届けていました。
“お主、やるなぁ……” 心の中でそうつぶやいたのを覚えています。
更に、かんちゃんは店の細かいところにもよく気がついてくれます。 「これ交換しましょう」 「これ、もう捨てていいですよね」 提案も行動も早く、かんちゃんが入ってから店の雰囲気は一気に良くなりました。
そして、かんちゃんは看護師仲間二人をバイトに紹介してくれました。しばらくの間、秋田やは“看護師バイト三人体制”となり、店は見違えるほど活気づきました。
この三人娘がバイトシフトに入ってくれていた時期、私は初めて“秋田やに、ようやく光が差し始めた……”と実感したのです。開業時に決めた「二年やってダメなら閉める」という期限が目の前に迫っていた頃でした。
あの日、女子会でふらっと来てくれたかんちゃん。その場で「バイトお願いします!」と言ってくれた勇気。そこから広がったご縁。すべてが絶妙なタイミングで重なり、秋田やは救われました。かんちゃんは、まさに秋田やの救世主となりました。
■地元農家さんとの出会い
店が少しずつ軌道に乗り始めた頃、私はずっと悩んでいたことがありました。
秋田やの“定番料理”が決まらない。
「秋田やといえばこれだ」と胸を張れる一品がありませんでした。他のお店にない、他のお店ができない何かが欲しい。そう思い続けていました。
そんな中、地元流山は緑が多く、まだまだ自然にも恵まれた「都心から一番近い森のまち」であり、あちらこちらに畑があります。毎朝、自宅から車で店へ向かうのですが、その日は途中の農協の“のぼり”が目に入りました。
「新鮮野菜」
その文字が、なぜか強く目に飛び込んできたのです。時計を見ると、ちょうど九時を少し過ぎた頃で、農協の開店時間でした。ふと車を停め、のぞいてみることにしました。
店内では、地元農家さんたちが朝採れ野菜を並べている最中でした。きゅうり、トマト、春大根、春菊、ブロッコリー、小松菜、ほうれん草、スナップエンドウ……色とりどりの野菜が所狭しと並べられています。きゅうりの先には黄色い花が残り、表面には産毛がふわりと立っています。“今、畑から来ました”と言わんばかりの表情です。
そして何より安い。四種類の朝採れ野菜を買って五百円。思わず笑ってしまうほどの値段でした。その日は秋田やが開業して二年目の春だったと思います。その日から、農協が定休日の土曜日・日曜日以外は、毎朝開店の九時に合わせて農協へ通うようになりました。農協の職員さんはもちろん、野菜を卸している農家さんとも顔見知りになり、「この農家さんの春菊は柔らかく香りが強い」 「この農家さんのトマトは味が濃く甘い」と、作り手による野菜の特徴まで分かるようになっていきました。
やがて、私は二軒の農家さんと特に深いご縁をいただくことになります。
一軒目は、江戸時代から三〇〇年続く森田農園さん。
昔から丁寧な土づくりにこだわり、野菜の甘みと味の濃さは別格です。
ある日、森田さんのお母さんが「春菊は生でも美味しいよ」と言って、畑で摘んだばかりの春菊を手渡してくれました。
もともと私の春菊の印象は、鍋に入っている緑色の野菜で、茎は固く苦みもあり、美味しいと思ったことはありませんでした。いつも敬遠していた野菜です。
ところが、その生の春菊を恐る恐る口に入れてみると――茎は柔らかく、苦みはなく、甘みさえも感じ、香りがふわっと広がりました。今まで食べてきた春菊とはまったく別物でした。
“朝採れの春菊は、こんなにも美味しいんだ”
その衝撃は、今でも忘れられません。
二軒目は、矢野さんご夫妻。
畑の脇には澄んだ湧水が流れ、平地とは言えない土地を巧みに活かし、山菜や香味野菜を得意とした農家さんです。お二人とも八十歳を超えた年齢ですが、「毎日これを食べてるから、まだまだ元気なのよ」と旬の野菜について語ってくれます。春にはうるい、分葱、野ぜり、根三つ葉など、香り豊かな野菜が採れ、朝の空気に混じる土と野菜の香りも心地よく、毎朝ご夫妻との会話で一日が始まります。
森田さんと矢野さんは、作る野菜があまり重ならないため、二軒回るだけで季節の野菜がほぼ揃うのです。
会社勤めの頃は、満員電車に揺られるだけで一日の気力が削られるような、そんな憂鬱な朝でしたが、二軒の農家さんを回り野菜を仕入れるこの時間が一日の中で一番心地よく、自然と気持ちが上がるようになりました。そして私は毎朝、畑で採れたて野菜の試食もしながら、その日の料理を考えるようになりました。
“今日の畑が、今日の秋田やのメニューを決める”
そんな日々が始まりました。
やがて、秋田やの“顔”となる料理が生まれます。秋田やのお通しです。
朝採れ野菜の三点盛りを白い横長の器に、その日の野菜をシンプルに調理して盛り付けるだけ。しかし、素材の力が強いからこそ、お客さまからは「これだけで日本酒が飲める」と好評でした。
例えば冬のちぢみほうれん草は、普通のほうれん草と比べ甘みが強く、色合いも良く、サッと茹でて一切味付けをせず、鰹節をパラパラとかけてお出しします。
そして何より驚かれるのが、きれいに洗った“根っこ”です。薄いピンク色のその“根っこ”は、葉よりも格段に甘みが強く、噛むほどにじんわりと甘さが広がります。薄いピンク色の“根っこ”、きれいな薄緑の茎、そして厚く縮れた深緑の葉――三者三様の味と色彩が楽しめる冬の名物にもなりました。
そして、もう一つの定番料理が秋田や特製ポテトサラダです。ジャガイモで味(甘み)、風味が全然変わるんです。ジャガイモは、ねっとり感が強く甘みも強いキタアカリを使います。他の材料は玉ねぎ、きゅうり、にんじんを加えたシンプルなものですが、素材が違うと、味はここまで変わるのかと驚かれます。暑い夏場はお酢をちょっと多めに入れ、きゅうりの塩もみの塩気を強めにするのも秋田や流かもしれません。いつものキタアカリがない時は、その時ある男爵イモをコンソメスープで茹で旨味を出します。男爵イモでもそれなりに美味しいのですが、自然の野菜が持つ旨味にはかなわないように思います。
こうして、秋田やの料理は“畑の力”によって少しずつ形を整えていきまた。
更に、もう一つのご縁が生まれます。秋田県大仙市の農家さんが作る「いぶりがっこ」との出会いです。
地元のテニス仲間との旅行で、仲間が持ってきてくれたタッパーいっぱいのいぶりがっこ。その蓋を開けた瞬間、燻製の香りと大根の甘みがふわっと広がり、一口食べるとパリッとした食感と優しい塩味が絶妙で、お酒にも合うんです。
「これ、どこで作ってるの?」と聞くと、親戚の農家さんが秋田で作っているとのこと。早速、その農家さんの連絡先を教えていただき、ついでにその農家さんに連絡も入れていただきました。「仲間の秋田谷さんからいぶりがっこの件で電話行くけど、ヨロシクね」と。
私はその翌日に電話をし、その年はまず百本お願いしました。電話をしたのは梅雨入り前の季節の良い五月頃だったと思います。毎年夏前に作る本数を決め、その年の十二月中旬に完成するとのことで、仕込みの時期としても丁度良いタイミングでした。そして十二月。約束通り、いぶりがっこが秋田やに届きました。早速お客さまにお出しすると、評判は上々――いや、酒のつまみには最高でした。それからは毎年百五十本を仕入れるようになりました。今では秋田やの冬の名物で、十一月になるとお客さまから「いぶりがっこ、まだ?」と聞かれるほどです。
地元の農家さん、秋田の農家さん。作り手の顔が見える食材に支えられ、秋田やの料理はようやく“秋田やらしさ”を持ち始めました。そして、女性のお客さまが増えたのも、この“野菜の力”が大きかったと思います。
畑の力は、店を変えただけでなく、私自身の料理観も変えてくれたのです。
しかし、それでもまだ、心の中にははっきりとした課題が残っていました。 「女性一人でもゆったりくつろげる日本酒のお店」――その想いが、次の一歩を生み出していきます。
■若乃井酒造との出会い
秋田やは日本酒を売りにした店として、常時三十種類以上の銘柄を揃えるようになりました。その中でも、開店当初から今も変わらず“定番地酒”として置いているのが、山形県の若乃井酒造のお酒です。
地元千葉県ではほとんど見かけない銘柄です。では、なぜ若乃井のお酒を置くことになったのか――そのきっかけは、大学時代の友人・横田君の一言でした。
開店して間もないある日のこと。横田君が店に来て、開口一番こう言ったのです。 「若乃井の酒、置いてるか?」 聞いたこともない銘柄だったので、「いや、知らないよ」と答えると、「美味しいから置いてほしい」と真顔で言うのです。
横田君は、大学時代から“おやじの貫禄”を持つ男でした。学生とは思えない落ち着きと風格。しかしその見た目に反して、酒・料理・音楽・芸術……趣味のセンスが抜群で、こだわりも深いのです。
そんな横田君が勧める酒なら間違いない。そう思い、仕入れルートを聞くと、「直接、蔵元に連絡してみたら?」と紹介をしてくれました。
“やると決めたらすぐ動く(営業一筋三十五年!)“のが私の性分です。紹介してもらった翌月、二〇一八年一月七日、私は山形へと向かいました。
山形新幹線の赤湯駅に降り立つと、息をのむほどの白銀の世界が広がり、目を細めるほど雪が眩しく、空気はきりりと澄んでいました。車で迎えに来てくださった若乃井酒造の大沼社長も窓越しに笑いながら「こんな大雪は久しぶりだね」と言い、車で三十分ほど走り、西置賜郡飯豊町の若乃井酒造に到着しました。玄関先も雪が深く、その静けさの中に、どこか凛とした空気が漂っていました。ちょうど新酒しぼりたて作業も一段落したタイミングとのことでした。
応接間に通されると、奥様が湯飲み茶わんと漬物をお盆に乗せて運んで来てくださいました。そしてお茶が出るものと思いきや、三種類の四合瓶のお酒がテーブルの上に置かれたのです。
「さすが酒蔵。まずはお茶ではなく日本酒なんだな」
そう思いながら、奥様が注いでくださった三種類のお酒をいただくことになりました。
「若乃井 特別純米」 「雪室貯蔵 純米吟醸」 「しぼりたて生原酒」
どれも個性があり、どれも旨い。仕込み水をチェイサー代わりに飲むと、柔らかく、ほんのり甘い。この水が、この酒をつくっているのだと実感しました。
そして何より心を掴まれたのは、大沼社長ご夫妻のお人柄でした。飾らず、気取らず、丁寧で、温かくて、“この人たちがつくる酒なら間違いない”と思わせる空気がありました。
そして酒蔵の見学では、発酵中の酒樽の上を板で渡る場面があり、お酒を飲んだせいか足元がふわふわして少し怖かったのですが、大沼社長が「落ちないように、気を付けてね」と優しく声をかけてくださったのを覚えています。
昼間からかなり飲んでしまいましたが、打ち合わせは驚くほどスムーズに進みました。(奥様に注いでいただいたら、そりゃ飲むしかありません)
こうして、若乃井酒造のお酒は秋田やの“定番地酒”となりました。
味の良さはもちろんですが、それ以上に「人の温かさが詰まったお酒」だと感じたからです。
今でも若乃井のお酒をお客さまに出すたび、あの日の眩しい雪景色と、応接間で迎えてくださったご夫妻の笑顔を思い出すことがあります。秋田やにとって、人のつながりが思いもよらない形でお酒を運んでくれる――そんなことを初めて実感した出来事でした。そして、このご縁は不思議なことに、その後も続いていきます。
若乃井酒造との出会いからしばらく経った頃、私はふと、ある思いが胸に浮かびました。
――この美味しい日本酒を、もっと多くの人に味わってほしい。
ただ飲んでもらうだけではなく、造り手の想いや酒の生まれるまでの物語まで伝えられたら――そんな思いが、ゆっくりとふくらんでいきました。きっと日本酒の味わいは何倍にも広がるはずだと感じたのです。その思いがひとつの形になったのが、『蔵元と日本酒楽しむ会』という企画でした。
最初「山形から来てくれるだろうか」「蔵元さんに迷惑をかけないだろうか」と迷いもありましたが、思い切って若乃井酒造の大沼社長に電話をし「今度、秋田やで『蔵元と日本酒楽しむ会』をやりたいのですが……」と切り出したら、あっさりと「いいよ」(あららっ、あっさり過ぎる)と、驚くほど快く引き受けてくださったのです。「十二月~二月の酒蔵が一番忙しい時期さえ避けてもらえれば大丈夫ですよ」と言ってくださり、胸の奥がふっと軽くなりました。嬉しさと安心が一度に押し寄せて、思わず顔がほころんだのを覚えています。こうして若乃井酒造との『蔵元と日本酒楽しむ会』の開催が正式に決まりました。
第一回『蔵元と日本酒楽しむ会』
酒蔵の忙しい時期を外し、ギリギリ新酒絞りたても出てくるし、燗酒も楽しめるだろうとの思いで二〇一八年三月三日に決まりました。
このような企画は地元居酒屋では初めてで、開催二か月前の年明けには企画概要を決め簡単なご案内をお店の中に掲示しました。SNSやお店の外には情報発信はしませんでした。少しずつ日本酒好きな常連さんも増えてきましたので、まずは常連さんにご参加いただき楽しんでもらいたいとの拘りからです。店内にご案内を掲示するとあっという間に二十人の申込があり定員となりました。新規のお客さまもいらっしゃいましたが、概ね日本酒好きな常連さんが名を連ねていただき目論見通りと言ったところでホッとしたのを覚えています。さぁ開催まで約一か月半。ここからは、開催に向けた具体的な準備です。
若乃井酒造からは八種類のお酒と、特別に仕込み水を持って来てもらい、ご厚意でお土産用にと酒粕もサービスしていただくことになりました。料理はやはり山形の郷土料理に拘ろうと大沼社長の奥様にお願いし何品か郷土料理のレシピもいただき、開催の目途がつきました。玉こんにゃく、芋煮、だしの三品です。事前に試作もし味もバッチリで準備完了!
当日は十七時三十分開店、十八時開始の予定だったのですが、夕方の五時を過ぎたあたりから、ぽつぽつと常連のお客さまがご来店。佐藤さんご夫妻、久保さんご夫妻、寺田さん、森さんと……。「お客さ~ん! 早いよ! 早すぎるよ」「家いてもやることないんだもん」とのやりとりをしながら席が七割ほど埋まった五時半頃、若乃井酒造の大沼社長がお店に入って来られました。第一声が「あれ? 時間間違えた? 遅れて来ちゃった?」(そりゃそうだ)。こんな感じで全員が揃い着席した五時四十五分に予定より早く開催することになりました。店の空気もいつもと違い緊張と期待の入り混じった、独特の高揚感。常連さんも初めての方も、「今日はどんな会になるんだろう」とワクワクしているのが伝わってきます。まずは大沼社長からご挨拶をいただき、乾杯のご発声で始まりました。乾杯のお酒を飲み干してからは次々と八種類の若乃井のお酒を徳利に移しお客さまの元へ。あらかじめ大沼社長と相談し、八種類のお酒の順番まで決めて作成した日本酒リストに沿ってお出ししました。もちろんバイトはかんちゃんでテキパキとお客さまとも会話をしながら良い雰囲気です。
大沼社長には八種類のお酒をお出しするたびに、その一本一本に込められた思いや物語を丁寧に語っていただき、お客さまへ注いでいただきました。造り手である蔵元の社長から直接説明を受けながら杯を満たしていただける機会など、そうあるものではありません。社長の言葉には、酒づくりへの誇りと愛情がにじんでいました。参加者の皆さんは、社長の話に耳を傾けながら、一杯一杯を大切に味わっていました。
そして「同じ酒でも、話を聞いてから飲むと全然違うね」 「こんなに柔らかい味だったんだ」
そんな声があちこちから聞こえてきて、大袈裟かもしれませんが私は胸が熱くなり「ああ、やって良かった!」と心からそう思う瞬間でもありました。
そしてお客さまの席にはあらかじめ仕込み水をご用意し、和らぎ水として悪酔いしないようお酒とお水を交互に飲んでいただくようにしました。料理も山形郷土料理と秋田や自慢の? 料理を順番にお客さまの席へお出しします。一通り八種類のお酒の飲み比べした後はお好きなお酒をお好きなように楽しんでいただきました。予定の終了時間を大幅に超えて何とか無事に終了することが出来ました。お帰りには若乃井酒造からの酒粕のお土産付きです。お客さまからも「こんなにもらっていいの?」「ありがとうございました!」 と本当に大満足でお帰りいただけたと思います。何より最後までお付き合いいただいた大沼社長には本当にお世話になりました。「ありがとうございました!」
第一回の『蔵元と日本酒楽しむ会』が終わると、参加された皆さんから「またやってほしい」「次はいつですか」という声が次々に届きました。大沼社長も「また呼んでくださいね」と笑顔で言ってくださり、そこから『蔵元と日本酒楽しむ会』は秋田やには欠かせない恒例行事となりました。
そして常連さん同士の交流が自然と芽生え、日本酒が人と人をつなぐ静かな媒介となり、蔵元の想いと参加者の笑顔、そして店に満ちる暖かな気配が折り重なりながら、秋田やは少しずつ、私が思い描いていた居酒屋へと姿を変えていきました。
翌年からは、新潟・吉乃川、福島・栄仙酒造、末廣酒造、静岡・萩錦酒造、香川・金陵酒造、高知・司牡丹酒造……全国の様々な酒蔵が新酒の美味しい時期に来ていただき、日本酒を存分に楽しませていただきました。
その中でも、特に強烈に印象に残っているのが司牡丹酒造です。二〇二三年のNHK朝ドラ『らんまん』の撮影現場が司牡丹酒造でもあり、社長の竹村さんは超多忙の中、三月四月で空いているのが四月二日(日)ただ一日だけとのことで、その日に開催させていただきました。そして翌日の月曜日から『らんまん』が放送開始。そんなタイミングで高知から竹村社長に来ていただくことになりました。
普通、秋田やのような小さな居酒屋に大手酒蔵の社長が来てくださるはずもありません。しかし竹村社長は大学の寮の後輩でもあり、特別に来ていただいたのです。(本当に良い人だ!)
しかもサービス精神が半端ない。高知から最高のカツオ藁焼きと専用ぽん酢を手配し、高知伝統のお座敷遊び用の酒器「べく杯(可杯)」までご用意いただきました。そして自らお客さまの輪の中に入り、一気飲みを何杯したのだろうか……。
この日で一気に司牡丹のファンが増え、秋田やの定番地酒リストに『船中八策(純米超辛口)』を追加することになりました。超辛口とはいえ飲み口が良く、米の旨味も感じられる人気の一本です。
そして昨年、秋田やは十周年。記念すべき『蔵元と日本酒楽しむ会』は、迷うことなく若乃井酒造の大沼社長に来ていただくことにしました。第一回の開催でお客さまを魅了し、その後は秋田やの“定番地酒”として欠かせない存在となった若乃井。 「また若乃井さんの話が聞けるの?」 と、常連さんからも喜びの声が上がりました。「さぁ、来年はどこの蔵元に来ていただこうか」お客さま以上に、私自身が楽しんでいるようです。
これで秋田やは「日本酒をゆっくり楽しんでいただけるお店」に少しは近づいたかなぁ。いや、もっともっと。まだまだ。そして、次に訪れたのは、酒ではなく落語(笑い)との出会いでした。
■落語界初!平成生まれの噺家との出会い
私が五十歳も半ばを過ぎる頃には、サラリーマン生活の先がなんとなく見えてきて、これまでとは違う手応えを感じるようになっていましたが、その一方で仕事を終えてからのアフターファイブ(いや~昭和の良き時代の死語が出ました!)は相変わらず心を満たしてくれる大切な時間でもありました。
会社の仲間である武田さんと一緒に行った、会社近くの新橋の飲み屋。武田さんは会社の一年先輩で、何事も控えめですが仕事はキッチリ、会社での信頼も厚い酒飲み友達の一人です。新橋駅烏森口から歩いて四〜五分の飲み屋街の、狭くて急な階段を上った小さな飲み屋が武田さん行きつけのお店です。
武田さんがそのお店のドアを開けて覗くと、その日はたまたま落語会とのこと。私は落語には興味もなく、武田さんとも「お店を替えようか」と迷ったものの、「落語はすぐ終わるから、まずは入ってみよう」ということになり、そのお店に入ることにしました。
既に三人のお客さまがいらして、私たちも空いている席に腰を下ろしました。お店の隅の小さなテーブルには座布団が敷かれ、その上には着物姿の若い噺家が座っています。常連と思われる先客三人のお客さまと、軽妙にやりとりしながら、場をゆっくり温めている様子でした。いわゆる落語が始まる前の「枕」だったのだと思います。その頃は「枕」などの言葉は知る由もなく、秋田や落語会を始めてから知った言葉です。狭いお店なので、どこに座っても噺家の姿が手に取るように近く、座布団に座る姿勢から頭の先まで、その全身が丸ごと伝わってくる距離でした。
落語は噺を聞けば良いというものではなく、噺家の扇子をひょいと動かす指先や、登場人物ごとにくるくる変わる表情も落語の醍醐味だと思います。
私たちは取りあえずビールを頼み、武田さんがあれやこれやと私にも気を使いながら、お勧め料理をちょうど良い感じで注文してくれました。ここの刺身は抜群の鮮度で美味しいので、当然刺身盛り合わせも注文してもらいました。武田さんとは何度も何度も飲みに行っているので、どんな料理をどのくらいの量を注文するかはお任せで、いつもベストチョイスなんです。これが酒飲みには安心感があり、心地良いのです。 ビールで喉を潤し、料理を一口二口食べた頃、その噺家の「枕」も切りの良いところで終わり、落語が始まったようです。実際の落語はその時が初めてだったので、「枕」なのか落語なのか、落語なのか何なのか、よく分かりませんでした。ビールの後は日本酒を頼み、チビチビとやっていましたが、落語は全く邪魔にはならなかったのを覚えています(失礼な! 高座を務めている噺家が一番いやなことは、落語に集中して聞いてくれないこと)。小さな空間で噺家との距離も近く、正にかぶりつきでした。噺家の表情、動きも目の前で楽しむことが出来るんです。
お酒を飲みながらの初めての落語は、話はよく分かりませんでしたが(重ね重ねスミマセン!)、一言で言えばライブ感満載で、お客さまとの一体感もあり、気づけば私は噺よりもその芸の細やかさに見入っていました。私はその頃すでに、早めに会社を辞め居酒屋でも、自分の店でも開きたいと漠然と思っていましたので、「お店で落語もありだな」となんとなく思ったわけなんです。
これもご縁だと思い、落語が終わってからその噺家に声を掛け名刺交換をしました。落語家 二つ目『柳家緑君(やなぎや ろっくん)』。見た目も若く、名前に「君」がついて『ろっくん』。呼びやすく親しみやすいと思いました。そして、その名刺を受け取ったあの日のことは、どこか心の片隅にそっと残っていました。
それから二年以上が過ぎ、私は五十七歳で会社を辞めました。三十五年の会社生活に区切りをつけ、自分で選ぶ次への道へ進むことにしたのです。そして翌年、五十八歳で居酒屋秋田やを開業しました。
開業してからの毎日は、まさに無我夢中。慣れない飲食の世界で、目の前の仕事をこなすだけで精一杯で、売上の不安や「続けられるのか」という焦りが胸の奥に常にありました。
季節が巡るのを感じる余裕もなく、ただ必死に日々が過ぎていきました。
そんな不安な日々の中で、ふと「他の居酒屋とは違う何かをやりたい」「他の居酒屋が出来ない何かを……」と思うようになりました。
料理なのか、お酒なのか、それともまったく違う何なのか……。
とにかく秋田やの価値を見出し、高めたいとの一心でした。
その時です。新橋で偶然出会った、あの小さな飲み屋での落語の光景がふっと蘇りました。
噺家の表情、扇子の動き、あの距離感――
「日本酒をメインとする店なら、落語がきっと合うのではないか」と思い至り、あの日もらった名刺を探し始めたわけなんです。
あった! ありました、『柳家緑君』。そして早速、柳家緑君の名刺の電話へ。 「あの~秋田谷と申します。以前新橋の居酒屋で名刺交換した秋田谷です」 「えっ? はぁ? そうですか……」と電話でこんな感じのやり取りをし、神田駅前の喫茶店で待ち合わせをし、打ち合わせをしました。それは開業して二か月程経った二月末。二年半ぶりの再会? となりました。
柳家緑君は「秋田谷さん? 何屋さんだったかなぁ? ん~誰だったかなぁ」と、全く記憶もなく私の名前も覚えていなかったようで、いきなり呼び出され戸惑っていたとのことでした(そりゃそうだ!)。
落語の時は着物姿で、それなりに噺家の雰囲気もありましたが、喫茶店でお会いした柳家緑君はジーパンにTシャツの普段着にリュックサックを背負った普通の若者。二十代で若いのですが、何か「ボクちゃん」という感じ。そして一方的に呼び出したのは私なのに、いろいろ話をしてもなかなかかみ合わず、こちらの意図もなかなか伝わらず、気づけば私はイライラしていたのを覚えています(勝手に呼び出しておいて何をイライラしているんだ、ですよね)。
まぁ、とにかく落語会をやってみようと日程を決め、チラシを作り、人を集めることにしました。(やると決めたら早いんです。そりゃ営業一筋三十五年!)
第一回目 二〇一六年四月二十三日(土)お客さま十五人。 第二回目は翌月五月七日(土)お客さま十八人。 まずは「やってみた!」という感じでした。
流山の居酒屋で落語会。物珍しさもあり、私も「最初が肝心」と何が何でも人を集めねばと、あっちこっちに働きかけ、お客さまの入りはまずまず。そしてお酒を飲みながら落語を満喫していただき、皆さん全員がご満足されてお帰りいただいたと思います。目の前で落語を楽しみながらお酒も楽しめるんですから。
前の会社の武田さん始め、仲間たちに声を掛け、現役女子社員にもお手伝いに来てもらいました。お休みの中、遠いところから電車を乗り継いでお手伝いに良く来てもらったなぁ(時間外手当も出さずにスミマセンでした!)。
このように秋田や落語会は、物珍しさと本格的落語を楽しみながらお酒も飲めることで手応えも感じ、秋田やの恒例行事とすることに即決しました。まずは二〜三か月に一回のペースで少しずつ新しいお客さまを増やし、秋田や落語会、柳家緑君のファンも増やそうと決めました。
落語会のチラシを作り、南流山駅周辺マンションにはチラシのポスティングをし、最寄駅南流山駅でチラシ配りもしました。中途半端にやると結果も中途半端に終わるので、目標も決め、やると決めたら徹底的にやりました。
チラシ配りは朝の通勤時に合わせ、八時から配り始めました。少ないかなぁ? と思いながら初日はチラシ百枚を持って最寄り駅の南流山駅へ。南流山駅はJRとTX(つくばエクスプレス線)が乗り入れている駅で通勤客は多く、皆足早に改札口に向かい、南流山駅で降りる人たちはそれぞれ目的地へと向かっていきます。
このような中で「おはようございます。落語会のご案内で〜す」とチラシを渡そうとしますが、誰一人として振り向いてくれません。私だけが朝の通勤時間の雰囲気に馴染んでいないようにも感じました。また人によっては「この忙しい通勤時に落語?」といった冷たい視線すら感じたものでした。
チラシ配りを始めてすぐに「百枚は多すぎた!」と後悔しました。朝八時〜十時までの約二時間でチラシを受け取ってくれた方は二〜三人。この朝のチラシ配りは三日やりましたが、配ったチラシの枚数はなんと一桁! ふ〜朝から疲れたなぁ。心が折れるとはこのことだと思いました。
最初は二〜三か月に一回の落語会としました。柳家緑君も秋田や高座にも慣れ、高座を降りてからもお客さまと良い感じで和やかに接していただき、徐々に落語ファン、柳家緑君ファンも増え、そして柳家緑君ファンクラブも作るに至りました。一応、私が柳家緑君ファンクラブ代表となりました。中途半端は嫌なので、徹底して応援しようと決めたんです。
そして開業した翌年の二〇一七年六月より落語会を毎月の恒例行事としました。柳家緑君から最初は「お客さま入りますか? 大丈夫ですか?」と心配されましたが、私は「とにかくお客さま集めるから大丈夫!」と言い切りました。最初はとにかくアッチコッチに声を掛けてお客さんを呼び込みましたが、常連さんも増えて来て毎月毎月、そして毎回毎回、お店の小さな空間が笑いで満ちる落語会となっていきました。不安でいっぱいのどん底から、この秋田や落語会で少しずつ明るい兆しが見えてきたように思います。
とことん応援するぞ! 目指すは『落語界初! 平成生まれの真打昇進!』です。
■おおたか寄席
二〇二一年九月二十一日、真打・柳家緑也師匠が誕生しました。柳家緑君改め 柳家緑也ファンクラブ主催で、真打昇進披露イベント『流山が育てた! 落語界初! 平成生まれの真打昇進!』を、その年の十二月四日に、地元流山のスターツおおたかの森ホールで開催しました。
このイベントでは、柳家緑也師匠と、地元選出の国会議員である齋藤健先生とのトークセッションを大きな目玉としました。実は齋藤先生に登壇をお願いしたのには、はっきりとした理由がありました。地元流山で知名度抜群の国会議員(東大卒で硬いイメージ)と、流山が育てた噺家(高校中退で砕けた柔らかいイメージ)。この対照的な二人が並ぶだけで話題性は十分ですし、何より多くの流山市民に来てもらえると踏んだからです。
しかし、始まってみると齋藤先生は驚くほど柔らかく、「こんなことまで言っちゃっていいの?」という場面が何度もありました。私自身も齋藤先生への印象が、良い意味で大きく変わりました。
一応、地元出身のMCに進行をお願いしていましたが、正直、MCがいらないほど齋藤先生が場をリードしてくださり、聴衆が関心のある政界の話や日常生活の話まで踏み込んで語っていただきました。「もっと二人のトークを聞きたかった!」という声も多く寄せられました。
そして結びの一席を務めたのは、我らが真打・柳家緑也師匠。師匠の温かく、胸の奥にそっと灯がともるような人情噺がスターツおおたかの森ホールいっぱいに静かに沁み渡りました。流山最大のこの舞台が、物語の余韻と観客の息づかいで満たされていく――そんな幸せな時間となりました。
このスターツおおたかの森ホールでのイベントが大盛況に終わり、私は強く思うようになりました。
「毎年この流山市最大のホールで、多くの流山市民に柳家緑也師匠の落語を楽しんでもらいたい。大いに笑って、幸せになってもらいたい」
その想いが、イベント名『おおたか寄席』の誕生につながりました。
“おおたか”は国が作成する絶滅の恐れのある野生動物種のリストに指定される希少な鳥であり、流山のシンボルでもあります。流山市は「“おおたか”がすむ森のまちを子どもたちの未来へ」というビジョンを掲げ、この貴重な自然環境を次世代へ受け継ぐことを大切にしています。そんな想いに重ねて、私は願いました。
「柳家緑也師匠には落語界で、“おおたか”のように大きく、そして高く羽ばたいてほしい」
その願いを込めて『おおたか寄席』と名付けました。
この新春の『おおたか寄席』は毎回大盛況で、大人たちが思いきり笑って帰っていく――その光景を見るたびに嬉しさが込み上げる一方、どこか胸の奥に小さな「物足りなさ」が残っていました。そんな折、総務省の発表が耳に飛び込んできました。「子どものいじめ・不登校が過去最多」「自殺する子どもが増えている」その数字の重さに胸がぎゅっと締め付けられました。その瞬間、心の中で一つの想いが固まりました。「今度は子どもたちに大いに笑って楽しんでもらいたい」
こうして生まれたのが、『夏休み企画!! 親子のためのおおたかこども寄席』です。
第一回は二〇二三年八月二十日(日)。
当日、スターツおおたかの森ホールに約三百人もの親子が続々と集まりました。大人中心の『おおたか寄席』が毎回約二百人ほどなのに対し三百人という数字は想像以上で、会場は若い親子連れの熱気で溢れていました。
広いロビーに設けた体験コーナー――なりきり落語家、マイ手拭いづくり。子どもたちは目を輝かせ、走り回り、笑い声が絶えません。ロビー全体がまるで小さな縁日のような賑わいでした。やがて開演時間が近づくにつれ、ロビーの空気が少しづつ落ち着き始めました。スタッフがステージ側へ誘導を始め、子どもたちも手拭を握りしめたまま、自然と客席へと流れていきます。そして開演を知らせる出囃子が響いた瞬間、ざわめいていた子どもたちが一斉にステージへ視線を向けました。ワクワク、ソワソワ、そして期待に満ちた表情。その空気が舞台袖にいる私にまではっきりと伝わってきました。
最初に登場したのは、もちろん柳家緑也師匠。子どもたちをステージに上げながら、身振り手振りを交えて「落語とは?」を説明すると会場は早くも大爆笑。その後の太神楽、紙切りでは、演者たちは子どもを喜ばせる術を熟知しており、客席に降りて目の前で技を披露し、子どもたちは歓声を上げながら身を乗り出していました。会場全体がまるで弾けるような笑いに包まれました。
最後は緑也師匠の“とり”の落語で大締めとなり、温かい拍手がホールいっぱいに広がり、幕が静かに下りました。幕が下りるとすぐに、緑也師匠と私はロビーへ。子どもたちが駆け寄り、写真撮影、握手、お別れの挨拶。最後の最後まで盛り上がり、私にとっても、柳家緑也師匠にとっても忘れられない一日となりました。あの日の子どもたちの笑顔、そして見守る親御さんたちの安心した表情。その光景は今も鮮明に心に残っています。
この『夏休み企画!! 親子のためのおおたかこども寄席』は、「毎年続けたい、続けなければいけない」と強く思わせてくれた大切な企画です。
今年の夏には第四回目の開催を迎えます。そして、流山市だけでなく近隣自治体の教育委員会からも後援をいただき、より多くの子どもたちに、本物の伝統芸能と笑いを届けられる場へと広がることでしょう。それはつまり、子どもたちの心に「笑い」と「幸せ」をそっと灯すことそのものなのだと、深く感じています。
そして、このかけがえのない大切な時間をつくる経験は、私自身の次の挑戦へと静かにつながっていきました。
■女性一人でもゆったりくつろげる
日本酒のお店
少しづつお客さまが増えてきたとはいえ、ずっと胸の奥に抱えてきた課題がありました。それは「女性のお客さまにもっと心から満足してもらいたい。もっと気軽に足を運んでもらいたい」という想いです。実はこの想いの“芽”は開店当初からありました。だからこそ、最初から全席禁煙を徹底し、トイレも男女別にし、特に女性用は広めのドレッサールームのような空間に整えました。大きな鏡や小物を置けるスペース、季節のいけばななど、細かなところまで心を配り、「このお店なら安心して過ごせる」と思っていただける環境づくりを進めてきました。
そして、開業からしばらく経ち、店の方向性が少しずつ見えてきた頃、その“芽”がはっきりとした形になりました。
――「女性一人でもゆったりくつろげる日本酒のお店」というコンセプトです。
開店当初から積み重ねてきた取り組みを、明確な言葉として掲げたことで、
秋田やの目指す姿がよりくっきりとしたものになりました。
そして「女性が喜ぶ食べ物は何か、どんなことに関心があるのか、そしてどんな雰囲気なら心から楽しんでもらえるのか」。私はその答えを探し続け、思いつくことは片っ端から試しながら、日々とことん向き合ってきました。その中で特に大切にしたのが“女性が大好きな野菜をもっともっと美味しく、もっと身近に感じてもらいたい”という想いでした。毎朝車の中で聞くラジオで、女性シンガー・ソングライターの草分け的存在のMさんが「ベジファースト(野菜を最初に食べるというダイエット法)を心がけている」と、話していたことが心に残っていました。この言葉が背中を押し地元の新鮮野菜の魅力をもっとダイレクトに伝えたいと強く思うようになったのです。
毎朝通ってる森田農園さんの森田代表にお願いをし、秋田や主催で「野菜セミナー」を開催することにしました。朝採れ野菜の瑞々しさ、農家さんの想い――それらを直接お客さまに届けたい。そんな願いから生まれた企画でした。
春野菜、夏野菜、冬野菜の年三回。それぞれの季節野菜の選び方、保存の仕方、そしてその朝採れ野菜の美味しい食べ方を、生産者の森田さんから直接聞けるんです。そして朝採れ野菜を使った料理は私が調理し、食べていただきます。
その春野菜セミナーでは、まずは春菊を自家製黒酢ドレッシングをかけて生で! そしてとうもろこしの「味来」という品種のベビーコーン(間引きしたとうもろこし)も、まずは生で試食いただき、その後クッキングペーパーに包み、丸ごとグリルにし、生と加熱後での味比べです。クッキングペーパーを開け広げると、ふわ〜っと甘く瑞々しい香りが! そして皮をむいて岩塩をパラパラと振りかけ、先っぽから食べると、更に甘みが増すんです。朝採れのベビーコーンはひげも茎も丸ごと食べられるんです。しかも甘いんですよ。本当に余計なことをしないで、ちょっと手を加えるだけで野菜の持つ力(甘み、旨味、香り……)が存分に引き出されるんです。
セミナーが終わるころには、参加されたお客さまから「生で食べられるなんて!」「こんなに違うんだ!」と驚きの声が上がり、その満面の笑顔を目にして、私も森田代表も深い充実感に浸ることができました。年三回の野菜セミナーは特に女性には大好評で、お帰りの際には森田農園さんの朝採れ野菜と、試食で使ったレシピをお土産としてお持ち帰りいただきます。まさに、心もお腹も満たされるのです。
その時の女性客の目の輝き、あのワクワクした空気は今でも忘れられません。そして、秋田やで最初にお出しするお通しは、季節の朝採れ野菜を使った総菜三点盛り。まさに体に優しいベジファーストの実践そのものです。
そして、次はお味噌作りとなりました。
ある日、常連の女性のお客さまから「マスター! お味噌は作らないの?」と聞かれました。私は迷いなく「そんな面倒くさいの作るわけないじゃない!」ときっぱりと即答したのですが、その方はしぶといんだなぁ。こちらが感心している間もなく、「お味噌作りやりましょうよ!」と畳みかけてくるんです。更に「マスター! いつ頃やります〜?」と追撃され、思わず心の中でため息をつきながらも、「お味噌は日本酒と一緒で発酵食品だし、秋田や自家製味噌は確かにあってもいいよな……」と、気づけばすっかり相手の提案に乗っている自分がいました。
その時、大学合気道部の五年先輩で、富山・黒部で味噌醸造会社を営む飯澤先輩の顔がふっと浮かんでいました。百年以上続く老舗「ヤマデン」の社長で、大学卒業後も合気道部・寮のOB会幹事としてつながりの深い先輩です。「こういう時こそ、人とのご縁が生きるんだよな」と思いながら、その日の翌日に電話をかけ、居酒屋秋田やの近況報告と合わせて味噌作り体験教室の講師をお願いしました。すると先輩は快く引き受けてくださり、その瞬間、胸をなでおろしたのを今でもよく覚えています。
そして飯澤先輩のご都合の良い日程で、二〇一八年十一月末に秋田やに来ていただき、味噌作り体験教室の開催が決まったんです。
しばらくして、あの「お味噌作りやりましょう!」と言ってくださったお客さまがご来店されました。席に着くや否や、私は待ってましたと言わんばかりに「お味噌作りの日程決まったよ!」と勢いよく伝えたんです。するとその方は 「えっ、もう決まったの?」 と本気で驚いている様子。その反応を見た瞬間、思わず私は「いやいや、あれだけ押してきたのあなたでしょ……」とツッコミを入れつつ、口から出たのは「決めちゃ悪かった?」と、ついつい反抗したくなる自分がいました。
「大学の先輩で飯澤醤油味噌店の社長が手弁当で来てくれるんだよ。材料はすべて富山・黒部から直送。だから手ぶらでどうぞ。」「米麹、黒部の工場で丁寧に潰して送ってもらう大豆、塩、昆布、そして黒部の湧水まで全部セット。更に三キロ用の樽も黒部から直送だよ。それにお土産までつくんだぞ! 文句ある?」――喧嘩を売っている場合ではありませんが、“至れり尽くせり”のフルコース。自分でも言いながら、「ここまでやる店、なかなかないよな」と思わず笑ってしまうほどでした。
そのお客さまは「えっ、すご〜い! マスター」と大いに感心したのは言うまでもありません。早速企画概要を決め、簡単なご案内をお店の中に掲示しました。そのお客さまにも参加者を集めていただき、すぐに定員となりました。後はその開催を待つだけの状態となったわけです。
そして迎えた当日。参加されるお客さまはエプロンに三角巾を持参してご来店いただきました。それぞれのテーブルの上には味噌作りに必要な材料が全て入った樽が用意され、更にその横には手順書、味噌作りテキスト、そして飯澤醤油味噌店のパンフレットが丁寧に重ねられています。
飯澤社長から、お味噌が出来る原理とお醤油等発酵食品について、飯澤醤油味噌の特徴等のご説明の後、早速味噌作りです。本来一番難しく重労働なのは、大豆を蒸して均一に潰す工程ですが、黒部の工場で全て仕込んでパックにして送っていただいているんです。
この潰した大豆と米麹を全て樽に開けて、出来高三キロ用の塩四〇〇グラム、黒部の湧水五〇〇ミリリットルを加減しながら樽に投入していきます。塩分を控えめにしたいお客さまは塩を二十~三十グラム減らしたり、とにかくやってみるんです。お味噌の硬さはペットボトルから少しずつ黒部の湧水を垂らしながら混ぜ、硬さを見ていきます。とにかく均一に混ぜながら硬さの感触を確認し、自家製味噌を造り込んでいきます。全ての材料を投入し均一に混ぜ終えたら昆布を敷き、出来上がりです。
樽に蓋をし、約半年後には完成。更に一年、二年寝かせることで、より熟成した深みのあるお味噌が楽しめるんです。
味噌作り体験教室は無事に終わり、参加されたお客さまは皆さん大満足。手ぶらで来ていただき、ご自身で仕込んだ三キロのお味噌を樽ごと持ち帰り、更に飯澤醤油味噌店の醤油セットまでお土産につくという、盛りだくさんの内容でした。
ふ〜っ。終わった瞬間、安堵の息がもれました。そして何より、この企画を支えてくださった飯澤先輩には感謝の気持ちでいっぱいです。
お味噌は使ったら無くなるんですよね。(当たり前じゃん!)ということは、毎年やらなければいけないということ。案の定、参加されたお客さまから「マスター!」(ドキッ)「今年もやるよね!」と。 「(何をやるか分かってるけど)何を?(一応かすかな抵抗を)」 「とぼけないでよ! お味噌作り体験教室!」 「そうだよね。お味噌無くなったらやらないとね(無駄な抵抗はしないことにしました)」
ということで、私が講師で材料は飯澤醤油味噌店からすべて送っていただき、毎年恒例の行事に定着しました。もちろん材料であるお水も黒部の名水をペットボトルで送っていただいています。この秋田や自家製味噌と森田農園の朝採れきゅうりのもろきゅう(きゅうり&味噌)は最高です。
今でも毎年暮れには、ご希望されるお客さまには出来高三キロの黒部ヤマデン味噌材料を提供し、自家製味噌を楽しんでいただいています。
そして、女性が一人でゆったりくつろぐには、とにかく酔っ払いや変な客がいないこと。(女性だけではありませんが……)
最初の一年は冷やかしのお客さまも多かったですが、来てほしくないようなお客さまも多かったんです。
秋田やは全席禁煙ですが、知っていながらしつこく「タバコはダメ?」と聞いてきたり、女性とカウンターでイチャイチャしたり、飲み放題にしてお酒をたくさん残して帰るとか(そんなこんなで現在は飲み放題はやっていません)、十分酔っぱらっているのに更にお酒のお替りをするとか、まだまだ山ほどありますが……。その都度私は、そのようなお客さまに対し、表情で訴えていたと思います。そして我慢できずに、そのようなお客さまにガツン!と言ったことも何度かあります。
正確には二度で、お二人にです。
一人目は、いつも二軒目三軒目あたりで仕上がってから来るタイプのお客さまで、良い気持ちで秋田やの暖簾をくぐり、カウンターに腰を下ろします。日本酒を注文し、グラスを傾けながら、とにかく居合わせたお客さまに声を掛けるのです。相手が避けているそぶりを見せてもお構いなし。何度も注意しても直らず、嫌がっているバイトのかんちゃんにまで絡むんです。その日はとうとう耐え切れず、私は声を荒げてしまいました。「もう帰ってくれ! みんなが迷惑してるんだから。分かったら早く帰って!」
(あ~言っちゃった)。一応お会計を済ませ、もらうものをもらってからのことです。その彼はむすっとした表情のまま、何も言わずに自転車にまたがって帰っていきました。一応お酒を飲んだ後なので、私は思わず「自転車、気をつけてね!」と帰り際に声を掛けるも、そのまま振り返らずに走り去ってしまいました(そりゃそうだ)。
そしてもう一人は、典型的な“酔っぱらいのお客さま”。カウンターに座るとお酒の注文と同時に「マスター、塩もね」といつものひと言。(酔っ払いはいつも同じことを言うんです。二回だけど)。どうやら日本酒通は升に盛った塩を舐めながら飲むのが通の飲み方と思っているらしい。それはそれで間違いではなく、確かに昔ながらの飲み方です。
しかし秋田やでは、プレミアムの美味しい日本酒を、青い江戸切子グラス(女性にはピンク、青が好きな女性には最初から青)でお出ししています。きれいに冷やしたお酒を、グラスの美しさとともに楽しんでもらいたいのです。それでも「マスター、塩ちょうだい」と言うもんだから、私は小皿にアジシオを少し盛り、そのお客さまの目の前、お酒の横にそっと置いてあげました。そりゃ酔っぱらっていても、アジシオと升酒の塩くらいは見れば分かります。案の定、その酔っ払いのお客さまは一口グラスに口をつけ飲んでから、小皿に盛った塩も舐めて叫びました。 「マスター! これアジシオじゃな〜い?」 「えっ? アジシオじゃダメでしたか?」 「マスター! 升酒飲んだことある? あの塩だよ! アレ! アジシオじゃぁダメだよ!」 「あららっ、それはそれは、そうでしたか」
その日以来、そのお客さまはぱったり来なくなりました(正直、ホッ)。
あんなこんなで、今では酔っ払いや変な客は来なくなりました。お店の空気が少しずつ落ち着き「女性一人でもゆったりくつろげる日本酒のお店」へと、確実に近づいていると実感できるようになってきました。
そんな秋田やは、カウンター十席と四人掛けの座敷テーブルが二つだけの、
こぢんまりとした日本酒のお店です。最大二十名ほどが入れる空間ですが、
広すぎず、狭すぎず、お客さま同士の距離がほどよく近いのが特徴です。
照明は少し落とし気味で、吉野杉の無垢一枚板のカウンターが静かに店の中心に佇んでいます。そのカウンターの上に、色合いの美しい江戸切子グラスをそっと置くと、その空間にほんのりと上品なアクセントが生まれます。
初めて来られた女性のお客さまでも、肩の力がふっと抜けるような、ゆったりと寛げる時間を過ごしていただける――そんな空間づくりを心がけています。
そもそも何故脱サラをし、居酒屋を始めようとしたのか。それは、美味しいお酒でゆっくりと寛ぐ時間が何より幸せで、私はたまらなく好きだったからです。その幸せに関わりたい――その一心で私は三十五年の会社勤めに区切りをつけ、居酒屋の道へと踏み出したのです。そして、飲んで食べるだけの店ではなく、“食を学び、楽しむコミュニティ”へと進化していきました。
■流山に寄席小屋をつくるという夢
『夏休み企画!! 親子のためのおおたかこども寄席』は、多くの親子連れでホールが埋め尽くされ、開演と同時に子どもたちの屈託ない笑い声が弾けました。舞台の明かりに照らされた子どもたちの表情はどれもが輝いていて、その元気な笑顔がホールいっぱいに広がっていく――そんな一日になりました。そして、その光景にいちばん驚いていたのは、実は私を含めた多くの大人たちでもありました。
私はふと想いました。
「果たして年に一度のイベントだけで良いのだろうか」
その問いが胸に残り、一昨年、私は『流山に落語を広める会』を立ち上げました。
毎年恒例となった『新春おおたか寄席』、『夏休み企画!! 親子のためのおおたかこども寄席』、そして居酒屋秋田やでの落語会。こうした活動を通じて、流山市内に少しずつ落語を広め、本物の笑い、人を幸せにする笑いを届けていこうと決めたのです。
流山には、情緒ある街道沿いに歴史的建造物が数多く残っています。国の登録文化財に指定されている建物も多く、鬼瓦が立派な呉服新川屋店舗、笹屋の土蔵、和菓子の清水屋の母屋兼店舗、万華鏡ギャラリーとなっている旧寺田屋茶舗など、歩くだけで江戸の息づかいが感じられるような場所です。地元では“流山本町江戸回廊”としてPRもされています。
そんな街並みを歩きながら、私はまた想いました。 「この歴史的建造物の一角を寄席小屋にできないだろうか」
子どもだけでなく、大人もお年寄りも集い、落語・寄席で思いっきり笑える場所。声を出して笑い、みんなで笑い合える――そんな“流山の街並みに息づく笑いの寄りどころ”をつくりたいと強く思ったのです。
寄席小屋では、若手の噺家さんや大学落研の学生たちが入れ替わり立ち替わり高座に上がり、身振り手振りを交えながら子どもたちを笑わせます。落語の合間には漫才、奇術、曲芸などの“色物”も入り、寄席らしい雰囲気が満載で、自然と楽しくなります。
そして、寄席小屋で思いっきり笑って、笑って、笑い疲れたら、すぐ近くには子ども食堂があります。暖簾をくぐると地元のお母さんやおばあちゃんたちが、湯気が立つ大きな鍋を囲みながら「いっぱい食べていきなさいよ」と声をかけてくれます。テーブルには地元農家さんが育てた新鮮野菜を使った料理がずらりとも並び、子どもたちはお腹いっぱいになるまで頬張っています。
お腹が満たされたら、次は勉強の時間です。一人ではなかなか集中できなかったり、やる気が出なかったりする子どもたちも、すぐそばの子ども図書館や寺子屋に行けば、大学生やおじいちゃんおばあちゃん、地元の大人たちが優しくと教えてくれます。同じ学年の友達と机を並べて学ぶ姿もあり、子どもたちが自然と学びに向かっていく――そんな温かい風景が広がっています。
塾に行かなくてもいい。一人で悩まなくてもいい。みんなに教えてもらえる環境がそこにあるのです。
今までは、学校が終わると共働きで誰もいない家に帰り、ゲームやSNS、動画に夢中になり、子どもたちの想像力が育ちにくい環境だったのではないでしょうか。
しかし、落語は違います。たった一人の落語家が、一人何役も演じ、食べる音を聞かせたり、泣いたり笑ったりしながら、子どもたちの脳内に鮮やかな映像を映し出します。テレビがなくても、スマホがなくても、子どもたちは想像力を膨らませ、笑いとともに楽しむことができます。
大いに笑って、お腹が減ったら子ども食堂でお腹いっぱいに。そのあと、宿題や今日習ったことのおさらいまでやってしまう。子どもたちにとって、充実した一日になることでしょう。
そして、家に帰って、学校での出来事、寄席小屋での楽しかった話、子ども食堂で食べた美味しいごはん、寺子屋で宿題を済ませたこと、そして新しい友達ができたこと――そんな話をお父さんお母さんに嬉しそうに伝えるはずです。
お父さんお母さんも、子どもの話を聞いて安心し、一日を穏やかに終えることができることでしょう。そして、子どもはお風呂で温まると、布団に入った途端にすとんと眠ってしまいます。
働き盛りのお父さんお母さんにとっても、子どものことでの心配やストレスが減り、安心して一日を終えられる。それは何よりの幸せではないでしょうか。
子どもたちが主役でありながらも、大人もお年寄りも誰もが集う、新しいコミュニティがそこに生まれます。学校が終わると寄席小屋に一目散に向かう子どもたち。嫌なことも忘れ、笑って楽しく過ごせる一日。勉強を教えてくれるお兄さんお姉さんがいて、話し相手になってくれるおじいちゃんおばあちゃんがいて、多くの友達ができる場所。
子どものいじめ、不登校なんて消えてしまえ。
教育にも福祉にもつながる、持続可能な新しいコミュニティとして、私はこの未来を本気で実現したいと思っています。
■未来の寄席小屋で見た風景
寄席小屋をつくりたいと願い続けてきた日々から、どれほどの時間が流れたのでしょうか。気がつけば、私はその寄席小屋の入口に立っていました。夢が形になり、目の前に存在しているのです。
夕暮れの柔らかい光が、流山本町江戸回廊の歴史的建物を照らしています。寄席小屋の暖簾が風に揺れ、そこには「おおたか演芸場」と書かれています。
暖簾をくぐると、子どもたちの笑い声が響いていました。高座では若手の噺家さんが身振り手振りを交えながら、子どもたちを夢中にさせています。その横では大学落研の学生たちが出番を待ち、緊張しながらも嬉しそうに高座を見つめています。
寄席小屋の後方には、おじいちゃんおばあちゃんが並んで座り、子どもたちの笑い声に目を細めています。大人たちも仕事帰りにふらりと立ち寄り、
一日の疲れを笑いでほぐしているようでした。
私はその光景を見ながら、胸の奥がじんわりと満たされていくのを感じました。
寄席が終わると、子どもたちは一目散に隣の子ども食堂へ向かいます。 「今日のごはんは何?」 「お腹すいたー!」
そんな声が飛び交い、地元のお母さんやおばあちゃんたちが笑顔で迎えています。食堂の奥では、地元農家さんの野菜を使った料理が並び、子どもたちは嬉しそうにお皿を手にしています。その横には、宿題を広げる子どもたちと、それを見守る大学生や地域の大人たちの姿もあります。
「ここ、こうやるんだよ」 「ありがとう!」そんな声が自然に交わされ、まるで大きな家族のような温かさが広がっていました。
私はその光景を見ながら、ふと空を見上げました。夕暮れの空を、おおたかがゆっくりと羽ばたいていきます。
「ああ、夢が叶ったんだな」
そう思った瞬間、胸の奥から静かに幸せがあふれてきました。
落語があり、笑いがあり、食があり、学びがあり、人と人がつながり、子どもたちが安心して過ごせる場所がある。そんな未来の風景の中に、私は立っていました。
寄席小屋の暖簾が、また優しく揺れています。私はその暖簾に手を添え、そっと心の中でつぶやきました。
「流山に、笑いの灯がともったんだな」
そして私は、満ち足りた気持ちのまま、寄席小屋の中へと歩いていきまた。
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