
子どもが宿題で「AIに聞けば?」と言った夜から始まる、AI時代の違和感について
夜、子どもの宿題を見ていた。
「この問題、AIに聞けば?」
子どもが、あまりにも自然にそう言った。
ぼくは、一瞬だけ止まった。
「……聞いてみる?」
「うん。でも、ここだけ引っかかる」
子どもは指で問題文の一行をなぞる。AIに渡す前に、すでに引っかかっている場所がある。
「どこ?」
「ここ。なんで負の数なのか」
それは、答えの前の違和感だった。正解でも、解説でも、途中式でもない。まだ名前のついていない、小さな引っかかり。
たしかに、そういう時代になった。答えはすぐ出る。解説も出る。途中式も出る。親が疲れている夜には、かなり助かる。
けれど、そのとき胸の奥が、少し静かになった。
答えが出る前に、子どもの中にあったものは、どこへ行ったのだろう。
「なんかわからない」 「ここ、引っかかる」 「まだ決めたくない」 「もう少し考えたい」
そういう、あいまいで、遅くて、言葉になりにくい時間が、すっと消えた気がした。
AIは、答えを出す。 人間は、違和感を持つ。
たぶん、ぼくがここ数年考えているのは、その差のことだ。
AIの時代になって、文章も、画像も、企画も、会話も、驚くほど早く形になる。けれど、形になることと、意味が立ち上がることは、同じではない。
ぼくは、AIが出したものをそのまま作品だとは思っていない。むしろ、その手前を見ている。何に反応したのか。どこで引っかかったのか。なぜ、その断片を拾ったのか。何を保留したのか。
すぐに結論にしない。すぐに説明しない。すぐに意味を確定しない。AI時代に必要なのは、出力の速さだけではなく、出力の前後にある、人間の遅い判断なのだと思う。
結局、その夜はAIにも聞いた。答えも出た。途中式も出た。子どもは「なるほど」と言って、宿題を終えた。
でも、食事のあと、子どもがまた言った。
「お父さん、負の数って、本当はなんなの?」
答えは、もうわかっている。説明も、AIのほうが上手いかもしれない。けれど、ぼくは急いで答えなかった。完璧な説明にはしなかった。わからない部分も、残した。
子どもは、しばらく黙ってうなずいた。正解を得た顔ではなかった。でも、引っかかりを持った顔でもなかった。ただ、少しだけ考えている顔だった。
子どもが「今日なんとなくつまらない」と言った日がある。
理由はない。学校で嫌なことがあったわけでもない。ゲームに飽きたわけでもない。ただ、空気が重い、と言う。
親としては、つい原因を探したくなる。
「何かあった?」 「疲れてる?」 「眠い?」 「じゃあ、これをしたら?」
でも、その「なんとなく」は、解決されるために出てきた言葉ではないのかもしれない。ただ、置いておく必要がある言葉なのかもしれない。
「じゃあ、YouTube見る?」
「ううん。なんか、今日は音がいい」
音がいい、という言い方も、説明には向かない。けれど、子どもにとっては十分な理由のように聞こえた。
子どもはしばらくして、電車の音を聴きに行った。駅の音、車内の音、ドアが閉まる音、インバーターの音。いつものように、音の中へ入っていった。
「なんとなくつまらない」は、いつの間にかどこかへ行った。けれど、消えたわけではなかった。
子どもがしばらくして戻ってきて、うれしそうでもない顔で言った。
「急行列車、今日、尖ってた」
「尖ってた?」
「うん。音が。なんか、それでよかった」
理由のない言葉は、音のあとに残った。説明できないけれど、確かにあったものだった。
そういう言葉を、忘れたくなかった。
だから、まだ文章にならない一行を置いておく小さな仕組みを作った。
「なんか、早すぎる」 「まだ決めたくない」 「ちょっと違う」 「意味になる前に、消えている」
役に立つかどうかわからない言葉を、そのまま置いておく場所だ。
多くのツールは、入力されたものを整理しようとする。分類する。タグをつける。要約する。次のアクションに変える。それは便利だ。でも、ぼくが欲しかったのは、整理される前の置き場だった。
違和感は、一度消えたら、二度と同じ形では戻ってこない。だから、忘れる前に置いておく必要があった。
この感覚は、個人の内側だけの話ではない。
SNSを見ていると、毎日、奇妙な断片が流れてくる。
AIで作られた家族写真。存在しない昭和の風景。見たことがないのに懐かしい部屋。駅の改札前で紙袋を隠す人。葬儀の朝の空。AIチェッカーに「100%AI」と判定された、人間の文章。
それらは、ニュースとしては小さすぎる。研究対象としては、まだ曖昧すぎる。作品として評価するには、流れが速すぎる。でも、そこには時代の気配がある。
ぼくは、バズったものを集めるのではなく、流れ去る前にそっと目を向け、短いメモを残す。意味が発生している気配だけを、拾う。畑のような場所を、自分の中に持っている。
生成AIの時代には、新しい民俗が生まれていると思う。民俗学は、「誰が作ったか」だけではなく、「何が繰り返されるか」を見る。
「AIで亡くなった家族と再会した」 「AI画像なのに、なぜか泣ける」 「人間が書いた文章なのにAIっぽいと言われた」 「人間製」が、原産地表示になる。
ぼくたちは、AIそのものだけを見ているのではない。AIをめぐって、人間がどんな反応をし、どんな言葉を使い、何を怖がり、何に救われ、何を笑いに変えるのかを見ている。
技術は速く進む。でも、人間の反応は、もっと遅く、もっと湿っている。その湿度を、残しておきたい。
子ども向けに、小さな場所も作った。教育AIと呼ぶには少し違う。答えを教えないAI、という言い方も少し違う。
ぼくが作りたかったのは、答えで会話を閉じない場所だった。
「宿題がわからない」 「電車の音が好き」 「Robloxで変なゲームを見つけた」 「今日なんとなくつまらない」
大人はAIに仕事を頼む。文章を整えさせる。要約させる。調べさせる。効率化させる。
でも、子どもはもっと変なことを聞く。電車の音のこと。ゲームのこと。退屈のこと。よくわからないけど気になるもののこと。そこには、まだ仕事になっていない好奇心がある。
「それは無駄だよ」 「それは変だよ」 「そんなことより勉強しなさい」
そう言われる前に、少しだけ置いておける場所がほしかった。
ある日、子どもが「Robloxで変なゲーム見つけた」と言った。
「どんなの?」
ぼくはつい、説明を求めていた。ジャンルが知りたかった。目的が知りたかった。
子どもはしばらく黙って、画面を見せてくる。黄色い廊下。音が小さい。出口がない。正直言って、よくわからない。
「怖い?」
「うーん。怖いっていうより、なんか置いとかれる」
置いとかれる。子どもは、そう言った。
大人のぼくなら、その場で調べる。Backroomsだ、ホラーゲームだ、こういう系譜だ、と整理する。正解を置く。参考動画を出す。次の行動に変える。でも、その夜はしなかった。
「へえ」
それだけ言った。
子どもは、しばらくしてまた言う。
「ドアの音、小さいんだよね」
ドアの音。
ゲームの目的でも、攻略法でも、教育的価値でもなく、ドアの音だった。
「お父さん、これメモして」
子どもが突然言った。
「なに?」
「ドアの音、小さい」
「……書いとくね」
まだ意味がわからないから。わからないから、消える前に。
子どもは、自分では気づかないうちに、もう次のことを話し始めていた。
「あと、ソラシドエアー、緑より白の方がいい」
飛行機の色。
宿題でも、ニュースでも、トレンドでもない。それでも、子どもにとっては今いちばん重要な問いのように聞こえた。ぼくは「そうだね」と言った。白の方がいい、と言った。正解かどうかはわからない。でも、その夜に必要だったのは、正解ではなかった。
完璧な教育システムではない。家庭の中の、半径ゼロメートルの試作に近い。でも、その小ささが大事なのだと思う。
今の社会は、大きくすることを急ぎすぎる。サービス化する。スケールさせる。事業にする。収益化する。拡散する。
もちろん、それも必要なことだ。でも、すべてが最初から大きくなる必要はない。
子どもの好奇心は、速く育たない。信頼も、言葉も、身体も、速く育たない。
速く育たないものを、速い世界の中でどう守るか。それが、ぼくにとっての「低速文明」という考え方につながっている。
低速文明とは、世界を止めるスローガンではない。スマートフォンを捨てよう、AIを使うな、昔に戻ろう、という話でもない。加速する世界の、静かな反対側を作ることだ。
知らない、ではなく、まだ決めない。 できない、ではなく、置いておく。 遅い、ではなく、育っている途中。
RobloxやVRChatのような仮想世界を見ていても、同じことを感じる。子どもが「変なゲーム見つけた」と言う。画面の中には、よくわからない世界がある。怖いような、くだらないような、でもなぜか見てしまう場所。
「置いとかれる」——子どもがそう言った言葉を、ぼくは今でも覚えている。仮想世界は、消費されるコンテンツとしてしか見られないことが多い。攻略され、分類され、トレンドになり、次へ流される。でも、子どもにとっては、まだそこに置いておかれる時間があるのかもしれない。
大人はつい、「それは何のゲーム?」と聞く。ジャンルを知りたくなる。目的を知りたくなる。教育的価値を探したくなる。
でも、子どもにとっては、まだ意味が決まっていないこと自体が面白いのかもしれない。
意味は、最初からあるのではなく、後から立ち上がることがある。誰かが見つける。誰かが手に取る。誰かが言葉にする。誰かが黙って通り過ぎる。そのどれもが、意味の一部になる。
ぼくが拾いたいのは、その手前にあるものだ。
AIが答えを出す前の違和感。子どもが言葉にする前の好奇心。SNSで流れ去る前の気配。仮想世界が消費される前の余白。町の本屋の棚に、まだ誰にも見つかっていない本が置かれている時間。
それらは、どれも大きなものではない。だからこそ、本にしてみたくなった。
『忘れられる前の世界を拾う』という小さな本を作っている。完成された哲学書でも、AIの技術解説でも、未来予測でもない。町の本屋に、試しに置いてみるための本だ。
最初の部数は、五部でいいと思っている。五部では、出版とは呼べないかもしれない。でも、見本として持っていける。誰かに一冊渡せる。自分の机にも一冊残せる。
それだけで、文章は少し変わる。
インターネットに置いた文章は、発信される。流れていく。拡散される。消える。
本屋の棚に置いた本は、そこにいる。誰かが手に取るかもしれない。誰も手に取らないかもしれない。でも、そこにある。
発信ではなく、存在すること。拡散ではなく、棚にいること。その違いを、紙で確かめたいと思った。
大田区の坂を下りて、小さな本屋に行く。棚は高くない。新刊も古書も、同じ部屋の中にある。
子どもの絵本を買いに来たはずなのに、つい立ち止まって、背表紙を指でなぞる。誰の本かも知らないタイトルが、静かに並んでいる。紙の温度が、指先に残る。
子どもが隣で言う。
「これ、古い?」
「古いね」
「古いのに、なんでここにあるの?」
ぼくは答えられなかった。古いから残るのか、誰かが手に取ったから残るのか、たまたま売れなかったから残るのか。理由は一つではない。でも、そこにある。それだけで、少しだけ世界の速度が遅く感じられた。
ぼくは、自分の文章を、そこに置きたいと思った。「読んでください」と声を張る本ではない。「これは新しい思想です」と説明する本でもない。ただ、棚の一角に、静かに存在できるか。それを確かめたかった。
たぶん、これはとても小さな出版だ。半径五メートルしか届かないかもしれない。
でも、半径五メートルの中には、自宅の机がある。子どもの声がある。町の本屋がある。電車の音がある。画面の中の仮想世界がある。古い本がある。まだ言葉になっていない違和感がある。
世界は、遠くにだけあるわけではない。忘れられる前の世界は、たいてい近くにある。
答えが増える時代には、問いの方が少し貴重になる。そして、問いになる前の違和感は、もっと貴重になる。
速い世界の中で、消えそうなものを。まだ名前のないものを。まだ意味になっていないものを。誰かに説明する前の、小さな引っかかりを。
忘れられる前に、拾っておきたい。