
香り
別れた恋人は死者だ。
一緒にご飯を食べることも、寝ることも、笑うこともできない。
日常を共有することはできないし、一緒に過ごす未来を見ることもできない。
ただ、思い出として残っていくだけだ。
そして思い出は残酷だ。
時間が経てば経つほど輪郭を失っていく。
声を忘れる。
体温を忘れる。
手の大きさを忘れる。
どんな話し方をしていたのか。
何が好きで、何が嫌いだったのか。
思い出そうとしても、
もう上手く思い出せない。
それなのに。
街ですれ違った誰かが同じ香水を纏っていた時。
ドラッグストアの柔軟剤売り場を通り過ぎた時。
ふいに風が運んできた匂いの中に、あの人がいる。
香りだけは消えてくれない。
記憶は薄れていくのに、
香りだけが過去を現在に引きずり戻す。
もう会えないはずなのに、
その一瞬だけ隣にいるような気がしてしまう。
別れた恋人は死者だ。
二度と同じ時間を生きることはできない。
それでも、私の人生に確かに存在していたことと、
あの人が纏っていた香りだけは、
呪いのように残り続ける。
忘れたいのに、忘れられない。