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Photo bypilotissaito

スマホを閉じて、足元を見る。― タイパに追われる私が、帰り道の「たばこのポイ捨て1本」から見つけた余白 





    私たちは、『大きな街』しか見ていない



    自分の住んでいる街のことを、どのくらい知っているだろうか。


    そう聞かれれば、多くの人が「よく知っている」あるいは、「大体知っている」と答えるだろう。
    それは例えば、街の行政システム、教育環境、インフラの利便性だったり。
    「〇〇町に行きつけの店がある」といった自分だけの情報も含めて、『大枠』としての街の姿なら、流暢に語ることができるのだろう。


    しかし、質問を少し変えてみる。
    「自分の家のすぐ近くや、普段通る通り道のことを、どれくらい知っているか」

    こう聞かれて、ぱっと具体的に答えられる人は少ないのではないか。
    そもそも、質問の意図すら伝わりにくいかもしれない。


    私たちはふだん、街の「大きい部分」ばかりを見て、その足元にある「小さい部分」をほとんど見落として生きている。


    子どもが生まれてから、私はよく地面を見て歩くようになった。
    理由は単純だ。小さな子どもの一挙手一投足から、目を離すわけにはいけないからである。


    子どもが生まれる前の自分を思い返す。
    常に頭の中で何かしらの考え事をしながら歩き、信号待ちになれば、条件反射のようにスマホを取り出す。

    視線はいつも、自分の手の中にあるデジタルの世界に向いていた。



    思えば、自分が子どもだったころは、今よりもずっと、地面が近かった。

    それから少しずつ成長し、中学生で20cmも身長が伸びた私は、ますます地面から遠ざかっていった。

    大人になった今は、いつの間にか、物理的にも心理的にも、地面はぐーんと遠い存在になってしまっていた。

    だが、子どもと一緒に散歩をしていると、その遠かったはずの地面から、さまざまな発見が見えてくる。


    うちの子は特に、「石」を見つけて拾うのが好きだ。
    親の目線から見れば、視認するのすら難しいほどのとても小さな石を、器用に指先で拾い上げている。


    一体何を手に持っているのか分からないことも日常茶飯事だ。
    急にしゃがみこんだかと思うと、何かを誇らしげに握りしめている。


    その中身の8割はただの石なのだが、たまに、誰かが捨てたゴミを拾っているときがある。


    石なら「草むらにポイしようね」と投げてもらうだけで済むが、一度拾い上げてしまったゴミは、そうもいかない。

    拾った手前、またその場に戻しておくというのは、まるで「自分が捨てたかのような気持ち」になり、罪悪感を抱かずにはいられないからだ。

    というわけで、いつからか私は、お散歩に出かけるとき、1枚のビニール袋を常にポケットにストックしておくようになった。

    子どもと散歩へ行くと、大体1〜2個のゴミを持ち帰ることになる。



    石を何十個か拾っては草むらに投げて、ごみはビニール袋にしまって家に持ち帰る。
    私たちの何気ないお散歩は、いつも大体、こんな流れだ。



    マルチタスクの脳内と、落ちていた一本



    そんな毎日を過ごす現在、私は仕事をしている。


    育児と、家事と、仕事。
    この3つを両立するのは、想像を絶するほどに大変だ。


    自分が当事者になる前、世の中のお母さんたちは、これらを楽々とこなしているように見えていた。

    けれど、実際は違った。
    みんな、表には出さずに裏でヒイヒイ言いながら、必死で毎日を生き延びていたのだと、身にしみて感じている。


    私の頭の中は、常に考え事でパンパンに膨れ上がっている。



    「今日は〇時までに仕事を終わらせて、速攻で保育園に迎えに行って、帰宅したらまず洗濯機を回して、ごはんを炊いて……。あ、おむつがもう少ないんだった。ネットで買わなきゃ。最近は値上がりがすごいから、いくつかサイトを見て、少しでも安いところを探さないと…。あ、そういえば仕事のあの案件、ちゃんとやったっけ? ✕✕さんに伝えたかどうか、記憶がないな…。明日朝イチで確認しないと」

    こんな思考のループを、毎日、毎時間、毎分、毎秒…ずっと繰り返している。
    考えていないときなんてない、と自信を持って言い張れるほどだ。



    なにせ世の中には「マミーブレイン」という言葉もあるくらいだ。

    脳のメモリが育児に割かれ、物忘れが増えるからこそ、常に忘れないように、そもそも『考えることそのもの』を忘れないように、必死にならなければならない。


    自分の頭の中であるはずなのに、まるで何者かに絶え間なく「考えろ」と追い立てられているかのような感覚すら抱く。

    そんな毎日を送っていた、とある日のことだった。


    その日は特に疲れ果てていて、私にしては滅多にないことなのだが、帰りの電車で爆睡してしまった。

    駅に着き、目を覚ます。



    疲労から、「もう、何も考えたくないな…」という気持ちが脳内を占拠していた。



    いつもなら、仕事が終わった瞬間にスマホを取り出していた。
    電車を待つホームでも、揺られる車内でも、駅から家へ帰る途中で立ち止まる、わずかな信号待ちの時間ですら、私は常にスマホの画面を見ていた。

    その目的の大半は、ただの「暇つぶし」だった。


    だがその日は、画面を見る気力すら湧かなかった。

    スマホをポケットにしまったまま、ただ疲れた身体を引きずって歩き出す。


    私の住んでいる街は、田舎というほど田舎ではないと思う。けれど、都会というには明らかに誇張が過ぎる。

    まぁまぁの人が住んでいて、そこそこに栄えている、そんなちょうど良く、心地いい場所だ。


    とりわけ、自然だけはとても多い。
    だからこそ、街は基本的には清潔に保たれている。

    ゴミなんてそうそう落ちていないし、道路だっていつだって綺麗なものだ。


    それなのに。
    その綺麗なアスファルトの真ん中に、ぽつんと、たばこの吸い殻が一本、落ちていた。



    誰が拾うのか、地球はどうなるのか



    「あ、吸い殻落ちてる」そう思った。

    最近は電子タバコが普及したせいか、紙タバコを吸っている人を見かける割合は減ったように感じる。


    しかし、私は知っている。
    実は、地方や田舎へ行けば行くほど、喫煙者の割合は高くなるという事実を。


    とりわけ私たちより上の世代にその傾向が強い。
    昔は娯楽の選択肢が少なかった。


    当時の大人たちにとっての「2大娯楽」といえば、パチンコとタバコだった。


    私の父も、祖父も、親戚の男性たちも…、もれなくこの2大娯楽を忠実に楽しんでいた記憶がある。

    昔からたばこが大の苦手だった私は、親戚の集まりが恐怖の時間であった。
    みんな、たばこを片手に会話を楽しみ、居間がたちまち曇った世界になってしまうからだ。


    『〇〇ちゃんは俺たちがたばこを吸い始めるとすぐどっか行くんだよな〜』
    と、親戚のおじさんによく言われていたことを思い出した。


    だから、田舎に行けば行くほど自然は豊かで道は綺麗になるのだが、喫煙率も高くなるので、比例するようにタバコのポイ捨ても増えていくのだ。

    完全に『わたし調べ』の偏見ではあるが、私の故郷はまさに「ど」が付くほどの田舎だ。


    だからこそ、これは自分が実際に肌で見てきた、リアルな光景でもあった。


    目の前に落ちているポイ捨てのタバコを見て、真っ先に頭に浮かんだのは、やはり我が子のことだった。


    「うちの子なら、このタバコを前にしたとき、拾うだろうか。それとも拾わないだろうか」

    少し考えてみる。


    さすがにタバコは拾わないかもしれない。
    いつもお散歩で拾ってくるのは、ちぎれたティッシュのクズやプラスチックのゴミばかりだ。


    でも、そうなると一つの疑問が湧く。

    「この道の真ん中にあるタバコは、一体誰が拾うのだろう」
    この地域は基本的に綺麗な街だ。

    だからこそ、ゴミ拾いのボランティア団体が巡回しているわけでもない。
    ゴミ拾いをしている人なんて、見かけたこともない。

    となれば、このまま風に飛ばされて、どこかへ消えていくのだろうか。


    じゃあ、飛ばされたゴミは、最終的にどこへ行き着き、どこで静かに朽ちていくのだろうか。



    そもそも、ポイ捨ての数自体、昔と比べて減っているのだろうか?

    普段はポイ捨てのことなど、1ミリも意識せずに生きていた。

    だが今は、誰もが監視カメラになり得るネット社会だ。
    何か不適切な行動をすれば、すぐにSNSで拡散されて叩かれる。


    それゆえ、現代を生きる人々の方が、昔よりもマナーを守ってきちんとしているのではないか、とも思う。

    だが、ゴミ問題の闇は深い。
    田舎ですらたばこのポイ捨てが大量にあるのだ。ましてや都会となれば、たばこだけでは済まないだろうし、その量は凄まじいものだろう。



    この子が大人になる頃、地球環境は一体どうなってしまっているのだろうか…。

    考え始めると、胸の奥からじわじわと形のない不安が込み上げてくる。


    ただでさえ疲れ切っている頭だ。
    これ以上、地球規模の難問を背負い込むのはやめよう。


    というわけで、私は一旦、この重たい思考を脳の隅に置いておくことにした。



    小さな段差と、名前の知らない虫



    そうして視線を落としたまま歩いていると、目の前の歩道に、アスファルトの陥没による小さな段差があることに気がついた。


    大人の足なら、特につまずくこともないような、ごくわずかな段差だ。
    しかし、子どもの足ならどうだろう。

    小学生ならまだ飛び越えられるかもしれない。

    だが、未就学児、ましてや現在2歳である我が子の足なら、確実に引っかかって転んでしまうだろう。

    何せうちの子はまだ歩き始めてから1年も経っていない、『歩行初心者』なのだ。

    いつも興味のある一点を見つめながら、それに向かって一目散に小走りしている。
    こんな歩行スタイルなのだから、足元の段差なんて気付くわけがない。

    そんな絶妙な高さの段差だった。


    普段、この道はお散歩コースとしては使っていない。
    けれど、まれに通ることもある。


    私は頭の中に「ここの段差は要注意」と、記憶のインプットを済ませた。


    そういえば、このあたりの道路は全体的にガタガタしている。
    引っ越してきてから一度も修繕されているのを見かけたことはないが、修繕の計画はどうなっているのだろうか。



    それにしても、車道が舗装されているところは何回も見かけるけれど、歩道が舗装されている様子なんて、これまで一度も見た記憶がないな、とふと思った。


    こんな小さな段差は、いつか本当に大きな陥没やひび割れに発展するまで、きっとこのまま放っておかれるのだろう。


    段差を通り過ぎ、その少し先に目をやると、今度は道の脇に、綺麗な花が咲いているのが見えた。


    あれ、こんな場所に花なんて咲いていただろうか。
    見てみると、誰かが植えたものではなく、明らかに雑草の類だった。


    アスファルトの隙間から、たくましく自生したのだろう。
    それにしても、淡く紫がかっていて、とても綺麗だ。


    雑草と呼ばれる植物は、実はよく見ると、けっこう綺麗なものが多いものだ。

    雑草といえば、小学生のとき、友だちとお祭りを見に行った記憶がふと蘇る。


    そのとき私たちは、あろうことかお金を1円も持っていなかった。
    案の定、お祭りの後半、お腹が空いて仕方がなくなった私たちは、その辺に生えている草をむしり、公園の水道でぱぱっと洗った。


    外の屋台のおじちゃんに「塩か醤油を少しちょうだい」とねだり、草にかけて食べた。
    味は、ものすごく不味かった。

    今思えば、よくお腹を壊さなかったものだと冷や汗が出るが、それも今では懐かしい思い出だ。


    懐かしい記憶に浸りながら花を眺めていると、その葉っぱに、カラフルな緑色の虫がちょこんとついていることに気がついた。



    私は、大の虫嫌いだ。

    うっ、と息が詰まりそうになる。
    しかし、ここでも真っ先に脳裏をよぎるのは、やはり子どものことだった。


    うちの子はまだ、「虫が気持ち悪いもの」という概念を理解していない。

    だから、基本的に何にでも物怖じせず触ろうとする。
    保育園の同じのクラスの男の子が触るのを嫌がったカエルを持ち上げて、両手にちょこんと乗せていたこともあった。


    この虫を見つければ、きっと興味津々で「これは〜?」と聞いてくるに違いない。

    だが、私はそれに答えてあげられない。

    この虫は確か、私の故郷のど田舎でも毎日のように見かけた、ごくありふれた虫のはずだった。


    それなのに、名前がどうしても思い出せない。

    嫌だけど、子どものために図鑑でも開いて調べてみるか。
    いや、でも、じっと眺めているだけで吐き気がしてきそうだ。


    ……よし、これは帰ったら夫に聞いてみよう。




    柵の上の綺麗な鳥、スマホを置いた夜




    そうしてその日は、終始、ほぼ地面だけを見つめて歩いて帰った。

    しかし、もうすぐ我が家に到着するという手前で顔を上げると、近所の家の柵に、一羽の綺麗な鳥がとまっているのが目に飛び込んできた。


    「うわ、綺麗……」
    思わず足を止め、見とれてしまうほどの美しさだった。


    それは尾羽がとても長くて、普段の生活では滅多に見かけないような、佇まいの鳥だった。

    しばらくの間、息を潜めてじっと眺めていた。

    だが、私の気配を察知したのだろう。
    鳥は静かに羽を広げ、どこかへ飛び立っていった。


    自然豊かな私の地元ですら見かけない鳥だった。
    あれは一体、何という名前の鳥だったのだろう。
    なんだか、もの凄く珍しくて価値のあるものを見たような、少し得をした気分になった。

    普段からいたのに気付かなかったのか、はたまた本当に珍しかったのか。
    正解が気になりつつも、自宅に到着した。


    そこからは、いつもの戦場に戻る。

    保育園に子どもを迎えに行き、家に帰り、服を着替えさせ、保育園の荷物を片付ける。

    洗濯機を回しながら、夕飯の準備をする。


    ごはんとお風呂は夫がやってくれるので、その間に明日の準備をしたり、洗濯物を畳んだり、雑事をこなす。

    そうして怒涛のルーティーンをノンストップでこなし、ようやく夫が子どもを寝かしつけに寝室へ連れていってくれた。


    そこでやっと、私に少しだけの「自由時間」が訪れる。

    はあ〜っと息を吐き、私はいつも通り、条件反射のようにすぐスマホを手に取って操作し始めた。

    特に何か目的があるわけではない。
    画面が明るくなり、いつものSNSやらニュースのアプリを開こうとした、そのときだった。


    ふと、あることに気がついた。
    「そういえば私、今日はいろんな発見をしたな」、と。


    落ちていたタバコの吸い殻。
    2歳の我が子なら転んでしまうであろう、歩道の小さな段差。
    アスファルトの隙間に咲いていた、紫色の綺麗な雑草の花。
    名前の思い出せないカラフルな緑色の虫。
    外の柵のところで出会った、尾羽の長い綺麗な鳥。


    スマホの画面を見ず、何も考えずに歩いたあの短い帰り道だけで、私はたくさんのものを見つけ、驚くほど色々なことに思いを巡らせていた。


    そう思った瞬間、私は開きかけたスマホを一度、そっと机の上に戻した。

    そして、ゆっくりと目をつぶって、今日見た景色、考えたことをもう一度、頭の中で巡らせてみた。


    ぼーっと見つめる世界の、心地よさ



    そもそも私、今日に限って、なんでこんなに色々なことを考えたのだろう。

    ソファで身体を休めながら、ふと思い返してみる。


    そうだ、思い出した。
    今日はあまりに疲れ果てていて、「何も考えずにぼーっと」していたのだった。


    頭を空っぽにしていたはずなのに、気づけばいつもと同じように、私はずっと何かを考え続けていた。


    しかし、今日「考えた」ことと、普段「考えている」ことの内容は、性質がまったく異なっていた。



    いつも私の頭を占領しているのは、「タスクを忘れないようにすること」や「タイパやコスパを意識して、いかに効率よく物事を処理するか」といった、現実的な計算ばかりだ。


    一方、今日の帰り道に巡らせた思考は、どれもこれも、生活の効率には1ミリも寄与しない。

    悪く言えば、この上なく「非効率」なことばかりを考えていたわけだ。


    それでも私は、そんな時間を過ごした今日の自分を、どうしても否定する気にはなれなかった。

    仕事も育児も家事も、何一つ完璧にはこなせなかった日だったというのに、不思議と心は満たされている。


    普段の私は、気づくとすぐにスマホを見ている。
    まるで息をするのと同じくらい、自然な動作で画面を開き、指を滑らせている。


    しかし、そこで得た情報はただ上から下へ、左から右へと流れていくだけだ。
    意識して見ていないし、考えて動いてもいない。


    入ってきた膨大なデジタル情報を、ただ受け取って、スルーしているだけの日々。

    今日は、そのお決まりのルーティーンを放棄した。
    スマホを見なかった。


    ただそれだけで、これほどまでに多くの発見と、様々な思考が、自分の中から溢れ出てきた。


    これって実は、ものすごく大きな収穫なんじゃないだろうか。

    たかが「タバコのポイ捨て1本」を見つけただけで、そこから無限に広がる世界があった。


    足元に意識の目を向けるだけで、過去の記憶や未来への想像、懐かしい回想が次々と始まっていく。

    これはきっと、「意識して見よう」と身構えていたからではない。


    むしろ、「意識せずに、ぼーっと世界を眺めていた」からこそ、普段の効率主義の脳内では弾かれてしまうような、些細な思考たちを拾い上げることができたのだ。



    私の頭の中は、常に日々のタスクで溢れかえっている。

    だからこそ、頭を空っぽにするという意味でも、脳の休憩という意味でも、あの帰り道の時間は、ものすごくちょうどいい『余白』だった。


    対象はタバコのポイ捨てでなくてもいい。
    家の周りの、どんな小さな変化でもいい。

    思考すること、何かを深く考えることって、本当はこんなにも簡単で自由なことだったのだと、久しぶりに思い出すことができた。


    日々を忙しく駆け抜ける現代において、この「なんとなく思考を遊ばせること」は、実はとても贅沢で、大切な営みなのではないだろうか。


    今度の散歩のとき、子どもと一緒に、今日歩いたあのコースを歩いてみようと思う。



    小さな段差に気をつけて、道の脇に咲く雑草の花に目を向けながら。

    もし、あのタバコの吸い殻がまだ残っていたら、今度は私がポケットのビニール袋で拾って、持ち帰ろう。


    うちの子は、私が今日気づいたこれら全てに、同じように気づくだろうか。
    いや、きっと気づくだろう。

    子どもの地面との距離は、私よりもずーっと近くて、密接だ。


    彼らにとって、目に入るすべてのものは、目で見て、触って知るための「思考の対象」そのものなのだから。



    けれど、親として教えていかなければならない大切なことも、同時に頭に浮かぶ。

    「まだ火のついているタバコは、絶対に触っちゃいけないこと」
    「タバコを触った指で、指しゃぶりをしてはいけないこと」
    「できれば見つけても指差しだけにして、なるべく大人の人に拾ってもらうこと」


    …あれ、でも、火のついたタバコって本当に危険だよな。だって、山火事や火災の原因にだってなるんだから。
    それがもし、乾燥した草むらに落ちていたら……。



    ほら、また私の思考が、勝手に次の場所へと歩き始めていく。


    やっぱり、頭の中で考えるということは、理屈抜きに楽しいものだ。


    子どもとのお散歩が終わりに近付くと、歩くのに疲れた子どもはいつも、抱っこをねだる。

    抱っこをすると、子どもと地面との距離は遠くなる。そうしたら今度は、柵の上や高いところを一緒に見てみよう。

    またあの鳥がいるかもしれない。
    今度こそ、正解が分かるかもしれない。

    気がつくと私は、今度の子どもとの散歩の時間を、いつもより少しだけ楽しみに待っている。


    #創作大賞2026
    #エッセイ部門


     
     
    30代ワーママ。夫と、絶賛イヤイヤ期の2歳の娘と3人暮らし。 現在妊娠中。そして、絶賛体調不良中。 毎日笑って過ごせたらいいなーと日々思っています。 妊娠/育児/出産/仕事/田舎暮らし ※当サイトは、Amazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。

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