
3丁目の田中さんちの庭から「石油」が出てきました。【第六章】
第六章「三丁目の灯火」
御子柴が稟議を進めている間も、三丁目の日常は続いていた。
権田のスタンドには今日も県外ナンバーが並び、修一の民泊には週末ごとに予約が入るようになっていた。氷室は相変わらず騒音計を手に昭介の庭を監視し、昭介は相変わらずコンデンセートを汲み出し、庭のキャベツに水をやった。
騒々しく、そしてどこか穏やかな日々だった。
それが崩れたのは、何の前触れもない朝だった。
足元から、地響きが突き上げてきた。ゴゴゴ……という重低音。
昭介が「なんだ!」と思う間もなく、目の前の景色が激しく横に揺れた。
立っていられない。庭で作業をしていた紹介は咄嗟にパイプラインの支柱を掴んだ。視界の中で、アスファルトに黒い亀裂が蛇のように走り、電柱がメトロノームのように大きくしなる。近隣の古い家屋から瓦が滝のように崩れ落ち、もうもうと土埃が舞い上がった。
新潟県沖、震度6強――。
数分にも感じられた揺れが収まった後、三丁目を包んだのは、耳が痛くなるほどの静寂と、鼻を突く土の匂いだった。
昭介はパイプラインの安全弁を手動で締め、庭の状態を確認した。タンクに亀裂はない。パイプの継ぎ目も無事だ。40年間鍛えた手が、体よりも先に動いていた。
確認を終えた時、初めて膝が震えていることに気がついた。
権田が駆け込んできたのは、それから十分ほど後のことだった。
ガソリンスタンドから昭介の家まで、瓦礫が散乱する道を走ってきたのだろう。作業着の膝が破れ、額から血が滲んでいた。
「昭介、生きてるか」
「生きてる。お前こそ、その頭の血は……」
「転んだ。大したことない」権田は額を手の甲で拭った。
「スタンドの地下タンクは無事か?」
「出てくる前に確認した。亀裂はない」
「よかった」昭介は大きく息を吐いた。「昨日満タンにしたばかりだ。ただ、停電でポンプが動かない」
昭介が「手動ポンプがあるだろ」というと、権田は「そうだった!」と手を叩いた。
「分かった。それで汲み出そう」
二人が動き出した時、路地の向こうから修一の声がした。
「オヤジ!」
修一が走ってきた。民泊の空き家は三丁目の外れにある。そこから昭介の家まで、普通に歩けば十五分はかかる道を、瓦礫をかき分けながら走ってきたのだろう。息が上がり、シャツが汗と埃で張り付いていた。
「オヤジ、怪我はないか?」
「ない。お前は」
「ない」修一はそういうと、権田の額を見た。「血が出てますよ」
「転んだだけだ。気にするな」
「救急箱、家にあるから取ってきます」と修一が言うと、昭介は「待て」と呼び止めた。
「それよりも先にやることがある」
三人は顔を見渡した。
「町中のポリタンクをかきあつめて、そこに石油を汲んで避難所に運ぶぞ」
孤島化した三丁目に、冷たい夜が降りてきた。主要幹線道路は土砂崩れで寸断され、自衛隊の到着には数日かかるという。
避難所となった小学校の体育館。昭介と修一がポリタンクを引いた台車を押して入口に差しかかると、中から懐中電灯の光が飛んできた。
「田中さん、こっちです!」
氷室の声だった。懐中電灯を手に持ち、避難してきた住民を手際よく誘導していた。
「お前も来てたのか」
「当然です。私の専属騒音源が心配でしたから」
昭介が怪訝な顔で「素直に心配していたと言えないのか」と言うと、氷室は「これでも素直になったほうです」と懐中電灯で体育館の奥を照らした。
「発電機が三台あります。ただ燃料が底をついています。あれを動かせれば暖房も照明も使えます。給油をお願いできますか」
「発電機ならコンデンセートでも動くな」
修一と二人でポリタンクを運びながら、昭介はふと気づいた。息子の背中が、ひと回り大きく見えた。日焼けした首筋に汗が光っている。
いつからこんなに、しっかりした体格になっていたのか――いや、最初からそうだったのかもしれない。ただ、今まで見てこなかっただけだ。
「重くないか」
昭介が声をかけると、修一は「重いに決まってんだろ」と笑いながら答えた。
深夜。体育館に絶望的な声が響いた。
「市民病院の非常用電源が持ちそうにありません。このままじゃ入院患者の人工呼吸器が……」
病院の建物は避難所から見える距離にあったが、瓦礫の中を歩いて石油を運べば、徒歩で優に1時間以上はかかる。しかし、三丁目の避難所には昭介よりも年上の高齢者しかいなかった。重いポリタンクを年寄りだけで運ぶことは不可能だ。
毛布にくるまっていた老婆が、震える声を上げた。
「うちの主人が、あの病院に入院してるんです。肺が悪くて、人工呼吸器がないと……」
誰も何も言えなかった。老婆の隣に座っていた女性が、そっとその手を握りしめた。老婆は唇を噛んで、暗い病院の方角をじっと見つめている。照明を最大限まで落とした病院の灯りが、夜の闇の中にぼんやりと浮かんでいた。
昭介はその老婆の顔を見た。見覚えがあった。石油を分けてあげるたびに、野菜や惣菜を持ってきてくれた、近所のお婆さんだった。
「行くぞ、修一」
昭介が立ち上がろうとしたが、修一がすっと肩に手を置いた。
「俺が一人で行く。オヤジは残れ」
「馬鹿を言うな」
「馬鹿はオヤジのほうだよ」修一はそういうと昭介の肩に乗せた手に力を込めた。
「病院までは国道が崩れているから車では行けない。人力で運ぶしかないだろ」
修一はそういうと指を折りながら続けた。
「ポリタンク三、四個を台車に積んで運べば、なんとか足りるはずだ。問題は道だ。瓦礫の中を台車で運んでも1時間以上歩くことになる。避難所には俺より年上の人間しかいない。膝が笑っているオヤジが来ても、足手まといになるだけだろ。ここで足腰が丈夫なのは一番若い俺だ。ただそれだけの話だ」
昭介は修一の顔を見た。なにも言い返せなかった。修一は頷くと、体育館の出口に向かって飛び出していった。
心の底では「行くな」と思った。だが、止めなかった。あいつには、あいつの足があって、そこにしっかりとした意思がある。昭介は入口の柱に背をもたせかけ、暗い夜道を見つめた。修一は台車に石油の入ったポリタンクを乗せると、闇夜の瓦礫の向こうに消えていった。
しばらくして、隣に権田が並んだ。
「行かせてよかったのか」
「子供の頃から足が速かったのは本当だ」
権田が心配そうな顔で暗い夜道を見た。その反対側に氷室が来て、三人で暗闇を眺める格好になった。
「子供というのは」氷室がぽつりと言った。
「親が手を離した瞬間から、本当の意味で動き始めるものなんです」
三人はしばらく黙って、修一が消えた暗闇を見つめ続けた。
静かだった。体育館の中は発電機のおかげで暖かく、住民たちの寝息が聞こえてくる。その暖かさの中に、昭介だけが取り残されたような気がした。
待つ、ということが、こんなに重いとは思わなかった。
どれくらい経ったか、分からなかった。
一時間か、それとも二時間か。昭介は入口の柱から離れられないまま、修一が消えていった暗い夜道を見つめ続けた。膝の痛みも、背中の疲れも、いつの間にか感じなくなっていた。
そして。
病院のある方角の空が、ぼんやりと白く滲んだ。
最初は見間違いかと思った。だが、その光はじわじわと広がり、やがて病院の建物の輪郭を、暗闇の中にくっきりと浮かび上がらせた。
体育館の中で誰かが気づき、「病院に明かりが!」と叫んだ。寝ていた人たちが起き上がり、入口に集まってきた。夫が入院していると言っていた老婆が、昭介の腕を掴んで「田中さん、田中さん」と繰り返した。言葉にならない声だった。
昭介は何も言えなかった。ただ、横にいた老婆の手を固く握り返した。
しばらくして、体育館に設置された緊急ラジオから、病院のスタッフの声が流れてきた。声が途切れ途切れで、何を言っているのか最初は聞き取れなかった。だが、一言だけはっきり聞こえた。
「人工呼吸器、動いています」
体育館の中に、歓声が広がった。大声で喜ぶ人、声を殺して泣く人、天井を見上げて目を閉じる人、隣の人の肩を叩く人。だからこそ、その歓声と安堵の声は、昭介の胸に沁みた。
修一が戻ってきたのは、夜明け近くだった。
泥だらけで、肩で息をしていた。片方の靴底が剥がれかけている。それでも、顔は穏やかだった。昭介と目が合うと、ニコリと笑った。
「オヤジ、うちの庭の石油、本当に出てよかったな」
昭介は何も言わなかった。
「俺のためじゃなくて、この町のために出てきたんだなと、今さらながら思ってさ」
照れくさくなった昭介は、「そんなことは知らん」と視線をそらした。
「ただ、切り株を掘ろうとしただけだ」
「そうだった、そうだった」と修一は小さく笑った。
「でも、結果的に、三丁目のためになっただろ」
昭介は返事をせず、焚火の近くで温めていた缶の緑茶を修一に差し出した。
「少し冷めてるけど、飲め」
修一は黙って受け取ると、プルタブを捻って緑茶を口に近づけた。
エピローグ
震災から3ヶ月後。
越水市は驚異的なスピードで復興を遂げていた。
その原動力の一つは、御子柴が通した稟議だった。震災の翌週、御子柴は病院を救った「越水ブラック」の一件を省内の会議で正面から取り上げ、稟議を強引に押し通した。「災害時の緊急エネルギー拠点として、越水市の自主管理を認める特例措置」。左遷は免れなかったが、稟議は通った。六割が七割になった瞬間だった。
昭介の家の縁側には、権田、氷室。そして、東京からやってきた御子柴が座っていた。
「そうですか。石油、止まりましたか」
お茶をすすりながら、御子柴が静かに言った。昭介は庭のブルーシートを見つめて頷いた。
「あの大地震の地殻変動で、地下の油脈がズレちまったらしい。今湧き出てるのは、本当にちょろちょろとした湧き水程度の石油だ。国を動かすような量は、もう逆立ちしても出ねえよ」
「むしろ、好都合です」
御子柴が、柔らかい笑みを浮かべた。
「大規模な埋蔵量がなくなった以上、経産省が特措法を使って強制接収する大義名分は消滅しました。特措法はエネルギーの安全保障上の緊急事態、つまり、国家規模の埋蔵量があって初めて発動できるものです。今のようなちょろちょろと湧き出る程度の油脈では、国家が強制接収するだけの法的根拠にはなりません」
横で聞いていた氷室が、「つまり、微量でも湧き出る限り、この庭は越水市のものということになりますね」というと、御子柴がコクリと頷いた。
「でも、あんたはこの石油のせいで左遷されたんだろ」昭介が言った。
「地方の中小企業支援課に異動になりました」
御子柴は少しだけ笑った。
「悪くないと思っています。現場に近いし」
その言葉に昭介が「そのほうがあんたに向いている」と言って、唇の端をかすかに持ち上げた。
縁側の端で権田が居眠りを始めると、氷室が「現在、権田さんのいびきが六十二デシベルです」と報告した。修一が「測るな」と突っ込んだ。
いつもの、三丁目の空気だった。
しばらくして御子柴が腰を上げた。
「そろそろ失礼します」
昭介は「ああ」と頷いた。「次は仕事で来い。支援課の仕事ならこの町にいくらでもある」
御子柴は驚いた顔をすると、すぐに「はい」と短く答えた。その「はい」は、官僚のそれではなく、どこか若い人間のそれに聞こえた。
石油の湧き出る量は減ったが、ふるさと納税の返礼品として町を潤すには十分な量だった。お金目当てで集まっていた外国人の富豪たちは潮が引くようにいなくなり、今は騒がしいユーチューバーもいない。いつもの三丁目の日常が戻っている。
氷室が「そういえば」と膝を叩いた。
「田中さんに言いたいことがあったですよ。最近、修一さんの民泊から六十五デシベルの笑い声が聞こえてくるんですよ」
「文句を言うヒマがあったら、今度、うちにお茶でも飲みに来い」
「もっと息子さんの民泊が静かになったら考えますよ」
氷室は笑って答えると、自分の家に引き上げていった。
一人になった昭介が、自分の庭をゆっくりと見渡した。すると家の前に軽トラが停まり、そこから修一が降りてきた。手にはビニール袋を持っている。
「宿泊客が手土産で饅頭をくれたんだよ」
二人で縁側に並んで座り、饅頭を食べた。横では権田がいびきをかいてまだ寝ている。しばらくして、修一が口を開いた。
「オヤジ。俺、しばらくここにいようと思う」
「民泊の仕事があるからいなきゃダメだろ」
「それだけじゃない」修一は庭を眺めた。
「ここにいると、探していたものが見つかりそうな気がしてさ」
昭介は何も言わなかった。
「東京にいた頃、ずっと何かを掴もうとしてもがき続けていたけど、結局、何もつかめなかった。だけど、この町にいると、何かが掴めそうな気がするんだよ」
「何が掴めそうなんだ」
「まだうまく言えない」修一は少し笑った。「でも、掴めそうなことは確かだ」
昭介は庭の端を見た。キャベツの苗が、夕暮れの中で青々と並んでいる。
「そうか」
今度の『そうか』は、以前、メールで修一に返した同じ三文字でも、意味が違った。
昭介は愛用のスコップを土に突き立て、大きく背伸びをした。
「さて、そろそろ越冬用のキャベツの種でも蒔くとするか」
高く澄み切った秋空の下、越水市三丁目には、今日も心地よい活気が満ちていた。
了