「知っている」が、世界の見方を決めてしまう
知識が増えるほど世界は広がると思っていた。でも、知った瞬間に失っているという見方もあるのかもしれない。
分かった瞬間、考えることをやめてしまう
何か分からないものを見つけたとき、人はその正体を知ろうとする。
名前を調べる。仕組みを調べる。なぜそうなるのかを調べる。そして答えが見つかると、「なるほど、そういうことか」と納得する。
知識が増えること自体は面白い。今まで見えなかった違いが分かるようになるし、目の前で起きていることを詳しく理解できるようになる。
ただ、少し気になることがある。
「分かった」と思った瞬間に、それ以上考えることをやめてしまっていないだろうか。
知らないうちは、「これは何なんだろう」「どうしてこうなるんだろう」と考える。でも、名前や仕組みを知ると、それだけで理解したような気持ちになる。
本当は一つの説明を知っただけなのに、そのもの自体をすべて分かったように感じてしまう。
以前、花火を見ながら、何も知らない人がこれを見たらどう感じるんだろうと考えたことがある。
自分たちは、花火が人の手で作られたもので、火薬や炎色反応によって色が生まれていることを知っている。だから夜空に大きな光が広がっても、「花火だ」と認識できる。
でも、そうした知識が何もなければ、空で突然起きた大魔法のように見えるかもしれない。
もちろん、花火を魔法だと思った方が正しいと言いたいわけではない。知識があるから、安全に作り、同じ現象を再現し、さらに発展させられる。
それでも、「花火だから」で終わらせた瞬間に、目の前で起きている不思議さまで見えなくなっている可能性はある。
知識は、世界を見るための枠になる
自分たちは、目の前にあるものを、そのまま見ているつもりでいる。
でも実際には、これまでに得た知識や経験を通して見ている。
空に浮かぶものを見て「雲」と認識する。水辺にいる生き物を見て「魚」と認識する。さらに知識があれば、雲の種類や魚の名前まで分かる。
名前を知ることで、今まで全部同じに見えていたものの違いが見えるようになる。これは知識によって世界が広がった状態だと思う。
一方で、名前を知ったことで、その名前の範囲内でしか見なくなることもある。
「これは魚だ」「これはこういう習性を持つ魚だ」と知っていると、目の前の生き物を、すでに持っている説明へ当てはめて見るようになる。
知識は、世界を見るための解像度を上げてくれる。ただ同時に、「これはこう見るものだ」という枠にもなる。
たぶん、自分たちは物そのものだけを見ているわけではない。
目の前にあるものと、それについて知っていることを重ねて見ている。
だから同じものを見ても、持っている知識や経験によって見え方が変わる。詳しい人には気づけるものがあり、逆に、詳しくない人だからこそ出てくる疑問もある。
知っている人には当たり前すぎて見えないものを、何も知らない人が見つけることもある。
正しい見方を知るほど、別の可能性が見えなくなる
何かを学ぶとき、最初は正しい答えを知ろうとする。
仕事の進め方。文章の書き方。デザインの作り方。物事を考える方法。
すでに誰かが見つけた知識を使えば、失敗を減らせるし、効率よく進められる。自分も何か分からないことがあれば調べるし、詳しい人のやり方を参考にする。
ただ、正しいやり方を知るほど、それ以外の方法を考えにくくなることがある。
「普通はこうする」「この場合はこれが正解」と先に知ってしまうと、目の前の状況を見る前から、答えを当てはめてしまう。
知識があることで、何も知らなければ思いついたかもしれない方法を、最初から選択肢の外へ出してしまう。
以前の自分も、何かを考えるときに、まず正解を調べようとすることがあった。
すでに答えを持っている人の考えを読んで、「なるほど、そういうことか」と納得する。でも、その後で自分の考えを出そうとすると、最初に読んだ答えからなかなか離れられない。
自分で考えているつもりでも、実際には、先に得た知識の範囲内で考えているだけなのかもしれない。
だから最近は、哲学のようなテーマについても、先に昔の人の答えを覚えるより、一度は自分で考えてみたいと思っている。
自分なりに「?」を持ち、分からないなりに考える。その後で、すでにある知識とつなげる。
先に正解を知るより遠回りかもしれない。それでも、自分がどこで疑問を持ち、どう考えたのかは残る。
知識を受け取る前に考えたことには、まだ誰かの答えに形を決められていない、自分なりの見方がある。
知識が問題なのではなく、問いを止めてしまうこと
ここまで書くと、知識がない方が自由に考えられるようにも見える。
でも、もちろん知識が悪いわけではない。
知らないままでは気づけないこともある。知識があるから、複数の出来事の共通点を見つけたり、以前は別々に見えていたものをつなげたりできる。
自分は以前、知識は知っている情報で、知性はその知識をどう見て、どうつなぎ、自分の状況に合わせて使うかという働きなんじゃないかと考えた。
知識を持っているだけで、考えが深くなるわけではない。
覚えた答えをそのまま使うのか。「本当にそうなんだろうか」と問い直すのか。別の経験とつなげて、自分なりの意味を見つけるのか。
同じ知識を持っていても、その扱い方によって見えるものは変わる。
問題になるのは、知っていることではなく、「知っているから、もう考えなくていい」としてしまうことなんだと思う。
一つの説明を知ることは、考えることの終わりではない。むしろ、そこから次の疑問を見つけることもできる。
なぜそうなるのか。その説明はどこまで当てはまるのか。別の角度から見ると、何が見えるのか。
知識を答えとして置いて終わるのではなく、新しい問いを作る材料として使う。
そうすれば知識は、世界を固定する枠ではなく、別の見方へ進むための足場になる。
ときどき、知らないつもりで見直してみる
一度知ったことを、完全に知らなかった状態へ戻すことはできない。
花火を見て、それが何なのかを忘れることはできない。魚の名前を覚えた後に、名前を知らなかった頃とまったく同じ目で見ることもできない。
それでも、知識を一度脇へ置いてみることはできる。
もし何も知らなかったら、これはどう見えるだろう。
初めて見た人は、どこに疑問を持つだろう。
自分が知っている説明以外に、どんな見方ができるだろう。
そんなふうに考えると、見慣れたものの中にも、まだ分からないことが残っていると気づく。
知識が増えると、世界は細かく見えるようになる。その一方で、何でも知っているものとして処理するようになれば、世界は少しずつ固まっていく。
「これはこういうものだ」という説明が増え、新しく疑問を持つ余地が減っていく。
だから、ときどき知らないつもりで見直してみる。
正しい答えを捨てるのではなく、それだけが唯一の見方ではないと考えてみる。
知ることは、世界を広げてくれる。
でも、自分が知っていることの外側にも、まだ別の見方がある。
その余白を残しておくことが、知識によって凝り固まらず、考え続けるために必要なんじゃないかと思う。
このnoteでは、価値観や考え方、自分との向き合い方について書いています。
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