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転生三男坊、猫耳剣士と黒猫従魔と始める異世界建国録 【第020話】二枚の控え札|“安全確認対象”と片前足の境

    朝、レイは帳面を開かなかった。

    開けば、昨日の言葉がそこにある。

    『安全確認対象』

    たった六文字。

    けれど、その六文字は、昨日のうちに紙の上だけのものではなくなった。

    町側の札に写された。

    森側の控え札にも写された。

    町役が持ち、トルクが確認し、ガレオが許可し、誰かが小橋の近くへ立てる。

    人が見る。

    人が止まる。

    人が、別の道を選ぶかもしれない。

    レイは寝台の端に座ったまま、膝の上に置いた帳面を見下ろしていた。

    閉じたままでも、昨日の行が見える気がした。

    「書いたのは、僕だ」

    小さく言ってから、すぐに口を閉じた。

    正確には、下書きしたのが自分だった。

    決めたのはガレオ。

    写したのはセドリック。

    扱いを整えたのはトルク。

    町に出す形にしたのは町役。

    それでも、最初にその言葉を帳面に置いたのは、レイだった。

    ミナは窓辺にいた。

    外を見ている。

    庭の朝露が光っている方ではなく、東の方角を見ているように見えた。

    そう見えただけかもしれない。

    レイは、見えた気がしたものを書かないことを、もう何度も学んでいる。

    「ミナ」

    呼ぶと、黒猫はゆっくり顔を向けた。

    琥珀色の目が、静かにレイを見る。

    「昨日の札、どうなると思う?」

    ミナは答えない。

    喉も鳴らさない。

    ただ、窓辺から床へ下りた。

    音はほとんどしなかった。

    黒い前足が床に触れ、影が少しだけ揺れる。

    ミナはレイのそばまで来ると、帳面の角に鼻先を近づけた。

    触れそうで、触れない。

    昨日、敷居で片前足を置いた時と同じ距離だった。

    レイは息を吸った。

    「まだ、書かない」

    ミナは瞬きをした。

    その返事が何なのかは、分からない。

    けれど、レイは帳面を開かずに抱えた。

    今朝は、開いてから考えるのではなく、考えてから開く方がいい気がした。

    扉が軽く叩かれる。

    「若様、朝食をお持ちしました」

    ニアの声だった。

    「はい」

    レイが返事をすると、ニアは盆を持って入ってきた。

    今日の朝食は、焼いた薄パンと、豆の入った温かいスープだった。

    湯気がゆっくり立っている。

    いつもなら、その匂いで少し気がほどける。

    けれど今日は、湯気まで文字に見えた。

    立って、ほどけて、消えていく。

    書いた言葉は、消えない。

    「若様」

    ニアが机に盆を置きながら、少し首を傾げた。

    「今日は、まだ何も始めていない顔ですね」

    「昨日は、止まっている顔でしたよね」

    「はい」

    「今日は?」

    ニアは少し考えた。

    「扉の前で、鍵を持ったまま立っている顔です」

    レイは苦笑した。

    「鍵は、持っていません」

    「帳面があります」

    ニアはそう言って、レイの膝の上を見た。

    その目に、秘密を探るような色はない。

    ただ、心配している。

    レイは帳面を机に置いた。

    「ニア」

    「はい」

    「書いた言葉で、人が動くことがありますよね」

    ニアはすぐには答えなかった。

    スープの椀を少しレイの方へ寄せる。

    「あります」

    「たとえば?」

    「厨房に『熱い鍋』と書いてあれば、触らない人が増えます」

    「それは、いいことですか」

    「たぶん、いいことです」

    「たぶん?」

    ニアは薄パンを皿に置いた。

    「書き方を間違えると、困ることもあります」

    「どういうことですか」

    「本当は少し熱いだけなのに、『絶対触るな』と書いたら、必要な人も触れません。本当に危ないのに『少し注意』と書いたら、怪我をします」

    レイは椀を見た。

    スープの表面に、小さな油の輪が浮いている。

    それが揺れて、また丸く戻る。

    「では、分からない時は?」

    「分かっているところまで書くしかないと思います」

    ニアは昨日と同じようなことを、少し違う形で言った。

    けれど、今日はその言葉が軽く聞こえなかった。

    分かっているところまで書く。

    それは、逃げではない。

    でも、責任がないわけでもない。

    「分からないのに、人を止める言葉は、書いていいんでしょうか」

    ニアはレイを見た。

    いつものように、少しだけ真面目な顔になった。

    「若様」

    「はい」

    「橋の板が濡れていて、滑るかもしれない時に、『滑ると決まっていないから何も書かない』としたら、誰かが転ぶかもしれません」

    レイは黙った。

    「でも、『絶対に落ちる橋』と書いたら、それも違います」

    「はい」

    「だから、たぶん」

    ニアは少し言葉を探した。

    「人を怖がらせるためではなく、急がせないための言葉なら、書いてもいいと思います」

    急がせないための言葉。

    レイは、その言葉をすぐに帳面へ書きたくなった。

    けれど、まだ開かなかった。

    ニアはそれ以上、何も聞かなかった。

    「まず食べてください。空腹で書いた言葉は、少し角が立ちます」

    「角が立つ?」

    「はい。お腹が空いている時の字は、たまに人を刺します」

    レイは思わず笑った。

    小さく。

    けれど、笑えたことに、自分で少し驚いた。

    ミナが椅子の足元で、静かに座る。

    前足はそろっている。

    どちらも、敷居にはかかっていない。

    レイはスープを飲んだ。

    温かかった。

    熱すぎはしない。

    触ってもよい温度だ。

    でも、そう分かるまでには、誰かが一度、確かめてくれている。

    ガレオの執務室に入ると、机の上には、すでに二枚の札が置かれていた。

    一枚は、少し大きい。

    町側に出すための札だ。

    板に薄い紙を貼り、その上に読みやすい字で書かれている。

    もう一枚は、小さい。

    森側の控え札。

    こちらは、外へ大きく見せるためではなく、確認に入る者だけが読むためのものらしい。

    二枚とも、まだ机の上に置かれている。

    どちらにも白い布はかかっていない。

    隠すものではないからだ。

    けれど、机の端には、別の白い布が畳まれていた。

    使わないのではなく、必要ならかけられる場所にある。

    ガレオは窓を背に立っていた。

    セドリックはすでに筆を持っている。

    トルクは扉の近くではなく、今日は机の横にいた。

    セド爺は少し離れた椅子に座り、二枚の札を見ている。

    昨日と同じように、見ているだけで、まだ口を開かない。

    ミナは、敷居の前で止まった。

    レイも足を止める。

    昨日、ミナは敷居の内側へ片前足だけを置いた。

    今日はどうするのか。

    そう思った瞬間、レイは自分の考えを止めた。

    ミナの行動を待つために見ているのではない。

    でも、見てしまう。

    ミナはゆっくり前へ出た。

    片前足だけが、敷居の内側へ入る。

    昨日と同じ。

    いや、昨日と同じように見えるだけかもしれない。

    レイは帳面を開いた。

    『ミナ、敷居の内側へ片前足』

    そこまで書いて、手が止まった。

    引かなかった、とはまだ書かない。

    まだ、時間が経っていない。

    ミナはそのまま、動かなかった。

    ガレオの視線が、レイの帳面に落ちた。

    「書けるところまでにしたな」

    「はい」

    「よい」

    それだけだった。

    ガレオは机の上の大きい札を指した。

    「町側の札だ。読む」

    トルクが一歩進み、低い声で読み上げた。

    「小橋東側、湿土に乱れあり。足元注意。急いで通らぬこと。赤紐の内側へ入らぬこと」

    レイは息を止めた。

    自分の下書きとは、少し違っている。

    『安全確認対象』という言葉は入っていない。

    「安全確認対象」は、町側の札には出さない。

    町の人にとって必要なのは、扱いの名ではなく、何に注意するかだ。

    ガレオが言った。

    「これは、人に見せる札だ」

    「はい」

    「不安を増やすための札ではない。足を遅くするための札だ」

    ニアの言葉と、少しだけ重なった。

    急がせないための言葉。

    レイは帳面に書いた。

    『町側の札 足を遅くするための言葉』
    『安全確認対象とは書かない』

    セドリックが小さく頷いた。

    「次、控え札」

    トルクは小さい札を手に取った。

    こちらの字は、町側の札より細かい。

    読む人が限られているからだ。

    「小橋東側、湿土の乱れ。安全確認対象。足跡と断定せず。踏まず、触れず、上書きせず。見た位置、距離、戻りの有無を別紙に記録」

    戻りの有無。

    その言葉が、部屋の中に落ちた。

    レイは、昨日の写し図を思い出した。

    乱れは一つ。

    道の続きに、同じような跡はない。

    戻る跡もない。

    だからこそ、足跡とは書けない。

    でも、戻りの有無を見ることはできる。

    レイは帳面に書いた。

    『森側控え札 安全確認対象』
    『足跡と断定しない』
    『踏まず、触れず、上書きしない』
    『戻りの有無を記録』

    書きながら、手が少し重くなった。

    戻りがない。

    そう書けば、何かがいなかったことにも、何かが戻らなかったことにも、読めてしまう。

    けれど、それはまだ意味ではない。

    見たことの項目だ。

    セドリックが言った。

    「戻りの有無、という表現は強すぎますか」

    ガレオはすぐには答えなかった。

    部屋の外から、遠くで荷車の音がした。

    朝の屋敷が動いている音。

    「町側には出さない」

    ガレオは言った。

    「確認者だけが読む」

    「はい」

    「だが、確認者には必要だ。戻りがあるかないかで、踏み荒らしなのか、落下物なのか、動物なのか、別のものなのか、分ける材料になる」

    「別のもの」

    レイが思わず繰り返しかけて、止めた。

    ガレオはレイを見た。

    「今のは、帳面に書くな」

    「はい」

    「分ける材料、とだけ書け」

    レイは頷き、書いた。

    『戻りの有無は、分ける材料』
    『別の意味は書かない』

    ミナは、まだ敷居の内側に片前足を置いたままだった。

    引いてはいない。

    レイは、そこまで見た。

    まだ書かない。

    もう少し待つ。

    待ってからでなければ、記録ではなく、期待になる。

    トルクが二枚の札を机に戻した。

    「町役には、町側の札を掲げるよう伝えております。森側控え札は、確認役二名と私の控えのみ。写しは増やしません」

    「確認役は誰だ」

    ガレオが問う。

    「昨日の町役一名と、橋修理に関わった石工の親方です。どちらも赤紐の内側へは入りません。長柄の測り棒で距離のみ確認します」

    「森へは」

    「入りません」

    「旧石積みには」

    「触れません」

    「乱れには」

    「踏みません。触れません。紙を置いて写しません」

    ガレオは頷いた。

    「よい」

    レイは、それを聞いて、少しだけ胸の奥が冷えた。

    自分の下書きで、人が動く。

    でも、人が危ない場所へ近づきすぎないように、別の人たちが言葉を削っている。

    トルクが実務へ落とし込む。

    ガレオが範囲を切る。

    セドリックが言葉を整理する。

    町役が実際の札にする。

    誰か一人の言葉だけで、人は動かない。

    それは救いでもあった。

    けれど、責任が消えるわけではなかった。

    レイは帳面に書いた。

    『下書きは、一人の言葉では終わらない』
    『人を動かす前に、削る人がいる』
    『それでも、最初の言葉は残る』

    書いたあとで、少しだけ強すぎる気がした。

    特に最後の一行。

    最初の言葉は残る。

    それは、少し怖い。

    消そうかと思った。

    けれど、ガレオの声が先に来た。

    「消すな」

    レイは顔を上げた。

    「怖いです」

    「怖いなら、残せ」

    「怖い言葉をですか」

    「怖いと思った場所をだ」

    ガレオは、机の上の二枚の札を見た。

    「怖くない者に、札は任せられん」

    部屋が静かになった。

    セドリックも筆を止めている。

    トルクは目を伏せた。

    セド爺は何も言わない。

    ミナは、敷居の内側に片前足を置いたまま、動かなかった。

    レイは帳面に書いた。

    『怖いと思った場所を残す』

    それ以上は書かなかった。

    その頃、小橋の西側では、町役が札を立てていた。

    朝の道は、まだ人が少ない。

    それでも、荷車を押す男が一人、坂の方から下りてきた。

    車輪が小石を踏む音が、乾いた道にこつこつと続く。

    男は札の前で足を止めた。

    文字を読む。

    それから、赤紐の向こうを見た。

    湿った土は、道の端に小さく黒く見えるだけだった。

    遠目には、ただのぬかるみに見える。

    男は荷車の柄を握り直した。

    「通れんのか」

    町役は首を振らなかった。

    「通れます。ただ、急がず、赤紐の内へは入らぬように」

    「荷が重い。東側から回った方が早いんだが」

    「今日は、北の道を使ってください。少し遠いですが、車輪はそちらの方が安定します」

    男はもう一度、札を見た。

    眉を寄せる。

    けれど、文句は言わなかった。

    「……遠回りする」

    荷車の向きが変わる。

    車輪の跡が、道の上でゆっくり弧を描いた。

    その少し後、子どもが二人、小橋の方へ走ってきた。

    一人が赤紐の手前で止まり、もう一人が覗き込もうとして、町役に肩を押さえられた。

    「そこまでだ」

    「なんで?」

    「足元が悪い。今日は走る場所じゃない」

    町役は札を指した。

    子どもは声に出して読もうとして、途中でつかえた。

    難しい字は少ない。

    それでも、全部は読めない。

    町役は短く言い直した。

    「急ぐな、入るな、踏むな。そういう札だ」

    子どもは唇を尖らせたが、赤紐は越えなかった。

    石工の親方は、少し離れた場所でそれを見ていた。

    手には長柄の測り棒がある。

    親方は湿った土に近づかず、棒の先だけを赤紐の外から伸ばした。

    土には触れない。

    草にも触れない。

    ただ、距離だけを見る。

    町役はそれを書いた。

    足を止めた者。

    別道へ回った者。

    覗こうとした者。

    止めた言葉。

    そして、踏まなかったこと。

    紙は薄い。

    けれど、そこに書かれた数行は、昼前には屋敷へ戻ることになる。

    昼前、町役から最初の戻り報告が届いた。

    報告を持ってきたのは、屋敷の若い使いだった。

    手にしている紙は、まだ乾ききっていない。

    急いで書いたのだろう。

    トルクが受け取り、ガレオへ渡す。

    ガレオは読み、セドリックへ渡した。

    セドリックは声に出す前に、一度だけ目で全体を追った。

    「読め」

    ガレオが言う。

    セドリックは頷いた。

    「町側札、設置済み。通行者三名、足を止め確認。うち一名は別道へ回る。子ども二名、赤紐外を通過。町役、声かけ済み。混乱なし」

    混乱なし。

    レイは、その言葉で息を吐きそうになった。

    けれど、まだ早い。

    続きがある。

    セドリックは、紙の下へ目を移した。

    「森側確認。赤紐外より観察。湿土の乱れ、一つ。周辺に新たな乱れなし。戻りに相当する乱れ、確認できず。風により草の向き、一部変化。旧石積み、触れず」

    戻りに相当する乱れ、確認できず。

    レイは、その行を聞いて、帳面にすぐ書かなかった。

    書くと、重くなりそうだった。

    けれど、書かないままでは残らない。

    セドリックがこちらを見る。

    ガレオも見ている。

    レイは筆を持った。

    『戻りに相当する乱れ、確認できず』

    そこまで書く。

    意味は足さない。

    何かが来たとも、去ったとも、落ちたとも、消えたとも書かない。

    ただ、戻りに相当する乱れが確認できなかった。

    それだけ。

    セド爺が、低く息を吐いた。

    その音が、部屋の隅に落ちる。

    レイは顔を上げた。

    「セド爺」

    呼んだが、セド爺はすぐに答えなかった。

    少ししてから、膝の上の手をゆっくり重ねる。

    「若様」

    「はい」

    「昔の聞き残しでは、戻りのないものに、すぐ名をつけたそうでございます」

    ガレオの眉がわずかに動いた。

    セド爺は、そこで口を閉じた。

    レイは待った。

    続きはない。

    「紙には」

    レイが尋ねると、セド爺は首を横に振った。

    「残っておりませぬ」

    「では」

    「ここには置きませぬ」

    セド爺は、きっぱりと言った。

    「紙にないものを、札へ近づけてはなりませぬ」

    レイは頷いた。

    それは、第014話以降に何度も学んだ作法だった。

    紙にあるもの。

    紙にないもの。

    見たこと。

    聞いたこと。

    思ったこと。

    動かすための言葉。

    残すための言葉。

    全部を混ぜると、誰かが間違って動く。

    レイは帳面に書いた。

    『紙にない聞き残しを、札へ近づけない』

    セド爺は、その行を見た。

    少しだけ目を細めた。

    「よろしゅうございます」

    褒めたのではない。

    たぶん、確認しただけだ。

    でも、その声は、いつもより少し柔らかかった。

    午後になると、二枚の札の扱いを決めるために、もう一度確認が行われた。

    町側の札は、このまま小橋の西側と東側の手前に置く。

    森側控え札は、表に出さない。

    確認者が持つ。

    写しは、ガレオの執務室に一枚、トルクの実務控えに一枚。

    それ以上は増やさない。

    レイの帳面には、写さない。

    その決定を聞いた時、レイは思わず顔を上げた。

    「僕の帳面には、書かないんですか」

    ガレオは静かに答えた。

    「お前の帳面に必要なのは、札そのものではない」

    「では、何を」

    「札が二枚に分かれた理由だ」

    レイは黙った。

    札そのものを写せば、安心できる気がした。

    自分の手元にあれば、いつでも確認できる。

    でも、それは少し違う。

    レイの帳面は、実務の札置き場ではない。

    考えたことを、混ぜないための場所だ。

    レイは筆を置き直した。

    『町側札と森側控え札は、同じものではない』
    『町側札は、人を急がせないため』
    『森側控え札は、確認者が混ぜないため』
    『帳面には、札そのものではなく、分けた理由を書く』

    書き終えた時、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。

    レイはそれを書かなかった。

    今は必要ない。

    胸の反応を書けば、まるで正解をもらったようになる。

    でも、正解はまだない。

    あるのは、言葉を分けたという事実だけだ。

    ミナが動いた。

    敷居から、ゆっくりと部屋の中へ入る。

    片前足だけではなく、もう片方の前足も内側へ入った。

    けれど、すぐには机へ近づかない。

    敷居の内側。

    昨日よりは入っている。

    でも、二枚の札からは遠い。

    レイはその動きを見た。

    書こうとして、止める。

    今書くなら、どこまでか。

    ミナが入った。

    近づいた、とは言えるかもしれない。

    でも、何に近づいたのかは分からない。

    札に近づいたのか。

    レイに近づいたのか。

    部屋に入っただけなのか。

    たまたまなのか。

    考えれば、すぐに意味が増える。

    レイは息をひとつ吸った。

    そして書いた。

    『ミナ、敷居の内側へ両前足』
    『札からは離れている』

    そこまでだった。

    ガレオは何も言わなかった。

    セドリックも、何も書き足さなかった。

    セド爺は、ミナを見ていない。

    見ていないように見える。

    トルクだけが、少しだけ目を細めた。

    夕方前、町側札の二回目の報告が届いた。

    通行者は少ない。

    しかし、札の前で足を止めた者がいた。

    荷車を押していた男が、東側へ回るのをやめ、町役に別道を聞いたという。

    子どもたちは、赤紐を越えなかった。

    石工の親方は、長柄の測り棒で距離を確認し、湿った土へは近づかなかった。

    そして、報告の最後にはこうあった。

    『札の文、町人に通じる。怖がる者なし。ただし、赤紐内を覗こうとする者一名あり。町役、止める』

    レイはその一文を見て、背中が少し冷えた。

    怖がる者なし。

    それはよい。

    でも、覗こうとする者がいる。

    人は、止められると見たくなる。

    言葉は、人を遠ざけるだけではない。

    近づけることもある。

    「父上」

    「なんだ」

    「札は、人を止めるだけではないんですね」

    ガレオは、少しだけレイを見た。

    「そうだ」

    「見たくさせることもある」

    「ある」

    「では」

    レイは言葉を選んだ。

    「書かない方がよかった、ということもありますか」

    ガレオは、すぐに答えなかった。

    窓の外は、少しずつ夕方に傾いている。

    光が机の上を斜めに横切り、二枚の札の端を淡く照らしていた。

    「ある」

    ガレオは言った。

    「書けばよい、ではない」

    レイは喉を鳴らした。

    「でも、書かなければ、誰かが踏むかもしれない」

    「そうだ」

    「どちらも危ない」

    「だから、当主は決める」

    その言葉は、重かった。

    ガレオは二枚の札を見たまま続ける。

    「お前は下書きをした。セドリックは言葉を削った。トルクは扱いを決めた。町役は置く場所を考えた。だが、出すと決めたのは私だ」

    「はい」

    「それでも、お前の下書きが軽くなるわけではない」

    「はい」

    「軽くならないまま、次から書け」

    レイは、胸の奥が苦しくなるのを感じた。

    苦しい。

    けれど、嫌ではなかった。

    自分の言葉が軽く扱われないこと。

    それは、怖い。

    でも、少しだけ、信じられているようでもあった。

    レイは帳面に書いた。

    『書かない危うさ』
    『書く危うさ』
    『決める人がいる』
    『下書きは軽くならない』

    最後の一行で、筆が止まった。

    下書きは軽くならない。

    でも、今日はそのまま残すことにした。

    ガレオは、消すなとは言わなかった。

    言わなくても、レイは消さなかった。

    ミナは、敷居の内側に両前足を置いたまま、座っていた。

    札には近づかない。

    机にも乗らない。

    ただ、その場所にいる。

    レイはもう一度、朝に書いた行を見た。

    『ミナ、敷居の内側へ片前足』

    その下に、昼に書いた行がある。

    『ミナ、敷居の内側へ両前足』
    『札からは離れている』

    朝から夕方まで。

    片前足は、引かれなかった。

    そう書いてよいだろうか。

    レイは、ミナを見た。

    ミナはレイを見返さない。

    札でもなく、ガレオでもなく、窓の下に伸びた夕方の光を見ていた。

    レイは筆を持った。

    『ミナ、片前足を引かなかった』

    そこで止める。

    選んだ、とは書かない。

    守った、とは書かない。

    許した、とは書かない。

    何かを示した、とも書かない。

    ただ、片前足を引かなかった。

    それだけなら、見たことだった。

    ガレオが、その行を見た。

    何も言わなかった。

    セドリックも、何も言わなかった。

    セド爺は目を閉じた。

    トルクは二枚の札に、別々の薄布をかけた。

    同じ布ではない。

    一枚は町側の札に。

    もう一枚は森側の控え札に。

    二枚は、並んでいる。

    けれど、重ならない。

    レイは帳面を閉じた。

    今日は、何かが分かった日ではない。

    けれど、自分の言葉が紙を離れると、人を動かすことを知った。

    止めることもある。

    近づけることもある。

    怖がらせることもある。

    怖がらせずに足を遅くすることもある。

    だから、言葉は分けなければならない。

    町へ出す言葉。

    確認者へ渡す言葉。

    自分の帳面に残す言葉。

    そして、まだ書かない言葉。

    夕方の光が、床の上で細く伸びていた。

    ミナの前足の影が、その光の端に触れている。

    触れたように見えるだけかもしれない。

    レイは、それを書かなかった。

    黒猫ミナは、敷居の内側で座っていた。

    片前足を引かなかったまま。

    その距離だけが、今日、二枚の札よりも静かに残っていた。


    あとがき

    ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

    第020話では、第019話で生まれた「安全確認対象」という言葉が、実際に領地の中でどう扱われるのかを描きました。

    今回の中心は、二枚の札です。

    町の人に見せる札と、確認する人だけが読む控え札。
    同じ出来事でも、誰に向けるかによって言葉は変わります。

    そしてレイは、自分の下書きが人を動かすことを知りました。

    書いた言葉は、紙の上だけで終わらない。
    だからこそ、言葉を分ける必要がある。

    ミナについては、今回も断定していません。
    書いてよいのは、まだ「片前足を引かなかった」までです。


    次回予告

    次回、

    転生三男坊、猫耳剣士と黒猫従魔と始める異世界建国録 【第021話】戻りのない乱れ|“踏まない線”と町役の報告

    二枚の札によって、小橋の周囲は静かに管理され始める。

    だが、森側の控え札に残された一文が、レイの帳面に重く残る。

    戻りに相当する乱れ、確認できず。

    それは、足跡ではない。
    けれど、ただの湿った土とも言い切れない。

    町役は、踏まないまま、触れないまま、さらに細い報告を持ち帰る。

    そしてミナは、二枚の札が布の下へ置かれた後も、まだ敷居の近くから離れない。

    足を進めるのではなく、線を踏まないことで見えてくるもの。

    レイは次に、言葉ではなく「線」の扱いを学ぶことになる。

     
     
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