
思い出すのは、春の嵐⑥
春海の妊娠、そして出産は……決して穏やかなものではなかった。
一、思い
「りつ子さん、今日はいろいろ教えてくれて、本当にありがとうございました」
礼儀正しく感謝の言葉を述べられ、思わず焦ってしまった。
「やだ、もうこんな時間なのね。
私こそ重い話をだらだら話しちゃって、ごめんなさい」
「謝らないでください!体験談なんて……貴重なお話しが聞けて、勉強になりました」
でも……すっかり話してしまった後で、後悔が襲ってきていた。
……私はいつもそう。
自分で精一杯になってしまうと、その時そばにいる相手を気づかってあげることができない。
だから、心の底からそこが一番気になったのだ。
「大丈夫?引いたり不安になったりしてない?」
だが目の前の彼女は、少し驚いたような顔をして首をかしげ……そしてこう言ったのだった。
「……もし、知らないまま同じことが自分の身に起きたら、ものすごく不安になったと思います。
だから……心構えができた感じ?。いっぱい勇気をもらいました」
そして、それが本音だと証言するかのように、にっこりと微笑む。
なんだかそれはとても眩しくて。
彼女の内にある強さがにじみ出ているような気がした。
「それに……。つわりや入院のこと、実はハルが一番心配していたの」
彼女の言うハルとは……春海のことだ。
思いがけない言葉に、耳を疑ってしまう。
「春海が?」
「はい。今はネットでも調べられるし、いろんな実話も溢れているけど……まずは身近な人の話を聞いてみた方が参考になるんじゃないかって」
彼女……璃子の父親は、私のいとこ。
だから、私と彼女は、類縁関係に当たるのだ。
「そんなこと、春海が言ったりするの?」
そこが一番の驚きだった。
嘘でしょ?と言いたくても。
あの春海ならともかく、素直で真っ直ぐな彼女が嘘をつくようには思えない。
「ええ。これは内緒なんですけどね……昔、政晴さんに呼び出されて、いろいろ言われたことがあるみたいで」
その時、春海は政晴に何を言われたのだろう。
そして彼女は春海から何を聞いたのか……。
何もわからないけれど、彼女は楽しそうに思い出し笑いをした。
「だから、りつ子さんに教えてもらえて、本当に良かったです。
ハルがいかに大変な子だったのか……ずっと知りたいって思っていたし」
「……呆れた?」
「まさか!そんな時から大変だったなんて……なんていうか、ハルらしいなって。……すごく、納得」
その真っ直ぐな言葉に、窓から差し込む日差しが、よりキラキラ輝いたように思えた。
春海は、本当に大変な子だった。
そんな記憶でいっぱいだったけれど……妊娠初期からのあの日々すら春海らしいだなんて言われてしまったら。
こちらも、もう納得しかできない。
——春海は、生まれながらにして春海だったということかしら……。
今更ながら、目からウロコという気分だ。
春海は私のお腹に宿ったのに、私とは全く違った存在で。
私の進みたい道を、いつもめちゃくちゃにかき乱す。そんな子どもだった。
でも。
——春海は、どんな思いで過ごしたのかしら……。
ふと興味が湧いた。
春海のことをそういう子だと決めつけて。それ前提の目線でいろんなことを見ていたような気もするのだ。
大変すぎて、意識が向かなかっただけで。
——いつか、春海のこともいろいろ聞きてみたいわ。
そんな思いがこみ上げていた。
目の前の彼女は、きっと、春海から話を聞いているだろう。
「私ね、そんな大変なハルを育てたりつ子さんって、本当にすごいなぁ……って。改めて思っちゃいました」
「えぇっ、私?」
思いがけない称賛に、思わず頓狂な声が出てしまった。
「だって、妊娠から本当に大変だったんだなって思うのに……。話してるりつ子さん、ずっといい顔してて。
なんか、いいなぁって」
まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかったから、返す言葉に困ってしまう。
「ちゃんといろんなことを覚えているって……それだけ思い出を大切にしていたからですよね。
しかも、覚えている出来事も感情も、否定をしないでそのままを受け止めてて。
りつ子さんは、やっぱりすごいです。私のあこがれ……」
「そんな……」
手放しでほめられて、心の奥がコトコト優しく揺れる。
……自分の思いを、今までそんな風に肯定してもらえたことはあっただろうか。
大変だったけれど、その中を過ごしてきた自分をすごいと思ったことはない。
自分はただ、渦中に放り込まれ、もみくちゃになりながら過ごしていただけ。
投げ出したい時もあったし、弱音も吐いた。抱え込んでしまった後悔や、消化しきれていない思いもあって。
本当に、あれで良かったのか……。
そんな、いつまで経っても正解の見えない答えを、今もずっと探している。
それなのに。
「大変なハルのこと、本当に大切に思っていたんだなって、しっかり伝わってきました。
ちゃんと向き合ってないと、できないことです。
だからこそ私もがんばらなきゃって……勇気がもらえた気がしたの」
やわらかな彼女の言葉が、ずっと昔にしこりとなったわだかまりを優しく溶かしていく。
この苦しいばかりの思い出を覚えていて良かったと……初めて思えた。
一、その先の…
正解は、何もわからない。
いつも手探りで最善を探していたのは確かなのに……。
自分の思いは、相手の望みとはうまくかみ合わなくて。
ずっと空回りばかりしているような気さえした。
一人で抱えて頑張れば頑張るほど、自分ばかり必死でいることが虚しくなって。
がんばりすぎだと言う政晴の言葉さえ、自分を否定するものに感じていって……。
「もし良かったら、また春海の話を聞いてくれる?」
話すことで気づいたことがあって、受け止めてもらえたことで見えたものがあって。
……止まっていた時が、動き出した気がした。
彼女に是非また会いたいと……申し訳ないような気持ちの中で問いかけてみると。
「え、いいんですか?もちろん、私が予約したいくらい!」
彼女はパァっと顔を輝かせてくれた。
「次は是非、子育て体験記を聞かせてください。私、出会う前のハルのこと、ちゃんと知りたいんです。
大変なのは聞いてるけど、どんな風だったのかなって……」
無意識なのか、おなかには、そっと手が添えられていた。
そんな風に、物事にしっかり向き合いたいと思う彼女のほうが、よっぽど強くてすごいと、私は思った。
どうしても忘れられない過去があって。
それをいつまでも消すことができずに苦しんできた。
あの春の、嵐のような日々も、忘れられずにいるわだかまりも。
例えば誰かに話して、今みたいにそれが相手の勇気に変わるのなら……覚えていたことにも、何かしらの意味があったのだろう。
「今日はありがとう」
話を聞いてくれた彼女に。そして、出会えたことに。
心からの感謝を伝える。
「じゃあまた連絡ちょうだい。私も、可愛い孫の成長が知りたいわ。
身体にはくれぐれも気をつけてね」
そうして……私たちは店を出て、木枯らしの中に足を踏み出した。
少し歩いて振り返ると……後方に、彼女を車に乗せる春海の姿が目に映った。
労るように、エスコートをする様に、胸の奥がふっとやわらぐ。
——優しい子になったのね……。
つい最近まで大変だった。そんな気しかしないのだけれど……いったい、いつ子どもは成長を遂げるのだろう。
……あの、大変だった息子が父親になる。
なんだかそれは不思議な気持ちで。
正解なんてわからなくても、あの過去が今に繋がるのなら……全て報われるような気がした。
——今日のこと、政晴に話したいわ。
そう思った時だ。
まるでタイミングを見計らったように、スマホの着信音が鳴り響いた。
……政晴だ。
吹く風は冷たいのに、心はとてもあたたかくて。
「もしもし、政晴?」
今なら……あの時とは違う言葉を、伝えられる気がした。