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いつか、その名を呼ぶ日まで…②

    ①はコチラ

    一、日舞の舞と共に

    『もしもの時に備えて、今日はワンピースで行くこと』

    朝、パパにそう言われた。

    とりあえず連れて行ってもらうためにワンピースを着たが……もしもとは、舞のことだったらしい。

    「そのまま舞えば良かったんだが……何やっとん」

    そんなことを言われても……説明不足のパパが悪い。

    そんなことを思いながら、あたしは部屋の隅で着替えをした。

    パパも別に止めもしなかったし、ワンピースの上から浴衣を着るだけだ。

    だからまぁいいかと堂々と着替えを始めたせいだろうか。

    「これはこれは……」

    「この年でもう自分で着れるとはなぁ。日本の文化はほんとにもう廃れる一方だというのに……すごい。国の宝だ」

    何故かあたしの着替えをあてに、酒や話が進む進む……。

    でも、ピシッときれいに着られないのがあたしだったりする。

    注目を浴びることより、粗探しをされたらまずいというのが本音だった。

    何とか装いを整え、広間の真ん中で構えて静止する。

    「……お願いします」

    あたしの声と共に、パパが曲を流しだすと……広間はいくらか静けさを取り戻したようだった。

    あたしはそれに合わせ、ひらりひらりと舞いを始める。

    春の発表会で披露した舞だから、完璧に覚えている。

    まだまだ下手っぴだけど、初めて舞台に立った感動は忘れられない。

    お化粧を施し、いつもと違う自分を大勢の人に見てもらえるのは、とても嬉しい経験だった。

    それに、下手なりに頑張って覚えた舞だ。

    日頃の成果を見てもらえるのは嬉しくもあったのだが……。

    ――見てる人、いないじゃん。

    ここは所詮、宴会場。

    残念なことに、舞台の時のように、大人たちが絶賛の目で見てくれることはない。

    はじめに拍手をくれたものの、それは随分おざなりだった。

    舞っていても、部屋の隅の方では余興を尻目に何やら険しい顔で話し合いを続けている人もいるし、酔っぱらったおじさんからヤジも飛ぶ。

    それでも曲が終わるまでは……と、集中してがんばっている最中のことだった。

    「すみません、遅れました」

    低い男性の声が、玄関の方から聞こえてきた。

    どうやら、まだ全員集まっていなかったらしい。

    その人を出迎えに行ったと思われる営理香さんの声が聞こえてくる。

    「まぁまぁ、やっちゃん!待ってたのよ。いらっしゃいいらっしゃい!」

    気になったのは……その後だ。

    何故かキャーっと台所から歓声が上がった。

    「これ、いただきものですが……。こちらのみなさんでどうぞ。今日はお疲れさまです」

    「まぁこんな高級品!いいのぉ?コレ私大好きなのよ!ありがと。遠慮なく、ありがたくいただくわね」

    あの営理香さんが、ずっと上ずった声を出している。

    その声に、お座敷も何だかざわつき出していた。

    険しい顔の人たちが、チッと舌打ちをしたのも聞こえた。

    舞いは、もうあとわずかで終わるところまできていたのに……気になることが多すぎだ。

    あたしの集中力は限界。

    何より、誰も見てない中での舞は虚しくて。心は、折れそうになっていた。

    「どうぞ。はいってはいって!」

    そんな中……戸口から現れたその人の姿に、あたしの動きは完全に止まった。

    完璧に不自然な姿勢のまま。

    でも、仕方がない。

    それほどまでの出来事が起きたのだ。

    営理香さんに誘われ、顔を出したのは……まさかのあの人だった。

    ――え!ヤスさん、なんで?

    その、急なご登場に頭はすっかりフリーズ状態。

    でも、幸か不幸か……そんなの誰も見てはいなかった。

    みんなして舞も拍手もないがしろにしたけど……あたし自身それどころじゃない。

    ……いや、若干一名。

    小さな拍手が耳に届いた。

    それは……ヤスさんのあとから、ひょっこり現れたのは、鈴村遭汰で。

    しらっとした目がこっちを見る。

    「あ〜っ!」

    遭汰にだけは見られたくなかった姿をさらしたことに……あたしは、思いっきり大絶叫したのだった。


    一、宴会

    鈴村遭汰は、保育園の時から一緒の幼馴染みだ。

    でも仲は良くない。

    思ったことを口に出して話さない根暗。

    何を考えているのか良くわからない挙動不審。

    何だかとにかく……昔から気に食わない奴だった。

    何より虫が好きだなんて、豪語道断だ。気持ちが悪い。

    ウジウジしてなよなよしていて、生理的に無理!

    あたしが虫嫌いになったのも、元を正せば遭汰のせいだ。

    そもそも……ポーカーフェイスが気に食わない。

    泣かしてやろうと思って意地悪を言っても、全く顔色も変えずにやり過ごすのだ。

    言い返しもしないし、あたしのことを完全無視!

    おかげで止めるに止められなくなって……いつも怒られるのは、あたし。

    こっちの気も知らず……空気を読まない、無神経で最低な奴!

    ……それが鈴村遭汰という人物だ。

    親戚と言うことは聞かされていたけれど、だからこそ極力関わるのを避けていた。

    ――だって、こんなのと同じって思われたらたまんないもん!

    そうでなくても……遭汰は水嶌とは別物なのだ。あたしたちとの間には、目に見える深い溝もある。

    ――だってだってみんながそう言ってたもん。

    遭汰は母親がどこかで作ってきた子どもだとか、だから遊んじゃダメだとか。

    一族の恥さらしとか、そのせいでおばあちゃんが死んだとか……。

    親族で集まった時は、毎回一度はそんな話が出る。

    それもこれも……遭汰が水嶌じゃないのが悪い。

    ――本当の話でも、誰にも言っちゃダメだって、ママも言ってたもん……。

    水嶌をやめてしまった明菜さんも遭汰も、悪者だ。

    ポロリとうっかり口から出そうになるから……悪口を言う時は一苦労だ。

    だからもう、学校ではほとんど近寄らないことにしている。

    その遭汰が、何故ヤスさんと一緒にいるのか……わけが分からなかった。

            ***

    「やっちゃん、遅かったじゃないか」

    「悪いな。先に始めさせてもらったよ」

    あちらこちらから親しげな声がかかっていた。

    「いえ。遅れてすみません。みなさんお元気そうで何よりです。そろそろ無くなってないかなと思って、ちょっと追加を……。それで遅くなってしまいました」

    そう言って、ヤスさんはさわやかな笑顔と共に、日本酒と缶ビールの入った袋を差し出していた。

    広間に歓声が上がる。

    「よっ。流石、我ら水嶌の若ぎみ!」

    「飲み物くらいでやめてくださいよ」

    「まぁいいから、こっち来て座んな!」

    「何を言う。若さまにはこっちの席がお似合いだぁ」

    和気あいあいとする広間に、あたしは完全取り残されていた。

    ただポカンと、その様子を眺めるほかない。

    「いえいえ、ご当主の隣は、勇さんの方がお似合いですよ。僕はまだまだ未成年なんで……遭汰とこっちに座ります」

    それは、目が点になるような光景。

    ぐだぐだだった宴会が、いよいよ主役登場!といったように沸き立っている。

    ――何これ?ヤスさんって、何者?

    不思議で仕方なかった。これはまるで、真打ち登場。ヤスさんが本当の若さまみたいだ。

    その様に見とれていると……後ろから声がかかった。

    「はい!舞が終わったんなら仕事仕事。その格好でいいから、コップとお皿運んでちょうだい!」

    営理香さんが、そこにいた。気持ち唇の色が濃くなっている気がする。

    「やすくんは飲み物どうする?ノンアルもあるのよ」

    「まだ僕はお茶でいいですって」

    「今日は学校?」

    営理香さんはヤスさんの近くに行ってしまった。

    いろいろ聞きたいと思ったけれど……ある意味好機だ。

    あたしはその場を離れ、台所に駆け込んだのだった。


    一、ヤスさん

    二人分のお皿とコップ、箸とおしぼりを乗せて台所から広間に向かうと……「乾杯~!」と、第二回目の宴会が始まっていた。

    お盆を持ち、これはヤスさんと話すチャンスだと思ったにもかかわらず……。

    ヤスさんは、酔っぱらった大人たちを相手に、お酌に回り、そのつど歓談のご様子。

    近くまで行きたくても、則丞おじさんがでんと座り込んでいるために、通路は塞がれている。

    お盆をどこに運んでいいのかもたもたするも……誰も、私なんか気にしてくれない。

    ――酔っ払いなんて、みんなキライだ!

    心の中で罵った……その時だ。

    「あ、二人分持ってきてくれたんだ?ありがとう。悪いけどとりあえずそこに置いておいて。後でもらうね」

    ヤスさんだけが私に気づいて、そう声をかけてくれた。

    初めて自分だけに向けられた声に……改めて嬉しさがこみ上げたその時だ。

    ヤスさんが声をかけたことで、後ろに誰かいると察した様子の則丞おじさんが振り返り……とろんとした目と目が合ってしまった。

    「ん~。誰だったか……。さっきは上手だったよぉ。ずいぶん頑張ったんだなぁ」

    ヤスさんに声をかけられた嬉しさもあり……あたしはとびきりの笑顔で答えた。

    「嬉しい。ありがとうございます!」

    「君は、本当に可愛いなぁ。可愛いゆりちゃんに、おじちゃんがごほうびをあげちゃおう。ほらおいで〜」

    則丞おじさんは、言うなり急にあたしの手首を掴んだ。

    触れられてギョッとしたのもつかの間。そのままぐいと引かれ……あたしは思いっきりよろける。

    「きゃっ」

    思わず叫びかけたものの……則丞おじさんは軽々抱きとめ、そのまま膝の上にあたしを座らせた。

    「ほら!可愛い子にはおじちゃんの抱っこだ。どうだ、嬉しいだろ〜?」

    ――わぁ……。

    こんな子ども扱いされたのは、久しぶりのことだった。

    もう大きくなったんだから!重い!と言って、パパもママもこんな風に優しくしてくれない。

    何だか……ようやく居場所をもらえた気がした。

    則丞さんがこの屋敷の主だからだろうか。主に認められ、あたしは奥方様になったような……そんな気分。

    「えーと、……ゆりちゃんだっけぇ?」

    でも。

    現実とともに、臭いお酒の吐息がかかる。

    これは逃げられない至近距離のため、あたしは顔をしかめながら答えた。

    「私、結衣です」

    「そぉかいそぉかい。ゆめちゃんは何か食べたかい?この家にはご馳走もお菓子もいっ~っぱいある。何でも食べてってくれよ!」

    則丞おじさんは上機嫌だった。

    ……でもだ。

    美味しそうに運ばれていったフライなどのご馳走は、もうパセリを残してほとんどない。

    ウィンナーにポテト、春巻き……あたしが好きなものは、無残につつかれ、まるで残飯のような惨状が広がっている。

    食べたいものが見つからなくて……あたしは困って首を振った。

    でもおじさんは、我関せずだ。

    「おじさんの大好物はねぇ、この甘い梅だ」

    「……甘い梅?」

    私はその言葉に食いついてしまった。

    机に出されているお菓子は、スルメや落花生。柿ピーやおせんべいといった、お酒のおつまみばかり。

    だから……甘いの一言に、あたしは思わず目を輝かせてしまった。

    それに、梅ジュースの底に入っている甘い梅は、ずっとあたしの大好物だった。

    いつも香夜姉と取り合うようにして食べていたのを思い出す。

    梅ジュースも甘い梅も……作ってくれていたおばあちゃんが亡くなってからは、ずっと口にしていない。

    すると……則丞おじさんが愉快そうに笑った。

    「やっぱり女の子だなぁ。女の子は何で甘いものが好きなのかねぇ。ほんと可愛いねぇ〜。じゃあコレ、おじさんからのご褒美」

    その、『ご褒美』という言葉に、もうそそられる響きがあった。

    それに、さっきからずっと、可愛い可愛いの連呼だ。

    こんな好待遇、生まれてこのかた一度もない。

    あたしは……ものすごく浮かれていたと思う。

    「おじさんが食べさせてあげるよ。はい、あ〜んして……」

    そう言われるがまま、にこにこ口を開ける。

    「ダメダメ。もっと大きな口開けなくちゃなぁ」

    あたしは何の抵抗もなく、ツバメのひなにでもなったように大きな口を開けて……そのご褒美を待った。

    変な間があったせいで、よだれが垂れる寸前で……。

    ようやく放り込んでもらえた大きな梅を、パクリとほうばる。

    ――うっまっ!

    ものすごく久しぶりの高揚感。

    美味しくて甘い、梅。梅干しとは全然違う梅の味。

    待ちわびた甘味が染み渡り、頭がくらりとした気がした。

    「ありあほう!」

    ありがとうが上手く言えなかったけれど。

    あたしは至福の気分に包まれながら、口の中でそれを転がし、かじりながら甘い汁を堪能する。

    そうしながら……あたしはヤスさんが今どこにいるのかを探した。

    まず目についたのは、遭汰だった。

    遭汰は部屋のずっと隅の方に座って……持ってきた図鑑の世界に浸っている。

    あまり見たくないけれど、きっと昆虫の類の本に違いない。

    ――相変わらずキモい奴……。

    だからなのか……誰の目にも映っていないようだ。

    ひっそりと座っている遭汰に……あたしは侮蔑の眼差しを向けた。

    一方のヤスさんは正反対。次々にみんなに声をかけられ、相変わらずお酌にまわって忙しそうにしている。

    「おまえも、いっぱいどうだ?」

    「ご冗談。僕はまだまだ未成年ですよ?寿さんが警察に捕まっちゃいますって。僕は構わないけど。……飲むのは」

    笑顔でかわしながら、笑いを誘いながら……この場にいる男の人たちのグラスに、新たなビールを満たしてまわる。

    なみなみと注いで回るのに……不思議なことに、どのグラスも泡が溢れかえりそうになる手前でピタリと止まる。

    まるで、ビールの泡までヤスさんが操っているみたいだった。

    慣れた手つきをしているのは、こういう場にもう何度も居合わせているからだろう。

    ――ヤスさんってば、大人だ……。

    何て素敵だろうと思った。対する遭汰はいったいなんだ。

    「グラスをわかつ日が、楽しみですよ。あ、間違えた。酔ってないのにすみません。……お酒?飲みたくなる日って来るのかなぁ……」

    よくわからないけど……その低い声は、何というか心地良くて。

    あたしはうっとりしてしまった。

    ……でも。すぐに何だか嫌な言葉が聞こえてきた。

    「そんなことより泰彦くん、彼女はいるのか?」

    「おい!こんな男前、女が放っておくわけあるまい!見てみろわしの若い頃にそっくりだろ?より取り見取りの選び放題。きっとひくてあまただ」

    「おまえ、そりゃ無理があるやろっ!」

    「この際ズバリ言う!ヤスくんも早く結婚して身を固めなさい。お父さんも天国で、そう待ち望んでるはずだ」

    「そうやそうや」

    「きみは何て言ったって水嶌本家の正統な血筋。一族のためにも、いい嫁を見つけてくれよ!」

    ……でも。どんな言葉も、ヤスさんは笑って流す。

    「あはは。本当にもうみなさん酔っぱらいばかり。それはどうも、苦手だなぁ」

    それは、あたしの知らないヤスさんだった。

    ヤスさんは……ずっと笑っていた。

    その笑顔の中にある目は、全く笑っていない。

    ――何でだろう。あのときと同じ……。

    あたしは、ふいに気付いてしまった。

    あの、天に向けて静かに座していた姿を思い出す。

    あの時と同じ目をしていると……そんな確信が持てた。

    ――ヤスさん、何か苦しそう……。

    笑いながら、何かに耐えている。

    ただ必死で飲み込み、ひたすら堪えている……そんな孤独な戦いを感じた。

    ――ああそっか。だから、あたしがここにいるよって、言いたかったんだ……。

    あの時、『側にいてあげたい』と、そう思った理由を……今になって、やっとわかったような気がした。

    ……その時だ。

    すぐそこで、風を感じた。

    気づいたら、ヤスさんは私の目の前にいて。目の前にいるばかりか、あたしのことをじっと見ている。

    一気に顔が赤く染まるのを感じた。

    ――ヤダ、なにコレ。

    でも。

    ヤスさんの声が間近で響く。

    「あれ?そういえば則さんのお嬢さんって、こんなに小さかった?」

    ヤスさんは、ようやく一回りしたのか……則丞おじさんの所に、もう一度お酌に来たのだ。

    「ちがうちがう。これは勇のとこの子だ」

    「え?香夜ちゃん……じゃないよね?」

    ――ヤスさんが香夜姉のことを知ってる……。

    それは、衝撃的でしかない。

    これは悔しすぎる。じゃあ、あたしのことも知ってもらわなくちゃ、立場がない!

    だが、すぐさま向こうの方からパパの声がした。

    「香夜は今日は留守番なんだ。そいつは……」

    あたしはとっさに自己紹介しなくちゃと思った。

    「あたしはぁ、結衣れす!」

    本日一番の上等な挨拶しようとして……はっきり言えない自分に戸惑った。

    慌てて立ったけど、ふらついてドスンとしりもちをつく。

    そういえば……何だか頭がぼんやりする。

    顔はずっと熱いままだ。

    ……何というか、最悪だ。

    ヤスさんの眉間に、シワがよったのが見えた。

    ――あぁ!ちゃんと言えなかった。あたし怒られちゃう……。

    自分が一番ショックだ。

    挨拶はいつだって一番勝負なのに……。

    そう思って、涙目になった時だ。

    「結衣ちゃん、おじさんたちは椅子ではありません。はい立って!そろそろ片付けもあるし、お台所のお手伝いに行きましょう」

    そう言って、ヤスさんがあたしに手を差し伸べたのだ。

    まるで王子様に求婚されるお姫様になったような気がした。

    でも……天にも昇る気持ちになったあたしを地獄に突き落とす声があった。

    「え~。もう少しいいじゃないかぁ」

    そして、おじさんが後ろからぎゅっとあたしのことを抱きよせたのだ。

    あたしの腕にざわりと鳥肌が立った。

    悪ふざけにもほどがある。でも……どうしたことか、声が出せなかった。

    あたしの体は硬直していて、やめてと暴れたいのに力も出なくて……。

    ――ヤダ。なんか怖い!

    足が震えて……立ち上がれない。

    「則さん、子どもじゃないんだから」

    戸惑うあたしの両手をつかみ、ヤスさんが無理やりおじさんから引きはがしにかかる。

    「ほら、結衣ちゃんも!酔っぱらいの相手はしなくていいから、こっちにおいで」

    でも半分は地獄だ。則丞おじさんが離してくれない。

    「もう、則さん飲みすぎですって。営理香さんが心配しますよ」

    そう言って強く手を握り、ぐいっと引いて抱きとめてもらえて……。

    どさくさに紛れてヤスさんに抱きつきながら……今までで一番近い距離で、その低い声を聴く。

    気のせいか、チッという舌打ちも聞いた気がしたけれど。

    包み込まれた安心感に、込み上げてくるものがあって……泣きそうになった。

    目の前がぐるぐる回る。

    腕の中が温かくて、顔が熱くて……。

    ――嬉しくて幸せでふわふわが止まらない……。

    そう思った。

    何だかとても気分が良かった。

    世界が勝手にぐるぐる回って、ヤスさんに繋がれた手が、まるで羽の生えた翼に変わってしまう気がした。


    一、夢見心地

    ――ねぇヤスさん、なんでそんな風に……優しくなれるの?

    温もりの中でぼんやりしながら……さっき聞いた話を思い出していた。

    お盆を運んでくる前の……台所での出来事だ。

            ***

    「ねぇ、今来たの誰っ?」

    あたしは、駆け込むなりそう訊ねた。

    「結衣、走らない!それに、『誰』じゃなくて『どなた』でしょ?」

    すぐさまママの声がそれにかぶさったのだが。

    「まぁまぁ、美保子ちゃん、いいっていいって、そんくらい大目に見なきゃ」

    ママも、台所の雰囲気も……何だか、先ほどとは少し違った雰囲気をしていた。

    何というか……みんなどこかふわふわしている。

    「結衣ちゃん。聞きたいのはもしかして『やすくん』のことじゃない?」

    「いい男でしょう?今来たのはねぇ……康彦くんって言うんよ」

    みんなどこか、夢見心地だ。

    「もうハンサムでしょ?イケメンでしょ?素敵でしょう〜?ため息しかでないわよねぇ」

    「もはや私たちの癒し。健全で素直な男子って……ほんっと貴重。今日来て正解。あの顔拝めて、本当によかったわ……」

    「ほんと、疲れも吹っ飛ぶわね」

    営理香さん不在のためなのか……奥様方は、まるで女子高生のように、口々にさえずりはしゃいでいる。

    ……どうやら、その和やかな雰囲気になったのは、ヤスさんが台所に来たためらしい。

    「えっと……康彦さん?水嶌の人なの?」

    あたしは、初めて知ったあの人の名前を反芻しつつ、問いかけた。

    「何?知らんの?ってことは……まさか結衣ちゃん、初対面やったん?」

    「うっわぁ……もったいない。じゃあ、今日はしっかりあの顔拝んでおきんよ!そんで、すぐに忘れなさい。あんないい人、よそにはおらんで」

    先ほどお座敷で聞いたのと似たような会話が、こっちでも聞こえてくるから……何か不思議だった。

    「それにしても……もうほんとに羨ましい!どうやったらあんな風に育つのかしら。うちの子なんて、顔合わせても『金、飯』しか言わないわよ」

    「それは家も!進学して出てったっきり帰ってきやしない。たまに連絡すると、良かった金を振り込んでくれって……」

    「それ、オレオレ詐欺じゃないん?」

    「違う違う。詐欺のほうがよっぽどまし。この前かかってきたけど、そっちは対応に困らんかったもん」

    料理や営理香さんから解放されたからか……すっかり一段落の空気が漂っている。

    皆さまの、ほとんどが愚痴大会だ。

    「それにしても。康彦くんってば……なぜこんなとこにいて、あんなに爽やかなまま大きくなれたのかしら。不思議を通り越して、もはや神」

    「確かに」

    「ご両親が早くに亡くなって、あんな生活してるっていうのにねぇ……」

    「そういえばあの噂ってほんとなん?亡くなったのって、明菜ちゃんが出戻ったからってやつ。それにしてもひっどい話やわ。シングルだからって、弟に子どもの世話を任せてさぁ。今日も連れてきたんやろ?……康彦くん、ほんとよく出来た子よ」

    「それを言ったら……この家、本当は康彦くんの実家なんでしょ?営理香さん、あんな自慢顔やけど」

    「しっ。それは今は言っちゃダメだってば」

    「心境を考えると泣けちゃいそう。なのに、あの爽やかスマイル……」

    「せめて、もっと早く会いたかったわ」

    その聞こえてくる内容に……あたしはどうして良いのかわからなくて。

    とりあえず、ゆっくりお盆に諸々の準備をしながら……ずっと聞き耳を立てていた。

    ――ヤスさんにはお父さんもお母さんもいない?ここはヤスさんのお家……。なのに、この家を出て、遭汰たちと一緒に暮らしている……。

    衝撃の中、繰り返してみればみるほど……胸の痛みが増していく。

    切なくて、悔しくて……何故かわからないけれど泣きたくなった。

    それは……両親に甘え、わがまま放題言って暮らしているあたしにとって、ものすごく遠い世界の出来事のように聞こえた。

            ***

    「それにしても、康彦くんを見れて良かった良かった!時給も何も出ない集まりだけどさ、最後の最後に声までかけてくれて。もう、苦労も報われるってもんよ」

    「ダメよ。まだ最後じゃない。あともう何回か話さなくちゃ、もったいないわ」

    「それにしても、優しいし、若いのにほんと気が利くわね。差し入れだって!見て見て、ワインに焼き菓子♪やだこれ……カフェ・エレンのやつじゃない?」

    「どうする?まだまだ片付けまで時間はあるし……営理香さんから許可とれるかしら?」

    そんな話を聞きながら……あたしはお盆を手にお座敷へ戻って来たのだった。


    一、オンステージ

    トクントクンと……穏やかな鼓動が聞こえる。

    あたしのものか、ヤスさんのものなのか。

    ――もう、これって運命だよね?

    ふわふわする頭でそう思った。

    だって……あたしが見つけたあの人はヤスさんで。

    ただ目で追って、いつか呼びかけて、声を聞いてみたいと……ずっと思っていたのに。

    会えなくなって、諦めそうだったのに……。

    なのに、ヤスさんに今あたしは抱きしめられている。

    こんなにも……ものすごく、近いところにいたのだ。

    「結衣ちゃん?浴衣が汚れたら営理香さんが困ってしまうよ。あっちで着替えておいで」

    どこかから、あたしに向かって話しかけてくれる、低い声がする。

    軽やかな笑い声もくぐもって聞こえて、あたしの胸をさらに熱くさせる。

    ……でも。

    あたしはなぜか、急にものすごく淋しくなった。

    よく分からないけれど、ヤスさんの笑顔は作り物だから。

    絶対に無理して笑っている。

    それだけはわかったから……。

    だから。

    ――……あたしが何かしなくちゃ!

    急に、そう思いついたのだ。

    ――ヤスさんが心から笑えるように、何かしてあげたい。

    ヤスさんが喜んでくれるような、何か。

    でも……一生懸命、考えれば考えるほど、頭がうまく回らない。

    心臓がドクンドクンとうるさいし、顔がものすごく熱くて……。

    「……あれ?結衣ちゃん?赤いけどどうした?間違えてお酒でも飲んだ?」

    何か閃いたその時、ヤスさんの声が聞こえた気がした。

    近くにいたはずなのに、どこか遠くで。

            ***

    たとえば……あたしに元気や夢をくれるのはアイドルだ。

    それはあたしの憧れで。

    そういえば、さっきテレビで見た。

    ――そうだっ!

    ものまねは、得意なのだ。

    帯に差し込んでいた扇子を抜き取り、マイクのように持ち替えて。

    「は〜い、あたしは水嶌結衣よぉ!あなたのために、もう一回、舞っちゃうよ~!」

    そんな声を張り上げた……気がしなくもない。

    というか。そこから先は覚えていない。


    一、初恋のその先の

    「もう……。あなたは二度と、絶対に、若宮さんには連れて行きませんから」

    ママはふるふると怒りにうち震えながら…標準語であたしににそう告げた。

    ママの癖……ということは、ママは超絶級にお怒りだ。

    そんな、今までにない最大級のお小言を、あたしは割れそうな頭痛の中で聞いていた。

    何でこんなにも痛いのか……全くわからない。

    ――もしかしてこれ、若宮さんの呪い?

    同じ状態でうめいているパパが見える。

    「頭、痛いよう……あたし呪われちゃったぁ。もうやだ。死んじゃう。あたし絶対に不治の病だ……」

    泣きながら訴えても……ママの対応はひどい。

    『馬鹿につける薬はない』と言って、病院に連れて行ってもくれない。

    後で知ったのだが……美味しい美味しいとかじったあの甘い梅。

    どうやら梅酒に浸かっていた梅らしい。

    それを、調子にのって……あたしは二個は食べていた。

    二日酔いという名詞を覚える前に、それがどういう状態で、どんな苦痛をもたらすのか……先に体が覚えた。

    そんな、小学三年の初体験。

    「本当に結衣ってば何考えてるの?あんなところで梅酒の梅を食べるなんて。ほんとバッカじゃない?」

    日頃穏やかな香夜姉にも、あきれ口調でそう言い捨てられるしまつ。

    でも、あたしは本当に頭が痛くて、信じられないほど痛くて。

    割れるみたいで死にそうで。

    ――もういいもん……。あたしはきっと、この家の子じゃないんだ。橋の下で拾われた子なんだ。

    そう、いじけるしかない。

    とにかく、みんなの態度は冷凍庫の中みたいに冷たかった。入ったことはないけれど。

    でも、言いたいことはただ一つだけ。

    「頭がいたいよぅ……」

    呻くと、みんなに同時に叫ばれた。

    「自業自得!」

    その重なった大声が、ひときわ強い痛みを与える。

    痛みに貫かれ、本当に死ねる気がした……。

            ***

    宴会場で何が起きたか……。

    ママには「とても恥ずかしくて言えないわ!」と泣かれてしまった。

    はじめは口を閉ざしていたパパだったが……ある日、お酒が入ると雄弁に語って聞かせてくれた。

    あたしはあの後、『舞っちゃうよ〜』と言って……ひたすらに歌を歌ってみせたのだそう。

    どこかで見たような……何かのフリをつけながら。

    そう言われてみれば……キラキラ輝くアイドルになったような気がした気もする。

    客席が盛り上がっていて……。

    ものすごく体が熱くて、浴衣がやけに邪魔だった……ような?

    「とにかく……ありゃあひどかった。結衣はどっちに似たんか、どうしようもない音痴やな。なのにひたすらオンステージ。まさか、あんなことするとはのぅ……」

    パパは、最後にそんな意味深なコメントした。

    ――最低だ。

    あたしは真っ赤になって怒り狂い、パパに盛大な八つ当たりをした。

    「パパのバカぁ!でたらめばっかり言わないで!あたしそんなことしないもん!人でなし!大っ嫌いっ!もう二度とその話をしないでね!」

    「私も聞きたくありません!」

    「ほんとやめて。想像したくない」

    そして……その話は、二度と我が家で話されることはなかった。

    だが。

    頭の痛みが消えるとともに、だんだん記憶は鮮明になっていく。

    ある日、燃えるように熱かった、あの宴会場のことが……ふと思い出された。

    なんだかものすごく気分が良くて、浴衣が煩わしくなって……へこ帯をといた気がする。

    しゅるりという音や感覚が心地よくて。

    まるで拘束をとかれたように、自由になれた気がして……。

    丸めて投げ飛ばしたら、何だか楽しくて、笑えてきて。

    もっと解放されてみたくなって……。

    面白可笑しく踊りながら、浴衣を脱いだ。

    そんな記憶が……あるような、ないような。

    そういえば、何やら振り回したような気もするのだが……?

    いや、きっと気のせいだろう。

    ――うん!きっとあれは夢だ!

    そうじゃなきゃ……やっていられない。

    だがもし万が一、そんな醜態をさらしていたのだとしたら……。

    見た遭汰は、ただじゃおかない。

    ヤスさんがそれを見たかもしれない事案にはすっかり知らぬふりをして……あたしはそれを、記憶から抹消することにしたのだった。

    それよりも、もっと重大な事案がある。

    ――遭汰め!なんて羨ましいヤツなの!

    ただでさえ、あの存在にはいろいろ思うことがあるというのに。

    ――ヤスさんと毎日一緒にいられるなんて!ムカつくわ!

    遊びに行ってみたい気もするけど……なんか負けた気がするから、それだけ絶対にしたくない。

    遭汰は敵だ。それ以上も以下もない。

    もう……ジェラシーしか感じなかった。


    一、 康彦

    「ねぇおじさん、早く帰ってよかったの?」

    若宮さんの帰り道。遭汰がそう言うのを聞きながら、家路に向かっていた。

    心配そうな顔の遭汰を横目に、どうしてもニヤケ顔が収まらない。

    つい……結衣の余興を思い出していた。

    結衣には申し訳ないが、あれはありがたいハプニングだった。

    お陰で、すんなり目的が果たせたし、あの場を早く抜け出すこともできた。

    差し入れを入れてきたエコバッグから……戦利品の書類がカサリと音を立てる。

    してやったりという思いから、ついまた顔が緩んでしまう。

    ――それにしても。あんな風習、いったいいつまで続けるんだろうな……。

    身近にあるものは、常に煩わしくて仕方がない。

    代々続く家柄という事もあって、まるで呪いのように水嶌という姓が自分を縛る。

    田舎にまつわる伝統行事や、本家や分家のしきたり。壁のような関係性。

    水面下では、渦巻き這いずりまわる野望……もう、ため息しかない。

    今日の若宮さんだってそうだ。

    昔むかし、非業の死を遂げられた水嶌の若さま。さぞ無念はあったのだろう。

    その死を悼み、年に一度親族一同でその魂を弔う。

    『あなたの死は無駄ではなかった』

    『一族は今も仲良く集い、親睦を深めています』

    そう見せるためのお祀りと聞いたことがある。それはもう、戦国の頃からずっと続いているのだと……。

    でもこの日のために集まり、笑顔で卓を囲み、酒を振る舞い飲んで語って……聞こえは良いが、祀りとは名ばかりのただの宴会行事じゃないかと思う。

    もちろん宴の終いには、ちゃんとお寺のお坊様が来訪し、皆でお経を唱えて終わりになるのだが……。

    ――いつまで、それを続けるんだ……。

    そう考えてしまう自分は、もう異端者なのだろう。

    つくづく……生まれた場所を間違えたと思わされる。

    やめたら祟られるかもしれないとか、一族がどうなるとか……そういう話ではなく。

    自分は、一刻も早く全てから無関係になりたい。

    もうずっと、それらを断ちたいと……願ってやまない。

    今は学業優先という言い訳もあるし、ぎりぎり未成年ということで許されているものは多い。

    今日も、お坊様の来訪を待たずして、みんなに飲ますだけ飲ませてほぼとんぼ返りだ。

    面倒な行事や、会社のいろいろは、叔父である則丞おじさんが代理という形で取り行なっているが……。

    もう、目の前に『成人』というタイムリミットが迫っている。

    死刑執行の日をカウントダウンするような気分だ。

    生まれてからずっと、周りには立ちふさぐ壁しかなかった。

    いや、それにぐるりと取り囲まれ、身動きできず……息をすることすら苦しくて。

    でももう、自分を縛っていた父も母もいない。

    今日のおかげで……成就まで、あと、もう少し。

            ***

    年の離れた自由な姉は……水嶌についてどう思っていたのだろう。

    いったい何があったのか……数年前、不意に姿をくらませた。

    父の葬儀の日に戻ってきたと思ったら、苗字は変わり、遭汰を連れていて。

    一族一同にとてつもない動揺を与えた。

    なのに何も明かさぬまま、今も実家で暮らしている。

    いろんな噂がたっていても、真相は自分も何も知らない。

    姉がどういうつもりなのか……話してくれる人ではないから、わからない。

    自分を含め、周りの大人だけが、あの日の動揺したまま置いてけぼりだ。

    ……姉親子とどう関わっていいものか、今も、やきもきしているのだろう。

    でも。

    姉はそれでいいかもしれないが……遭汰は違う。

    今日だってそうだ。

    遭汰はいないも同然の扱い。姉のことも含め、話題にすらあがらない。

    今日は結衣が二人分の準備をしてくれて、ありがたいような気持ちになった。

    それらが、少なからず自分や遭汰を傷つけ、苦しめているというのに。

    心のうちは見せずに、決して触れない。

    輪の中にいられなくしているだと、気付かない。

    ――ま。笑って、場に合わせた適当なことを言って飲ませていれば、すぐに酔いつぶれてくれるから助かるんだけど……。

    『酔っ払いにまともな話をしても仕方がない』

    『何言っても覚えてないから、それとなく本音も吐き出しちまえ』

    そんな術を伝授してくれた友に、こういう時だけは感謝しても良いかなと思う。

    そして、酒好きなくせしてお酒に強くない血筋に、毎回救われている気がする。

    「遭汰、今日も着いてきてくれて、ありがとうな」

    あまりグレーな様子は見せたくないが……一人で留守番をさせるわけにもいかず、巻き込んでしまった小さな甥っ子にそう言うと、キョトンとした顔が返ってきた。

    「え?何で?」

    「おまえ、本当に可愛いな……」

    曇りなき眼とはこういうものを呼ぶのか……という、つぶらな瞳が似合う顔立ちに思わずつぶやきが漏れる。

    ……自覚がある程、この甥っ子の存在を溺愛している。

    「いやごめん。今日の若宮さん、つまんなくなかったか?」

    遭汰は、さらさらの黒髪を風に言い様になびかせながら、ふふっと天使のようにほほ笑んだ。

    「いつも思うんだけど……酔っぱらいって面白いよね。全然人が変わっちゃうもん。本当の自分を見せるお酒って……怖いね」

    まるで天使のようなあどけない顔をした甥っ子は、ドキリとするような感想を述べた。

    ……確かにお酒は怖い。

    毎回、人の本性をまざまざと見た気になる。

    良くも悪くもいい例が……普段は控えめで真面目な、公務員をしている則丞おじさんだろう。

    まだ小さな少女を膝に抱いて、お腹に手を回し……まさかの悪癖振りを堂々と披露していた。

    酔っ払っていたとはいえ……いったい何を考えているのか。

    小学生に梅酒の梅を食べさせた則丞おじさんは最悪だ。

    酒そのものではないが、酔わせたのだから、ほぼ同じ。

    普通に処罰されてしまえ、と思う。

    結衣を連れてきた、勇兄も勇兄だと思う。

    香夜が来なくなったのも、そのせいなのに……。

    それでも、勇兄は酒の席となると、皆のご機嫌伺いに忙しい。

    ――いろいろ、上手く行かないな。

    そんなことしなくても、欲しくもないこんな立場など、のしでも添えていくらでもくれてやると……早く言ってやりたい。

    いや。もう時期、か。

            ***

    「結衣、大丈夫かな……」

    ポツリと遭汰が呟いた。

    優しい子だなと思うと、笑みが漏れる。

    「ほんとお酒って怖いな。でも……いい薬にはなったんじゃないか?」

    結衣も、間違いなく血筋の子ということだ。

    なかなか面白いものを見せてもらったが……少しはこりたらいいと思う。

    結衣も含めた、一族みんな。

    酒は……まさに、百薬の長だ。

    「今日のこと、結衣ちゃんには話さない方が親切だと思うよ」

    「それは大丈夫。結衣、いつも学校でもあんな感じだし。それに学校で話すことは全然ないから」

    「……そうなのか?」

    どちらの内容に対してなのか、またわからない呟きが漏れた。

    結衣は遭汰の同級生。

    こっそり見に行った授業参観や運動会でその姿は目にしているが……次女たる所以なのか、奔放でどこか危なっかしい。

    しっかり者の香夜と違い、何というか、自由すぎて……。

    ――確かに。大人しくて優しい遭汰とは合わないのかもしれない……。

    そう思った時だ。

    「ねぇ……おじさんって詐欺師なの?お店は、未成年にお酒を売ってくれないよね?あのお土産って、どうしたの?」

    涼やかな顔で問われ、思わず顔をしかめてしまう。

    誰に似たのか、遭汰は正義感が強い。

    だからこそなのか……この目に見る目られると、ちゃんとせずにはいられない。

    「おまえ、何気に鋭いな」

    「前、友達が先生とそんな話をしてたんだよ」

    「なるほど。でもだ遭汰。俺、買ってきたなんて言ったか?ちゃんといただきものとか、用意して遅くなったって言い方をしてただろ?大丈夫。買って来てないし、嘘も言ってないよ」

    その言い回しこそが詐欺の手口の一つなのだろうが……世の中、必要な嘘というのはある。

    遭汰はさらに不思議そうに言った。

    「じゃあ、誰にもらったの?」

    「ほんと嫌なところをつくな。……美保子さんだよ」

    「結衣のお母さん?なんか、変わった人だね」

    「営理香さんの大好物なんだって。いろいろ……あの人も大変そうだ」

    台所にいたご婦人たちを思う。

    親戚関係の濃い、こんな煩わしいところに嫁に来て……本当によくやっているなと思ってしまう。

    「じゃあ……他のお酒は?」

    「……そこも聞くか。他は、全部姉さんから」

    「え、母さん?」

    遭汰はよほど驚いたのか、珍しく頓狂な声を出した。

    「そ。姉さんこそ変わってるよ。本当は、若宮さんに行きたくて仕方ないらしい……」

    「なんかさ。水嶌って、みんな変わり者だね」

    結構深刻に言ったのに、遭汰は軽く笑って流した。

    いや……自分だって水嶌だ。それをどう解釈して良いのか。

    だが、言い得て妙。

    そろいもそろって飲めないのに、みんなあんな感じだから……宴会は、いつもぐだぐだに終わっていく。

    いまごろお坊様も呆れていることだろう。

    だからこそ、若宮さんに何の意味があるのかと……と、つい現実を見てしまうのだ。

    ――ただの醜態さらし……。

    ご先祖さまは、毎度、頭を抱えている気がしてならない。

    その輪が嫌な自分も、間違いなく変わり者。

    でも、それで良い。

    今日は十分やりきったと……封筒に思いを馳せ、またにんまりと笑ったのだった。

            ***

    「それ、持とうか?」

    「いや、大切なものだから持っていたいんだ」

    そう言って……「よいしょ」とずり落ちてきた背の荷物の場を上げる。

    そこには、酔っ払い姫がおぶられていた。

    突然『舞っちゃうよ〜』宣言をしてからの結衣のステージは……実に見物だった。

    再び日舞を披露するのかと思いきや……何やら訳のわからぬ歌を歌い始めたのだ。

    扇子をマイク代わりに、奇怪な踊りをして。

    どれか一つが上手ければ良かったのかもしれないが……明らかに外した音程と不自然なリズム。とても見られたものではない踊りに……ある意味、みんな大盛り上がり。

    それでさらに気をよくしたのか、突然はじまる浴衣のストリップショー……。

    痛ましくなるほど……そこには何一つ、魅力的な要素が見当たらなくて。

    ――あれには参ったな……。

    おもむろに、結衣がへこ帯をほどいた時はぎょっとした。

    でもそれを放り投げ、則丞さんに命中させるや突如笑い出し……。

    何を思いついたのか、腰ひもで目を隠しつつ、ついには浴衣をがばりと脱ぎ出す様に……あの営理香さんが真っ青になって倒れ、泡を吹く。

    でも。下から現れたのはワンピース。

    酔っ払いたちは畳を叩いて大笑いだし、のたうち回る者もいて……ただただ、もうカオス。

    そんな中、結衣は腰ひもで髪を結び、高らかに手を挙げて……。

    『水嶌結衣、参上!』

    という名乗りからの……アイドルグループの物真似が始まった。

    様子を見に来た美保子さんが叫んで止めるまで……独壇場のステージは続いた。

    ピンクの浴衣は振り回されて。

    縄みたいになっていた。

            ***

    「結衣ちゃんに気の毒だから、あのことは早く忘れてあげないとな」

    笑みを浮かべてしまいながらそう言うと、遭汰はまたふわりと微笑む。

    「でも、あれって延々ネタになるんでじゃない?……ほんと、飲まれると怖いね。僕は、一生お酒は飲みたくないな」

    淡々と言う甥っ子に、何とも言えない面持ちになったのは言うまでもない。

    でも。

    何だかんだ言っても水嶌だ。

    しつけや作法について、結衣だって普段からいろいろ言われているだろう。

    ただでさえ優等生で美人な姉を持ち、母親があの美保子さん。

    きっといろいろ苦労も絶えないだろうに……何であんな風に育っているのか。

    疑問に思うほど……結衣はどこにいても自由すぎる。

    人目を気にせず、わがままの限りを全力で発散させるなんて……自分には出来ないことだったし、真似なんてできない。

    おかげで、目に焼き付いて離れない。

            ***

    ……もちろん。

    結衣の話は、立派な伝説になった。

    若宮まつりの度にネタにされ続けたらしいが……当の本人は、酔っ払っていた間の記憶がなく、若宮さまを出禁となったため。

    良くも悪くも、ずっと知らないままだったらしい。


    一、 エピローグ

    今日は若宮さんの日。

    もう中学生になったのに……あたしは今も、参加させてもらえない。

    ――ヤスさん、今どこで、何してる?

    久しぶりに、あの頃の夢を見た。

    夏だというのに……すきま風が、心を冷やす。

    「剣道、しないの?……強いのに」

    夢の中で……あたしは、広い背中にそう問いかけていた。

    ろれつの回らない声で、必死に。

    「もうしない。きっと、やりたいことじゃなかったんだ」

    「じゃあ、何がしたいの?」

    「何だろう……何が俺のやりたいことかわからなかったけど……きみのおかげで見つけられそうだ。

    今日はありがとう。きみも、やりたいもののために頑張れな」

    吹っ切れたようにそう話してくれる声は、竹林に吹く風のようにさわやかで。

    あたしもヤスさんみたいに頑張りたいと、勇気がもらえた気がした。

    そして、あたしに応えてくれたその声を、ずっとずっと覚えていたいと思った。

            ***

    ヤスさんはあの後、ふいに姿を消してしまった。

    みんなすごい顔で、毎日のようにいろんなところから連絡が来たりやり取りして、ヤスさんの行方を探しているみたいだった。

    居なくなってしまったことは淋しかったけれど……あの日、ヤスさんはあたしのおかげだと言っていた気がする。

    そう思いたい。

    『きみも、やりたいことのために頑張れ……』

    そう言ってくれたヤスさんの軽やかな声を忘れたくないから。

    「え、覚えてないの?それきっと本当よ。康彦さん、あなたをおぶって連れてきたもの。ほんとにもう……手間ばかりかけて、あんたって最低」

    ……後日、香夜姉がそう教えてくれた。

    お座敷の男の人たちはみんなべろべろで、料理隊の女性陣も台所でつまみながらワインを開けて酔いつぶれていたらしい。

    「だから、先に連れてきたよって……」

    「全っ然、覚えてない!っていうかそうなの?夢じゃないの?そんなもったいないことしたの、あたし……ほんと最低」

    「だからそう言ってるじゃない」

    もう……あの時は凹むしかなかったけど。 

    夢は、たまにこうやって現れて、あたしに勇気を与えてくれる。

    すきま風も、もうすっかり慣れてしまって……この時期には最高の、心地良い風だ。

            ***

    結局私は、四年生になると同時に、日舞をやめた。

    罪悪感も未練も何もなかった。

    「やめてくれて感謝なのかしら。送迎も大変やったし、やっぱり剣道がいいって言われたらどうしよかと思ったわ……」

    そんな風にママに言われてしまったけど……それは仕方がない。

    日舞を始めたのも辞めたのも、あの人ありき。

    はじめっからずっと、あたしの頭は真っ直ぐに、剣道のあの人にだけ向かっていたのだ。それこそ、スラリと伸びる若竹のように。

    「ヤスさんあたしね、やりたいもの見つけたんだ。だから頑張る!待っててね!」

    そっと目の前に手をかざす。

    あたしの手には、見えないけれど羽が生えている。あの日、ヤスさんがくれた希望の羽。

    この羽を大切に育て、ヤスさんの元へ行こうと……あの日からずっと、そう思っている。

    だって、あたしはまだ、あなたに何も伝えていない。

    だから必ず、翼に変えて、あなたのために羽ばたいてみせる。

    あたしのやりたいことを、伝えたい。

    「ヤスさん……」

    まずは、そう呼びかけるところから。


     
     
    長い間…自分のために書いていた物語たちを、形に残そうと思い立ちnoteをはじめました。 自己紹介をご覧ください。 今は、創作エッセイや企画のお話しに参加させていただき、書くことを楽しんでいます。 不思議な余白が好き。 (長編は、児童文学寄りかも?) よろしくお願いします🌳。

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