
ある夫婦の、味噌汁越しのすれ違い
初夏、休日の朝8時頃。
2歳の子のオムツは、まだ替えられていない。男はそれに気づいているのか、いないのか。女は口角を無理矢理伸ばし、我が子と向き合っていた。
男は、女が気に入って購入した安いガラステーブルにスマホを立てながら、「今日は何時に起きたっけ」と呟きつつ、朝からの行動や心情をメモ書きしていた。
女にとっては、今やるべきことではないとますます不満が募り、
男にとっては、今やらないと気が済まないものから手が離せなかった。
台所には、2日前に作った味噌汁が1杯分ほど、鍋の中で鎮座している。
女はそれを捨てるつもりだった。
この暑い中、2日続けて放置した味噌汁は流石に危ういだろう。
頭のどこかで捨てようとは考えていたものの、元々の先送りしがちな性質がそれを邪魔していた。
女が風呂場で、子と共に洗濯物を干していると、台所から男の声がした。
「なんか…変な味。これ、大丈夫?」
まさか、と。女は瞬間的にあの味噌汁を飲んだと察する。
女が捨て忘れたことなど、この男が気付くはずもない。
洗濯物を後にし、足の裏を若干拭きそびれたまま台所に戻ると、
木製のお椀を持ち、男は眉間に皺を寄せていた。
女は返事をするより先に男へ近づき、「ちょっと貸して」とお椀を奪った。
匂いを嗅ぐ。
…あまり異常はないように思える。
けれども2日放置した味噌汁だ。そもそも「変な味」と評価を受けたものを食べさせたくはない。
女は「これは捨てた方がいいね」と告げるや否や、お皿が残っている流し場へ味噌汁を流し込んだ。
すると男は「ああ!勿体無いじゃん!」と動揺し、少しの間呆然とした後、とぼとぼとガラステーブルに着いた。
あの饒舌に話す男が無言となった。
女は聞く。
「どうしたの?」
男は無言のままだ。
その姿に女はまた苛立った。こっちはまだまだやることがあるのだ。
座っていないで何かしてくれないかしら。
「……捨てなくても良かったじゃん」
「いや、味が変だったんでしょ?」
「いや……味噌汁沸かしたのに。」
「は?変な味なら捨てた方がいいじゃない」
「そうじゃなくてさ」
その後も男は何かぶつぶつと言っている。
女は益々不満が募る。
いい加減動いてくれないかな。この産んだ覚えがない長男は。
産んだ覚えがある方の子は、女の足に抱きついている。
「捨てなくても良かったのに」
男の繰り返しの呟きに、女は声をあげた。
「お前を守るためだよ!いい加減にしろ!」
苛立ちが混ざった牽制や打算と同時に、何故か目頭も熱くなっていた。
すると男は、細い声でぽつり。
「俺のために捨てたんだ」
「そうだよ」
男が納得した。女は少し満足した。
さて、感動したなら動いてくれるかな。
と思いきや。
男は目の前のガラステーブルを見つめながら、言葉を落とした。
「味噌汁沸かしたら、お前が飲んでくれると思ったんだよ」
女は、男が自分で飲むために味噌汁を沸かしたと思い込んでいた。
だが男は、女のために味噌汁を沸かしていた。
男は憩いとして味噌汁を沸かし、
女は目の前で即座に捨てたのだ。
誤魔化すように洗い場のお皿を鳴らし、味噌汁の具の残骸を横目に、女は
「可愛いじゃん」
と告げた。
この女は、なかなか謝ることが出来ない。
したくないと言った方が正しいのだろうか。
この味噌汁を作ったのは誰だと思っているのよ。
そうやって悪態を内に秘めながら、
男のその行動に罪悪感とも感謝とも言い切れない、何とも言えない気持ちを抱える。
男はまたガラステーブルの上にスマホを置き、メモ書きをし始めた。
感情の濁りを不器用に流し切れないまま、
それでも今日も日常は続く。