
第22話 受容
残り九秒。
久世は停止端末の前に立っていた。
灯はいない。
もうどこにもいない。
七年間追い続けた存在は。
今。
本当に消えた。
なのに。
不思議だった。
さっきまで胸を締め付けていた痛みが。
少しだけ軽くなっていた。
《残り8秒》
死者たちが見ている。
老人。
子供。
男。
女。
何万人もの感情。
誰も責めない。
誰も叫ばない。
ただ静かに。
久世を見ていた。
《残り7秒》
その時。
灯の声が聞こえた気がした。
『最後の仕事だよ』
久世は目を閉じる。
最後の仕事。
死体翻訳師としての最後の翻訳。
まだ終わっていない。
死者は翻訳した。
灯も翻訳した。
だが。
もう一人だけ残っている。
久世真。
自分自身だった。
《残り6秒》
久世は自分の感情へ潜る。
七年間。
押し殺してきた感情。
見ないふりをしてきた感情。
逃げ続けた感情。
その奥へ。
悲しみか。
違う。
怒りか。
違う。
後悔か。
違う。
愛か。
違う。
《残り5秒》
さらに奥へ進む。
もっと深い場所。
ずっと触れたくなかった場所。
そこにあったのは。
たった一つだった。
あまりにも単純で。
あまりにも人間らしい感情。
久世は静かに笑った。
涙を流しながら。
「そうか」
やっと分かった。
七年間。
自分を縛っていたもの。
自分を止めていたもの。
自分を生かしていたもの。
《残り4秒》
久世は翻訳する。
「忘れたくなかった」
静寂。
死者たちが微笑む。
最初の被験体が目を閉じる。
雨宮が涙を流す。
誰も何も言わない。
だが。
答えは伝わった。
忘れたくなかった。
灯を。
愛した日々を。
桜を。
笑顔を。
失った痛みを。
全部。
忘れたくなかった。
《残り3秒》
その時。
灯の声が聞こえた。
本当に聞こえた気がした。
『正解』
優しい声。
七年前と同じ声。
『でも』
少し笑う気配。
『もう忘れていい』
久世は泣いた。
子供みたいに。
声を上げて。
泣いた。
《残り2秒》
停止ボタンへ手を伸ばす。
《残り1秒》
押す。
《保存層停止》
世界が白く染まった。
◇
目を開ける。
白い天井。
病院だった。
朝日が差し込んでいる。
静かな朝。
久世はしばらく動かなかった。
生きている。
それだけを確認する。
隣の椅子では。
西崎が眠っていた。
机の上にはカルテ。
見慣れた病室。
見慣れた現実。
保存層はない。
死者たちもいない。
灯もいない。
終わったのだ。
本当に。
全部。
終わった。
窓の外を見る。
春だった。
風が吹いている。
桜の花びらが舞っていた。
久世は静かに立ち上がる。
その時。
机の上のカルテが。
風もないのに。
一枚だけ。
めくれた。
久世は振り返る。
カルテの最後のページ。
そこに。
誰も書いていないはずの文字があった。
翻訳完了
対象
久世 真
最終感情
受容
久世はその文字を見つめる。
そして。
小さく笑った。
七年ぶりだった。
本当に。
心から笑えたのは。
窓を開ける。
春の風が吹き込む。
桜が舞う。
遠くで子供たちの声が聞こえる。
世界は続いていく。
人は死ぬ。
感情も消える。
記憶も薄れていく。
それでも。
生きていく。
久世は空を見上げた。
青かった。
死体翻訳師。
翻訳終了。
『死体翻訳師』
完