
ジハード最終話「大いなる希望」
夕方、駐輪場へと向かう途中、僕は啓介とばったり出くわした。
社を揺るがした大事件も今では少し懐かしく思える。あれ以来僕たちの間には、ただの従業員同士ではない深い信頼が芽生えていた。
「よぉ、ファジャール!元気か?」
啓介はいつものように、満面の笑みを浮かべて声をかけてきた。
あの日、差別の重圧に押し潰されかけていた僕に、彼がかけてくれたのもこの言葉だった。
「啓介さんは、よく『元気か?』って聞きますよね。あの日も、そうでした」
僕の言葉に啓介は「ああ」と呟く。
「気ってのはな、電気、空気、生命力、いろんなエネルギーを表す東洋の考え方なんだ。気分、気持ち、病気、気配り…全部『気』が関わってる。『元気』ってのは、元の自分に戻る、ニュートラルでいられることだと思ってる」
そして、優しく物を置くようにそっと続ける。
「俺は俺らしくいたいし、関わる人にもその人らしく生きてほしい。だから、意識して『元気か?』って言うんだ。おまじないみたいなもんだ」
あの日、聞きそびれた疑問を啓介に投げかけた。
「啓介さんは、なぜ…社内で僕にあれほど優しくしてくれたんですか? 差別が横行していた中で、僕に自転車をくれたり…」
啓介はふうっと息を吐いて、視線を地面に落とした。ポケットに突っ込んだ手をそのままに、ゆっくりと話し始めた。
「…俺は、在日コリアンなんだ」
その言葉に、僕は思わず息をのんだ。
彼の容姿や話し方からは、まったく想像もしていなかった。
「学校じゃ、俺だけが外国人扱いだった。子どもって、残酷だろ?何かあれば目をつけられて、上級生にはよく『可愛がられた』。6対1なんて、勝てるわけねぇよな」
その瞳が、遠くの記憶を見つめている。
「見た目は変わらない。言葉も同じ。でもお前は違うって、突きつけられる日々。教師は見て見ぬふりだ。答えのない日常のなかで、何もかもを恨んだよ」
「そんな様子をみて両親は…?」
「物心ついたころにはいなかった。日本に来てしばらくして、俺は施設に預けられた」
言葉を失った。
「言いたいことは伝えられるうちに、伝えないとな」
そう言って目尻に皺を寄せた染地の説得の後の啓介の言葉が思い出される。
僕たちに向けたあの言葉は、叶うことのない自身の経験を踏まえた上で、あれだけ優しく僕たちに諭していたということなのか。
啓介の言葉には、積み重なった時間と、消せない傷の重みがあった。
「荒んでた。どこにも居場所がないと思い込んで必死に探してた。誰かに気づいて欲しくて問題ばっかり起こして、職も転々としてきた。でもこの会社に入って、初めて居場所を見つけられた気がしたんだ」
腐悪邪悪流号に酒瓶を入れられた事件が起こる直前に、僕は啓介に怒鳴ってしまった時のことを思い出していた。
「啓介さんに僕の気持ちなんか分からない!」
突き飛ばすように叫んだ。
胸の奥に押し込めていた怒りと悔しさが堰を切ったようにあふれ出し、涙となって頬を伝った。
彼の顔をまともに見られなかった。
ただその優しさすら、あのときの僕には嘲笑に見えた。
だけど、それは僕の勝手な思い込みだった。
啓介は、誰にでも笑顔で、のんびりしているように見えた。ユーモアがあって、飄々としていて。
だから僕は、彼のことを「何も知らない人」だと思っていた。
でも違った。
彼は、差別という泥の中を、孤独という闇の中を、僕なんかよりずっと若く、長い時間、這いつくばってきた人だった。心の痛みも、怒りも、十分すぎるほど知っていた。
それでも笑って、誰かに「元気か?」と声をかけられる強さを持っていた。
自分はといえばどうだろうか。
差別されただけで、自分を失っていた。
誰も信じられなくなっていた。
周りとなんら変わらないではないか。顔が熱を帯びていく。
先入観で決めつけ、その他のことは考えなかったからだ。
そんな自分が、あのとき彼にぶつけた言葉の重さが、今になって胸にのしかかってくる。
知らなかったとはいえ、僕は、最も優しくしてくれた人を傷つけてしまったのだ。
啓介は、何も責めなかった。あのとき、ただ静かに僕を見ていてくれた。
今でもあの目を思い出す。
怒りでも呆れでもない、ただ、受け止めるようなまなざしだった。
あのときの僕は、啓介の強さを知らなかった。自分の弱さを、見ないふりをしていた。
今なら、ようやくわかる。本当に強い人って、こういう人のことを言うんだ、と。
「そこからどうやって今のように這い上がったんですか?」
「本の世界を知ったからかな?誰かがつくった物語の中でなら、自分の痛みを忘れられた」
僕はここ最近の、働くことや仕事に対するモヤモヤとした気持ちを啓介に投げかけてみたくなった。
どう答えてくれるのだろう?
「それだけ本が好きなら、啓介さんは小説家になろうとは思わないんですか?」
啓介はふっと笑って目を細めた。
「昔ならな」
「今は違うんですか?」
「あの頃の俺は小説家になることが夢だと思ってた」
「それならどうして?好きなことが仕事ならやる気も充実感もあるし、なにより自分らしくいられる気がしますが」
「最近ようやく気づいたんだよな…夢は職業じゃないってこと」
僕は意味がわからず首を傾げた。
「小説家になることが夢なんじゃない。誰かの力になることが夢なんだ。俺はずっと仕事って金を稼ぐためにするもんだと思ってた」
「違いますか?」
「ああ、働くってのは誰かの役に立つことだ。結果として後から金が払われるだけ」
照れくさそうに笑う。
「小説は書けないって思ってた。そんな俺がここまで小説を書けるようになったのは、『すごく面白い』って言ってくれた人がいたおかげなんだ。お世辞でも構わない。その人の一言で俺が救われたのは事実だし一歩を踏み出せた。あの人には感謝してもしきれねぇ。だから今度は俺が、気づかせてもらったその力で、作品で誰かの力になりたいって思ってるんだ」
そういってスマートフォンを取り出し、画面を僕に見せてきた。
そこには、noteの創作大賞2027年のコンテストの告知が映っていた。
スマートフォンを借りて画面をスクロールする。
過去の受賞作のサムネイル画像がズラリと並ぶ中で
ふと、ひとつの作品に描かれた男性の姿に目が留まった。
肘まで伸びたパーマの髪を束ね、クタクタのベルボトムに煤けたブーツを履いている。
全身傷だらけで、ただ事ではない雰囲気がただよっている。
タイトル「ケドモ」
日本語の接続助詞だろう。
それが何を意味するのだろうか考えていると啓介も僕の肩越しに画面を覗き込んだ。
「ああこれか」
懐かしい友人を思い出すように優しく口元が緩んでいる。
「面白いんだよ。面白いっつーか、胸にいろんな感情が込み上げてくるすごい作品だ。欲とか痛み、弱さ…そういう人間の格好悪いとされる部分をしっかりと受け止めて吐き出してる。簡単そうに見えて、そうそう出来ることじゃない」
啓介の視線はスマートフォンから僕に移る。
「俺たちもやってみないか?」
突然の言葉に僕は瞬きしか出来ない。
キョトンとした僕に、啓介は分かりやすく言い直す。
「今日までの出来事、小説にしてみないか?」
啓介はそんな僕を見て少し笑った。
その瞳はあの日と同じようにまっすぐだった。
「もうすぐ火星に人が住もうかって時代にさ、火星で生まれた子どもを『火星人だ』って差別する世界なんて見たくねぇよ。
俺たちが声をあげて、会社で、この社会で、同じ苦しみの中にいる誰かの力になる。それが、俺たちの経験の使い方だろ」
胸の奥が熱くなった。それと同時に不安も込み上げる。
「でも…僕、小説なんて書いたことありません」
啓介は即座に首を振る。
「大丈夫だ。俺が監修する。正直、自分の辛いことと向き合うのは簡単なことじゃない。でもイスラム教にはジハードって概念があるだろ? 聖戦、自分との闘い。これは、ジハードだ」
彼の言葉が胸に深く刺さった。一度植え付けられたイメージはそう変わらない。まだまだこの会社にも、僕らへの風当たりの強さを感じない日は少ない。
「賞を獲ったらさ、朝礼で発表してもらおうぜ。いまだに変な認識の人たちへの注意喚起くらいにはなるんじゃねぇか?」
しばしの沈黙ののち、それまで真っ直ぐに僕を見た啓介は急に下を向いたかと思えば耳の後ろを掻いた。
照れを隠す時の啓介の癖だ。
「ごめん、格好つけた。本当は作家デビューしたいなとちょっとだけ思ってる」
そういうと啓介は目尻に皺を寄せる。その表情は清流のように透き通ったものだった。
僕がこうして今、ここにいられるのは紛れもなく啓介のおかげだ。
心の奥が、どうしようもなく疼いている。
書きたい。伝えたい。
この人のために。
この物語を世界に届けることこそ、僕の仕事だ。
僕は腐悪邪悪流号を夕方の街へ走らせる。坂を下った先にある、あの日3人で訪れたファミレスのある商業施設に向かった。
100円ショップに入るとたくさんの商品が僕の視界全体に広がっていた。
未知の世界への探検をするような気持ちで目的の品を探している。
商品の用途ごとに区分けがされていて迷わずに探し出すことができた。
原稿用紙と鉛筆とカッターナイフ。
袋をバッグにしまって、きた道を急いで家に帰った。玄関のドアをあけ、靴を脱ぎ捨てるように脱いで荷物をテーブルの上に広げた。
本棚の上に飾られた写真たちが、静かに僕を見下ろしている。
無邪気に笑う子供の僕。
そして、現場研修で撮った集合写真だ。
子供の頃、何時間も夢中で絵を描いた。カッターナイフで鉛筆を削って、心のままに、何も恐れず自分を表現していた。
元の自分を取り戻すことが元気ならば、僕に必要なのはまさにそのありのままの姿だろう。
カッターナイフの刃をそっと出した。
鞘から刀を抜いたサムライのように、深く息を吸い呼吸を整える。鋭利な刃先は部屋の光を浴びて鈍く輝いている。
カリッカリッカリッ…鉛筆を削るたびに削り粉が机の上に舞い落ちてゆく。
芯が姿を現すたびに心の奥に眠っていた言葉たちが目を覚ましていくような感覚を覚えた。
noteの創作大賞に応募するのであればPCやスマートフォンでまとめるべきなのかもしれない。
だが、これは小説である前に、手紙だ。
汚くても、下手くそでも構わない。
どんなに日に日に技術が進歩しても、想いの強さだけはデジタルでは表せないと、グエンに教えられた気がした。
よし、いくぞ。
そう呟いて原稿用紙の上に鉛筆の先端を置く。
ここから先は、自分自身と物語の静かな世界の幕開けだ。
鉛筆が紙の上を走る。
まるで今まで止まっていた時計が今この瞬間から時を刻み始めるようだ。
これはジハード。
自分の痛みや悲しみ、そして喜びや希望をこの社会に刻むための闘いだ。
僕の名前はファジャール。
明日への大いなる希望を意味する。
-完-
本作品はフィクションです。
登場する人物、企業、団体、地名、出来事はすべて物語のために創作されたものであり、実在のものとは関係ありません。
また、本作品は特定の個人や組織を批判、攻撃、誹謗中傷することを目的としたものではありません。
物語としてお楽しみいただければ幸いです。

最大級の感謝と
ありったけの愛を😌