
なんかいいな、と思う人のこと
久しぶりにヨガのクラスに行った。
外でヨガをするのは久しぶりで、少し億劫な気持ちもあった。それでも向かったのは、好きな先生のクラスだったから。特別に親しいわけでも、たくさん話したわけでもない。でも、なぜかあの空間にいると安心する。
クラスの途中、片足で立つポーズがあった。久しぶりの体はぐらぐらで、うまくバランスが取れない。そんなとき、先生が静かに言った。
「揺れさえも楽しんで」と。
その言葉で、どこか緊張して力んでいた力がほどけた。直そうとしなくていい、揺れていていい。そのままでいいよ、という声だった。
しばらくして先生と視線が合った。評価しているわけでも、チェックしているわけでもない目。ただ「そこにいていいよ」と言っているような、やわらかい目だった。体がほぐれるより先に、心がゆるんでいく感じがした。
帰り道、ずっとそのことを考えていた。
あの先生は、たぶん自分のことをよく知っている人なんだと思う。
何が好きで、どんな性格で、どんなときに心地いいと感じるのか。
長所も、短所も、きれいな部分も、ちょっと面倒な部分も。
そういうものを隠さず、ひとまとめに「これが自分だ」と持っている人。
そういう人は、なぜか人への目線もやわらかい。
たぶんそれは、自分の中に「完璧じゃない部分」をちゃんと知っているからな気がする。自分のぐらつきを知っている人は、他の人のぐらつきを見ても、そこで止まらない。「そういうこともあるよね」と、自然に流せる。
逆に言えば、
人に対して妙に厳しかったり、何かと評価したくなったりするときは、自分の中の何かが宙ぶらりんになっているサインなのかもしれない。自分がまだ受け入れていない部分を、外に見つけてしまうから。
じゃあ、自分はどうだろう?
自分のことをちゃんと知っているか、
と問われると、正直なところまだ自信がない。
好きなものはわかる。でも、面倒な部分や認めたくない部分を、まっすぐ見られているかというと、どうだろう。
ついつい、きれいな側面だけを「これが自分です!」として差し出して、そうじゃない部分はなるべく見ないようにしてしまう。そういうことが、たぶんある。
でも、自分をよく知るというのは、
自分を完全に理解するとか、すべてに納得するということじゃなくて、
「こういう面も含めて、まあ自分か」と、
少し笑えるくらいに持っておくことなのかもしれない。
なんかいいな、と思う人のそばにいると、なぜか自分もゆるむ。
それはきっと、その人が自分自身に対してゆるんでいるから。
その空気が、にじみ出てくるから。
あの先生の目の優しさは、きっとそういうところから来ているんだと思う。そしてそれは、誰かに与えてもらうものじゃなくて、自分の中から育てていくものなのかもしれない、とも思った。