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人生代行サービス

    あらすじ

    会社員の朝倉アサクラ未花ミカは、仕事のミスが続き「無能」の烙印を押される日々に絶望していた。
    「誰かが代わりにやってくれたら」そう願った彼女の前に、人生代行サービスを営む謎の男・大江オオエが現れる。
    初回1000円の安さに釣られて代行を依頼した未花は、その万能さに溺れ、やがては仕事のみならず、友人関係や恋愛まですべてを委ね、自らの人生の傍観者になっていく。
    しかし、その代償として人間関係の崩壊や身に覚えのない妊娠を突きつけられ、自分の人生が化け物に食い尽くされていた事実に直面する。主体性を完全に見失った彼女は、最期に「自分で決める」ことを選び、歩道橋から身を投げるのであった。


     そこのあなた。
     人生に困っていませんか?
     そうそう、あなたですよ……。
     学校で先生に、出勤した先で上司に頭を下げる日々。家に帰ってすぐベッドへ。
     毎日毎日追い立てられて、息をつく暇もない――なんて方も、いるのではないでしょうか。
     そんな荷物を、一度降ろしてみませんか?
     忙しない日々を、楽にしてみませんか?
     ほんの少しだけ、この『人生代行サービス』で。


    「すみませんっ!」
     朝倉アサクラ未花ミカ、25歳。会社員。
     大学まで好成績を収め、順調に進級、進学をしてきた。
     自分でも、かなり優秀な学生だったと自負している。
     そんな未花は大学を卒業して、すぐに正社員として就職した。
     安定した大手企業だ、と誰もが口を揃えて言うほどの企業に就職して、将来は安泰だと、はじめ未花は満足していた。
    「ねぇ、朝倉さん」
     一年目こそ、やる気のある新卒がきたぞと周囲はざわめいた。
     なんでもメモをとる。挨拶、返事はハキハキと。よく笑うし、愛想もいい。
     そんな評価だった。
    「ここの数値いじらないでっていつも言ってるよね? なんで毎度変えちゃうの?」
     しかし、三年目になった今は。
    「……次から……気をつけます……」
     今は、テンプレートにデータを流し込むことすらできない無能。
    「そんなにミスするなら、百回でも千回でも見直ししてから提出してもらえる?」
     先輩が去ったのを肌で感じて、視線をチラと上に向ける。
     いなくなっている。
     折っていた腰を伸ばして、未花は大きく息を吐き出した。
     新卒と言われていた頃には良くしてもらった先輩だけれど、もうあの頃の優しさは見る影もない。
     自分が悪いのだとは、わかっているけれど……。
    (……何度も見直しをしてミスが消えるなら、誰も困らないじゃん)
     何度も目を通したって、見つからないものは見つかりようがない。
     未花は腕につけた時計を見て、休憩時間までの時間を計算する。
     あと1時間。
    (1時間くらいなら……逃げ切れるかな)


     未花の日中の唯一の楽しみは、社外で昼食をとることだ。
     コンビニで、その日の気分に合わせてパンやおにぎり、弁当のうちから選ぶ。時々、カフェオレをつけると、とてもいい気分になれる。
     ここしばらくは気温が上がってきて、陽に照らされるのは少しつらくなってきたけれど。
     それでも未花にとっては、空調のきいたオフィスよりも、このうだるような暑さの公園の方がずっと過ごしやすく感じられていた。
    「はあ、ずっと休憩時間でいいのに……」
     だが、現実はそうもいかない。休憩時間は時給が発生しないのだ。公園のベンチでだらしなく姿勢を崩しながら、未花はため息をつく。
     休憩が終わったら、あと五時間は働かなくてはならない。ただし、高確率で残業をすることになることを考えないのならば、の話だが。
     本当に身が粉になるんじゃないか、と思うほど必死に働いて、得られるのは叱責と、ヒソヒソされる居心地の悪い時間と、生活費でほとんど残りもしないしょっぱい給料だけ。
     未花はおにぎりのビニールを引っ張る。帯は上から下へ、くるりと包装を引き裂く。
    「……誰か、私の代わりにやってくれたらいいのに」
     つぶやいて、ハリのある海苔に向かって大口を開けた。

    「それ、『本音』ですか?」

     ぎょっとして横を見た。声の聞こえた方。誰も座っていなかったベンチのスペース。
     そこに、男が座っている。
     黒いロングコートを着ている。肌は白い。男のくせに羨ましいな、と思ってしまうくらいには。
    「……あ、あなたは」
     体を思い切り引いている未花に、男はすいと顔を向けた。
     微笑んでいる。が、張り付いたような笑み。
     そして、ぱくりと口を開く。
    「『私の代わりにやってくれたらいいのに』……それは、本音ですか?」
     が、未花の頭の中では、情報が一向にまとまらない。この男はいつからいた? そもそも、誰? さっきのつぶやきが本音だからって、何?
    「……ああ、まだ名乗っていませんでしたね」
     男は内ポケットをガサガサとまさぐって、名刺入れを抜き出してきた。そこから一枚、手のひらサイズの紙を差し出される。ちゃんと両手で。ロングコートの怪しい男のくせに、マナーは知っているらしい。

    『人生代行サービス 大江』

     黒い台紙に、金色の文字。
    「私ワタクシ、大江オオエと申します」
     未花は指先で紙をつまんで、裏返して見た。
     QRコードが印刷されている。ホームページだろうか。
    「私は、人生の……『代行』を、させてもらっておりましてね」
     名刺に落としていた視線を上げて、未花はに・へ・ら・と笑った。
     それは、未花の癖だった。
     学生時代、先生がなんとかしてあげるからと言ってくれたとき。
     社会人になって、優しい先輩が一緒に謝ってあげるからと言ってくれたとき。
     なんとかするから、大丈夫だからと元気づけられるとき、未花は笑う。
     安心もある。しかし、助けてもらえるのはそのたった一瞬だけで、少し時間が経てばすぐに見捨てられることを知っているから、未花は笑うしかないのだ。
    「……人生を、代行?」
     数年前からひっそりと流行り続けている、『退職代行』の存在を思い出す。
     上司に仕事を辞めたいと言えず、業者にお金を払って、代わりに辞めたいと言ってくれる。それだけの業者。……細かい手続きもしてくれるんだっけ。
     まあいい。そんなことはどうでもいいのだ。
    「私どもは、お客様の人生を、少しばかりお借りするのです」
     問題は今、隣にいるこの男だ。こいつはなんなんだ。
    「お借りしているその間は、我々が、あなたの代わりになんでもして差し上げますよ」
    (人生を借りる。私の代わりになんでもする……?)
     そんなの、オカルトとかおとぎ話とかの世界の話ではないのか。
     それに何より、ニヤついた顔でこちらを見ているのが気持ち悪い!
    「……あの、通報しますよ?」
     すると、男はスッと表情を消して、こちらに乗り出していた身を引いた。
    「それはいけませんね。ええ……ええ、ん?」
     こんな変な男に構っている暇はない。休憩時間は無限ではないのだ。さっさとおにぎりを食べてしまわないと――
     が、男は首を傾げて、またにこりと笑った。
    「あなた、仕事で悩んでいることがおありなのですね?」
     すっ――と、胸の奥が冷えた。
    「仕事のミス……なくならないですよねえ」
     背中が、じとりと湿る。
    「簡単な仕事なのに、毎日毎日怒られてしまったり」
     暑い、寒い、感覚が交差する。
    「優しかった先輩に嫌味を言われたりしたら、嫌にもなりますよねえ……」
    「――だったらなんなんですか!?」
     未花は思わず叫んだ。不快だった。
     ミスばかりしてしまう、自分はダメな人間、怒られたりヒソヒソされたり、そういう時間を、動画をダブルタップするみたいに飛ばしてしまいたい。
     確かにそう思う。いつも思っている。
     だから、なんだと言うのか。
    「そういう『人生の荷物』を降ろすお手伝いを、私どもはしているのですよ」
     そう言って、男は立ち上がった。
     こちらを見下ろして、下の瞼を、くいと盛り上げさせる。
    「初回のご利用、お安くしておきますよ」
     真っ黒な、胡散臭い名刺。
     人生を代行……。
    「……あの、これって――」
     横を向いたとき、すでにそこに男はいなかった。
     さらりと風が吹く。
    『人生代行サービス 大江』の文字と、電話番号と、裏面にQRコードが印刷されただけの名刺。
     ふと、腕時計が目に入った。
    「……って、もう昼休み終わっちゃう!?」
     未花は慌てて立ち上がり、オフィスへ向かって走り出した。
     走りながら齧ったおにぎりは、海苔が湿って噛み切りにくくなっていた。


    「ああ、疲れたぁ」
     未花は帰るなり、ジャケットも脱がずにベッドに倒れ込んだ。
     ここ一年ほどは、毎日これだ。
     初めこそ先輩がみんな助けてくれて、仕事に余裕があって、家に帰って自炊、ゆっくりお風呂と、自分のための生活を回せていた。
     しかし、もう新人とは言われなくなってからは。
     仕事が増えて、ミスが増えて、毎日怒られないかとビクビクするようになって。そうして、家に帰ってすぐベッドに飛び込むような日々が続いている。
    (今日をやり過ごしても……また明日も同じ日が来る)
     次は何で怒られるんだろう。遅刻? ケアレスミス? 書類の紛失?
    (そういえば……学生だったころのバイトも同じだったな)
     最初は、物覚えの早い子が来た、一生懸命な子が来たと、店長も先輩バイトも嬉しそうにする。
     けれど一ヶ月、二ヶ月と時間が進んでいくにつれてボロが出る。実は仕事のできない無能だとバレていく。
     そして、周囲の目に耐えきれずに辞めるのだ。
    (よく三年目まで来れたよなー……正社員だからかな)
     未花は学生時代、よく絵を描いていた。アルバイトをしている間は描けなかった絵は、バイトを辞めてしまえばまた描けるようになったものだ。
     けれど、今は……。
     未花はウトウトと、瞼をひらめかせる。
     次の瞬間、未花はガバリと体を起こした。
     時計を見ると、もう日付が変わる直前になっている。
    「やっば……シャワー行かなきゃ」
     慌てて腕時計をはずし、ジャケットを脱いで、シャツのボタンに手をかけて……。
     ジャケットを脱ぎ捨てた床に、黒い紙が落ちていた。
     あの、怪しい男の名刺。屈んで、拾い上げる。
    『人生代行サービス 大江』
     裏面には、QRコード。
     好奇心だった。
     スマホのカメラで読み込むと、名刺と同じような、黒の背景に金色の文字で説明書きのされたページが表示された。
    「何これ、見づら……」
     どれどれ、と、妙にきらきらした説明文に目を落とす。
    「『あなたの代わりに人生を円滑に進めます』……『誰にもバレることはありません』?」
    (やっぱり意味わかんない……人生を代行ってなんなの?)
     そうしていくらか画面をスクロールしていると、料金表が流れてくる。
    『3時間コース 3000円
     日中いつでも対応コース 5000円
     一週間使い放題コース 15000円』
    「……料金設定はまとも……いや、安い、のかな? でも日中いつでもコースなんて、その日の稼ぎの半分……」
     ページの最下部までくると、電話番号がでかでかと書かれている。24時間いつでも対応。……いつでも?
     日付の変わる直前。もう深夜と呼ばれる、この時間でも?
     未花は電話アプリを開いた。よく見たら、携帯電話の番号だ。いつでも電話に出るって、本当に?
     発信ボタンをタップして、耳に携帯を当てる。発信音が鳴り出した。
     プルルルルルルルル。
     プルルルルルルルル。
     プルルルル……プッ。
    『お電話ありがとうございます、人生代行サービス大江でございます』
     本当に出た!
    「あ、あの、今日名刺をもらったんですけど……」
     未花は床に座り込んであぐらをかき、体を前後に揺らした。
     職場で注意されて初めて気づいた、電話をするときの未花のクセだった。
    『ああ、お昼の! お待ちしておりました』
     昼に会ったときのような、ゾワゾワくるような気持ち悪さは、ない。
     電話で雰囲気が変わるタイプ?
     そんなことはどうでもいい。問題はあれだ。
     ――初回のご利用、お安くしておきますよ。
    「……初回、安くしてくれるって……言ってましたよね?」
     聞き違いでなければ。思い違いでなければ。
     しかしそんな未花の心配をよそに、大江はあっけらかんとした笑い声を上げた。
    『ええ、ええ。申しましたとも。初回サービスのご利用で?』
     このペースに引きずられたらまずいかも、と思って、少し唇を尖らせてみる。
    「……値段だけ、聞いておこうと思って」
     お値段ですねえ、と気の抜けたような大江の口調で、尖らせておいた気持ちはおおよそ丸められてしまったが。
    『そうですねえ、初回サービスでは、3時間コース1000円でご案内しております』
     その言葉で、未花の体の動きはぴたりと止まった。
     3時間、1000円。
     ネットページに書かれていた料金の三分の一。
     人生を代行、の意味はまだわからない。けれど、1000円なら……。
     一回だけなら。
    「……代行……してください」
     考えきる前に、口が勝手に動いていた。
    『日時はいかがなさいますか?』
     日時。この際いつでもいい。ちょっと荷物を降ろすだけ。ちょっと楽をするだけなのだから。
     帰りにいつコンビニスイーツを買ってもいいのと同じで、いつ人生の荷を降ろしたっていいはずだ。
    「明日の、9時から12時までお願いします」
     とりあえず、明日の午前の仕事だけお願いしてしまえばいい。初回1000円。たったそれだけ。
    『かしこまりました。初回1000円、3時間コースで承ります』
     それを聞く未花の胸の内は、どくどくと高鳴り始めていた。
     興奮なのか、期待なのか。いったい何なのかわからないけれど、少なくとも、それは嫌な気分ではなかった。
    『お支払い方法は銀行振込となります。振込先はこちらのお電話番号にショートメールでお送りしますのでご確認ください』
     大江のその言葉を最後に、電話口らしい挨拶を互いに交わして、通話が切れる。
     そこから何秒と経たないうちに、SMSに口座情報が送られてきた。
     未花は忘れる前にと、銀行口座のアプリを開いた。ネットからの振り込みなら、どんな時間でも手数料がかからないから便利だ。
     SMSに送られてきた情報を、間違いがないように何度もアプリを往復して確認しながら打ち込んでいく。
     振り込み金額に1000円と打ち込んで、未花は取引決定ボタンを押した。
     本当に、頼んでしまった。
     もし詐欺だったら? と思ったけれど、だが1000円だ。たかが1000円。ドブに捨てても痛くない、は、嘘だけれど、まあ許せる金額だ。
     ……色々と考えてしまう前に、さっさと寝よう。
     未花はそう決意して、寝支度のうち最難関のシャワーへと向かった。

     朝の目覚めは悪くなかった。
     身支度に1時間。通勤に30分。始業は9時ちょうどだから、余裕を持って7時にいつも起床するようにしている。
     ――のだが。
    「……や、やばい……」
     しかし、ベッド脇の時計は、どう見ても8時だった。
     ベッドを飛び出してワイシャツに袖を通し、パンツを急いで穿いてベルトを締め、顔を水でバシャバシャと洗う。
     色付きの日焼け止めを顔に適当に塗り広げて、そのへんに転がっているパウダーを叩き込んで、なんとなくナチュラルっぽいリップを塗った。髪の毛は手櫛で整える。
     シャツの裾をパンツに入れようとして、ベルトを締めていたことを思い出して慌てて緩める。裾をぎゅうと詰め込んで、鞄を引っつかんで玄関へ走る。
    「あ、スマホ……!」
     トンボ帰りして、また玄関へ。何も忘れてないよな、と自身の服をぺたぺた触って確かめながら、玄関にひっかけていたジャケットを羽織って家を飛び出した。
    (8時25分……電車は間に合う!?)
     パンプスがアスファルトを叩く音は好きだけれど、急いでいるときには足元を掬うから、今だけは憎らしい。
     駅の改札を通って、ホームに続く階段を駆け上がる。発車メロディが聞こえて、さらに速度を上げる。疲れたとか、足が痛いとか、そうは言っていられない。一気に走り抜けて、今にも閉まろうとランプを点滅させる、人の詰まっている扉へ駆け込んだ。
    (せ、セーフ……!)
     ゼエゼエと息を切らしていると周囲からの視線が痛いので、涼しい顔をして荒れ狂う呼吸を抑えつける。ゆっくり息を吐いていれば、たいていの呼吸は整う。ふーっと静かに吐ききって、未花は車内のモニターを見上げた。
     8時32分。
     オフィスの最寄り駅に着いてから、また走れば間に合いそうだ。足をもぞもぞ動かしてほぐしながら、電車がもっと早く走ればいいのにと思った。
     自分専用の電車。自分が着いたら発車して、目的の駅までノンストップで走ってくれる。
     ……まあ、そんなことになったら、時間に余裕があるからとのんびり支度をしてしまいそうだけれど。
     今でこそ慣れたけれど、それまでは遅刻ばかりしてしまって大変だった。
     しかも、大きい遅刻ではないのだ。2〜3分、遅くても5分。そういう微遅刻ばかり繰り返していた。
     理由は様々だった。支度に手間取って時間を見ていなかったとか、早く最寄り駅に着いたけれどもコンビニでのんびり朝のコーヒーを飲んでいたとか、いい天気だと思ってひと駅ぶん歩いていたら、思っていたよりも時間がかかってしまったとか。とにかく色々な理由があった。
     遅刻を繰り返すうち、未花の中にはルールが蓄積されていった。朝の支度は必ずこの順番。早く駅に着いたらコンビニには寄らず、すぐにオフィスへ行く。毎日必ず最寄り駅まで電車に乗る。寄り道をしない。
     遅刻はしなくなったけれど、彩りはすっかりなくなってしまった。
     そうこうしているうちに、目的の駅に電車が止まった。人の流れに乗りつつ降りて、階段を駆け下りる。
     改札を飛び出して、オフィスへ向かってひた走る。ビルの中に入って、エレベーターのボタンを押す。
     じりじりしながら待っていると、鞄の中からスマホの震える音が聞こえた。
     取り出して通話ボタンを押して耳に当てる。もしもし、朝倉です。噛みつくように名乗った。
    『人生代行サービス大江です』
     ねっとりとした話し声が飛び込んできて、未花はぞわぞわと鳥肌を立てた。ああ、やっぱり気持ち悪い。
    「なんですか、今遅刻しそうでそれどころじゃ……」
    『契約時刻の5分前になりましたので、注意事項を少しばかり』
     そのことか。急いでいてすっかり忘れていた。エレベーターに乗り込む。
    「わかりましたから、早くしてください」
    『ひとつ。代行に伴う身の回りのトラブルにつきましては、我々は責任を負いません』
     7階。妙に遠く感じる。
    『ふたつ。業務にあたり記録や記憶を閲覧することがございますが、ご了承ください』
     3階、4階。ランプが移動していくのを眺めながら、未花はイライラとつま先で地面を叩く。
    『さいごに。三時間コースでしたら、こちらはあまり関係ないのですが……』
     7階だ。社員証を取り出す。
    『適正なご利用を』
     これをかざしてオフィスに入ればOKだ。間に合った。
     開いた扉の向こうへ、足を踏み入れた。
    『それでは、“お貸しいただきます”』
     未花が覚えているのは、ここまでだ。

     次の瞬間、未花は公園のベンチに座っていた。
     膝の上には好物のミックスサンド、そして手の中には1日分の鉄分、と大きく銘打たれた桃のジュースがあった。
     腕の時計を見ると、12時になっている。
     ――確か、オフィスに入ろうとしていた。
     エレベーターから出て、とにかく急がなければと早足になっていた。
     それで……。
    「――うっ」
     そのとき急に、自覚していなかった空腹が未花を襲った。そうだ、今朝は何も食べていなかったから……。
    (これが、『人生の代行』……?)
     知らないうちに時間が進んでいる。その間に何もかも終わって、体だけがその名残を訴える。
     未花は膝の上のサンドイッチを見下ろした。普段は、昼休みに入ったらすぐにオフィスを出て、付近のコンビニへ駆け込んでいる。
     12時になったばかりのこのタイミングで、サンドイッチと飲み物を持って公園に着いている。
     つまり、午前の業務が早く片付いた――と?
     未花はジュースの蓋を勢いよく開けて、その中身をぐいと流し込んだ。
     変だ。おかしい。さ・っ・き・ま・で・始・業・前・だ・っ・た・の・に・。
     受け入れがたい感覚と、12時という時刻が、頭の中をぐるぐる回る。
     3時間が、たった一度、瞬きしただけで。
     しかし同時に、これ以上この気持ち悪さに苦しんでも仕方がないと思った。気持ち悪がっても消えた時間は戻ってこないし、そして今はお腹が空いている。
     そうだ、たった1000円で、一度きりの楽を3時間分買っただけ。
     サンドイッチの包装のつまみを引く。
     ジジ、とビニールが分断されて、中のサンドイッチが露出した。
     働かずに公園で食べるサンドイッチは、豊かで優しい味がした。

     よたよたと部屋の中へ入る。
     玄関の鍵を閉めると、未花は靴を脱ぎ、ビニール袋をキッチンにがさりと置いた。
     野菜とハムと卵を買った。それから、水で洗うだけで食べられるうどん。
     未花の家の冷凍庫の中には、冷凍食品が大量に詰まっている。温めたらそのまま食べられる完成品もあれば、野菜を凍らせたものまで様々、冷凍庫を常に圧迫している。
     それでもダメになる食品が出てこないのは、毎日仕事終わりに食べるものがそれらばかりだからだ。冷凍庫に対して冷蔵庫はガラガラで、せいぜい調味料が冷やされているだけだった。
     そんな未花が、今日、野菜とハムと卵を買って帰ってきた。
     手を洗って、きゅうりとトマトを切る。卵をひとつといて、熱したフライパンに薄く流す。
     薄焼きの卵とハムを短冊状にざっくりと切ったら、うどんを水でほぐす。
     皿にうどんを盛りつけて、めんつゆをかけ、きゅうりとトマト、卵、そしてハムをのせたら、冷やしうどんのできあがり。
     ――あれから。昼休みが終わって、午後の業務に戻るとき。
     自分のせいで優しくなくなってしまった先輩が、久々にお叱り以外で声をかけてくれた。
    『今日すごい頑張ってたね。午後は無理しないで、続きお願いね』
     嬉しくて、午後の業務が苦にならなかった。
     たった3時間だ。3時間を代行してもらっただけで、こんなに気持ちが楽になった。
     家に帰って自炊なんか絶対にできない、冷凍食品を解凍して食べるだけの夕飯が、今日はこの冷やしうどんに変わった。
    「いただきます」
     普段なら絶対に言わない挨拶を、わざわざ手を合わせて言ってみたりして。
     こんなに気分がいいなんて。
     つるんとしたうどん。シャキシャキしたきゅうりに塩気のきいたハム……そうだ、今日は金曜日。明日は何をしようかな?
     未花の心は踊った。たった1000円で人生が変わった。心の底から、そう感じた。

     月曜の朝。未花は手を強く握りしめていた。
    「……土日、どういう気持ちで過ごしてた?」
     目の前が霞む。夢を見ているかのようだ。
    「金曜さ……午前はちゃんとしてたよね? なんで午後になったらこうなるの?」
     冷や汗が止まらない。全身の皮膚が脈打つように熱くなるのに、指先は氷のように冷たい。
    「発注ミス。これ、先方に迷惑かかるのってわかる?」
    「……はい」
     何を、間違ったんだろう。
     先輩の話が耳に入らない。何を言われているのかよくわからない。早くこの時間が終わってほしい。
     あ、ダメかも。
     ふいに言葉がよぎったその瞬間、未花は床に向かって嘔吐していた。

     マンションの一室に帰ると、未花はジャケットを脱ぎ捨ててベッドに倒れ込んだ。
     窓の外からは、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえた。近くに公園があるから、そこで保育園の子たちでも遊んでいるのかもしれない。
     カーテンの隙間から漏れ出す陽は、暖かくて心地がいい。
     上司からはたいそう心配された。どうやら先輩には、パワハラに該当する事態だとして指導が入るらしい。
     そして、今週は休みなさいと。
    (なんで……こんなことになったんだろう)
     先輩だって別に悪い人じゃない――未花はそう思った。未花がありえないミスを連発するから、疲れてしまっただけなのだ、と。
    (私が、ちゃんとできていれば……)
     未花は目を閉じた。今は、とにかく眠りたかった。
     外は明るい。子どもたちの遊ぶ声。そして未花は、自身の内側から湧いてくる闇のなかで、そっと意識を手放す。

     電話の着信音で目が覚めた。
     上司だろうか。そう思ってスマホの画面を見ると、そこには11ケタの番号が書かれているだけだった。
    「……はい、もしもし……」
    『人生代行サービス大江です。サービスご利用後はいかがですか?』
     爽やかな声。なんだか無性に腹が立ってきて、未花は体を起こした。
    「いかがですか、って……」
     こいつは、私をなんだと思っているのだろう。
     たった3時間代わったからって、いいことでもした気になっているのか?
     未花は、身の回りは、ぐちゃぐちゃになってしまったのに。
    『実は、まだサービスを始めて間もないのです。よろしければレビューを……』
    「全部めちゃくちゃになりましたって言えば満足?」
     しまった、と思った。
     けれど、止めなければと感じる前に、口は勝手に動いていた。
    「あんたのせいで変なミス起きて、先輩は指導受けることになって、私は一週間休ませられることになって……もうぐちゃぐちゃなの! あの3時間で、あんた、いったい何をしたの!?」
     電話口で、叫ぶ。カーテンに目をやった。陽が沈みかける頃合いだった。
     黄昏。
    『……そうでしたか』
     ぽつりと、耳元に聞こえる声の温度が下がった。
    『ですが……我々は、トラブルの責任を負うことはできませんのでねぇ。お気の毒ですけれども』
     だが、のんびりとそう言われて、未花の頭には一気に血が昇った。
    「それでいいと思ってるの!? ふざけるのもいい加減にしてよ」
     消えた3時間。以前のように優しくなった先輩。今日、怒って未花を詰めた先輩。
     あの3時間さえなければ、こんなふうにめちゃくちゃになることなんか、なかったはずなのに。
     沈黙が落ちた。大きくため息をつく。
     耳に当てたスピーカーの向こうで、すう、と音が聞こえた。呼吸音。
    『では、次回もご利用なさいますか?』
     それを聞いて、未花の動きはぴたりと止まった。
    「……は?」
     なぜ、そうなる?
    『代行をご利用なさるのであれば、そのようなトラブルへの対処もいたしましょう。そうでないのでしたら……我々にできることはないかと』
     スマホを握る手が震えた。ここにきて、まだ勧誘?
     こんな目に遭わされたのに!
    「もういいです! かけてこないでください」
     通話終了ボタンを押して、通話履歴の画面を見る。
     そのまま着信拒否を押そうとして、手が止まった。
     ……トラブルの対処?
     一週間後、未花が職場に復帰しても、多少はトラブルの名残があるだろう。
     職場の雰囲気が悪くなっているかもしれないし、人に話しかけづらくなっているかも。
     何か書類を書かされる、なんてこともあるかもしれない。
     その対応をすべて、大江にさせることができるということだ。
     金こそかかるが、逆に言えば、金さえ払ってしまえば、大江は未花との契約を遂行するしかない。
    (……なら、徹底的に利用してやる)
     未花は静かに決意した。
     しかしあれだけ怒鳴ってしまった後なので、依頼の電話は週末にかけよう――そう考えて、未花はベッドを降りた。
     冷凍庫の中には、何が残っていただろうか。

     一週間使い放題コースが、15000円。
     これで、一週間何度でも何時間でも使い倒せるらしい。
     こちらから依頼の電話をかけたとき、大江は驚いていたようだけれど、そんなことは未花には関係ない。
     使い放題コースでは、どうやら携帯からコールして呼び出しを行うそうだ。そして、状況がひと区切りするまで代わってくれると。
     そして未花は、今日からまた出勤する。

     エレベーターを出て、未花はスマホを取り出した。
     一週間ぶりの出勤になる。
     通話ボタンに手をかけた。
     その一瞬の後、気がつけばデスクでパソコンに向かっている。
     付箋には、今進行している作業の内容が書かれていた。
    (……なんだ、書き置きとかできるんじゃん)
     初めからこれをしていてくれれば、あんなことにはならなかったのに。
     先輩や上司に呼ばれたら、また通話ボタンを押す。
     気がついたら何もかも終わって、またデスクに戻ってきている。
     業務を進めて、確認作業を代行させる。
     やりたくないこと、やってもできないことはすべて、代行させた。
     15000円も払ったんだから。それくらいさせないと気が済まない。
     未花は何度も代行を呼び出した。時間が、普通に過ごした日の二倍くらいのスピードで進んだ。
     そしてあっという間に、一週間が経ってしまった。

     未花は代行を利用し尽くす一週間を過ごして、ひとつ考えついたことがあった。
     一週間15000円。一ヶ月を4週間としたら、毎月6万円。
     手取りの月収の3分の1くらいになる。
     この出費は痛い。だがどうだろう――仕事を増やせば。
     一週間使い放題だというなら、もし夜間に仕事を入れて、それをすべて代行にやらせることもできる。
     そうしたら、代行料金を代行に稼がせることができる。未花は1日のうち余った時間を、好きなことに使うだけ。
     それは、とても賢い生き方のように思えた。

     日中はオフィスへ。夜は警備のバイト。空き時間には好きなことを。動画を観たり、今までろくにやらなかった絵を描いてみたりなんかして、未花はプライベートの時間を充実させていった。
     楽な生き方。これ以上ない正しい生き方。
     しかし、困ったこともあった。
     スマホのSNSアプリを開くと、知らない間に通知が溜まっていた。
     なんの通知だろうと見てみると、どうやら何かの投稿にいいねがたくさんつけられていたようだった。その、自分の投稿を確認する。
     それはイラストの投稿だった。そういえば最近、また絵を描くようになったけれど、練習を時々代行させていたっけ。
     だが、投稿した覚えのない絵だった。下絵までは描いた記憶があるけれど……そうだ、清書だけやらせようと思って。
     代行がうっかり仕上げてしまったんだろう。絵ならまた描けばいいから。自分に言い聞かせて、アプリを閉じた。
     そして一週間はあっという間に過ぎて、数日経ったかと思うと、もうカレンダーをめくる。そんな生活が続いた。
     そしてある日、未花は病院で目を覚ました。
    「過労ですね」
     ベッド脇に歩いてきた医師は、未花を見下ろしてそう言った。
    「検査で異常は見つからなかったので、このあと落ち着いたら家に帰って、ゆっくり休んでくださいね」
     医師がそう言って、検査結果の書かれた紙を置いて去っていく。未花は自分の手を見下ろして、グーパーと動かした。
    (……私は元気なんだけどな)
     なぜなら、もうずっと働いていないから。
     働かずにお金だけを得られる。評価は勝手に上がっていく。好きなことだけをして生きていける。そんな毎日のどこに、疲れる理由があるのだろうか?
     未花はベッドを出て、精算を済ませた。救急搬送に、検査代。高くついた。
     このお金は代行に取り戻させよう。
     なんて言ったって、代金さえ払い続ければ、ひと月6万で使い倒せるのだから。使えるだけ使わないと損だ。
     そのとき、スマホに通知がきた。
     カレンダーだった。今から30分後に、警備のバイト。
     そういえば、そんなのもあったっけ……。
     現在地を調べて、あまり遠くない場所だというのがわかって、ほっと胸を撫で下ろす。
     近いなら歩いて行ける。
     未花は代行を呼び出す。道をダラダラ歩くのは好きではないのだ。

     月末になると、自分でも驚くほどの給料が振り込まれた。こんなに働いたのに、自分ではちょっと時間が経ったなという印象しかない。
     気がついたら、あんなに暑かった気温はすっかり下がって冷え込んでいた。そして部屋の中には、身に覚えのないアロマキャンドルも置いてあった。このお店、スズカが好きなんじゃなかったっけ。そういえば誕生日が過ぎている。プレゼントにもらったのかもしれないな。
     ラインの返信も、気がつけば代行にやらせていた。連絡がきて、ああ面倒だな、と思う時間すらカットできる。もし遊びの約束が決まったら、そこだけもらうこともできる。当日の朝になって、やっぱり面倒だと思ったら、代わりに行かせることだってできるのだ。
     人生って、こんなに簡単だったんだ。
     今まで悩んでいたのが嘘みたい。
     あれよあれよと言う間に昇給が決まった。未花が何もしなくても、評価は勝手にどんどん上がっていく。
     そんなある日、いつの間にかできていた会社の後輩に告白された。返事をするのが面倒だったから、それも代行に任せてしまった。
     毎日がうまくいっていた。カレンダーは相変わらず早い速度でめくっていたし、交友関係もよくわからなくなっていたけれど。写真フォルダには、記憶のない風景や人の写真が並ぶようになっていたけれど、楽しい部分だけを選んで味わえる人生はお得だと思った。
     けれどいつしか、体調を崩していることに気がついた。
     そのことを相談しようと病院にかかると、未花はそこで、妊娠3ヶ月目だと告げられた。
    「……え?」
     目の前の女医は、ニコニコと笑っている。
    「おめでとうございます。しばらくつわりが辛いと思うんですけど、……」
     身に覚えがなかった。
     いったい誰と? 付き合っている人なんていなかったはず。なのに……
     メッセージアプリを開くと、未花の記憶にないアカウントがトークの上部に固定されていた。
     Aki。そういえば、告白してきたあの後輩の名前――。
     その欄をタップすると、やはり身に覚えのないやり取りが大量に積み重なっていた。

    『デート楽しかった!また行こうね』

    『みかちゃんが喜んでくれてよかった♡』

    『あきくんと一緒なんだから嬉しいに決まってるよ〜』

     今まで何の存在感もなかったはずの下腹部に、嫌な重みがのしかかるような錯覚がする。
     ここに、自分じゃない『何か』がいる。
     未花はスマホを取り出した。電話アプリを立ち上げて、代行サービスに電話をかける。
     電話はすぐに繋がった。
    「アンタ、人の体で何してくれてんのよ!!」
     視界が真っ赤に染まってしまうのではないかと思われるほど、頭が熱くなっていた。
    「私の体、妊娠してるって――」
     そこまで叫んで、気がついた。
     今はまだ『一週間使い放題コース』の契約期間のはずだ。
     そして代行をさせる呼び出しの合図は、『大江への通話開始ボタンを押すこと』だった。
     なぜ、今、普通に通話が繋がっている?
     どうやって、その区別を――。
    『申し上げたはずですよ、責任は負わないと』
     その声を聞いて、未花は思い出した。
     黄昏時。
     それは、人や幽霊、妖怪の世界が、みんな曖昧になって混ざり合う時間なのだと、いつかどこかで聞いた。
    『それに、適正なご利用をと、はっきりお伝えしたはずです』
     ずっとおかしかったのだ。
     人生を代行。なんの情報を伝えてこなかったのに、彼は完璧に未花になりすまして、社会に溶け込んでみせた。
     どうして、今まで気づかなかったのだろう?
     だって、耳・に・当・て・て・い・る・ス・マ・ホ・か・ら・は・、声・が・聞・こ・え・て・い・な・い・。
     耳にスマホを当てたまま、ゆっくりと、後ろを振り返る。
     そこには巨大な影が、まるで未花の背後を覆うように立ち上っていた。
     ロングコートを着た、あの男の――大江の姿が、そこにある。
    「あら。私の居場所に気づくとは……」
     今まで未花が頼んでいた『代行』は。
    「……アンタ……何者なの? なんでここにいるのよ」
     賢い生き方だと信じて疑わなかった、この毎日は。
    「私は、ずっとあなたの傍にいましたよ。あなたが知らなかっただけで」
     揺れる黒いコートの裾。耳元に降り注ぐ声。
     大江はずっと、未花を見ていた。
    「……何が……目的なのよ」
     ずっと彼は近くにいたのに、そのことに、周囲の人間はおろか、未花自身も気がついていなかった。
     そういうことなの?
    「“人の生きる時間”……それが、我々の“生きる糧”ですから」
     未花の手から、スマホが滑り落ちた。アスファルトの上で、カシャンと鳴る。
     このときようやく、未花は悟った。
     関わってはいけないモノに、手を出してしまったのだと。
     未花は、餌になっていた。
     人の姿をした、この化け物の餌に。
     利用し尽くしてやると意気込んだ未花は、そう決めた時点で、この化け物の食い物に成り下がっていたのだ。
     歩道橋の階段に足をかけた。そのまま、ふらふらと上っていく。
     大江は黙って未花の後ろを突いてきた。未花と同じペースで、ゆっくり、一段ずつ。
    「……人の人生をめちゃくちゃにしておいて、なんとも思わないの?」
     上りきってそう問いかけると、大江はカクンと首を傾げた。
    「あなたは、仕事も面倒な人間関係も、何もかもやりたくなかったのでしょう?」
     未花は歩いた。歩道橋の真ん中で、欄干に手をかける。
     取り返しのつかないところまで来てしまった。
     けれど、誰が悪かったのだろうか。
     何もかもを『代行』に任せて楽を選んだ未花? それとも、『代行』にかこつけて好き勝手した大江?
    「……いや、誰でもいい」
     重たい体を乗り出して、その下を見下ろす。
    「最後くらい、私が、自分で決める」
     もう、直らない。
     妊娠した体も、元には戻らない。
     知らないうちに散らかった人間関係も、もう未花にはわからない。
     鞄が肩からずり落ちた。逆さまになって、重力の感覚が消える。
     その瞬間、脳裏に懐かしい顔が浮かんだ。

    (あ……お母さん)

     仕事が嫌になったときに、すぐに相談しに行けばよかった。
     人生がめちゃくちゃになるその前に、会いに行っていれば。
     強い光が迫ってくる。
     車のライトを逆さになって見たのは、これが初めてだった。


     大江は歩道橋の上から、赤く広がる人の血を見ていた。
    「太客だったのに、残念ですねえ」
     集まる野次馬、悲鳴と、青ざめている運転手と、向けられるスマホのカメラ。
     その中で倒れている一人の女。
    「しかし、『女性ヒトの幸せ』に漕ぎつけたはずなのに、何がご不満だったのでしょうか」
     大江は首を傾げ、んん?と声を出す。
    「幸せは人によって違う? そうですか?」
     そのまま踵を返して、歩道橋を降りていく。
    「私は、人間として生きられて幸せでしたよ。堪らなく『美味しい』時間でした」
     赤い舌が、薄い色の唇をひそかに濡らす。
     ロングコートの合わせを両手でかき寄せて、大江は、ぶるぶるっ!と、凍える真似をした。
    「何にしても、我々はヒトの時間を『頂いている』のですから。言えることはひとつだけ」
     暗くなっていく空は、紫色にくぐもっていく。
     風が吹いた。
    「――適正なご利用を」
     クツクツとした笑い声。
     黒いロングコートを着た姿は、薄闇に溶けて、はらりと消えた。

     
     
    成人済み。社不。アルバイター。 字書きであり、たまに絵を描くこともある。 ぬいぐるみと美味い飯と朝露の匂いが好き。 得意料理は「煮」。好きな野菜と、なんらかの和の炭水化物を一緒くたにして味噌で煮た、とりあえず美味しく食べられるなにか。

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