
二人だけの500度参り
父から電話がかかってきたのは、大学四年生の秋。「時代祭を見てみたいから、大阪出張の帰りに京都に寄る」
京都の太秦で借りていた、男子禁制の六畳一間の下宿を父が訪れたのは、後にも先にも、この一度きりだった。
父は寡黙だったから、今までろくに話したことがなかった。何を話せばいいのだろう。実の父親が来るという、ただそれだけなのに、私の頭の中では「何を話そうか」が、ぐるぐるぐるぐる。
当日は、JR嵯峨野線の花園駅で待ち合わせ。会ってから、どんな会話をしたのか覚えていない。まったく、どんな親子なんだか。
私の下宿に初めて来た父は、機嫌よく部屋を見回していた。お茶でも淹れたほうがいいかな、と思っていたら、五分も経たないうちに、「時代祭、行くか」。
時代祭の会場で、父はとにかく歩く速度が速かった。江戸っ子で、御神輿担いで水をぶっかけられて喜ぶタイプだから、これは折り込み済み。ただ、昭和の寡黙な男は、後ろからついてくる女性、つまり私の歩幅を気にしない。やっと追いついたと思ったら、
「もういいや。これから行きたいところがある」
はあ?聞いてないんですけど。戸惑う娘を尻目に、烏丸通りに出た父は、タクシーを捕まえた。だから、早いんだってば。
見慣れない場所を走っているので、どこに連れて行かれるのだろうと思っていたら、タクシーが止まった。
「阿弥陀ヶ峰だよ」
時間は午後三時を過ぎていた。太陽が分厚い雲に隠れ、少し薄暗くなっている。そのせいか、おどろおどろしい。
ここには、豊臣秀吉のお墓があるらしい。日本史好きの父らしい渋いチョイス。私には興味すらないけど。
「さあ、登ろうか。500段あるから、健康にいいぞ」
確かに目の前には石段が続いている。まさか、私も一緒に行くんですか?
父は軽快な足取りで一段、また一段と進んで行く。本気なんだ。根性も体力もない私が、終わりの見えない地獄を制覇できるなんて思えない。でも、普段、話もしない父に「行きたくない」などと言えるはずもなく。
途中で、何度も心が折れた。そんなことにまるで気づく様子もなく、父はルンルン気分でずっと豊臣秀吉の話をしている。
お父さん、気づいてますか?娘はその饒舌過ぎる説明に、もはや何の反応もできていません……。
私の必死さが実を結び、最後の一段に辿り着いた。父はすでに上にいて、一通り眺め終わったようだった。
「じゃあ、降りようか。夕飯を食べに行こう」
あの、私は今、着いたばかりですけど……。休む暇ももらえぬまま、今度は500段の石段をひたすら降りることになった。これは現代版500度参りなのか……。
祇園に着き、江戸前寿司の店に入ると、カウンターに並んで座った。家族で行く店より高級なのは、ひと目で分かる。慣れない雰囲気で背筋が伸びる。
父はメニューを見ながら、
「食べたいもの、注文して。何でもいいよ」
父は早速、日本酒を注文。続いて、刺身の盛り合わせ。目の前のガラスケースのなかに、大好物の光りもののネタが並んでいた。よだれが垂れそうだ。それで、鯵、秋刀魚、鰯をお腹いっぱいに食べようと決めた。
仕送りは送ってもらっていた。土産物屋で接客のバイトもしていた。だが、趣味の観劇やら本にお金をつぎ込んでいたため、食生活は貧乏そのもの。京都で刺身を食べたのは、初めてだった。久しぶりの寿司に舌鼓。頬がゆるむ。
そんな私に父が耳打ちしてきた。
「もっと高いものを食べていいんだぞ」
そうか。父は私が光りもの好きなことを知らないんだ。気を遣って光りものを食べていると勘違いしている。でも、残念。私は高級ネタと呼ばれているものが苦手。マグロ、ウニからはじまり、貝類も好んで食べない。
高いもの。高いものねえ。メニューを必死に眺めてみても、魅力的に感じる値段の高いものがない。でも、ここで「いらない」と言ってしまったら、父の気持ちが……。
「じゃあ、サザエのつぼ焼き」
ふと、口をついて出た。予想外の展開だった。すぐに訂正しようとしたが、時すでに遅し。父はサザエを注文していた。
「サザエは高いなあ」
そうは言っているが、父からは笑みがこぼれている。 確かにサザエがいいと言ったのは私。だけど内心は、台風上陸。
その後、私はさらに悔いることとなる。目の前にやってきたサザエは、なんと二つもあったのだ。口が「え」の形のまま。
私さ、阿弥陀ヶ峰では、とても頑張ったよね。偉かったよね。だから、ここで少しぐらい我儘言ってもいいよね、お父さん。
「一つ食べない?」
頼む、お父さん、食べて。できたら、二つとも食べてください。そうしてくれたら私は一生、お父さんの面倒をみますから。
「早く食べなさい。好きなんだろう?」
今、ひょっとして、私は清水の舞台から突き落とされた?残念ですが、覚悟を決めるときが来ました。あの憎き500段の石段が、今や私の応援団。やればできる。絶対にできる。震える手で貝の部分を持ち、箸で中身を取り出した。白い部分のあとから、肝が続いてきた。そうなんだよ。この黒い部分の、ずりっとする食感が気持ち悪いんだ。いくら高級店でも、この感覚は消せないだろう。
「どうした?だから、気を遣わないでいいと言ってるだろう」
父の最終通告発令。もう逃げられない。鼓動は速くなる一方。
いっせーのせっ。私は口の中にサザエを含んだ。来る。あの、「ずりっ」感が。そう思ったら、口の動きが完全に止まった。体が拒否している。でも、あの石段を登れたんだ。不可能はない!
「美味しいか?」
父が不意にこちらに顔を向けた。目が合って、体がビクッとした。その拍子に、ゴックンとサザエが胃に落ちて行った。
「うん、とっても」
作り笑顔で、美味しいアピール。父も笑顔で終われて、結果、私の心の中では割れんばかりの拍手喝采。
寿司屋を出て、父が最終の新幹線で東京に帰るというので、京都駅に向かった。
父よ、私は根っからの、東京下町っ子。高級なんて、居心地悪いんですよ。
改札口を通る父に、小さく手を振った。父はうなずいて、新幹線のりばに消えていった。
次の日、母から電話があった。
「お父さんね、石段をたくさん登って疲れたって言ってたけど、あなたと二人だったから、とても嬉しかったみたい。そのあと、お寿司屋さんでサザエを食べたって聞いたけど、嫌いじゃなかったっけ?」
それ以上は言わないで。でないと、あのサザエとの格闘が無駄に終わってしまうじゃないの。
そういえば、父は時代祭見たいと言って来たのに、なぜ阿弥陀ヶ峰なんかに連れて行ったのだろう。もしかして、本当に行きたかったのは……。
早いもので、あれから約30年。そんな父も、すっかり耳が悪くなったけれど、まだまだ元気。実家に帰ると話はするけど、あの阿弥陀ヶ峰に行った日のことをふり返ることはない。
でも、500度参りの効力が本当にあるなら、あの日のことは二人の中にずっと残っているはず。あの石段は、二人とももう登れないから、ずっと効いてるといいね。
でもお父さん。私はサザエの「ずりっ」感がやっぱり許せない。だからあの日、一緒に行った祇園のお寿司屋さんで、サザエとは永遠の別れをしたんだ。 (了)