■第3話「記録にない人間は、最初からそこにいない」
朝の工場は、いつも通り動いていた。
機械の音、ラインの流れ、無表情な作業員たち。
何も変わっていないはずなのに、昨日よりも少しだけ空気が重い気がした。
⸻
出勤カードを切る。
ピッ。
正常音。
だが、その“正常”という感覚が、もう信用できなかった。
⸻
休憩室に入る。
昨日いなかったはずの場所に、昨日と同じ人数が座っている。
違和感はもう驚きに変わらない。
代わりに残っているのは、妙な“納得できなさ”だけだった。
⸻
「おはようございます」
隣の作業員に声をかける。
「昨日の夜勤、例の人……」
言いかけた瞬間、遮られた。
「ずっと同じメンバーだって」
それだけだった。
会話はそれ以上広がらない。
まるで“その話題自体が存在しない”ように。
⸻
そのときだった。
作業端末に通知が出た。
⸻
「個人情報更新のお知らせ」
⸻
嫌な予感がした。
画面を開く。
そこに表示されたのは、自分の名前だった。
⸻
だが、その下に書かれていた情報が、おかしかった。
所属:夜勤ラインB
勤務開始:未設定
稼働履歴:なし
⸻
「……は?」
声が出た。
すぐに確認する。
昨日の勤務記録。
今日の出勤ログ。
全部あるはずだ。
⸻
だが、どこにも“昨日までの自分”が存在していなかった。
⸻
背中が冷たくなる。
急いでリーダーのところへ向かう。
「すみません、これ——」
端末を見せる。
リーダーは一度だけ画面を見て、すぐに言った。
⸻
「問題ない」
⸻
「いや、勤務履歴が消えてます」
「問題ないと言った」
⸻
その言い方は説明ではなかった。
“終了”の宣告に近かった。
⸻
沈黙。
その場の空気が固まる。
周囲の作業員たちは、こちらを見ていない。
見ていないというより、“見ているという行為がない”ようだった。
⸻
その瞬間、理解してしまった。
この場所では——
記録にないものは、最初から存在しない。
そして今、自分はその境界に立っている。
⸻
休憩室に戻る。
自分のロッカーを開ける。
中には作業服と水筒。
どちらも昨日と同じはずのもの。
だが、違和感がある。
⸻
水筒の裏に貼られたラベル。
そこに書かれた名前が、薄くなっていた。
いや、違う。
⸻
消えかけている。
⸻
手が止まる。
そのとき、後ろから声がした。
「そろそろだな」
現場リーダーだった。
⸻
「何がですか」
振り向く。
リーダーは淡々と言った。
⸻
「認識の更新だ」
⸻
「更新……?」
⸻
「この現場ではな、存在は“記録で維持される”」
「ズレが出たものは、修正される」
⸻
「修正……って、誰を?」
⸻
その瞬間、リーダーは初めてこちらを見た。
⸻
「お前だ」
⸻
空気が止まった。
⸻
「今、お前の記録は少しずつズレている」
「だから調整が必要になる」
⸻
その言葉は“脅し”ではなかった。
事務的な処理の説明だった。
⸻
そのとき気づく。
周囲の作業員たちが、少しずつこちらに視線を向けている。
さっきまで“見ていなかったはずの目”が、ゆっくりと焦点を合わせてくる。
⸻
まるで確認しているように。
⸻
「まだ残っているかどうか」を。
⸻
(第3話・終)