
昔話の時間論 ─ 3つの奇物と3つの時間
本物の昔話とは、夢に見ることすら叶わない「奇跡の物語り」(奇譚)に他なりません。今回は『浦島太郎』『竹取物語』『わらしべ長者』の3つの有名な奇譚の中に隠された「時間」に光をあてていきます。それでは、3つの奇譚に登場する3つの奇物を3つの異なる時間と結びつけて解説していきましょう。
浦島太郎 ─ 玉手箱と流れる時間
浦島伝説の原型は、8世紀に編まれた『丹後国風土記』に収められている「筒川嶼子 水江浦島子」だとされています。ちなみに、私たちがよく知っている童話「浦島太郎」は、1918年に採用された教科書『尋常小学国語読本』の第3巻十四「うらしま太郎」がもとになっています。
物語りの要点を並べると、①漁に出た太郎は網にかかった亀を放してやる。②太郎が助けた亀は、じつは常世(とこよ=あの世)の姫だった。③太郎は乙姫にいざなわれて常世に渡り、姫と結婚して3年ほど仲良く暮す。④望郷の念に駆られた太郎が里帰りを申し出ると、姫は「決して開けてはならぬ」と言い添えて玉手箱を持たせる。④太郎が故郷に戻ると、そこに知り合いの姿はなく、太郎は300年前に神隠しに会ったことになっていた。⑤途方に暮れた太郎は玉手箱を開けてしまう。⑥箱の中から立ち上る紫の煙に包まれ、太郎は老人に姿を変えてしまう。── なお、亀との出会い方、常世への行き方、神隠しにあった年月の長さ、物語りの結末などには様々なバリエーションがありますが、太郎が常世で過ごした年月が、その間に現世で経過した時間の100分の1以下であるという設定は、ほぼ共通しています。
さて、常世は人間の居場所としての現世の中には存在しません。なぜなら、常世には現世とは異なる時間が流れているからです。そこは「異世界」であり、人間は生きたまま世界の外に出ることはできません。ところが物語りの主人公である太郎は乙姫に案内されて、あっさり常世に入り込んでしまいます。そして浦島伝説では、この世とあの世の違いは「経過する時間の速さ」として語り表わされます。
常世の3年が現世の300年に相当するということは、常世の時間経過のスピードは現世の100倍だということになります。経過する時間は、未来からやってきて過去へと流れ去る時間です。ところが時間は、動いている物が・どれだけのあいだ動いたのかを計る物差しでもあります。だとすれば、動いているのは物であって時間ではないはずです。にもかかわらず私たちは「時間が流れる」と言います。流れる時間は、静止している物に眼差しを向けている場合に出会っている時間を指し、物差しとしての時間は、動いている物を眺めている場合に出会っている時間です。この2つの時間は、時間の2つの異なる側面です。そして、以下に述べる第3の側面こそ、日頃の私たちにとって最も身近な時間なのです。
日頃の時間とは「何かをするために用いている時間」です。私たちは、何かをするに先立って時間を用意し、用意した時間を未来として投げ渡します。多くの人は「今日一日」を職場で働くために投げ渡し、それを用いて出社したり、働いたり、休憩したり、帰宅したりします。私たちは、すでに用意してある時間(過去)を、あらかじめ何かをするための時間(未来)として投げ渡しつつ、絶えず物が動いたり止まったりしている時間(現在)を見渡しています。この過去・未来・現在の3つの時間こそ、私たちにとって最も身近な時間なのですが、多くの人は3つの時間が同時に現われていることに気づいていません。3つの時間は、常に何かしらの手応えをともなって私たちの目の前に現われ続けています。じつは、時間の手応えの強弱が「流れる時間」の遅い速いを決める物差しになっているのです。
私たちは、時間の手応えが強いほど時間の流れを遅く感じ、弱いほど速く感じます。そして「時間の流れが遅い」と感じることをストレスと呼びます。ストレスが多い人とは、常に時間の手応えが強い人を言い、すみやかに流れて行かない時間に耐え続けている人を指します。かたやストレスが少ない人とは、常に時間の手応えが弱い人を言い、ストレスが少ない人ほど時間の経過に気づきにくくなります。従って、ほとんどストレスのない人生を送っている人がいるとしたら、たとえ100年が経過しても「一夜の夢」と思い込むことすら起こり得ます。
常世の時間が現世の100倍のスピードで流れているということは、あの世でのストレスは、この世のストレスの100分の1だということになります。生きたまま常世に移り住んだ太郎が、あの世の時間の速さに気づかなかったのは、乙姫が太郎のストレスを抜き取って玉手箱の中にしまい込んでいたからです。したがって、玉手箱から舞い上がった紫の煙とは、太郎が現世において引き受けるはずだった「300年分のストレス」だったのです!
太郎が「里帰りしたい」と申し出た時、乙姫は隠していた「危険な箱」を太郎に渡し「何が起こっても決して開けてはなりません」と言い添えます。しかし、なぜ乙姫は何がなんでも自分のもとに戻ってきてほしい最愛の人に、あえて玉手箱を持たせて送り出したのでしょうか? 乙姫が玉手箱を隠したままにしておけば、いずれ太郎は竜宮城に舞い戻ってきたのではないでしょうか?
3年のあいだ太郎と寝食を共にした乙姫は、現世に戻った太郎が「時間差のショック」に耐えられないことを知っていました。案の定、心が折れてしまった太郎は、途方に暮れて唯一の持ち物である玉手箱に手を伸ばします。食べてはならぬと言われれば食べたくなり、開けてはならぬと言われれば開けたくなるのが人情です。ましてや中身が何なのか知らされていなかった太郎は、姫が箱の中に入れた物を見てみたいという誘惑に負けてしまいます。現世に戻った太郎がどうなるか、あらかじめ見抜いていた乙姫は、現世に生きる人間の定めである「老い」を太郎に返すことによって、太郎をパニックから救おうとしたのです。
しかし、なぜ乙姫は「困ったら、亀に姿を変えた私が現われるのを待ちなさい」と伝えなかったのでしょうか? それは、現世と常世の違いが流れる時間のスピードの違いにあることを知った太郎が・あらためて常世で暮らすことになれば、今度は常世の時間、すなわち「ストレスのない永遠」が太郎のストレスになるからです。太郎は、常世と現世の違いに気づけなかったからこそ「永遠の国」で面白おかしく暮らせたのですが、里帰りした太郎は、あらためて自分が「終わりのある時間」(人生)の中に置かれている人間の一人であることに気づかされます。
ストレスとは「人生の手応え」すなわち苦しみに他なりません。人間は、常に苦しみに耐えつつ・死に向かって老いゆく道の上を歩んでいると心得ているからこそ、80年もの歳月に耐えられるのです。3年間パラダイスで過ごした太郎にとって、現世での残された時間が拷問にも等しくなることを見抜いていた乙姫は、太郎に「すみやかな死」(玉手箱)を持たせ、太郎が必ず箱を開けるように「開けるな」と言い添えて送り出したのです。
私たちは、一人残らず「空っぽの玉手箱」を持たされて人生のスタートラインに立ちます。しかし現代人は、あたかも人生が永遠に続くかのように常に「楽」を求め続けているため、私たちの玉手箱には刻一刻と「苦」が詰め込まれていきます。だとすれば、そのつどキッチリ苦しみを引き受けていけば、人生の終わりに至っても玉手箱の中は空っぽのままなのでしょうか?
常に苦しみを受け入れ、素直に老いを迎え入れ、静かに死を待つ人は、常に自分の玉手箱の中に喜びを蓄え続けている人であり、最も豊かで安らかな人生を送っている人です。その人は、惜しみなく喜びを配る人であり、誰に向かっても穏やかに語りかける人です。しかし、その人が語る喜びには少なからぬ苦味が含まれています。なぜなら喜びとは「直視された苦しみ」に他ならず、その人は「常に苦しみを受け入れられるようになることが本当の夢である」という矛盾した夢の語り手だからです。浦島伝説は、最愛の人に死を与えざるを得なかった乙姫の苦しみを「常世の夢」として語り伝える、矛盾した話(奇譚)なのです。
竹取物語 ─ 天の羽衣と永遠
『竹取物語』は平安時代初期に成立し、現存する日本最古の物語りとされています。よく知られたストーリーではありますが、一応あらすじをたどっておきましょう。
①竹取の翁は竹林で光る竹を見つけ、その中で眠っていた10cmほどの女の赤ちゃんを連れ帰り大切に育てる。②その後、竹の中から金が取れるようになり翁の家は裕福になる。③女の子は3か月ほどで年頃の美しい娘に育ち「なよ竹のかぐや姫」と名づけられる。④あまりの美しさに大変な評判を呼び、一目かぐや姫を見ようと多くの男どもが翁の家を訪れるようになる。⑤姫は、正式の求婚者として残った5人の貴族男性のそれぞれに、結婚の条件として珍しい宝を持ってくるように伝えるが、誰も課題をクリアできなかった。⑥ついに帝からも求婚されるが、姫はかたくなに拒み続け、帝は仕方なく姫への想いを歌に詠んで送りつけるようになる。⑦帝と和歌のやり取りを始めてから3年目の8月、姫は月を見上げては涙ぐむようになり、心配する翁に秘密を打ち明ける。「私はこの世の者ではありません。私は天界から来た者であり、次の満月の夜には月に帰らねばなりません。」⑧満月の日、帝は兵を揃えて天界からの使者たちを追い返そうとするが全く歯が立たず、姫は不死の薬を手紙に添えて帝に渡すと、天の羽衣を着せられて「物思い」を失い、空飛ぶ車に乗って月に帰ってしまう。⑨帝は「姫のいない世界で不死になったとて何になろう」と、月に最も近い日本一高い山のてっぺんで手紙と一緒に不死の薬を燃やしてしまう。以後その山は「不死山」(富士山)と呼ばれ、山の頂からは今も白い煙が立ち昇っている。
さて、光る竹の中に眠っていた赤ちゃんは、わずか3か月で年頃の娘に育ちますが、年頃を18歳とすると、姫は72倍のスピードで成長したことになります。『浦島太郎』では、常世の1年は現世の100年に相当しましたが、『竹取物語』では逆に現世の1年が月世界の72年に当たることになります。私たちが『竹取物語』から読み取ろうとしている時間は「永遠」ですが、その前に天の羽衣によって消し去られる「物思い」(記憶)について解説しておきましょう。なぜなら記憶と時間には深い関わりがあるからです。
記憶という熟語は、記憶力と記憶対象(記憶された物)をともに名指します。記憶力とは、過去に出会った物を覚えておく心の働きであり、また過去に出会った物を思い出す働きでもあります。しかし私たちが覚えたり思い出したりしている記憶対象は、物体ではなく物の存在(それが何であるか)です。記憶力は、過去に出会った物の存在を保持しつつ・想起する心の働きです。天界からの使者は、不死の薬を姫に飲ませた後、天の羽衣を着せて姫の心から記憶を消そうとしますが、その前に姫は、帝と文通を重ねた3年の月日を想起しつつ和歌をしたため、不死の薬とともに帝に贈ります。
『竹取物語』の中では、物思いは「過去への思い」だけを指していますが、私たちの思いは過去だけでなく、現在にも未来にも向けられています。もしも天の羽衣によって失われるのが記憶だけだったとしても、かぐや姫は、自分が出会っている様々な物の「何であるか」が分からなくなり、それらの名前を呼ぶことも・それらを正しく用いることもできなくなってしまいます。じつは天の羽衣が消し去る物思いとは、記憶力ではなく記憶対象であり、しかも人界での記憶対象に限られます。なぜなら天界から迎えが来ることを知っていた姫は、人界に来る前の天界の記憶対象を保持していたはずだからです。天の羽衣は、姫のココロから人界の汚らわしい記憶を消し去り、天人にふさしい美しい記憶だけを残す天界の奇物です。もう一つの奇物である不死の薬を飲んで「老い」を止め、さらに天の羽衣を羽織って初めて、姫は天人に戻ることができるのです。
天界の住人たちは、美しいだけでなく不老不死であり、したがって永遠に生き続ける人たちであり、永遠に生きる人は「永遠の記憶」を保持しているはずです。にもかかわらず、姫は「天人に物思いはない」と言い切っています。記憶があればこそ、私たちは人と話したり・様々な物を用いたりできるのであり、天人と言えど人間に向かって語りかけたり・空飛ぶ車を操ったりしている限り、記憶対象を保持・想起しているはずです。じつは、姫が言う「物思いがない」は「記憶対象にわずらわされることがない」を意味しているのです。
私たちは、常に大なり小なり記憶対象によって悩まされています。「悩む」とは、記憶対象にココロを乱されることを言います。人間は、いともたやすく記憶対象に囚われて悩みますが、清らかなココロを持ち・美しい姿をした天人は、いかなる記憶対象にも悩まされることはなく、したがって後悔したり・言い訳したり・うろたえたりすることなく永遠に生き続けます。しかし「生きる」とは「死に向かっていく」を意味し、できるだけ有意義な仕事に取り組みながら限りある時間を過ごすことこそ人生であるはずです。つまり「永遠の人生」という言い方には矛盾が含まれているのです。では、天人の矛盾した人生とはどのような人生なのでしょうか? そもそも永遠とはどのような時間なのでしょうか?
現代物理学においては、ビッグバンによって宇宙が誕生してから138億年が経過したとされています。138億年とは、地球が太陽の周りを138億周する間に経過する時間を指しますが、地球を含む太陽系の惑星が安定した軌道上を周回するようになったのは45億年前です。さらに、地球上に生物が誕生したのは38億年前、その中から人類の祖先が現われたのは500万年前、人間が文字を用いるようになり「人類の記憶」(歴史)が記録されるようになってから・わずか数千年しか経っていません。とは言え宇宙年齢としての138億年といえど永遠に比べれば「無に等しい」と言わねばなりません。理論物理学者たちは、いずれ宇宙はビッグバンが起こる前の「根源的素粒子」のサイズにまで収縮すると考えていますが、私が知る限り「いずれ宇宙そのものがなくなってしまう」(一切が無に帰する)と断言する科学者はいません。
宇宙とは、あらゆる物質を含み込んでいる「時空間」に他なりません。宇宙を構成する3つの要素(物質・時間・空間)は物体ではなく、宇宙を成り立たせている存在です。物質の集まりとしての個々の物体は常に変化しているため、永遠に同じ姿をしている物体は一つもありません。万物は常に生成消滅を繰り返し、宇宙は一時も同じ姿を見せることはありませんが、宇宙を構成する3つの存在は常に同じです。
永遠に同じであり続けるのは、個々の物体ではなく存在です。永遠とは「常に同じ存在であり続けること」を言い、永遠に生きる天人の存在とは「乱れなきココロ」なのです。 永遠に生きることは、乱れることなく常に同じココロを保ち続けることを意味します。天人の人生とは、乱れないココロを保ち続けることに他ならず、『竹取物語』の中に登場する天人は、人間を超えた理想の人間、すなわち「仏」を指し示しているのです。
古代の日本人は、大陸から伝来した仏典の中に描かれたお釈迦様にあこがれ、いつしか誰もが「仏になりたい」と願うようになりました。「仏になる」とは、自分のココロを永遠に変わらない存在に目覚めさせることによって、何が起きても乱れないココロになることを言います。乱れないココロとは、永遠の存在と1つになった「仏心」を指し、仏になった人は永遠の人生に入り込むことになります。永遠の人生とは「無限に続く人生」ではなく、いかなる記憶対象にも乱されることのない「乱れなき人生」を指します。『竹取物語』は、かぐや姫の美しい姿に理想の人間(仏)の姿を重ね合わせることによって、読者のココロを最高の夢(成仏)に向けて羽ばたかせる「夢の羽衣」なのです!
わらしべ長者 ─ 1本のワラと瞬間
私たちは、2つの昔話の中に出てくる2つの不思議な物を2つの異なる時間と結びつけて解説しましたが、『わらしべ長者』には奇物と呼べるほどの物も、常世や天界などの異界も、この世の者ならぬ美女も登場しません。主人公はマジメで思いやり深い男なのですが、それだけでは奇譚は成り立ちません。一見ありきたりなサクセスストーリーのどこに奇跡が隠されているのかを明らかにする前に、物語りの冒頭を読んでみましょう。
『昔、ある一人の貧乏な男がいた。毎日まじめに働いても暮らしが良くならないので、何とかして貧乏から逃れようと観音様に願をかけたところ、「初めに触ったものを、大事に持って旅に出なさい」とのお告げをもらった。男は観音堂から出るやいなや石につまずいて転び、偶然1本のワラしべに手が触れた。男はお告げ通り、そのワラしべを手に持って道を進んでいった。ところが彼の顔の周りを大きなアブが飛び回り、わずらわしくて仕方がない。そこで男はアブを捕まえると、ワラしべの先に結び付けてやった。すると、傍で大泣きしていた男の子がアブが結び付けられたワラしべを欲しがるので、男は観音様のお告げを信じて譲ろうとしなかったが、子供に手を焼いていた男の子の母親が「ミカンと交換しよう」と申し出てきたので、ワラしべを男の子に譲り、代わりにミカンを受け取った。』(ウィキペディアより)
このあと男は、ミカンを反物(布地)と、反物を馬と、馬を屋敷と交換し、さらにマジメに働き続けることによって長者(富豪)になるのですが、私が『わらしべ長者』を日本の奇譚の一つとして取り上げるのは、「偶然手にしたつまらない物を大切にすることによって長者になった」という幸運譚だからではなく、「他人を利することが結局は自分を利することになる」という教訓譚だからでもありません。この昔話に秘められた奇跡とは「決断の瞬間」に他なりません。
さて、主人公の男は、真っ先に貧乏生活から脱出する決断を下します。男は、その決断に従って観音堂におもむき、観音像に向かって手を合わせ、観音様から「初めに触ったものを大事に持って旅に出よ」というお告げを授かります。このように、男のサクセスロードは1本のワラを手に持つことではなく、「貧乏生活から脱け出す」という決断を下すことから始まりました。この決断がなければ、観音堂に行くことも、お告げを与えられることも、旅に出ることもなかったはずだからです。
男は「観音様に向かって熱心に祈れば、貧乏から脱け出すためのアイデアが思い浮かぶだろう」などという気の抜けた考えにもとづいて観音像の前に立ったのではありません。男は、生きるか死ぬかの瀬戸際に立ちつつ・長々と苦しみ続けたからこそ決断の瞬間に至ったのです。子供むけに書き直された童話の中には男の苦境がハッキリ描かれておらず、あたかも男が軽いノリで観音堂におもむいたかのように書かれていますが、当時の貧乏は、私たちがこの熟語から思い浮かべる有り様をはるかに超えた危機的状況、すなわち「死との直面」でした。
童話『わらしべ長者』は、12世紀以降に成立したとされる『今昔物語集』の巻第十六・第二十八「長谷に参りし男、観音の助けによりて富を得たる話」がもとになっています。元話では、男は奈良時代に開山した長谷寺の十一面観音菩薩像の前で次のように語ります。『私はとても貧しく、しかも頼れる者は一人もおりません。もしも、私の人生がこのまま終わるのであれば、観音様の前で餓死します。少しでも私を助けてくださるつもりがおありなら、そのことを夢の中で示してください。私は、それまで決してここを動きません。』
人生最大の決断は「死」を覚悟することによって下されます。男は、餓死をもいとわぬ覚悟にもとづいて「危機から自分を救い出す」という決断を下し、さらに「観音堂に行き、何が何でも観音様のお告げを頂く」という行動に出ました。しかし男は、まず覚悟し、次に決断し、そのあと行動に出たのではありません。なぜなら、この3つは瞬間においては同時に起こるからです。
瞬間という熟語は一般的には「極めて短い時間」を指しますが、ここに言う瞬間は、或る珍しい出来事を指しています。日頃の私たちは、常に「まずこれを、次にあれを、その後それをしよう」と身構えていますが、激しい痛みに耐えたり、深く悩んだり、大きく迷ったりしていると、私たちの行動は大幅にとどこおります。重い苦しみによって行動がさまたげられ続けると、時間が経過するスピードはどんどん遅くなり、いずれ時間は静止してしまいます。この「長く続いた苦しみの果てに時間が止まってしまう出来事」こそ瞬間に他なりません。
瞬間は苦しみの終わりであり・新たな行動の始まりです。死を覚悟しつつ・決断しつつ・行動に踏み出す瞬間は、人生最高の出来事であり、そこには人生最高の喜びがともないます。瞬間は、苦しみに耐え抜いた人だけに与えられる「ごほうび」なのですが、ほとんどの人は「苦しみは悪である」という常識に従って常に快適に過ごし続けようと身構えているため、瞬間に立ち会うことなく一生を終えてしまいます。瞬間は、喜んで非常識になる出来事であり、死を覚悟した人は、瞬間に至るまで従い続けてきた常識を手放しつつ、非常識な行動に踏み出します。
瞬間は、流れる時間を断ち切る出来事であり、常識に引きずられ続ける「ありきたりな人生」に打たれるピリオドです。人間は瞬間に至って生まれ変わるのであり、最高の瞬間は完全に生まれ変わる瞬間、すなわち「死の瞬間」です。死の瞬間に立ち会った人は、恐れを知らない非常識な人に生まれ変わります。観音堂におもむいた時、男はすでに非常識な男に生まれ変わっていたのであり、だからこそ観音様の非常識なお告げを受け入れて、最初に手に触れた1本のワラを握りしめたまま旅を続けるという非常識な行動を平然とこなすことができたのです。しかも男は、お告げを破ってワラをミカンと取り替えるという、より非常識(自由)な行動に出ます。
男は、苦しみに耐えぬき・瞬間に立ち会うことによって、観音様のお告げにさえ縛られない自由な人に生まれ変わりました。自由な人は、常に喜びに包まれている幸福な人であり、幸福な人は誰に対しても親切に振る舞える人です。親切な人は、困っている人を喜んで助けることができる人であり、他人を助けることはココロを豊かにする最短の道です。ココロが豊かな人こそ裕福な人であり、どれほど多くの財産を持っていても、ココロが豊かでなければ意味がありません。人生に意味を与えるのは、自由のアカシとしての喜びであり、喜びは苦しみを持ちこたえて瞬間に立ち会ったアカシとして与えられます。人間の目的は「自由であること」に他ならず、この目的を果たすには苦しみを避けて通ることはできません。苦しみに耐えている人は人間であることに耐えている人であり、本者の長者である「ココロが豊かな人」になりつつある人なのです。
人間は一人残らず「私のワラしべ」を手にして旅するように定められており、本当の人生は何が自分のワラしべなのかを知ることによって始まります。「人生の目的を持つ」とは、最も自分にふさわしいワラしべ(天職)を見つけ出し、それをより良く成しとげようとし続けることを言います。天職は、瞬間に立ち会うことによって見い出されつつ・つかみ取られつつ・始まります。つまり、天職の発見と選択と開始は同時(瞬間)なのです。
苦しみに耐えぬき・瞬間に立ち会い・天職を始めることによって、私たちは「本者」の仲間入りを果たします。『わらしべ長者』に隠された奇跡とは「本者になる瞬間」に他ならず、常識に逆らって苦しみに耐え続けることができれば、瞬間は必ず起こります。私たちは、本者になる(自由である)ために生まれてきたのであり、瞬間に立ち会うことは「人間の夢」なのです。この夢を果たした自由な人たちが歴史上の偉人なのであり、私たちは人間である限り、誰でも偉人(本者)になることができます。── 瞬間こそ、私の天職である存在論の中に隠された奇跡であり、「人生の目的を持て!」というメッセージこそ、私の家族である日本人に捧げる「1本きりのワラしべ」なのです。