
ガラスの向こう側の恋:第十話 心のアルバム ~40代物理学者が本気で恋愛小説を書いたらこうなった~
ガラスの向こう側にはハルちゃんが立っていた。
僕はガラス越しに人の心が……見えない?僕の頭から数式が次々に消えていく。僕が恋をした人がガラスの向こうにいる。そのガラスの向こう側へ僕は行く。
後ろでシノさんがつぶやいていた。
「あれ?ハルちゃん着替えてきた?ワンピース?メイクもしちゃってる?」
ハルちゃんの前にゆっくりと近づくと口が勝手に開いた。
「その服……」
「似合いますか?」
「……すごく似合ってる。僕のために?」
「……はい」
「ハルちゃん、綺麗だ」
「翠さん」
「うん?」
「私の心のアルバム、翠さんでいっぱいになっていたようです」
と言うと、ハルちゃんは泣きながら強く僕に抱き着いてきた。僕はハルちゃんを優しく抱きしめた。静寂が周りを包む。しばらくすると、僕の腕の中でハルちゃんがつぶやいた。
「翠さん」
「ん?」
「愛してます」
「え?あ、ああ……」
「翠さんはどうなんですか?」
「僕もハルちゃんを愛してる」
「へへ……うれしい」
「僕もだ」
「私、未来へ進むのが怖かった。翠さんとの未来へ。でも、今は違う。翠さんと一緒に進みたい。同じ未来へ」
「うん、うれしいよ」
二人は目を合わせると微笑みながら恥ずかしそうに眼をそらす。カウンターの中では半年は持ちそうないじりネタを見つけてうれしそうなシノさん。その横には相変わらず不愛想なマスター。
「お客さんもいないし、今日はもう店閉めるわよ」
「……わかった」
いま、この腕の中に僕の幸福を最大にしてくれる存在がいる。この状態を物理学者っぽく言えば、恋愛方程式を解いたとでもいえばかっこいいのかもしれないが、解いた自覚は全くない。
「おーい、そろそろ店に入れ!」
シノさんの声でハッとして二人で店に入る。すると珍しくマスターがハルちゃんに言った。
「おい、ハル。ヴァイオリン弾くから付き合え」
「え?」
「ハルちゃん、もう店閉めたからピアノ弾き放題よ。今日はあなたたちへの祝福として貸し切り」
「あ、はい!」
マスターはヴァイオリンを準備し、ハルちゃんはピアノの前に腰かける。
少し準備した後で、二人の演奏が始まった。その曲を聴いてシノさんの顔がにやける。
「おい、清楚系。エルガーの愛の挨拶だって」
シノさんがハルちゃんにも聞こえるようにわざと大きな声で言いながら僕の背中をたたいた。シノさんに背中をたたかれて、僕は照れて俯くしかなかった。後ろ姿のハルちゃんも照れているようで少し俯いていた。そして、カウンターに腰かけてマスターのヴァイオリンとハルちゃんのピアノを聞いていた。ハルちゃんとマスターとの組み合わせは、シノさんとマスターとはちょっと違うように感じたが、この組み合わせはこれでいい。マスターがハルちゃんに合わせてくれているようだ。隣にはシノさんが座っていた。ヴァイオリンを弾きながらマスターはちらっとハルちゃんの方を見た。
「マスター、ハルちゃんに微笑んでいるよ」
「ふふ、そうね」
「あれがマスターの卒業証書。僕もさっきもらったよ」
「ああ、やっぱりあんたって勘がいいわね、お見通しってことか」
「職業病ってやつ」
「ハルちゃん、もう私よりも上手かもしれないね」
「ピアノの演奏はよくわかんないけど、心に響いてくるのはわかるよ」
「今日のあんたなら特にね」
僕はシノさんの方を向くと目が合い、シノさんに微笑みかけた。
この時、恋愛物理学は人間の幸福と繋がっていることに気が付いていた。幸福を構成する一要素が恋愛というわけだ。恋の方程式の解は沢山ある幸福の方程式の中の特殊解に過ぎなかった。だから恋愛は重要ではない、という意味ではない。むしろ幸福を大きく変化させる最も強力な特殊解の一つである。
人は皆、それぞれの形は異なるが、幸福になるために生きている。では幸福とは何か?と問われるとこれまではすっきりした回答は持っていなかった。でも、今ではこう言える。幸福とは、未来があることだ。恋愛はその未来を増やす現象の一つだった。人は未来があると信じられる限り、前へ進むことができる。恋愛方程式の先にあったのは、恋愛ではなかった。幸福だったのだ。
もしもシノさんがいなければハルちゃんは僕のことを好きになってはいなかっただろう。そして、マスターがいなければ僕はシノさんのことを深く理解しておらず、ここまでの関係は築けなかったであろう。また、シノさんとマスターがいなければハルちゃんのピアノも成長していなかっただろう。つまり、ここパールヴァティーでは、互いに互いの幸せを願い幸せを高めあう、幸福の相互作用起こっている。互いの幸福到達経路を互いに増やす、これはまさに人生の混合アルカリ効果。
こうして僕はハルちゃんが待つガラスの向こう側へと歩き出した。ガラスの向こう側には僕たちの未来があった。僕はハルちゃんとの未来へ向かって歩き出したんだ。