
エンタメ原作
全国ジュニア数学選手権の合宿会場は、山奥の研修施設だった。
小学生たちは皆、ノートを抱えて歩いている。休み時間ですら数式の話をする子もいる。その中で、一人だけ異様に静かな少年がいた。
朝倉玲央、十一歳。
去年の優勝者。
教師たちは「十年に一人」と言った。
*
「玲央くんって、ほんと綺麗な顔してるよね」
その声に、航は顔を上げた。
言ったのは母だった。
母は昔から若く見える。三十三歳。肩までの黒髪。細い指。笑うと少し小悪魔っぽい。
玲央は困ったように笑う。
「ありがとうございます」
「モテるでしょ絶対」
「いや……」
母は楽しそうだった。
航は無言でペンを回す。
母は昔から、自分のライバルをよく観察する。
サッカーの時もそうだった。
塾でもそうだった。
“敵”に妙に優しい。
*
「あのお母さん、なんなんだろうね」
スタッフの女性が小声で言う。
航の母・真理子は目立っていた。
保護者の中でも明らかに若い。
しかも距離感が近い。
玲央に飲み物を渡す。
肩に触れる。
冗談っぽく笑う。
相手が小学生なのに、どこか“女”の空気が混ざる。
もちろん露骨ではない。
だが違和感は残る。
「息子の友達だから可愛がってるだけじゃない?」
「でも、あれ息子のライバルでしょ?」
その言葉で、少し空気が止まる。
*
航は知っている。
母は玲央を警戒している。
家でも名前が出る。
「玲央くんって集中すると周り見えなくなるタイプっぽいよね」
「プレッシャー弱そう」
「優しい子って崩れる時一気だから」
分析みたいに言う。
でも、どこか嬉しそうでもある。
今日だってそうだ。
「玲央くん、彼女とかいるの?」
母が笑いながら聞く。
玲央は真っ赤になる。
「い、いません」
「えー? 本当かなぁ」
航は問題集から顔を上げる。
玲央の耳が赤い。
——集中切れてる。
航は思う。
母はそれを分かってやっている。
*
第三者から見ると、真理子の行動は曖昧だった。
教育熱心な母親。
子どもの人間関係を円滑にする社交性。
そう説明できなくはない。
だが、説明しきれないものもある。
玲央を見る目。
声の柔らかさ。
褒め方。
視線を合わせる時間。
“男として扱っている”ように見える瞬間がある。
それが周囲をざわつかせる。
*
夜、自販機前。
玲央は一人で炭酸水を飲んでいた。
そこへ真理子が来る。
「眠れない?」
「少し」
「緊張?」
「はい」
真理子は笑う。
「可愛いね」
玲央は目を逸らす。
「玲央くんってさ、ずっと勉強のこと考えてそう」
「……まあ」
「疲れない?」
玲央は少し考える。
「考えてる方が楽です」
「へえ」
真理子は近づく。
香水の匂い。
「でも、たまには別のこと考えた方がいいよ?」
玲央は黙る。
何を言われているのか、分からないほど子どもではない。
でも理解しきれるほど大人でもない。
*
遠くから見ていた教師は、妙な感覚を覚える。
母親と小学生。
会話としては普通。
距離も近すぎない。
だが、空気だけが妙だった。
まるで、相手の集中を溶かそうとしているみたいだ。
天才は没入で勝つ。
ならば没入を崩せばいい。
恋愛感情。
承認欲求。
自己意識。
他者への興味。
そういう“ノイズ”を植え付ければ、集中は乱れる。
もし彼女が本能的にそれを理解しているなら——。
*
「母さん」
部屋に戻る途中、航が言った。
「なに?」
「玲央に何してるの」
真理子は笑う。
「何って?」
「邪魔してる」
一瞬だけ沈黙。
そのあと真理子は肩をすくめた。
「だって強すぎるんだもん」
「最低」
「勝負ってそういうものでしょ?」
冗談っぽい声。
でも航は知っている。
半分は本音だ。
*
そして、もう半分。
真理子自身も分かっていなかった。
ただ面白いのだ。
天才が、自分を見る瞬間。
数式しか見ていなかった目が揺れる瞬間。
頬が赤くなる瞬間。
世界の中心だった知性が、一瞬だけ自分に乱される。
その感覚に、奇妙な高揚がある。
母親としてなのか。
女としてなのか。
本人にも境界が曖昧だった。
廊下の向こうで、玲央がまたノートを開いている。
だが数分前より、明らかにペンが止まっていた。