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米津の夢

    あらすじ

     現代の大学生・和久双亮(わくそうすけ)は、米津地蔵の伝承を調べるため安泉寺を訪れ、不思議な蝶の鱗粉を浴びる。以来、夢の中で江戸時代の米津村へ迷い込み、嵐で座礁した紀伊の御用船の救助に向かう村人たちの運命に関わっていく。積荷の不足をめぐる疑い、役人たちの思惑、そして村を守ろうとする者たちの苦渋の選択。史料にわずかに名を残す「江戸行六義人」の真実は果たして。何度も夢で米津村を訪れる双亮と村人の交流。失われた記憶の断片に触れながら、米津地蔵の時を越えて受け継がれる義の真相へ。双亮の見る夢は本当に真実なのか……。それでも受け継ぐべき物語とは。

    1

     男が瞼を開けると、強い光が目の奥を刺すようだった。
     瞬きを繰り返しながら、痺れた感覚のある右手をどうにか顔の前まで持ってくる。背中や腰の痛みで長く仰向けに倒れていたことがわかった。ぼんやりとした意識がはっきりとするにつれ、ザァー、ザァーという音が大きくなる。ゆっくりと上半身を起こすと、潮風が鮮やかな金色に染められた男の髪を乱した。
     古びた小舟の中に男はいた。目の前には広大な海とどこまでも続く浜辺が広がっていて、舟はその浜に打ち上げられていた。
     ザァー、ザァーという音は波の音で、太陽がそのすべてを強く照らしていた。
     
    「何か動いとるぞ!」
     突然、野太い声が波音の隙間をついて響いた。男が声の方を振り返ると、小舟に駆け寄る三人の褌姿の男たちが目に入った。彼らは皆、真っ黒に日焼けしていて長髪をひとつに束ねている。痩せてはいるが筋肉質な身体をしていて、手には背丈より長い銛を持っていた。三人の目は驚きと警戒、そして強い興味で見開かれている。
    「なんだこいつ⁉ 見たこともない髪の色をしとるぞ!」
     一人の男が金髪を指差しながら叫んだ。
    「肌も赤子みてぇに白いぞ」
     と、もう一人が言う。
    「オラ、聞いたことがある! 海の向こうには肌の色は白く、髪は金色で人を食らうバケモンがおると!」
     最後の一人が興奮気味に話した。
     金髪の男は状況を把握しようと努めたが、まだ頭が回らない。
    「変わった着物だぁ」
     金髪の服をじろじろと見ながら一人の男が言った。
    「よし、身ぐるみ剥いじまおう」
     もう一人が声を上げる。
    「殺っちまおう! 殺っちまおう!」
     三人は互いを鼓舞するように叫び出し、一斉に銛を構え金髪の男に向かって突き出した。
     金髪の男は「うわぁ!」と大声を上げ、反射的に目をぎゅっと閉じた。
     
     次の瞬間、男がハッと目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋だった。
     ベッドの上、激しく鼓動する胸を押さえる。
     古いアパートの一室、ドアの郵便受けから漏れる光、天井のシミ、部屋の隅に立てかけられた竹刀、窓際に置かれた机、その上には開いたままの教科書やノートがあった。
    「夢……」
     窓の外からは、動き始めた朝の街の騒めきが聞こえてきて、幾許か心を落ち着かせるのを手伝ってくれた。
     
     男の名は和久双亮と言った。
     双亮は大きくひとつ息を吐いた。全身に冷や汗をかいている。体を起こし、ベッドの縁に腰掛け、暫く呆然とした。
    「なんやねん、今の夢……」
     双亮は自嘲気味に呟き、顔を両手で覆った。胸や腹に三ヶ所、鈍い痛みを感じる。銛で突かれた場所が痛んでいるみたいだった。
     夢と現実の境界が曖昧になる中、彼は心を落ち着けるために立ち上がり大仰に深呼吸をした。現実に戻った安堵感と、夢の中の恐怖が交錯する朝だった。
     
     双亮は晩夏の朝の涼しさの中、アパートのドアを静かに閉めた。おかしな夢を見て目が冴えてしまった彼は、いつもより少し早いが日課のジョギングに出ることにした。
     浜松駅の南、砂山町に双亮は住んでいる。アパートは昭和の終わりに建てられたもので、築年数通りの劣化具合。その代わり家賃は安かった。六所神社の近くに位置するこの場所から、彼は中田島街道を南へ走って行った。
     朝の空気は澄んでいて、真っ直ぐな道が彼のランニングシューズを心地よい音を立てて迎えた。まだ車は少なく、自分の足音が後ろからついてくるようだった。
    「スゥ、スゥ、ハァ、ハァ、」
     足の運びに合わせ一定のリズムで呼吸をし、彼は走り続けた。
     
     やがて双亮は中田島砂丘にたどり着いた。
     砂浜に足を踏み入れると、砂で覆われた防潮堤の上まで一気に駆け上がった。そこで彼は荒い呼吸のまま広大な遠州灘を眺めた。朝日が海面に反射してキラキラと輝き、水平線はぼんやりと霞んでいる。空と海の境目がとても曖昧だった。
     彼はしばらくその美しさに見とれていた。ここは彼の好きな場所のひとつだった。
     呼吸が落ち着くと「よしっ」と小さな声を出し、今度は防潮堤の上を西へ走り出した。
     
     走り出すと、毎年五月の浜松まつりで凧揚げが開催される広場、凧場が右手に見えてくる。凧場は防風・防砂のための松林の中にあった。その向こうには浜松の街並みが見え、さらにその向こうには天竜地方の山々が連なり、山の頂上には風力発電の風車がいくつも並んでいた。
     一際目立つビルはアクトタワーといい、静岡県下で一番高いビルだ。街中のビル群の中から見るよりも、ここから見た方がアクトタワーの大きさは際立っていて、朝日の中で堂々たる存在感を放っていた。
     左手には長く続く砂浜と海と空。水平線の辺りを航行する貨物船は静止画のように留まって見える。遠く正面には西部清掃工場の巨大な煙突が聳え立ち、その向こうに浜名湖の今切口に架かる浜名大橋が見える。そして西の地平線の向こうに夜を押し出したばかりの空が、それらを静かに包み込んでいた。
     走りながら双亮は、自然の壮大さとその中でも存在感を発揮する様々な人工物に清々しさをもらった。自分の存在がとてもちっぽけに感じ、日々の悩みや嫌な出来事がとても些末なことに思えた。
     彼は、その精神状態を保つように一定のリズムでさらに走り続けた。
     
     しばらく走り続けると、セットしておいた腕時計のタイマーが鳴り響いた。双亮は、立ち止まり息を整えながら再び海を見つめる。朝の光に輝く海は、どこか夢で見た光景に似ている気がした。
     砂浜に打ち寄せる波、少し強い潮風、そして褌姿の男たちが脳裏に蘇る。
    「夢の中の海も、こんな感じやったか」
     そう双亮は呟き、夢と現実の境界が曖昧になる感覚に身を任せた。そして、変な夢だったと改めて思うのだった。
     
     呼吸が落ち着くまで、とりとめのない思考を波間に泳がせていた。
     一匹の蝶が双亮の周りを二度、三度と飛び回り、我に返る。自分ではそれほど長い時間経ったとは思っていないが、汗を吸ったシャツに吹きつける潮風が少し冷たく感じて時計を見た。その時刻に双亮は慌てて来た道を引き返した。
     帰りの中田島街道はだいぶ車の往来が増えていて、朝の澄んだ空気に排気ガスが混ざり始めていた。バス停にはバスを待つ人の列ができている。少しペースを速め双亮はアパートに急いだ。
     
     汗だくのウェアを洗濯機に放り込みスイッチを入れる。狭いユニットバスで冷たいシャワーを浴び、全身の疲れが排水溝に流れていくのを見ながら、8キロ、いや10キロ近く走ったかもしれないと双亮は思った。帰宅はいつもと変わらない時間。走ることに体がだいぶ慣れてきたとも思った。
     双亮は和歌山県出身、中高一貫の学校で強豪として知られる剣道部に籍を置いた。当時、防具をつけたまま校庭を何周も走らされたことから、どちらかと言えば走ることは好きではなかった。
     それなのになぜ今になって走るようになったのか。
     強豪校だけあって練習は熾烈を極めた。道場では先輩からのいびり、暴力といっても過言ではない指導があったが、校庭でのランニングは先輩後輩関係なく皆平等に苦しく、理不尽な指導から解放された。
     あのときの鬱屈とした感情からの解放を求めて、今また走るようになったのかもしれないと彼は思っている。剣道を引退し、地元を離れたいだけで選んだ大学での学生生活に少し味気なさを感じていた。
     
     下着姿のまま食パンを頬張り、コーヒーで胃に流し込む。鞄に教科書、ノートを詰め込み、服を着る。洗濯物を窓の外に干し双亮はアパートを出た。
    自転車にまたがり大学へ向かってペダルを漕いでいると、ジョギングで手に入れた清々しさを少しずつ失っていくような気がした。
     
     浜松駅から徒歩15分ほどの場所に双亮の通う大学はある。この時間、駅から学校へ続くアクト通りは通学の生徒で溢れていた。感染予防のマスク姿は少なくなり、残暑の厳しさからハンディファンを顔に当て歩いている女子学生が多くいた。双亮はそこを縫うように自転車ですり抜けて行った。広く整備された道を颯爽と走り抜け、キャンパス内の駐輪場に自転車を停める。大学の校舎は大きく波打つ屋根を特徴とするユニークなデザインで、その屋根の上には屋上庭園があった。
     
    「おいっ、朝からシケたツラしてんなぁ!」
     挨拶代わりに体当たりしながら乱暴な言葉をかけてくるのは、同じ文化政策学部で学ぶクラスメイト、川上葉波だった。
    「ったく、痛てぇなぁ」
     よろけながらぶっきらぼうに答えるが、双亮はそんなに悪い気はしていない。
     葉波は中背でスリムな体型、セミロングの黒髪は綺麗なストレートで、瞳は明るい茶色をしていた。笑うと少し目尻にしわができるのがチャームポイント、服装はアメカジが好きで彼女の明るく飾らない性格に合っていた。
    「ねぇ、米津地蔵の資料まとめた?」
     少し息を切らしている葉波が言う。
    「一応な。でも、あれじゃ観光客は呼べへんやろ?」
     双亮は葉波の表情をチラッと見て「ちょっと話が暗いって、ありゃ」と続けた。
     二人が話している米津地蔵とは、受講している観光学の授業の一環で、『眠っている歴史遺産を観光資源化するプロジェクト』というもので取り上げている現在の米津町の伝承だ。
     葉波は軽くため息をつき、「米津地蔵ってさ、今から250年くらい前の話だよね?」と双亮に尋ねる。
    「ああ、確かそうやったと思う」
     安永二年、令和五年の現在から丁度250年前の出来事だ。その年の初秋の朝、折からの嵐に巻き込まれ航行不能となった紀州藩の御用船が米津の浜近くに難破。村人たちは総出で救出作業を行い、流された積荷をできる限り回収した。その後、打ち上げられた船の修理も村全体で行っている。
     しかし船が出発する当日、不足分の積み荷を村人が盗んだのではないかと疑念をかけられた。これは御用船の船乗りたちが、自分たちの落ち度を少しでも小さくするために、村人たちにつけた言いがかりだとされる。結局、村の六人の組頭が罪を被ることになった。
     別名、江戸行六義人という伝承だ。
     
     エレベーターの前でドアが開くのを待つ間、双亮はふと思った。こんなことを調べていたからあんな夢を見たのだろうか、と。
     エレベーターに乗り込むと、葉波は話を続けた。
    「村を守るために無実の罪を被った六名の組頭たちは、小塚原の刑場で処刑されちゃった。村人たちは彼らを供養するために小さな地蔵を建てたけど、『罪人を仏として祀るとは何事か!』って咎められ、お寺の薮の中に埋めた。それが昭和初期、敷地の拡張工事の際に掘り起こされ、まことしやかに囁かれていた昔話は本当だったとなった」
    「酷い話だな、改めて聞くと」
     エレベーターが目的の階に到着し、二人は教室へ向かう。
    「これを、どうやって観光資源として活用するか……何か手はない?」
    「無理じゃね? この伝説じゃ観光客は来ないよ」
     双亮は否定的になるのも無理はなかった。
     
     二人が教室に入ると、すでに多くの学生で席は埋まっていた。雑談をしたり、イヤホンで音楽を聴いたり、各々のやり方で授業が始まるまでの時間を過ごしている。そんなざわめきのなか、二人に向かって手を振る男子学生がいた。二人も彼に向かって手を振り返す。
    「おや? 一緒に通学ですか? 仲のいいことで」と冷やかす彼は馬渕航青。彼もまた共に米津地蔵のプロジェクトを進めている仲間だ。航青は、明るい笑顔に人を見透かしたような鋭い目つきで軽口をたたくのが得意だった。
     双亮は動揺を悟られまいと、「たまたま駐輪場で会っただけや」とぶっきらぼうな言い方で返した。葉波も笑みを浮かべ、「そうそう、たまたまね」と答える。
     
     三人で他愛もない会話をしていると一人の初老の男性が教室に入ってきた。ゆっくりとした足取りで教壇に立つと、タイミングよくチャイムが鳴る。
    「え~っと、それでは、この前は、どこまで……」
     小声でぼそぼそとしゃべりながら薄くなりかけた白髪交じりの頭を掻く。グレーのメガネをかけており、中肉中背、いつもスーツ姿ときちんとした身なりをしている。この観光学の授業を担当している小楠元雄教授だ。
     教授は地元静岡出身で、東京の私立大学で観光学を学び、その後アメリカの大学で地域政策学の博士号を取得。日本に帰国後、いくつかの大学で教鞭を執り、現在はこの大学で地域観光学と歴史文化政策を専門に教えている。
     教授の授業は、非常に実践的でプロジェクトベースの学習を重視している。学生たちに実際の地域資源を調査させ、それを観光資源としてどのように活用できるかを考えさせていた。また、教授の授業では多くのフィールドワークが取り入れられており、学生たちは現地調査を通じて実践的なスキルを身につけることができた。
     
     この授業でも、生徒たちはいくつかのグループに分かれフィールドワークを行っていた。双亮、葉波、航青も昨日、米津地蔵のある安泉寺に赴き調査を行ったところだった。
     教室のざわめきが徐々に収まり教授の講義する声だけが響き始める。学生たちは教授の話に耳を傾けながらノートを取るためにペンを構えた。
     教授の声は小声で聞き取りづらいものの、耳あたりのいい語り口で心地よい子守歌のようだった。双亮は授業に集中しようとしたが、今頃になって朝のジョギングの疲れがぶり返してきて、瞼が重くなり、ついには居眠りをしてしまった。
     
     そして、また朝と同じ夢を見た。
     
     太陽の光が目の奥を刺すようだった。痺れた感覚のある右手をどうにか顔の前まで持ってきて日差しを遮る。瞬きしながら目を慣らす。
    同じことを繰り返していた。
     古びた小舟の中に倒れていて、ゆっくりと上半身を起こすと潮風が金髪を乱した。目の前には広大な海とどこまでも続く浜辺が広がっている。
    「何か動いとるぞ!」
     またあの声が波音の隙間をついて響いた。双亮は驚いて声の方を振り返る。小舟に駆け寄る褌姿の三人の男たちが目に入った。
    双亮はそこで「あれ? これって……」と呟いた。
    「なんだこいつ⁉ 見たこともない髪の色をしとるぞ!」
     一人の男が金髪を指差しながら叫んだ。
    「肌も赤子みてぇに白いぞ」
     と、もう一人が言う。
    「オラ、聞いたことがある! 海の向こうには肌の色は白く、髪は金色で人を食らうバケモンがおると!」
     最後の一人が興奮気味に話した。
     双亮は、間違いなく同じ夢を見ていると思った。
    「変わった着物だぁ」
     双亮の服をじろじろと見ながら1人の男が言った。
     あれ? と双亮は思う。服が違う。今着ているのは大学に行くとき着る服だ。朝見た夢では、寝間着代わりのスウェット姿だった。
    「よし、身ぐるみ剥いで殺っちまおう」
     もう一人が声を上げると、三人は一斉に銛を構え、双亮に向かって突き出した。
     双亮は「うわぁ!」と大声を上げ、反射的に目をぎゅっと閉じた。
     
     急な大声と机を蹴る音に教室中がざわついた。
     葉波は驚いて目を見開いている。航青は笑いを堪えながら、「夢でも見たのか」と双亮に尋ねた。
     教室の他の学生たちも興味深げにこちらを見ていた。
    「ちょっと、何してるのよ!」
     葉波は自分のことのように顔を赤らめ声を上げた。
    「あ、あ、あの、すみません」
     慌てて双亮は謝った。
     小楠教授も一瞬驚いたが、すぐに冷静さを取り戻し、優しい口調で「居眠りですか? 顔を洗ってきたければ、どうぞ」と窘めた。その一言で教室中に笑いが広がった。
     双亮は笑い声の中、頭を掻いて照れ笑いを浮かべた。
    だが、心の中ではまったく同じ夢を続けざまに見たことで、何か不思議なことが自分の身に起こっているのではないかと不安になっていた。

    #創作大賞2026

    2

      お昼時に限らず学食はいつも賑やかだった。腹を空かせて食事をしている者がいれば、次の授業までの時間潰しにテーブルを囲んで談笑している者、熱心に勉強している者、様々な学生がいた。
     洒落たデザインの照明が、木製のテーブルや椅子に微かな光を落としている。広い窓からは緑豊かなキャンパスがよく見え、9月も終わりだというのに、一向に弱まる気配のない日差しに木々は疲れ果てているようだった。
     厨房の方から美味しそうな料理の香りが漂う中、双亮、葉波、航青の三人もまた、学食の片隅でコーヒーを飲みながら、他愛もない会話を楽しんでいた。
    「居眠りするなんて珍しいな?」
     航青が笑いながら言う。
    「ジョギングのしすぎね」
     葉波が窘める。
    「それにしても、あんなに驚いて目覚めるなんて、どんな夢見てたんだよ」
    航青は笑いを噛み殺しながら悪戯に聞いた。
     双亮は「あんま、からかうなや」と牽制しつつ、「実は……」と話し始めた。
     
    「今朝のジョギングで疲れていたのかはわからへんけど、急に眠くなって、そしたら同じ夢を見たんや。朝、家で見た夢と同じものを」
    「同じもの?」と葉波、航青の二人が声を揃える。
    「せや、同じもの。浜辺に打ち上げられた小舟の中で目を覚ます夢。褌姿の男たち三人が俺を囲んで、『変わった服を着てるなぁ』『よし、身ぐるみ剥いで殺っちまおう』とか言うねん、ほんで一斉に銛を刺してくるんや。せやから大声出して目ぇ覚ましたんや」
     航青は大爆笑した。
    「何それ? 三人の褌男に殺されるの? アハハハッ! 面白すぎない?」
    「笑うな、アホ」
     双亮が少しムッとして答えるので、航青は「わりぃ、わりぃ」と形だけ謝った。
     葉波は航青と一緒になって笑っていたが、急にスマホで何かを調べ始めた。
    「ね、ね、夢占いだと殺される夢は吉夢なんだって。今の自分から次の自分に変わるステップアップのときなんだって、よかったじゃん!」
    と言いながらも、まだちょっと笑っている。
     双亮は納得がいかない様子で、「いや、それにしても同じ夢を二回も見るなんて、おかしいやろ?」と少し語気を強めて言った。
    「似たような夢を見ることはあるよ」
     航青は笑いを堪えながらそう言い、「お前もステップアップのときが来たんだな!」と双亮の肩を叩いた。
     もう双亮は腕を組んで不貞腐れるだけだ。
     その様子に、葉波も航青も笑いを噛み殺しながら肩を震わせた。
     
     その後、三人はそれぞれの授業に向かった。
     授業を終えたら、屋上公園のベンチで落ち合うことにした。
     屋上公園のベンチはちょっと変わっていて、自分が子供、いや小人にでもなったかのように感じるくらい大きなベンチだった。
     再度、三人で集まった理由は、昨日に引き続き安泉寺にフィールドワークに行くことにしたからだ。
     昨日はアポイントメントを取らずに伺ったため、米津地蔵の調査はできたが、住職が不在で話を聞けなかった。坊守さんが明日の午後ならと時間を作ってくれたので、今日、授業を終えてから改めて伺うことにした。
     
     安泉寺までは葉波が車で連れて行ってくれた。実は、安泉寺は彼女の家の菩提寺でもあった。車の免許はこの夏に取得したばかり。真新しい若葉マークがついた車は、びっくりするくらいの安全運転だった。
    「ふぅ~到着」
     大きく息をついて、満足げに後部座席を確認する葉波。
     双亮と航青は顔を見合わせ「日が暮れる前に着いてよかった」とだけ言った。
    「中古とはいえ、買ってもらったばかりの車で事故るわけにはいかないじゃない」と彼女の言い分だが、「普通は中古も新車も関係なしや。それに友達を乗せとるから余計に事故るわけにはいかんのや」と双亮はツッコんだ。
     
     安泉寺の入り口付近には六体の地蔵が並んでいる。これを米津地蔵と勘違いする人がいるが、これは米津地蔵ではない。米津地蔵は墓地の入り口付近、本堂の西側に建てられた地蔵堂の中に祀られている。
     庫裏の方へ向かうと、人のよさそうなご住職が対応してくれた。
    「ああ、昨日の。確か、川上さんとこのお嬢さんだね。しばらく見ないうちに大きくなって」
    「どうも、ご無沙汰しております」
    「さぁさぁ、どうぞこちらへ。しかし珍しいね、若い人がお地蔵さんを調べるなんて」
     そう言って、住職は三人を地蔵堂に案内した。
     住職曰く、今はネットで調べればなんでも出てくるが、米津地蔵も概ねネットに出ていることがすべてとのこと。
    「あれ以上のことは私もよく知らないんですよ。何せ、まことしやかに伝わってきた昔話ですから。昭和の昔、先々代の住職の時代に本当に地蔵が見つかって皆驚いたと聞いています」
     
     米津地蔵は石像が蓮の台座も含め50センチほどの大きさで、1メートルほどの高さの御影石の台座の上に安置されている。
     御影石の台座は二段からなり、それがふたつ並んでいる。右側には地蔵が、左側には正面に六人の戒名が刻まれた石が安置されている。側面には『安永二巳年 難船ニ付江戸行総代為 菩提村中ニ而建』そして、ふたつの台座の真ん中には『ここに小塚原刑場の砂あり』と刻まれた御影石の石柱が建てられている。また地蔵堂の中には、地元の子供たちが描いた米津地蔵の物語の絵が飾られていた。
     左側の台座、二段目正面には『米津※申』(※は广口口乚)と記されている。三段目には昭和十四年、為墓碑保存、とあり、関係者の名前と八月二十四日の日付がある。
     このことから、台座は昭和の時代に作られたものであることがわかる。八月二十四日は地蔵盆であるため、それに合わせてこの地蔵堂も建立されたそうだ。
    「当時、寺の五畝ほどの所有地が荒れに荒れてしまい、一畝歩ほどにまで狭まってしまっていたんですよ。それで昭和十年の十一月、拡張工事が行われたんです。そのときにこの地蔵が土の中から出てきた。出てきたはいいが、一体何なのか皆目見当がつかない。すると今度は、六人の戒名が刻まれた石が出てきた。それで当時の総代さんが郷土史に詳しかったので尋ねてみたら、もしかするとそれは江戸行六義人の地蔵かもしれない、となったわけです」
     住職は地蔵堂の中に入り手を合わせると、軽く地蔵の頭を撫でた。すると、地蔵の背中から一匹の蝶がひらひらと現れ、地蔵堂から抜け出し本堂の屋根の方へ飛び去っていった。
    「あれ、迷い込んでいたのかな? さぁさぁ、皆さんも、どうぞ中へ」
     葉波と航青は左の戒名の刻まれた石を見て、文字の意味を住職に尋ねた。
    「昨日も見せてもらったんですが、文字が読めなくて」
    「スマホで調べても出てこない文字で」
    「はは、そうだね。この文字はおそらく十干を表していると思うのだけど、民間信仰の庚申塔の影響もあったんじゃないかと考えられているんですよ。ただ、地蔵堂建立後すぐに戦争も激しくなってね、実はよくわかってないことが多いんだ」
     住職は、地蔵についてわかっていることを丁寧に説明してくれた。
    双亮は、地蔵に手を合わせて歩み寄った。
     地蔵の顔にキラキラ輝く粉のようなものがついていた。鱗粉に近いものだ。さっきの蝶のものだろうか? 双亮は人差し指でちょんと触ってみた。すると粉が舞い上がり双亮の顔に降りかかった。
    「うわぁ! ゴホッゴホッゴホッ」
    意図せず吸い込んでしまい、強く咳き込む双亮。何度も咳き込んでいると、徐々に意識が遠のき、双亮はその場に倒れてしまった。
    「双亮! 双亮! ちょっとどうしたの⁉」
    「おい、双亮! しっかりしろ!」
     葉波と航青の声がどんどん小さくなっていった。
     
     双亮が目を開けると、また同じ浜辺に打ち上げられた小舟の中だった。潮風が鼻をくすぐる。またか、と今度はすぐに夢だと気づいた。
    「何か動いとるぞ!」
     という声が耳に入ると、双亮は上半身を起こした。三人の褌男たちがこちらに駆け寄ってくる。双亮は慌てて立ち上がり「待って、待って、殺さんで」と叫びながら、舟から飛び降りた。彼の声に驚いた男たちは立ち止まり、互いに顔を見合わせる。
     舟を挟んで双亮と三人の褌男たちは互いにまじまじと見合った。
    「なんだあの髪の色は⁉」
     一人の男が驚きの声をあげる。
    「今、殺さんでと……言葉は通じるのか?」
     もう一人が疑問の声を上げる。
    「何かやましいことがあるから、殺さんでと言ったんじゃないか?」
     三人目の男が続けた。
     双亮の顔に穴が開くほど三人は睨みつける。双亮はこの場を切り抜ける妙案はないかと思案するが、何も思い浮かばない。
     そのとき一人の男が感情を押し殺した低い声で言った。
    「おい、朱色の舟だ」
    「生贄か?」
     別の男が尋ねる。
    「神饌だと気をつけねばならんぞ」
     と三人目が言う。
     双亮はそこで初めて舟を外側から見た。確かに、自分が乗っていた小舟は朱色に塗られていて、真ん中に白い横線が入っている。そして舟尾には長い櫓がついているが、真っ二つに折れていた。
    「生贄なら、ここで……」
     三人の褌男たちは互いに頷き、双亮に対して銛を構えた。彼らの目には明らかな決意が見て取れる。
     もう切り抜ける妙案など考える暇はない。双亮は、また殺されるのはごめんと、男たちとは逆方向に一目散に走り出した。振り返らず砂の上を必死に駆けた。そのとき、目の前に広がる景色に妙な既視感を覚えた。
    あれ? どこかで見たことが……。
    「うあっ!」
     余計なことを考えていたせいで足を砂に取られ転んでしまった。
     視界がぐるぐると回り、砂に埋もれるようにして倒れ込む。
     
     顔を上げると、褌姿の男たちが銛を構えていた。
     
    「ぐわぁ!」
     と声を上げ目覚めると、目の前には天井から吊るされた金色に輝く天蓋があった。そこは安泉寺の本堂だった。
    「気づいた! 大丈夫、双亮?」
     葉波が覗き込む。
    「熱中症だろ? お前、水分補給してなかったろ?」
     航青が呆れて言う。
     双亮の体は氷枕や氷嚢で冷やされていた。
    「……いや、たぶん、ちゃうと思う」
    「違う? 何が?」
     航青は少しご立腹だ。
    「お、気づいたかい? 今、救急車呼ぶからね」
     住職がスマホ片手に小走りでやってきた。
    「あ、すみません。もう大丈夫です」
     双亮は慌てて起き上がり、救急車を呼ぶなんて大事は御免だと丁重に断った。
    「本当に? 一応病院行っといた方がいいよ。熱中症は甘く見ちゃダメだ」
    「いや、たぶん熱中症ではないと思うんで。本当に大丈夫ですから、ご迷惑おかけしてすみません」
     心配する住職に双亮は何度も頭を下げた。
    葉波、航青も病院ぐらい行っとけよと柄にもなく双亮の体を気遣うが、双亮は「ええから、ええから、帰ろう」と二人を車に急かした。
     
     帰り際、葉波が「あ、そうだ。ついでにうちのお墓も拝んでいこう!」と言った。葉波の家のお墓は古いものだった。葉波の自宅は浜松の街中のマンションだが、本家はこの米津地区にあるのだそうだ。
    「ご先祖様、どうかプロジェクトがうまくいく秘策をください。そんで米津の町が観光地になりますように、ナ~ム~」
    と葉波は声に出して拝んだ。
    「いやいや、観光地って……」
     と航青が途中まで言って、その先は言わなかった。
    「何よ! 無理だって言うの!」
    「む、無理とは言ってないよ」
     と苦笑いする航青。
     双亮はその会話に入る気にもならなかった。
     
     車に乗り込んだところで双亮は二人に言った。
    「さっき、また同じ夢を見たんや」
     

    3

     翌朝、双亮はいつものように早朝のジョギングに出かけた。その日はとても空気が澄んでいて、防潮堤から見る景色はいつにも増して美しかった。それが彼の足取りを軽快にさせた。
     太陽が海面に反射し、波打ち際にきらめく光の帯を作り出す。遠くには浜名湖の今切口に架かる浜名大橋が見える。その背後には渥美半島が広がり、さらにその向こうには南へと続く紀伊半島の山々がうっすらと見えた。双亮は、その壮大な景色に吸い込まれていくように走る速度を上げた。
     しかし、唐突に双亮は足を止めた。
     そして、「ここや」と思わず呟いた。
     夢の中の浜辺は、確実にここだと思った。大まかな景色の在り様が重なっていた。夢の中では浜名大橋はなかったが、今切口からさらにその先、渥美半島が左に緩く弧を描くように伸び、その向こうに紀伊半島の山々がうっすらと見え南へと連なっていく。夢の中で見た光景と一致していた。
     砂浜の形、防風、防砂のための松林など細部までは流石に違う。砂浜は夢の中の方がはるかに広かった。松林は逆に疎らで所々にしかなかった。何より、この防潮堤がない。細かな部分が違うのはなぜか。もしかしたら時代が違うからかもしれない。
     ふと松林の向こう、浜松の街の方へ目を向ける。それほど遠くない場所に、安泉寺の本堂の屋根が見えた。
    「やっぱり似とる」
     ここだ。時代はわからないが、夢の中の浜辺は米津の浜だ。双亮はそう確信した。
     
     どうしてこんな夢を見るようになったんや?
     双亮はそう考えながら、防潮堤の上に立ち尽くした。
     米津地蔵のプロジェクトに対して特別な思い入れがあるわけではない。むしろ、上手くいくわけがないとさえ思っている。もしかすると米津地蔵はまったく関係なくて、日課のジョギングコースが昔の風景になっていることに何か意味があるのかもしれない。
     こういうときは、何を調べればええんや? 夢占い? いや、夢診断か? もっとちゃんとした精神分析になるんやろか?
     兎に角、一度家に戻って調べた方がよさそうだと双亮は思った。
     双亮は居ても立っても居られず踵を返した。
     
     夢の浜辺が米津の浜であることを確信すると、双亮の胸に妙な不安が生まれた。剣道で喉元に強烈な突きをもらったときのような、息が詰まった感じがずっとある。
     アパートに戻ると、大急ぎでシャワーを浴び、パソコンの前に座った。
    夢占いや夢診断のサイトを次々と開き、検索バーに『夢の中で殺される』『生まれる前の時代の夢』『タイムトラベル』などと入力し、表示された結果をひとつひとつ読み進めた。しかし、どれもありきたりな解釈ばかりで、双亮の抱える疑問にはまったく答えてくれなかった。
    「何々、殺される夢は新しい自分に生まれ変わることを意味しとる。これは葉波に言われたやつや。他は、タイムトラベルの夢は現実逃避か。これはちょっと当たっとるか? あとは、前世または先祖との繋がり? ホンマかいな」
     心当たりのあるものからどうも的外れなものまで、いくつも解釈は出てくるがどれもピンと来ず、流石に苛立ちを感じ始めた。
    「なんやねんホンマに」
     大学へ行く時刻が迫っていた。
     双亮はパソコンを閉じ、大学へ向かう準備を始めた。
     そんなときだった。スマホが鳴った。ディスプレイには『母』の文字が浮かび上がっている。少しためらいながらも双亮は電話を取った。
    「はい、もしもし。」
    「双亮! ちょっと、あんた元気にしてるの? 全然連絡よこさへんやない。夏休み、帰省せえへんかったのお父さん怒ってます。お姉ちゃんもお兄ちゃんもちゃんと帰ってきはったよ、あんたはどういうつもりなの?」
     母の声はいつもと同じように少し厳しめで、双亮の心にはトゲトゲしく響いた。
    「忙しかってん、色々と」
    「忙しいなんて、言い訳にならないわよ。お姉ちゃんなんか今一番仕事大変なのに帰ってきましたよ。お兄ちゃんも大学院行きたい言うて勉強大変なのにちゃんと帰省してるよ、あんたは何をしてるの? 剣道もやめてもうたんでしょ?」
     姉は今年、仲間と会社を興したそうだ。子供の頃から成績優秀で、誰もが知っている大企業に就職した。そこで出会った仲間と会社を立ち上げると母や父に話していた。母にとっては一番自慢の子だ。兄もまた優秀で、はるかに偏差値の高い大学に通っている。大学院で研究を続けたいと言っていたなと思い出した。双亮は小さなため息をついた。
    「ちゃんと大学には行ってるから、心配せんでええよ」
    「そしたら一度、顔を見せに帰ってきなさい。お父さんも心配してるんよ。我が家は代々紀州徳川様に仕えた武士の家系なんやから、和久家の名に恥じないように……」
    「わかったよ。もう学校に行かなあかんから。また」
     双亮は、母の声を遮るように電話を切った。心の奥底にある不満と疲れが一辺に溢れ出してくるようだった。
     
     大学への道すがら、双亮は自転車を漕ぎながら母との会話を頭の中で反芻してしまっていた。姉や兄と比較される度に感じる劣等感、期待に応えられない自分への失望。自転車の変速ギアが漕ぐたびに重く切り替わっていくような感じがした。
    「なんやろな、ホンマに。オカンがこの髪見たら驚くやろな」
     
     いつもより遅くなったせいで自転車を駐輪場の奥に停めた。そこから急ぎ足で教室に向かう。教室にはすでに葉波と航青の姿があった。双亮は二人のそばに座ると、「おはようさん」と挨拶をしながら教科書とノートをカバンから取り出した。葉波と航青が何か話しかけてくるが、それには生返事で答えた。
     
     観光学の授業が始まる。教壇に立った小楠元雄教授が二言三言話すと、グループごとに今日までのプロジェクトの進捗具合を発表することになった。古代信仰アラハバキ神社やら遠州の隠れキリシタンやら、知られざる郷土の歴史をあの手この手で観光資源化しようと、どのグループも知恵を絞っていた。
     はっきり言って、プロジェクトの進捗具合は双亮たちのグループが一番遅かった。
     葉波は「まずいよ、みんなしっかり考えてる、どうしよう」と泣きが入っている。彼女は三人の中では一番プロジェクトに向き合っていて、米津地蔵を身代わり地蔵にするアイデアを発表したが、教授からは「身代わり地蔵はすでに地元にいくつかありますね。大学の裏手、万福寺の黒衣地蔵も有名です。目新しさがありませんね。それに罪を被ってくれた六義人にさらに身代わりを頼むようで忍びない」と手厳しい評価だった。
     双亮は率直な意見を述べた。
    「教授、この歴史的悲劇を観光資源化するのは至難の業ですよ」
    「そうですか? 悲劇もまた人の心を惹きつけますよ」
    「悲劇に惹きつけられる感覚って何ですか? それってちょっとSっ気が過ぎません?」
    「いやいや、そうではなくて。所謂、判官贔屓みたいなものです。世の不条理は今も昔もあります。それでも家族を守るため、村を守るために自らが犠牲になるという話は、人々の尊敬、同情、共感を集めると思いますがね」
    「俺は、そんなん嫌やなぁ思うだけやけど。みんなで助かる方法考えたいわ」
    「それも人として自然な感想ですよ。若いときは特にそうかもしれませんね。まぁ、甘んじて受け入れるより、その不条理と戦う物語の方が人々の心を惹きつけるでしょう」
    「でしょ? だから、やっぱり」
     そこで小楠教授は顎に手を当て、しばし何か考えた。
     そして教授は何度か頷いた。
    「なるほど。実は私も米津地蔵の逸話に興味を持ち、調べたことがあるんです。今から250年前、安永二年に紀州藩の御用船が米津の浜で遭難した出来事が起源ですね。米津の村人が救助活動を行ったものの、後に盗難の疑いをかけられた。そして六人の村の組頭が身代わりを名乗り出て、江戸で処刑されたという悲劇的な出来事でした。実は、近くの松島村、現在の松島町でも似たようなことがあったようなのですが、そちらは風化してしまっているようです」
     三人は、教授が米津地蔵について詳しいことに驚いた。
    「江戸時代、似たような話は全国にいくつもあります。どの話も封建社会というものの悲劇性を物語っています。そうだ、中央図書館で郷土資料を探してみるといいでしょう。ネットには載っていない情報がきっと見つかるはずです。今まで見えていなかったものが、見えてくるかもしれませんよ」
     見えていなかったものが、見えてくる。
     教授が最後に言った言葉が妙に耳に残った。
    とりあえず、言われた通り資料を調べてみようと三人は中央図書館に行くことにした。
     街中を自転車で駆け抜けながら、双亮はふと思う。
     そういえば、今朝は夢を見いひんかったな……。
     昨日は、地蔵の顔についていた金色に輝く鱗粉のようなもの、あれを触ったら粉が舞い上がり、思い切り吸い込んで気を失ってしまった。そして夢を見た。
     もしかして、あの粉のせい? 初めて夢を見た日も、安泉寺へフィールドワークに行った日や。地蔵を調べているうちに少量、粉を吸い込んだからか?
     だが、そうなると葉波と航青も夢を見ていていいはず。
     信号待ちで自転車を停めたところで双亮は二人に聞いてみた。
    「お前らは、変な夢見たりせえへんのか?」
    「変な夢?」
    「褌男に襲われる夢?」
     二人は顔を見合わせ、一斉に笑い出し「ないない」と言った。
    「聞いた俺がアホやった」
     すると双亮は一人自転車の向きを変え「わりぃ、俺ちょっと調べたいことあるから、行くわ。図書館の資料、任せたで」と二人に向かって手を合わせ、そのまま「ほな」と一言、自転車を図書館とは違う方向に走らせてしまった。
    「あっ、ちょっと、もう! どこ行くかくらい言いなさいよ」
     葉波は少し怒った顔で双亮を見送る。
    「ありゃ、怒っちゃったのか?」
     航青はちょっと心配して言うが、葉波は「なによ!」と頬を膨らませた。
     
     双亮は、あの粉を吸って夢を見るか一度試した方がいいだろうと思っていた。
     やってみる価値はあるはずや、と自分の考えを何度も確認するように心で呟き、双亮は安泉寺に急いだ。
     行きがけに百均に寄って、粉を集める道具として短い刷毛とその刷毛ごと入れられる小瓶を買った。
     
     時刻は夕刻、安泉寺の境内には誰もいなかった。晩夏の陽射しは幾分か和らぎ、木漏れ日が地面に踊るような影を作り出している。庫裏の方に声をかけようか迷ったが、まさか地蔵の粉を取らせてくださいなどと言えるはずもなく、黙って地蔵堂に向かった。
     地蔵の前でしゃがみ込み、一応手を合わせ「粉を取らせていただきます」と呟く。それからまず地蔵の全体をよく観察した。
     顔にわずかに粉が付着している。やはり黄金色に輝いているように見える。その他には付着しているところがない。
     双亮は、何の気なしに地蔵の背中を覗き込んでみた。
    「えっ!?」と思わず声を上げた。地蔵の背中に一匹の蝶がとまっていた。なんで、こんなとこに? そういえばこの前も……」
     双亮は顔を近付け蝶をよく観察した。
    「蝶なんか? 蛾? いや、蝶か? アゲハ蝶? に似てる? やっぱ蛾か?」
     次の瞬間、蝶は地蔵の背中から舞い上がり地蔵堂の外へ飛んで行ってしまった。
    「な、なんやったんや」
     青空へ飛んでいく蝶は、まるで陽光の中に消えていくようだった。
     双亮は、もう一度地蔵の背中を覗き込む。
    「あの蝶の鱗粉ってことか?」
     蝶のとまっていたあたりに、黄金色の粉がわずかについていた。
     双亮は刷毛を使い慎重に丁寧にその粉を取った。
     粉は瓶の底、片隅にわずかに集まる程度だった。
    「まぁ、一度試す分には充分やろ」
     双亮は再度地蔵に手を合わせ、安泉寺を後にした。
     
     家に帰るとまず、あの蝶は何なのかインターネットで調べてみた。
    「いやいや、アゲハ蝶だけで何種類あんねん?」
     キアゲハ、ジャコウ、と身近に見られるものだけでも二十以上の種類があり、どれも似ているようでどこか違う。とどのつまり地蔵堂で見たものを特定するには至らなかった。
     続けて『鱗粉、吸い込む、夢を見る』と打ち込み検索してみた。流石にこの検索ワードでは関係のないものばかりが表示された。そこで『鱗粉、毒』とか『鱗粉、幻覚』と打ち込んでみた。
     思わず双亮は「なんや、やべぇ薬でも調べてるみたいやな……」と独り言を呟いた。
     実際に、一度大量に吸い込んでしまっているわけで、そのことを思うと双亮は、漠然とした不安に襲われた。
     新種の蝶で、その鱗粉には毒性があり、幻覚作用、脳へのダメージも測り知れない、とかだったらどないしよ……などと、よくないことばかり考えてしまう。
    「やっぱ、吸うのよしとこかな……。いやいや、折角集めたのに使わへんなんてないわなぁ……」
     双亮は逡巡しながらも自分の意思を確認し、小瓶の蓋をおもむろに開けた。刷毛の先に粉を優しく付着させ、自分の鼻にゆっくりと近づける。
    「……あかんわ、やっぱ、風呂入ってからにしよ」
     
     風呂から出ると、考えてみれば寝る前に試すのが一番ええか、と都合のいい言い訳を自分にし、先延ばしにしながら吸う勇気が出るのを待ったが、ベッドに入ってからもなかなか吸う気にはならなかった。
     上半身を起こし、吸おうと試みる。が、怖くて吸えない。
    小瓶のふたを開ける。
     刷毛の先に少量の粉をそっとつける。
    そっと鼻に近づけ……ここからがなかなか進まない。
    「う~ん、あかん! 怖~て吸い込めへん」
     鼻に近づけては息を止め、瓶に刷毛を戻しまた近づけては息を止め、これを何度か繰り返した。
     不測の事態に備えて葉波か航青に傍にいてもらって粉を吸った方がいいのではないか? などという言い訳も考え始めている。
    「アホらしい! 何しとんのねん、俺は! もう吸うぞ!!」
     そう言うと、双亮は刷毛の先を鼻につけ思い切り吸い込んだ。
     くしゃみが出るほどではないが、粉が鼻孔を擽る感じがした。
     匂いはしない。
     咳き込むようなこともない。
     すぐには何も起こらなかった。
    「なんや、気失ったりせえへんのかい! はぁ~緊張して損した」
     そう言って双亮はベッドに寝転がった。
     その刹那、急な眠気が襲ってきた。
     
     四度目の眩しさの中、双亮は再び夢の中、小舟の上にいることに気づいた。遠くから男たちの声が聞こえてくる。
     さて、今度は……。
     そう思うと、双亮は起き上がり折れた櫓を手に取った。
    「そ、そう何度も殺されて堪るかい」
     グッと握った櫓を中段に構え双亮は呟く。
    「どうせ、殺されてもベッドの上で目覚めるだけや。怖いものなんてあらへん」
     双亮は櫓を大きく振りかざすと、竹刀とさほど変わらぬ長さに「大丈夫や、やれる!」と力強く叫んだ。
     一応、高校生で取得できる三段までは取っておいた剣道の腕。剣道の段位は四段からが本番と言われるが、練習ではその四段の大学生にも勝ったことがあった。故に、双亮にはそこら辺の三段と一緒にはしてくれるなという矜持がある。
     褌男たちが銛を携え近づいてくる。
     双亮は大声で気合を入れた。
    「ヤーッ!」
     その気迫に、褌男たちは一瞬立ち止まり驚きの表情を見せる。だが、すぐに銛を構え、舟を囲むようにして三方から近づいてきた。
     真ん中の男が銛を長く持ち、牽制するように最初の一突きを出す。
     舟の上の双亮は櫓で突いてくる銛を叩き落とす。今度は左右の二人が同時に銛を突いてくる。双亮はそれより先に動き、右の男の銛を叩き、舟の上で飛び上がるようにして体を捻ると、返す櫓で左の男からの銛を巧みにさばいた。
     なるほど、銛は突きの動きしかないんやな。
     それがわかれば銛の動きを見切ることなど双亮には容易かった。三人が警戒して舟に乗り込んでこなかったことも有利に働いた。
     双亮はわざと櫓を長く持った。
     三人の褌男が同時に間合いを詰めてくる。
     左の男の銛を持つ両手の間隔が狭かった。双亮はそこを見逃さなかった。男の両手を籠手打ちの要領で強く叩く。悲鳴にも似た声を上げ男が銛を落とした。その声に他の二人は、一歩、二歩と後ろにたじろぐ。
     二人との距離に違いが生まれた瞬間だった。
     わずかに近い男と間合いを詰め、すかさず銛を叩き、右、左と籠手を打つ。「くそっ!」と叫びながら二人目も銛を落とす。
     銛が地面に落ちた瞬間、三人目の褌男は血の気が引いた表情を浮かべた。すると、すぐに双亮の前にひざまずき、土下座をして命乞いを始めた。
    「ゆ、許してくれ!」
     
     双亮は勝利の余韻に浸りながらも、複雑な感情を抱いた。
     これ、勝ったはいいけど、どうなるんや……。
     夢は覚めないままだった。
    「あ、あんた達、何者なんだ?」
     双亮は船から飛び降り、土下座している男に歩み寄り尋ねた。
    「お、オラたちは米津村のもんだ」
     米津村⁉ やっぱりか、と双亮は目を見開く。
    「なぜ、俺を殺そうとした?」
    「す、すまね。あんたに恨みがあるわけじゃねぇ。オラたちの村は貧しいんだ」
     どういうことや? 貧しいと人を殺すんか?
    「ま「ま、まさか、俺を食うつもりやったんか!?」め、滅相もねぇ。そんなバチ当たりなことするわけねぇだよ」
    「じゃあ、なんで」
    「お船様だと思っただよ……」
    「お船様?」
    「この辺りの村々では、嵐で打ち上げられた船のことをそう呼ぶんだ。お船様は、貧しい村にとって神からの恵みだ。嵐の後に打ち上げられた船の積み荷から、死んだ船乗りの着ているものまで、全てを拾い集めて使わせてもろうてる。そうやって生きてきただ」
    「死んだ船乗り……」
    一人ぐらいの生き残りは殺してしまった方がいいわけやな、と夢の中とはいえ双亮は背筋が冷たくなる感じがした。
    「そんなこと、俺にしゃべっちまってええんか?」
    「……あんた、お役人様け?」
    「役人に見えるか?」
    「そんな髪の色の役人、見たことねぇ」
     双亮は「せやろ」と笑った。
    「あんたらを責める気はあらへん。その代わり、あんたらの村に連れてってくれへんか」
    三人の褌男は顔を見合わせ「どうする?」と二言三言交わすと、やがて了承の意を双亮に示した。
     

    4

     浜辺から村への道のりはわずかなものだった。
     砂浜の北端に十本ほどの松が一列に植えられていて、その向こうに痩せた畑が広がっていた。いくつかの作物の葉が潮風に揺れている。その育ち具合から村の貧しさが垣間見えるようだった。
     細い川が何本か流れていたが、海に近いこの辺りは砂地も多く、稲田は所々わずかにあるだけだった。潮風に土埃が舞う中、幾人かの村人が黙々と農作業に従事している姿があった。
     潮風に傾く木戸が申し訳程度に建っていた。
     そこが米津村の入り口だった。
    「ここが米津村だ」
     褌男の一人が双亮に言った。
     村に入ると、道の両側には簡素な木造の家々が立ち並んでいた。時折吹く強い風に薄い茅葺き屋根が大きく揺れるのが印象的だった。
     村の子供たちは裸足で遊び回っている。そして、その子供たちが双亮の姿に気づき集まってきた。指を咥え、一体あの髪の色は何だと言わんばかりにじっと見ている。
    「村おさ様に会ってもらうでな」
     褌男の一人が言った。
     村の中心部に大きな木造の建物が見えた。それが村おさの家であるらしい。周りの家々より少しだけ立派な造りで、村の重要な役割を担っていることがわかる。
     村おさの家の前で立ち止まると、褌男の一人が家の中に入っていった。双亮が後を追おうとすると、残った二人が「ここで待て」と言う。
     双亮が暫く待っていると、コツン、コツンと背中に何かが当たった。さっきの子供たちが小石を投げてきたのだ。
    「ばかっつら! 石なんか投げたらいかん!」
     慌てて二人の褌男が怒鳴り上げる。
     その大声に子供たちが「わぁー」と声を上げ逃げていく。
     あの子たちに自分はどう見えてるんやろうか、自分の頭を触りながら双亮は走り去る子供たちの背中を目で追った。
     外の騒ぎに、家に入った褌男が足早に出てきた。何事かと辺りを見回すが、他の二人も双亮もたいしたことではないと表情を変えなかった。褌男は一呼吸置き、「村おさ様が会ってくださる」と双亮に告げた。
     
     杖をつき白い髭を伸ばした老人が、家の中から現れた。
    「どうやら、村の者が無礼を働いたようじゃな」
     村おさは静かに言い頭を下げた。
    「だいぶ、お若く見えるが、武の心得がおありか?」
     頭を上げ、双亮を見る村おさの目は鋭く、明らかな警戒と恐怖があった。
    「武と呼べるほどのものでは……。あの、怪しく見えるかもしれませんが、危害を与えるつもりはありません」
     双亮は、まず警戒を解いてもらわなければと考えた。
    「ふむ。して、どこから? その髪の色、この辺りの者ではありますまい。やはり、海の向こうからか?」
    「え、ええ……」
     これには双亮も困った。どう説明すればいいのか。実は夢の中で、しかもタイムスリップして、などと説明しても話が通じるはずがない。
    「言葉が分かるところを見ると、崎陽に出入りを?」
    「崎陽?」
    「わからぬか? 肥前の国、出島のある場所じゃ」
    「ああ、そ、そういえば、そんな名だったような。すみません、なんだか頭がはっきりせんくて、よく思い出せへんのです」
     崎陽の地名を知らなかった双亮は焦ったが、咄嗟に記憶喪失のふりをして誤魔化した。
    「無理もなかろう。おそらく酷い嵐にでも遭って、一時的に記憶を失っているのだろう。南蛮からの舟が漂流し、この辺りに流れ着くことは滅多にないが、聞かぬ話ではない。ふむ……」
     そう言って村おさは双亮に背を向け、褌男たちを手招きすると小声で何か話し始めた。
    「神饌ではないかもしれんな」
    「朱色の舟でしたが……」
    「髪の色は変わっておるが、病を持っているようには見えん。もしかするとその見た目を嫌ってか……」
    「本当に崎陽でしょうか? 話す言葉は上方のものに近い気がすんだけんど」
    「上方の人間から言葉を教わったのかもしれん」
    「お役人には、どうします?」
    「ふむ、今はまだよかろう」
     村おさが思案顔で黙った。褌男たちも皆押し黙る。
    「酷い嵐に遭い、長く漂流しておったのだろう。記憶を失うのも無理もない。数日よく休ませれば色々と思い出すやもしれん」
     
     小声とはいえ、会話の内容を聞かれたくないというわけではなさそうだった。いや、わざと聞かせて、双亮の反応を窺っている、そんな節もあった。
     ふいに村おさが双亮の方を向き直り、尋ねた。
    「して、名前は覚えておるかのう?」
    「名前……双亮」
    「双亮? 聞き慣れぬ名というわけではないのか……」
     村おさはまた思案顔になった。双亮の体を今一度上から下までじっくりと見ると、ふっと小さく笑った。
    「双亮とやら、まずはこの者たちと一度、乗ってきた舟を見に行ってもらえませぬかな? 半五郎、伝左衛門、寅之助、この方を手伝ってやりなさい。もしかしたら、何かご自身の身の上を思い出すやもしれぬ」
     
     双亮と褌男三人は村おさに言われるがまま、また浜へと向かった。
     一番年下と思われる寅之助が、一人先を駆けていく。
     おそらく一番年上だろう、ひとつに束ねた髪に少し白髪も交じっている半五郎が、双亮のそばを歩く。一番背の高い伝左衛門は後ろからついてきた。
     皆、無口だった。
     
     先に浜に着いた寅之助が大声で叫んだ。
    「ダメだ! 流されてる!」
     皆、一斉に浜へ走り出した。
     朱い小舟は遠く沖へ流れていた。
    「まずいな」
    と半五郎が呟く。
    「せやけど、舟には何もなかったと思うけどな」
     双亮の言葉には反応せず、伝左衛門と共に違う方向を半五郎は見ていた。
     双亮もそちらを見る。
     ついさっきまで見えていたはずの紀伊半島の影が、黒雲に覆われ何も見えなくなっていた。時折、音もなく稲妻が雲の中を走る。どうやら、舟は荒れ始めた波に攫われたようだ。
    「今夜は嵐になるぞ、村に帰って皆に伝えねば」
     伝左衛門がそう言うと、二人は踵を返し村に急いだ。
    「お、おい、待ってくれや」
     置いてかれる双亮に寅之助が追い抜きがてら「おめぇも、はよう村に戻るぞ」と声をかけた。
     
    「そうか、舟は流されてしまったか。仕方ない。まずは嵐に備えるよう村中に伝えてくれ」
     村おさはそう言って、三人を走らせた。
    「双亮、お主は少し休みなさい。体を休めれば何か思いだすやもしれぬ。おい、おもん、おもんや」
     村おさの家の中から、下女のおもんが小走りで出てきた。
     小柄な可愛らしい子だった。
    「この方を客間にお通しして。暫く我が家にいていただく。お前が身の回りのお世話をしなさい」
    「はい、かしこまりました」
     
     客間といっても板の間で、四畳半ほどの広さしかない暗い部屋だった。
    「お腹はお空きではありませんか」
    「あっ、ええ、お構いなく」
     夢の中で腹が減ったもクソもなかった。
    「何かありましたら、お呼びください」
     おもんが引き戸を閉めて去ると、双亮は部屋の真ん中にドカッと座り込んだ。部屋をぐるりと見まわす。何もない殺風景な部屋だ。
     戸や天井がカタカタと小さく揺れている。
     外は風が強くなってきたのかもしれなかった。
    「さて、これからどないしよう?」
     考えたところで、どうしようもない。夢の進みに任せるしかなかった。
     双亮はどうにでもなれという気持ちで、その場に寝ころんだ。
     
     すると、そのまま双亮は気を失うように眠りに落ちてしまった。夢の中で眠るというのもおかしな話なのだが、気がつくと時間が飛んだように朝になっていた。
    「あれ? 眠ってもうたんか? 嵐は?」
     双亮は慌てて部屋を出て、村おさを探した。
     家の中には誰もいなかった。おもんの姿も見えない。
     家を出ると、そこに村おさの姿があった。何やら半五郎、伝左衛門、寅之助と話し込んでいる。
    「我が村の浜で間違いないな?」
     半五郎の報告に村おさは、まずそう念を押した。この辺りの浜は近隣の村と厳格に境界を定めており、一歩違えば別の村の領域となる。
    「間違いありません。大松の西、舟着き石の東でございました」
    「ふむ……」
     村おさは眉間に皺を寄せ、顎鬚を触った。
    「残念だが、御用船となれば手を出すわけにはいかん。それどころか、放っておいたなどと咎められれば、村そのものの存続にも関わる」
     村おさが若い男衆を招集するよう命じると、三人は駆け足で村中に散らばっていった。
     
     双亮の胸は騒めいた。
     今、目の前で起こっているこの光景は、米津地蔵の悲劇の始まりなのではないか? その場合、どうすればいいのか? ただ見物人として見ていればいいのか?
     しかし、これは自分の見ている夢である。
     双亮は、村おさの脇を走り抜け浜へ向かった。
     
     浜には白波が打ち寄せていた。
     村の男たちが御用船の残骸へ向かっている。
     何人かの水手が、波間から木箱を抱え浜へ倒れ込むようにして運んでいる。その中には腕から血を滴らせ歩く者、足を引きずる者もいた。
     波打ち際には破れた帆布、折れた舵輪、海水を吸った米俵や破損した焼き物の破片が散乱していた。そして、幾人もの水死体が打ち上げられていた。腕や足を失った死体からは血の匂いがして、塩風に乗って鼻を刺した。
    「お侍様、大丈夫でございますか」
     声をかけたのは半五郎だった。
    「この辺りの者か! 遅い! 何をしておる、早く手伝わんか!」
     御用船の船手頭と見られる男が、濡れた髷を振り乱しながら怒鳴った。その怒号は怒りというより、焦りと恐怖が滲んでいるようだった。
     村人たちが慌てて海に入っていく。
    「て、手伝ったらアカン!」
     双亮は、思わず声を上げてしまった。
     全員の視線が彼に集中する。金色の髪、見たこともない服装、その異質な姿に水手たちはざわつき、船手頭の目つきは険しくなった。
    「何者だ……!?」
     ぬっ、と一人の侍が前に出た。が眼光鋭く、腰の太刀に手をかけている。その動きは隙がなく、鍛え抜かれた剣士のものであることは、剣道をやってきた双亮の目にも分かった。
    「貴様、邪魔だてする気か!?」
     双亮は思わずたじろいだ。
    「でも、これ、後々、村がとんでもない目に遭う……かもしれんから」
    「何を言っておる?」
    「と、兎に角、手伝わん方がええ!」
    「貴様!」
    「いや、ちょ、待って!」
    「問答無用!」
     閃いた刃が、双亮の肩口を斬り裂いた。
     鮮やかな痛み、赤い視界。潮風が傷口に突き刺さる感じがする。双亮はうずくまる間もなく意識を手放した。
     
    「ぐわぁっ!」
     双亮はベッドの上で跳ね起きた。
     尋常じゃない冷や汗が体中から噴き出していて、心臓は鼓動を荒げている。
    「と、とりあえず、蝶の鱗粉で米津の浜の夢は見れるみたいやな」
     そう呟く声は震えていた。
     ベッドから起き上がり、シャワーを浴びようとバスルームに向かうが、足取りがおぼつかない。
    「結構、足に来とるな……」
     シャワーを浴びると、鏡に映る自分の身体に異様な色の痣が浮かんでいるのに気づいた。明らかに斬られた場所と一致している。斬られた肩口は腫れ、赤黒く変色していた。
    「これ……ほんまにヤバいやつちゃうか……」
     夢と現実の境目が、あやふやになってきているのかもしれない。双亮は、そんなことを思った。
     目覚めたときのあの鮮明な痛み、今も体に残る痺れのような感覚。夢だとわかっていても、体は確かに斬られたことを覚えている。
     タオルで体を拭きながら鏡の中の自分を見据え、呟く。
    「なんやろな……それでも、やめるわけにはいかん気がするな」
     夢の中とはいえ、あの悲劇を止められるかもしれない。
     そんな思いが双亮の中に生まれていた。
     
     体に明らかな疲労があるため日課のジョギングはやめ、大学へ向かった。
     駐輪場から中庭へ続く階段を上る。すれ違う学生たち。周囲の青春を謳歌する学生たちとは、違う世界にいるような感覚がふいに襲ってきた。
    「……アホらし、自分を特別やとでも思いたいんか俺は」
     階段を上る足に力を込める。そこで、ばったり葉波と航青に出くわした。
    「おお、双亮。お前、昨日どこ行ってたんだよ?」
    「ああ、ちょっと気になることがあって、もう一回安泉寺に行ってた。まぁ、勘違いやったんやけどな」
     双亮は痣のことなど話せるはずもなく、嘘を吐いた。
    「で? 調べ物は進んだ?」
     航青が頷き、葉波が一冊の古い本を鞄から取り出した。
    「残ってる資料は少ないけど、米津地蔵由来記ってのが一冊あって、それと……そうそう、昔、誰かが書いた短編小説。完全に作り話だと思うけど、ちょっとおもしろかった。それを借りてきたよ」
     双亮は、その短編小説をペラペラとめくり苦笑した。
     御用船の連中が下田で豪遊したとか、悪逆非道だったとか、最後は処刑された義人が枕元に立つとか、まるで昭和の同人小説のような内容だった。
    「こんなんが資料として図書館に残っとるのか……」
     夢の中で見たあの御用船の光景と、まったく結びつかない。
     ほとんどインターネットで調べられることばかりだった。他には平成の時代に子供たちにわかりやすく伝えるため悲劇性を抑えた絵本が作られたくらいで、素人が書いた昭和の同人小説と大差なかった。
    「どんだけ資料が残ってないかの証左だな」
     航青は呆れていた。
     
     大学から真っ直ぐ帰宅し、双亮は部屋の隅に立てかけてある竹刀を数ヶ月ぶりに手に取った。剣道は高校で引退したが、部屋の飾りというか防犯用として竹刀だけアパートに持ってきていた。
    「これで、なんとか……」
     竹刀は微かに埃を被っている。久しぶりだが、手のひらにしっくりとなじむ感触がある。
     夢の中では眠りに就いたときの服装でいる。だから、寝るときにこれを抱いて寝たら……夢の中に持っていけるんやないか?
     だが、これで勝てるだろうか? 向こうは真剣だ。
     しかし、本物の侍と戦えるなんて現実ではありえない。やってみたい。
     わくわくしている自分がいることに双亮は驚いた。
     もちろん本当に死ぬわけではない、とわかっているからできる戦いだった。
     
     再び夢の世界に入る決意を固めた双亮は、その夜、竹刀をしっかりと胸に抱き、蝶の鱗粉を吸い込んだ。
     
     目を閉じると、あっという間だった。気がつくと、また板の間の天井を見上げていた。夢の世界に戻ってきた。
     双亮はすぐに竹刀の存在を確かめた。ちゃんと手元にある。夢の中に持ち込めている。
    「やってやる! 夢の中やからこそ本物の侍と戦ってやるで!」
     高鳴る鼓動を抑えきれない。恐怖もある。だがそれ以上に、自分でも驚くほどの興奮があった。
     竹刀一本で、真剣を持つ侍に挑む。現実では絶対にできないことだ。
     夢だからできること。本当に死ぬことはないという前提があるからこそ、この戦いに飛び込めた。
     
     板の間を飛び出し、土間を抜けて外へ。浜へと続く道を夢中で走った。
     波の音が徐々に大きくなる。
     砂浜に飛び出ると、あの侍の姿がいの一番に目に入った。壊れた船と引き上げられた荷の間に立ち、村人たちが怪しい動きをしないか目を光らせている。
    「手伝ったらアカン!」
     双亮は、また叫んでいた。
     侍が振り返る。
    「何者だ、貴様!」
     双亮は竹刀を構えた。
     先手必勝や。面、小手、胴。全部決めてやる!
     呼吸を整える。重心を低く。
    「はあっ!」
     双亮は砂を強く踏み、面を狙って突っ込む。侍が動く前に決めるつもりだった。
     だが、侍は身体を僅かに傾け竹刀をかわすと、腰をひねり刀を抜いた。
     双亮は続けざまに小手へと切り替える。しかし、それもかわされる。竹刀を返して横薙ぎに払うが、それもするりとかわされる。
     最後に喉元目掛け突きを入れるが、足を滑らせ砂に膝をついてしまった。
     あ、ヤバ……。
     視界の端で、刀がきらめいた。
     横っ腹に大きな衝撃があった。
     次の瞬間、世界が暗転した。
     
    「うわっ!」
     双亮は、自分のベッドで跳ね起きた。
     額から汗が流れ落ちる。喉が渇いていた。
    「ホ、ホンマに侍と戦ったぞ……」
     手の震えが止まらない。興奮と感動が凄かった。
     夢とはいえ、あの侍は本物だった。竹刀で挑んで勝てる相手ではない。
     それでも、双亮は思った。
    「もう一回、やってみたい。今度は、違うやり方を考えなあかん」
     横っ腹に強い痛みが走る。
    「また痣になるのやろうな」
     そう言いながら、机の上の小瓶に目をやった。
     蝶の鱗粉が、そこにあった。
     
     目を閉じ、目を開ける。
     すぐに身体を起こすと、手元に竹刀があることを確認する。
    「よし、戻ってきた。また同じとこからや」
     廊下に出て、土間を抜けて外へ飛び出す。家の前では、村おさ、伝左衛門、半五郎、それに寅之助が、何やら話し合っているところだ。
     双亮は竹刀を持つ手に力を込め直すと、浜へ向かって走り出した。
     
    「手伝ったらアカン!」
     それが立ち合いの挨拶代わりになっていた。
     面を狙う、竹刀が空を切る。
     続けざまに小手へ、竹刀を返して横薙ぎに払う。それもかわされる。
     双亮はそこで竹刀の先を砂に突き刺し、侍の顔目掛けすくい上げた。卑怯にも目つぶしを狙ったのだ。
     砂が侍の顔にかかる。
    「くっ……!」
     ほんの一瞬、侍が怯んだかのように見えた。だが、次の瞬間、侍が蹴り上げた砂が今度は双亮の顔に大量にかかった。
    「うわぁ!」
     手で砂を払い、瞬きを繰り返しどうにか視界を取り戻そうとしたが、侍の怒声と共に首に激痛が走った。
    「小賢しい真似を!」
     
     目覚めたとき、息ができないような感覚があった。
    「アカン、勝ち目がない……」
     侍は明らかに戦い慣れていた。たった二度の戦いだが、力の差を思い知るには充分だった。
     鏡を見ると、首輪のような痣が浮かび上がっていた。
     

    5

     双亮は大学の教室でノートを開いていたが、講義の内容はほとんど頭に入ってこなかった。昨夜見た夢があまりにも生々しく、瞼の裏に張り付いているようだった。
     自分の竹刀は、侍の太刀には通じなかった。面、小手、胴、全てかわされ、たった一太刀で沈められた。時代劇の殺陣とはまるで違う、生きるか死ぬかの戦いだった。
     あれが本物の侍か……そら、素人が竹刀一本で勝てるわけあらへん。
     そう思い返す双亮は、どこか満足気だった。
     隣では航青が教科書を開いたまま、退屈そうにペンを回していた。反対側では、葉波が熱心にノートを取っている。手前の席の女生徒は、LINEの画面を開き誰かとやりとりを楽しんでいた。ギャルっぽい彼女のネイルが、太陽の光でやけにきらきらして見える。
     窓の外、相変わらず強い日差しが緑を焼くように照らしている。
     双亮の心はあの浜辺にいた。夢の中のあの海。御用船が打ち上げられた白い砂浜。怒号、血、潮の香り……。
     現代のこの平和な教室と、あの混沌とした過去の光景の落差が、ますます自分を現実感のない場所へと押し流していく。
     次は、戦わへん。やり方を変えなアカン。
     双亮は、自分を現実に押し戻すようにそう決意した。
     
     授業が終わると、双亮は一人図書館に向かった。あの夢が、どこまで史実に基づいているのかを確かめたかった。
     郷土資料の棚を探す。葉奈が借りてきた米津地蔵由来記、昭和の同人小説、それ以外に目ぼしいものはなかった。
     戦前の地元新聞の小さな記事、いくつかの郷土史に数行の記載があったが、どれも内容は乏しく、六義人の名前すら明記されていないものがほとんどだった。
     それでも何か現実と夢をつなぐ手がかりがないかと双亮は探したが、収穫はなかった。
     
     再び蝶の鱗粉を使う決意をしたのは、その晩のことだった。
     自室の机に置かれた小瓶。わずかに光を反射するその粉は、まるで別世界の扉の鍵のように見えた。
     双亮は、軽く深呼吸をした。
    「今度は……村人と一緒に動こう」
     竹刀を手元に置くこともしなかった。別な方法で戦うしかない。双亮は再び目を閉じた。
     
     夢のなかで目を開けると、またしても村おさの家だった。
     前と同じ朝。あの御用船の一行が、村の砂浜に漂着した朝だ。
     戸を開けると、半五郎、伝左衛門、寅之助の三人が村おさと話し込んでいる。
     今回は彼らと共に浜を目指そう。村人と共に救助に参加し、その中で、御用船との関わり方を、村の行く末を変えられる可能性を探る。そう双亮は考えた。
    「何か、きっと方法はあるはずや」
     
     浜に出ると、やはり同じ光景が広がっていた。
     何人かの水手が、波間から木箱を抱え浜へ倒れ込むようにして運んでいる。その中には腕から血を滴らせ歩く者、足を引きずる者もいた。
     波打ち際には破れた帆布、折れた舵輪、海水を吸った米俵や破損した焼き物の破片が散乱していた。そして、幾人もの水死体が打ち上げられていた。腕や足を失った死体からは血の匂いがして、塩風に乗って鼻を刺した。
    「お侍様、大丈夫でございますか」
     声をかけたのは半五郎だった。
    「この辺りの者か! 遅い! 何をしておる、早く手伝わんか!」
     御用船の船手頭と見られる男が、濡れた髷を振り乱しながら怒鳴った。その怒号は怒りというより、焦りと恐怖が滲んでいるようだった。
     村人たちが慌てて海に入っていく。寅之助も褌姿になり村人たちに続く。
    「おーい、こっち引け!」
     水手が海の中から叫ぶ。見ると何かに結びつけられた縄が浜に伸びている。半五郎と伝左衛門がその縄を引いた。
     双亮は何も言わず、砂浜に置かれていた縄を掴んだ。
     半五郎が振り向く。
    「お前は客人だ、無理せんでもいいぞ」
     双亮は構わず引っ張った。波に沈む木箱が重い。三人で力を合わせて引き上げると、海水をたっぷり吸った重い木箱が砂の上に転がった。その衝撃で割れた板の隙間から、金色の光が見えた。小判だった。
    「……す、すげえ」
     思わず声が漏れ、伝左衛門が手を伸ばそうとした、その時だった。
    「ええい、勝手に触るな!」
     怒声が響いた。
     浜の中央に立っていた侍が、早足で駆け寄る。
     双亮は喉をゴクリと鳴らした。
     落ち着け……今日は戦うんやない。
     侍は箱を一瞥し、村人たちを見回した。
    「御用船の荷だ。手を出すな」
     伝左衛門が慌てて頭を下げる。
    「へ、へい……」
     侍は黙って鋭い目を村人たちに向ける。
     その視線が双亮に止まった。
    「面妖な、何者だ?」
     心臓が一瞬止まりかける。
    「こ、この者も、昨日、漂着した者でして」
     半五郎がしどろもどろになりながら取り繕う。
     ただ、侍はそれ以上踏み込むことはせず、代わりに低い声で言った。
    「ふむ、そうか。まぁ、それどころではない。お前たちは犠牲者を一箇所に集めよ、荷を動かす場合は船の者が必ずそばにいるようにするのだ」
     男たちは「へい」と頷き、言われるがままにした。
     双亮は大きく息を吐き、額の汗を拭いた。
     
     打ち上げられた荷は侍の目が届く範囲に集められ、溺れ死んだ水手の遺体は波にさらわれぬよう浜の奥に集められた。
     嵐の名残がまだ海に残っていた。波は荒くはないが、うねりが重く、一定の間隔で砂浜に打ち寄せては、軽い木片や荷をじわじわと浜に押し上げた。潮の匂いに混じって、どこか鉄のような、生臭い匂いが鼻をついた。
     双亮は、村人たちに混じって黙々と作業をしていた。手を伸ばしたのは波打ち際の萎んだ塩俵。これも無くなった荷とされてしまうのだろうか? と双亮は思った。
     塩俵を持ち上げると下から人の腕が見えた。白くふやけた指が、砂の上に力なく広がっている。
     死体や……。
     一瞬体が動かなくなった。夢の中とはいえ、こうして目の前にすると思考が追いつかない。
    「おい、運べるか?」
    「だ、大丈夫」
     半五郎の声に、双亮は息を詰めながらその腕を掴んだ。
     冷たい。
     水に浸かっていたせいか、皮膚は異様に冷え、硬くなっていた。持ち上げると、関節がぎこちなく軋む。
     初めてや……死体、触ってる……。
     夢の中だとわかっているはずなのに、その感触はあまりにも現実的だった。
     双亮は歯を食いしばり、遺体を引きずるようにして運ぶ。砂の上にはすでに数人の亡骸が並べられていた。勘のいいカラスが周囲を飛び回っている。
     視線を逸らしたくなった。だが逸らさなかった。
     ここで目を背けたら、この世界の重みから逃げることになる気がした。
     沖を見ると、まだいくつかの荷が波間に浮かんでいる。
    「おい、流されるぞ!」
     誰かの声に、伝左衛門と寅之助が同時に海へ飛び込んだ。
     二人は慣れた動きで波をかき分ける。荒れた海にも動じることなく、浮かぶ木箱へとまっすぐ向かっていく。やがて縄を括りつけ、岸の者たちと声を合わせて引き寄せ始めた。
     その姿を見ながら、双亮はふと考えた。
     これ……全部、把握できてるんか?
     浜に上げられる荷は、ばらばらだ。誰がどれを運んだかも曖昧で、ただ目の前のものを必死に回収しているだけに見える。この惨状だ。すべての荷が回収されるとは思えない。塩俵のように、もう失われたものもある。
     これ、御用船の連中にも村の連中にも伝わるように数を数えた方がええぞ。せやないと、村人たちが盗んだと如何様にも難癖をつけられる。それを防ぐには、言い逃れのできない形で記録を残すしかない。
     双亮は立ち上がり、浜に響く声で叫んだ。
    「木箱、いくつや! 今、何個上げた⁉」
     周囲が一瞬、ぽかんとする。
     構わず続ける。
    「米俵は何俵ある! 酒樽はいくつや!」
     運び込まれるたびに声を上げる。指を折りながら数を重ね、頭の中で必死に整理する。
     何度も、何度も。同じことを繰り返す。
    「お主、そう何度も叫ばんでよい!」
     指示役の侍が眉をひそめた。
     双亮はすぐに頭を下げる。
    「す、すんません! 頭が悪いもんで、数えとらんとすぐ忘れてまうんです!」
     周囲に軽い笑いが起きた。
     双亮はやめなかった。しつこいほどに数を口に出した。ここにいる全員の耳に残るように。
     誰もが聞いたと後で言えるように。
     これでええ……これで言い逃れはできへんはずや。
     ひょっとすると悲劇を防ぐことができるかもしれない、双亮はそう思った。
     
     浜の喧騒が落ち着いたころには日は傾き始め、赤みを帯びた光が海面を照らし、壊れた船の影を長く引き伸ばしていた。
     難破し怪我を負った水手たちは、安泉寺で療養することになった。腕に何重にも布を巻かれた者、足を引きずる者、ただ茫然と座り込んでいる者で、狭い本堂は埋め尽くされた。
     
     船手頭と侍は村おさの家に招かれた。護衛役の侍は船手頭に次ぐ立場の者のようだ。それに伴い、居場所を失った双亮は寅之助の家に泊めてもらうことになった。
     
     御用船の難破という一大事に、村はすっかり慌ただしくなっていた。
     その日の夜、浜松藩の役人が到着したときには村の空気はさらに張り詰めたものになった。
     役人たちは厳しい顔つきで浜や村を見て回り、紀伊の者たちと低い声で何やら話し込んでいた。
     双亮の存在も、このとき藩に伝えられたが、まずは御用船と後回しにされた。
    「記憶が定かでないとのこと、しばらく養生し、思い出したことがあれば申し出よ」
     そう言い残し、役人は去っていった。
     
     寅之助は独り暮らしだった。早くに母を病で亡くし、父親を漁の最中の事故で亡くしていた。兄弟姉妹はいない。
     寅之助の家は、村おさの家とは比べものにならないほど質素だった。
     低い天井、軋む床、当たり前のように隙間風が吹き込む。だが、不思議と嫌な感じはしなかった。一人の若者の生活の匂いが、そこにはあった。
    「そのへん、適当に座って、くつろいでくれ」
    「お邪魔します」
     双亮は板の間に腰を下ろした。
     寅之助は囲炉裏のそばにどっかりと座り、じっと双亮を見ている。
    「双亮、おめぇ、なんでそんな髪の色してるだよ?」
    「これは、染……なんでやろな? 生まれつきや」
    「ふん、肌も白いしなぁ、おしろい塗ってるみてぇだ」
    「おしろいは、塗ってへんけど……」
     しばし沈黙が続く。
     ぱちぱちと薪がはぜる音だけが響いた。
    「おめぇ、ところで歳いくつなんだ? 覚えてねぇか」
    「……十九」
    「えっ⁉ バカな、オラと一緒か?」
     双亮は思わず寅之助の顔を見た。
     細いが、がっしりとした体つきに日焼けした肌。だが、そこには何本もの皺が見て取れる。どう見ても年上にしか見えない。
     同い年……? マジか……。
     生きている時代の違いが、これほどはっきりと現れるとは思わなかった。
    「へぇ~、じゃあ双亮は嫁さんはいるのけ?」
    「よ、嫁? 嫁なんて、まだ、全然」
    「なんだ、おめぇ、おなごも抱いたことねぇのか」
    「いやいや、お、お、覚えてないだけや」
     寅之助が声を上げて笑う。
    「はははっ、オラはな、もうじき嫁さ、もらおうと思ってるだよ」
    「へぇ、そうなのか? 相手は?」
    「ほれ、村おさの家でお前の世話してくれたおなごがいたろ。あの子だ」
    「ああ……おもんさんか」
    「ああ、おもんの家はな、父親が流行り病で死んじまってよ。母親と弟妹と、苦しい暮らしだ。オラが嫁にもらって、楽にしてやろうと思ってる」
     寅之助は少し照れくさそうに、だが自信を持って朗らかに笑った。
     その笑顔を見て、双亮は胸の奥がざわつくのを感じた。寅之助は、六義人の一人だったはず……。
    「そ、そりゃ、ええことやないか」
     ようやく絞り出した言葉は、それだけだった。
     寅之助は満足そうに頷く。
    「だろ? オラ、がんばるだよ」
     囲炉裏の火が、ぱちりと大きく弾けた。
     外では、まだ海の音が遠く響いている。
     同い年の二人。だが、生きている世界が違いすぎた。
     それでもその夜、二人はぽつりぽつりと話を続けた。

    6

     翌朝、村おさの家では紀伊藩の船手頭と浜松藩の役人たちが、低い声で言葉を交わしていた。一様に神妙な顔つきで場の空気の重さが見て取れた。
    「一刻も早く荷を江戸に届けねば……」
     絞り出すような声に、別の役人がうなずく。
    「対応に怠りがあれば、浜松藩にお咎めがあるやもしれぬ」
     そのやり取りを、少し離れた場所から双亮は息を潜めて聞いていた。耳だけをそちらへ向ける。夜を越えてなお、事態は収まるどころか、より深刻さを増しているように思えた。
     
     新たに分かったのは、この御用船が紀伊から江戸へ向かう途上であったということだった。双亮の脳裏に、図書館で読んだ昭和の同人小説の一節がよぎる。江戸帰りに下田で遊興にふけり嵐に遭って難破した、そんな筋立てだったはずだ。
     あれ、全然ちゃうやん……。
     思わず心の中で呟く。現実の出来事は、想像以上に切迫していた。
     役人たちの話に耳を澄ませていると、ふと気になる言葉が混じった。
    「昨年の目黒行人坂の大火が……」
    「火事と喧嘩は江戸の華というが、江戸の生活は厳しいことに……」
     大火? 双亮は眉をひそめた。
    「この度の御時献上は、これまでと意味合いが違いますぞ」
    「なんとしても江戸に荷を届けねばなるまい」
     役人の語気がわずかに強まる。その重みを、双亮は肌で感じた。
     これは夢が覚めたら調べた方がよさそうやと、目黒行人坂の名を反芻する。
     
     やがて、無事だった水手たちは浜松藩の船を借り、回収された荷とともに江戸へ向かうことが決まった。荷は近くの神社に集められ厳重に保管されていた。
     
     難破から数日。空は高く晴れているのに、村の空気はどこか沈んでいた。これ以上の遅れは許されぬと、神社に保管していた荷が次々と船へと運ばれていく。拝殿の中には、まだ湿り気を帯びた俵や木箱が並び、その一つ一つが重い責任を背負っているかのようだった。
     その最中、思いもよらぬ声が上がる。
    「荷が足りない」
     境内の空気が張り詰めたものに変わった。
     双亮は反射的に前へ出た。
    「そんなバカな話があるか! 俺が荷を全部数えていたのはお侍、あんたも覚えとるやろ! ここでもう一度数え直さんかい!」
     感情が先に立つ。だが、次の瞬間。
    「貴様、自分が何を言っているのか、わかっておるのか! 不届き者め!」
     閃いた刃が、陽光を鋭く反射した。
     バッサリ!
     視界が途切れた。
     
    「うわぁ!」
     双亮はベッドの上で飛び起きた。胸が激しく上下し、額には汗が滲んでいる。
    「くっそ、ちょっと口ごたえしただけで斬られてまうんか……」
     荒い息を整えながら、現実の重さを噛みしめた。
     
     目覚めた双亮はすぐにパソコンを開き、インターネットで江戸時代の出来事を調べ始めた。画面の光が暗い部屋を照らす。
     やがて目に飛び込んできたのは、明和九年に起きた大火の記録だった。俗にいう目黒行人坂大火。江戸三大大火の一つに数えられる大災害だ。この大火の後、江戸では慢性的な物資不足が続いていた。今回の紀伊徳川家から将軍家への献上品の多くが、生活必需品であることも想像がついた。
    「なるほど、少し謎が解けたやないか」
     双亮は小さく呟いた。
     藩の威信を示す時献上。それが大火の後となれば、その重要性は平時の比ではない。
     嵐で失ったでは済まされへんか、と双亮は思う。
     だからこそ、責任を押し付ける先が必要になった。
    「そんなこと、させてたまるか」
     双亮は静かに、しかし強く言い切った。
     
     再び眠りに落ちた双亮は、今度は対策を講じた。神社で保管する段階で、荷の数を村人と同心、双方に記録させることにした。
     寅之助に頼み、村にある筆と紙を揃えられるだけ揃えてもらうと、双方に正確な数を記させた。紙に墨が滲んでいく様子を双亮はすぐそばで見守った。数字を誤魔化させぬよう鋭く目を光らせて。
     
     だが、やはり「荷が足りない」と告げられた。
    「そんなはずない! ここに書いてあるやろ!」
     紙を突きつける双亮。しかし予想外の事実が待っていた。
     実際に、荷が減っていたのだ。
    「そ、そんなアホな! あんたたち夜中に荷をどっかに持ってったんやろ!」
     詰め寄った瞬間、
    「貴様! 難癖をつける気か!」
     再び、刃が振り下ろされた。
     
     双亮はベッドの上で目を開けた。
     今度は声も出ない。ただ、天井を見つめながら息を整える。
     
     そう何度も何度も連続で眠るわけにはいかなかった。
     そのまま朝を迎えるが、双亮の体は鉛のように重くベッドから抜け出せない。
    「アカン、今日は大学休みや」
     そのまま気を失うようにしてまた眠りにつくと、目覚めたころには夜になっていた。
     一体何時間寝ていたのだろうか、夢も見ずに……。しかし、思考はすぐに米津の浜に戻る。次はどうすれば……。
     体力の戻った双亮は、そのまま蝶の鱗粉に手を伸ばすのだった。
     
     双亮は神社に運ばれた荷の数を紙に記させると、日が沈むのを待った。
     寅之助の家で横になり、寝たふりをする。
     囲炉裏の火が小さくなり、やがて寅之助の寝息が聞こえ始める。
     だが、そのとき気配が動いた。
     寝息が静まり寅之助がそっと起き上がった。
     戸がわずかに開き、夜気が流れ込む。足音を忍ばせて彼は外へ出ていった。
     便所やろか?
     そう思ったが、しばらくたっても寅之助は戻って来なかった。
     
     双亮は慎重に外へ出た。
     月は高く雲ひとつない夜だった。
     銀色の光が双亮を照らし、くっきりとした影を地面に落としている。
     ずっと向こう、畑の畦道を人影が歩いていた。
     寅之助かどうか判然としないが、双亮はその後を追った。足音を消し息を潜めて。
     やがて人影は神社へ向かった。
     まさか、盗人か?
     心臓が早鐘を打つ。
     そのとき、神社の裏手からもう一つの影が現れた。
     月明かりが、二人の顔を照らす。
     寅之助と、おもんだった。
     双亮は息を殺して近づいた。
     二人の様子は、盗みとはまるで違っていた。
     二人は言葉もなく近づき、やがてその影はひとつに重なる。
     ああ……逢引きってやつか。
     双亮は見てはいけないものを見ている気がして、少し距離を取った。
     
     風に揺れる木々の音だけが聞こえる。
     結局、その夜、神社の荷に近づく者はいなかった。
     
     翌朝、双亮は「おめぇ、夜中にどこさ行ってただ?」と寅之助に聞かれた。それには寝付けなくて夜風に当たっていたと適当に答え、「それより俺が目覚めたとき、お前もいなかったな?」と寅之助に聞き返すと「オ、オラも似たようなもんだ。昨晩はなんでか寝苦しかったな」と歯切れの悪い答えが返ってきた。事情を知る双亮は、もう少し問い詰めてやろうかと思ったがやめておいた。
     
     そんな話をしていると、紀伊の水手が訪ねてきた。
    「助けてもらった礼だ」
     そう言って差し出されたものは、海水に濡れた米や野菜だった。
    「海水に濡れては長く持たん。腐ったものを江戸に持っていくことはできぬゆえ、遠慮せず食べてくれ」
    「こりゃ、ありがてぇ。そしたら、遠慮なく」
     寅之助はありがたく受け取った。
     外に出ると、他の家にも同じように米や野菜が配られていて、村人皆が喜んでいた。
     だが、この行為こそが荷の数が足りないことに直接繋がっていた。
     
    「ちょ、待ってぇや! 足りない荷って、あのとき配られた米や野菜か!? あれは、あんたたちが食べろとくれたもんやないか!」
     双亮は怒りを露わにした。紀伊御用船の足りない荷は、米や野菜などの食料品だというのだ。
    「ま、まさか、わざと食べさせたんやないやろな!」
     双亮は船出頭を睨む。
    「それは断じてない! ここで重要なのは、村の者が食べたという動かしがたい事実だ!」
     船出頭の後ろで、食料を配った水手たちはなんとも申し訳なさそうな顔をしていた。侍も双亮の怒りが理解できるのか、問答無用で切りつけるようなことはしない。
     おそらく海水に浸かった食料を配ったときは、本当に善意から配ったのかもしれなかった。だが、失った荷の責任を誰が取るのかとなったとき、御用船の連中は村人に責任を擦り付ける道を選んだ。
     
     浜松藩藩主井上正定、紀伊の船手頭、そして村おさ。
     三者が顔を揃えた場は、重苦しい沈黙に包まれていた。
     江戸時代、難破船の荷に手を付けることは厳しく禁じられていた。しかし、実際は「お船様」と呼ばれ民の暮らしの助けになっていたのが実情である。役人もそこまで厳しく取り締まっていなかった。
     しかし、難破船が御用船となると話が違った。
     このままでは、御用船の水手たちは船の荷を失ったことでお咎めを受け、半ば騙された形とはいえ村人は食料を食べてしまった以上、抜荷の罪で罰せられる。そして浜松藩は、御用船の水難事故を適切に処理できなかった(盗みが発生してしまった)ことで面目丸潰れとなる。
     藩主井上正定も馬鹿ではない。村人が騙されてこのような形になったことも理解していた。しかし、多くの村人が御用船の食材を食べてしまったという動かし難い事実がある。誰かが責任を取らねばならない。
     大岡裁きのような妙案があれば……藩主だけでなく、顔を突き合わす三人が皆、そんなことを考えたかもしれない。
     だが、結論は冷酷なものだった。
     
     米津村の者が、すべての罪を被る。
     
     一番立場の弱い村人にすべての罪を被らせることで、水手の罪は小さくなり浜松藩の面子は保たれる。
     
    「そんなの受け入れたらあかん!」
     双亮は叫んだ。
     だが、村人たちは顔を伏せたまま言う。
    「お上に逆らえば村がどうなるか……それに、騙されたとはいえ、オラたちも食べちまったことは確かだ……」
     その言葉には、抗えぬ現実への諦めが滲んでいた。
     理不尽だと分かっていても、それを覆す術がない。
     封建社会の不条理さが、双亮の胸を締め付けた。
     
     村が罪を被る。それは、村というひとつの共同体が生き延びるために、村から罪を背負うものを何人か差し出さねばならぬということだった。なくなった荷と照らし合わせると一人や二人では足りない。だが十人、二十人となると小さな米津村は存続できない。
     村おさの家で行われた話し合いは重苦しい沈黙に支配された。
     やがて村おさが一つの案を出す。村を構成する六つの辻ごとに一人ずつ罪人を差し出すというもの。米津村は古くから六辻に分かれており、その辻で分けられた家々が向こう三軒両隣といった形で小さな共同体を成していた。
     漁村であるゆえ辻の名には船の名がつけられていた。
     隠居船、六軒船、清三船、本船、中船、新船の六辻。
     最初に選ばれたのは、年寄りたちであった。
     隠居船の又三郎、六軒船の仙之助、清三船の権兵衛。
     いずれも長く海に出てきた者たちであり、既に船を息子たちに任せている者ばかりだった。彼らは、村おさからの提案を受け、自ら名乗り出てくれた者たちでもあった。騒がず「行かせてくれ」と頼む姿には、静かな覚悟があり、それが事の重大さをより際立たせた。
     次に選ばれたのは、身寄りのない者たちだった。
     本船の半五郎、中船の仁左衛門、そして新船の寅之助。
     同い年の寅之助に声がかかったと聞いて、双亮の胸は強く軋んだ。
     寅之助は、確かに独り者だ。親も兄弟もいない。だが、それでは……。
     
    「お前、ええんか? おもんちゃんを嫁にもらいたいって言ってたやんか」
     寅之助は一瞬だけ顔を歪めたが、すぐに視線を落とした。
    「……仕方ねぇ。オラには親も兄弟もいねぇ」
    「アホか! 若いお前が行く必要なんかあるか!」
     気づけば声を荒げ、双亮はこう主張した。
    「お前は行かんでええ。俺が行く、俺が代わりに行く!」
     関係ない人間がなぜそこまで? と村人から不思議に思われたが、それでも双亮は頑なだった。同い年の寅之助の未来を、こんなことで断ち切らせたくはなかった。
     
     双亮は村おさに頼んだ。
    「寅之助の代わりに、俺を行かせてくれませんか」
    「どこの誰だか分からぬ、お主にか……」
    「俺が、浜に流れ着いた時のことを思い出してみてください。おそらく俺はどこかから追い出された人間だと思いませんか」
     本当は夢を見ているだけ、もう何度も死んでいるから平気なのだが、そんなことを言っても信じてもらえないだろう。
     村おさは腕を組み、じっと双亮を見据えた。
     やがて、低く息を吐いた。
    「お主は、それでよいのか?」
     その問いに、双亮はただ頷いた。
     やがて、周囲からもぽつりぽつりと声が上がった。
    「若い者は、明日の村を担ってもらわねばならねぇと思うだよ」
    「わざわざ代わりを申し出てくれとるなら、断る理由はねぇずら」
     決して軽い同意ではない。だが、誰も若い寅之助を送り出したいとは思っていなかった。
     村おさはゆっくりと目を閉じ、そして深く頷いた。
    「……よかろう」
     その言葉が落ちた瞬間、寅之助は堪えきれずにその場に崩れ落ちた。
    「いいのけ……本当に、オラの代わりに……」
     声は震え、言葉にならぬ嗚咽が続く。
     他の代表者たちの手前、大仰に泣くことはしなかった。だが、両手で顔を覆い肩を震わせ、声を殺すように泣いた。
     双亮はただ、何も言わずにその背を見つめていた。
     
     こうして選ばれた六人は、それぞれの辻の組頭という名目で差し出されることになった。
     後日、六人は浜松藩の船に乗せられ、御用船の水手たちと回収された荷とともに江戸へと送られることとなった。
     穏やかな海が、いつもと変わらずどこまでも広がっていた。
     
     だが、船が岸を離れ大海原に繰り出すと、その世界は一変した。
     帆が風をはらみ柱は大きく軋んだ。その度、波が船腹を打ち上下左右に揺さぶる。足元は常に不安定で、地面というものがいかに頼もしいものであったかを双亮は思い知らされた。
     風と波、自然の気まぐれに翻弄される乗り物が、この時代の船であった。
     そして、その揺れは容赦なく双亮の体を蝕んだ。
     胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われ、視界が揺れる。額には脂汗が滲み、息をするたびに吐き気が込み上げてくる。
    「おいおい、大丈夫か」
     水手の一人がニヤつきながら声をかけてくる。
    「吐くんなら海に吐けよ。船の上を汚すな」
     笑い声が上がる。
     双亮は返す言葉もなく、ただ口を押さえた。
     見かねた半五郎と仁左衛門が肩を貸す。
    「ほれ、あっちだ。船縁まで行くぞ」
    「いいか、落っこちるなよ」
     また笑い声が上がる。
     その時だった。
     ごう、と風が唸り、船体が大きく傾いた。
     足元が消える。
    「あっ」
     次の瞬間、双亮の体は宙に浮いていた。
     上下の向きが分からなくなるほどの揺れの中で、双亮はただ何かに掴まろうと手を伸ばす。しかし、その手は空を切るだけだった。
     そのまま海へ。
     冷たい衝撃が全身を包み込む。
     口の中に塩辛い水が流れ込み、息ができない。耳鳴りのような水の流れが、すべての音をかき消す。
     必死に手足を動かそうとするが、体は言うことを聞かなかった。船酔いで弱った体に荒れる海を泳ぐ力は残っていなかった。
     
     暗い水の中で意識が遠のいていく。
     ふと、寅之助の顔が浮かんだ。
     おもんの笑顔も。
     村の景色、すべてが遠ざかっていった。
     
     次に目を開けたとき、双亮は自分の部屋のベッドの上にいた。
     見慣れた天井。
     静まり返った室内。
     潮の匂いも波の音も、ここにはなかったが、冷たい海の感触だけが体中を覆っていた。
     

    7

     いつもの教室、いつもの席、隣には航青、反対側には見知らぬ女子生徒がいた。明るく染めた髪、派手なネイル、服装も少し崩した着こなし、ギャルっぽい女子だ。誰や? と訝りながら双亮は席に着いた。
    「でさ、米津地蔵なんだけどさ」
     妙に親しげに話しかけられた。
    「例えばさ、お地蔵さんをモチーフにした、かわいらしいキャラクター作ったらどうかな?」
    「それいいね」
     と航青が返事をする。
    「ねぇ、ちょっと双亮、聞いてる?」
    「ん? 俺?」
    「どうしたの、また走りすぎて疲れてるの?」
    「いや、ていうか、お前、誰やねん?」
    「はぁ? ふざけてんの? 葉波だよ」
    「……いやいや、ふざけてんのはそっちやろ?」
    「もう、ちょっと航青、何か言ってやって」
    「双亮君、ちなみに俺は誰だかわかるかな~?」
    「航青、お前が考えた悪戯か? 葉波はどっかに隠れとるんか?」
    「なんだ、俺はわかるのか……ん? お前、本気で言ってるのか?」
    「やめてよ、私のことだけわかんないの?」
     双亮は、最初二人がふざけているのだと思った。
     だが航青が「葉波はずっと大学入学のときからこんな感じだけどな」と言ってスマホの写真を見せた。
     そこには一緒にコンパに参加したときやカラオケに行ったときの三人の姿があった。
     そこに写っている葉波は、隣にいるギャル風の女子生徒だった。
     双亮は慌てて自分のスマホの写真を見る。そこにもこの女子生徒が写っている。
    「なんでや⁉」
     スマホを操作する指が震える。
     まさか⁉ と双亮は思う。
     夢の中で寅之助の身代わりになったことが、現実に変な影響を与えてしまったのではないか。
    「そんな、夢のはずやなかったんか……」
     双亮は教室を飛び出した。
    「おい、双亮!」
     航青の声を背中に受けながら、廊下を駆け、キャンパスを飛び出し、双亮は自宅アパートに急いだ。
     
     蝶の鱗粉を吸い込み眠りに落ちると、前に見た夢が終わった場面、つまり死ぬ少し前からまた夢が始まる。
     今度は、どこから始まるのだろうか。そう思いながら双亮は目を開けた。
     そこは寅之助の家だった。外に出て、寅之助を探す。村人は村おさの家に集まっていた。ちょうど六人の罪人を選ぶあの場面だ。
     ここからやりなおさなければいけないのだろう、と双亮は思った。これまで夢の中で米津村の出来事に関わっても、現実に影響が出ることはなかった。だが、今回は違う。葉波が葉波でなくなった。
     おそらく、ここで寅之助の代わりを名乗り出てはいけないのだ。前回、名乗り出たせいで未来が変わってしまった。
     結局、米津村の悲劇を変えようなどとは思ってはいけなかったのだ。
     
     六人の罪人が、縄に繋がれ、村を去っていく。
     おもんは泣いていた。
     村人たちも涙ながらにそれを見送った。
     双亮も、その中にいた。
     何もできず、ただ見ているだけだった。
     
     その夜、一人きりになった寅之助の家で双亮は「どうして、こんな夢を見せられているんだ!」と憤った。
     
     翌日、村おさが村人をもう一度集めた。
    「実はの……藩主の井上様が、幕府や紀伊藩と交渉する余地があると仰っておる」
     ざわめきが広がった。
    「六人を、救えるやもしれん」
    「おお……!」
     歓声が湧き上がる。
     村おさは続けた。
    「ただ、そのためには金が要る。その額、少なく見積って二百両」
     村人が一瞬で静まり返った。
     二百両。
     小さな村にとって、それは天文学的な額だった。
     沈黙を破ったのは、おもんだった。
    「村おさ様、昔お船様から頂いた着物や髪飾りがあります。それを売れば……」
    「オ、オラの家にも焼き物があるだ」
     次々に声が上がった。
     だが、村おさは首を振った。
    「ありがたい申し出だが、それでは足りんじゃろう……。そこで、ひとつ提案なのだが」
     そして提示されたのは、米津の浜の一部を売るという案だった。
    「近隣の村も裕福というわけではない。どこも貧しい暮らしだ。じゃが、浜松藩が交渉の間に入ってくれると言うておる。浜を売れば、お船様に巡り会う機会は減るじゃろうが、今回のような御用船の難破から逃れられることもあろう」
     村の意見がまとまるのに、時間はかからなかった。
     こうして二百両は用意され、浜松藩の役人へと渡された。
     
     だが、何日経っても、何の音沙汰もなかった。
     痺れを切らした村人が、村おさを急かし、お伺いを立てた。
    「二百両? はて、何のことだか」
     役人の言葉は信じられないものだった。
     その一言で、すべてが崩れ落ちていった。
    「そんな馬鹿な話あるか!」
     村おさに向け怒りを露にする者もいた。
     しかし村おさは、静かだった。
    「皆の衆、怒ってはいかん……」
     その言葉は、どこか空虚に響いた。
     
     それからほどなく、江戸で六人は裁きを受け、小塚原の刑場で処刑されたと知らせが入った。いくら封建社会とはいえ、ここまでの非道の極みには村中が怒り狂った。
    「こんな悲しみ苦しみを味わうくらいなら、いっそ殺してくれ!」
    「オラもだ!」
    「もう村人を皆処刑しろ!」
    「そうだ! そうだ! この世にゃ神も仏もねぇ! いっそ殺してくれ!」
     村人は皆、怒りながら泣いていた。
    「そんなことは言ってはいかん。死んだ六人が悲しむじゃろう」
     村おさは必死に皆をなだめた。
     
     処刑の知らせが届いた夜、双亮は寝付けず一人海辺を彷徨っていた。殺されることがないため、夢の世界から一向に目が覚めない。
     何もできず、ただただこの不条理に村人とともに耐え続けていた。
     俺には、現実世界がある。せやけど、ここの人たちにはこれが現実や……。
     そう思うとなんともやりきれない気持ちに双亮はなった。
     
     ふと、月明かりに照らされて小さな人影があることに気づいた。おもんだった。
    「おもんさん……」
    「双亮さん」
     おもんは海に向かって手を合わせていた。
    「寅之助のこと……」
    「ここから手を合わせるくらいしかできることもなくて」
     罪人の骨が村に返されることなどあるわけなく、おもんはここから船で旅立った寅之助や他の五人の魂に手を合わせていた。
     月明かりの中、海に向かって拝むおもんの姿を見たとき、双亮の中に一つの考えが浮かんだ。
     せめて、あの地蔵が土に埋められることなく皆で供養できるようにはできへんやろか……。それくらいのことしても罰は当たらんやろ。
     
     翌朝、安泉寺に地蔵作りを頼みに行った。
     すると、すでに住持が石を削り地蔵を作っている最中だった。
    「あなたも御仏の心をお持ちなのですね。おもんさんのためにも、村の人たちのためにも大急ぎで作り上げましょう」
     役人がこの地蔵にケチをつけてくる。そのとき、俺は命がけでこの地蔵を守ろう。それが、この夢の世界でできる俺の最後の役目や。双亮は、そう静かに決意した。
     その安泉寺からの帰り、井戸端に村の女房衆が集まっていた。
    「昨日の晚、主人が夢枕に立っただよ!」
     又三郎の女房だった。
    「皆、大丈夫だからって言ってた、心配するなって」
     現実世界でオカルトと呆れていた話が、双亮の耳に今は違って聞こえた。
     
     双亮は、村での居場所の無さにも困り果てていた。地蔵作りの手伝いでもしようかと思ったが、素人の手出しは邪魔になるだけだろうし、それなら村人の手伝いでもと思うのだが、双亮が一体何者なのか、いつまで村にいるのか、村人たちの疑念が日に日に増していて、それが好意的なものではないことくらい双亮も感じ取っていた。
     何もすることなく、昼間は寅之助の家に籠るようにして過ごし、ただ地蔵の完成を待つ日々。夜になると寝付けない双亮は、浜辺を一人彷徨った。
     
     すると、月明かりの中、誰かが海を眺めていた。
     おもんかな? と思い近づく。
     男の影? あれ、どこかで見たことがあるぞ?
    そう思いながら近づくと、それは又三郎だった。
    隠居船の又三郎。
    罪人として江戸に連れて行かれたはずの老人である。
    双亮は思わず声をかけた。
    「ど、どうして、ここに?」
    「ああ、来た来た」
     双亮は驚いた。
    「現実世界に帰れんくて困っとるだろ?」
     双亮は「えっ?」と驚き、思わず一歩退いた。
    「みんな、来るよ」
     又三郎がそう言うと、月の照らす米津の浜に一人、二人と人影が現れた。
     誰だ!? と思うと、それは罪人として江戸に渡ったはずの六人だった。
    「わしら、江戸まで連れてかれてないだよ」
    「えっ、どういうことですか?」
    「御前崎の先でわしらは船を降ろされただよ。わしらもわけわからんかった。そこで入れ替わったんじゃ。高町の刑場の牢にいた本物の罪人と」
     つまり江戸に連れていかれたのは、別の罪で処刑されることが決まっていた罪人たちだというのだ。
    「わしらも、そこで初めて説明された」
     浜松藩藩主、井上正定は、御用船の船乗りも米津の村の民も、そして浜松藩も助かる方法がないかと策を練った。
     一番弱い立場の村人になすりつけてしまえば済む話だが、それではあまりに不憫。
     そこで考えたのが、罪人の入れ替えだった。
     しかし、本当に悪さをし牢に入った連中がタダで引き受けるはずがない。
     代わりに、入れ替えを了承した者には、村の浜の権利を売って作った金を分け与えることにした。その金は、罪人が望む人物、罪人の親や子供に渡された。
    「二百両の殆どは罪人の身内に渡したそうだ。残りはわしらが身を隠している間の生活費になった。ほとぼりが冷めるまで、一年ほど隠れて暮らせと言われたんだ」
     すると、六人の後ろから米津村の人々が次々と現れた。
     安泉寺の住持も浜に現れ、足元には完成した地蔵もあった。
    「この地蔵が土に埋められたのは一年後、六人が村に帰ってきたからでした。藩主井上様に言われたのです。もうその地蔵を拝む必要もなかろうと」
     又三郎が、最後にもう一つ、と種明かしをする。
    「わしは歳が歳だけに、その一年が長い。このところ腹が長く痛むしな。無理言って夜中に、誰にも見つからんように気をつけて、家に帰らせてもらっただ」
     それが又三郎が夢枕に立った真相だった。
     
     最後に村おさが双亮の前に立った。
    「双亮よ、あとは任せたぞ」
    「えっ、任せるって?」
     双亮の問いかけには何も答えてくれなかった。
     月明りに照らされた米津村の人々の姿が、ゆっくりと消えていく。
     そして浜辺も海も、その月明りの中に消えていった。
     
     双亮が静かに瞼を開ける。
    「気づいた! 大丈夫、双亮?」
     葉波が覗き込む。ギャルじゃない葉波だ。
    「熱中症だろ? お前、水分補給してなかったろ?」
     航青が呆れて言う。
     双亮の体は氷枕や氷嚢で冷やされていた。
     
     双亮は頭が混乱した。
     あれ? 自分の家のベッドじゃない。
     ここは……目の前には天井から吊るされた金色に輝く天蓋があった。
     あの日だ。
     三人で安泉寺の住持に話を聞きに来た日だった。
    「お、気づいたかい? 今、救急車呼ぶからね」
     住職がスマホ片手に小走りでやってきた。
    「あ、すみません。もう大丈夫です」
     
     どういうことだろう。
     長い長い夢だったということか。
     双亮はすぐには理解できなかった。
     
     帰り際、あの日と同じように葉波の家のお墓へ。
     古いお墓だった。
     双亮は何気なく墓石の裏側へ目をやる。
     風雨に晒されはっきりとは読めないが、そこにはなんとか「おもん」と読める文字があった。

    8

     教室の窓から差し込む光は柔らかく、ようやく秋の気配を感じるようになってきた。生徒は教授の言葉に耳を傾けながら、同じようにペンを走らせていく。
     研究発表の日が近づいていた。
    「せや、小説を……」
     思わず声に出しかけて、双亮は慌てて口をつぐんだ。
     小説を書けばええんや。
     米津地蔵の伝承は断片的で、史料も乏しい。だが、それを逆手に取れば、空白を想像で埋める余地があるということだ。
     夢で見たことを小説にしたら、どうやろう?
     図書館に収められている昭和の同人小説。平易な言葉と軽やかな会話で紡がれた、昭和のライトノベルのような空気感。
     あれでええんや。いや、あれだからええまである。
     
     講義が終わるや否や、双亮は勢いのままに話を切り出す。
    「米津地蔵の話、小説にするで。ほんで、それをネットの小説サイトで公開するんや」
     教科書を鞄にしまいながら航青が眉をひそめた。
    「小説? ヒットさせなきゃ観光資源にはならんだろ?」
     隣で葉波がシャーペンをくるりと回し、呆れたように双亮を見る。
    「荒唐無稽な計画ね」
    「そりゃヒットさせるのはむずいで。でもやってみなわからへんやん。ほれ“やらまいか”いうやん、浜松は」
     少し得意げに言うと、葉波なは小さくため息をついた。
    「で、誰が書くの?」
    「俺が、俺の見た夢の内容を書くに決まっとるやんけ」
     その瞬間、二人の視線が揃って鋭くなった。
    「研究発表、明日だぞ」
     現実は、容赦がなかった。
     一度も小説など書いたことのない双亮が、一日で物語を書き上げられるはずもなく、夜通しパソコンに向かい、何度もキーボードに手を置いては止まり、消しては書き直し、気がつけば窓の外が白んでいた。
     研究発表は、小説抜きのまま行われた。
     だが、不思議なことに評価は悪くなかった。むしろ、断片的な史料の整理と考察は、教授の関心を引いたようだった。
     そして、双亮は諦めなかった。
     
     年末、冷たい風に背中を押されるようにして、双亮は和歌山へと帰った。
     口やかましい母親は、双亮の髪を見て悲鳴を上げた。それがなんだか双亮には気持ちよかった。米津の村人より驚いてるんちゃうか? と心の中で笑った。
     久しぶりに見る故郷の海が、冬の光を受けて鈍く沈み、どこか遠い記憶のように揺れていた。
     双亮は街の図書館へ足を運んだ。
     暖房の効いた空気の中、ページをめくる音だけが微かに響く。
     そこで双亮は、思いがけない資料に出会う。
     紀伊側から記された御用船難破の記録だ。
     双亮が見た夢とは、いくつも異なる記述。読み進めるうちに、違和感が膨らんでいった。
     夢で見た出来事は、一週間から十日ほどの出来事だった。だが史料にある江戸行六義人の話は、もっと長い。処刑だけでも、十月から翌年の正月にかけて行われている。
     さらに、難破船に関する話も一つではなかった。
     どうやら遠州灘は江戸時代、航行が難しい海域だったようで、遠州の浜辺、特に天竜川の西側から浜名湖の今切口に掛け、多くの難破船が流れ着いていた。
     米津と同じように、抜荷の罪で江戸に三人の村人が送られ処刑された松嶋村の話。
     紀州船が浅瀬に乗り上げたところを救助し、船の修理も手伝い、感謝された小沢渡村の話。
     抜荷の嫌疑をかけられるが、代官所に訴状を出し、無実明白の裁断を得た篠原村の話
     残された資料と自分の見た夢。その間に横たわる溝は思っていた以上に深かった。
    「どっちや? 夢は真実ではないんか……」
     ぽつりと呟く声は、書架の隙間に吸い込まれていく。
     自分が変な夢を見ただけ、という可能性も捨てきれなかった。
     あの蝶のことを思い出す。鱗粉をまとい、現実と夢の境を曖昧にした、あの不可思議な存在。
     だが、現実に戻ってから、蝶はどこにもいなかった。
     葉波も、航青も、安泉寺の住持でさえ、そんなものは見たことがないと言う。
     まるで、最初から存在しなかったかのように。
    「ただの夢、やったんかもしれんな……」
     そう言いながらも、胸の奥に残る感触は消えなかった。
     
     そして春が過ぎ、双亮は大学二年になった。
     
     五月、ゴールデンウィーク。
     街は、熱気を帯びていた。
     浜松まつりの季節である。
     昼の中田島砂丘の空には無数の大凧が舞い上がっていた。遠州の強い風を受け、それぞれの町の町紋が描かれた凧が空を切り裂くように舞う。凧糸を切り合う地上では信号ラッパが鳴り響く。
    「おいしょ! おいしょ!」
     夜の街中は、昼とはまるで別の顔を見せていた。
     笛や太鼓の音を響かせながら、各町の御殿屋台がゆっくりと引き回されていく。鍛冶町通りは御殿屋台の灯りで黄金色に染まる。
     
     祭りの喧騒の中で、双亮は一つの区切りを迎えていた。
     小説が、書き上がったのだ。
    「書いたの!?」
    「書いた」
    「マジかよ」
    「マジや」
     一緒に祭りを見に来ていた葉波と航青は驚いていた。
     御殿屋台が目の前をゆっくりと通り過ぎていく。
     漆塗りの艶やかな屋台もあれば、豪華絢爛な彫刻で飾られた屋台もある。
     揺れる提灯の光が、幻想的な風景を浮かび上がらせる。
     その中に。
    「あっ!?」
     双亮は、思わず声を漏らした。
     米津町の御殿屋台だった。
     他の屋台とは、明らかに異なる姿。
     それは船だった。
     朱に塗られた船体を模した御殿屋台。真ん中に白い横線も入っている。提灯の光を受けて、その朱と白は波の上を揺れ動いているようだった。
     夢と現実が、ふと重なる。
     双亮の胸の奥で、何かが静かに結びつく。
     ただの夢ではないのかもしれへんな。
     祭り囃子が高まり、屋台はゆっくりと夜の街を進んでいく。
     朱い船は、過去を乗せて現在を渡っているようだった。
     
     
    了

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