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世界が息をした日


    2013年 ブラジル サンパウロ

    “ぽとっ”

    鳥の糞が左肩に落ちた
    その瞬間だった

    え!?

    目の前の低木が、
    内側から発光しているように見えた。

    木も、
    草も、
    空気も、
    全部が光っていた。

    世界が息をしていた。

    呆然とした

    と同時に周りの人に目を向けた
    その時だった。

    胸の奥から、
    説明できない慈悲のようなものが
    溢れてきた。

    通り過ぎる人たち全員を、
    抱きしめたくなっている?

    愛してる。
    その言葉だけが胸の中から溢れてきた

    やばい。

    そう思って、
    私は公園を飛び出した。

    少し歩く頃には、
    景色は元に戻っていたが
    私の内側は戻らなかった。

    その日、
    はっきりわかったことがある。

    人生に問題なんてひとつもなかった
    問題は私の外にはなかった

    その場所に辿り着くまで、
    40年かかった。



    ブラジルでの私は壊れかけていた。

    毎朝起きて
    決まった公園へ行く。

    決まったベンチに座る。

    目の前には、
    膝の高さほどの低木。

    ただ、
    それをぼんやり眺める。

    午後になれば仕事へ行く。

    それだけの毎日だった。

    何も楽しくなかった。

    何も感じなかった。

    自分が何をしたいのかも、
    何のために生きているのかもわからなかった。

    私はもともと、
    自然と海を求めて日本を出た。
    はずだった。

    しかし今はサンパウロという
    世界有数のコンクリートジャングルにいる

    「俺、何やってんねやろ」

    その言葉だけが、
    頭の中をぐるぐる回っていた。


    1992年大阪

    ワーキングホリデー?

    「そや!日本居るより
    オーストラリア行った方がサーフィンすぐ
    うまなるから行ったらええねん!」

    サーフィンを始めたばかりの私に
    ワーキングホリデーと言うものを
    先輩が教えてくれた。
    それを聞いた私は
    わくわくが止まらなくなり、
    オーストラリアに行く事は
    もう心の中で決定していた。

    そしてこれがすべての始まりだった。

    西オーストラリア、パース。

    空港に着いた次の日、
    朝の街を歩いた時のことを今でも覚えている。

    身体が軽かった。
    “魂が喜んでいる”そんな感覚。
    自由だった。

    「日本じゃなくてもええんや」
    そう思った。

    そこから私の人生は、
    サーフィンと自然を軸に回り始めた。

    オーストラリア。
    日本。
    カリフォルニア。
    中米。
    ブラジル。

    料理人として働きながら、
    波を追いかけて国を渡った。

    金はなかったが仕事は常にあったし、
    何より自由だった。

    少なくとも、
    そう思っていた。

    ブラジルも南の海、
    自然が豊かで有名なサーフエリアが始まりだった

    しかし、すぐにお金が尽きてしまい、
    生活を立て直すためにサンパウロに移動した

    少し稼いで、
    また海に、自然に戻るつもりだった。
    そのはずだった。

    でも気づけば、
    8年以上経っていた。

    サンパウロでも有名な日本食レストランで、
    寿司カウンターを任されるまでになっていた。

    もちろん、やりがいもあったし
    誇りもあった。

    でも、
    その代償は大きかった。

    朝は魚市場、ランチ、ディナーと仕事をこなし
    家に帰る頃には日付が変わろうとしていた

    その繰り返しだった。

    体力的にもきつかったが
    本当に私を削っていたのは別のものだった。

    ポルトガル語だ

    カウンター越しに、
    ブラジル人のお客さんと話す。

    言葉が難しい。

    日常会話はできても、
    微妙な空気や冗談や感情が乗せられない。

    私は本当は無口じゃない。

    でも、あのカウンターでは違った。
    言葉が足りない。
    感情が届かない。
    笑いたい場面で笑えない。
    その都度に
    自分が少しずつ消えていく気がした。

    店の中にいても孤独だった。

    本当の意味で、
    私を理解してくれる人がいない気がしていた。

    そして何より、
    海が遠かった。

    サーフィンは週に一回。
    たったそれだけで、
    自分が削れていくのがわかった。

    気づけば私は、
    自然からも、
    海からも、
    自分自身からも、
    遠く離れていた。

    彼女もいない。

    結婚もしていない。

    金もない。

    年齢だけが増えていく。

    私はもともと、
    自然と海を求めて日本を出た

    自由を求めて生きてきたはずなのに、
    気づけば自由とは真逆の場所にいた。

    だからあの日、
    私はあのベンチに座っていたのかもしれない



    2013年3月3日

    相変わらず
    憂鬱で体が重かった。
    空気が重く感じた。

    また何の目的もなく、
    あの公園に向かっている

    頭の中がいっぱいで、
    周りで聞こえる音や周りの景色は
    一切入ってこなかった

    いつものベンチにたどり着いた

    「また今日もここへ来てしもた。」

    いつも眺めている低木がそこにあることに
    ほっとしている。

    そしてこの低木だけが
    唯一、
    自分のことを理解してくれているように感じていた

    しばらくすると
    何だか変な思考が湧いてきた。
    表現するなら
    自分の中にもう1人の自分がいて、
    そのもう1人の自分が
    今までの人生で辛かったこと
    苦しかったなことなどを
    実は全く問題ではなかった。
    と、一つ一つ説明、証明しながら
    “なかったこと”にしていくのである

    そして
    ”確かに、すべて勘違いだった”
    と腑に落ちていく。

    私の中でこびりついていたものが
    1枚ずつ剥がれていくようだった

    な、何が起こってる?!

    訳がわからなかったが
    ただ呆然と
    その思考と映像に取り付かれていた

    そしてとうとう現在サンパウロでの”辛いこと苦しいこと”に到達した時

    ふっ 

    軽くなった
    今まで、無意識に背負い込んでいた憂鬱感か?

    と同時に
    左肩に鳥のフンが落ちた
    その瞬間である

    え?!
    目の前の低木が光って見える

    いや、それだけではない。よく見ると、
    全てが光っているではないか。
    周りの草木も、その先に見える池の水も


    いや、

    世界が光っている。



    とうとう頭がおかしくなった?!

    ふと
    この景色は私だけが見ているのか?!
    と思い
    周りの人たちに目を向けた。その時
    私の中から無限ともいえる慈悲や愛の想いが溢れだし
    なんと周りの人たちに
    愛してるよ!と抱きつきたい衝動に駆られてきたのである。

    「や、やばい」

    私はこの衝動をなんとか押さえ込みながら、
    とりあえずはこの公園を出よう
    とベンチを後にした

    公園を出て少し歩く頃には、
    私の視界は普通に戻り、
    人々に対する想いもかなり収まってはいたが、
    私の内側は二度と戻る事はなかった

    そこに”恐れ”はなかった

    「一体何がどうなってんねん?」

    何よりも私の心の状態であった。
    情熱に溢れかえっている。

    生命というものに、
    ただ生きているということに
    心が感動していた

    その日すぐ仕事を辞めるとレストランに伝えた。

    仕事から帰ってきた夜
    すっかり元通りの自分に戻ってはいたが、
    やはり私の内側でもう二度と戻らない部分がある。

    集中と興奮で眠れなかった。
    興奮といっても
    精神的にそして肉体的には完全にリラックスしている。

    「あれは一体何やったんや」

    考えても答えは出ない。

    1つ大きく
    私の心に刻まれたこと
    それは”問題などなかった”である。

    私はリュック1つ持って
    歩いて旅に出ることを決意していた。
    理由は無い。
    ただただそう思ったのである。
    今までの人生の中に問題なんてなかった。
    そして、これからも。
    ならば
    仕事の事やお金の事、生活の事など考えず、
    ただ歩こう。
    本気でそう思ったのである。

    数日後
    コスタリカにいる先輩から連絡があった。

    「店を拡張したいと思ってる。
    もしよかったら手伝いに来てくれないか?」

    「行きます。」
    私は即答した

    またコスタリカに住み
    先輩の店を手伝い始めた。
    店は無事に拡張でき、万事順調だった。
    が ある出来事で、
    私は仕事を失った。

    仕事がなくなったのは残念ではあったが
    何も失った気はしなかった

    私はただ生きていることに感謝し
    毎日を過ごしていた

    すると
    今度はオーストラリアにいる後輩から連絡があった。

    『店を拡張したいんですけど、
    来てもらえないでしょうか?』

    「すぐに行くよ」
    即答した

    そもそも私はリュック1つ持って
    歩いて旅に出ようと決意したのだが

    今、コスタリカに。
    そして
    オーストラリアに行くことになるのか?!

    何かに導かれているような
    不思議な感覚だった



    久しぶりのオーストラリアに到着
    懐かしかった。
    があの頃の私とは別人だった

    後輩の店で働き始めたが、
    残念なことに彼の店の経営方針と
    私の精神状態
    ”生きてるだけで奇跡”
    があまりに違いすぎ、

    「困った。」

    悩んでいたが、数ヶ月後に
    私は”奇跡的に”クビになった。

    ありがとう
    心の中つぶやいていた


    とうとう帰国かと思ったが、
    他の店に申請すればすぐに雇ってくれると
    勧められて
    半信半疑で何件かの店に応募してみた
    その中の1つ
    ワーキングホリデーの時にいたパースの友人に会いに行ったところ、
    なんと仕事も決まり住むところも決まり
    そしてその友人が車まで用意してくれると言う。
    持つべきものは友である

    パースに移動する準備をしていたところ、
    問い合わせていた別の店から連絡が来た。

    その店の場所が
    “バイロンベイ”(サーフィンの聖地)
    であったので、サーフトリップがてら遊びに行こうと決めて車を走らせた。

    バイロンベイの街に約1キロ位のところであろうか、
    英語でwelcome to Byron bay
    (ようこそバイロンベイへ)
    と言う看板があり、通り過ぎた瞬間だった

    “ここや”

    えっ!?な?何?!

    説明できないが、
    “私はここに住む”
    と確信に近い思いが湧き上がってくる

    「いやいや
    そんなはずあらへん
    もうパースで友達待っとるし」

    しかし、
    実際バイロンベイの街にたどり着き車を走らせていくと、その思いがどんどん強くなり、
    そのレストランに足を踏み入れたときだった。

    “この店だ”

    抵抗できなかった。
    間違いない。
    理由はわからない、だがこのときにはもう
    パースの友人にどう謝ろうか考えていた

    結局私はその店でヘッドシェフとして
    迎え入れられ、
    ビジネスビザを介してすぐに永住権を申請する予定になった。

    仕事の条件は良かった、仲間たちもいい感じで
    何よりもサーフィンの聖地バイロンベイに
    住めること自体が奇跡だった

    この時の私の心境は今でも新鮮である

    “奇跡だ”

    サンパウロでの不思議な体験からここまで信じられない流れだ

    幸福感そして満足感に包まれている
    一言で言うなら
    “何もいらない”
    本気でそう感じていた。

    その1つに
    日本への距離が近くなったこともある。

    日本の真裏のブラジルから日本へ帰国するのは至難の技だったが、
    オーストラリアからなら何の抵抗もない。

    私は一時帰国して母に会いに行くことを決めていた。
    ここ20年の間で母には3回しか会っていない

    母のことを想う。
    母は愛そのものだった。

    その母の愛とは対照的に父は短気で破天荒
    365日、毎日母を罵っていた。

    怒鳴る。

    責める。

    時には棚の中身を全部床にぶちまける。

    意味なんてわからない。

    次の日、
    母は何も言わず一人で片付けた。

    母を助けると父は余計に怒るのを理解していたので、
    何もしないのがその家で生きる方法だった。

    子供の頃、
    家に帰るのが怖かった。

    でも本当に辛かったのは、
    父への恐怖じゃない。

    目の前で傷ついている母に、
    何もできない自分。
    その無力感だった。

    それでも母は、
    私たちにだけは
    百パーセントの愛を注いでくれた。

    見返りなんて一度も求めなかった。

    ただ愛してくれた。

    私はその愛に、
    ずっと守られていた。

    大人になって、
    世界を回って、
    やっと気づいた。

    帰国して母に伝えた

    「おかん俺のこと産んでくれて
    ほんまありがとう。
    俺は好きなことだけして生きてきて、
    今最高の環境で幸せに暮らしてる
    ただ1つだけな
    もうこの年やし
    結婚はできそうもないわ、、そやから、、
    孫見せる事もできへんと思うわ」


    「そんな事はどうでもええ
    あんたが幸せならそれだけで充分や
    ほんでな、それだけで私も幸せやから
    覚えといてな」


    微笑みながらそう言ってくれた母が
    空港で別れ際に涙を見せる

    これは相当きつかった。
    私は涙を見せまいと、急いで飛行機に乗り込んだが座席に座って泣き崩れてしまった

    おかん ほんまありがとう

    21歳の頃出国してから母と顔を合わせるのは
    これでまだ4度目である
    結婚して妻と孫ぐらいは見せてあげたかった。

    オーストラリアに戻る飛行機の中で
    口も聞かず嫌っていた父のことも
    頭の中を駆け巡った。

    ずっと憎んでいた。
    いなくなってほしかった父。

    でも父もまた、
    好きでああなったわけじゃない。

    幼い頃に両親を失い、
    一人で生き抜くしかなかった。

    弱音も吐けなかった。

    苦しいとも言えなかった。

    その全部が、
    怒りになっていたのかもしれない。

    今は思う
    父もただ、
    不器用だったんだと。

    私は五体満足で何不自由なく幸せに暮らしている
    この今があるのは
    父が働いていてくれたからだ。

    今なら、
    感謝せずにはいられない。

    このフライト中
    自分はこんなに幸せだが、
    “親孝行”というものを全くできてなかった
    自分が情けなく
    涙が止まらなかった。


    オーストラリアに戻って数日後、
    店の仲間が歓迎会を開いてくれた。
    その時、
    働いている時は気づかなかったが

    店でアルバイトで働いている女性が
    不思議な人に感じた

    誰かを特別扱いすることもなく、
    誰かを否定することもない。

    その場にいる全員へ、同じように自然な愛情を向けているように見えた。

    彼女と話していると、
    こちらまで肩の力が抜けていく。

    気づけば私は、彼女に惹かれていた。

    「勘弁してくれ」

    私は今幸せの絶頂にある
    “何もいらない”
    今のままで充分だ。
    恋愛とか女性は悩みの種にしかならない。

    しかも、彼女は15歳年下。
    そして数ヶ月後にはオーストラリアを去る予定だった

    しかし彼女への想いは収まらず
    ”伝えなければ後悔する”と
    彼女に伝えることを決意したが、

    「無理、無理、無理。」
    笑いながらあっさり振られてしまった

    潔く諦め、連絡はしなくなった。

    しかし縁は切れなかった。

    ある日、困っている彼女を助ける出来事があり、
    それをきっかけに少しずつ距離が縮まっていった。

    後に彼女が笑いながら教えてくれた、
    この件で私は
    ”ただのおっさんから1人の男性へと昇格”
    していた、と。

    数か月後、彼女は帰国前に私に打ち明けた。

    「私は子どもを産めない体なの。」

    驚いた。

    子供を産めないことではない。
    彼女がこの件を私に伝えていることだった。

    もちろん、
    その言葉を聞いても気持ちは何一つ変わらなかった。

    「それでもええに決まってる。」

    そう答えた。

    ビザの関係もあり、
    私たちは付き合うと結婚するが同時になった

    そして数か月後。
    医師から子どもは望めないと言われていた
    彼女が、
    妊娠した。

    震えた
    言葉が出なかった。

    正直、この時ばかりは
    天を拝み
    私にできた事は感謝だけであった

    こんなに恵まれてていいのか⁈

    これが奇跡でなければ何を奇跡と呼ぶのか

    ブラジルのあの日から続いているものが、
    今も静かに流れている。

    そんな気がした



    後に気づいたことがあった

    バイロンベイに住み始めた頃の私は
    幸せの絶頂で本当に
    “何もいらない”と思っていたし

    彼女が子供を産めない体
    と知ったことによって、
    私は子供が欲しいとか、
    親に孫を見せてあげたいと言う
    ”願望”が無かったことである

    実は私の中に
    “ブラジルで起こった体験よもう一度!”
    と言う想いが少なからず
    ずっとあったのである。

    しかし、

    「そうか、そうなんやな。」

    もう二度と起こる事はないし
    起こる必要もないんだ。

    手放そう。

    ”奇跡”  と言うものを、
    子供が産めない体の彼女が
    妊娠したことによってわかりやすく見せてくれたと思っている。

    結果的に
    両親に孫という最高の”親孝行”もできた。

    その後
    “私達”は奄美大島に移住、無事に出産。
    そして2人目の子供も授かった。

    “大いなる流れ”

    は今も私の足元に流れている。
    現在は山口県の田舎暮らしで
    自然栽培で野菜と米も育てている。

    ブラジルでの体験の後、
    私は文字通り”手放し状態”だった。
    人生に対してコントロールしようとせず
    ある意味、
    ただ流されるがままに生きた。

    ”あれが欲しい、こうなって欲しい”という
    自我がほぼなかった



    私は現在55歳
    8歳と4歳の息子がいる。
    彼らが 

    ”意味もなく”

    飛び跳ねたり走り回ったりするのを見て
    生命が本来持つ
    “生きている喜び”
    を毎日のように見せてもらっている。
    ありがたい。

    私は覚醒した人間ではない。
    今でも怒るし、落ち込む日もある。
    迷うこともある。
    それでも、
    あの日、鳥の糞が左肩に落ちた瞬間から、
    人生は私が思っていたより
    ずっと優しい場所になった

    だから今日も

    感謝し

    歩いている。

     
     

    無為

     
     
    55歳で8歳と4歳の子育て中の高齢パパ ちゃんたか です 4カ国25年にわたる海外生活 7年間の島暮らしなどで得た価値観をもとに 農的暮らし➕子育て➕食 を意識し、人生という物語を生きる中の 学びのアウトプット✨

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