
ラフマニノフとキッチンカー
涙雨
あまりにも静かだった。
静かすぎて夢でも見ているのかと思った。
確かにその子は私の産道を通って生まれてきたのに、
その産声はついぞ聞くことができなかった。
「写真を撮りますか?」
カメラを構えた若い看護師さんに言われて、私は咄嗟に言ってしまった。
「撮らないです…」
写真を撮ることで、悲しい記憶が目に焼きついてしまうのではないか。何より、すでにその命を失っている子の写真を撮っていいのかもわからなかったのだ。今でも、どちらが正解だったのか、わからないままでいる。我が子の姿は、もうイメージとしてしか覚えていない。
一晩一緒に過ごせる時間があり、ずっと目を瞑ったままの息子の瞳をそっと開いてみた。つぶらな瞳が静かに母を見つめていた。
その後、どうやって病院から帰って、どう家で過ごしていたのか、記憶は曖昧だ。覚えているのは、あまりにも小さな棺桶に入った我が子と、手を合わせに来てくれた初々しい新人看護師たちの姿、そして病院の外に出た時、空は真っ青だったのに、急に雨が降ってきたこと。
「涙雨だね」
と母が言った。
チャプレンの言葉
産休後、「死産」となってしまった妊婦が、職場復帰するまでに与えられた猶予期間は2か月である。
たった2か月でどうやって心身を整えていけば良いのか、とても自分の力だけでは回復不可能だ、と思った私は、産婦人科のある、色々な医療機関に電話をした。
「私は死産を経験したのですが、話を聞いてくれる場所はないでしょうか」
と聞いてみた。
電話口ではほとんどの方が、少し間を空けたのち、そういうことはしていない旨を、申し訳なさそうに言うのだった。
その中でひとつだけ、キリスト教系の病院で、“グリーフケア” を専門にしているというところがあり、チャプレン、という女性の牧師的な立場の方が話を聞いてくれる、と言ってくれたので、ありがたく伺うことにした。
……私はきっと、誰かに慰めてもらいたかったのだと思う。私はとっても可哀想、私はよく頑張った、これからきっと前向きに生きていける、とかなんとか。
長年、末期がん患者などの緩和ケアをされているという、60代くらいのその穏やかなチャプレンは、はっきりとした言葉で、私に淡々と語り始めた。
「これから3年くらいは、フワフワとしたまま時が流れていきます。5年経って、やっと少し落ち着くかな、という感じですよ。
あなたが経験したことは、女性にとっても男性にとっても、人間が考えられる最大の悲しみであり、普通の人間は正視したくないものなんです。
だから、普通の人はあなたから離れていくでしょう。
それが普通なんです」
何を言っているんだろうこの人は、と思った。自分が期待していたのとは全く違う言葉をずっと聞かされているような気持ちだった。
「そうなんですね……」
そうやって相槌を打つのが精一杯で、フラフラしながらなんとか家に帰ったような気がする。謝礼を渡そうとしたけれど、頑なに拒否された。
その後3年が経ち、5年が経ち、もうじき10年が経というとしている今、彼女の言った言葉は全て現実となって、私の身に降りかかることとなる。
自分ではかなり近しいと思っていた友人がふたり、自然消滅とでもいうのか、気がつけば、連絡が取れなくなり、会えなくなった。
子の喪失とは関係ないのだろう。私は元々自己中心的かつ恐ろしくドライなところがあり、気が付くと人が離れていた、というのは今までの50年近い人生の中で一度や二度ではない。
とはいえ、あまりにもタイミングが悪すぎた。
友人が離れていったことはショックだったけれど、そういえばチャプレンがそれが普通だと言っていた。だからしょうがないよね、だってそれが普通なんだから。
チャプレンは私に、予防線を張っておいてくれたのかもしれない。
ベトナム・コムビンザンとの出会い
故郷の山形では外食といえばラーメン屋で、あとはありがたいことにほとんど母の手料理を食べて育ったから、22歳で上京してから初めてベトナム料理を知り、好きになった。短期間だが赤坂見附にあったベトナム料理店でホールの仕事をしたこともある。
恵比寿の会社に勤めていた頃、『ニャーベトナム』には、移転前からランチタイムによく通ったものだ。そこでブンボーフエというやけにうまい麺と出会い、今でもベトナム料理の締めはいつもブンボーフエだ。
就職氷河期世代という自覚もないまま、1社の内定も得られなかった私は、阿呆みたいにブラック企業に捕まりまくり、転職を繰り返して日々自転車操業のように生きていた。『アコム』の入り口まで行って、思い留まったこともある。
映像系の制作会社から始まり、編集プロダクションやWeb制作会社でのライティングや進行管理の仕事などを経験し、Webディレクターに転向した所で、やっと安定した会社員の職を得た。上京してから13年の年月が経っていた。
土日祝日もしっかり休みで、残業は少々あるものの収入も十分。仕事を継続すべきであることはわかっていたが、どうしても広告の仕事との相性が悪く、日々精神が擦り減っていくのを感じ、8年ほど在籍したのち、退職した。
その退職とすれ違うように、大きな転機があった。
ベトナム料理研究家の伊藤忍先生が主催する、ベトナム料理教室『アン・コム(an com)』との出会いだ。
1レッスンにつき3〜4時間もかかるのだが、先生のあまりに深いベトナム料理の知識に圧倒され、またその料理という仕事に対する真摯な姿勢、誰に対しても公平で愛情深いその人間性にも魅了され、すぐに虜になった。何より驚いたのはレシピの正確性である。家で作っても、その美味しい一皿がしっかりと再現できるのだ。
すごい。もっと知りたい。もっとベトナム料理を作れるようになりたい。
人生で初めて“推し”を見つけたような感覚である。
教室に通い始めたばかりのタイミングで、先生の企画によるホーチミンツアーの案内があった。その日程は、次の転職先の入社日の前日に羽田に帰ってくるというハードスケジュールで、随分迷ったが、また就職したら身動きが取れなくなるだろうし、ちょっと無理して行ってしまおうと思い、申し込むことにした。
たまたま、他の参加者よりも早い日程で現地入りすることになり、ベトナム庶民の台所と言われる、「コムビンザン」(コムはご飯、ビンザンは平民という意味)に行ってみたい!というリクエストをして、先生に連れて行ってもらった。
お店に入ると、タライのようなアルミの容器に、30〜40種類のおかずがずらりと並ぶ圧巻の風景が広がっていた。

鮮やかな緑の葱油がたっぷりかかった焼き茄子。じっくりと甘辛く煮込まれた豚肉とゆで卵。指差しで注文すると、炊き立てのご飯と共に、大盛りのスープがどんぶりで運ばれてくる。
毎日のように通っているであろうビジネスマンたちが、弾けるような笑顔でおかずを選び、数人でテーブルを囲む姿。そこには、ただ貪欲に「生きるために食べる」という、人間の力強い熱気が満ちていた。
数年前、真っ暗な病室で息子と過ごした夜、絶望の淵にいたのが嘘のように、その日、コムビンザンで、その瑞々しい日常の輝きに、激しく心を揺さぶられた。ただ生きて、笑って、飯を食う。それがどれほど尊いことか。
このスタイルを、日本でやってみたい。
料理人としての経験もないのに、そんなことを思ってしまった。そのくらい、素晴らしい空間だったのだ。
そして私はキッチンカーを買った
数年前に、映画『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』(2015年日本公開)を見た。三つ星レストランのシェフがオーナーと喧嘩して店を辞め、ものすごく美味しそうなキューバサンドを息子と一緒にフードトラックで売る、という話なのだが、単純なもので、その映画を観て私もフードトラックをやってみたいと思ってしまった。
そしてその後、吉祥寺のアトレをぷらぷらしていたら、『DEAN & DELUCA』でキューバサンドが売られているのを発見し、「あ!!!あの映画の!!!」とひとり盛り上がり、家に帰って映画を一緒に見ていた夫と半分こして食べたらびっくりするほど美味しくて、「これがあの映画に出てくるキューバサンドなんだねー!」とふたりで感動した覚えがある。
40代半ばにして今から三つ星シェフを目指すのはさすがに無理だと思うけど、キッチンカーならひとりでなんとかできそうだな……。と思ってベトナム料理教室に行ってその話をしたら、
「え、私今キッチンカー売ろうと思ってるんですけど……」
と新潟で飲食店を営んでいる女性に言われ、もうこれは……買うしかないわ……と思ったので、新潟までわざわざ中古のキッチンカーを見に行き、自宅のガレージに入るサイズかどうかを確認して、会社員時代の持ち株を全部売却したお金で一括購入した。
とりあえず転職先はミスマッチだったこともあり1年で辞め、都内のベトナム料理屋で働き始めた。
勢いしかない人生だが、流石に安定した会社員からただの“パートタイマー”になってしまった自分の未来は、正直不安しかない。何せ年収が300万円も減ってしまったのだ。
まあ辞めてしまったものは仕方がない。ベトナム料理屋では盛り付け&ホールを担当することになり、フォーの盛り付けを種類別にイラストも交えてノートに書く、という作業を吉祥寺の地下にある喫茶店でしていたら、いきなりお店のお兄さんに声をかけられた。
「お姉さん、すごく料理が上手そうですね!」
……え?
なんの脈絡もなく突然そんなことを言われたのでびっくりして、
「あ、ありがとうございます」
とだけ言うのが精一杯だったのだが、自分はこれから本当に食べていけるのかと考えあぐねていたところだったので、
「ああ、私この道で間違ってないんだな」
と思ってホッとしたのを覚えている。その後もう一度お店に行ったけれど、あの時のお兄さんはいなかった。今でもとても感謝している。
ベトナム料理屋は1年ほど勤務し、いい経験になったのだが、もっと日々様々な食材にどっぷり触れられて、衛生管理やオペレーションがしっかり学べる大きい会社で働いた方が良さそうだと思い、かつてキューバサンドに感動した『DEAN & DELUCA』のキッチンのアルバイト採用に応募して、今はそこで修行も兼ねて働いている。
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番
クラシックピアノを12年も習っていたのに、ジャズピアノが好きだった。
セロニアス・モンクやバド・パウエル、ブラッド・メルドーなどを漁って聴いていた。新宿の『DUG』に初めて行った時、地下への階段を降りた先に、店主のカメラマンによるモンクのポートレートが大きく貼られていて、感銘を受けたのを覚えている。
それが、あるクラシックピアニストの『情熱大陸』を観て、この人の音を生で聴いてみたいと思った。
たまたま発売前のタイミングでその人のオーケストラとの共演があることを知り、なんとかサントリーホールのチケットを取ることができた。
オーケストラだしサントリーホールだし、正装で行った方がいいのかな?と思い、できる限り丁寧にメイクを仕上げ、一張羅のシルクのワンピースを着て、六本木一丁目駅を降りた。
オーケストラはヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮の『フランス放送フィルハーモニー管弦楽団』。
といっても私は何も知らずに聴きにいったわけだが、それでもこの楽団がとても精巧かつ情熱的で、パワフルな音を奏でる素晴らしいオーケストラであることはすぐに感じ取ることができた。
そしてピアノは、藤田真央である。
曲目はラフマニノフの『ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 Op. 30』。
映画『シャイン』でその曲の印象が強く残っていたので、サントリーホールでの2日間の公演のうち、1日目はモーツァルト、2日目はラフマニノフだったのだが、迷わず2日目を選んだ。
ステージからはかなり遠かったが、ちょうどピアノの鍵盤が見える席だった。ラフマニノフのとてつもない超絶技巧が心地よく響き、ロマンチックで大胆な旋律が、優しい音色と共に体の中に入り込んできた。
序盤から後半にかけて、少しずつ感情が高まり、自分の今までの人生が走馬灯のように浮かんできた。
昔好きだった人の横顔。私が上京した年に22歳で自死した従兄弟の眠る姿。16回の転職人生の中で行き交った無数の人たち。妊娠7ヶ月の息子の沈黙。
それらが突如、その後授かった娘の笑い声と混ざり合って、今までの人生が、ラフマニノフの激しい音の渦に巻き込まれ、浄化されていくようだった。

あまりにドラマティックで心の琴線に触れる演奏だった。私のこれから先の未来に向けて、体の底から突き動かされるような感覚を覚えた。
宮崎の雨の中で
ベトナム・ホーチミンでの衝動から数年後、私は宮崎にいた。
大学4年間を過ごした宮崎は、私にとって第二の故郷である。大学近くに、宮崎地鶏と焼き鳥のお店があり、それが『やきとり丸平』だった。
お店では現役の大学生が代々アルバイトをしていて、私も大学2年くらいの時からお世話になった。
上京後、あまりの忙しさにほとんどの友人関係は薄れていったが、丸平のママさんとは電話やLINEでのやり取りが続いていた。
今年に入ってから、
「マスターは腰がやられてしまい、定休日は一日中寝ています。いつお店を閉めるかわからないので早く遊びにきてください」
と連絡が来て、なんとなく、すぐ飛行機を予約しようと思い、少し先の6月に宮崎行きの飛行機のチケットを取った。
炭火焼きの宮崎地鶏と手羽餃子、鳥刺しに舌鼓を打ち、店内が落ち着いた頃、マスターとママさんと久しぶりにお酒を飲み交わした。
おふたりと話していて、思った。ああ、丸平が私の原点なんだ。丸平があったから飲食業をやろうと思えたんだ、と。
『丸平』は、マスターとママさんが脱サラして始めてから30年、ふたりで切り盛りしてきた小さなお店だけど、出てくるお料理は全てが美味しくて、ママさんの明るい声と常連さんたちの笑い声がお店中に響いて、幸せな気持ちで帰路につける場所。
来店当日、おふたりから事実を聞かされてものすごくびっくりしたのだが、本当は今年3月で閉店する予定だったとのこと。
それが、私が6月に行くと言ったから、じゃあ6月まではやるかとなり、そうしたら閉店の噂が常連さんや大学関係者まで広がり、予約が殺到したので今年いっぱいはやることにしたのだと。
30年間ほぼ休みなく営業を続け、せっかくゆっくり休める所だったのに……。
自分の決断が大切な人たちの人生を動かしてしまったことに驚いてしまったが、「あなたのせいですよ(笑)」と言いながら、元気そうに働くおふたりを見て、心底ホッとした。

私の地元の山形・新庄は盆地で、鳥海山が拝める美しい土地だ。冬は雪に覆われる豪雪地帯。登下校に鼻水が凍るような日常だった。曇り空がデフォルトのような土地で、私は頭痛とアトピーに悩まされ、不機嫌に過ごしていた。
ここを出るなら、どこか暖かい、私のことを誰も知らない土地でやり直したかった。全てをゼロに戻したかった。そんな時、宮崎の眩しすぎる青空は、救いだった。心の鬱憤まで晴れていくようだった。
太陽のせいなのかどうなのか、頭痛もアトピーも随分改善し、健康を取り戻した私は、少しだけご機嫌になった。
そんな宮崎の青空を家族にも見せてあげたかったのだけれど、滞在した3日のうち、ほとんどは雨だった。しかも台風が近づいていたので、土砂降り続きで、青空はほとんど見られず、普段は真っ青な海も荒れてグレーになっていた。
でもずっと降り続く雨を浴びながら、私は今までの色々な出来事が全て洗い流され、浄化されていくような感覚を覚えていた。
宮崎3日目の最終日、やっと雨が上がり、晴れやかな気持ちで空港へ向かった。
エピローグ
キッチンカーは夏までに保健所の審査を通し、秋には営業をスタートさせる予定だ。これからどうなるのか、そもそも利益を上げることができるのかどうかすらわからない。
でも、子供を失ったあの日から、私の人生はなぜかモノクロームからカラーになったかのように、世界が毎日キラキラ輝いて見えるようになったのだ。普通は逆なのではないかと思うのだが、実際そうなった。なぜなのかはわからない。やっと生きている自覚が生まれたのかもしれない。
美術館で触れる絵や、音楽、映画、人の言葉、全てに対してとても敏感になり、遅れた青春を生き直しているような、そんな気分だ。
先日渋谷の「Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下」で濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』を観ていたら、序盤から涙が止まらず、ほぼ3時間ずっと泣いていて、感情が昂りすぎて困ったものだった。
こんな風にいちいち敏感に感じすぎてしまっていたら、精神がもたないかもしれない。自分にもう明日はないかもしれない。
そう思えば、何を始めても、失敗したとしても、もう何も怖いものがない。なぜならあれ以上の喪失はもうないから。
就職氷河期世代は、酷い貧乏くじを引いてしまったと思う。今の若手があまりに恵まれすぎているように見えて、何を話したらいいのかわからなくなるくらい。嫉妬、という言葉では足りないほどのよくわからない感情に苛まれてしまう。
でも、それが私たちに与えられたカードだ。それはもう変えられない。そしてもう残り時間は少ない。
失ったから掴もうとするし、理解しようとする。ないからあるものを望む。そんなシンプルなことを、ただ繰り返していくしかないんじゃないかと思う。
とにかく私はこれから、キッチンカーを始めることにした。