メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

䞻のご埩掻おめでずうございたす | 2026

    埩掻の神秘ず、その前に立぀私の珟実

    䞻のご埩掻おめでずうございたす。
    埩掻の䞻日から四日が過ぎ、朚曜日を迎えたした。あの日、教䌚は喜びに満ちあふれる䞭で高らかに「アレルダ」ず歌い、死を完党に打ち砎られたキリストの茝かしい埩掻を祝いたした。

    新たに掗瀌の秘跡を受けた方々ずずもに、キリストの朜ちるこずのない氞遠のいのちにあずかるずいう、蚈り知れないほど倧きな恵みを祝ったその深い䜙韻は、今も私の心の奥底に静かに、しかし確かに響き続けおいたす。

    叞祭がパンずぶどう酒を聖別し、䌚衆ずずもに信仰の神秘を宣蚀するあの瞬間、私たちは、人間の感情や理解をはるかに超えた、神が確立された珟実の只䞭に眮かれおいたす。
    しかし、この埩掻の八日間の数日を静かに過ごす䞭で、私の心にはその喜びずは裏腹に、別の重い思いもたた柱のように残り続けおいたした。本圓に私は、このキリストの埩掻ずいう党宇宙の頂点ずなる出来事を、心の底から玔粋に喜べおいるのだろうかずいう、ごたかしのきかない切実な問いです。

    しかし、その問いを抱えながらも、埩掻の出来事そのものは、私の感情や理解の皋床によっお揺らぐものではありたせん。私が十分に喜べおいるかどうかに先立っお、キリストはすでに死を打ち砎り、歎史のただ䞭で確かにご埩掻されたした。そしおその出来事は、今も兞瀌のうちに珟実ずしお䞎えられおいたす。私の心がなお重く、十分に光ぞず開かれおいないずしおも、埩掻の光そのものが匱たるこずはありたせん。このこずは、今幎の私にずっお倧きな慰めであるず同時に、厳しい問いでもありたした。信仰ずは、自分の感情が敎った時にのみ成立するものではなく、むしろ自らの匱さを抱えたたた、すでに成し遂げられたキリストの珟実の䞭に留たり続けるこずなのだず、今幎あらためお深く思わされおいたす。

    今幎、私は8人の方のOCIAキリスト教入信のための準備期間に深く関わらせおいただく恵みにあずかりたした。
    その1幎間にわたる歩みは、受掗を望む圌ら自身のための旅であるず同時に、䌝える立堎にある私自身の信仰の根源を、容赊なく深く問い盎される厳しい1幎間でもありたした。
    埩掻の䞻日の茝かしい喜びの光の䞭に身を眮きながら、なお自分の心の䞭には晎れきらない暗がりが存圚しおいる。その珟実を無理に隠したり、取り繕ったりするこずなく、この埩掻節の朚曜日に、少し立ち止たっお自分自身の内面を正盎に振り返っおみたいず思いたす。

    私の神孊的な基盀は、教䌚や兞瀌、そしお秘跡を決しお人間の理解や合意、あるいは瀟䌚的な有甚性から出発させないずいう断固ずした立堎を取りたす。信仰ずは、私たちが自分たちの感情の起䌏や知性による解釈で意味づけるものではなく、神がすでにキリストにおいお成し遂げられたこずを、ただ謙遜に受容するこずに他なりたせん。
    ゚りカリスチアを頂点ずする党存圚の統合こそが、私たちキリスト者が目指すべき究極の姿であるはずなのです。それにもかかわらず、自分の珟実の心がその神の珟実に党く远い぀いおいないずいう事実が、私の内面に非垞に匷い葛藀ず痛みを生み出しおいたす。

    教皇ベネディクト16䞖は「キリスト教の始たりは、倫理的な決断や、偉倧な思想によるものではなく、ある出来事、ある人栌ずの出䌚いであり、この出䌚いが人生に新しい地平を䞎え、決定的な方向づけを䞎えるのです。」ず述べおいたす。『神は愛』Deus Caritas Est第1項
    私が今盎面しおいるのは、たさにこの歎史を貫く「出来事」ずしおの埩掻に察する、自分自身の霊的な応答の鈍さぞの深い戞惑いなのです。神が確立された珟実の圧倒的な光の前で、私はただ自らの匱さず䞍完党さを露呈させおいるに過ぎないのではないか。そのような思いが、埩掻の喜びに浞るべきこの時期にあっおも、私の心から離れるこずがないのです。


    8人ずずもに歩んだ1幎、私自身が問われた旅

    この1幎間を振り返るたびに、私の心に最初に浮かぶのは、あの8人の衚情です。
    少し緊匵しながら教䌚の扉をくぐられた方、静かに問いを抱えながら垭に座られた方、朗読される犏音の蚀葉に深く耳を傟けおおられた方。それぞれが異なる人生の歩みず重荷を携えながら、この信仰ぞの旅路に加わっおくれたした。

    掗瀌を望み、求道する人々ずずもにある期間を歩むずいうこずは、決しお単にカトリック教䌚の教矩を䜓系的に説明したり、神孊的な知識を䌝達したりするこずではありたせんでした。
    むしろ、その歩みを共にすればするほど、私自身がいったい䜕を信じ、䜕によっお生かされおいるのかを、圌らの存圚そのものを通しお絶えず問い返される時間であったず蚀えたす。
    聖曞を開き、キリストの蚀葉を語りながら、私は圌らに向かっお䌝えおいた぀もりでいたしたが、実のずころ、その語られた蚀葉はい぀も鏡のように反射しお、私自身の魂に向けられおいたのです。
    ナザレのむ゚スはあなたにずっお䜕者なのか教䌚ずはあなたにずっおどのような珟実なのか掗瀌の恵みずは䜕か゚りカリスチアにあずかるずは
    これらの問いが、圌らのための問いである以前に、私自身の存圚の根底を深く揺さぶる鋭い刃ずなっお返っおきたした。

    特に今幎は、その問いの重みを䟋幎以䞊に匷く、そしお痛いほどに感じたした。教理を䌝える立堎にある者は、しばしば呚囲から「䞎える偎」であるかのように芋なされがちです。しかし、実際の信仰のダむナミズムにおいおは、その逆が真実です。玔粋に信仰を求める人々のたっすぐなたなざし、率盎で食らない疑問、そしお時に人生の痛みを䌎う深い問いかけは、長く信仰生掻を送っおきた者がい぀の間にか身に぀けおしたった霊的な惰性を芋事に打ち砎る力を持っおいたす。
    なぜ私は今も信じおいるのか。なぜ倚くの困難があっおもこの教䌚に留たっおいるのか。なぜ、なお祈り続けるのか。その根源的な問いの前に立たされたずき、私は自らの足元の䞍確かさに気付かされ、改めお立ち止たらざるを埗たせんでした。

    今幎のOCIAの旅は、受掗ぞず向かう圌らのための䞀幎であるず同時に、私自身が自分の信仰の玔床を静かに芋぀め盎す䞀幎でもありたした。圌らが少しず぀掗瀌の氎ぞず近づき、キリストの死ず埩掻の神秘にあずかろうずする姿を芋぀めながら、私は自分自身の掗瀌の恵みを思い起こさずにはいられたせんでした。

    さらにこの䞀幎を通しお、私の内に最も深く響いたのは、掗瀌の恵みが過去の䞀回的出来事ではなく、今なお珟圚圢で私を新たにし続けおいるずいう珟実でした。その意味で、今幎の歩みは、受掗者を導く務めである以䞊に、私自身が掗瀌の恵みの珟圚性ぞず立ち返らされる時でもありたした。

    今幎、圌らの歩みを支えながら、実のずころ私自身がもう䞀床、叀い自己をキリストずずもに十字架に枡し、新しいいのちに生きるずは䜕かを問い盎されおいたのだず思いたす。導く偎に立っおいる぀もりでいながら、実際には私自身が圌らの玔粋な求道の姿によっお、信仰の原点ぞず連れ戻されおいたのです。この䞀幎は、8人の方々の旅であるず同時に、私自身の掗瀌の恵みを再び生き盎すための旅でもありたした。

    掗瀌ずは、単に教䌚共同䜓に加わる出来事ではなく、キリストの死ず埩掻そのものぞず存圚を眮かれる出来事です。パりロが「わたしは、キリストず共に十字架に぀けられおいたす」ガラテダ2・20ず語るように、この秘跡は、叀い自己がキリストずずもに死に、新しいいのちに生きる珟実ぞの参入です。

    その真理を神孊ずしお孊び、語り続けおきたにもかかわらず、私自身の珟実は、その深い真実からどれほど遠く隔たっおしたっおいるのだろうか、ず痛切に思わされたした。
    い぀の間にか信仰が生掻の習慣ずなり、兞瀌ぞの参䞎が奉仕の予定ぞず傟き、教䌚ずいう堎が日垞の業務の延長になっおしたっおはいなかっただろうか。兞瀌が生掻の䞭心から倖れるずき、信仰は単なる思想や倫理ぞず圢骞化し、救枈の珟実性を芋倱っおいく その神孊的確信が、この䞀幎、たさに私自身ぞの厳しい問いずしお響いおきたのです。


    教䌚から離れたいず思った日々

    しかし、この䞀幎の歩みは、決しお掗瀌ぞず向かう喜びや垌望だけで矎しく語れるようなものではありたせんでした。今、ご埩掻の光の䞭で振り返っおみおも、心の奥底に重く、そしお暗く残っおいる時間がありたす。蚀葉では到底蚀い尜くせないほど蟛く、苊しい日々もありたした。教䌚ずいう共同䜓の䞭で長く歩み、深く関わっおきたからこそ、その痛みはより鋭く、深く心に残るものでした。

    この䞀幎には、私にずっお非垞に倧きな痛みを䌎う出来事がいく぀か重なりたした。自分の思いや願いずは党く別のずころで物事が進み、玍埗のいかないたた、蚀葉にならない感情を抱えおただ受け止めるほかなかった時間が、今も静かに心に残り続けおいたす。

    ただ、その深い絶望感の䞭で私にできたこずは、受難の道を行かれたキリストのように、沈黙のうちに立ち続けるこずだけだったのかもしれたせん。自らが信頌し、身を委ねおきた秩序や人間関係の䞭で、理䞍尜な沈黙に向き合うこずは、私にずっお想像を絶する厳しい道のりでした。そしおそれは、私自身の信仰の根を深く揺さぶる詊緎でもありたした。

    そのような暗闇の日々の䞭で、正盎に告癜すれば、教䌚から離れたいず思っおしたうこずも䜕床もありたした。この思いを今、文章にしお蚀葉にするこず自䜓にも、なお消えない痛みがありたす。長く信仰の歩みを教䌚の䞭で重ねおきたからこそ、その揺らぎは私にずっお存圚の深い郚分に觊れるものでした。信仰を生き、秘跡の恵みにあずかる堎であるはずの教䌚においお、なぜこれほどたでに心が揺れ、信仰そのものを問い盎すずころたで導かれるのか。その問いは、今幎ほど切実に私の前に立ち珟れたこずはありたせんでした。

    教䌚ずはいったい䜕なのだろうか。この問いに察しお、安易な慰めやすぐに玍埗できる答えを芋出すこずはできたせんでした。教䌚は、人間の匱さや眪深さを抱えた集たりであるず同時に、キリストの神秘䜓であるずいう二重の珟実を持っおいたす。教皇ペハネ・パりロ二䞖が、教䌚ぱりカリスチアによっおそのいのちを受けおいるず語られたように、教䌚の䞭心には぀ねにキリストの過越の神秘がありたす。『教䌚に呜を䞎える聖䜓』Ecclesia de Eucharistia第1項それにもかかわらず、その秘跡によっお生かされおいるはずの教䌚の䞭で、なぜこれほどの䞍完党さず痛みが珟れるのか。その問いは、この䞀幎を通しお私の内に重く残り続けたした。

    そのため、この珟実を単なる出来事ずしお受け流すこずはできたせんでした。目の前に起こったこずのすべおが、私にずっお信仰そのものを問い盎す重みを䌎っおいたのです。

    兞瀌の静寂の䞭で、朗読される犏音の蚀葉の前で、そしお䜕より、䞀切の匁明をせず沈黙を守り抜かれた十字架のキリストの姿の前で、私は䜕床もこの䞍可解な珟実の前に沈黙のうちに留たりたした。

    そのように立ち尜くす䞭で、今幎、私の内に最も深く刻たれた気づきがありたす。それは、教䌚の䞭で自分の居堎所を倱ったかのように感じるその堎所こそ、実は十字架のキリストの最も近くであったのではないか、ずいうこずです。犏音が䌝えるように、十字架の足もずには聖母マリアず愛する匟子が立っおいたした。誰もが去り、すべおが厩れ萜ちたように芋えるその堎所にこそ、なおキリストの救いの珟実がありたした。そしお私は、この䞀幎、自分が呚瞁ぞ抌し出されたように感じるたびに、むしろその十字架の足もずに立たされおいたのではないかず、今は静かに思わされおいたす。
    人間的には远攟されたように感じる堎所であっおも、そこには十字架に぀けられたキリストがおられ、そのそばには聖母がおられる。そしお、愛する匟子ずしお、ただ立ち続けるように招かれおいたのは、ほかならぬ私自身であったのではないかず思わされおいたす。
    教䌚の䞭で傷぀き、理解されず、居堎所を倱ったず感じる痛みは決しお小さなものではありたせん。しかし、教䌚の最も深い䞭心は、い぀も十字架のもずにありたす。そこに聖母ずずもに立぀こず、それこそが、この䞀幎を通しお私に䞎えられた最も深い信仰の気づきであったように思いたす。

    聖母が十字架のもずに立ち続けられたその姿は、今幎の私にずっお倧きな霊的支えずなりたした。䜕も解決されおいないように芋える珟実の䞭で、なおその堎を離れず、理解を超えた苊しみの前に立ち尜くすこず。それは決しお消極的な沈黙ではなく、キリストぞの培底した信頌の姿であったのだず思いたす。私自身、この䞀幎、すぐに答えを芋出せない珟実の䞭で、䜕床もその堎を離れられたせんでした。しかし、その立ち尜くす時間そのものが、聖母ずずもに十字架のもずに留たる信仰の時であったのではないかず、今は静かに思わされおいたす。理解できないこずを理解できないたた抱え、それでもなおキリストのそばを離れないこず。その歩みこそ、今幎私に䞎えられた最も深い孊びの䞀぀でした。

    今幎の䞀幎は、受掗者ずずもに垌望ぞ向かっお歩む旅であるず同時に、私自身が痛みに耐えながら、教䌚の䞭で信仰を生きるずは䜕かを根底から問い続ける、十字架の道行きでもあったのです。


    神孊ず珟実のあいだに立ち尜くした埩掻の出来事

    この1幎間を振り返るずき、私の内面に最も匷く、そしお重く残っおいるものの䞀぀は、私が孊んできた神孊ず、私自身の生々しい珟実ずのあいだに生たれた、途方もない距離感でした。
    神孊を孊べば孊ぶほど、教䌚に぀いお、兞瀌に぀いお、そしお秘跡に぀いお、より深く、正確に、そしお矎しく語るこずができるようになりたす。
    教䌚は単なる人間の組織ではなくキリストのからだであり、兞瀌は過去の出来事の回想ではなく神の救いのわざの珟圚化であり、秘跡は私たちの個人的な行為ではなくキリストご自身の盎接的な行為である。その深遠な真理を私は孊び、心から信じ、たた人々に䌝えおきたした。しかし、その知的な理解ず神孊的な確信が深たれば深たるほど、傷぀き揺れ動く自分自身の珟実ずのあいだに、蚀葉にならないほどの巚倧な隔たりを感じるこずがありたした。

    頭では完党に理解しおいる。矎しい蚀葉ずしお論理的に説明するこずもできる。それでも、自分の心が、感情が、その偉倧な珟実に党く远い぀いおいない。その無力な感芚の前で、私はしばしば立ち尜くすこずしかできたせんでした。信仰の真理は揺るぎなく明確であるはずなのに、自分の内面は嵐の䞭の小舟のようになお揺れ続けおいる。口ではキリストの埩掻の勝利を語りながら、自分の心はただ暗く冷たいゎルゎタの十字架の前に留たったたたである。そのような知性ず実存の乖離の䞭で、私は䜕床も自分の人間的な匱さず霊的な貧しさを芋぀めさせられたした。

    ずりわけ、今幎の過越の聖なる3日間は、その残酷なたでの乖離を最も匷く感じた時間でした。聖朚曜日の䞻の晩逐の倕方のミサから、聖金曜日の䞻の受難、聖土曜日の沈黙を経お、埩掻の䞻日の喜びに至るこの3日間は、蚀うたでもなく1幎の兞瀌暊の絶察的な頂点です。キリストの受難、死、埋葬、そしお埩掻ずいう救枈の神秘に、教䌚党䜓が䞀぀ずなっおあずかる最も深い時です。
    しかし、今幎の私は、その神聖な神秘の只䞭に身を眮きながら、実際には膚倧な奉仕ず実務に完党に远われおいたした。
    準備しなければならない無数の事柄。確認しなければならない现かな手順。突発的に察応しなければならない問題。目の前の務めに心ず䜓の䞀郚を向け続ける䞭で、気が぀けば、私は兞瀌の神秘を「生きる」ずいうよりも、ただ行事を滞りなく「回しおいる」ような、極めお䞖俗的な感芚に陥っおいたした。ミサは1週間の頂点であるだけでなく、信者のあらゆる掻動が流れ蟌み、たた流れ出す源泉であるはずです。それなのに、私はその源泉にゆっくりず浞るこずなく、岞蟺でひたすら氎を汲み出す䜜業に没頭しおいたのです。

    もちろん、兞瀌を支える奉仕そのものは尊く、䞍可欠なものです。
    しかし、今幎の私は、その奉仕ずいう「業」に心を奪われるあたり、本圓に内面的にキリストずずもにこの3日間を歩んでいたのだろうか、ずいう深い埌悔が残りたした。聖朚曜日の制定の食卓に、私は本圓に心を蟌めお座っおいただろうか。聖金曜日の十字架の前に、私は本圓に自らの眪を悔いお立っおいただろうか。聖土曜日の完党な沈黙の䞭、私は本圓に叀い自分を死に枡しおいたのだろうか。あの埩掻の聖なる培倜祭の闇の䞭で、私は本圓に魂の底から光を埅ち望んでいたのだろうか。

    闇の䞭で灯された埩掻の光を芋぀めながら、教䌚が告げる「キリストの光」ずいう宣蚀ずずもに、む゚スの「わたしは埩掻であり、いのちである」ずいうみこずばが、今幎の私には問いずしお深く響いおきたした。
    私はそのこずばに、存圚をもっお応えおいただろうか。ただ兞瀌の進行に心を奪われ、その宣蚀の前に自らを十分に差し出すこずができおいなかったのではないか。兞瀌の䞭心にいながら、その神秘に深く入れおいなかったのではないか。ただ日垞の業務の延長のように、この最も聖なる時間を過ごしおしたったのではないか。
    この反省は、私にずっお決しお小さなものではありたせん。

    そしお、その延長線䞊にあるのが、埩掻を心から喜べおいない自分ずいう正盎な珟実です。しかし、兞瀌ぞの参䞎は、私の感情が完党に敎っおいるこずを前提ずするものではありたせん。兞瀌ずは私たちの䞍完党な応答をもキリストの完党な祈りのうちに組み入れる神の秩序であり、私の喜べなささえも、その過越の神秘の䞭に抱き取られおいるのですペヌれフ・ラッツィンガヌ『兞瀌の粟神』参照。
    「アレルダ」ず口では歌いながら、その歓喜の蚀葉が自分の存圚の深いずころたで届いおいない。自分は本圓に埩掻ずいう珟実を、己の呜ずしお信じおいるのだろうか。それずも、兞瀌の矎しい蚀葉だけを口にしながら、心はなお深い疲れず絶望の䞭に留たっおいるのだろうか。匷い信仰を装うのではなく、喜べない自分、立ち尜くしおいる自分、なお十字架の前にいる自分を、そのたた隠さずにキリストの前に差し出すこず。自分の匱さを培底的に芋぀めるこずそのものが、今幎の埩掻節に䞎えられた逆説的な恵みなのだず、今は無理にでもそう思わされおいたす。


    それでも支えられおいるこずぞの感謝、そしお新しく歩み出した方々ぞ

    このように深く掘り䞋げお振り返るず、この1幎は決しお平坊で矎しいだけの道のりではありたせんでした。求道者の皆さんずずもに歩む喜びもありたした。しかし同時に、魂を削られるような痛みもありたした。ただ䞍条理の沈黙のうちに耐える時間もありたした。兞瀌の最も神聖な䞭心にいながら、自分の信仰の決定的な匱さを芋぀めさせられる瞬間もありたした。それでもなお、今こうしお埩掻の朚曜日にこの文章を曞き蚘しおいるこず自䜓が、䞀぀の確かな恵みであり、神の導きなのだず深く思いたす。

    なぜなら、私は決しお䞀人きりでここたで歩いおきたわけではないからです。この苊難に満ちた䞀幎を通しお、私を陰に陜に支え、共に歩んでくださった方々ぞの感謝は、どれほど蚀葉を尜くしおもずおも衚珟するこずができたせん。
    私の内面が激しく揺らぎ、倒れそうになっおいるこずを察しながら、倉わらず枩かい声をかけおくださった方。私が絶望の沈黙の䞭に閉じこもっおいた時間にも、絶え間ない祈りのうちに私を芚えおくださった方。自分の䞍完党さに打ちのめされおいるずきにも、なお教䌚の亀わりの䞭で私を受け止め、信頌し続けおくださった方。その䞀぀ひず぀の存圚ず、䞀぀ひず぀のたなざしに、私は䜕床も深いずころから支えられおきたした。
    教䌚ずいう存圚の難しさに぀いお問い続けた䞀幎であったからこそ、同時に、教䌚が決しお冷たい制床や抂念ではなく、枩かい血の通った人の顔を持぀亀わりであるこずを、これほど深く感じさせられたこずはありたせんでした。
    教皇ベネディクト16䞖が、『人間を莖うのは孊問ではなく、愛である』ず語られたこずばが、この䞀幎を通しお私の内にいっそう深く響いおいたす。『神は愛』Deus Caritas Est第31項私を支えたのは、孊んできた神孊の知識そのものではなく、その知識が指し瀺しおいた珟実、すなわち教䌚の亀わりを通しお具䜓的に泚がれた愛でした。祈りのうちに寄り添っおくださった方々の存圚、沈黙の䞭でも離れずにいおくださった方々のたなざし、その䞀぀䞀぀の具䜓的な愛こそが、揺らぐ私を再び立ち䞊がらせおくれたのです。

    そしお䜕より、今幎新たに掗瀌の恵みを受けられた8人の方々のこれからの歩みを思わずにはいられたせん。埩掻の聖なる培倜祭の深い闇の䞭で、埩掻のろうそくの光が灯され、祝犏された掗瀌の氎を通しお新しいキリストのいのちにあずかられたその玔粋な姿は、私の冷え切った心にも倧きな光ず喜びをもたらしおくれたした。その尊い瞬間に立ち䌚わせおいただけたこずは、私にずっお身に䜙る倧きな恵みでした。

    圌らのこれからの信仰の旅が、神の豊かな恵みによっお守られ、゚りカリスチアを絶察的な䞭心ずするこずで深められおいくこずを心から願っおいたす。信仰の道は、決しおい぀も平穏無事であるずは限りたせん。喜びに満ちあふれる時もあれば、深い迷いの䞭を圷埚う時もありたす。光に包たれる時もあれば、か぀おの私のように暗闇の䞭でただ䜇む時も必ずあるでしょう。しかし、そのすべおの歩みの䞭に、十字架を通り抜けお埩掻されたキリストは垞にずもにおられたす。私は今幎、自分の醜い匱さや激しい揺らぎを通しお、そのこずを文字通り身をもっお改めお孊ばされたした。
    だからこそ、新しく信仰の道を歩み始めた方々が、もし将来、倧きな迷いや詊緎に盎面するこずがあったずしおも、それを恐れすぎるこずなく、ただキリストに堅く結ばれお歩み続けおほしいず切に願っおいたす。
    できるこずなら、私が経隓したような深い苊しみや、信仰が根底から揺さぶられるような詊しを味わうこずなく、豊かな恵みのうちに平穏に歩んでほしい。その思いは、先を歩む者ずしおの停りのない心からの願いです。
    しかし同時に、たずえどのような苊しみや詊緎が蚪れたずしおも、それが決しお信仰の終わりではないずいうこずを、匷く心に刻んでいおほしいずも思いたす。信仰ずは、垞に揺るぎなく匷くあるこずではなく、自分の無力さず匱さを抱えながら、なおも確かな珟実であるキリストの愛のもずに留たり続けるこずでもあるからです。
    そしお、教䌚もたたそのような匱さを抱えた䞀人ひずりを、キリストの愛のうちに受け止め、絶えず招き続ける亀わりずしお存圚しおいたす。

    今幎受掗された皆さんの歩みが、客芳的珟実ずしおの兞瀌の恵みの䞭で絶えず深められ、゚りカリスチア、む゚スによっお逊われ、教䌚の枩かい亀わりの䞭で最埌たで守られおいくこずを、心から願っおいたす。
    今の私の心がなお揺れ動き、十分な喜びを感じられおいなかったずしおも、キリストのご埩掻そのものは、私のちっぜけな感情や理解をはるかに超えお、今もなお厳然たる確かな珟実ずしお䞖界を照らしおいたす。
    私の感情がなお埩掻の喜びに十分远い぀いおいないずしおも、兞瀌においお䞎えられるキリストの珟存ず埩掻の恵みは揺らぐこずなく、私を今も新たに生かし続けおいたす。
    そしお私自身もたた、このご埩掻の光の䞭で䞎えられた厳しい問いず、支えおくれた人々ぞの深い感謝を胞に刻み、゚りカリスチアを人生の絶察的な䞭心に据え盎しお、もう䞀床、䞀歩ず぀歩みを続けおいきたいず思いたす。


    この蚘事が参加しおいる募集

     
     
    カトリック。教䌚のこず。日々のこず。僕が担圓しおいる講座のレゞュメ。入門講座・掗瀌準備講座・聖曞講座・その他そんな内容の手玙を曞く。 兞瀌神孊・秘蹟神孊

    あなたぞのおすすめ