
あなたならどうしたか|三十年経ってわかった距離
ユーミンの曲『たとえあなたが去って行っても』には、既にそばにはいない彼に「迷ったときはどこかで問いかけるわ」というフレーズがある。
私は人生の節目ごとに、元彼なら何と言うだろうといつも思っていた。でもその「彼」の応えは本当の彼の応えとは異なることに気づいてもいた。私の中で少しずつ補完され、私が言ってほしいことを言ってくれる彼。いわば私自身を映す鏡だった。
彼の近況を知る人たちから、仕事で少し苦労しているらしいと聞いた。学生の頃の彼からは少し意外だった。
きっかけはもう一つ。50代が近づき、自分や家族、友人も健康の変化に見舞われる。
「いつか会おう」は、案外簡単になくなるのかもしれない。
そう思って、彼に連絡した。
18時に店の近くの書店で待ち合わせの約束をした。彼の会社の定時は17時半だった。
三十年ぶりなのだから、もしかしたら定時で仕事を切り上げて、少し早く来たりするのではないか。そんな淡い期待もあった。
私は少し早く着いた。
でも、18時になっても彼は来なかった。
私は店に入り、チーズとワインを頼んで、一人で飲み始めた。
昔の私なら、たぶん書店で待っていた。
少しして店に来た彼は、驚くほど昔のままだった。トム・クルーズに少し似た彫の深い顔立ち。
SNSで近影を見る機会はあったので、面影が残っていることは知っていた。それでも、実際に会うとタイムスリップしてきたみたいにそのままだった。
でも話し始めると、滑舌が聞き取れない(笑)。
昔はちゃんと聞こえていた。
いや、聞こえていたんじゃなくて、私が補完していた。恋のおかげで、話し方にも慣れていたし、言葉の続きを勝手に想像していた。彼のことは何でも分かっているような気がしていた。
関係性が変わり、時間が流れ、その補完がなくなって、聞こえなくなった。
私は、仕事の話をしてみた。「仕事で少し苦労しているらしい」と聞いたと、それとなく話題にしてみる。
でも彼は「そうかなあ。」と笑って、それ以上その話を広げることはなかった。私はその先の話を聞けないのだと思った。
少し年上で、リーダーだった彼。今なら、少しは対等な目線で話せるようになったのでは、と思って来た。学生の頃の彼の隣でアクセサリーみたいに振舞っていた女の子ではない。資格を取り、独立した。
たぶん私は、少しくらい褒めてほしかったのだと思う。
「会計士は取らないの?」
彼は何気なく言った。
彼自身、新卒の頃には公認会計士に興味を持ち、通信教育を申し込んでいた。だから出てきた言葉なのだろう。
でも、聞いてほしかったのは、そこではなかった。
「資格を取るの、大変だった?」
どうせ聞くなら、そんなふうに三十年の間の話を聞いてほしかった。
そのとき、ようやく気づいた。
ああ、この人、私にあまり興味がないんだ。
三十年ぶりに会えば、お互いの三十年にもう少し興味を持つものだと、私は勝手に思っていた。
その瞬間、三十年前と同じ距離を感じた。
それなのに私は、この三十年間、心の中の彼に何度も問いかけてきた。
「あなたなら?」
でも、それは本当の彼ではなかった。
学生の頃に埋められなかった距離は、そのままだった。
ただ、その距離の意味だけは、三十年経ってようやくわかった。
だからもう、「あなたならどうしたか」と問いかけることはない。