
第①話 いなり
中学二年の夏だった。
あの日が何月何日だったのかは覚えていない。
けれど、窓の外で鳴いていた蝉の声と、夕方になっても校舎にこもる蒸し暑さだけは、今でも妙に鮮明に思い出せる。
当時の私は、ごく普通の中学生だった。
幽霊を信じていたわけでもないし、特別怖がりでもなかった。
だからこそ、あの日の出来事を今でも説明できない。
放課後。
部活動へ向かう生徒たちが校舎を出ていき、教室には数人だけが残っていた。
誰が言い出したのかは覚えていない。
たぶん、怪談話の流れだったと思う。
「なあ、こっくりさんやってみない?」
その一言で全員が盛り上がった。
当時でも既に少し古い遊びだったが、名前くらいはみんな知っていた。
紙に五十音と「はい」「いいえ」を書き、十円玉に指を乗せる。
そして質問をすると、勝手に動いて答えを教えてくれる。
そんな遊びだ。
もちろん、誰も本気で信じていなかった。
「絶対誰か動かすだろ」
「バレないようにやれよ」
「お前だろ犯人」
みんな笑っていた。
私も笑っていた。
紙を作り、十円玉を置く。
数人で指を乗せる。
そして声を揃える。
「こっくりさん、こっくりさん。いらっしゃいましたら『はい』へどうぞ」
静かだった。
十円玉は動かない。
もう一度。
動かない。
三度目。
やはり動かない。
「ほらな」
「やっぱり嘘じゃん」
誰かがそう言って笑った。
その場の空気は完全に遊びだった。
ところが、その中の一人が言った。
「場所が悪いんじゃない?」
「窓開けてないし」
「あー、そういうのあるらしいね」
私たちは場所を変えることにした。
教室を出る。
廊下へ出る。
ベランダへ行く。
そこでまた試す。
動かない。
階段の踊り場でも試す。
動かない。
空き教室でも試す。
動かない。
今思えば、その時点で帰れば良かった。
でも中学生だった私たちは、怖さより面白さが勝っていた。
気付けば夕方になっていた。
校舎の中には人影も少ない。
窓の外はオレンジ色に染まっている。
「最後に下駄箱でやってみようぜ」
誰かがそう言った。
特に理由はなかったと思う。
ただ、なんとなく。
私たちは一階の下駄箱へ向かった。
昼間は大勢の生徒で賑わう場所なのに、その時間になると別の場所みたいだった。
薄暗い。
静かだ。
外から風だけが吹き込んでくる。
私たちは床に座り込んだ。
紙を広げる。
十円玉を置く。
指を乗せる。
そしてもう一度呼びかけた。
「こっくりさん、こっくりさん。いらっしゃいましたら『はい』へどうぞ」
その時だった。
十円玉が動いた。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
紙の上を滑るように。
そして『はい』の上で止まった。
全員が固まった。
「え?」
誰かが声を漏らした。
「今、誰?」
「知らない」
「お前だろ」
「違うって」
さっきまでの笑い声が消えていた。
けれどまだ、この時は誰も本気では信じていなかった。
誰かが動かしている。
そう思いたかった。
だから質問を続けた。
好きな人。
将来の夢。
クラスメイトの噂。
くだらない質問ばかりだった。
だが十円玉は答え続けた。
しかも妙に正確だった。
そのうち、誰も笑わなくなった。
下駄箱の空気が重く感じる。
夕方だったはずなのに、いつの間にか外はかなり暗くなっていた。
「そろそろ帰る?」
誰かが言った。
全員が賛成した。
十分だった。
面白かったし、少し怖かった。
だから終わりにしようと思った。
私たちは声を揃えた。
「こっくりさん、こっくりさん。お帰りください」
十円玉が動く。
『いいえ』
全員が黙った。
「え?」
聞き間違いかと思った。
もう一度。
「こっくりさん、お帰りください」
『いいえ』
まただった。
空気が変わった。
今までとは違う。
誰も喋らない。
ふざける者もいない。
何度お願いしても答えは同じだった。
『いいえ』
『いいえ』
『いいえ』
その時だった。
十円玉が勝手に動き出した。
誰も質問していない。
それなのに。
ゆっくりと文字を指していく。
あ
こ
が
わ
ら
っ
た
『A子が笑った』
私たちは顔を見合わせた。
A子は参加していなかった。
少し離れた場所で見ていただけだった。
「え?」
「なんで?」
意味が分からない。
A子自身も困った顔をしていた。
もう一度聞く。
するとまた同じだった。
『A子が笑った』
何度聞いても。
『A子が笑った』
鳥肌が立った。
その言葉だけを繰り返す。
理由もなく。
意味もなく。
ただ何度も。
そして誰かが震える声で尋ねた。
「どうしたら帰ってくれますか?」
十円玉が動く。
ゆっくりと。
一文字ずつ。
い
な
り
『いなり』
全員が顔を見合わせた。
意味が分からない。
誰も知らない。
もう一度聞く。
同じだった。
『いなり』
『いなり』
『いなり』
それだけだった。
今なら分かる。
狐。
鳥居。
神社。
だが当時の私たちは何も知らなかった。
ただ怖かった。
そして限界だった。
誰かが指を離した。
つられて全員が離した。
十円玉がカランと音を立てて倒れる。
その瞬間だった。
下駄箱の奥から。
誰かが笑った気がした。
私は振り返った。
誰もいなかった。
そこには暗い下駄箱が並んでいるだけだった。
帰りが遅くなった頃、母が学校へ迎えに来た。
事情を説明すると、母は顔色を変えた。
そして私たちを怒鳴った。
「あんたたち、こっくりさんなんかやっちゃダメでしょ!」
普段あまり怒らない母だった。
だから余計に怖かった。
私たちは起きたことを全部話した。
母は最後まで黙って聞いていた。
そして言った。
「明日、みんなで神社に行きなさい」
その日はそのまま解散になった。
翌朝。
教室へ入ると、A子の席だけが空いていた。
私は近くの友達に聞いた。
「A子は?」
「遅刻らしいよ」
そうなんだ。
私はそれ以上気にしなかった。
昨日のことを考えないようにしていたのかもしれない。
しばらくして教室の扉が開いた。
ガラガラ、と。
全員がそちらを見る。
そこに立っていたのはA子だった。
だが。
松葉杖をついていた。
教室がざわつく。
「どうしたの!?」
誰かが叫ぶ。
A子は少し困ったように笑った。
そして言った。
「事故った。」
その瞬間。
昨日、何度も紙の上を動いた十円玉の文字が頭をよぎった。
――A子が笑った。
その言葉だけが、いつまでも耳に残っていた。