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大食い選手権はスポーツなのか? スポーツと見世物の狭間で

     2025年11月に個人制作した『大食い選手権から社会を見つめる』の「第三章」を全文公開します。この本は、歴史、競技性、倫理、SNSなどの観点から大食い選手権を捉えなおすことで、現代社会の有様を明らかにする一冊です。第三章では、大食い選手権はスポーツなのかどうか?それについて、様々な観点から真面目に考え、大食い選手権とスポーツの境目は何か?、ひいては大食い選手権と社会の関係性はどのようなものかを探ります。ぜひご覧ください。

     本の内容を知りたいという方はこちらを参照ください。

     はじめにを読みたい方はこちらから。

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     それでは第三章をお楽しみください。


     第二章では平成における大食い選手権の変遷を振り返りました。数々の激闘が繰り広げられ、大食い選手権が世の中の多くの人々を巻き込みながら歩んだ道筋をイメージしていただけたでしょうか。社会と大食い選手権の関係性をさらに見つめていくために、第三章ではスポーツという切り口から大食い選手権そのものについて深掘りをしていきます。
     
     大食い選手権は、テレビ番組として一定の地位を築いたことからも、食べる量を競うテレビショー、いわゆる見世物という側面があります。加えて、出場者の身体活動を伴う競技性を有した見世物である点を踏まえると、大食い選手権をスポーツとして捉えることも、十分可能ではないでしょうか。
     
    「いやいや、大食い選手権がスポーツなんて、何を訳が分からないことを言っているんだ」と思う方もいるかもしれません。突飛な発想で、面食らってしまったかもしれません。たしかに、野球やサッカーといったスポーツと大食い選手権とでは様相が全く異なります。競技人口や競技団体の規模、選手が稼げる収入や社会的な地位などの面にも、人気スポーツと大食い選手権では雲泥の差があります。しかしながら先述した通り、身体活動を有する競技という点では、大食い選手権は野球やサッカーと同列です。そして、身体活動の関与度合いでは大食い選手権より程度が低いと考えられるチェスや囲碁やポーカーなどが、IOC(国際オリンピック委員会)にマインドスポーツとして認められている現状があります。加えて、モータースポーツやeスポーツもまた、スポーツとしての市民権を得ています。こうした現状を踏まえると、大食い選手権がスポーツなのか否かを、議論の俎上に載せること自体は、特段おかしなことではありません。もちろん、身体活動の側面だけでスポーツなのか否かを判断することは短絡的ですし、私自身、何が何でも、大食い選手権はスポーツである、と主張したいわけではありません。むしろ、これまでの歴史や様々な法律や慣習などを考慮すると、大食い選手権はスポーツであると歯切れよくは言えないとも思っています。
     
     ここでは、大食い選手権がスポーツなのか否かを〇か一〇〇かで判断したいわけではありません。白黒のジャッジではなく、グレーゾーンと白黒の境界線を追いかけながら、スポーツという切り口で大食い選手権の性質と社会との関係性を見つめたいのです。各側面からスポーツとの親和性の高低を明らかにすること、同時に大食い選手権がスポーツとして認められる上での障壁を明らかにすることで、今まで見えてこなかった大食い選手権の様相が浮かび上がってくるはずです。
     

    フードファイターの第一人者も痛感する、大食い選手権がスポーツとして認められていない現状


     初めに書いておきますと、大食い選手権がスポーツであるという見方はまだまだ世の中に受け入れられていません。これは私の肌感覚だけではなく、トップクラスのフードファイターも同様の見解を述べています。ネイサンズ国際ホットドッグ早食い選手権を六連覇し、アメリカで一番有名な日本人であった元プロフードファイターの小林尊は、『Friday』二〇二五年三月七日号で引退後の活動について次のように語っています。
    「大食いをスポーツとして認めてもらうために、自分の経験を活かしたい。練習法などを伝え、若いフードファイターたちが活躍できる大会を作りたいです」。
    また、テレビ東京の大食い選手権で三度優勝したMAX鈴木は、二〇二二年五月に『web Sportiva』で、日本とアメリカの大食い文化の違いに触れながら次のように語っています。
    「(アメリカの大食い大会では)『俺は全部出しきったけど、お前もすごかったな』とか、お互いに健闘をたたえ合っています。どんなスポーツでも試合後はそうじゃないですか。そういう空気感を日本でもつくっていきたいんです。おそらく大食いをスポーツとして捉えていないと、そういう感覚の共有はできないと思いますので、それは僕に課された役目かもしれないですね」。
     
     両者が語るように、大食い(大食い選手権)がスポーツという考え方は日本に定着していません。そのため、スポーツとして認めてもらう・捉えてもらうための取り組みを、フードファイターの第一人者としての使命に挙げています。
     

    「スポーツ」であって「スポーツ」ではない? 大食い選手権


     ここでは、大食い選手権にどの程度スポーツとしての要素があるかを検討していきますが、まずはその大前提として、スポーツとは何かについて確認しましょう。スポーツの定義は様々ありますが、二〇一一年に成立したスポーツ基本法の前文では、「スポーツは、心身の健全な発達、健康及び体力の保持増進、精神的な充足感の獲得、自律心その他の精神の涵養等のために個人又は集団で行われる運動競技その他の身体活動」と記載されています。これが完璧な定義とは限りませんが、一般的にスポーツというワードから連想される「運動競技その他の身体活動」、「心身の健全な発達」、「健康及び体力の保持増進」といった要素が盛り込まれています。
     
     このようなスポーツの定義は世の中の多くの人にも概ね反発なく受け入れられるものかと思いますが、一方でスポーツの語源を遡ると、また別の意味が浮かび上がります。スポーツ(sport)の語源はラテン語のデポルターレ(deportare)とされており、デポルターレは気晴らしを意味する言葉でした。オックスフォード英語辞典でsportの項目を引くと、「初期の用語の活用では、気晴らしや娯楽としてのスポーツの意味が最も重要である」とあり、さらに「一八世紀と一九世紀には、この用語はしばしば狩猟、射撃、釣りに関連して使用された」と説明されています。現代社会で使用されるスポーツの意味合いとはだいぶ異なります。現在のスポーツは「近代スポーツ」とも総称されますが、競技化された「近代スポーツ」に比べて、近代以前のスポーツは気晴らしや娯楽というかなり幅広い括りとなっていました。そのため、狩猟やトランプや芝居なども、スポーツとして捉えられていました。
     
     このような広義の意味でのスポーツであれば、私たちは大食い選手権もスポーツと言い切ることができます。しかしながら、今ここで問題とすることが求められているのは、大食い選手権が「近代スポーツ」の観点から「スポーツ」にあてはまるのか、「スポーツ」と親和性が高いのかということです。
     気晴らしという広義の意味で、大食い選手権はスポーツだと世の中に向けて声高に主張するのは可能です。ただし、そのような主張は世間から冷たい目で見られるだけでしょう。小林尊もMAX鈴木も、そのような定義で大食いがスポーツとして認められたとしても、全く満足しないでしょう。彼らが模索しているのは、「近代スポーツ」としての大食いであり、世間の人々がフードファイターをアスリートとして認める世界なのです。大食いが単なる気晴らしの存在に留まる世界と、彼らが望む世界は全く別物なのです。
     

    大食い選手権がスポーツなのは「自明」であることに気づいたフードファイターたち


     大食い選手権がスポーツか否かを議論する際に念頭に置く必要があるのは、「なぜ大食い選手権をスポーツという枠組みに当てはめようとするのか」ということです。さらに言うと、「大食い選手権は大食い選手権という独自ジャンルで、スポーツとは全く別物だ」という開き直った考え方で、世の中を突き通すことがなぜできないかということです。大食い選手権は、食べ物で競い合うという唯一無二の特徴があります。そのため、他のカテゴリーに括られなくても、確立された一ジャンルとして十分存在感を発揮できるはずです。それでもトップフードファイターたちが、大食い選手権(大食い)をスポーツとして世の中に認めてもらいたいと思うのはなぜなのでしょうか。
     
     その理由として挙げられるのは、ひとつに、大食いに高度な技術性やアスリートのような強いメンタリティが必要なこと、それらを世間に伝える上でスポーツを介することが効果的だと実感していること。また、スポーツがすでに確固たる社会的な地位を築いているためです。二〇二五年二月に配信された『Number Web』の小林尊のインタビュー記事では、重要な指摘がされています。
    「それまで大食いや早食いはエンタメであり、参加者たちは奇人、変人に分類されがちだった。大食いの扱いは、手品やマジックのような『一発芸』に近かった。しかし、小林は違った。誰よりも多く、速く食べるために己の身体を鍛え上げ、独自のテクニックを磨く。それは、まさしくアスリートの範疇に入るものだった」。
     
     小林尊の登場により、大食い選手権のレベルがインフレ化したのは第二章で言及した通りです。小林登場後、大食い選手権はびっくり人間コンテストから高度な競技性・技術性を有する戦いに変容しました。単なる一発的な、その場しのぎ的なパフォーマンスであったものが、鍛錬を積むことによってしか発揮できない領域に踏み込んだのです。後発で放送されたTBSの「フードバトルクラブ」が大食いをスポーツとして見せるような演出であったことも後押しします。同インタビューで小林はこのように語ります。
    「それまでの大食いってバラエティだったんですよね。食べ物が間に合わなくても笑いが取れればいいし、本気で食べている最中にマイクを向けられることもあった。フードバトルクラブはそういう要素を一切取り除いた番組でした。スポーツとしての競争、格闘技のような演出で、僕らのことも一アスリートとして扱ってくれた。制作者側のメンタリティがまるで違ったんだと思います」。
     
     食べる量も速さも以前とは劇的に変わり、視聴する側も競争のレベルが上がったことを実感します。しかしながら、選手が感じたものは、視聴者のそれとは比べ物にならないほど大きなものでした。急激なパフォーマンスの向上とメンタリティの変化を経た選手は、今までのようなびっくり人間的な扱いに耐えることが出来なくなりました。彼らは高みを目指す中で、大食いのパフォーマンスがアスリートの境地と通じることに気づいてしまったのです。それは誰かが教えてくれたものではなく、自らの体験で獲得した気づきなのです。そしてそれに気づいてしまった以上、大食いを軽視したりないがしろにしたりする価値観と相容れることはもはや出来ません。彼らにとって、大食いをスポーツとして捉えることは自明の理にすぎなくなったのです。この状況の中で、「大食い選手権をスポーツという枠組みでなぜ捉えようとするのか?」と彼らに尋ねたところで、その質問は意味を成しません。理由があるからスポーツとして捉えるのではなく、スポーツとして捉える感覚が自然と湧いてくるのですから。
     

    スポーツとしての大食い選手権に歯止めをかけるテレビ東京


    「フードバトルクラブ」が隆盛した二〇〇一年から二〇〇二年にかけては、大食い(大食い選手権)はスポーツという考え方を受け入れる土壌が、最も形成されていた時期と言えるでしょう。「フードバトルクラブ」は、一年間で四回も特番として放送されました。視聴率も二〇%前後を記録して好評を博し、優勝賞金は最大一、〇〇〇万円に達しました。一般の視聴者は必ずしもスポーツと自覚しながら「フードバトルクラブ」を視聴していたわけではありませんが、まるでスポーツ観戦のように、選手の鍛錬されたパフォーマンスに盛り上がりながら見ていたのです。
     
     それから打って変わり、現在ではそのような土壌はぽつんぽつんとしか確認することが出来ません。それは、第二章で言及したように、二〇〇二年四月に報道された中学生の給食の死亡事故をきっかけに「フードバトルクラブ」が消滅し、その機運が一気にしぼんだからです。加えて、テレビ東京が大食いはスポーツという考え方に与しない立場を取っていることが挙げられます。
     
     二〇〇二年三月に発行されたTVチャンピオンの大食い選手権のデータブックである『TVチャンピオン 大食い選手権』には、番組プロデューサーへのインタビューが掲載されています。そこでプロデューサーのある方は「最近は、大食いブームになっちゃってますけど、僕らにしてみたら昔のもっとほのぼのとした時代に戻りたいっていうのがあるんですよ(笑)」、「なんとかほのぼのとしたムードに戻したいんですけど。選手たちが僕らの想像を超えるレベルにまでなってしまってるから、なかなか難しいんですよ」と語っています。
     また別のプロデューサーも、「どっちが粘ってたくさん食べられるかとか、そういうところに視聴者の方の興味があったんじゃないかと思います。でも今は記録のほうに興味がいきがちで、見ている僕らの方も感覚がマヒしているようなところもあります」、「最近のスポーツ感覚の大食いが受けているのを見ると、食べ物に対する愛情という点で、一抹の不安もあるんです」、「記録をメインにしてやっていくのか、勝負をメインにしてやっていくのか、という選択をする場合、『TVチャンピオン』は勝負をメインにしたいですね」と語っています。 
     スポーツ志向の「フードバトルクラブ」とはスタンスが異なることを、テレビ東京側のプロデューサーが明言、さらに競技レベルの劇的な向上によって、「ほのぼのとした時代に戻りたい」といった郷愁さえ掻き立てられていることが窺えます。
     死亡事故の影響でテレビ東京は大食い選手権を三年間休止しましたが、大食い三か条を新たに取り入れながら番組を再開します。
     
     ・大食いは健康であれ
     ・危険な早食いは厳禁
     ・食べ物に感謝を
     
     以上が大食い三か条の内容ですが、これは上記のプロデューサーたちが語っていた内容を、どことなく継承しています。テレビ東京は、予選会を実施して門戸を誰にでも開いた状態で大食い選手権を放送する唯一のテレビ局です。そのようなテレビ局が、スポーツから一歩引いた形で大食い選手権を放送し続けてきたことは、一部の選手が願うようなスポーツ化に、長年ブレーキをかけていた存在とも捉えられるでしょう。
     
     これは良い、悪いの問題ではありません。大食い選手権をスポーツとして放送するかしないかはテレビ局側の裁量です。テレビ東京は一歩引いた形で今でも放送し続け、TBSは一時的といえどもかなりスポーツ寄りの構成で放送していたという、単なるスタンスの違いにすぎません。ただし、出場するフードファイターが、戦いを通してスポーツ的な要素を感じ取るということもまた、一つの真理なのでしょう。出場者の気持ちと番組を制作するテレビ局側のスタンスが必ずしも一致しないという状況も、大食い選手権をスポーツとして捉えるか否かを難しくしています。

    曖昧なルールの上で成り立つ大食い選手権


     大食い選手権がスポーツなのか否かを語る上で、ルールの観点も外せません。二〇一七年四月にスタートした第二期スポーツ基本計画では、「スポーツには、競技としてルールに則り他者と競い合い自らの限界に挑戦するものや、健康維持や仲間との交流など多様な目的で行うものがある」と記されています。大食い選手権は、競技としてルールに則り他者と競い合い、自らの限界に挑戦するスポーツという見方もできます。その一方で、大食い選手権のルールが厳密ではない点は、番組視聴者からもしばしば指摘される問題点でもあります。
     
     まずは、大食い選手権における「おかわり」を一例に考えてみましょう。ラーメン対決の際、選手がおかわりできるのはどのタイミングだと皆さんは思いますか。もちろんおかわりが出来るのは、一杯分のラーメンを完食した時です(スープは残してもよい)。ただし、この完食の定義が曖昧なのです。完食というからには、麺も具材も一つ残らず食べた場合と思うかもしれません。しかしながら、大食い選手権の実際の現場では、そのような運用はされていません。麺が数本残っていてもおかわりが認められる場合が多いのが実情です。スープが濃い場合は、具材が残っていてもおかわりが認められることがあります。時には、MCが網杓子で麺や具が残っているかを確認する試合もありますが、毎回は実施されていません。ラーメンに限らず、カレーライス、お茶漬け、骨付き肉などでも同様です。カレールウはどこまで残っていてよいのか、米粒はどこまで残っていてよいのか、骨に肉はどこまで残っていてよいのか。視聴者に明確な基準は示されず、番組側の判断に委ねられます。このような曖昧さから、過去に骨付き肉対決では、過度に骨に肉を残しながらおかわりして勝ち進んだ選手が、炎上したことさえもありました。
     
     おかわりの条件に厳密さが欠ける背景には、テレビショーという側面が大きく関係しています。おかわりの度に厳密な計量をやっていても画としては好ましくなく、番組の進行を妨げてしまいます。視聴者が楽しめる番組になるように、ほどほどの判断で進行を進める。かなり厳密に計量したTBSとは異なり、テレビ東京においてはそうした臨機応変な判断が基本姿勢となっています。臨機応変の判断の中で、時には非常に厳密に判定することもあります。二〇一三年の男女混合戦の決勝戦では、ラーメンの完食杯数が同数で並び、両選手の全てのラーメンの器の残量を測定しました。しかしながら、その放送回以降で、ここまで厳密な計量が行われたことは現在までありません。
     おかわり以外にも、提供される料理のストックが試合中に切れてしまい、試合が中断されるという問題もしばしば起こります。二〇二五年五月に放送された最強大食い王決定戦の準決勝第二試合では、食材として提供されるフライドポテトを揚げるスピードが、選手の食べるスピードに追い付かず、試合が中断されてしまいました。作り置きをこれでもかと用意すれば、このような事態は防げると考えられます。しかしながら、料理の出来立て度合いや見栄えなども放送する上では重要な要素であるため、そこまで事前に用意されません。中断は満腹中枢に影響を与えてしまうため、競技の公平性をゆるがしかねない致命的な問題です。
     
     他にも、選手が試合途中で酸素ボンベを吸ったり、プールに浸かって身体を冷やしたり、周囲の人に団扇で仰いでもらったりするなど、どこまで他力を借りることが問題ないのかという点も不明瞭となっています。力を借りるという点に関して究極的なことを言うと、単なるテレビ番組の一つにすぎませんので、もちろんドーピング検査は行われていません。
     テレビショーであるため、番組側の裁量で、進行を妨げない範囲では様々なものが許容されています。そのため、ルール面では様々な曖昧さを伴っています。視聴者は、画面越しに番組で提示されるものに、ただ従うしかありません。ルールブックなどはありませんので、異議申し立てをすることは出来ません。
     

    全国的な競技団体の不在が、興行主のためのルールに拍車をかける


     ルールの曖昧さについて見てきましたが、これは大会主催者がルール制定者を兼ねていることが大きなポイントです。テレビ東京の大食い選手権についていえば、テレビ東京が大会企画、ルール制定、選手募集、大会運営、番組放送といった一連のプロセスを全て担います。他の大会として、地域が主催するわんこそばなどの大会がありますが、そうした大会もやはり大会ごとに独自のルールを設けており、共通のルールを制定することはありません。つまり、大食い選手権においてルールは大会ごとにバラバラであり、統一的なものがありません。野球はどこの大会でも野球ですし、サッカーはサッカーです。しかしながら、大食い選手権にはそうした核となるルールがないため、興行主のためのルールとなっているのが現状です。
     
     統一ルールが存在しないことは、大食い選手権において全国的な競技団体がないことも関連しています。世の中に広まっているスポーツには、規模の大小はあれども競技団体が存在します。ルールを統括し、会員を募集し、大会を運営し、国際団体や行政とやり取りします。
     
     スポーツ基本法の第五条には「スポーツ団体は、スポーツの普及及び競技水準の向上に果たすべき重要な役割に鑑み、基本理念にのっとり、スポーツを行う者の権利利益の保護、心身の健康の保持増進及び安全の確保に配慮しつつ、スポーツの推進に主体的に取り組むよう努めるものとする」と記されています。しかしながらこのようなスポーツ団体は、現在大食い選手権に存在しません。二〇〇〇年前後には、Food Fighter Association(FFA)や日本大食い協会といった、トップクラスのフードファイターが中心となった任意の団体が設立されていました。これらの団体が世の中に対してどこまで力を発揮できたかという話はありますが、フードファイターが団結して、大食いを、フードファイトを発展させるために取り組もうとしていました。しかしながら、中学生の給食での死亡事故以降、これらの団体もなくなりました。
     
     大食い選手権が、フードファイトがスポーツとして位置づけられる世の中になるためには、いくら個人で訴えていても限界があります。メディアを巻き込んだムーブメントを個人で引き起こすことも重要ですが、団体を立ち上げて組織的に働きかけることも必要不可欠でしょう。団体の立ち上げには、設立の目的や理念が求められます。その際に、スポーツとして一般的に求められるものと相反することなく、目的や理念を取りまとめる必要があります。必然的に「心身の健全な発達や健康及び体力の保持増進」といったスポーツの一般的な要素と、不健康と誹りを受けることが多い大食いという行為との折り合いを、いかにつけるかも問われることになるでしょう。このあたりの内容は、大食い選手権批判を批判的に考察する第四章でも取り上げます。
     ここまで、大食い選手権はスポーツなのか否かという観点から、議論を進めてきました。大食い選手権がスポーツとして目されるようになる上で、まだまだ様々な壁や課題があることを感じてもらえたのではないでしょうか。本章の終わりに向かうにあたって、アメリカのフードファイト事情にも少し言及します。

    アメリカは本当にフードファイトのスポーツ先進国なのか?


     皆さんの中には、このような言説を聞いたことがある方もいるのではないでしょうか。「アメリカでは大食いや早食いといったフードファイトは、スポーツとして認められている。アメリカにはフードファイトのプロ団体が存在し、ネイサンズホットドッグ国際早食い選手権はESPN(アメリカのスポーツ専門チャンネル、NBAやMLBなどを中継)でも中継されて大人気だ」。この話はしばしば、アメリカではフードファイトがスポーツとして成功しているから、日本もいずれそのように発展するといった文脈で語られます。
     たしかに、フードファイトのプロ団体は存在します。そして、ホットドッグ早食い選手権はESPNで中継され、非常に注目されるイベントです。これらのことから、アメリカをフードファイトの理想郷としてみたくなる心境もわかります。しかしながら、この言説をそのまま鵜呑みにはできません。
     
     アメリカのプロ団体であるMLE(Major League Eating)が開催する大会には、ホットドッグ早食い選手権を一六回制したジョーイ・チェスナットをはじめ、多くの有力選手が出場します。ただし大会の賞金はそれほど高額ではなく、ホットドッグ早食い選手権でさえ優勝賞金は一〇、〇〇〇$(約一五四万円)とされています。トップクラスのフードファイターの中にも、別に本業がある者もいます。例えば二〇二三年のホットドッグ早食い選手権で準優勝し、二〇二四年の『最強大食い王決定戦』で優勝したジェフリー・エスパーは高校の教師です。世界トップクラスの選手でさえ、MLBやNBAのようにそれだけで生計を立てていくのが容易ではない状況です。加えて、ESPNで中継されるネイサンズホットドッグ国際早食い選手権は、アメリカの独立記念日である七月四日に開催される特別な大会です。視聴者のナショナリズムを強く刺激する性質上、他の大会に比べてはるかに注目されるという特殊事情があるのです。アメリカのフードファイトは日本に比べて盛り上がっているものの、それだけで生計を立てるほどの収入を稼ぐことは容易ではなく、また必ずしも競技そのものの魅力のみで人気を集めているわけではありません。こうした事情を無視して、「アメリカではフードファイトがスポーツとして認められて非常に盛り上がっている」と気軽に言うことは出来ないのです。
     
     アメリカでは日本ほど、きれいな食べ方に拘らない文化があるため、競技としての大食いや早食いが成立しやすい国ではあります。しかしながら、アメリカをフードファイトの理想郷として見なしていいほど状況は単純ではありません。日本よりは幾分か状況が進んでいるとはいえ、アメリカにも更なる発展のための壁や課題は存在するのです。
     アメリカの状況を確認したところで、本章もまとめに入ります。
     

    大食い選手権のスポーツとして「グレー」な側面と向き合うこと、そしてスポーツという存在に向き合うこと


     大食い選手権がスポーツなのか否かについて、様々な事柄を確認しました。身体活動である点や、フードファイターの高度に訓練されたパフォーマンスや試合に臨むメンタリティは、大食い選手権をスポーツとして捉えられる要素です。一方で、大食い選手権をスポーツとして捉えられない理由もいくつもあります。世の中の大多数は現時点で大食い選手権をスポーツとして見なしていないこと、ルール整備が進んでいないこと、全国的な競技団体が存在せずテレビショーの枠組みの中で取り上げられるのが依然として中心であることなどです。また、スポーツ基本法が掲げる「心身の健全な発達」、「健康増進」といったスポーツの一般的な理念に、大食い選手権が合致するのかという疑問も抱えています。そのため、人々が大食い選手権をスポーツとして認める世の中には遠い状況です。ただし、それらを切り開く道が決して残っていないわけではありません。有力なフードファイターを中心に団体を設立し、理念で人々の共感を誘い、ルールを整備しながらテレビ番組を飛び出して活動していけば、地道ながらも世の中が変わっていく可能性があります。
     
     私たちの社会の中には、スポーツとはこういうものだという共通の理解が存在します。けれども、その共通の理解は時代によって変容します。スポーツの語源は「気晴らし」でしたが、近代化が進む中でその意味は消えていき、競技化されたスポーツがスポーツの中心となります。
     
     大食い選手権が時代の移り変わりの中で、スポーツとして定着する可能性は、まだまだ残されています。『ボクシングはなぜ合法化されたのか』(松井良明)では、時には死亡事故を伴うボクシングが、近代スポーツの母国であるイギリスで合法的なスポーツとして認められた背景に迫っています。同著では「社会的かつ身体的な危険性の排除または抑止」といった「安全化」が、合法的なスポーツとして認められる条件であったことを指摘しています。大食い選手権がスポーツとして受け入れられるために必要な、社会を文句なしに納得させる条件はいまだに明らかになっていません。しかしながら、団結して模索し続けることで、その糸口が見えてくることもあるはずです。
     
     スポーツという切り口から大食い選手権を改めて見つめなおすことで、様々なものが浮かび上がりました。スポーツ的な側面と、スポーツ的ではない側面。さらになぜスポーツとして認められたいのか、そもそもスポーツとは何かといった、より根源的な話も出てきました。序盤に、「大食い選手権がスポーツなのか否かを〇か一〇〇かで判断したいわけではありません」と記しましたが、ここまで読んだ皆さんならその意味を理解していただけたのではないでしょうか。〇か一〇〇かで語り合えないほどの複雑性を、この論点は抱えているのです。
     
     同じく序盤に「何が何でも大食い選手権はスポーツであると主張したいわけではありません」と記しましたが、私は大食い選手権を何が何でもスポーツにしたいとも思ってはいません。大食い選手権がスポーツとして認められる方向で発展することは一つの道ですが、同時に大食い選手権が大食い選手権という文化として生き残ることも、それはそれで別の道として一理あると思っています。
     
    「ここまで散々書いときながら、スポーツ化を望んでいないのか」と、驚かれた方もいるかもしれません。決してスポーツとして認められることを望んでいないわけではありません。大食い選手権が、出場するフードファイターたちが、もっともっと世の中に受け入れられ、彼らの社会的地位がもっともっと高まって、それこそ野球やサッカーのようにみんなで盛り上がることができれば最高だと思っています。けれども、それは本当にスポーツとして認められることでしか成しえないのか、別の道もあるのではないかという見方も、決して忘れてはいけないと思っています。スポーツも万能ではありません。ドーピング、怪我、差別、賭博、勝利至上主義などの多くの問題点を抱えています。決して、ただただ賛美していればいいものではありません。大食い選手権が様々な問題を抱える中、スポーツ自体の矛盾を見て見ぬふりをして安易に崇めるのは筋が通っていない。そう強く感じることが、私が手放しに大食い選手権をスポーツとして主張することに賛成しない理由です。
     
     スポーツという切り口から、大食い選手権が有する論点や問題点に対する気付きを、少なからず得ていただけたでしょうか。続く第四章では、いよいよ大食い選手権批判に向き合います。大食い選手権批判を「批判」するという立場を取ることで、大食い選手権と社会の関係性をますます深く、鋭く見ていきましょう。

    参考文献

    ・「小林尊〝夢は大食いをスポーツに!〟引退した『伝説のフードファイター』のこれから」FRIDAY DIGITA、 二〇二五年三月二日、https://friday.kodansha.co.jp/article/416094、(二〇二五年五月三日閲覧)

    ・「大食いはスポーツかエンタメか。MAX鈴木が語るアスリートの自負『認められるまであがき続けたい』」web Sportiva、 二〇二二年五月二七日、https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/other/2022/05/27/max_1/、(二〇二五年五月四日閲覧)

    ・「『スポーツ』とは何か」国士舘大学 国士舘マガジンズ、二〇二四年、https://www.kokushikan.ac.jp/magazines/001475.html、(二〇二五年五月四日閲覧)

    ・「sport」Oxford English Dictionary、https://www.oed.com/dictionary/sport_n1、 (二〇二五年五月五日閲覧)

    ・「賞金一〇〇〇万円、ジャイアント白田との死闘……〝大食い界のプリンス〟と呼ばれた小林尊が振り返るフードバトル黄金期『めっちゃ批判もされましたよ』」、 二〇二五年二月一七日、NumberWeb、https://number.bunshun.jp/articles/-/864729、(二〇二五年五月五日閲覧)

    ・テレビ東京 番組製作スタッフ編著『TVチャンピオン大食い選手権』双葉社、二〇〇二年

    ・「スポーツ基本法」e―Gov法令検索、https://laws.e-gov.go.jp/law/423AC1000000078、(二〇二五年五月七日閲覧)

    ・「スポーツ基本計画」文部科学省、二〇一七年三月二四日、https://www.mext.go.jp/sports/content/1383656_002.pdf、(二〇二五年五月七日閲覧)

    ・「EATING RANKINGS」MAJOR LEAGUE EATING、https://majorleagueeating.com/eaters/、(二〇二五年五月八日閲覧)

    ・松井良明『ボクシングはなぜ合法化されたのか』平凡社、二〇〇七年


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