メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo bynotty78

魚類に書かされる文章

    1分がたつのが遅いと感じられる時は一番調子が悪い。
    ここでどう過ごそうか、どうやって身を動かしていればいいのか分からなくなる。
    どうやって表現しても抽象的になりすぎて、やんな中二病の人みたいに「ここは我がいる場所ではない、本来の私はもっと高いステージにいるべきはず人間、腐った人間ども思いしれ!」みたいな感じになってほんとに嫌なのだが、身の置き場がないというのがもっとも適した言語化なのだろうか。

    そしてその身の置き場がない、すなわち死につながる。こんなにもいたくなくて、こんなにもいるのが辛くって、こんなにも慌てふためいて、こんなにも混乱して、こんなにも考えるという行為がくるしいなら、何にもなくなる世界に逃げたいなと思うのだ。

    私は、できるだけ物事を具体性をもって言語化したいという欲求をなぜか持ち合わせているので、これではまだ足りずものすごくもどかしいのであるが、このもどかしさだけがまだ生きていられる原動力なのかもしらないと前向きに捉えられなくもないなと感じている。

    どう言えばいいのだろう、布団に横たわっていると絶えず、これじゃない、これじゃないと声が聞こえてくると同時に、これじゃないという声を聞いて、これじゃないと思いながら生きていることの不毛さ、これじゃないと思っていられているということは、まだ人生において上り目があると希望を捨てていないと感じているのであろう自分に対して、そんな甘い考えを破棄しろと鼓舞しつつ、そんな気力があるなら早く死んでしまえと自分を呪うような時間だ。

    そんな折にも少し精神状態がよくなると、さっき買っておいた西友ののり弁をむしゃぶり食べているので、こんな状態になってもまだ生きることを諦めていないのかと呆れ驚くが、弁当が美味いことには間違いない。

    弁当美味しい、弁当美味しいと涙を流しながら、まだ死んでしまうのは明日でもいいのではないかと逞しい生存欲求に屈してしまう日々である。

    西友ののり弁にのっかっている鮭とちくわの磯辺揚げが今の私を生かしていると言っても過言ではない。
    鮭は死んでなお人を生かし、魚は練り物になり、私の命を長らえているが、私はそんな魚類にもらった命を無駄にして、毎日どうやって死のうか考えているのである。
    そして、魚類にいただいた命をこんな文章を書くということに費やしているのだ。

    あなたへのおすすめ