
「言葉が生み出す生きづらさ」
はじめに
僕は現在、若者支援の仕事に携わっている。
小学校の先生を目指していたが、その道には進まず、保育士や児童養護施設職員を経て、今の仕事に就いた。
若者支援に携わって13年になる。
しっかり数えたことはないが、おそらく1000人以上の若者と向き合ってきた。
もちろん、僕自身の人生も決して順風満帆だったわけではない。
母は先天性の股関節脱臼による障害があり、障害者手帳を持っている。
車椅子生活ではなく、自力で歩くことはできるが、振り返れば子どもの頃から自然と手伝うことも多かった。
そして中学3年生の時、両親が離婚した。
少しだけ道を外れた時期もあった。
当時の僕はよく考えていた。
「どうして自分ばかり不幸なんだろう」
「神様は平等じゃないのか」
「自分に与えられた試練は大きすぎないか」
そんなことを何度も思った。
今振り返ると、不幸だったわけではない。
ただ、「自分は不幸な人間なんだ」という物語を、自分自身に語り続けていたのかもしれない。
若者支援の仕事を始めてから、多くの若者たちの話を聞いてきた。
家庭環境の問題。
学校での孤立。
職場での人間関係。
発達特性への悩み。
ひきこもりや不登校。
中には、ドラマやニュースでしか聞いたことのないような壮絶な経験をしてきた人もいる。
そんな話を聞くたびに、
「自分の悩みなんて大したことなかったな」
と思うこともあった。
でも同時に気づいたことがある。
人を苦しめているのは、出来事そのものだけではないということだ。
例えば、
「ひきこもり」
という言葉。
本来は状態を表す言葉のはずなのに、いつの間にか人格そのものを表す言葉として使われることがある。
「ニート」
という言葉。
社会課題を説明するために生まれた言葉なのに、本人を否定するレッテルとして使われることがある。
「障害者」
という言葉。
支援や制度につながるために必要な言葉である一方で、人を区別する境界線にもなる。
「キャリア」
という言葉。
本来は人生や経験の積み重ねを意味するはずなのに、いつしか「立派な経歴」や「成功した人生」を意味する言葉として受け取られるようになった。
言葉は、本来、人を理解するために生まれた。
しかし時として、人を理解するための言葉が、人を縛る言葉になる。
言葉は人を守る盾にもなる。
けれど、人を傷つける剣にもなる。
そしてその剣は、他人だけではなく、自分自身にも向けられる。
僕は政治家ではない。
社会を大きく変えられるとも思っていない。
だからといって、社会に絶望しているわけでもない。
僕が日々考えているのは、目の前にいる若者が、この社会の中でどうすれば少しでも生きやすくなるのかということだ。
社会と個人の間にある言葉。
制度と人生の間にある言葉。
その言葉を少しだけ違う角度から見直すことで、生きづらさが少し軽くなることがある。
この文章は、若者支援の現場で出会った人たちと、そして自分自身の経験を通して考え続けてきた、「言葉が生み出す生きづらさ」についての記録である。
第1章 ひきこもりは「問題」ではなく「状態」だ
~言葉が人を説明し始めるとき~
若者支援の仕事をしていると、ひきこもりや不登校を経験した人と関わる機会が多い。
近年、「ひきこもり」という言葉は広く知られるようになった。
行政の施策や支援機関も増え、以前に比べると相談できる場所も増えてきたように思う。
それ自体は決して悪いことではない。
社会課題として認識されることで支援が生まれ、救われる人もいる。
しかし一方で、現場にいる人間として、ずっと感じている違和感がある。
それは、「ひきこもり」という言葉が独り歩きしていることだ。
本来、ひきこもりとは状態を表す言葉である。
学校に行けていない。
仕事に就いていない。
家族以外との交流が少ない。
そうした状態を説明するために作られた言葉のはずだった。
ところがいつの間にか、その言葉は状態ではなく人格を表す言葉として使われるようになった。
「ひきこもりだから仕方ない」
「ひきこもりだから社会に出られない」
「ひきこもりだからコミュニケーションが苦手」
本来は何も説明していないはずなのに、その人の人生そのものを説明した気になってしまう。
そして厄介なのは、周囲だけではない。
本人自身もその言葉を受け入れてしまうことがある。
「自分はひきこもりだから」
という言葉は、
「自分には無理だ」
という言葉に変わる。
「自分はダメな人間だ」
という言葉に変わる。
気づけば状態を表すラベルが、自分自身の評価になってしまう。
若者支援の現場では、そうした場面を何度も見てきた。
実際に会って話をしてみると、世間がイメージするような「ひきこもり像」とは全く違う人も多い。
読書が好きな人もいる。
ゲームが好きな人もいる。
人と話すことが好きな人もいる。
優しい人もいれば、よく笑う人もいる。
ただ、何らかの理由でエネルギーが減ってしまっただけかもしれない。
学校で傷ついた。
職場で傷ついた。
家庭で傷ついた。
人間関係で疲れてしまった。
だから一度立ち止まっている。
それだけのことかもしれない。
もちろん、背景には発達特性や精神的な不調がある場合もある。
しかし、それでも私は思う。
ひきこもりとは病名ではない。
人格でもない。
状態である。
そして状態は変わる。
実際に、これまで関わってきた若者たちの中にも、ひきこもりを経験した後に就職した人はたくさんいる。
最初は週に数時間のアルバイトから始めた人もいる。
フルタイムで働き始めた人もいる。
もちろん、今もまだ一歩を踏み出せずにいる人もいる。
だが、そのどちらにも共通していることがある。
それは、「ひきこもり」という言葉だけでは、その人を説明できないということだ。
人は本来、そんなに単純ではない。
ところが社会は、物事を理解するために言葉を作る。
言葉は便利だ。
言葉があるから制度ができる。
支援ができる。
問題を共有できる。
しかし、その便利さの代償として、私たちは時々、言葉の向こう側にいる人間そのものを見失ってしまう。
私は若者支援の仕事をしながら、何度も思う。
支援とは、ラベルを貼ることではない。
ラベルの向こう側にいる人を見ることだ。
「ひきこもり」という言葉をなくしたいわけではない。
必要な言葉だと思う。
ただ、その言葉だけで誰かを理解した気になってはいけない。
なぜなら、その言葉の向こう側には、一人ひとり違う人生があるからだ。
そして、この「言葉が人を説明した気になってしまう問題」は、ひきこもりだけの話ではない。
次の章では、「キャリア」という言葉について考えてみたい。
人はなぜ、「キャリアがない」と苦しむのだろうか。
第2章 キャリアという言葉は誰のためにあるのか
~人生を評価するための言葉になっていないか~
若者支援の仕事をしていると、よく耳にする言葉がある。
「自分にはキャリアがなくて」
「空白期間があるので」
「ちゃんと説明できる経歴がなくて」
最初の頃は、その言葉をそのまま受け取っていた。
しかし、話を聞いているうちに違和感を覚えるようになった。
本当にその人にはキャリアがないのだろうか。
例えば、家族の介護をしていた人がいる。
例えば、病気の治療に専念していた人がいる。
例えば、ひきこもり状態の中で、毎日必死に生きていた人がいる。
例えば、何度も転職を繰り返しながら、自分に合う働き方を探していた人がいる。
それなのに本人は言う。
「何もしていませんでした」
と。
私はその言葉を聞くたびに思う。
本当に何もしていなかったのだろうか。
むしろ、その期間があったからこそ今ここにいるのではないだろうか。
そもそも「キャリア」という言葉は、いつからこんなにも重たい言葉になったのだろう。
高校生向けの講演で、私は時々こんな質問をする。
「キャリアって聞いて、どんなイメージがありますか?」
すると多くの生徒が、
「すごい人」
「出世している人」
「成功した人」
と答える。
昔、テレビドラマの『踊る大捜査線』を例に出しながら、警察組織の「キャリア組」と「ノンキャリア」の話をしたことがある。
すると生徒たちはすぐに理解した。
「ああ、エリートの人ですよね」
と。
その時、私は気づいた。
彼らの中でキャリアという言葉は、
人生の記録ではなく、
成功の証明書になっているのだと。
本来、キャリアという言葉は中立的な言葉だったはずだ。
仕事の経験。
人生の積み重ね。
歩んできた道。
それだけの意味だったはずである。
しかし現代では、
キャリア=実績
キャリア=成果
キャリア=評価
として受け取られることが多い。
すると何が起きるのか。
途中で立ち止まった人が苦しくなる。
ひきこもりを経験した人。
不登校を経験した人。
離職期間が長い人。
病気で働けなかった人。
子育てに専念していた人。
そうした人たちは、自分の人生を振り返るたびに、
「キャリアにならない時間」
として扱ってしまう。
しかし私は思う。
本当にそうだろうか。
人は働いている時だけ生きているわけではない。
悩んでいる時も生きている。
迷っている時も生きている。
立ち止まっている時も生きている。
そして時には、
生き延びるだけで精一杯の時期もある。
以前、就職氷河期世代の男性の相談に乗ったことがあった。
その人は派遣社員で何度か転職はあったが長年働き続けてきたにも関わらず、面接でこう聞かれたという。
「あなたは今まで何をやってきたんですか?」
その言葉に強い怒りを感じていた。
もちろん、その場の文脈は分からない。
しかし私はその話を聞いて考えた。
社会が求めているのは、説明しやすい物語なのかもしれない。
一直線に進み、
途切れることなく働き、
分かりやすい成果を出している人生。
そういう物語は評価されやすい。
しかし実際の人生はそんなに単純ではない。
回り道もある。
失敗もある。
やり直しもある。
迷いもある。
本来、人間らしい人生ほど複雑なはずなのに、社会はそれを一行の職務経歴書にまとめようとする。
だから私は思う。
キャリアとは評価のための履歴書ではない。
生き延びてきた記録である。
途中で止まってもいい。
遠回りしてもいい。
語りにくい時間があってもいい。
その人が、その人なりに悩み、選び、ここまで生きてきた。
それ自体がキャリアなのだと思う。
もし今、
「自分にはキャリアがない」
と感じている人がいるなら、それはあなたに何かが欠けているからではない。
ただ、社会の言葉が、あなたの人生をうまく説明できていないだけなのかもしれない。
キャリアという言葉は、本来、人を励ますための言葉だったはずだ。
しかし時として、その言葉は人を追い詰める。
私は若者支援の現場で、その姿を何度も見てきた。
だからこそ思う。
私たちは言葉を疑わなければならない。
言葉を否定するためではない。
言葉に支配されないために。
そして、それは「キャリア」という言葉だけの話ではない。
社会は今、「個性」や「多様性」という言葉を大切にしようとしている。
しかし、その言葉が広がるほど、生きづらさを感じる人が減っているかというと、必ずしもそうではない。
次の章では、「個を大切にする時代に、なぜ孤独が増えているのか」について考えてみたい。
第3章 「個」を大切にする時代に「孤」が増えている
~多様性の時代の新しい孤独~
若者支援の仕事をしていると、学校や企業、地域社会の変化を感じることがある。
私が子どもの頃と比べても、社会は確実に変わった。
学校では、
「個性を大切にしましょう」
「多様性を認めましょう」
「合理的配慮が必要です」
と言われるようになった。
企業でも、
「自分らしく働く」
「心理的安全性」
「多様な働き方」
という言葉を耳にする機会が増えた。
昔のように、「みんな同じであること」を求める空気は弱くなっているように感じる。
それ自体は、とても良い変化だと思う。
発達特性。
感覚の違い。
家庭環境。
価値観。
生きづらさ。
かつては「変わった人」「努力不足」「わがまま」と片付けられていたものが、少しずつ社会の中で言語化されるようになってきた。
私たちはようやく、「人はみんな違う」という当たり前の事実を受け入れ始めたのかもしれない。
しかし、その一方で違和感もある。
本当に生きやすい社会になっているのだろうか。
若者支援の現場には、今も生きづらさを抱えた若者たちが訪れる。
不登校。
ひきこもり。
職場への不適応。
対人関係への不安。
自己肯定感の低さ。
もちろん昔にもそうした悩みはあった。
しかし今は、社会が「個」を見つけられるようになったにもかかわらず、「孤」を生み出しているようにも見える。
私は時々、社会のOSがアップデート途中なのではないかと思うことがある。
表面上は「個性を尊重しよう」と言っている。
しかし、その土台となる仕組みは昔のまま残っている。
同じ時間に来る。
同じ場所で学ぶ。
同じペースで進む。
同じ基準で評価する。
つまり、OSは集団管理型のままなのに、その上で個別対応をしようとしている。
だから現場では矛盾が起きる。
「あなたの個性を尊重します」
と言いながら、
「できれば周りに合わせてください」
とも言う。
「あなたらしくいていいですよ」
と言いながら、
「ただしルールの範囲内でお願いします」
とも言う。
もちろん、学校や企業が悪いと言いたいわけではない。
集団で運営する以上、一定のルールは必要だ。
全員を完全に個別対応することは現実的ではない。
問題なのは、社会そのものも試行錯誤の途中だということだ。
私たちは「個」を見つけることには成功した。
しかし、その「個」とどう付き合うのかについては、まだ答えを持っていない。
だから、集団の中に馴染めない人が現れた時、
「発達障害だから」
「コミュニケーションが苦手だから」
「社会性がないから」
という言葉で説明しようとしてしまう。
もちろん、それらの言葉が間違っているわけではない。
ただ、その言葉だけで問題を説明した気になってしまうことがある。
本当は、その人と社会との間に起きている摩擦かもしれない。
それなのに、問題が本人の中だけにあるように見えてしまう。
私は若者支援の現場で、
「頑張りたいのに頑張れない」
という若者たちとたくさん出会ってきた。
誤解されやすいが、多くの若者は怠けたいわけではない。
働きたくないわけでもない。
学校に行きたくないわけでもない。
むしろ、
「みんなと同じようにできない自分」
に苦しんでいることが多い。
だから私は思う。
支援とは、社会に適応させることだけではない。
本人を変えることだけでもない。
社会と個人の間に立ち、お互いの言葉を翻訳することなのではないか。
社会はこれからも変わり続けるだろう。
AIが普及し、働き方も変わる。
価値観も変わる。
正解も変わる。
その中で私たちは、ますます多様な人たちと共に生きていかなければならない。
だから必要なのは、「個」を見つけることだけではない。
「個」が安心して存在できる場所をつくることだ。
そして、そのためにはラベルだけで人を理解した気にならないことが大切なのだと思う。
なぜなら、人は誰もが、一つの言葉だけでは説明できない存在だからだ。
では、そうした社会の言葉やラベルに囲まれながら、人はどのように自分自身を理解していくのだろうか。
次の章では、「考える」と「思う」の違いについて考えてみたい。
第4章 「考える」と「思う」は違う
~支援とは答えを探すことではなく、本音を見つけること~
若者支援の仕事をしていると、日々たくさんの言葉に出会う。
「働かなければいけないと思っています」
「頑張らないといけないと思っています」
「そろそろ就職しないといけないと思っています」
どれも正しい言葉だ。
社会的にも間違ってはいない。
けれど私は、その言葉を聞くたびに考える。
この人は、本当にそう思っているのだろうか。
私は神様はあまり信じていない。
しかし、言葉には力があると思っている。
言葉には、その人の状態が表れる。
そして言葉は、発した本人にも影響を与える。
だから私は、若者との面談で言葉をとても大切にしている。
言葉は人を救うこともある。
しかし、人を縛ることもある。
これまでの章で書いてきたように、
「ひきこもり」
「ニート」
「障害」
「キャリア」
といった言葉は、本来、人を理解するために生まれた。
けれど時に、その言葉が本人を苦しめる。
そして私は、それと同じことが、自分自身の内側でも起きていると思うようになった。
私は「考える」と「思う」は少し違うものだと思っている。
漢字を見ていて気づいたことがある。
「考」という字には心がない。
一方で、「思」という字には心がある。
頭で考える、とは言う。
心で考える、とはあまり言わない。
心で思う、とは言う。
頭で思う、とはあまり言わない。
本心とは言う。
本考とは言わない。
もちろん、これは単なる言葉遊びかもしれない。
それでも私は、この違いに意味があるような気がしている。
人はまず何かを感じる。
怖い。
不安だ。
嬉しい。
悲しい。
悔しい。
そうやって心が動いたあとで、
「こうするべきだ」
「こう考えた方がいい」
と頭で整理する。
つまり、「思う」が先にあって、「考える」が後に来るのではないか。
そんなことを私は日々の面談の中で感じている。
以前、19歳の女性と面談したことがあった。
彼女は最初、
「そろそろ働こうと思っています」
と話していた。
とても前向きな言葉だった。
ところが、
「どんな仕事がしたいの?」
「どんな働き方が合いそう?」
と話を進めていくうちに、少しずつ言葉が止まった。
そして泣き出した。
話を聞くと、周りの友人たちは進学したり就職したりしている。
自分だけ取り残されているような気がしている。
焦っている。
不安だ。
怖い。
そう話してくれた。
彼女は働きたくないわけではなかった。
頭では、
「働かなければならない」
と考えていた。
しかし心では、
「失敗したらどうしよう」
「自分にできる仕事なんてあるのだろうか」
と思っていた。
私はその時、改めて感じた。
人は考えたことは話せる。
けれど、本当に思っていることほど言葉にならない。
社会にはたくさんの言葉がある。
正論もある。
常識もある。
アドバイスもある。
キャリア論もある。
それらは決して間違いではない。
しかし、それらの言葉は時として、人の本音を覆い隠してしまう。
「頑張らなければ」
の奥に、
「怖い」
が隠れているかもしれない。
「働かなければ」
の奥に、
「自信がない」
が隠れているかもしれない。
「大丈夫です」
の奥に、
「助けてほしい」
が隠れているかもしれない。
だから私は、若者支援の仕事の中で、正しい答えを探そうとはしていない。
正しい職業を探そうともしていない。
もちろん仕事は大切だ。
就職も大切だ。
しかし、それ以上に大切なのは、その人自身が何を思っているのかだと思っている。
社会の言葉。
家族の言葉。
学校の言葉。
SNSの言葉。
そうしたたくさんの言葉の奥にある、その人自身の言葉。
それを一緒に見つけていくこと。
それが私にとっての支援であり、キャリアコンサルティングなのだと思う。
ここまで私は、「ひきこもり」「キャリア」「個性」など、さまざまな言葉について考えてきた。
どの言葉も必要なものだ。
しかし同時に、その言葉は人を縛ることもある。
だからこそ大切なのは、言葉をなくすことではない。
言葉に支配されないことなのだと思う。
言葉は地図にはなる。
けれど人生そのものではない。
そのことを忘れなければ、私たちはもう少しだけ、自分にも他人にも優しくなれるのかもしれない。
終章 言葉にならないものを言葉にする仕事
僕は神様を信じていない。
だから人生が平等だとも思っていない。
生まれた環境も違う。
家庭環境も違う。
持って生まれた特性も違う。
世の中は驚くほど不公平だ。
それでも、目の前の若者たちを見ていると、一つだけ信じられることがある。
人は、自分を理解してくれる誰かと出会った時、もう一度前を向く力を取り戻せる。
僕はその力を信じている。
もちろん大小あれど、何かを求めておかまさの元に辿り着いた時点で、その人は変わろう、変えたいとする第一歩を踏み出している。
変えたいものが自分自身だけでなく、親だったり、周りの環境であったり…
日々若者と向き合う中で痛感することがある。
人を苦しめるのは、社会が作った言葉だけではない。
僕自身もまた、言葉を扱う側の人間なのだ。
良かれと思ってかけた言葉が、その人を縛ってしまうこともある。
勇気づけるつもりの一言が、その人の可能性を狭めてしまうこともある。
だからこそ、言葉を扱う仕事には責任がある。
この記事では、「ひきこもり」「ニート」「キャリア」「個性」といった言葉が生み出す生きづらさについて考えてきた。
しかし、本当に怖いのは社会の言葉だけではない。
若者支援に携わる僕自身もまた、言葉によって誰かを縛ってしまう可能性がある。
良かれと思ってかけた言葉が、その人の可能性を狭めてしまうかもしれない。
何気なく伝えた一言が、その人の人生を決めてしまうかもしれない。
だからこそ僕は、言葉を慎重に扱いたいと思う。
昔関わっていた若者で、高卒後就職して半年で離職。
そこから10年ひきこもっていた若者と3年ほど関わっていく中で
「自分をダメにしたのも人だったが、自分を救ってくれたのも人だった」
と話してくれた。
若者が就職した時。
誰かと笑えるようになった時。
家から出られるようになった時。
あるいは、まだ何も変わっていなくても、自分自身を少しだけ受け入れられた時。
「ひきこもり」
「不登校」
「ニート」
「キャリア」
「個性」
そんな言葉が、その人を説明するためのものではなく、
「あの頃はそう呼ばれていたこともあったな」
と笑い話になる日が来ればいいと思う。
僕はこれからも、若者たちの人生を決めるためではなく、
若者たち自身が、自分の言葉で人生を語れるようになるために、
目の前の話に耳を傾けていきたい。
それが、僕にとっての若者支援であり、
「言葉にならないものを言葉にする仕事」なのだと思う。
人生は、言葉だけでは語れない。
だから僕は今日も、言葉にならないものに耳を澄ませながら、若者と向き合っている。