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コンビニ議員

    あらすじ

    地方都市で唯一のコンビニ店長兼市議会議員・七日市大地。
    空き地で遊べない子どもたち、誰も使わない市民農園、海岸清掃を続ける地域おこし協力隊。
    町の片隅に埋もれた小さな問題を見つけるたび、七日市はコンビニ店長として話を聞き、市議会議員として動き出す。
    少し変で、とびきりおせっかいな男が、人と人のつながりを取り戻していく人情コメディ。

    第一章 子どもっち

     七日市大地は壇上で右手をゆっくりと上げた。
     右手を斜めに立て、そこへ左手を斜めに添える。漢字の「人」に似ていた。少なくとも本人はそう思っている。
     議場が一瞬で静まった。市長は天井を見上げたまま動かない。議長は眼鏡を外し、布で丁寧に拭き始める。課長席の面々は揃って視線を落とし、新人職員だけが必死にペンを走らせていた。
    「……七日市議員」
     議長の声は少し乾いていた。
    「発言の趣旨を簡潔にお願いします」
     七日市は腕の角度を少しだけ直す。
    「人って、こういう形してるんですよね」
     誰も返事をしない。七日市は続けた。
    「支えてるんですよ」
     沈黙。議長は眼鏡を掛け直す。
    「何がですか」
    「人がです」
     七日市は両腕の形を崩さない。
    「一人じゃ立てないでしょう」
     市長が小さく息を吐いた。新人職員だけが、なぜか一生懸命メモを取っている。
     ぶるるるる。
     振動音が議場に響いた。全員の視線が一点に集まる。七日市のスマートフォンだった。画面にはこう表示されている。
    【セブンスマイル七日市店】
     七日市は議長を一瞥した。
    「すみません」
    「今ですか」
    「店からです」
    「今ですか」
    「今です」
     七日市は席を立った。
     誰も止めなかった。
     止めても無駄だと、全員が知っていた。

     廊下に出ると、七日市はすぐにスマートフォンを手に取った。
    「はい」
    「店長!」
     アルバイトの焦った声が飛び込んでくる。
    「レジ二番がフリーズしました!」
    「叩いたか」
    「叩きました!」
    「もう一回」
    「今ですか!?」
    「今だ」
     ガン、と鈍い音が電話越しに響いた。
    「動きました!」
    「よし」
    「これ直し方じゃないですよね!?」
    「動いたなら直し方だ」
     通話は切れる。七日市はスマートフォンをポケットへ戻し、何事もなかったように議場へ戻った。
    「人の話の続きなんですけど」
     議長は議事進行表を一枚めくり、静かに頷いた。
    「どうぞ」

     その夜、郊外の県道沿いにあるコンビニ、セブンスマイル七日市店では、レジ横の小さなテレビに市議会中継が流れていた。
     駐車場を照らす蛍光灯は少しくたびれた白さで、店内にもその光が滲んでいる。
     画面の中では七日市が例のポーズを取っていた。テレビ越しでも相変わらず変な形だった。
     レジに立っていたアルバイトの大学生が、商品を袋に詰めながらテレビへ目をやった。
    「店長……」
    「ん?」
    「その……ポーズ」
    「うん」
     大学生は少し言いづらそうに視線を泳がせたあと、
    「なんか、ちょっと……かっこいいですね」
     と言った。
     七日市はレジを打つ手を止めないまま、口元だけわずかに緩める。
    「かっこよ」
     ほとんど独り言のような声だった。
     大学生は思わず吹き出した。

     数日後の夕方、コンビニ前の屋根付きベンチでは、小学生が四人、並んでアイスをかじっていた。
     七日市は缶コーヒーを片手に外へ出る。
     その姿を見ると、四人は少しだけ座り直した。
     七日市は勝手に彼らを「子どもっち」と呼んでいる。
    「子どもっち」
     四人が顔を上げた。
    「今日、サッカーは?」
     しばらくの間、答えはない。
     アイスだけが静かに減っていく。
     やがて一人が小さく声を絞り出した。
    「怒られた」
    「誰に」
    「みんなに」
    「またか」
     七日市は缶コーヒーを口に運び、ゆっくりと一口飲んだ。
    「今度は誰だ」
     四人は顔を見合わせた。
     やがて一人が言った。
    「みんな」
     
     先週の夕方も、子どもたちは空き地でサッカーボールを追いかけていた。
     ゴールなんてない。ただ土の上をボールが転がり、誰かが蹴り、誰かが追いかける。転んだ子を見てみんなが笑い、その子もつられて笑う。そんな声が夕暮れの町に溶けていた。
     コンビニの前で品出しをしていた七日市は、段ボール箱を抱えたまま何となくその様子を眺めていた。
     ガラリ、と音がしたのはそのときだ。
     近くのアパートの二階で窓が開く。
    「うるさい!」
     怒鳴り声が降ってきた。
     子どもたちの動きが止まる。転がっていたボールも止まり、さっきまで響いていた笑い声だけが行き場を失ったように消えた。
     誰も言い返さない。
     一人が足元のボールを拾い上げた。それを合図にしたように、みんな歩き出す。さっきまであった笑い声は、もうなかった。
     七日市は品出しの手を止めたまま、その後ろ姿を見ていた。

     次に子どもたちが向かったのは公園だった。
     遊具もあるし広場もある。
     けれど草は膝の高さまで伸び、ボールを蹴ればすぐに見失いそうだった。
    「ここって、いいのかな」
     一人がつぶやく。誰も答えなかった。子どもたちはしばらく立ったまま、伸びた草を見ていた。

     また別の日、七日市は珍しく路線バスに乗っていた。
     後方の座席には、見覚えのある子どもたちが並んでいる。膝にはサッカーボールを抱え、いつもより少し遠くのグラウンドへ向かうらしかった。声はもともと大きくない。それでも何人かで顔を寄せ合い、試合の話なのか学校の話なのか、楽しそうに言葉を交わしている。
     車内にはベビーカーを押した母親がいて、買い物帰りらしい老人がいて、仕事帰りの会社員が眠そうに窓へもたれていた。
     そのとき、運転席の方から小さな音がした。
     舌打ちだったのかもしれない。
     気のせいだったのかもしれない。
     けれど子どもたちは顔を上げた。次の瞬間には会話が途切れ、それぞれが窓の外へ目を向けている。
     車窓には流れる田んぼと住宅街しかない。
     誰も何も言わない。
     さっきまで話していた子どもたちは、もう誰も話していなかった。

    「みんなだよ」
     目の前の子どもが言った。
    「大人、みんな」
     窓を開けた大人がいた。 
     見て見ぬふりをする大人もいた。
     舌打ちだけを残して目を逸らす大人もいた。
     そして、何も言わずにそこに立っていただけの自分もいた。
     七日市は返事をしなかった。

     店の横には小さな畑があった。木枠で囲まれ、雑草だけがのびのびと伸びている。古びた看板には『ふれあい市民農園』と書かれていた。七日市は、一度として人が耕す姿を見たことがない。
    「店長」
    「ん?」
    「あそこ、何の畑ですか」
     七日市は畑に視線を向けたまま少し考えた。
    「私もよく知らないな」
    「議員さんなのに?」
    「議員だからって全部知ってるわけじゃない」
    「そうなんですか」
    「むしろ知らないことの方が多い」
    「じゃあ議員って何するんですか」
    「聞く仕事だな」
     子どもたちは畑を見つめる。
     七日市も視線を合わせた。
     雑草だけが元気だった。
    「でも、誰かが作ったんですよね」
    「たぶんだな」
    「誰も使ってないのに?」
    「そうみたいだな」
     七日市は缶コーヒーを置き、畑を見つめる。
     何も育っていない。それなのに場所だけはきちんと確保されていた。
     子どもたちが座る場所よりも、ずっと広い。
     七日市は腕を組んだ。
    「なるほどな」
     子どもたちが顔を上げる。
     七日市はスマートフォンを取り出した。
    「ちょっと聞いてみるか」
    「何をですか」
    「この畑、本当に必要なのか」
     七日市はそう言って発信ボタンを押した。
     コール音が二回、三回とつづき、やがて応答が入る。
    「公園緑地課です」
    「七日市です」
    「議員の方でいらっしゃいますか」
    「コンビニやってる方です」
    「……ご用件は」
    「店の横の市民農園についてです」
    「はい」
    「誰が使っているんですか」
    「確認いたします。少々お待ちください」
     保留音が流れる。
     風の音がはっきり聞こえる。
     しばらくして、声が戻った。
    「現在、利用者はいません」
     七日市は畑を見る。
    「そうですか」
    「何か問題でしょうか」
    「いや」
     七日市は電話を切った。
    「店長?」
    「ん?」
    「怒られないの?」
    「多分な」
    「じゃあ、やめた方がいいよ」
     七日市は少しだけ笑った。
    「そうか」
     スマートフォンをポケットにしまい、再び雑草を見やる。
    「でも、議会で聞く」
    「何を?」
    「何で誰も使わない畑の方が広いのか」
     子どもたちは首をかしげた。
     夕暮れの風が畑を揺らす。
     七日市だけが、少し笑っていた。

    第二章 もったいない


     定例会本会議。
     七日市大地は質問席に立っていた。今日はあの変なポーズを取らずに済んでいる。それだけで課長の額のしわが少しだけ緩んだようだった。
    「七日市議員」
    「はい」
    「今日は普通に進めていただけますか」
    「努力します」
     しかし議長の眉は、少し下がったままだった。七日市は手元の資料を一枚めくる。
    「市民農園について伺います」
     担当課長の背筋がピンと伸びた。
    「現在、市内の市民農園の利用状況ですが」
    「はい」
    「店の横の農園、利用者ゼロということでよろしいですか」
     課長の声が少し張り詰めた。
    「はい。現在の利用者はおりません」
    「ゼロ」
    「ゼロです」
    「一人も」
    「一人もおりません」
     七日市は軽くうなずいた。
    「確認できました」
     議場に小さな安堵が広がる。今日の質問はこれで終わるのか、と思ったその瞬間、七日市は次の紙を持ち上げる。
    「では次です」
     課長の肩が再びこわばった。
    「市内の公園のうち、子どもがボール遊びできる公園は何か所ありますか」
     議場は静まり返った。資料をめくる音だけが響く。一枚、二枚、三枚、ない。市長も、隣の部長も、議長も当然ながら答えが見つからない。
    「……確認します」
     課長が小声でそう言い、資料を必死にめくり続けた。
     七日市は静かに待った。
     やがて課長が弱々しく答える。
    「正確には把握しておりません」
     課長の答弁に、議場の空気が少し重くなった。
     七日市は責めるでもなく、「そうですか」とだけ答えた。それだけなのに、なぜだか居心地が悪い。
    「では次です」
    「先週、公園へ行きました」
    「草が膝まで伸びていました」
    「あれは利用可能な公園として数えていますか」
    「ちなみに課長」
     七日市がマイクに顔を寄せる。
    「はい」
    「市内の子どもの人数は把握していますか」
    「把握しております」
    「よかった」
     七日市はほっとした顔をした。思わず安心した笑みさえこぼれる。
    「つまり公園はある。でも使える状態ではない。そして農園は使われていない」
     七日市は首をかしげた。
    「子どもがいて、農園は空いてて、遊び場は分からない……何だか、もったいない気がするんですよね」
     議場には、小さな笑いと、ため息が混ざった静けさが漂った。
     七日市は満足そうにうなずき、資料を閉じた。
     そこで何かに気づく。
    「あ」
    「どうしました」
    「からあげ二十円引きのクーポン提出してました」
     議長は目を閉じた。
    「後で回収してください」
    「はい」
     七日市は素直にうなずく。
    「以上です」
     七日市は席へ戻った。
     名案を示したわけでも、誰かを追求したわけでもない。ただ、「もったいない気がするんですよね」と言っただけだ。
     市長は腕を組んだまま、天井を見上げている。課長は手元の資料へ目を落としている。議長は何か言いたそうな顔をしていたが、結局何も言わなかった。
     七日市はそんな空気に気づいているのかいないのか、のんびりと資料を鞄へしまっている。質問を終えたつもりで、本人はもう半分片付いた気でいるらしかった。
     後方の職員席で、新人職員の森本はその様子を見つめていた。
     子どもがいて、農園は空いている。
     七日市の言葉は、それだけだった。だが森本の頭の中では、妙につながってしまった。農園が空いているなら、期間限定で子ども広場にできないだろうか。そんな考えが浮かび、慌ててメモ帳に書き留める。
    「農園→子ども広場?」
     新人の思いつきだった。それもかなり雑な思いつきだった。その時は本人もまだ、大して気にしていなかった。
     後になって振り返れば、それが町を少しだけ動かした最初の日だった。

    第三章 子ども広場


     セブンスマイル七日市店では、レジ横の小さなテレビに市議会中継の録画が映し出されていた。その画面をつけたのは、アルバイトの大学生だった。いつものニュース番組の時間を間違えたまま、リモコンを押し、消すのも面倒でそのままにしていたのだ。
     大学生が品出しの手を止め、画面を見上げる。
    「店長が出てるぞ」
     その声に反応して、レジ前でアイスを食べていた子どもたちも振り返った。
    「何の話?」
    「よく分からないけど、たぶん面倒な話じゃない?」
     その答えに全員がうなずく。
     七日市が議会で話していることは、大抵の場合、子どもたちには難しい話だった。
     税金、条例、予算。聞いたところでよく分からない言葉ばかりが並ぶ。だから最初は誰も真面目に見ていなかった。
     一方で、店の窓際にあるイートイン席では、いつもの老人たちがコーヒー片手に画面を眺めていた。
    「また七日市か」
    「最近よう出るな」
    「店にいるより議会にいる時間の方が長いんじゃないか」
     そんなことを言いながらも、誰も席を立とうとはしない。文句を言う時ほど、ちゃんと見ているのである。
     やがてテレビの音声が店内に流れ続けるうちに、一人の子どもがふと顔を上げた。
    「なあ」
    「ん?」
    「それ、俺たちのことじゃね?」
     画面の中では七日市が質問を続けている。
     子どもがボールを蹴れる場所。
     安心して遊べる空き地。
     使われていない市民農園の活用。
     聞こえてくる言葉に、子どもたちは少しずつ口数を失っていった。
     手に持ったアイスは溶け始めている。それでも誰もかじろうとしない。ただ、テレビを見つめていた。窓際の老人たちも、いつの間にか冗談をやめている。
    「……あそこか」
     一人がぽつりとつぶやいた。
    「市民農園の話だな」
     誰かが小さくうなずく。
    「あそこ、昔はよう使われとったんだがな」
     老人の一人がそう言った。
     子どもたちはその意味を知らない。
     けれど老人たちは、少しだけ懐かしそうな顔をしていた。

     月曜日の朝だった。
     森本は出勤すると、コーヒーを一口だけ飲み、すぐにパソコンを立ち上げた。そして最初に開いたのは、市民農園に関する条例集だった。
    「何してるの?」
     隣の席の先輩が、モニターをのぞき込みながら尋ねる。
    「農園です」
    「まだやるのか」
    「課長命令です」
    「大変だな」
     先輩は肩をすくめ、椅子をわずかに揺らした。森本は苦笑だけ返し、視線を画面に戻した。文字の列は淡々としている。感情も意図も持たないまま、ただ制度だけが積み重なっていた。
     条例を読む。
     関連規則を読む。
     運用要綱を読む。
     どれも同じ言葉を別の角度から言い直しているだけに見えた。
     気づけばまぶたが重くなる。森本は一度席を立ってコーヒーを淹れ直した。湯気の向こうで意識を引き戻しながら、もう一度画面に向かう。それでも眠気は、静かに戻ってくる。三時間ほど過ぎた頃だった。
    「あ」
     思わず声が漏れた。
    「どうした?」
     先輩が椅子を少し回して振り向く。
     森本は画面を指差したまま、しばらく言葉を選んでいた。条文の一行が、さっきまでとは違って見えている。禁止でも許可でもない余白。運用の隙間というより、最初から空けていたような空白だった。
    「……これ」
     森本はゆっくり息を吐いた。
    「できるかもしれません」
     それからの数時間は早かった。関連資料を集め、必要な手続きを整理し、思いつきを企画書の形へ落とし込んでいく。昼過ぎには簡単な企画書になっていた。
      
     森本はまとめ上げた資料を抱え、課長室の前に立っていた。一度だけ呼吸を整え、ノックする。
    「失礼します」
     中では課長が書類をめくっていた。
     森本は机の前に進み、資料をそっと置いた。
    【遊休市民農園活用案】
     課長の視線が紙に落ちる。
     一枚、もう一枚。ページがめくられるたびに、室内の空気が少しずつ重くなっていく。やがて課長はメガネを外し、指で軽くこめかみを押さえた。
    「……できるのか、これ」
     森本は資料を握り直した。
    「制度上は可能です」
    「予算は?」
    「ほとんど必要ありません」
    「草刈りは?」
    「どのみち管理のために実施します」
     再び沈黙が落ちた。課長は資料を見つめたまま動かない。反対する理由は思いつかなかった。森本が見つけたのは、制度の隙間というより、誰も見ていなかった空白だった。
     課長は腕を組み、しばらく考え込んだ。やがて机に資料を置き直し、軽く息を吐いた。
    「試験的にやってみるか」
     森本は顔を上げた。
    「本当ですか」
    「ただしだ」
    「はい」
    「公園緑地課と調整しろ」
    「はい」
    「法務にも確認しろ」
    「はい」
    「事故が起きた時の責任整理もしろ」
    「はい」
    「それ全部クリアできたらやる」
     森本は一瞬だけ固まった。
    「今、やらない方が楽だと思っただろ」
    「少しだけ」
    「正直でよろしい」
     課長の口元がわずかに緩む。それを見て、森本もようやく肩の力を抜いた。

     それから数週間後、店の隣にある市民農園から雑草が消えた。区画を囲っていた木枠はそのまま残されている。変わったのは、入り口に立てられた看板だけだった。
    【期間限定 子ども広場】
     午後になると、そこへ子どもたちが集まり始めた。サッカーボールが転がる。鬼ごっこをする声が響く。笑い声が風に乗る。そして何より、誰も怒らなかった。
     そのすぐ向こうでは、公園の草刈りも始まっていた。草刈機の音が午後の空気を震わせる。
    子どもたちは誰も気にしていない。けれど大人たちは知っていた。あの議会の後からだということを。
    「店長!」
     振り返ると、子どもたちが四人ともこちらを見ていた。七日市は店先のベンチで缶コーヒーを飲んでいた。
    「今日、追い出されなかったよ」
     七日市は広場を見た。
    「そうか」
    「うん」
    「店長が何かしてくれたの?」
    「さあ」
    「本当?」
    「本当に知らない」
    「議員なのに?」
    「議員だからって全部知ってるわけじゃない」
    「ふーん」
     子どもたちは顔を見合わせた。
      
     夕暮れになると、オレンジ色の光が広場を包み込み、子どもたちは最後の一試合とばかりにボールを追いかけていた。
     広場の隅に置かれたベンチに、七日市は腰を下ろしている。
     息を整える子どもたちの声と、ボールが地面を跳ねる音だけが、ゆっくり辺りを満たしていた。
    「店長ー!」
     少し離れたところから、子どもたちが叫んだ。
    「ん?」
    「ありがとうー!」
     子どもたちが笑いながら手を振る。七日市は手を上げて応えた。それから誰に聞かせるだけでもなく、小さくつぶやく。
    「私は聞いただけだ」
     そう言って缶コーヒーを口に運んだ。
     子どもたちはもう次のボールを追いかけていた。
     広場の端では、コンビニの常連たちがベンチに腰掛け、その様子を眺めていた。いつもの老人たちだった。誰も何も言わない。ただ、子どもたちの声だけが広場に響いていた。
     夕暮れの風が広場を抜けていく。
     後に、この場所は「子どもっち広場」と呼ばれるようになる。誰が名付けたのかは分からない。けれど子どもたちは、もう遊ぶ場所を探して歩かなくなっていた。
     そして七日市のところには、また新しい「聞いてほしいこと」がやって来る。
     たぶん、明日も。

    第四章 塩キャラメル


     春が終わりに近づいていた。
     午後の陽射しを受けたセブンスマイル七日市店の駐車場に、見慣れない白い軽バンが停まっている。
     車体の側面には大きくこう書かれていた。
     ーー地域おこし協力隊。
     搬入口から出てきた大学生アルバイトが、その文字を見上げながら首をかしげる。
    「何ですかね、あの車」
     レジ横のイートイン席で新聞を広げていた老人が、老眼鏡の上から視線を向けた。
    「協力隊だな」
    「また来たんですか?」
    「入れ替わりだろ」
     隣で紙コップのお茶を飲んでいた別の老人が言う。
    「前にもおったよ」
    「続かんかったなあ」
    「三年で帰る」
    「誰も定住せん」
     理由を説明する者はいない。
     ただ、その事実だけが積み重なっていた。
     続かない。それだけだった。
     そして誰も、それを不思議なことだとは思っていなかった。

     自動ドアが開いた。
     入ってきたのは二十代半ばほどの青年だった。日に焼けた顔に大きなリュック。疲れを隠しきれていない目が印象的だった。
     棚からおにぎりを二つ取り、冷蔵ケースから麦茶を一本選ぶ。会計を済ませると、青年は窓際の席へ向かった。その向かいには、肉まんを食べている七日市がいる。コンビニ店長であり市議会議員でもある男だ。
    「こんにちは」
     青年が会釈する。
    「こんにちは」
     七日市も肉まんを持ったまま会釈を返した。
     数秒の沈黙のあと、待っていましたと言わんばかりに老人たちが割り込んでくる。
    「お兄ちゃん、協力隊の人か」
    「はい。白石といいます」
    「何の担当なんだ」
    「海岸です」
     その答えに七日市が反応した。
    「海岸担当ですか。それは大変ですね」
     白石は苦笑する。
    「まあ、それなりに」
    「最近はどんなことをやってるんですか」
     白石は指を折りながら説明した。
    「海岸清掃もありますし、学校への出前授業もあります。SNSで情報発信したり、特産品のイベントを手伝ったりもします」
    「浜辺さんの塩ですか?」
     七日市が聞き返す。
    「はい」
     その一言に、老人たちが一斉にうなずいた。
    「浜辺さんとこの塩な」
    「うまいぞ」
    「魚にかけるとうまい」
    「かけ過ぎると血圧も上がる」
    「それは自業自得だろ」
     店内に笑いが起きる。白石もつられて笑い、少し肩の力を抜く。
    「イベントに出すと評判はいいんです。でも毎日買うものでもないですから」
     そう言って、一度目を伏せ、それから顔を上げた。
    「だから別の商品にできないか考えていて、試しに作ったのが塩キャラメルなんです」
     するとレジ横で話を聞いていた大学生アルバイトが勢いよく振り返った。
    「あれ、めちゃくちゃうまかったです」
    「え?」
    「この前イベントでもらいました。普通に売ってたら買います」
     白石は目を丸くした。
    「本当に?」
    「はい。塩だけより分かりやすいですし。なんかクセになる味でした。どこで売ってるんですか?」
    「売ってないんです」
     白石は困ったように笑う。
    「試作品なので」
    「もったいないなあ」
     大学生が本気で残念そうに言う。白石は何も答えなかったが、その表情には考え込むような色が浮かんでいた。七日市はそんな様子を眺めながら、肉まんをひと口かじり、ふと思いついたように言った。
    「評判はいいんですよね」
    「えっ」
    「塩も」
     七日市は抹茶ラテに口をつける。
    「海岸清掃も」
     白石は思わず笑った。
    「そうなんです」
     その一言には、説明しきれないもどかしさが滲んでいた。
    「人は集まるんですよ。百人くらい来ることもあります。終わるときれいになる。みんな達成感もある。ーーでも」
     そこで言葉は途切れる。
    「次に行くと元通りです」
     しばらく黙っていた新聞の老人が、ゆっくりと紙面をたたんだ。
    「白石さん」
    「はい」
    「わしも昔やったぞ」
    「海岸清掃ですか」
    「二十年くらい前にな」
    「わしも」
    「わしもだ」
     次々に手が上がる。
     白石は驚いた。
    「そんな前から?」
    「何回もやった」
    「今でもやっとる」
     そして誰かがぽつりと言った。
    「でも減らん」
     その言葉は、静かに店内へ落ちた。
     白石は返す言葉を失う。
     二十年前も、十年前も、今も。みんなやってきたのだ。
     七日市は抹茶ラテを一口飲み、それから静かに言った。
    「何年やっても終わらないんですよね」
     七日市はテーブルにカップを置いて窓の外を見た。白石の目が揺れた。まさに自分が感じていた違和感だった。白石も窓の外へ目を向ける。夕日に照らされた協力隊の軽バンが、赤く染まっている。しばらく誰も口を開かなかった。店内には冷蔵ケースの低い騒動音だけが響いている。やがて七日市が抹茶ラテのカップを指先で回しながら、ぽつりと言った。
    「不思議ですよね」
    「え?」
     白石が顔を上げた。
    「人もいる。協力もある。やる気もある」
     七日市は小さく息を吐いた。
    「なのに変わらない」
    「何が足りないんでしょう?」
     白石が尋ねると、七日市は少し考えて、あっさり首を振った。
    「分かりません」
    「え?」
    「僕も今考えたばっかりなので」
     あまりにも迷いのない即答に、老人たちが吹き出した。
    「議員がそれでいいのか」
    「ちゃんと考えています!」
     七日市は勢いよく立ち上がる。そして反射的に議会でおなじみの決めポーズをとった。老人たちの顔が一斉にしかめられる。
    「店内でやるな!」
     見事な総ツッコミだった。店内に笑い声が広がる。白石も思わず吹き出した。肩の力が抜けるのを感じる。この町に来てから何度も人と話してきたが、こんなふうに笑ったのは初めてだった。
     
     コンビニを出たあと、白石は海岸に立っていた。波は穏やかに寄せては返し、先週の清掃活動のおかげで砂浜もきれいな状態を保っている。見た目だけなら成果は確かにあった。けれど、来月になればまた清掃活動が行われるだろうし、おそらく来年も、その先も同じことが続いていくのだろう。
     海を見ながら白石は考えていた。ごみを減らす方法ではない。どうすれば続けられるのか。そのことばかりが頭の中を巡っていた。
     ふと昼間の会話がよみがえる。この土地の塩。試作品の塩キャラメル。そして大学生の「普通に売ってたら買いますよ」という言葉。
     老人たちの笑い声まで、不思議と耳に残っていた。それらが海岸の問題とどう結びつくのか、自分でもまだ分からない。けれど胸のどこかに小さな引っかかりがあった。
     「でも減らん」
     老人の言葉が波音の向こうから聞こえる気がした。
     白石は海を見つめ続けた。

     その夜、七日市は閉店後のレジ横で発注メモを書いていた。
     肉まん。レジロール。コピー用紙。
     いつもの発注項目を並べたあと、七日市は少しだけペンを止める。そして考え込むように視線を落とし、最後にもう一行だけ書き加えた。
     ーー続かない。
     書き終えると、その文字をしばらく見つめる。
    「始めるより難しいんだよな」
     誰に聞かせるでもなくつぶやいた声は、静かな店内に小さく溶けていった。
     店の外では潮風が吹いている。
     同じ頃、アパートの天井を見つめながら、白石もまた眠れずにいた。
     続けるには、何が足りないのだろう。
     昼間の会話が何度も頭の中を巡る。
     まだ答えは見えていなかった。

    第五章 残る理由


     セブンスマイル七日市店の窓際には、見慣れない顔ぶれが並んでいた。
     地域おこし協力隊の白石、商工会の職員、信用金庫の融資担当、市役所の商工担当。そして七日市。
     大学生アルバイトはレジから何度も振り返る。
    「なんか今日は、市役所率高くないですか」
    「そうだな」
     七日市はカレーパンをかじりながら答えた。呼んだ本人なのに、特に仕切る様子もない。
     
    「塩の話でしたよね」
     最初に商工会が確認するように言った。
     白石がうなずく。
    「はい。塩キャラメルです」
     言いながら、少しだけ居心地が悪くなる。海岸清掃から始まった話は、いつの間にか商品企画になっていた。
    「売れているんですか」
     信用金庫の担当が尋ねる。
    「いえ、まだ販売はしていません。イベントで出した程度です」
    「なるほど」
     否定も肯定もしないまま、担当者はメモを取った。
    「製造は決まっているんですか」
     市役所職員が続ける。
    「委託先はあります。製造もパッケージも可能です。ただー」
     白石はいいきれなかった。
    「資金がありません」
     その言葉に空気が一度止まる。
     七日市が初めて顔を上げた。
    「いくらですか」
    「え?」
     白石は聞き返した。
    「始めるのに、いくら必要なんですか」
     沈黙が落ちる。
     白石は考えたことがなかった。補助金、協力隊予算、イベント予算。それらをどう組み合わせるかばかり考えていた。
    「分かりません」
     正直に答えた。
    「計算してません」
    「そうですか」
     七日市は小さくうなずいた。それ以上は何も言わない。代わりに商工会の職員が口を開く。
    「まずそこですね。事業計画が必要です」
    「売上、原価、製造費、販路、利益。まず数字です」
     白石は黙った。それまでの話が、急に現実の形を帯び始める。信用金庫の担当も続ける。
    「事業として成立するなら融資は可能です。補助金もあります。創業支援もありますよ」
     大学生アルバイトが不思議そうに言った。
    「そんなのあるなら、みんなやりそうですけどね」
     一瞬、誰も答えなかった。ややあって、老人がぽつりと言う。
    「入口が見えんからだろ」
    「入口?」
    「誰に聞けばいいかも分からんのよ」
     その言葉に、店内が少しだけ緩む。笑いが起きかけて止まる。
     その時、七日市が言った。
    「入口はあるんですよ」
    「え?」
    「商工会もいる、銀行もいる、市役所もいる。でも今日まで繋がってなかった」
     少し間を置く。
    「海岸清掃も同じです」
    「海岸清掃もですか?」
     白石が聞き返す。
     七日市はカレーパンを置いた。
    「人はいるんですよ」
    「え?」
    「みんな頑張っているんです。でも会わないんです」
     誰も何も言わなかった。
    「繋がっていないってことですか」
     白石が聞くと、七日市は肩をすくめた。
    「たぶん。別に難しい話じゃないと思うんですけどね」
     七日市は小さく息を吐いた。
    「一人で全部やろうとするから疲れるんです」
     白石は何も言わなかった。七日市は残りのカレーパンを口に入れ、飲み込んでから続けた。
    「今日だってそうでしょう」
    「白石さん一人だったら、ここまで話進んでません」
    「特別なことはしてません」
    「同じ席に座ってもらっただけです」
     白石は言葉を返せなかった。
     今まで海を見ていた。
     ごみを見ていた。
     問題ばかり見ていた。
     でも見ていなかったものがある気がした。
    「なるほどな」
     老人がうなずいた。
    「わしも田んぼで毎年疲れとる」
    「それは毎年ですね」
    「毎年だ」
     店内に小さな笑いが広がった。七日市は空になったカレーパンの袋を指先で丸める。
    「始めることより、続けることの方が難しいですから」
     誰も反論しなかった。白石は窓の外を見た。足りなかったのは、何か特別なものではなかった。それぞれが、ただ別の場所に立っていただけだった。
     
     帰り際、名刺が次々と手渡される。
     商工会、市役所、信用金庫。白石の手の中に紙が重なっていく。
    「重いですね」
     思わず口から出た。
    「紙なのに」
     七日市が言う。
    「それ、紙じゃないですよ」
     白石が顔を上げる。
    「商工会、市役所、信用金庫。別々にいたらただの名刺です」
     七日市は言った。
    「繋がると仕事になります」
     白石は手の中の名刺を見る。
     ずっと探していたものが、紙三枚の形をしてそこにあった。
     
     その夜、七日市は事務机で、売上日報に数字を打ち込んでいた。冷めたコーヒーをひと口飲んだあと、机に肘をついてぼんやり天井を見た。
     三年後、白石はここにいるだろうか。それとも、これまでの協力隊と同じようにこの町を去るのだろうか。
     七日市は机の脇に置いてあったメモ帳を引き寄せた。
     そして一行だけ書き足した。
     ーー残る理由。
     レジの奥から声がする。
    「店長ー!」
    「はい」
    「肉まん発注しときます?」
     七日市は顔を上げた。
    「あ」
     忘れていた。一番上に書いてある。肉まん。
     七日市は思わず笑った。
    「まずは肉まんですね」

    第六章 ごみ拾いが菓子になった日


     夏の気配は、気づかないうちに店の中まで入り込んでいた。
     セブンスマイル七日市店のレジ横に、いつの間にか小さな棚が増えている。新品の木の匂いがまだ少し残るその棚には、手書きの札が立っていた。
    【浜辺の塩キャラメル】
     その文字を書いたのは大学生のアルバイトだった。書き終えたあと、「なんか本当に売り物っぽくなりましたね」と笑っていたのを白石は覚えている。
     信用金庫が事業計画をまとめ、商工会が販路を探し、白石はというと海岸と工房と店舗を行ったり来たりして、気がつけば一日の半分以上を移動に使っていた。
     そんな慌ただしさの中で、白石は工房での最後の試作の日を思い出していた。
     工房の片隅。まだ塩の匂いが乾ききらない空気の中で、大学生アルバイトがキャラメルを口に入れながら首をかしげた。
    「何が違うんですか、これ」
     白石は少し間を置いてから答えた。
    「しょっぱ過ぎないことです」
    「塩なのに?」
    「塩だからです」
     そのやり取りのすぐ横で、塩職人の浜辺が小さく吹き出した。
    「塩を主張しすぎると、一回で終わるんですわ」
    「一回で?」
    「ええ。うまいとは言われる。でもそれっきりになる」
     浜辺は試作品をひとつつまみ上げ、光にかざすようにして眺めた。
    「この塩はな」
     指先の粒を見ながら、ゆっくり続ける。
    「角がないんです」
    「角?」
    「刺さらん塩です。舌に当たっても、喧嘩せん」
     大学生はますます分からないという顔になる。白石も正直、最初は同じだった。ただ浜辺は構わず続けた。
    「海の味はする。でも前に出過ぎん。ミネラルを抱えたまま、ちゃんと丸くなっとる」
     白石は一口食べた。
     甘さのあとに、ほんのわずかだけ塩が追いかけてくる。強く主張するわけでもないのに、なぜか残る。消えたふりをして、まだそこにいるような気配だった。
    「……海の気配がしますね」
     白石がそう言うと、浜辺は満足そうにうなずいた。
    「それでいいんですわ。海を食わせたいわけじゃない」
     少し間を置いて、笑いながら付け足す。
    「もう一個食べたくさせたいだけだ」
     
     セブンスマイル七日市店の店長・七日市は、いつも通り何もしていないような顔で肉まんを食べていた。
    「店長」
     白石は店長の真向かいに腰を下ろした。
    「はい」
    「少しずつですけど、順調に売れてますよ」
    「そうですか」
     七日市は肉まんをひと口かじった。
    「明日のPRイベントも手伝っていただけるって話で」
    「ええ、まあ」
    「……店長、ほんとに興味あります?」
     大学生アルバイトが小声で言うと、七日市はようやく顔を上げた。
    「興味があるのか、ないのか。どっちがいいんですか」
    「興味あるって言えばいいのに」
     店内に小さな笑いが起きた。
     そこへ、放課後帰りの子どもたちがなだれ込むように店に入ってきた。
    「なにこれ」
    「塩キャラメルだって」
    「うまそうじゃん」
     ひとりが遠慮なくつまむ。次の瞬間、目を丸くした。
    「うまっ!」
    「海の味する?」
    「分かんないけど、うまい!」
     その“分かんないけどうまい”が妙に説得力を持って、連鎖のように広がっていく。
     しばらくして、ひとりがぽつりと言った。
    「これさ、塩キャラメルチップスとか良くね?」
     一瞬、店内が静かになった。
     白石が顔を上げる。
    「チップス?」
    「ポテトチップスにしたら絶対うまい」
    「それは……うまいな」
    「絶対うまい」
    「すぐ売れる」
     誰も作っていないのに、全員が完成形を確信していた。
     白石は慌ててメモ帳を開く。まだ商品名も増えていないのに、派生だけがどんどん増殖していく。店内には、妙な熱気と笑いが広がっていた。七日市はそれを眺めながら、変わらず抹茶ラテを飲んでいる。
    「他に何かある?」
     白石が聞くと、今度は別の声が飛んだ。
    「塩キャラメルアイス」
    「いいな」
    「塩キャラメルパン」
    「それもいい」
     大学生アルバイトが、ふと七日市を指さした。
    「店長、いつも抹茶ラテ飲んでますよね」
    「そうですね」
    「塩キャラメルラテとかどうですか」
     その瞬間、店内の空気が少しだけ止まった。
    「ふむ。飲みますね」
     白石はすかさずメモに書き込んだ。
     塩キャラメルラテ。採用候補。
     その後もしばらく、店内は収拾のつかないアイデアの渦の中にあった。
     会議でも企画書でもなく、ただの雑談と笑いの中から、次の形が生まれていく。
     白石はその様子を見ながら、妙な確信を持ちはじめていた。
     この町では、正しさより先に、面白さが動き出すのだと。
     そしてどうやら自分は、しばらくこの町から離れられそうにないらしい、とも。

     夕方になると、小学生たちはコンビニを出て、近くの子ども広場へ走っていった。ボールを追いかける声が遠くに響く。
     店内は再び落ち着きを取り戻し、窓の外では夕日がゆっくりと傾きはじめていた。
     そこへ、常連の老人のひとりが紙コップを差し出す。
    「白石さん、お疲れさん」
    「ありがとうございます」
     軽く頭を下げて受け取る白石に、老人は続けた。
    「浜辺さんとこ、最近忙しくなったらしいな」
    「ええ、そうですね」
    「若いのが入ると違うもんだな」
     周囲の老人たちも、うんうんと頷く。
     白石は少し笑って言った。
    「海岸清掃のほうも、少し形が変わりそうです」
    「どう変わるんだ?」
    「今年から一部を地元の事業者さんにお願いすることになっていて」
    「お金は出るのか?」
     その問いに、白石はレジ横の棚へ視線を向けた。
    【浜辺の塩キャラメル】
    「そこです」
     老人のひとりが小さく声を漏らした。
    「なるほどな……ごみ拾いが菓子になったか」
    「そう聞くと、ちょっと変ですね」
     白石は笑う。
    「海岸が仕事になったんです」
     老人たちは黙って棚を見ていた。
     小さな袋が、まるで当たり前のように並んでいる。最初は海をきれいにしたかった。けれど今は少し違う。その光景を見ながら、白石は少しだけ笑った。
    「じゃあ俺でも、何かできますかね」
     大学生アルバイトがぽつりと言った。
    「できますよ。一人だとちょっと難しいですけど」
    「おっ、言うようになったな」
     老人のひとりが笑う。
    「その前に勉強しなさい」
    「急に厳しいですね」
     店内に笑いが広がった。白石もつられて笑う。
     気づけば、誰もが次の話をしていた。塩キャラメルの次の話。町の次の話。そしてまだ誰も気づいていない困りごとの話へと。
     七日市だけは、変わらず静かに抹茶ラテを飲んでいる。
    「店長は、何かないんですか」
     大学生が尋ねると、七日市は少しだけ耳を澄ました。遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
    「ありますよ」
    「え、何ですか」
    「困りごとが」
    「早いな」
     老人が笑う。
    「今度は何です?」
     七日市は抹茶ラテに口をつけることもなく、そのまま答えた。
    「まだ分かりません」
    「またそれか」
     誰かがそう言って、店内に笑いが広がる。
     その時、レジ横のコピー機が「ガガガッ」と音を立てて止まった。店内が一瞬静かになる。
    「あっ、困りごとってこれですか?」
     大学生アルバイトが指さす。
    「はい。どうやらこれです」
     七日市は即答した。老人たちが吹き出す。
     七日市はコピー機の前へ向かいながら首をかしげる。
    「そういえば来週、防災訓練だったな」
     老人の誰かがぽつりと言った。
    「ああ、そんな時期か」
     別の老人が答える。
     七日市はコピー機を叩きながら振り返った。
    「まずはこっちを救助します」
     店内に再び笑いが広がった。

     

     

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