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未来は日常になる ~クルミの木の下から~

    あらすじ


     東京の都市開発会社で働く佐藤エミリーは、シンガポールの大規模再開発計画を任される。
     現地チームのインフラ統括責任者として現れたのは、キム・ヒョヌ。
     その名前は、アメリカで過ごした子ども時代の記憶を呼び覚ました。
     クルミの木の下のバス停。
     黄色いスクールバス。
     そして、一羽の赤い鳥。
     再会した二人は、「人が集う場所とは何か」という問いに向き合いながら、一つの街をつくり上げていく。
     これは、過去の約束と未来の日常をつなぐ物語。

    第一部 東京 

    第一章 名前


     東京は雨だった。
     夕方から降り続く雨が、高層ビルの窓を細かく叩いている。
     丸の内に本社を構える東亜グローバル開発。
     その三十八階にある大会議室では、
     シンガポール都市再開発計画に関する準備会議がようやく終了したところだった。
     プロジェクターの電源が落ちる。
     日本語と英語が入り混じっていた緊張感のある空気が、ゆっくり解けていく。
     席を立った社員たちは、それぞれのノートパソコンや資料を抱えながら会議室を後にした。
     佐藤エミリーも立ちあがろうとした時だった。
    「佐藤」
     低い声に呼び止められる。
    「はい」
     都市開発本部長の高橋が、資料を閉じながら言った。
    「今回のシンガポール案件、君に任せる」
     一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
    「……私ですか?」
    「ああ」
     本部長はまっすぐエミリーを見る。
    「アメリカ育ちだったな」
    「はい」
    「向こうのプロジェクトチームとの調整も含めて、君が適任だ」
     エミリーは息を呑んだ。
     この再開発計画は東亜グローバル開発が近年手がける案件の中でも最大規模だった。
     シンガポール・マリーナ地区の再整備。
     オフィス、商業施設、住宅、交通網を一体で整備する国家規模の都市開発だった。
     成功すれば会社の未来を左右する。
     失敗すればーー。
    「シンガポールは移民国家だ」
    「文化も価値観も違う人間が同じ街で暮らしている」
    「日本だけ見てきた人間より、君の方が見えるものがある」
     エミリーは答えられなかった。
     期待されていることは分かる。
     だが、それ以上に不安が大きかった。
     自分に務まるのだろうか。
     そんな思いが胸の奥で静かに膨らんでいく。
     本部長は椅子から立ち上がった。
    「簡単な案件じゃない」
    「だが、最後は結果を出してほしい」
     そして少しだけ間を置いた。
    「だから任せる」
     その言葉には命令ではなく、信頼が込められていた。
    「……はい」
     エミリーは小さくうなずいた。

     会議室を出ると、廊下の窓越しに夜の東京が見えた。
     無数の光が雨ににじんでいる。
    「お疲れ様」
     声をかけると、壁際に立っていた女性が振り向いた。
    「エミリー」
     加藤遥(はるか)だった。
     彼女は両腕いっぱいに資料を抱えていた。
    「まだ帰れそうにない?」
    「見ての通り」
     遥は肩をすくめる。
    「今日も残業?」
    「うん」
    「本部長秘書って大変だね。毎日毎日、体壊すよ」
    「それ、エミリーにだけは言われたくない」
     一瞬の沈黙のあと、二人は同時に笑った。
     入社式の日、偶然隣の席だった。
     それ以来の付き合いだ。
     今では本部長秘書として役員フロアを走り回っている。
    「また連絡する」
    「うん、無理しないでね」
    「お互いさま」
     そう言って手を振り、二人は別れた。

     雨はさらに強くなっていた。
     残っている仕事はあったが、今日は自宅で続きをやることにした。
     マンションへ戻った頃には午後九時四十分を過ぎていた。
     ドアを閉める。
     静寂が広がる。
     ヒールを脱ぎ、バッグをソファへ置く。
     部屋の中はひどく静かだった。
     一人暮らしを始めて何年も経つ。
     慣れているはずなのに、疲れている日は妙に広く感じる。
     夕食の時間はとっくに過ぎていた。
     冷蔵庫を開ける。
     買い置きのサラダ。
     ヨーグルト。
     しばらく眺めてから扉を閉めた。
     空腹なのかどうか、自分でもよく分からない。
     食べる気力がなかった。
     エミリーはダイニングテーブルにノートパソコンを置いた。
     シンガポール案件の資料を開く。
     何度も資料を見直す。
     数字を確認する。
     ページを戻る。
     もう一度確認する。
     さらに見直す。
     数分後、同じ表を三回続けて見ていたことに気づいた。
     内容が頭に入ってこない。
     指先でこめかみを押さえる。
     疲れている。
     部長の言葉が頭から離れない。
    「だから任せる」
     本当に私でいいのだろうか。
     もし失敗したら。
     もし結果が出せなかったら。
     思わずそんな考えが頭をよぎる。
     時計を見ると午前零時十二分だった。
     そういえば夕食を食べてない。
     昼もサンドイッチを半分残したままだった。
     けれど不思議と腹は減らなかった。
     眠いはずなのに、ベッドへ向かう気にはなれない。
     エミリーはコーヒーを淹れた。
     湯気が静かに立ち上る。
     マグカップを片手に、もう一度資料へ目を落とした。
     ページをめくると、担当者一覧が現れた。
     建築デザイン責任者
     交通システム責任者
     財務、投資調整責任者
     そしてーー、再開発インフラ統括責任者
     Kim Hyunwoo(キム・ヒョヌ)
     その名前を見た瞬間、エミリーの指が止まった。
     雨音が一層強くなる。
     キム・ヒョヌ。
     どこかで聞いたことがある。
     けれど思い出せない。
     大学時代だろうか?
     以前の案件だろうか?
     違う。
     もっと昔だ。
     もっと遠い場所。
     胸の奥がわずかにざわつく。
     エミリーは無意識にその名前を見つめていた。
     キム・ヒョヌ。
     雨は止まない。
     やがてエミリーは資料を閉じた。
     それでも、その名前だけは頭から離れなかった。

    第二部 メリーランド

    第二章 黄色いスクールバス


     引っ越しトラックが家の前に止まったのは、夏の終わりのことだった。
     アメリカ東海岸、メリーランドの空はどこまでも青かった。
     庭の芝生は太陽の光を浴びて白く光っていた。
     エミリーは居間の大きな窓から外を眺めていた。
     イロハモミジの葉が陽射しを透かして揺れていた。
     その向こうに、引っ越しトラックが停まっているのが見えた。
     荷台の扉が開け放たれている。
     近所の人々も気になっているらしく、犬の散歩をしていた人が足を止めていた。
     大使館で働く人や研究者が暮らす街だった。
     気づけば誰かが来て、また誰かがいなくなる。
     それが当たり前だった。
     トラックの横で、大人たちが段ボールを運んでいる。
     その少し離れたところに、一人の男の子が立っていた。
     黒い髪。
     少し大きめの自転車。
     隣では、お父さんらしい男性が歩いている。
     二人で何か話しているけれど、声までは聞こえない。
     男の子が笑った。
     それを見た瞬間、エミリーはなぜか視線をそらした。
     カーテンの影に隠れるようにして、息をひそめた。

     レイバーデーの連休が終わり、夏休みも終わった。
     新学期最初の朝だった。
     バス停には大きなクルミの木が立っていた。
     枝先にはまだ青い実がいくつもぶら下がっている。
     その木の下で、子どもたちはスクールバスを待っていた。
    「おはよう」
    「まだ眠い」
     誰かが大きなあくびをした。
     朝の空気はまだ少し夏の匂いが残っている。
     遠くで蝉が鳴いていた。
     ふと視線を上げると、向こうの歩道から一人の男の子が歩いてきた。
     黒い髪。
     見覚えがあった。
     あの引っ越してきた男の子だった。
     男の子もエミリーに気づいたらしい。
     一瞬だけ目が合う。
     でも、お互い何も言わない。
     少し離れた場所で立ち止まった。
     気まずいわけじゃない。
     ただ、知らないだけだった。
     やがて黄色いスクールバスが角を曲がって現れた。
     朝日を受けた大きな車体が、まぶしく光る。
     バスが停まり、ドアが開いた。
     二人は同じバスへ乗り込んだ。
     同じ小学校なんだ。
     エミリーは少し驚いた。
     何年生だろう。
     自分と同じくらいに見える。
     でも、よく分からなかった。

     バスの中は新学期初日のざわめきで騒がしかった。
     エミリーは窓側の席に座った。
     男の子は通路に立ったまま、車内をきょろきょろと見回している。 
     どこに座ろうか迷っているようだった。
     そして空いていたエミリーの隣の席へ腰を下ろした。
     エミリーはなんとなく姿勢を正した。
     少しだけ沈黙が続く。
     窓の外では、住宅街の木々が後ろへ流れていく。
     エミリーはちらりと隣を見た。
    「……Hi!」
     男の子は少し驚いたように顔を上げる。
    「……Hi」
    「何年生?」
    「五年生」
    「ほんと?私も」
     それだけで少し気が楽になった。
     同じ学年だった。
    「名前は?」
     男の子は答える。
    「Kim Hyunwoo」
     エミリーは瞬きをした。
    「……もう一回」
     男の子は少し困ったように笑う。
    「Hyunwoo」
     もう一度名前を言った。
    「ヒョン?」
    「うーん……」
    「ヒョウ? ヒョンウォ?」
    「No……」
     二人とも少し笑った。
     男の子は肩をすくめる。
    「Jeff でいいよ」
    「Jeff?」
    「うん」
    「ほんとに?」
    「みんなそう呼ぶから」
     エミリーはうなずく。
    「じゃあ、Jeff」
     ジェフも小さくうなずいた。
    「私はEmily」
    「Emily」
     ちょうどその時、バスが交差点でゆっくり止まった。
     エンジン音がふっと落ちて、車内が少し静かになった。
    「見て!」
     エミリーが窓を指さした。
     窓の外の枝に、鮮やかな赤い鳥が止まっている。
    「Cardinal!」
     ジェフは少し目を見開いた。
     赤い鳥を見つめる。
    「……Pretty」
     低いうなりを上げてバスが動き出す。
     赤い鳥は枝を蹴るように飛び立った。

    第三章 クルミの木の下

     
     翌朝も、エミリーはクルミの木の下でスクールバスを待っていた。
     リュックを足元に置き、大きくあくびをする。
     低学年の子たちは追いかけっこをしている。
     高学年の子たちは眠そうな顔で立っている。
     葉の間から差し込む光が、歩道にまだらな影を落としている。
    「Hi」
     不意に声がした。
     顔を上げる。
     ジェフだった。
    「あ、Hi」
     昨日より少しだけ自然だった。
     ジェフはエミリーの隣へ立つ。
     二人とも何を話せばいいのか分からない。
     しばらく沈黙が続いた。
     遠くで犬の鳴き声が聞こえる。
    「学校どうだった?」
     先に口を聞いたのはエミリーだった。
    「大丈夫」
     ジェフは短く答える。
    「友達できた?」
    「まだ」
    「私も」
     思わず二人とも笑った。
     朝日を受けたバスが角を曲がって現れた。

     それから数日が過ぎた。
     朝、クルミの木の下へ行くと、そこにはたいていジェフがいた。
     バスが来るまでのわずかな時間。
     二人は少しずつ言葉を交わすようになった。
     学校が終われば、また同じバスで帰る。
     最初は途切れ途切れだった会話も、少しずつ増えていった。
    「韓国では何してたの?」
    「サッカー」
    「上手い?」
    「普通」
    「絶対上手いよね」
    「普通」
     真顔で言うので、エミリーは吹き出した。
     ジェフも少しだけ笑った。

     十月になる頃には、クルミの実が落ち始めていた。
     朝、バスを待ちながら足元を見ると、緑色だった実は茶色く色づいている。
     秋風が吹くたび、コツン、と乾いた音を立てて歩道へ落ちた。
     学校帰りのバスの窓から、ハロウィンの飾り付けをした家々が流れていく。
     玄関先に大きなカボチャ。 
     前庭に張られたクモの巣。
     お化けや骸骨。
     今年は何の仮装をしよう。
     エミリーは窓の外を眺めた。
     その日の帰り道だった。
     バスを降りた二人は、いつものように並んで歩いていた。
    「Emily」
     不意にジェフが呼ぶ。
    「ん?」
     ジェフは空を指差した。
     エミリーもつられて見上げる。
     高い木の枝に、一羽の鳥が止まっていた。
     夕日を受けて、鮮やかな赤い羽が輝いている。
    「あっ」
     エミリーの顔がぱっと明るくなる。
    「Cardinal」
     ジェフが言った。
    「覚えたんだ」
    「うん」
     少しだけ誇らしそうな顔をする。
     カーディナルは枝から枝へ飛び移った。
     赤い羽が夕暮れの木々の間をすり抜ける。
     二人はしばらく何も言わず、その姿を目で追った。
     やがて鳥は羽を広げる。
     赤い影は遠くの木へ移り、葉の向こうへ消えていった。
    「きれいだね」
     エミリーが言う。
     ジェフは空を見上げたまま、小さくうなずいた。
    「うん」
     風が吹いた。
     コツン。
     クルミの実がひとつ地面に落ちる。
     その音に反応するように、近くの木の幹から灰色のリスが顔を出した。
     落ちた実を見つけると、すばやく駆け寄る。
     二人は思わず顔を見合わせた。
     リスはクルミをくわえたまま、あっという間に木の上へ駆け上がっていく。
     秋の風が枝を揺らした。

    第四章 ハロウィンの夜

     
     十月も終わりに近づいていた。
     街のあちこちにオレンジ色のかぼちゃが並んでいる。
     庭にはお化けや骸骨の飾りが立ち、黒い蜘蛛の巣が植え込みを覆っている。
     夜になるとオレンジや紫のライトが灯り、住宅街はまるで別世界のようだった。
     学校でも話題はハロウィン一色だった。
     誰がどんな仮装をするのか。
     どこの家がお菓子をたくさんくれるのか。
     昼休みになるたび、そんな話で盛り上がっていた。

     そして、ハロウィン当日。
     まだ日が沈みきる前のことだった。
     クルミの木の幹には白い骸骨が吊り下げられていた。
     夕方の風を受けて、ゆらゆらと揺れている。
     その木の下には長いテーブルが並べられていた。
     誰かが焼いたクッキー。
     アップルパイ。
     手作りパン。
     フライドチキン。
     ジュースのボトル。
     近所の大人たちが持ち寄った料理が次々と並べられていく。
     少し離れた場所では、配達されたピザの箱が積み上がっていた。
     子どもたちは走り回り、大人たちは立ち話に花を咲かせている。
     いつもの住宅街が、小さなお祭りのようだった。

    「Emily!」
     声に振り向く。
     ジェフだった。
     白いテコンドーの道着を着ている。
     胸には韓国語の刺繍が入っていた。
     頭の上には、黒い魔女のとんがり帽子が乗っている。
     エミリーは一瞬きょとんとした。
    「似合ってる」
     そう言うと、ジェフは少し照れたように肩をすくめた。
    「これ本物だから」
     胸を軽く叩く。
    「魔女がテコンドーやるの?」
     エミリーは吹き出した。
    「帽子だけ借りた」
    「なんで?」
    「姉さんが余ってるからって」
     ジェフもつられて笑った。
    「それ、猫?」
     今度はジェフが聞く。
    「黒猫!」
     エミリーは胸を張った。
     黒猫の耳のカチューシャを揺らしながら、くるりと回る。
     腰には細い尻尾も付いていた。
     その後ろを、丸いカボチャの姿をした妹がよちよちと追いかけている。
     小さな体がすっぽり埋もれるほど大きな衣装で、歩くたびにふわふわ揺れた。
     妹はクルミの木の白い骸骨を見つけると、指をさした。
    「あっ」
     何か言ったつもりらしい。
     でも気にする様子もなく、また歩き回る。
     ジェフは思わず笑みをこぼした。
    「ほんとに怖くないの?」
     妹は意味も分からないまま、嬉しそうにうなずいた。
    「さあ、みんな並んで」
    「こっち向いてー!」
     近所の大人が声を張り上げる。
     子どもたちが集まり、記念写真が撮られた。
     フラッシュが光る。
     あちこちから笑い声が上がった。
     やがて日が沈み、空が群青から紫へと色を変えていった。
     先頭に立った大人が声を上げる。
    「Are you guys ready?」
     子どもたちが歓声を上げた。
     列ができる。
     エミリーとジェフもその中へ加わった。
     そして近所の家々を回り始める。
     最初の家の玄関先で、誰かが叫んだ。
    「Trick or Treat!」
     たちまち子どもたちの声が重なる。
    「Trick or Treat!」
     ドアが開き、大きなボウルいっぱいのお菓子が現れた。
     歓声が上がる。
     夜は始まったばかりだった。

    「三十七、三十八、三十九!」
     エミリーは芝生の上に戦利品を並べていた。
     チョコレート。
     グミ。
     キャンディ。
     見たことのないお菓子まで混ざっている。
     数えるたびに顔がほころんだ。
    「Em(エム)! そろそろ帰る時間だぞー」
     父の声が遠くから飛んでくる。
    「はーい!」
    「じゃあ、また明日」
    「また明日、Em」
     ジェフが手を振る。
     エミリーも振り返した。
     月明かりが枝の間から差し込む。
     クルミの木に吊るされた骸骨は、風に揺れていた。
     遠くで誰かの笑い声が聞こえた。

    第五章 ルービックキューブ

     
     春休みの一週間を、フロリダに住む祖父母の家で過ごした。
     エミリーたちは車でメリーランドへ戻る途中だった。
     窓の外には長いハイウエイが続いている。
     妹はチャイルドシートに座ったまま眠っていた。
     後部座席の兄は、出発してからずっとルービックキューブを回していた。
     カチャ。
     カチャ。
     カチャ。
     ばらばらだった色が少しずつ揃っていく。
     赤い面が完成すると、今度は青い面まで揃い始めた。
     エミリーは何度見ても不思議だった。
    「私にも教えて」
     エミリーは身を乗り出した。
     十六時間にも及ぶ帰り道は退屈なはずだった。
     けれども気づけばエミリーも夢中になっていた。

     気づけば春休みも残りわずかになっていた。
     ルービックキューブの最後の手順も覚えた。
     エミリーは待ちきれなくなってジェフの家へ向かった。
     玄関を開けてもらうなり、リビングへ駆け込む。
    「見て!」
     ルービックキューブを得意気に取り出す。
    「すごいんだから」
     ジェフはソファに座り、テレビゲームをしていた。
    「ん」
     返事は短い。
     エミリーは眉をひそめた。
    「ちゃんと見てよ」
     そう言って、ルービックキューブを回し始める。
     カチャ。
     カチャ。
     白を揃え、角を合わせ、最後の列を動かす。
     カチッ。
     六面が揃った。
    「どう?」
     エミリーは満足そうに掲げた。
    「へえ」
     ジェフは画面から目を離さなかった。
     エミリーは口を尖らせる。
    「すごくない?」
    「すごい」
    「絶対思ってない」
    「思ってる」
     少しもそうは見えなかった。
    「ほら」
     エミリーはルービックキューブを差し出した。
    「ジェフもやりなよ」
    「面白いよ」
    「あとで」
     視線は再びゲーム画面へ戻っている。
     エミリーはルービックキューブをテーブルの上に置いた。
     家へ帰る途中、エミリーは少しだけ機嫌が悪かった。
     せっかく見せたのに、つまんない。
     風に舞う桜の花びらが道路を覆っていた。
     けれどエミリーは一度も見上げなかった。

     春休み明けの月曜日の朝だった。
     エミリーはいつものようにクルミの木の下でスクールバスを待っていた。
     休み明けだからだろうか。
     いつもなら集まっているはずの子どもたちの姿がまだ見えない。
     バス停は妙に静かだった。
     その時、道路脇の茂みがかすかに揺れた。
     すると野うさぎがピョンと飛び出してきた。
     ぴくりと耳を動かしながら、草を食べ始める。
     エミリーは思わず見入った。
    「Em」
     背後から声がした。
    「わっ、びっくりした」
     ジェフは何も言わない。
     代わりにリュックを下ろし、中から何かを取り出した。
     ルービックキューブだった。
    「え?」
     ジェフはそのまま回し始める。
     カチャ。
     カチャ。
     カチャ。
     ジェフの指が迷わず動く。
     白、青、赤と、色が次々と揃っていく。
     エミリーは目を丸くした。
     カチッ。
     最後の一手が決まり、六面すべてが揃った。
    「……え?」
     ジェフは肩をすくめた。
    「できた」
    「いつ!?」
    「ちょっと前」
    「練習したの?」
    「まあ」
     エミリーはしばらく言葉が出なかった。
     あの日、ゲームばかり見ていると思っていた。
     全然興味がないのだと思っていた。
    「見てなかったじゃん」
     思わずそう言う。
     ジェフは少しだけ首をかいた。
    「見てたよ」
     そのとき、遠くからスクールバスのエンジン音が聞こえてきた。
     黄色い車体が住宅街の角を曲がる。
     ジェフは揃ったルービックキューブを無造作にリュックへ戻した。
     春の風が吹き抜ける。
     クルミの若葉が、朝の光の中でやわらかく揺れていた。

    第六章 五月の午後

     
     何日も雨が続いていた。
     朝になるたび、スクールバスの窓を雨粒が筋になって流れ落ちる。
     校庭はぬかるみ、昼休みに外へ出ることもできない。
     エミリーは窓際の席から灰色の空を見上げては、何度もため息をついていた。
     
     そんな雨の日が続いたあとだった。
     土曜日の朝、エミリーはいつもより早く目を覚ました。
     カーテンの隙間から光が差し込んでいるのが見える。
     エミリーは飛び起きてカーテンを開けた。
     青空だった。
     何日ぶりかわからないほど久しぶりの青空だ。
     台所から甘い匂いがしてくる。
     走っていくと、母がパンケーキを作っていた。
     朝食を終えると、妹が絵本を抱えてやってきた。
     開いたページには大きな青空が描かれている。
     妹は何度もその空を指さした。
    「あっち!」
     小さな手が窓の方を指す。
     エミリーは立ち上がり、その方向を見た。
    「Em!」
     家の前から声がした。
     葉の隙間から、ジェフが自転車にまたがって手を振っている。
    「行こう!」
     エミリーは笑顔になった。
    「待ってて!」
     数分後、二人は住宅街を走っていた。
     雨上がりの道はまだ黒く濡れている。
     タイヤが小さな水たまりを跳ねる。
     芝生から青い匂いが立ち上り、濡れた土の香りが風に混じっていた。
     どちらからともなく競争が始まる。
    「負けないから!」
    「そっちこそ!」
     坂道で立ちこぎになった。
     息を切らしながら笑う。
     カーブを曲がる。
     また笑う。
     空は高く、どこまでも青かった。
     それだけで世界が昨日までとは別の場所になったような気がした。
     ひとしきり走ったあと、二人はエミリーの家へ戻った。
    「バレーする?」
     ジェフが肩で息をしながら言った。
    「いいよ」
     裏庭には父が張ったバレーネットがある。
     エミリーはボールを高く放り上げた。
    「いくよ!」
     思いきりサーブを打つ。
     白いボールが一直線に飛ぶ。
    「痛っ!」
     ジェフが顔をしかめて、腕を押さえた。
    「今の絶対本気だった」
     ジェフが信じられないという顔でエミリーを見た。
    「ちょっとだけ」
    「ちょっとじゃない」
     今度は少し加減して打つ。
     ところがボールはジェフの手前に落ちた。
    「あっ」
     するとジェフはとっさに足を出した。
     ぽん、とボールが浮く。
     ふわりとネットを越えた。
     エミリーは慌てて打ち返す。
     するとジェフがまた足で返した。
    「ちょっと!」
    「サッカーじゃないんだから!」
    「だってこっちの方が簡単」
    「ダメ!」
    「なんで?」
    「バレーボールだから!」
     二人は同時に声を上げて笑った。
     ボールは何度も芝生の上を転がった。
     そのたびに追いかけては、また笑う。
     木々の葉が揺れていた。
     雨が続いていたことなど忘れてしまいそうな午後だった。
     
    「二人とも休憩したら」
     母が裏口から顔を出した。
     その後ろから、昼寝を終えた妹がよちよちと現れた。
     両手でシャボン玉の容器を抱えている。
     二人は芝生に座った。
     紙皿に乗ったアイスクリームを受け取る。
     妹が得意そうに息を吹くと、大きなシャボン玉がひとつ浮かんだ。
     もうひとつ。
     またひとつ。
     日差しを受けたシャボン玉は虹色に光りながら空へ昇っていく。
     誰も話さなかった。
     前庭では父が芝刈り機を押している。
     雨続きだったせいで、芝生はずいぶん伸びていた。
     芝刈り機の音だけが、静かに響いている。
     その音を聞きながら、エミリーはアイスクリームを口に運ぶ。
     甘かった。
     風が心地いい。
     ずっと続けばいいのに、とふと思う。
    「あと何回遊べるかな」
     ジェフがぽつりと言った。
    「うん……」
     エミリーは顔を上げた。
     妹の吹いたシャボン玉だけが風に流されていく。
     高く。
     高く。
     そして――。
     パン、と音もなく消えた。
     エミリーは溶け始めたアイスクリームを見つめた。
     芝刈り機の音が遠く聞こえる。
     空は、変わらず青かった。
     けれどさっきまでとは少し違って見えた。

    第七章 別れの前日


     木々の緑は、いつの間にか濃くなっていた。
     住宅街の並木は葉を大きく広げ、陽射しを受けて揺れている。
     夏はもうすぐそこまで来ていた。
     そして今日は卒業式だった。
     朝から強い光が校舎を照らしている。
     エミリーは講堂の椅子に座り、正面のステージを見つめていた。
     小学校最後の日。
     夏休みが終われば、ミドルスクールが始まる。
     卒業生たちは整然と並び、後方の席には家族たちが座っている。
     あちこちでカメラのシャッター音が鳴っていた。
     校長先生が開式の挨拶をする。
     続いて毎年恒例の表彰が始まった。
     学業や皆勤をたたえる賞が毎年授与される。
     English。
     Science。
     Music。
     Perfect Attendance。
     名前が呼ばれるたびに、生徒たちが前へ進み出る。
    「Math Award」
     司会の先生が紙に目を落とした。
    「Kim Hyunwoo」
     エミリーは思わず顔を上げた。
     ジェフだった。
     講堂に拍手が広がる。
     ジェフは少しだけ肩をすくめるようにして立ち上がり、壇上へ向かった。
     校長先生から表彰状を受け取る。
     ぎこちなく握手をすると、再び会場から拍手が起こった。
     エミリーは夢中で手を叩いていた。
     ジェフは照れくさそうな顔のまま席へ戻る。
     やっぱりすごい。
     何でもないことみたいな顔をしているけれど、きっとたくさん勉強したんだろう。
     ルービックキューブのときみたいに。
     誰も見ていない場所で、静かに、こつこつと。
     そういう人だ。
     表彰が終わると、卒業証書授与が始まった。
     一人ずつ名前が呼ばれる。
     壇上へ上がり、証書を受け取り、握手をする。
     家族たちの拍手と歓声が続いていた。
    「Emily Carter」
     自分の名前が呼ばれ、エミリーは立ち上がった。
     足が少しだけ震えていた。
     壇上で証書を受け取り、校長先生と握手をする。
     客席のどこかから、お母さんの声が聞こえた気がした。
     けれどその瞬間も、エミリーの頭に浮かんでいたのは別のことだった。
     明日、ジェフは帰国する。
     それだけのことなのに、落ち着かなかった。
     壇上では校長先生の話が続いていた。
     新しい学校、新しい友達、新しい挑戦。
     言葉は次々に耳へ入ってきた。
     けれど半分も残らなかった。
     明日になれば、ジェフはいなくなる。
     そればかり考えていた。
     やがて卒業式は終わった。
     椅子を引く音が一斉に響くと、静かだった講堂が、急に賑やかになった。
     卒業生たちは家族のもとへ駆け寄る。
     花束を受け取る子。
     風船を抱える子。
     抱きしめられて泣いている子。
     あちこちで写真が撮られていた。
     エミリーは人混みの向こうにジェフを見つけた。
     お父さんとお母さんに囲まれながら、表彰状を手に写真を撮っている。
     少し困ったように笑っている顔。
     いつものジェフだった。
     声をかけようと思った。
     でも、できなかった。
    「エミリー、こっちこっち!」
     不意に呼び止められる。
     振り向くと友達のお母さんが手を振っていた。
    「みんなで写真撮ろう」
    「あ、うん」
     友達と並ぶ。
     笑う。
     写真を撮る。
     今度はスマホを交換して撮り合う。
     誰もが楽しそうだった。
     卒業の日らしい光景だった。
     それなのに、気がつくと、またジェフを探している。
     人混みの向こうに、黒い髪を探してしまう。
     明日になれば、もう会えない。
     その事実だけが、少しずつ現実になっていく。
     講堂の外では、濃くなった緑が風に揺れていた。
     夏はもうすぐそこまで来ていた。

    第八章 カーディナル

     
     その朝、空は雲ひとつなく、まぶしいほどに晴れていた。
     夏休み初日なのに、胸の中がもやもやしていた。
     エミリーは家を飛び出した。
     ジェフの家の前にはトラックが止まっている。
     作業員たちが段ボールを次々と運び出していた。
     自転車も、家具も、少しずつ外へ出ていく。
     見慣れたものが消えていくのを、ただ見ていた。
     ジェフは玄関の前に立っていた。
     いつものTシャツといつものスニーカー。
     それなのに、今日はなんだか遠く見えた。
    「Hi」
     エミリーはポケットを握りしめて言った。
    「Hi」
     ジェフが答えた。
     作業員の声だけが、やけに大きく聞こえた。
     エミリーはポケットから小さな袋を取り出す。
    「これ」
     エミリーが差し出すと、
     中には赤い鳥のキーホルダーが入っていた。
     翼を広げた、小さな赤い鳥。
     ジェフは少し驚いた顔をした。
    「Cardinal」
     そう言って笑う。
    「うん」
     エミリーはうなずいた。
    「忘れないように」
     言ってから、少しだけ視線を落とした。
     ジェフはキーホルダーを見つめる。
     それから小さく息を吐いた。
    「ありがとう」
     ポケットから、折りたたまれた紙を取り出した。
    「これ」
    「何?」
    「E-mail」
     エミリーは目を丸くした。
     紙には丁寧な字でアドレスが書かれていた。
    「こっちに書いて」
     エミリーは紙を受け取ると、家へ駆け出した。
     玄関を開け、テーブルの上のペンをつかむ。
     すぐに引き返し、息を弾ませながら戻ってきた。
     自分のメールアドレスを書く。
     たった数行だった。
     それだけのことが、やけに長く感じた。
     書き終えると、小さく息を吐いた。
    「書けた」
    「うん」
     ジェフは紙を折りたたむ。
     エミリーも同じように折った。
     風が吹き抜け、庭の木々が揺れている。
     その中を、波打つように空を切り、近くの枝に赤い鳥が止まった。
     二人とも、同時に見上げる。
    「Cardinal」
     ジェフが言う。
     エミリーはふっと笑った。
    「覚えてるね」
    「うん……」
     赤い鳥の隣に、茶色い鳥が降り立つ。
     二羽は並んで、しばらく動かなかった。
     やがて同時に羽を広げる。
     赤い光が揺れた。
     茶色の影が追いかけるように続く。
     二羽は風に乗るように、木々の奥へ消えていった。
     最後に見えた赤も、緑に溶けていく。
    「そろそろ行くぞ」
     少し離れたところから声がした。
     ジェフが視線を向ける。
     車のドアが開いている。
     もう時間だった。
    「じゃあ」
     ジェフが言った。
     エミリーは何か言おうとした。
     でも、何も出てこなかった。
     二人とも少しだけ黙る。
    「Merry Christmas」
     ジェフが笑った。
    「まだ六月だよ」
     エミリーが吹き出した。
    「じゃあ」
    「うん」
    「メールする」
    「待ってる」
     ジェフは少しだけ手を振った。
    「Bye, Em」
     エミリーはすぐに言葉が出てこなかった。
    「Bye, Jeff」
     ドアが閉まると、エンジンがかかり、車がゆっくり動き出した。
     エミリーは見えなくなるまで手を振った。
     角を曲がり、車が消える。
     そのまま、しばらく動けなかった。
     風が吹き、白い紫陽花が揺れている。
     昨日と何も変わらない庭。
     でも、もう誰もいない。
     空には、もう鳥の姿も見えなかった。 


    第三部 再会


    第九章 再会

     
     会議室には各部門の責任者たちだけでなく、開発本部長や執行役員の姿もあった。
     壁際には政府関係者と外部コンサルタントが並んで座っている。
     エミリーは静かに席についた。
    「それでは始めましょう」
     部長の声が響く。
     前方のスクリーンに再開発区域の地図が映し出された。
     シンガポール東部。
     マリーナ・イースト地区。
     海に面した広大な埋立地が、白い輪郭線で囲まれている。
    「本日より、マリーナ・イースト再開発プロジェクトを正式に開始します」
     司会者の宣言とともに、キックオフミーティングが始まった。
     照明を落とした会議室に、プロジェクターの光が淡く広がる。
     開始から一時間が過ぎていた。
     机の脇に置かれたコーヒーにはまだ一度も口をつけていない。
     胃の奥が硬く縮こまっている。
     空腹なのか、緊張なのか、自分でもわからなかった。
     各部門の責任者が順番に自己紹介をしていく。
    「次は佐藤さん、お願いします」
     不意に名前を呼ばれた。
     一斉に視線が集まる。
     立ち上がると、椅子の脚が床を擦り、小さな音を立てた。
     喉が乾いている、声が震えたらどうしよう。
     エミリーは息を整えた。
    「佐藤エミリーです。本プロジェクトの統括を担当します」
     静まり返った会議室の中、視線だけがこちらへ向いている。
     一瞬だけ言葉を探した。
    「よろしくお願いいたします」
     頭を下げ、席に戻る。
     膝の上で握った手に力が入っていた。
     隣では部長が何事もなかったように資料をめくっている。
     何も言わない。
     よかったのか悪かったのか読めない。
     会議は続いた。
     建築計画の説明が終わると、議題は交通網整備へ移った。
     スクリーンに新しい地図が映し出される。
     マリーナ・イースト地区を縦断する幹線道路。
     地下鉄新駅。
     海沿いの遊歩道と バス路線。
     まだ更地の広がる埋立地の上に未来の都市の輪郭が浮かび上がった。
     エミリーは手元の資料に視線を落とした。
     文字を追っているはずなのに、意味が頭に入ってこない。
    「続いて交通、インフラ計画について説明をお願いします」
     椅子を引く音に、エミリーは顔を上げた。
     一人の男性が立ち上がっていた。
    「インフラ統括責任者のキム・ヒョヌです」
     落ち着いた声だった。
     長身に黒いスーツ。
     短く整えられた黒髪。
     スクリーンが切り替わった。
     今度は道路ではなく、地下の断面図だった。
    「交通網の整備と並行して、地下インフラの構築を進めます」
    「特にこの地区では、洪水対策が重要になります」
     海岸線が表示された。
     高潮浸水予想図。
     豪雨時の排水シミュレーション。
    「海面上昇と集中豪雨の双方を想定し、地下貯留施設と排水ポンプシステムを整備します」
     説明は簡潔だった。
     しかし質問が飛ぶたびに、キム・ヒョヌは迷いなく数字と根拠を示していく。
     会議室の誰もが彼の話を聞いていた。
     信頼されているのが分かる。
     エミリーは視線を落とす。
     キム・ヒョヌ。
     胸のどこかがかすかに引っかかった。
     けれど、それ以上は思い出せなかった。

     会議が終わったのは、それから一時間近く後だった。
    「以上で本日の会議を終了します」
     司会者の声とともに緊張がほどける。
     椅子を引く音、資料をまとめる音、人々の話し声。
     エミリーもノートパソコンを閉じた。
    「佐藤さん」
     背後から声がして、振り返る。
     キム・ヒョヌだった。
     近くで見ると、思っていたより年齢が近そうだった。
     切れ長の目。
     落ち着いた声。
    「初めまして」
     差し出された手を握る。
    「よろしくお願いします」
    「こちらこそ」
     それだけの簡素なやり取りだった。
     キム・ヒョヌは資料を脇に抱えた。
     リュックを肩に掛け直し、立ち去ろうとした。
     その拍子に、ジッパーの小さなキーホルダーがかすかに揺れた。
     赤い鳥だった。
     翼を広げたカーディナル。
     エミリーの呼吸が止まる。
     見覚えがあった。
     世界の音が遠のいた。
     胸の奥で、ばらばらだった記憶の欠片がゆっくりと結びついていく。
     クルミの木。
     黄色いスクールバス。
     ハロウィンの夜。
     ルービックキューブ。
     そして――
     カーディナル。
     エミリーの唇が震えた。
    「……Jeff?」
     気づけば名前を呼んでいた。
     キム・ヒョヌの動きが止まる。
     ゆっくりと振り返る。
     その瞳がエミリーを捉える。
     数秒、いや、もっと長かったかもしれない。
     やがて彼の目がわずかに細くなる。
    「……Em?」
     エムと呼ぶ人は、もうほとんどいなかった。
     エミリーの胸の奥で、何かが静かにほどけた。
     二十年近く途切れていた時間が、ようやく同じ場所へ帰ってきた。

    第十章 Merry Christmas 


    「えっ、Jeff……あの時の、Jeff?」
     エミリーは言葉を失ったまま、キム・ヒョヌを見つめていた。
    「どうして、ここに……?」
     問いは宙に浮いたまま、答えを待たなかった。
     そのとき、ドアの方から鋭い声が飛ぶ。
    「エミリー! 部長が呼んでる! 部長室に!」
     遥だった。
    「今行きます!」
     反射的に返事をしながら、エミリーは慌てて資料を閉じる。
     何だろう。
     会議の件だろうか。
     思考が追いつかないまま、視線だけがその場に引き戻される。
    「じゃあ……Jeff。また、失礼します」
    「ああ」
     短い返事のあと、ジェフが続けた。
    「カボチャ、元気?」
    「……カボチャ?」
     エミリーは一瞬、本気で意味が分からなかった。
     次の瞬間、記憶がほどける。
    「妹」
     小さく呟くと、あ、と声が漏れた。
     ジェフの表情が、わずかに緩む。
     そして、それは笑顔になった。
     大人になったジェフの笑顔を初めて見た。
    「ああ、カボチャ」
     エミリーも思わず笑っていた。
    「覚えてるんだ」
    「もちろん」
    「もう二十代だよ」
    「信じられない」
    「本人が聞いたら怒るよ」
     ジェフは小さく肩をすくめる。
     その仕草が昔のままで、エミリーの胸の奥が少しだけ熱を持つ。
    「エミリー!」
     遥の声が再び飛んだ。
    「あっ、ごめん!」
     エミリーは資料を抱え直す。
    「本当に、また後で」
    「うん」
     数歩進んだところで、
    「Em」
     背中から呼ばれて足が止まる。
     振り返ると、ジェフと目が合った。
    「Merry Christmas」
     一瞬、空気が止まった。
     六月の廊下で、その言葉だけがやけに場違いに響く。
     やがてエミリーは吹き出した。
    「まだ六月だよ」
    「知ってる」
     ジェフも笑っていた。
     二人の間に流れていた時間が、ほんの一瞬だけ薄くなる。
    「後で」
    「後で」
     それだけを交わして、エミリーは歩き出す。
     廊下の窓から差し込む夕方の光が、長い影を引いていた。
     歩きながらも、心臓の鼓動だけがやけにうるさい。
     ーーまさか。
     ーー本当に。
     クルミの木の下で、スクールバスを待っていた。

    第十一章 同じチーム


     さっきまでの出来事が、まだ頭の奥でうまく整理できていなかった。
     エミリーは廊下を歩きながら、自分の呼吸の速さに気づく。
     ーージェフ。
     その名前だけが、頭の片隅から離れなかった。
     廊下の突き当たりに部長室が見えてくると、エミリーは小さく息を吐いた。
     現実の重さに押し戻された。
     ドアの前で足を止める。
     ひとつ深く呼吸をしてから、ノックした。
    「失礼します」
     扉を開けると、静かな空気が流れ出てきた。
     部長は顔を上げずに、手元の資料をめくっている。
    「座りなさい」
     エミリーは促されるまま椅子に腰を下ろした。
     膝の上で手を組む。
    「どうだ、今日の会議は」
     短い沈黙が落ちた。
    「部長」
     声が少しだけ硬くなる。
    「私に、この計画が務まるとは思えません」
    「何がだ」
    「この計画です」
     視線を落としたまま続ける。
    「失敗したらどうするんですか」
    「何百億も動く計画です。住民の生活も、企業の投資も関わっています」
     指先に力が入る。
    「私には重すぎます」
     静けさがさらに深くなる。
     部長は椅子に背を預けた。
    「君はな」
    「すべてを一人で背負っていると思いすぎだ」
    「無理だと思う日があっていい。だが、その結論を急ぐな」
     エミリーは答えなかった。
     部長は机の上の資料を閉じる。
    「君はこの案件の責任者だ」
    「はい」
    「だが、全部をやれとは言っていない」
     エミリーが顔を上げる。
    「交通には交通の責任者がいる。建築にも、財務にも、インフラにもだ」
    「君は全部を抱える必要はない」
     指先で机を軽く叩いた。
    「ちょうどいい」
     内線を取る。
    「キムくんは来ているか」
     短い間のあと、部長はうなずいた。
    「こちらへ通してくれ」

     ノックと同時に、ドアが開いた。
    「失礼します」
     ジェフだった。
    「ああ、来たか」
     部長が頷く。
     ジェフは短く会釈すると、そのまま部屋へ入ってきた。
    「彼は若くて優秀だ」
    「現場でも信頼されている」
     部長はエミリーとジェフを交互に見た。
    「だが、役割は違う」
    「佐藤、君は人間がどう生きるか、未来を描け」
    「キムくんは、都市をどう成立させるかを考えろ」
    「二人でやるんだ」
    「プロジェクトはチームだ」
    「失敗も成功も、一人のものじゃない」
     窓の外では、夕方の雨が降り続いていた。
    「佐藤、君はアメリカで育ったそうだな」
    「はい」
    「なら知っているはずだ」
     部長はわずかに笑う。
    「文化も背景も違う人間が集まって、一つの街を作る大変さを」
     エミリーの脳裏に、幼い頃のメリーランドがよみがえる。
     スクールバス。
     クルミの木。
     ハロウィンの夜。
     ルービックキューブ。
    「だから君を選んだ」
    「技術者なら他にもいる。英語ができる人間もいる」
    「だが、人と人の間に立てる人間は多くない」
     部長は立ち上がった。
    「失敗したらどうするか?」
     少しだけ間を置く。
    「その時は、私も一緒に怒られる」
     一瞬、エミリーは目を瞬いた。
     部長は笑っていた。
    「だから安心して失敗しろ、とは言わない」
    「だが、挑戦する前から諦めるな」
     部屋の空気が、少しだけ軽くなる。
     エミリーはゆっくり息を吸った。
    「……はい」
     今度の返事は、さっきより確かだった。
     その隣で、ジェフが小さくうなずいた。

    第十二章 シンガポール


     出張の話が出たのは、会議の終盤だった。
     部長は言った。
    「現地を見に行く。机の上だけでは限界がある」
     その場でシンガポール行きが決まった。

     空港へ向かう車内、エミリーは浅い眠りに落ちかけていた。
     昨夜も遅くまで資料を開いていた。気づけば、深夜を過ぎていた。
     ーーやめておけばよかった。
     そう思う余裕もないまま、車は空港へと滑り込む。
     到着ロビーから、時計を見上げる。
     搭乗開始まで、あまり時間はない。
     スーツケースを引きながら、早足になる。
     搭乗手続き、保安検査、出国審査。
     息が追いつかない。
     ようやく搭乗口が見えたとき、アナウンスが搭乗開始を告げていた。
     肩で息をしたまま辿り着くと、そこにジェフが立っていた。
    「間に合ったな」
    「待ってたの?」
    「部長が心配してた」
    「ごめん」
    「朝ごはんは?」
    「……食べた」
    「嘘」
     ジェフは紙袋を差し出した。
    「コンビニで買った」
     中にはおにぎりと水が入っていた。
     胸のどこかが、ふっと和らいだ。

     機内に入ると、乗客たちはすでにそれぞれの席に着いていた。
     ジェフの姿は、すぐに人の流れに紛れて見えなくなる。
     エミリーは自分の席に座り、ベルトを締めた。
     窓の外で、機体がゆっくりと滑走路へ向かう。
     目を閉じる。
     ーーシンガポール。
     近年の都市開発で世界中の注目を集める都市国家。
     その名が、ゆっくりと意識の中に沈んでいった。
     
     到着したとき、外の空気は湿気を含んで重かった。
     南国特有の熱が、肌にまとわりつく。
     ホテルでチェックインを終えると、荷物を置く間もなく会議室へ向かった。
     会議室の窓の向こうに、港が広がっている。
     コンテナ船がゆっくりと海を横切っていた。
     そのさらに奥には、高層ビル群。
     そして再開発予定地。
     数年後には、まったく別の街になる場所だった。
     テーブルの上には、分厚い計画書が積まれている。
     静かな会議室に、ページをめくる音だけが落ちていた。

    「では、明日の会議は十四時に」
     会議が終わる頃には、すでに夕暮れに近かった。
     資料を閉じる音が重なり、人々が席を立つ。
     エミリーも小さく息をつき、資料をまとめ始めた。
     長い一日だった。
     指先が最後の書類に触れた。
    「Em」
     背後から声がした。
     振り向くとジェフが立っている。
    「明日の午前、街を見に行こう」
    「会議の前に?」
    「うん」
    「視察?」
    「資料だけじゃ分からない」
     ジェフは窓の外に目を向けた。
     港の向こうで、夕陽がゆっくり沈み始めている。
    「街は、歩かないと見えない」
     エミリーも窓の外を見る。
     街の灯りが一つずつ灯り始めていた。

     会議室を出ると、ホテルへ戻る廊下は静かだった。
     エレベーターの前で二人だけになる。
     しばらく誰も口を開かなかった。
    「シンガポールは初めて?」
     ジェフが聞いた。
    「うん」
    「ジェフは?」
    「三回目」
    「ずるい」
     ジェフが少し笑う。
     やがてエレベーターの扉が開いた。
    「じゃあ明日」
    「うん、明日」
     エミリーが先に中に入る。
     ジェフはそのまま外に残った。
     扉が閉まる直前、視線だけが一瞬交わる。
     やがて扉が閉じる。
     エミリーは鏡に映る自分の顔を見た。
     なぜだろう。
     明日の視察が、少しだけ楽しみに思えた。

    第十三章 マリーナ・イースト

     
     ホテルのロビーに降りると、ジェフはソファに腰を下ろし、スマホを見ていた。
    「Hi」
     エミリーが背後から声をかけると、ジェフは少しだけ驚いた顔で顔を上げた。
    「Hi」
     それだけで、会話は十分だったように、ジェフは立ち上がる。
    「行こうか」
     何事もなかったように出口へ向かう。
     エミリーもその後に続いた。

     ホテルのひんやりした空気から外に出ると、熱が一気に押し寄せてきた。
    「そういえば、日本語すごく自然だよね」
     歩きながら、エミリーが言った。
     ジェフは少しだけ肩をすくめる。
    「そう、よく言われる」
     短くそう返して、ジェフは前を向いたまま続けた。
    「長いからかな」
    「長い?」
    「うん、いろいろ」
     ジェフは少し空を見上げた。
     エミリーはそれ以上聞かずに歩調を合わせる。
    「両親は韓国人なんだよね?」
    「うん、でも日本で生まれてる」
    「そうなんだ」
    「それから韓国にいたり、アメリカに行ったり」
     少しだけ考えるように前を見た。
    「ずっと動いてた感じ」
    「大変だった?」
     ジェフは少しだけ笑う。
    「覚えてない時期もある」
     やがて、広場が見えてくる。
    「座ろうか」
     ベンチに腰を下ろすと、広場の音が一気に近くなった。
     人の気配が絶えなかった。
     演奏する人。
     ベビーカーを押す夫婦。
     駆け回る子どもたち。
     バスケットボールを弾く音。
     カメラを向ける観光客。
     ジョギングする人。
     昼食を取る会社員たち。
     誰も急いでいない。
     その事実に、エミリーは少しだけ引っかかる。
     カフェがある。
     木陰がある。
     歩道は広く、交通の便もいい。
     だが、それだけでは説明できない何かがあった。
     視線を巡らせているうちに、あることに気づく。
     ここでは、人は「移動している」のではなく、「留まっている」。
     メモを取ろうと、エミリーはノートを開いた。
     その瞬間、ジェフがそっとページを押さえて閉じる。
    「見て」
     視線の先を追うと、一羽のジャワハッカが芝生を歩いていた。
     黒い体に、黄色いくちばし。
     人間の存在を気にする様子もないまま、堂々と横切っていく。
     思わず、息が抜けるように笑ってしまう。
     少し離れた木の幹では、リスが軽やかに登っていく。
     特別なことは何も起きていない。
     それなのに、この場所は生きていた。
     人だけでなく、鳥も動物も、当たり前のようにそこにいた。
     ふと、肩に何かが落ちた。
     小さな葉だった。
     ジェフは何も言わず、それを指先でつまみ取る。
     エミリーは気づいていない。
    「何?」
    「別に」
     言いながら、ジェフは一瞬だけ視線を落とした。
     葉は風に乗って芝生の向こうへ流れていった。
     ジェフはもう広場の方を見ていた。
     エミリーはノートを開く。
     ペンを走らせる。
    「人は施設を利用するためだけに街へ来るのではない」
     しばらくペンを止めたあと、もう一行だけ書き足した。
    「同じ景色を、誰かと共有するためにも来る」
     書き終えると、広場を見渡した。
     さっきまでただの風景だったものが、少し違って見える。
     人の流れも、鳥の動きも、どこかひとつの呼吸のように感じられた。
     それぞれが、この場所を「街」にしていた。
     しばらく、ペンを持つ手を止めたまま見つめる。
     見たいのは、高層ビルではない。
     観光名所でもない。
     知りたいのは、もっと単純なことだった。
     なぜ人は集まるのか。
     なぜ街は続くのか。
     どれほど立派な建物でも、どれほど整った広場でも、
     人がいなければ、それはただの構造物にすぎない。
     その答えが、この場所にはある気がした。
     いつの間にか、隣を見ていた。
     ジェフは何も言わず、広場を眺めていた。

    第十四章 未来の日常

     
     ホテルの部屋へ戻ると、エミリーはすぐにノートパソコンを開いた。
     机の上には、視察で書き込んだメモが広がっている。
     ジャワハッカ。
     広場。
     リス。
     ベビーカーを押す夫婦。
     走り回る子どもたち。
     ページをめくるたびに、断片がよみがえった。
     時計を見ると、会議まであと三十分だった。
     スライドを開き、何度も言葉を書き直した。
     気づけば、最後に残ったのは一行だけだった。
     ーー人はなぜ街へ来るのか。
     エミリーは小さく息を吐く。
    「これでいい」
     誰にともなく呟き、部屋を出た。

     会議室にはすでに役員たちが集まっていた。
     再開発会社、投資会社、行政担当者。
     建築、交通、インフラの各チーム。
     ジェフは後方の席に座っていた。
    「それでは佐藤さん、お願いします」
     エミリーは立ち上がる。
     手のひらに、わずかな汗を感じた。
     スクリーンに一枚目のスライドが映る。
     マリーナ・イーストの完成予想図だった。
    「本日は再開発計画についてお話しします」
     静かな声だった。
    「ただし、建築計画そのものではありません」
     会場にわずかな緊張が走る。
    「現地を歩く中で、一つの疑問が生まれました」
     スライドが切り替わる。
     白い画面の中央に、一文だけがある。
    『人はなぜ街へ来るのか』
     会議室が静まった。
    「私たちは住宅を作ります」
    「商業施設を作ります」
    「交通網を整備し、公園も整えます」
     画面にチェックが並ぶ。
     住宅。商業。交通。公園。
    「ですが、それだけで街は成立するのでしょうか」
     誰も答えない。
     エミリーは続けた。
    「今朝、私はシンガポールの広場を歩きました」
     映像が切り替わる。
     ジョギングする人。
     ベビーカーを押す夫婦。
     芝生で遊ぶ子どもたち。
     カフェで話す人々。
    「そこにいた人々は、何かを利用するためだけに来ていたわけではありません」
     少し間をおく。
    「散歩をしている人がいて」
    「ただ座っている人がいて」
    「誰かと話している人がいて」
     エミリーはスクリーンを見る。
    「特別な理由はありませんでした」
    「でも、みんなそこにいました」
    「それがなぜか気になったんです」
    「ただの広場のはずなのに」
    「なぜか、その場所が生きているように見えました」
     会場の空気が少しずつ変わる。

     次のスライド。
     中央緑地の構想図。
    「私は中央緑地の役割を見直す必要があると思っています」
    「収益施設を否定するものではありません」
     一度言葉を区切る。
    「むしろ、それを支える大切な要素になるのではないかと感じました」
     広場の図が映る。
     エミリーは会場を見渡した。
    「歩きたくなる場所」
    「立ち止まりたくなる場所」
    「誰かと時間を過ごしたくなる場所」
    「そういう時間の積み重ねが、街になるのかもしれません」
     最後のスライドが映る。
     海辺の芝生。
     水辺の遊歩道。
     木陰のベンチ。
     都市農園。
     野鳥の集まる湿地。
     ミストの噴霧。
     夜のライトアップ。
     そして中央に二行。
    『人は施設を利用するためだけに街へ来るのではない』
     クリック。
    『誰かと同じ景色を見るためにも来る』
     会議室が静まり返る。
     エミリーは息を吸った。
    「私たちが作ろうとしているのは建物です」
     ほんの短い沈黙が落ちる。
    「ですが、それだけでは街にはならないと思います」
    「昨日まで、この街に本当に必要なものが分かりませんでした」
    「住宅の数も、店舗の面積も、交通量も」
    「どれも重要です」
    「でも、今朝広場を歩いていて思いました」
    「それだけでは足りないんじゃないかって」
    「人が立ち止まりたくなる場所」
    「誰かと過ごしたくなる場所」
    「また来たいと思う場所」
    「そういうものが必要なんじゃないかと思いました」
    「私たちが作りたいのは建物ではありません」
     少し息を吸う。
    「未来の日常です」

     静けさが落ちた。
     誰も資料をめくらない。
     誰もキーボードを打たない。
     スクリーンには海辺の広場が映ったままだった。
     数秒の沈黙、それがひどく長く感じられた。
    「インフラ側から補足します」
     静まり返った会議室に声が響いた。
     ジェフだった。
     後方の席から、ゆっくりと立ち上がる。
    「佐藤さんの提案は感覚論ではありません」
     スクリーンを見上げる。
    「滞在時間が伸びれば人流は変わります」
    「人流が変われば商業にも影響します」
    「詳細な検証は必要ですが、方向性としては十分成立する提案だと思います」
     淡々とした声だった。
    「中央緑地の見直しについても技術的な検討は可能です」
     一度区切る。
    「排水、導線、交通接続については課題があります」
    「ですが、実現は可能だと考えています」
     再び静けさが落ちた。
     しばらく誰も口を開かなかった。
     やがて、部長が資料を閉じた。
    「面白い」
     誰かが息をのむ。
    「ようやく建物の話ではなく、街の話になったな」

    第十五章 続けろ

     
     成田行きの便が着陸した。
     機体が滑走路を走り、細かな揺れが身体を伝わった。
     エミリーは窓の外へ目を向けた。
     雨を残した滑走路が鈍く光っている。
     シンガポールの強い日差しが、ずいぶん前のことのように思える。
     発表のあとの会議は予想以上に長引いた。
     収益性。
     維持管理費。
     交通計画。
     環境負荷。
     次々と投げかけられる質問に答え続けた。
     エミリーは事業計画や利用者導線について説明し、
     ジェフは排水計画や交通インフラへの影響を補足した。
     時には二人で顔を合わせながら答える場面もあった。
     簡単な会議ではなかった。
     それでも最後まで、
    「無理だ」
     と言う者はいなかった。
     会議が終わり、人が席を立ち始める頃だった。
     部長が資料を閉じる。
    「続けろ」
     言葉はそれだけだった。
     だが、エミリーには十分だった。

     入国手続きを終え、タクシーに乗り込む。
     窓の外を東京の街が流れていく。
     雨に濡れた道路、途切れない車列、交差点を渡る人々。
     同じ大都市でも、シンガポールとはどこか違う。
     街にはそれぞれの呼吸がある。
     膝の上でノートを開く。
     視察中に書き込んだ文字が並んでいた。
     人は施設を利用するためだけに街へ来るのではない。
     その言葉の下には、いくつもの走り書きが残っている。
     まだ答えを見つけたわけではない。
     むしろ、ようやく入口に立った気がしていた。

     タクシーが本社ビルの前で止まった。
    「お客さま、到着しました」
     運転手の声に、エミリーはゆっくりと顔を上げる。
     ガラス張りの高層ビルが、曇った空をそのまま映していた。
     二十九階。
     都市開発本部。
     現実へ引き戻される感覚が、じわりと遅れてやってきた。
     エレベーターを降りると、いつものオフィスの空気が迎える。
    「おかえり」
    「どうだった?」
     同僚たちが声をかけてきた。
     エミリーは荷物を机に置いた。
    「どうだった?」
     もう一度聞かれて、少しだけ言葉を探す。
     うまく言い切れる感触は、まだない。
    「思っていたより、難しいです」
    「何が?」
     エミリーは一度視線を落とす。
    「街をつくることです」
    「今さらだな」
     エミリーは苦笑した。
    「でも、建物を作るより難しいかもしれません」
     同僚が笑う。
     その時だった。
     遥が近づいてくる。
    「エミリー、部長がお呼びです」
    「今ですか?」
    「今です」
     遥が苦笑した。
     帰国して、まだ十分も経っていない。
     エミリーが顔を上げると、ジェフがモニターを見つめていた。
     何かを考えている時の顔だった。
     その横顔を見ていると、ふと昔を思い出す。
     クルミの木の下。
     ルービックキューブを回していた少年。
     なぜか、その姿が重なった。 
     ふと顔を上げたジェフと、視線が合う。
     ジェフは何も言わず、また画面へ目を戻す。
     エミリーはノートを抱え直し、部長室へ向かった。
     何の話だろう。
     分からない。
     けれど今回は、不思議と足取りは軽かった。

    第十六章 夜のオフィス

     
     部長室に入ると、部長は資料も開かずに言った。
    「座りなさい」
     エミリーが腰を下ろしても、すぐには本題に入らなかった。
     沈黙のあと、部長がようやく口を開く。
    「最近、ちゃんと寝ているか」
    「え……」
    「顔色がよくないな」
     エミリーは言葉に詰まる。
    「仕事の前に、少し休みなさい」
     エミリーは何も言えず、小さくうなずいた。
     それ以上、言葉は続かなかった。

     帰国からして三日が過ぎていた。
     エミリーは自席で資料に目を落としていた。
     シンガポールで撮った写真、歩行者の動線、緑地の利用データ。
     その合間に、自分のメモが挟まっている。
     まだ足りない。
     もっと詰められる。
     そう考え続けていると、肩に軽く手が置かれた。
    「お疲れ」
     遥だった。
    「お疲れ」
    「まだやるの?」
    「もう少し」
    「部長に何言われたの?」
    「休めって」
    「で、仕事してるの?」
    「してる」
    「だと思った」
     遥は小さく笑った。
     気づけば、オフィスは静かになっていた。
     時計はもう夜九時を回っている。
     不意に、机の上に小さな紙袋が置かれた。
     顔を上げると、ジェフが立っている。
    「あ、ありがとう」
     中を見ると、栄養ドリンクとおにぎりが入っていた。
    「まだ残ってたんだ」
    「ああ」
     それだけ言って、ジェフはすぐには離れず、空いている隣の席に腰を下ろして、ペットボトルの蓋を開けた。
     画面がスリープに入り、スクリーンセーバーが動き出した。
     家族写真だった。
    「カボチャ……?」
    「もうその名前じゃない」
    「じゃあ何?」
    「リリー」
    「リリー」
     ジェフが小さく繰り返す。
     エミリーは画面に視線を戻した。
     妹は大学の卒業式のガウンを着ている。
     隣には両親がいた。
    「去年、卒業した」
    「早いな」
    「ほんとに」
     短い沈黙が落ちる。
     だが、不思議と気まずくはなかった。
     窓の外には東京の夜景が広がっている。
     フロアには空席が目立ち始めていた。
    「そういえば」
     エミリーが言った。
    「メール、覚えてる?」
     ジェフが少しだけ視線を上げる。
    「覚えてる」
    「最初のやつ」
     小学校を離れてから、初めて送ったメールだった。
     件名もない短い文章。
     何度も書き直して、ようやく送ったものだ。
    「返事、遅かったよね」
    「三日考えた」
    「三日?」
    「英語、迷った」
     エミリーは思わず笑った。
    「今なら信じられない」
     言いながらエミリーは、ジェフが少しだけ笑うのを見ていた。
    「当時はそれが普通だった」
     少し間を置いて、ぽつりと言った。
    「何を返せばいいか分からなかった」
     エミリーは小さくうなずく。
     あの頃のやり取りは、自然に途切れていった。
    「そのあと」
     ジェフが続ける。
    「ルービックキューブの大会に出た」
    「え?」
     エミリーが顔を上げる。
    「本当に?」
    「うん」
    「勝ったの?」
    「負けた」
    「負けたんだ」
    「負けた」
    「でも出たんだ」
    「出た」
     エミリーは吹き出した。
    「やっぱりジェフだね」
    「そうか?」
     ジェフの返事が、少しだけ遅れた。
    「そう」
     少し笑いが残る。
    「ねえ」
     エミリーが言った。
    「あの時、なんでルービックキューブ覚えたの?」
     ジェフは少しだけ考えるように間を置いた。
    「見てたから」
    「それ、前も聞いた」
    「答えは同じ」
     それ以上は説明しなかった。
     エミリーは笑った。
     変わっていない。
     変わらないままの部分が、確かにそこにあった。
     窓の外では東京の夜が静かに広がっている。
     気づけば時計は十時を過ぎていた。
     オフィスには二人しか残っていなかった。
     それでも二人は席を立たなかった。
     昔の話を、少しだけ続けていた。

    第十七章 赤い鳥を見た日


     「ヒョヌ!学校に遅れるわよ!」
     アメリカに来て二日目の朝だった。
     まだカーテンのない大きな窓から、まぶしい朝日が差し込んでいた。
     布団の中で目を閉じたまま、ヒョヌは小さく息を吐いた。
     行きたくない。
     英語なんて、ほとんど分からないのに。
     家を出てバス停へ向かうと、すでに何人かの子どもたちが集まっていた。    
     子どもたちは笑いながら走り回り、次々と言葉を交わしていた。
     ヒョヌはリュックの肩紐を強く握りしめた。
     視線は自然と足元へ落ちる。
     遠くからバスのエンジン音が聞こえてきた。
     黄色いスクールバスだった。
     車内は予想以上に騒がしかった。
     あちこちから笑い声が上がり、言葉が飛び交う。
     けれど、そのほとんどが聞き取れない。
     ヒョヌは空いている席を見つけると、すぐに腰を下ろした。
     誰とも目を合わせたくなかった。
     窓の外へ視線を向け、流れていく住宅街をぼんやり眺めていると、不意に隣から声がした。
    「Hi」
     驚いて顔を上げる。
     隣の席に女の子が座っていた。
     同い年くらいだろうか。
     明るい茶色の髪が朝日に透けて見える。
    「Hi」
     慌てて返した。
     思ったより小さな声になった。
     けれど彼女は気にした様子もなく尋ねる。
    「何年生?」
    「五年」
    「名前は?」
    「Kim Hyunwoo」
     彼女は首を傾げた。
    「ヒョン?」
    「ヒョヌ」
    「ヒョンウォ?」
     何度か言い直してみるが、うまくいかない。
     ヒョヌは少し困って笑った。
    「Jeffでいいよ」
     父が用意してくれた英語名だった。
    「Jeff?」
    「うん」
    「私はEmily」
     そう言って、彼女はぱっと笑顔になった。
     バスがゆっくり減速して、体が少し前に押される。
    「見て」
     エミリーが窓の外を指差すと、ヒョヌもつられて顔を向けた。
     木の枝に、一羽の赤い鳥が止まっていた。
     朝の光を受けて、羽が鮮やかな赤い色をしている。
    「Cardinal」
     エミリーが嬉しそうに言う。
    「Pretty……」
     口をついて出た言葉に、エミリーが笑う。
     バスが再び動き出すと、赤い鳥は枝を蹴るように飛び立った。
     ヒョヌはしばらく窓の外を見つめていた。
     それが、アメリカで初めて見たカーディナルだった。

     翌朝、ヒョヌは少し早く家を出た。
     理由は自分でもよく分からなかった。
     空は高く、少しひんやりした風が頬をかすめた。
     まだ夏の名残が残る朝だった。
     バス停にはすでにエミリーがいた。
     他の子どもたちの姿はまだない。
     挨拶をして、隣に並んだ。
     すると足元へ何かが落ちてきた。
     ころり、と転がった丸い実を見つめていると、
    「クルミだよ」
     エミリーが教えてくれた。
     見上げると、頭上には大きなクルミの木が枝を広げていた。
     ヒョヌは初めて見るその木を、しばらく眺めていた。

     数日後、学校から帰ると裏庭の方から母の声が聞こえた。
    「ヒョヌー!ちょっと来て」
     呼ばれるまま裏口のドアを開ける。
    「ほら」
     母が指差した先で、木の枝に鳥のえさかごが揺れていた。
    「ホームセンターで買ってきたの」
    「鳥のえさかご?」
    「ヒョヌ、鳥を見つけると嬉しそうだったから」
     そう言って母は軽く笑った。
     その日から、ヒョヌはダイニングテーブルの窓際が好きになった。
     外を見ていると、鳥が次々とやって来る。
     黄色い鳥。
     青い鳥。
     頭だけ赤い鳥。
     どれもえさかごに止まっては、餌をつまむとすぐに羽ばたいて飛んでいった。
     それでも、あの日見た真っ赤な鳥だけは、なかなか姿を見せなかった。
     カーディナル。
     あの真っ赤な色が、なぜかずっと残っていた。

     十月になると、道路にはクルミの実がたくさん落ちるようになった。
     近所の人たちは袋を片手に実を拾い集めている。
     学校帰りの夕方、バスを降りたヒョヌの後ろを、エミリーが歩いていた。
     ふと視線を上げると、木々の間に鮮やかな赤が見えた。
     ヒョヌは思わず立ち止まる。
    「あっ」
     視線の先を追ったエミリーも声を上げた。
     高い枝の上に、一羽の赤い鳥が止まっている。
     夕陽を浴びた羽が赤く輝いていた。
    「Cardinal」
     エミリーが微笑むと、ヒョヌも小さくうなずいた。
     鳥は枝から枝へ軽やかに飛び移る。
     二人は並んで見上げていた。
     やがてカーディナルは羽を広げた。
     赤い影が夕暮れの木々の向こうへ流れていく。
     葉の隙間に隠れながら、少しずつ遠ざかり、やがて見えなくなった。
    「きれいだね」
     エミリーがぽつりと言う。
     ヒョヌは空を見上げたまま答えた。
    「うん」
      赤い鳥はもう見えなくなっていた。
     それでも二人は、しばらくその空を見上げていた。

    第十八章 最初の秋 
     

    「Great kick!」
    「Keep it up!」
     蹴り技を見せると、先生が笑いながら言った。
     道場は思ったより自由で、ちょっと驚いた。
     先生はよく褒めてくれる気がする。
     二時間の稽古が終わると、後ろの方で父が待っていた。
    「Happy Halloween!」
    「Have fun tonight!」
     帰り際、先生や父兄が声をかけてくれる。
     みんな楽しそうで、少しそわそわしている。
    「なんか行きたくないな」
     窓の外の西日が、車の中まで差し込んで眩しかった。
     近所を走る車の陰に、大人たちがクルミの木の下でテーブルを運んでいるのが見えた。
     ヒョヌは窓の外を見たまま、シートの端に体をずらした。
     
     家に着くと、オーブンから甘いクッキーの匂いが漂ってきた。
     母がちょうど天板を取り出している。
    「よし、完成」
    「美味しそう!食べていい?」
     姉が期待いっぱいに聞くと、母は首を振った。
    「だめよ、ハロウィンに持っていくから」
     姉がしょんぼりする。
    「ヒョヌ、着替えて」
    「もうすぐ行かないと」
    「これでいい」
     ヒョヌが道着のまま立っているのを見て、姉が慌てて部屋へ駆けていく。
     黒い帽子を持って戻ってきた。
    「ほら、これ、とりあえず」
    「何これ?」
    「魔女の帽子」
    「細かいことは気にしないの」
    「ハロウィンっぽければいいの!」
     母と姉と一緒に外へ出ると、クルミの木の下では、子どもたちがコスチュームを着て走り回っていた。
     ヒョヌの目があちこち動く。
     ふと、人ごみの中で小さく黒が揺れた。
     黒猫の耳としっぽーーエミリーだ。
    「Emily!」
     思わず名前が口をついた。
     エミリーが振り向くと、少し不思議そうな顔をしていた。
     急に恥ずかしくなった。
    「似合ってる」
     エミリーの言葉で顔が熱くなる。
    「これ本物だから」
     道着を指して、少しぶっきらぼうに言った。
    「魔女がテコンドー?」
     エミリーが吹き出した。
    「帽子だけ借りた」
     冷静に答える。
    「なんで?」
    「姉さんが余ってるからって」
     言いながら、少し笑ってしまった。
     そのとき、エミリーの後ろから小さな女の子が駆けてきた。
     丸いカボチャの着ぐるみを着て、ちょこちょこ歩いている。
     クルミの木の背後に置かれた白い骸骨を指差して、気にする様子もなく歩き回る。
    「怖くないの?」
     ヒョヌが聞くと、女の子はにっこり笑ってうなずき、そのまま歩き出した。
    「転びそう」
     ヒョヌは目で追った。

     辺りはもう、すっかり暗くなっていた。
     どれくらい歩いただろう。
     手に持つバスケットは、キャンディでいっぱいだ。
     エミリーは楽しそうに数を数えている。
     遠くから声が聞こえた。
    「Em (エム)!そろそろ帰る時間だぞ」
    「はーい、今行く」
     Emって呼ばれているんだ。
     Emily……Em……。
     僕まで呼んだら、ちょっと変かな。
    「Jeff、じゃあ、また明日」
     エミリーが立ち上がる。
    「また明日、Em」
     黒猫のしっぽが小さく揺れて、エミリーは家へ向かって走っていった。
     足音と笑い声にまぎれて、すぐに見えなくなる。
     空を見上げると、クルミの木の形はよく見えなかった。
     手の中のバスケットは重かった。
     さっきまでの時間がぎゅっと詰まっている気がした。

    第十九章 暇だったから


     春休み前日の金曜日だった。
     教室のあちこちから楽しそうな声が聞こえてくる。
     帰りのスクールバスの中は、いつにも増して賑やかだった。
    「私はバージニアのビーチハウスに行くんだ」
    「従兄弟が遊びに来るんだよ」
    「俺は野球観戦!」
     二週間の春休みを前に、みんな思い思いの予定を語り合っている。
     ヒョヌは自分の席で黙ってその様子を見ていた。
    「私はフロリダに行くの」
     エミリーが身を乗り出して言った。
    「おじいさんとおばあさんが住んでるの。もうすごく暑いんだって!」
     嬉しそうな声は止まらない。
    「ジェフは?」
     突然話を振られ、ヒョヌは少しだけ顔を上げた。
    「特に何もない」
     テコンドーの稽古も春休み中は休みだった。
     遊ぶ約束をする友達もいない。
     行きたい場所も、やりたいことも思い浮かばなかった。
     退屈な春休みになりそうだった。
     実際、休みに入ると、裏庭で少しサッカーボールを蹴ることもあったが、長くは続かなかった。 
     すぐに家の中へ戻り、結局はゲームをするくらいしか時間の潰し方がなかった。

     そんなある日の午後だった。
     ヒョヌはテレビの前で、いつものゲームをしていた。
     玄関のドアを勢いよく叩く音が響いた。
    「Hello!」
     父がドアを開ける前に、元気な声が聞こえた。
     エミリーが息を切らしながら家の中へ入ってきた。
     彼女は鞄からルービックキューブを取り出すと、得意げに指先で回し始める。
     カチャ、カチャ、と音が鳴る。
     エミリーの指がどんどん動く。
     気がつくと、六面とも同じ色になっていた。
    「どう?」
     エミリーが胸を張る。
    「へえ」
     ヒョヌはそれ以上何も言わなかった。
     すごいのかもしれない。
     けれど、何と言えばいいのか分からなかった。
     エミリーは一瞬、怒っているようにも、がっかりしているようにも見える顔をした。
    「ほら」
     彼女はルービックキューブを差し出す。
    「ジェフもやってみなよ」
    「あとで」
     そっけなく答えると、エミリーは少しだけ唇を尖らせた。
     それでも何も言わず、ルービックキューブをテーブルの上に置いた。
     
     やがて帰る時間になると、家の中は急に静かになった。
     さっきまで響いていた声が消え、残ったのはテーブルの上のルービックキューブだけだった。
     ヒョヌはしばらくそれを眺めていた。
     別に興味があったわけではない。
     ただ、本当にやることがなかった。
     何となく手を伸ばし、一面をひねる。
     すると揃っていた色があっという間に崩れた。
     もう一度回してみる。
     今度はさらにひどくなる。
    「何だよ、これ」
     思わず呟き、唇を結んだ。
     少なくとも、これにはちゃんとルールがある。
     ルールさえ分かれば、きっと解ける。
     そう思って、もう一度回した。
     崩れる。
     さらに回す。
     また崩れる。
     それでも手を止めなかった。
     気がつけば窓の外は夕暮れ色に染まっていた。
    「ヒョヌ、ご飯よ」
     母の声が聞こえる。
    「あと五分」
     そう返しながらも、視線はルービックキューブから離れなかった。
     翌日も。
     その次の日も。
     春休みの間、ヒョヌは時間があればルービックキューブを回し続けた。
     失敗しては崩し、崩してはやり直す。
     少しずつ法則が見え始め、指が迷わなくなっていった。
     六面全部をそろえるまで、もうそんなに遠くない気がした。

     春休みが終わり、月曜日の朝がやってきた。
     いつものクルミの木の下に、エミリーが立っていた。
     ヒョヌはリュックの中へ手を入れた。
     春休みの間、何度も何度も回し続けたルービックキューブがそこにあった。
    「Em」
     呼びかけると、エミリーが振り返る。
    「わっ、びっくりした」
     ヒョヌは何も言わず、ルービックキューブを持ち上げた。
     カチャ。
     カチャ。
     カチャ。
     指が迷いなく動く。
     春休みの間に何百回と繰り返した手順だった。
     最後の一回転。
     色が揃い、六面すべてが完成する。
     エミリーは目を丸くしたまま固まった。
    「……え?」
    「嘘でしょ」
     ヒョヌは肩をすくめた。
    「暇だったから」
     その瞬間、遠くからスクールバスのエンジン音が聞こえてきた。
     ルービックキューブをリュックの中に入れる。
     春休みは終わり、また新しい一週間が始まろうとしていた。

    第二十章 雨上がりの午後

     雨が何日も続いていた。
     外で遊べない週が続き、ヒョヌは少し退屈していた。
     土曜日の朝も、いつものように机に向かっている。
    「You buy a pencil for $1.25 and an eraser for $0.75.
     How much do you spend in total?」
     数学の問題集を開きながら答えを書いていく。
     英語は苦手だけれど、数学なら嫌いじゃない。
     ふと手を止めて、窓の外を見た。
     ずっと灰色だった空が、今日は少し違って見える。
     雲の切れ間から光が差し込み、濡れた道路がきらりと光った。
    「あ」
     思わず立ち上がった。
     青空が見えた。
     何日ぶりの光だろう。
     ペンを置き、机から立ち去る。
    「いってきます!」
     母に声をかけると、ヒョヌは急いで車庫へ向かった。
     自転車を引っ張り出し、ヘルメットをかぶる。
     ペダルを踏み込み、住宅街を走り出した。
     雨上がりの空気はひんやりとして、芝生の匂いが風に混じる。
     ヒョヌは住宅街をぐるりと一周した。
     気づけば、またエミリーの家の前を通りかかる。
     窓をちらりと覗いたが、そのまま通り過ぎた。
     もう一周する。
     今度は少し速度を落とした。
     風が頬をそっと抜けていく。
     再びエミリーの家が見えてきた。
     窓際に人影が揺れる。
     家の前まで来て、ヒョヌはようやくブレーキを握った。
    「Em!」
     手を振ると、エミリーがこちらを見た。
    「行こう!」
     エミリーはもう玄関へ向かっていた。
     数分後には二人で並んで走っていた。
     どちらからともなく競争になる。
    「負けないから!」
     エミリーが前へ出る。
    「そっちこそ!」
     ヒョヌも立ちこぎで追いかけた。
     坂道を上り、カーブを曲がる。
     息が切れる。
     でも楽しかった。
     光がまぶしく差し込み、それだけで気分まで軽くなる。
     気づけば、さっきまでの退屈はどこかへ消えていた。

     しばらく走り回ったあと、二人はエミリーの家へ戻った。
    「バレーする?」
     エミリーが言うと、ヒョヌはすぐうなずいた。
     裏庭のネットを挟んで向かい合う。
    「いくよ!」
     エミリーのサーブが飛んでくる。
     ヒョヌは慌てて腕を出した。
    「痛っ!」
     思わず顔をしかめる。
    「今の絶対本気だった」
    「ちょっとだけ」
    「ちょっとじゃないって」
     エミリーは声を上げて笑った。
     負けじとボールを打ち返すが、思った方向へ飛ばない。
     エミリーは軽々と拾ってしまう。
     何度か続けるうちに腕がじんじんしてきた。
     またボールが飛んでくる。
     今度は少し勢いが弱かった。
     とっさに足を出した。
     ぽん、とボールが浮いて、ネットを越えた。
    「あ」
     エミリーの目が丸くなる。
     ヒョヌはくすっと笑ってしまった。
     次も足で返す。
    「ちょっと!」
    「なんで?」
    「バレーボールだから!」
     二人とも笑い出した。
     ボールは何度も芝生を転がり、そのたびに追いかける。
     雨上がりの庭はまだ少し湿っていた。
     空は少しずつ夕方の色に変わり始めていた。

    「二人とも休憩したら」
     エミリーのお母さんが声をかけた。
     二人は芝生に座り、紙皿に乗ったアイスクリームを受け取った。
     甘くて冷たい。
     風も汗を少しだけ冷ましていく。
     あの小さなカボチャが、両手でシャボン玉の容器を抱えている。
     得意そうに息を吹くと、透明な球がふわりと宙に浮いた。
     一つ。
     また一つ。
     日差しを受けて虹色に光る。
     ふわり、ふわりと上がり、葉っぱの間を抜け、庭の端まで漂っていく。
     ヒョヌはただ目で追った。
     前庭ではエミリーのお父さんが芝刈りをしている。
     規則的な音だけが遠くから聞こえてきた。
     シャボン玉の動きを追いながら、アイスクリームを口に運ぶ。
     紙皿の中で少しずつ形がゆるんでいた。
     学期も、もうすぐ終わる。
     そのことを急に思い出した。
     今みたいに遊べる日も、あと何回あるだろう。
    「あと何回遊べるかな」
     気づけば口に出していた。
    「うん……」
     エミリーが小さくうなずく。
     二人とも空を見上げた。
     シャボン玉が風に流され、ふわり、ふわりと高く昇っていく。

     シャボン玉は、ふっと消えた。

     ヒョヌは溶けかけたアイスクリームをひと口食べた。
     甘さが少しだけ遅れて広がった。

    第二十一章 約束

     
     卒業式の朝だった。
     クルミの木の下のバス停に立つのも、今日が最後になる。
     式は午前で終わるため、帰りは両親と一緒に車で帰ることになっていた。
     明日から夏休みに入る子どもたちは朝から浮き立った声を上げていたが、エミリーだけはどこか静かだった。
     やがて遠くからバスのエンジン音が聞こえてくる。
     そのとき、エミリーの家の玄関が勢いよく開き、小さなカボチャが飛び出してきた。
     転びそうになりながら庭先まで駆けると、こちらへ向かって懸命に両手を振る。
     それを見たエミリーの頬がわずかに緩んだ。
     ヒョヌも手を上げる。
     バスが停まると、ヒョヌは窓際の席に腰を下ろした。
     エミリーも何も言わず隣に腰を下ろし、視線を窓に落としていた。
     走り出したバスの窓から見ると、小さなカボチャはまだ同じ場所に立ち、手を振り続けていた。
     隣で、エミリーの指先が少しだけ動いた。
     二人のあいだには、しばらく言葉がなかった。
     車内には子どもたちの笑い声が満ちているのに、その席だけが取り残されたように静かだった。
     やがてエミリーが窓の外を見たまま口を開く。
    「今日、学校が終わったら」
     そこで一度言葉を切り、少しだけ視線を伏せた。
    「家に遊びに行ってもいい?」
    「うん」
     ヒョヌが答えると、エミリーは小さくうなずいた。
     それだけだった。
     けれど、その横顔には久しぶりに笑顔が戻っていた。

     卒業式は予定どおり始まった。
     賞の発表が近づくにつれて、あちこちで落ち着かない空気が広がる。
     ヒョヌは自分には関係のない話だと思いながら壇上を眺めていた。
     ところが数学部門の表彰で突然名前が呼ばれた。
     一瞬、自分のことだと理解できなかった。
     周囲の視線が集まるなか、慌てて立ち上がり、ぎこちない足取りで壇上へ向かう。
     賞状を受け取り、先生と握手を交わすと、照れくささから逃げるように席へ戻った。
     その途中で、ひときわ大きな拍手が耳に入った。
     見ると、エミリーが誰よりも大きく拍手をしていた。
     ヒョヌは思わず目をそらした。
     それでも席に着くまで、その拍手は聞こえ続けていた。

     式が終わると両親がやって来た。
     母は少し目を赤くし、父は何度も肩を叩いてくる。
     三人で写真を撮り、今度は賞状を持ってもう一枚撮った。
     カメラを向けられるたびに笑おうとしたが、そのたびに人混みの向こうへ視線が向く。
     エミリーの姿は見つからなかった。
     もう帰ったのだろうか。
     学校が終わったら家に遊びに来る約束だっただ。
     そう思ったときだった。
    「ヒョヌ、そろそろ行かないと」
     母が腕時計を見ながら言った。
    「遅れちゃうわ」
    「どこに?」
    「お別れ会よ。皆さんが開いてくれるの」
     母はそう言いながら荷物をまとめ、父は賞状を抱え直した。
    「さあ、行きましょう」
     促されるまま校舎を出る。
     振り返ろうとしたときには、もう駐車場へ向かって歩き出していた。
     お別れ会は思ったより長く続いた。
     気がつけば外はすっかり暗くなり、帰りの車が住宅街へ入ったころには九時を過ぎていた。
     窓の外を流れる見慣れた景色をぼんやり眺めていると、エミリーの家が見えた。
     窓には灯りがともっていた。
     カーテンの隙間から漏れる暖かな光が、夜の闇のなかに浮かんでいる。
     ヒョヌはその家を目で追った。
     けれど車は止まらない。
     もう一度だけ灯りを見ようとした。
     だが、家は街路樹の向こうに隠れていた。
     明日の朝には、この街を出る。

    第二十二章 最後の日

     昨夜はなかなか眠れなかった。
     部屋の隅には荷造りを終えた段ボール箱が積まれ、その影が薄暗い壁にぼんやりと伸びていた。
     目を閉じても、明日になればこの家を離れるという事実ばかりが頭に浮かび、何度も寝返りを打った。
     それでも朝はやって来る。
     ヒョヌはいつもより早く目を覚まし、開けたままのスーツケースを何度か整え直した。
     荷造りはほとんど終わっている。
     それでも手を動かしていないと落ち着かない。
     簡単な朝食を済ませ、ダイニングテーブルに腰を下ろした。
     窓の外の裏庭には、鳥のえさ箱がまだ吊るされていた。たっぷり詰められた餌をついばむ鳥たちの姿が見える。
    「そのまま置いていくわ」
     母がコーヒーカップを持ちながら言った。
    「次に住む家族も楽しむと思うの」
     母はそう言って立ち上がった。
     青い鳥が枝から舞い降り、しばらくして飛び去る。続けてまた別の鳥がやって来る。羽ばたく音が耳に心地よく響いた。
     ヒョヌはしばらく窓の外を眺めた。
    「また会えるかな」
     ヒョヌはしばらく窓の外を見ていた。
     それから静かに席を立ち、自分の部屋へ向かった。スーツケースを開き、筆箱から鉛筆を取り出す。ノートの端を一枚破った。
     
     引っ越し作業は驚くほど早く終わった。
     運び出す荷物は段ボール箱数個と自転車、そして小さな家具だけ。大きな家具はほとんど譲って売った。もともと一年間の滞在予定だったから、必要最低限のものしかなかった。
     玄関先で荷物が運び出されるのを見ていたとき、向こうの通りから誰かが駆けてきた。
     息を切らしながら、エミリーだった。
     肩で息をしながら「Hi」と言う。
     ヒョヌは咄嗟に口を開けたが、昨日のことを謝る言葉は出なかった。代わりに小さく肩をすくめ、目をそらす。
    「Hi」
     ヒョヌも同じ言葉を返した。
     しばらくの沈黙のあと、エミリーがそっと小さな紙袋を差し出した。
    「これ」
     ヒョヌは受け取り、中を開く。
     赤い鳥、カーディナルのキーホルダーが入っていた。
    「Cardinal」
     エミリーが少し笑う。
    「覚えてる?」
     もちろん覚えている。
    「うん」
     ヒョヌは小さくうなずき、紙袋をそっと胸に抱いた。
     ポケットから折りたたんだ紙を取り出す。
    「これ」
     エミリーが紙を開く。
     そこにはメールアドレスが書かれていた。 
     エミリーは紙を見つめたまま少し笑った。
    「待ってて」
     エミリーは家へかけ戻った。しばらくして戻ってくると、鉛筆を手にヒョヌの目の前でそっと紙に書き込んだ。
    「これ」
     差し出された紙にはメールアドレスが記されていた。
     ヒョヌはそれを丁寧に折りたたみ、ポケットへしまった。  
      
     庭の緑の葉が茂る大きな木の枝に赤い色が見えた。
    「あっ」
    「Cardinal!」
     一羽だけではなかった。隣には茶色の鳥も止まっている。
     つがいだった。
     二羽は寄り添い、時折同じ方向を見つめている。
     ヒョヌはキーホルダーを握りしめた。
     父の声がした。
    「ヒョヌ、行くぞ」
     車が待っている。
     ヒョヌはエミリーを見る。言葉が見つからない。ありがとう、元気で、またね。どれも口にするには違った気がした。
     それでも自然に口から出たのは、思いがけない言葉だった。
    「Merry Christmas!」
     エミリーの目が丸くなる。
    「まだ六月だよ」
     笑いながら、二人は最後の別れを告げた。
    「Bye, Em」
     エミリーは小さく笑った。
    「Bye, Jeff」
     車が走り出す。振り返ると、エミリーはまだそこに立ち、小さく手を振っていた。
     その姿がだんだん小さくなり、やがて見えなくなった。
     手の中で赤いカーディナルのキーホルダーが小さく揺れていた。
     
     

    第二十三章 計画承認


     控室の空気は静かだった。
     エミリーはノートパソコンの画面を前に、スライドを何度も切り替えながら最後の確認をしていた。
     昨日の夜も、今朝も、出社してからも見直したはずなのに、胸の奥の緊張は消えない。
     喉が渇き、ペットボトルの水を口に運び、手元をそっと握り直す。
     背後でドアの開く音がした。
     ジェフが入ってくる。
    「まだ確認しているのか」
    「最後」
     エミリーは視線を画面に残したまま言うと、ジェフは何も言わず隣に立った。
    「共有フォルダを開けて」
    「追加のスライドを作った」
     エミリーが顔を上げた。
    「今?」
    「反対意見用」
    「今?」
    「今」
     エミリーは指先を動かし、共有フォルダをスクロールする。
     昨日までなかったスライドがひとつ増えていた。
     自分の資料の隣に、ジェフが用意した補足資料が並んでいる。
     視線がそこに止まる。
     ほんの一瞬だけ、指先の動きが途切れた。
     すぐにスクロールへ戻る。
     その動きは、さっきより少しだけ落ち着いていた。

     会議室に入ると、空気はすでに固かった。
     修正案の説明が始まってから、反対意見は途切れていない。
     採算性。
     投資回収。
     維持費。
     リスク。
     数字が飛び交い、資料が積み重なっていく。
     だが議論は前に進まなかった。
     誰もが同じ場所を回り続けている。
     反対派の役員がゆっくり資料を閉じた。
     その音だけが妙に大きく響く。
    「理念は理解しています。しかし都市開発は慈善事業ではありません。広場は利益を生みません。商業床面積を減らして収益性を下げる理由が見えません」
     エミリーはマイクを握り、息を整えた。
    「収益性を下げるつもりはありません。ただ、収益を生む順番を変えたいのです」
    「順番?」
     役員たちの視線が一斉に集まる。
    「その説明をします」
     エミリーが息を吸うより先に、ジェフが一歩だけ前に出た。
    「その認識は違います」
     役員たちが振り向く。
    「広場は利益を生みません」
     一度そこで止める。
    「ですが地価を上げます」
     次のスライドに変わる。
    「住宅価値を上げます」
    「来訪者数を増やします」
    「店舗売上を増やします」
    「税収を増やします」
    「洪水被害コストを下げます」
     スライドが進むにつれて、誰もすぐには言葉を挟まなくなった。
    「つまり広場そのものは利益を生みません」
    「地区全体の利益を最大化します」
     しばらく沈黙が続いた。
     その沈黙の中で、エミリーが口を開く。
    「人が集う場所が必要です」
     エミリーの言葉を受けて、ジェフが次のスライドを映した。
    「それを数値で証明できます」
     ジェフは指でスライドを示しながら数字や図表を指した。
     広場が地区全体にもたらす価値を明確に見せる。
    「それでも失敗したら?」
     役員が詰め寄る。
    「失敗するかもしれません」
     会議室の中がざわついた。
    「私も答えを持っていません」
    「だから測定します」
    「修正します」
    「学び続けます」
     エミリーは一度スクリーンを振り返った。
    「都市は完成品ではありません」
    「人が暮らし始めて初めて街になります」
    「だから私は、人が思い出を作れる場所を残したいんです」
     その言葉に、ジェフは一瞬だけ視線を向けた。
     スクリーンの光が横顔を照らす。
     小さくうなずく。
     会議室の空気は静まり返った。
     スクリーンには中央緑地の完成予想図が映り、木陰の下を歩く人々、水辺で遊ぶ子どもたちが揺れている。
     議長が資料を閉じた。
     一度、周囲を見渡す。
    「反対意見はありますか」
     誰も答えない。
    「それでは採決に移ります」
     数秒の沈黙のあと、議長がゆっくりとうなずいた。
     エミリーは胸の奥で鼓動を感じながら息を止める。
     スクリーンの光が揺れる。
     隣の椅子がきしむ音がした。
     それきり、音が途切れた。
    「マリーナイースト再開発計画修正案、承認します」
     会議室に拍手が広がる。
     周囲の笑顔や手の動きが視界に入るが、エミリーは前を見つめたまま瞬きを一つもしなかった。
    「おめでとう」
     隣でジェフがそっと囁く。
     耳に触れた声が、胸の奥までじんわり届く。
     エミリーは小さく笑いながら首を横に振った。
    「まだ始まっただけ」
     ジェフは短く笑い返し、窓の外の東京の街を見た。
     エミリーも窓の外へ視線を向けた。
     光に照らされたビルの谷間、行き交う人々。
     外の世界のどこかで、誰かの日常が今も続いている。
     拍手の音が少しずつ遠ざかる。
     街の灯りはどこまでも続いている。
     小さく息を吐くと、エミリーはもう一度だけ笑った。

    第二十四章 施工開始前日


     正式な議長の承認書が手渡されてから、すでに二か月が経っていた。
     明日、マリーナイースト再開発計画の起工式が行われる。
     エミリーは一足早くシンガポール入りしていた。
     マリーナイースト予定地の隣にある広場。
     以前、ジェフと一緒に訪れた場所だ。
     ベンチに腰を下ろし、目の前の景色を眺める。
     工事はもうすぐ始まる。
     東京で承認された図面が頭に浮かぶ。
     何百枚もの資料、何千時間もの議論。
     それらが今、自分の中では不思議なくらい遠く感じられた。
     目の前にあるのは図面ではなく、ただ人々の暮らしだった。

     ベンチの背にもたれ、目を閉じる。
     行き詰まったとき、自分でも何が正しいのか分からなくなることがあった。
     そんな時、ジェフとここを歩いた。
     広場なんて利益を生まない、と言う人もいた。
     このベンチも、この木も、この芝生も、直接お金を生むわけではない。
     それでも、人は集まる。座り、休み、話し、笑う。
     そして、また明日もここへ戻ってくる。
     遠くで鳥が鳴いた。
     エミリーは顔を上げると、小さな鳥が枝に止まっていた。
     名前は分からない。それでも、なぜか昔の記憶が蘇る。
     赤い鳥。クルミの木。スクールバス。
     風が吹き、葉が揺れる。

     スマホが震えた。
    「広場?」
     ジェフからのメッセージだった。
     エミリーは少し驚いて、「うん」とだけ返信する。
    「なんで分かったの?」と続けて送ったが、返信はなかった。
     エミリーは首をかしげ、スマホを鞄にしまう。
     風が吹き抜けた。
     広場では子どもたちが走り回り、犬を連れた老人がゆっくりと散歩している。
     何気なく視線を巡らせていると、広場の向こうから歩いてくる人影が目に入る。
     見慣れたリュック。
     揺れる赤いカーディナル。
     エミリーは思わず立ち上がった。
    「ジェフ?」
     人影が手を上げた。
    「やっぱりいた」
     ジェフは腕時計を見て、軽く笑った。
    「行こう」
    「どこに?」
    「着けば分かる」
     タクシーを呼ぶ。
    「どこに行くの?」
     ジェフは少し笑って言った。
    「着けば分かる」
    「それ答えになってない」
    「知ってる」
     タクシーのドアが閉まり、車はゆっくりと走り出す。
     エミリーは窓の外を眺める。
     マリーナイースト予定地が少しずつ遠ざかっていく。
     ふと視線を横へ向けると、ジェフのリュックについた小さな赤い鳥が揺れていた。
     街が流れていく。
     ガラス張りの高層ビル、樹木の並ぶ道路、海沿いの景色。
     やがて都市の密度は下がり、緑が増えていく。

     エミリーは窓の外を見つめながら、ぽつりと言った。
    「東京で承認された時、嬉しかったのに、あんまり実感がなかった」
    「うん」
    「ずっと目標だったのに、終わった感じがしなかった」
     エミリーは窓に映る自分の顔を見た。
    「むしろ、何かが始まる前みたいだった」
     ジェフは黙って聞いている。
    「シンガポールに来て、この広場に座って、やっと少しだけ分かった気がする」
    「何が?」
     少し考えて、エミリーは答えた。
    「計画って、完成したら終わりじゃないんだなって」
     ジェフが小さくうなずく。
    「人が住み始めてからが、本当の始まりだから」
     沈黙が車内に落ちる。タクシーはさらに郊外へ向かう。
    「ジェフは?」
    「ん?」
    「承認された時、どう思ったの?」
     ジェフは窓の外を見ながら少し考えた。
    「安心した。それだけ」
    「もっとあるでしょ」
     エミリーは少し笑った。
    「ある」
    「何?」
     ジェフは少し笑ったまま、そっと手を伸ばす。エミリーの手を取ると、その手は自然に握り返した。
    「終わってほしくないと思った」
    「プロジェクトが?」
    「さあ」
     ジェフは笑った。
    「あとで」とだけ言った。
     エミリーはその横顔を見つめた。
     車は緑に囲まれた道を進む。
     明日、すべてが正式に動き出す。
     都市が変わる。図面が現実になる。人が集まる。
     タクシーはやがて郊外の小高い丘のふもとで止まった。
     
     

    第二十五章 赤い鳥


     タクシーを降りた瞬間、エミリーは足を止めた。
     湿った空気の奥から、鳥の声が幾重にも重なって届いてくる。
     高く澄んだ音もあれば、低く響くものもあり、そのどれもが規則のないまま混ざり合っていた。
    「もう聞こえるな」
     ジェフの声に促されるように、エミリーはゆっくり歩き出す。
     ゲートの向こうには背の高い木々が立ち、その上を覆う巨大なネットが空の輪郭をぼかしていた。
     Bird Paradise。
     入口の文字を見上げながら、エミリーは小さく息を吐いた。
     
     足を踏み入れると、世界の重さが少しだけ変わったような感覚があった。
     鳥を外から眺めるのではなく、人間の方がその空間へ入り込んでいく。
     木漏れ日が地面に落ち、湿った葉の匂いが濃くなる。
     エミリーは視線を上げたまま歩いた。
     熱帯雨林のような一角を抜けると滝の音が混ざり、水辺へ出ると光の反射が揺れ、景色はゆるやかに形を変えていく。
     いくつもの環境がひとつの流れの中に続いていた。
    「なんだか街みたいだな」
     ジェフが言うと、エミリーは周囲を見渡した。
     鳥が枝を渡り、人がその間を歩き、子どもが何かを見つけて指を差す。
     ベンチで休む人もいれば、立ち止まって空を見上げる人もいる。
    「街?」
    「同じ場所を、みんなが違うふうに使ってる」
     その言葉に、エミリーはすぐには返さなかった。
     ただ木漏れ日の揺れる地面を見つめていた。
     やがて二人の足が同時に止まった。
     枝の上に、鮮やかな赤があった。
     緑の中で、その色だけが浮いて見える。黒い顔がわずかに傾き、こちらを確かめるように動かない。
    「カーディナルだ」
     ジェフの声は低く、確かめるようだった。
     しばらく二人とも何も言わなかった。
     ただ同じものを見ている時間だけが続いていく。
     やがてエミリーが小さく笑った。
    「覚えてる?」
     ジェフは視線を外さずに答える。
    「覚えてる」
     少し間を置いてから、続けた。
    「見せたかった」
     その言葉に、エミリーは何も言わなかった。
     鳥の気配も、人のざわめきも、すべてがひとつの場所に溶けている。
     その中でジェフの横顔だけが、少しだけ違う温度を持って見えた。
    「これ」
     ジェフが周囲を示した。
     鳥の声。
     木漏れ日。
     立ち止まる人々。
     笑い声。
     エミリーはその景色を見渡した。
     そして視線をカーディナルに戻し、わずかに目を細める。
    「未来の日常?」
     はっきりした返事の代わりに、ジェフは小さくうなずく。
     そのとき枝の上の赤が動いた。
     羽が開き、音もなく空へ滑るように飛び立つ。
     赤い影は二人の頭上を横切り、そのまま緑の奥へ消えていった。

    第二十六章 未来へ


     朝のシンガポールは、すでに汗ばむほどの陽気だった。
     青空の下、マリーナイースト再開発地区の一角に白いテントが整然と並んでいる。
     関係者席、報道席、来賓席。そしてその向こうには、まだ手つかずの広大な土地が広がっていた。
     これから街になる場所。まだ名前もない未来。

     エミリーは会場の端で立っていた。
     淡いベージュのジャケットに白いブラウス、髪は軽くまとめてある。
     首筋にわずかに汗がにじむ。
     手の中で式次第を何度も確認する。
     何度目の確認だろう。
     心臓が少し早く打った。

     司会の声が響き、来賓たちが席に着く。カメラのレンズが並び、テントの中の空気が静まる。
     市長が挨拶し、開発会社の代表が話す。
     建設会社は工程を説明し、やがてプロジェクト責任者としてエミリーの名前が呼ばれた。

     壇上に向かう足が、少しだけ重く感じる。
     目の前には何百もの視線が集まる。
     軽い風が頬を撫でて通り過ぎた。
     そのとき、来賓席の端に立つジェフと目が合った。
     不思議なくらい自然に肩の力が抜けた。

    「都市計画の仕事をしていると、完成予想図を見る機会がたくさんあります」
     少し微笑む。
    「美しい建物、緑豊かな公園、人々で賑わう広場……」
     視線を少し上げ、遠くの空を映すように続けた。
    「ですが、その絵は未来ではありません。未来を作るのは、そこに暮らす人たちです」
     言葉をひとつずつ、会場に届ける。
    「今日ここで始まる工事は、そのための準備に過ぎません」
    「十年後、二十年後。この場所で誰かが待ち合わせをし、散歩し、休憩し、思い出を作る」
    「そんな日常が生まれる街になることを願っています」
     静かな拍手が、少しずつ広がり、大きな波になった。

     式典が終わると、赤いリボンが風に揺れた。
     遠くで最初の重機がゆっくりと動き始める。
     ジェフが隣に立った。
    「本当に始まったな」
     エミリーはうなずいた。
    「うん」
     二人は並んで工事予定地を見つめた。
     白いヘルメットをかぶった作業員たちが行き交い、重機のエンジン音が乾いた空気を震わせる。
     まだ何もない土地だった。
     その向こうには、エミリーの心の中に街が広がっていた。
     木陰のベンチで休む人々の姿が。
     子どもたちの笑い声が。
     夕暮れの広場を行き交う人の流れが。
     何年もかけて描いてきた未来が、ようやく地面の上で動き始めていた。
    「ここは、まだ途中」
     エミリーがつぶやくと、ジェフが小さく笑った。
    「そうだな」
     風が吹き抜けた。
     青空の向こうへ飛んでいく鳥の影が、小さく見えた。
     歩き出すと、隣から同じタイミングで足音が重なる。
     どちらからともなく言葉はなかった。
     ただ、その歩幅だけが不思議なくらい自然にそろっていた。
     背後では重機が動き続けている。
     未来を掘り起こすような音が、広い土地に響いていた。
     まだ何も完成していない。

     街も。
     夢も。
     人生も。

     だからこそ、前へ進める。

     二人は並んで歩き続けた。




    あとがき

    最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
    ヒョヌとエミリーの未来が、読んでくださった皆さまの心のどこかで続いていれば幸いです。

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