
会計のハルシネーション:第1話 EXCELの綱渡り
「質問はここまでとしてください。定時に帰りたいのでね」
会場からドッと笑いが起きた。ここは有楽町のとあるホール。私は「データドリブン大賞」の授賞講演に登壇し、およそ300人が私の言葉に耳を傾けている。
「最後に一つだけ質問させてください。あなたのように、AIやBIツールで夢を叶えるにはどうしたらよいでしょうか?」
熱心な青年が目を輝かせながら、若者らしいストレートな質問を投げかけてきた。会場の大衆が彼に微笑ましい目を向けた後、壇上の私に再び視線が戻り、回答を待っている。
私はマイクを握り直し、ゆっくりと口を開いた。
「夢を壊すようで悪いですが、まずは大きな勘違いを正さなければなりませんね」
私は真剣な若者の目を見ながら真理を話した。
「AIやDXは結構ですが、ゴミを入れても返ってくるのはゴミなんですよ。」
これから語る内容は、希望に満ちた若者に聞かせるには、あまりにも泥臭く残酷な、物語だった。
AIだのDXだのと世間が騒ぐ「以前」の話。
これは、泥まみれのExcelと冷や汗にまみれた、私の密かなレジスタンスの記録である。
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ここに、ひとつのExcelファイルがある。
前任者が逃げるように遺していった、特級呪物とも呼べる代物だ。
どこかのセルを触れば即座に「#REF!」の悲鳴が上がり、開くだけでPCがフリーズする。
引き継ぎの最終日。前任者はこのバケモノのようなファイルを私に押し付け、乾いた声でこう言い残して去っていった。
「これがうちの会社の、管理会計だよ」
なぜ、こんなツギハギだらけのExcelが、会社の意思決定を司っているのか。
あの当時は理解できなかったが、今なら分かる。
その答えは、管理会計と財務会計の「決定的な違い」にある。
違いは、たった一つ
ルールがあるか、無いかだ。
財務会計: 外部へ業績を報告するため、法律に則って作られる「過去の成績表」
管理会計: 経営陣が意思決定をするため、社内向けに自由な形式で作る「未来の羅針盤」
つまり、管理会計には、明確なルールが存在しない。
フォーマットも、単位も、科目の切り方も、会社ごとに違う。
なぜなら管理会計は「経営者の意思決定のための道具」に過ぎないからだ。
極端な話、お金でなくてもいい。人員数でも、稼働率でも、回転率でもいい。
いわゆる、KPI(Key Performance Indicator)「重要業績評価指標」のことだ。経営判断出来るなら、何でも良い。
だからこそ——
正解がない。
そして奇妙な背比べが起こる。
若手社員であった私は、経理の基礎もろくに知らない状態で、この無法地帯に突然放り込まれた。
引き継ぎ初日。前任者が逃げるように去った後、私のPCに残されていたのは1つのExcelファイルだった。
いや、実際は1つじゃない。
その正体は、各事業所から送られてきた30枚のExcelファイルに外部参照(リンク)で無理やり繋がれた、いつ落ちてもおかしくない綱渡りのピエロだった。
元データを開いた瞬間、息を呑んだ。事業所ごとに、見ている景色がまるで違う。
いや、ルールという概念が崩壊していた。
・A4縦の収支報告書
・横長の独自フォーマット
・なぜか手入力されたPDF(Excelとは一体何だったのか)
・「千円」「円」「万円」が乱れ飛ぶ単位のゲリラ戦
・微妙に違う科目名(通信費/通信料/電話代)
これを、「集計屋、来週の経営会議用に1枚にまとめて」と、悪びれもなく言われる。
集計屋とは私のあだ名だ。深夜に必死にデータをまとめ続ける姿をみて、同じく残業組の同期が呼ぶようになり、今では上司まで呼ぶようになった。
何だって?それじゃあ今週は毎日残業じゃないか、私は定時で帰りたいのに!
無の感情で金曜日に間に合わせ、ようやくまとめ終わったと思ったら、
「悪い、先月のデータ間違ってたから差し替えて」と、さらっと言われる。
それじゃあ週末土日出勤しなきゃ間に合わない。
なんてこった!
必死でまとめたデータが活用されるなら、まだ救いがある。しかし、休日出勤で仕上げた資料で語られる「経営会議」の内容は、当時会計初心者だった私でも分かるほど、稚拙な背比べだった。
償却前利益で出してくる事業所と、償却後利益で出してくる事業所を、同じ土俵で比較しろと言われる。
さらには、同業他社の美しい決算書と、自社の“独自ルール”だらけの管理会計を並べられ、ある役員から、
「なぜうちは全体的にコストが高いんだ?」と詰められる。
その横では、都合の悪いコストをすべて他部門に押し付けている社内で最も声の大きい「某・事業部長」が、「ウチの部署は今月も利益5%アップで絶好調ですよ」と涼しい顔で笑っている。
会議がうまくまとまらないのは、私の能力がないからではない。前任者から引き継いだ資料が悪いのだ。そもそも、比較するための前提がミリも揃っていないからだ。
ルールの違うスポーツの得点板を並べて、「どっちが強いか」と怒鳴られているようなものだ。
これが、管理会計のリアルだ。
きっと、あなたもどこかで似たようなExcelを開き、一人でため息をついているはずだ。
これは個人の能力不足ではない。
誰かが必ず理不尽な泥をかぶる「構造のバグ」なのだ。
この物語は、会計ど素人だった私が無法地帯に放り込まれ、幾度となく理不尽に唇を噛み締めながら、自分の身を守るため(定時で帰るため)に少しずつExcelの裏側で秩序を作り……
気づけば「データアナリスト」、そして現場の連中から半ば畏敬とからかいを込めて『ピボット王』と呼ばれるようになるまでの、泥まみれの記録である。
第2話↓