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【essay】あなたは学食で、一人でご飯を食べられますか?ーー社会を疑う目、人を信じる心

    三田のキャンパスにそびえる大銀杏が、見事な黄金色に染まる季節だった。

    大学院生だった私は、ビジネス街の喧騒から切り離された図書館の窓際にいた。お気に入りの個人用デスクでコピーした論文を読むのが日課だった。経済社会を記述するための数式や理論と格闘する毎日。ふと視線を落とすと、大銀杏の下で、学部の後輩たちが明日の予定や他愛もない恋の話に花を咲かせているのが見えた。

    その華やいだ笑い声は、分厚いガラス一枚を隔てて、今の私には届かない。
    視線をさらに遠くへやれば、東京タワーが夕日に染まり、この街の無数の人々もまた、欲望と希望の中で今日を生きている。

    その時、言いようのない寂寥感が胸を突いた。
    「ああ、私はもう、あの銀杏の下で無邪気に笑う『当事者』ではないんだ」

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    経済現象を要素分解し、インセンティブの構造を明らかにし、何が起こっているのかを白日の下にさらす。それが経済学という「観察者」の仕事だ。だが、その眼鏡を一度かけてしまえば、世界は「分析対象」へと姿を変える。誰かと熱狂を分かち合うよりも先に、その熱狂のメカニズムを計算する。いつも熱狂の外にいる。

    当時、大学院への進学を志す後輩に、私は決まってこう尋ねていた。 「学食で、一人でご飯食べられる?」 それは、賑やかな日常から一歩退き、孤独な観察者として生きる覚悟があるかを問う、私なりの洗礼だったのかもしれない。

    私はこの先、この静かな図書館の側(がわ)から、外側の世界を眺め続けるのだろうか。みんなと一緒に夢中にはならないんだろうか。

    そんな風に若かった私は、不必要に思い詰めたことがあった。

    時が経ち、私は今、港の見える大学で教壇に立っている。かつての私と同じように、華やいだ時を過ごす学生たちと対峙する毎日だ。

    面白いテーマを見つけ、その構造を解き明かす論文を書いている間、私は今でも寝食を忘れる。手元の計算と論理の糸をたどることに、意識のすべてが吸い込まれていく。周囲の物音も、時間の経過も消失し、どの角度から見ても論理的に整合した解を求めて手を動かし続ける。それは「観察者」としての、底知れない、そして孤独な執着にも似た知的な夢中だ。

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    しかし、教育という現場に立つとき、私はさらにもう一つの、より激しく、より困難な「夢中」を強いられている。

    目の前の学生を、単なる「統計の一点」や「合理的経済人」として扱ってはいけない瞬間があるからだ。

    経済学に限らず科学は、常に現実を疑うことから始まるだろう。「なぜこうなるのか?」「裏にある利得は何か?」。観察し疑うことは私たちの習い性だ。しかし、人間関係の基本は「信じること」であり、「疑わないこと」だ。

    学生が壁にぶつかっているとき、私は観察者としてその原因を冷静に分析しなければならない。だが同時に、一人の人間として、根拠なくその可能性を信じ、背中をそっと押す者でもありたい。

    分析(疑い)という冷めた視点と、教育(信頼)という無防備な情熱。
    この相反する性格を持つ作業を同時に行う。一秒ごとに二つの眼鏡を掛け替え続ける。それは脳が軋むほどに目が疲れる作業であり、知性と感情が激しく火花を散らす、贅沢で、そして逃げ場のない格闘だ。

    「私が夢中になる時」それは、社会の歪みを理論で射抜く快感に浸っている時だけではない。

    一秒ごとに掛け替え続けるその格闘の中で——ふと、眼鏡を机に置ける瞬間がある。 それが、私にとって最も夢中になっている時なのかもしれない。目の前の学生という一人の人間を、そしてその将来を、何の留保もなく信じようとしている時。その「信じること」への、ある種、非合理的なまでの没頭。 その瞬間にこそ、私は人間としての生の実感に、深く、深く入り込んでいる気がする。

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    かつて図書館の窓から、銀杏の下の眩しさを遠くに感じていたあの日の私に、今の私はこう伝えたい。

    「観察者という孤独を引き受けた先に、それでも誰かを信じることに夢中になれる、そんな泥臭くも愛おしい時間が待っている。だから、今は自分の選んだことに夢中になりなさい」と。

     
     
    経済学の研究者・教員です。学生に経済学を身近に感じてもらうためにnoteをはじめました。専門は経済政策論、公共選択論。横浜商科大学商学部教授、学校法人純真学園理事、日本経済政策学会理事

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