
こんなに冷たい手で
俺の父の実家は、東京都練馬区、石神井公園の近く。
閑静な住宅街だ。
小学生の頃は、毎年お盆と正月に帰省して、泊まることも多かった。
横浜のウチからは、車で1時間半。
おばあちゃんは優しい。
毎年正月には、狭い台所から、手品のように大量のお節料理が出てきた。
帰る時は、いつも見えなくなるまで手を振ってくれた。
そんな小学生の正月。
その年は泊まりがけだった。
2日目の朝。
父は2階の部屋で、横になって寛いでいた。
俺がその部屋でハンガーを置いた、「ガタン」という音がうるさかったのだろう。
父は舌打ちして、身体を起こしかけた。
帰る直前の玄関。
父に荷物を持つように言われた俺は、さっきの父の態度が不服だったので、ボストンバッグの持ち手を離し、たたきに落とした。
ガシャン!
ボストンバッグの中には、ワインが入っていた。
玄関に広がる赤い匂い。
間髪入れず、父に頭を叩かれた。
靴べらで。
玄関が滲む。
おばあちゃんの声。
「叩くことないのにね」
堤防が決壊した。
俺や姉が大きくなるにつれて、日帰りで行くことが増えた。
中学生では部活、高校生では郵便配達のバイトで、帰省しないことも多くなった。
大学生の頃、おばあちゃんは認知症になった。
社会人1年目。
2000年12月8日。
早朝から、父の階段を降りるスリッパの音がうるさい。
初めて聞く音だ。
おじいちゃんが亡くなった。
急性くも膜下出血。
葬儀の日。
姉は2週間前に赤ちゃんを産んだばかりなので、父、母、俺で、父の実家近くのお寺に行く。
おばあちゃんは参列しない。
一通り終わり、父の実家に行く。
おばあちゃんは居間にいたが、何が起こったのか分からない。
俺のことも分からない。
帰り際、おばあちゃんを励ますつもりで手を包んだ。
幹「またね」
すると、おばあちゃんに手を包み返された。
ば「こんなに冷たい手で」
居間が滲む。
おばあちゃんが滲む。
ダメだ。
俺はもう大人だ。
決壊するわけにいかない。
帰りも運転しなきゃいけない。
親戚に挨拶もせず、早足で夜の車へと向かった。