
『その日、茶トラが見ていたもの』
その日は、いつもと違っていた。
私は確認をしなかった。
毎回必ずしていたのに。
故人様がどなたなのかを。
時間だけを見て、会場に入った。
ご遺影を見た瞬間、足が止まった。
同級生だった。
涙が止まらなかった。
「演奏できません」
そう伝えた。
通用するはずもなかった。
どんなことがあっても、
演奏を止めてはいけない。
それが、この仕事だから。
涙が溢れた。
鼻水も出た。
メイクは崩れていった。
それでも、弾いた。
最後まで、弾いた。
演奏が終わり、
ご遺影に向かって深くお辞儀をした。
その時だった。
「ありがとう」
確かに、聞こえた。
同級生の声だった。
涙がまた溢れた。
けれどその涙は、
さっきとは少し違っていた。
帰宅した。
すぐにレッスンがある。
着替えなければいけない。
でも、立ち上がれなかった。
何もできなかった。
時計を見て、
慌てて身体を動かした。
いつも通り、生徒さんを迎えた。
いつも通り、レッスンをした。
長い、長い一日だった。
レッスンが終わり、
リビングに戻った時、
また座り込んだ。
その時だった。
らんまるが、近づいてきた。
洗面所へ行けば、ついてくる。
お風呂へ向かえば、ついてくる。
キッチンに立てば、そばにいる。
そしてまた座り込んだ私の膝に、
そっと乗ってきた。
いつもは横向きか、後ろ向きなのに。
その日だけは違った。
私の顔を覗き込むようにして、
じっと、見ていた。
何も言わなかった。
ただ、その小さな体温と、まなざしが
張り詰めていたものを、
少しずつ、ほどいていった。
言葉はいらなかった。
ただそこにいてくれるだけで、
よかった。
命の終わりに寄り添う仕事をしている私が、
その夜、
小さな命に、救われていた。