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山並みを越えて、曇りのいとしの街まで

    山々がビュンビュンと通り過ぎる。
    ぼーっと眺めていると、反射した窓にすっかり大人になった自分が浮かび上がった。
    時の流れは、この時速275キロよりも、もっともっとはやいんじゃないか…?と思う。

    トンネルを抜ければ、どんよりぶ厚い雲に覆われた街。
    これに懐かしさを感じることが、未だに変わらなくてちょっと嬉しい。
    いや、むしろ大人になったからわかる嬉しさなのかもしれない。



    「東京の大学へ行って一人暮らしをして歌手になる」ことが、いつからか当たり前にこびりついた私は、なんの疑いもなく18歳で上京をすることになる。

    正直にいうと今まで地元・新潟のことを「ただ生まれて居た場所」くらいにしか思っていなかったと思う。
    いずれ出ることは決まっていて、特に思い入れもなくて、戻る気もない場所だった。
    今思うと、本当にひどい話だ。

    母の地元岩手県で生まれた私は、父の地元新潟県で育った。決まって長期休みは、家族で長時間ドライブをしながら帰省した。
    車文化なので、幼少期に音楽を聴く場所は車内かテレビ。テレビっ子なのは、実家で常にテレビがついていたから。
    小さい頃は音楽番組がとても多かった気がする。
    だからと言って音楽番組が好きだったかと言われればそうではないし、Mステに出たい!みたいな気持ちもあまりなかったけど、将来の夢は既に『歌手になること』だった。
    初めて買ったCDは多分小学3、4年生の頃で「ぴちぴちピッチ」というアニメの曲だった。「ぴちぴちピッチ」は悪者と歌で戦う人魚姫たちの話で、可愛くて格好良くて、とにかく大好きだった。

    中学生になると、TSUTAYAでDVDではなくてCDを借りるようになる。
    共働きの両親が同じタイミングで帰ってきた時に、ラーメンを食べた後TSUTAYAへ連れて行ってもらった。当時は確か10枚で1000円だったはず。家族みんなで好きなものを持ち寄って借りた。
    帰りの車で録音するために、少し遠回りでドライブ。新潟は海に日が落ちるから、雨あがりの夕方は特に空が綺麗だった。なんとも言えない赤紫オレンジみたいな色で、「きれー!」って見上げていた。
    帰ってきたらCDをパソコンに取り込んで、細長いウォークマンに入れてアホみたいに聴いた。
    ギターを始めたのは、その頃借りたYUIやmiwaがギターを持っていたからだった。実はあんまり好きじゃなかったけど、ピアノよりは自分に合っていた気がする。
    それから、ピアノを内緒で習っていた男の子を好きになった。恥ずかしくて誰にも言えなかったんだって。
    虫だらけの田んぼ道も薄明るい雪道も一緒に帰った。それで、やっぱり空を見上げて「きれー!」って言い合った。

    高校生になってバス通学になった。
    いつも走ってギリ間に合う時間に出ていたから、冬は困った。
    朝早い時間のためまだ足跡がなく、私が一番最初に踏み固めて道を作らなくてはならない。
    だから必ず靴下はビッショビショになった。なのに長靴はなぜか履きたくなかったのである。
    女子校だったからか、ストーブの前でみんないろいろなものを乾かしていた。教室は全然臭くなかった。
    通学の時間はスマホにダウンロードしたクリープハイプやGOOD ON THE REELを聴いた。
    バスに揺られながら、音楽をゆっくり聴く。この時間が好きだった。
    学校につけば、仲の良い友達がいた。昼休みは机をくっつけてみんなでお弁当を食べた。
    放課後みんなには部活があって、私はまたひとりで長い時間をかけて帰った。
    テスト期間に一緒に勉強をすることが唯一の放課後友達ライフだった。
    今はもうなくなった駅前のドトールで勉強という名のお喋りをしたことや、真冬の風が強い万代橋の上で「さみー!」って言いながら初めてピザまんを食べたこと。フレッシュネスバーガーが高くてみんなでちまちま分け合ったことや、やすらぎ堤でうだうだしたことを思い出す。
    ひとりの帰り道も、こんな日がたまにあるおかげで寂しくなかったのかもしれない。

    ライブハウスに出るようになった。
    古町の新潟GOLDEN PIGSに出演したことをきっかけに駅前のCLUB RIVERSTにも通った。
    私と同じような弾き語りの女の子は当時少なく、楽屋で小さく小さくなっていた。
    空き時間は近所を散歩した。外の空気はこんなに吸いやすいのかと思うくらい最高だった。用もないのに公園行ったり、青島ラーメンの行列の調子を覗きに行ったりした。
    その頃、新潟の街というものをやっと認識し始めたのかもしれない。
    だいぶひとりで会話することが上手くなったのか、徐々にクサクサとした気持ちが芽生え始め「孤独感」みたいなものにフォーカスをあてるようになった。
    長かった髪の毛はバッサリと切り、ピアッサーでバツバツと自分で穴をあけた。授業なんてどうでもよくなって、ルーズリーフには歌詞をびっしりと描き、「自分は歌を作って歌うことができる。特別なんだ」って思っていた。
    みんなが部活をする間、私はライブハウスで歌を歌う。それでいい、それでいいと思っていた。
    何かと戦っているみたいな気持ちだった。

    あっという間に3年生になり、秋、冬、とみんながセンター試験や受験勉強をやり遂げる中で、私は初めてのワンマンライブを行った。
    秋、冬、とバンドメンバーを集め曲を描き練習をし、着実に準備を重ねた。
    人生初のワンマンライブはソールドアウト。「ここから人生が始まる」とか思っちゃっていた。
    当たり前に地元にサヨナラを告げるため「サヨナラブルー」という曲を描き、歌っていた。
    〈明日からこんな生活なくなるなら清々するなぁ やめてやりたくて やめられなかったんだ 〉
    〈もうサヨナラだね あたしの青い春 過ごした日々も 歌った曲も この海に捨てて行くよ〉
    この街から出て行かなくちゃいけない。それが私の使命なんだって、あの頃は本気で思っていたんだ。

    18歳になり、私は東京の街で暮らし始めた。
    最初は慣れないことばかりで、いろんなことに一喜一憂していた気がする。
    新宿も渋谷もうるさくて汚くて嫌だーーーー!って思ったり、喫茶店がそこら中にあるなんてなんて最高なんだーーー!って思ったりしていた。
    どこにいっても地元と違って人がいた。ガヤガヤ、ザワザワ、人だらけだった。

    上京してすぐの夏、「サヨナラブルー」を引っ提げて、未確認フェスティバルセミファイナルに出場することになった。
    初めての渋谷・円山町に圧倒されて誰とも目を合わせられず、ラブホテル街のど真ん中にあるライブハウスに駆け足で向かった。
    着いたら同年代独特のピリッとした空気の中で、上京したての私はやっぱりひとりだった。
    こんなに大きなステージが東京にはわんさかある…。2階席部分が控室になっていて、そこから見下ろしてライブをみる。…刺激的だった。ゲストで髭男が出ていたことや、たくさんの同年代が本気で音楽をやっていること。ステージから見る景色は青春映画そのものみたいで、全てが東京だった。

    それからの日々はあっという間に過ぎ去った。
    日中は大学に通いライブのない日はバイトをした。
    初めて住んだ街の大通りは桜並木で、春になると駅のホームまで桜の花弁がついてきた。
    20歳の誕生日は過去一を争う台風予報。前日、不穏な天気の中スーパーへ食料の買い出しに行った。
    大人になってもテレビっ子だったので、しょうがないからニュースの真似をして、もらってきた段ボールを窓に貼った。結果全然無事で本当によかった。
    程なくしてコロナ禍が始まり、リモートで授業を受けるようになる。私は家でひとりのびのび受ける授業が好きだった。思えばお留守番も嫌だと思ったことは一度もない。コロナ禍であんまり人に会えなくても、それはそれで楽だなくらいにしか思っていなかった。
    3、4年はリモート授業のためほとんど学校に通うことなく卒業した。すぐ後に、上京してきた妹と二人暮らしを始めた。
    就職はせず、フリーターだった私は大学生の妹とめちゃくちゃ遊んでいたと思う。
    新中野の海老炒飯を見つけた時は革命だと思ったし、品川から中野まで歩いて帰れたことは誇らしかった。
    大好きな本屋で働いて、空いた時間に喫茶店の店番をひとりでやる生活は完全に真夏だった。
    ジリジリ暑い中、目的も目標もわからないまま自転車で漕いで、東京の多すぎる坂道を登ったり下ったりして過ごした。
    風を感じられる日もあれば、音すら聞こえない日もあった。

    フリーター生活も型についてきた頃、初めてアニメタイアップが決まった。
    渋谷と表参道の間にある事務所から出て、真っ先に電話をかけた。それはそれはとても晴れた日だった。
    18歳の頃、トゲトゲした気持ちで「光の街」という曲を書いた渋谷の反対側を歩きながら、この日は、生まれて一番幸せな日かもしれないくらい嬉しい気持ちだった。
    「もう大丈夫なんだ!」って、そんなふうに思ってた。

    あっという間に1年とちょっとがすぎ、2023年の秋、テレビアニメのエンディングで自分の曲が流れた。
    テレビっ子の私は相変わらずリアルタイムで鑑賞し、ピコンピコンとなるLINEには家族からのメッセージが届いていた。
    その時、YUIが『CHE.R.RY』をリリースした19歳もmiwaが『ヒカリへ』を歌った22歳もとっくに越えていた。


    26歳。現在。
    私はまだ音楽で全然飯を食えていない。
    あの頃「将来は東京で歌手になる」と思っていた少女にはなかなか伝えづらい現実である。
    タイアップの後、安泰だと過信していた未来は、そう甘くなかった。
    3年半続けた本屋は閉店と共に退職、妹との生活も終わりを告げ、上京したての頃みたいに一人で暮らしている。
    相変わらずアルバイトで生計を立て、音楽活動を続ける日々だ。


    ビュンビュンと、275キロで見慣れた都会の喧騒を抜ける。
    長い長いトンネルで電波が途絶えてチクショウ!と思ったのも束の間、一面に雪景色が広がる。
    どこにきてしまったんだー!と私が新潟人でなければ叫んでいるだろう。
    毎度のことだが、越後山脈には驚かされる。山、すごすぎ。
    そう思ってまたすぐに、街並みが近づいてくる。
    長岡、燕三条、新潟。
    帰ってきたーという感覚が確かにある。


    長期休みのたびに帰省しているので駅の開発のことはもちろん知っていたが、改めて改札を潜ると知らない街に来たみたいだった。
    駅構内はもちろん、周辺も少しずつ変わっていって、気づけばいろんなものがペカペカとしている。
    なんとも言えない気持ちを抱えながらも、車社会のこの街でお父さんが迎えに来てくれたことに少しほっとした。
    駅から車でほど遠くない実家へと向かう。
    最近は冬に帰省しても、雪が降らないことが増えていた気がする。
    だけど、今年はしっかり積もっていた。

    大晦日、友達と年越し。高校の頃出会って、私がこの街を出てからも彼女はここで生活をしている。
    そして一度も欠かすことなく、帰ってくるたび会えることが幸せなんだなと、ふと思う。
    白山神社にカウントダウンをしに車で向かう。
    そういえば上京して1年目の大晦日も彼女と白山神社にきた。
    そのころはまだ車ではなく、学生の名残でどうにか来たんだっけ。
    ビュウっと新潟の懐かしい風が吹きつける。冷たくて痛い、みぞれ混じりの雪と風だ。
    すっかり長靴を履いた26歳の足は、ベチャベチャした雪なんかへっちゃらだった。
    あっという間に2026年を迎え、さっきまで進まなかった列が動き始めたからゆっくり続く。
    新年になってもまた、どうでも良い話をしている。
    二人でガランゴロンと鈴を鳴らし参拝を済ませ、引いたおみくじは「大吉」だった。
    「苦悩の日々も去り御恵みの御光がさしそい叶う」らしかった。


    2026年2月、上京してからお世話になっていた環境を離れることになった。
    そんな現実にお互いが薄々気づいていた。けど、別れ際のカップルみたいな状況が随分と長く続いた。
    私はすでにこの時シンガーソングライターになって10年が経っていた。
    もう生活は音楽で、音楽は生活だった。

    「やめる」という選択がちらついたのはもう少し前で「やってやる」という気持ちが不思議と湧いてきたのだ。

    それからトントンと物事が進み、2026年4月「果歩」から「葉野かほ」へ改名した。

    生活はかなり忙しくなった。
    こんなに大変な作業があったのかと挫けそうになる。毎月毎月やらなきゃいけないことは片付かない。今までどんだけの人々に支えられてきたのか、も痛感した。悩んで、ボロボロ泣いて、落ち込んで、考える時間が、どんなに贅沢なものだったのか、も痛感した。
    だけど、驚くほどに毎日は楽しい。
    正直全然飯は食えないけど、「音楽をやっている」という実感があった。
    「歌手」なんだという実感が、手のひらの中にあった。

    ”名前を変えたこと”は流石に反響も大きく、色々な人から連絡をもらった。
    今までは感じたことがあまりなかったけど、私の変化に「いいね」を押してくれるということが、不思議と、全て「応援しているよ」に感じられた。
    そんな自分の中の小さな変化は、少しずつ現れた。
    「歌うことが好き」から始めた音楽は、知らないうちに、たくさんの人と出会わせてくれていたこと。
    その「たくさん」は人と比べたり、並べたりするものではない尊いものだということ。
    信じてくれる人がいるということ。力を貸してくれる人がいるということ。
    言葉にすると薄っぺらく感じるけど、「ありがとう」と言いたくなったこと。
    そういうものを、もっとちゃんと、実感として感じられるようになった気がする。
    やっぱり音楽は生活で、生活は音楽からなるものだった。


    「葉野かほ」になって初めて作った歌がある。
    今の自分だから描けた歌がある。

    私は今、走って走って走って、やっと、振り向くことができたんだ。
    振り返ったら、思ったよりも高いところにいて、思ったよりも歪な凸凹道で、
    でも、思ったよりもたくさんの思い出と、そこに人がいた。
    「ひとりぼっちだ」とか「居場所がない」とか、そんなにはっきりした気持ちはなかったけれど、どこか俯瞰している自分がいた。
    それでも、「東京の大学へ行って一人暮らしをして歌手になる」「歌うことが好き」という気持ちで、自分なりに踏み固めてきた道を讃えてやりたい。
    頑張ったじゃないの。
    そして、同じようにそばにいてくれた人や環境にありがとうと言いたい。
    不恰好な人間をいとおしいと言ってくれる居場所にまじありがとうと言いたい。
    そんな思い出や、言葉や、景色が、今の私を作っています。


    太平洋に昇る太陽を見た時、その美しさに感動しました。
    幾つになっても変わらずにそばにいる、と胸を張って言える人がちゃんとできました。
    なにもなくても会える友達や、力を貸してくれる仲間に出会えました。
    「みんな元気かな」って思えるようになりました。
    相変わらずひとりが大好きだけど、ちゃんと居場所ができました。
    誰かに頼ったり、頼られて生活しています。
    ほんとうのことを言うのは、やっぱりまだ苦手だけど、私には音楽がちゃんとあります。

    そして、初めて目標ができました。
    みんなに胸を張って帰れるアーティストになること。
    いつか必ず、大きなステージで歌います。
    その時は招待させてください。
    それまで、もう少し、いや、もうしばらく頑張ります。
    どうか、どうか末永く、
    これからもよろしくお願いします。

    葉野かほ

    ・・・・・・
    ベイビーベイビー

    明け方の太陽 初めてみたよ
    18で上京 もう寂しくないよ
    話せる人も友達もいるよ 
    数は少ないけど、みんなやさしいよ
    ご飯食べてるよ、夜更かししちゃうけど
    心配いらんよ、地元の景色も
    ちゃんと時々思い出しているよ
    笑い話を抱えて帰るよ

    あー、ベイビーベイビー
    どこかに、連れてってくれるなら
    季節を越えて、手招きする方へ
    あー、ゆらゆら 
    このまま、風に飛ばされて
    心地いい場所にいたいだけ

    友達と電話って性格じゃないし 
    楽しいことだけ共有したいし
    ほんとうのことは歌えばいいから
    暗い顔しないで笑っていろよわたし
    相変わらず渋谷は苦手だ 
    東京の街も7年経てば
    居場所も見つけることができました
    だけどいつだって心はニイガタ

    あー、ベイビーベイビー
    どこかに、連れてってくれるなら
    山並みを越えて、曇りのいとしの街まで
    あー、ゆらゆら 
    キラキラ光る思い出が
    美しいままでいますように

    出会った人も、育った街も、
    全然違うもの同士なのに
    好きな日々が増えてゆく
    なんて、おかしいね

    あー、ベイビーベイビー
    どこかに、連れてってくれるなら
    やわらかいとこへ、私たち手を取り合って
    あー、ゆらゆら
    ひらひら、さみしさを溶かして 
    心地いい場所で暮らせるように
    あたたかい場所で生きれるように

     
     
    果歩から葉野かほ(Kaho Hano)になりました🌿 新潟市出身、シンガーソングライター 現在は東京都でにゃんこ2匹と暮らす zine「きみと過ごした街のなかで」「今夜、きみのくれた言葉だけがきらきらと輝いている」「いとおしい日々」

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