
合流線を引いてくれ
平日を真面目に働いた。——と、思っている自分への、ささやかなごほうびに、金曜の帰りだけは指定席の列車で帰ることにしている。座席に深く沈んで、缶ビールを開ける。
一週間でいちばん満ち足りた、数十分。
しかし、その時間はここまでだ。
ホームに降りたら、まず改札へ向かう左右の2箇所の階段、そのちょうど真ん中にあるゴミ箱まで歩いて、空き缶を捨てる。振り返ってエスカレーターに向かうと、もう、並べないのだ。
すでにきれいな行列ができあがっている。ずらりと一列、整然と、誰に命じられたわけでもないのに、みんな黙って前の人の背中を見つめている。その最後尾がどこにあるのか分からないまま、私はその横っ腹に、逆の方角から、おそるおそる近づいていく。最後尾はおそらくあのあたりだが、そこまで回り込むのも芝居がかっている。かといって、今いるこの場所からスッと横入りすれば、「あ、横から来たな」という空気を一身に浴びる。誰も何も言わない。言わないが無言の牽制は、声に出して言われるより、よほど消耗する。
私の後ろからは、同じ車両で降りた人たちが続々と来る。みんな同じように、できあがった列に逆から突き当たって、さてどうしよう、という顔をしている。面白いのは、その対処の仕方が人によっていくつかパターンがあることだ。隙間に体をねじ込む人。最後尾まで歩いて回り込む人。列が途切れる一瞬を待つ人。そして、しかたなく空いている側を歩く人。
そう、私は最後のタイプである。
歩いてはいけないと言われている、あの片側だ。行列に割り込む勇気はない。空いている側で堂々と立ち止まる度胸も、ない。立ち止まれば「歩く人のために空けておけ」の無言の圧を、一人で受け止めることになる。割り込めず、立ち止まれず、消去法で残った道がこれなのだ。
ほろ酔いでしかたなく、歩く。
歩いたら歩いたで今度は、「歩くなって書いてあるだろ」と背中で感じてしまう。登りきるまでずっと、後ろの視線を背中で測定し続けている。わかっててルールを守っていないくせに、ルールの目線からは全く自由になれていない。これが私の抵抗の限界だ。
毎週この茶番を繰り返しながら、そのたびに思うことがある。
高速道路なら、こんなことにはならない。車線が一本に減るとき、車は一台ずつ交互に合流する。淡々と一本の流れになる。入れてもらえば、最後尾でハザードランプを二回。「お先に」「どうも」。あの会釈すら、彼らは点滅でスマートに済ませる。
なのに、生身の人間では、これができない。
だから私は、まじめに提案したい。ホームの床に、線を引いてくれ。
逆方向から来た人間が、ここから一列に合流すればいい、という線を。それだけでいい。乗車位置の足型に素直に並ぶように、コンビニの足跡マークに素直に従うように、人間は床に線さえあれば驚くほど言うことを聞いてくれる。あれだけ振りかぶっておいて結論がシール一枚かい、と言われそうだが、気まずさの正体は「正しい入り方が分からない」ことなのだから、それを床に描いてやれば、気まずさは消える。
だが、線を引いたところで、たぶんうまくいかない。きっと誰かが線から一ミリはみ出して、それを別の誰かが冷たく見ている。気まずさを消すための線が、新しい牽制の道具に化ける。第一、線があったって、その手前で私はまた迷うのだ。ここから入っていい、と描いてあってもなお、後ろの視線を気にして足が止まる。線は、私のような臆病者までは救ってくれない。結局、直すべきはホームの床ではなく私のほうなのだが、それは諦めよう。
せめて、2列とも使えれば勝手な行列は短くなる。それなら、いっそのことエスカレーターの段差を、誰も歩いて上がれないくらい高くしてしまえばいい。一段が腿の高さもあれば、せっかちな人間も観念して立ち止まる。歩く側も空ける側も、全員が等しく、黙って運ばれるしかなくなる。——が、下りは命がけだ。崖である。
結局、私のアイデアなんてそんなもんである。線はずるい人を取り締まれないし、下りは危ない。そんなことでいいならとっくに解決している。
だから私は次の金曜も、ビールを一本あけて、線のないホームで、しかたなく空いている側を歩く。背中で視線を測りながら。