
竜次のコテージには、たぶんいい人がいた
南インドのビーチで、秋山竜次みたいな顔のインド人に「タダでコテージ来ないか」と誘われた。
教師になる、2週間前のことである。一人だった。
それまでに、僕は北インドを少しだけ経験していた。デリーとアーグラ。たったそれだけでインドを語るなと言われればその通りなのだが、オールドデリーのチャンドニーチョウクは、一日で人間の処理能力を破壊してくる場所だった。
人。牛。リキシャ。排気ガス。電線。クラクション。客引き。スパイス。何かを運ぶ人。何かを怒鳴っている人。意味不明な理由でバイクが3台、道の真ん中で固まっている場所。ずっと何かが、ただひたすらに多かった。
しかも、道を教えてくれた感じのいい男について行ったら、いつの間にか勝手にツアーが始まっていた。
彼は30秒に一度こちらを振り返り、「テイクピクチャー、ノープロブレム」と言う。こちらが写真を撮るまで動かなかった。
ノープロブレムなのは分かったが、そもそも僕はプロブレムを申告していない。
最終的に彼はチップを求めてきた。
しかも、こちらが渡した額に対して「何キロ歩いたと思ってるんだ」と言ってきた。
知らねえよ、お前が勝手に歩いたんだろ。けれども彼は最後に満面の笑みで手を振ってきた。
悪い人なのか、いい人なのか、いまだによく分からない。インドにはそういう人がいる。親切と商売と人懐っこさが、全部同じ顔で近づいてくる。
だから僕にとってインドとは、油断ならない国だった。
そんなイメージを抱えたまま、ケララに飛んだ。
別の国だった。
人々は、目が合うと微笑む。
クラクションは鳴るが、デリーの「俺がいるぞ!どけ!」という音ではなく、「すみません、通ります」という、会釈みたいな音である。
海沿いの道にはヤシの木が並び、その隙間から教会の白い屋根が見えた。
フォートコチには、南国とキリスト教と漁港が、全部同じ湿度の中に混ざっている。
午後になると、道の向こうが少し白く霞んだ。海の湿気なのか、熱気なのか、最後までよく分からない。
海辺にはチャイニーズフィッシングネットが立っていた。巨大な漁網を、男たちがゆっくり引き上げる。潮の匂いが漂う。

漁師のおっさんが寄ってきて、日本語で魚の名前を叫んだ。
「オイシイサカナ! エビ! カニ! マグロ! サバ!」
エビとカニは魚ではない。
危うく訂正しかけたが、やめた。海外でまで分類学に口を出し始めると、たぶん友達が減る。
食事も最高だった。マサラドーサ。パロタ。マンゴーフィッシュカレー。
カレーにつける小麦の塊について、ナンとチャパティしか知らない僕にとって特にパロタは衝撃だった。
層になった生地は、ちょっとクロワッサンにも似ている。パロタ。ぱろた。何度言ってもバカそうな名前である。
でもこれ最高に美味である。層になった生地をちぎって、カレーに浸して食べる。外はサクサクなのに、中は妙にもちもちしている。今思ったけれど完全にクロワッサンと同じ説明ではないか。つまり神。ぱろた、この世に生まれてきてくれてありがとう。
マンゴーフィッシュカレーも感動の代物である。マンゴーの甘さと魚の旨味が、スパイスの中で全力で殴り合い、最後になぜか和解しているような味だ。意味が分からない人は食べに行ってほしい。僕にも上手く説明できない。
夕暮れのビーチには、人が集まっていた。
沈んでいく赤い太陽を、みんな静かに眺めている。
観光客も、地元の家族も、制服姿の学生もこぞってそこにいた。
その中で、一匹の薄汚れた白い犬が砂浜に寝転がっていた。
犬は夕日に感動しているわけではなく、ただ眠そうである。

波の音だけが、ずっと同じ速さで聞こえてくる。
そこに、男が2人で歩いてくる。中年のインド人で、1人はよく話す男。もう1人はほとんど何も話さない男だ。
「ニホンジン デスカ?」
来たな、と思った。
しかし、目の前の男は少し違った。
大きな二重まぶたに丸い輪郭。笑うと目がほとんどなくなる顔。がっしりとした体格。
ロバートの秋山竜次に酷似している。正確には、インド洋の湿度をたっぷり吸った秋山竜次だった。
だから僕は、心の中で彼を「竜次」と呼ぶことにした。本人がそう名乗ったわけではない。完全にこちらの都合である。
竜次は、笑うたびに肩まで揺れた。
「私 ココ ノ 人デス。ホテル ヤッテマス」
そう言いながら、彼はヘルメットを小脇に抱え直した。
透明なバイザーには、夕日のオレンジ色が映っている。
隣にいる相方は、表情を変えずほとんど喋らなかった。痩せていて、少し猫背で、青いチェックシャツを着ている。竜次の半歩後ろに立ち、砂をつま先で軽く蹴っている。たまにこちらを見るが、目が合うとすぐ逸らした。
「私 ノ 奥サン 日本人 デス。クミコ。沖縄出身」
聞いていない情報が唐突に竜次から発せられる。
クミコ。沖縄出身。妙に具体的である。
「クミコ、日本人ニ会ウト 喜ブ。来ナイカ? 私ノ ホテル」
竜次はすかさず右のポケットからスマホを取り出して、写真を見せてきた。
ヤシの木。田園。白いコテージ。細い水路。
あまりにも風流だった。
写真の中では、午後の光が水面で白く揺れていた。僕は脳内で、すでにチェックインを終えていた。
「フリー デ イイカラ」
無料。
なぜ。
「日本人 好キナンダ。クミコ モ 喜ブ」
またもクミコさんの登場。
そのとき、ずっと黙っていた相方が、急に低い声で言った。
「……フィッシュ、ウマイ」
それだけ言って、また黙った。
お前の存在理由は何だ。
竜次は嬉しそうに頷いた。
「ソウ! スーパーウマイ!」
どうやら彼らの中では、「魚がうまい」という情報はかなり重要らしかった。
「ココナッツ ビール、知ッテマスカ?」
知らなかった。
「ココナッツ ト ビール 混ゼル。スーパーウマイ」
ココナッツビールの味よりも、彼のスーパー美味いという表現はいったいどれほどのものなのか気になる。
ヤシの木の下でココナッツビールを飲みながら、クミコさんとぎこちなく沖縄の話をする場面まで想像できた。
ただ、海外で日本人と日本語で話すのは意外に難しい。
「沖縄なんですね」
「はい」
「いいですよね」
「そうですね」
気まずすぎやしないかこれ。この会話を南インドのコテージでやる想像をすると、少しだけ心がしぼむ。
僕は「考えさせてください」と言って、Instagramだけ交換した。
竜次は「OK、OK」と何度も頷いた。
相方は、なぜか僕のスニーカーをじっと見ていた。サイズを測っているような目だった。
2人は夕日の方へ歩いていった。
相方は最後まで、ほとんど何も話さなかった。でも、なぜかずっと竜次の半歩後ろを歩いていた。
その夜、僕はゲストハウスの食堂でマンゴーフィッシュカレーを食べていた。また食べるんかい、と思った人がいるかもしれない。僕も思った。でも、うまいので仕方がない。

問題は、明日どうするかだった。
竜次のところへ行くか。行かないか。
竜次のコテージに行けば、きっと面白い。
ヤシの木。田園。白いコテージ。ココナッツビール。クミコさん。沖縄出身。無口な相方。素材だけで強い。
行かなければ、何も起こらない。
フォートコチを歩き、教会を見て、カレーを食べて、夕日を見て終わる。それはそれで、完成された旅だった。
けれども、4月から僕は教師になる。
たぶん僕は、生徒に「知らない人についていってはいけません」と教える側になる。
一方で、「社会は信頼で成り立っている」とも教える。
店でご飯を食べるのも、ホテルに泊まるのも、ローカルバスに乗るのも、相手をある程度信じているから成立する。
知らない人を信じるな。でも、信頼は大切だ。
この2つは、思っているより近い場所でぶつかり、今僕は夕暮れの海辺で会ったインド人に「フリーでコテージ来ないか」と誘われている。
いや、行くわけないやろ。でも本気で迷っていた。
僕は日本にいる彼女にLINEを送った。
「南インドで会ったインド人のホテルが、無料で泊めてくれるって言うんだけど、行ってもいいかな」
返信は5秒で来た。
「だめ!絶対!」
どこかで聞いたことのあるキャッチコピーだった。
「なんで」
「危ないから」
「奥さん日本人らしい。クミコさん。沖縄出身」
「それ嘘だよ」
「秋山竜次みたいな顔してる」
「秋山竜次の顔したインド人は危ないんよ」
どこにそんなデータがあるのだと思ったが、簡単には反論できなかった。
僕はしばらくスマホを見つめて、それから竜次へDMを送った。
ちなみにこの時はじめて竜次のアイコンが金色の大仏であることを知った。仏教徒なのか、単純に似ているからなのか。
「Thanks for your kind invitation. I really appreciate it. But I think I’ll stay in Kochi this time.」
たぶん、必要以上に丁寧な英語だった。
少なくとも僕は、そのときの彼を「危ない人」と完全には思い切れていなかった。アイコン大仏だし。
既読はすぐにつき、メッセージが返ってきた。
「Hlo」
そして、
「U come or not」
たぶん、「来るの? 来ないの?」と聞いていた。
僕はもう一度だけ、
「I’ve decided to stay in Kochi tomorrow. Thank you so much.」
と返した。
しばらくして、グッドマークだけ送られてきた。
やり取りは終わった。
寝る前、もう一度スマホを開いた。
Instagramに、新しい通知が来ていた。
「Where is your hotel?」
既読をつけずに、画面を閉じた。
窓の外で、ヤシの葉が鳴っていた。
翌日、僕は陽射しの強すぎる晴天のフォートコチを一人で歩いていた。
予定通り、何も起こらない一日だった。
教会の白い壁を撮った。路地の自転車を撮った。海辺の漁網を撮った。午後の光が、古い壁にまだらに落ちていた。
来月の僕、授業で使え。竜次の話はするな。
そんなことを考えながら歩いていたとき、背後でクラクションが鳴った。
びくっと肩が上がる。振り向く。
竜次だった。
バイクに乗っている。後ろには、あの相方もいる。本当にずっと一緒にいる。
竜次は昨日と同じ顔で笑っていた。それは断られた人間の顔ではなかった。ただ、昨日会った知り合いを見つけた人の顔だった。
「ヘイ、マイフレンド!」
彼は片手を離して僕に手を振った。危ない。切実に両手で運転してほしい。
「私タチ、コレカラ仕事! 」
竜次は親指で後ろを指した。後ろの相方は、無表情のまま僕を見ていた。そして、相方は小さく手を上げた。あの男、手を振れるのか。
竜次は笑いながら言った。
「君、良イ旅シナサイ! ケララ楽シンデ!」
そして最後に彼は、「アリガトウ!」とその場に言い残した。
なぜありがとうなのか、僕には分からなかった。僕は彼に何もしていない。
バイクはそのまま走り去っていった。相方は最後まで何も言わなかった。
僕は教会の前でしばらく立ち尽くしていた。

その日の夜、僕は最後のマンゴーフィッシュカレーを食べた。昨日よりなんとなく美味しかった。
竜次のコテージが、本当にどんな場所だったのか、僕は知らない。
ココナッツビールが本当にスーパーうまかったのかも、知らない。
クミコさんが本当に沖縄出身だったのかすら、今となっては分からない。
勉強は答え合わせをしなければ意味がない。でも2週間後、僕はその答えが分からないままスーツに袖を通した。
ときどきフォートコチの夕暮れを思い出す。
あのときもしバイクの後ろに乗っていたとしても、僕は竜次のことを、こんなに長く覚えていただろうか。
