【連載小説】世界はまだ俺たちを知らない 第15話 明日になれば
勝己はスマートフォンの画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
父からの既読はつかないままだ。
「あ……」
勝己は、すぐに母親のLINEを開いた。
家には母親と弟の優希が一緒にいるはずだ。
わりぃ、今日は帰れない。
間宮と一ノ瀬といる。
そっちは大丈夫か?
勝己は黙って母親にLINEを打つと
すぐに既読がつき、内心安堵した。
既読がついてすぐだった。母親からの着信で
古い和室に鈍いバイブ音が響いた。
間宮と一ノ瀬が勝己をみる。
勝己は、2人に僅かに頷くと、スマホを耳にあてた。
「――もしもし!?」
聞き慣れた声が耳に届いた。
「勝己!?はぁ……よかった……連絡がないから心配で……今どこにいるの?」
その声に、勝己の肩からわずかに力が抜けた。
「……俺は大丈夫。今は……」
勝己は言葉に少し詰まる。知らない空き家にいるといえば余計に心配させると思ったからだ。

「間宮と一ノ瀬と避難所にいる。
今日は帰れねーけど……
明日にはなんとか帰るから」
「避難所?そう……父さんが学校に迎えにいったはずなの。連絡がとれなくて、会ってない?」
「会ってねぇ」
「え?」
「もう学校にはいねぇ……逃げた。父さんからLINEきてたから、すぐさっき連絡したとこ」
「そう……」
「優希は?」
「いるわ。ずっと家にいる。お父さんから絶対出るなって言われてるから……」
「……そうか」
家にいる。その言葉だけで、胸の奥にあったものが少しだけ緩んだ。
「……母さん、絶対外出んなよ。」
「うん……わかってる」
「玄関も窓も全部鍵かけとけ」
「わかった……」
「誰か来ても、すぐ開けんな」
「……勝己?」
母親の声が少し変わった。勝己の様子がいつもより違うのを察したかのようだった。
勝己は黙った。
「学校で……なにかあったの?」
「…………」
どう説明すればいいのか分からなかった。
人が人に噛み付いて食ったなんて、どう説明したらいいかわからなかった。
言えば余計に、今不安な母親を心配させるだけだと思ったからだ。
どれも自分の目で見たことなのに、言葉にしようとすると途端に現実味が湧かなかった。
「……よく分かんねぇ。
ただ……俺が帰るまで絶対外出んなよ」
電話の向こうが静かになる。
「……分かった。勝己?
避難所は……安全なのよね?」
「あぁ……大丈夫。間宮達もいるから」
「兄貴?」
突然電話越しに弟の優希の声がした。
勝己の眉がわずかに動いた。
「優希?」
「兄貴?今どこいんの?」
「ん……避難所」
「避難所?……ふーん」
「ふーんって何だよ」
「別に……母さんずっと心配してたから」
勝己は小さく息を吐いた。不器用だが、母親思いなのを勝己はよくわかっていた。
「お前も絶対外出んなよ」
「分かってるって」
「窓も開けんな」
「ガキじゃねぇし」
「まだガキだろ」
「は?うっせーな」
「お前な……」
勝己の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
いつものやりとりが、僅かに今日あった事の現実味を薄くする。
「なぁ……兄貴」
「何だよ」
「ネットでさ、人が人噛んでる動画とか出てんだけど」
勝己の表情から笑みが消えた。
「……見たのか」
「うん。あれマジ?」
「…………」
「兄貴?」
「……余計なもん見てねぇで、家から出んな」
「いや答えになってねぇし」
「いいから」
「はいはい」
いつもなら腹が立つ返事も、今は不思議と何も感じなかった。
「じゃあ代わるわ」
再び母親の声になる。
「勝己」
「ん?」
「明日の朝、また連絡して」
勝己はスマートフォンの画面へ視線を落とした。
「……八時」
「八時?」
「八時になったら連絡する」
「分かった。絶対よ?父さんにも連絡してみる」
「あぁ」
一瞬、会話が途切れた。
「……勝己」
「……ん?」
「気をつけてね」
勝己は少しだけ黙った。
「……そっちもな」
通話を切ると、途端に雨の音が妙に大きく聞こえた。
画面に表示されたバッテリー残量は、
15%。
「……マジかよ」
勝己は小さく眉を寄せた。
明日の朝八時に母親に連絡する約束をした。
電話越しの声からして、母親が心配で仕方ないのは嫌でも伝わっていた。
充電できる場所は、この家にはない。
勝己はそっとスマホをツナギのポケットへ静かにしまった。
「……なぁ、勝己」
顔を上げると、間宮がこちらを見ていた。
赤いツナギ姿のまま、少し言いづらそうな顔をしている。
「何だよ」
「いや……あのさ……電話……貸してくんね?」
勝己はポケットへ手をやった。
ずっと張り詰めていた3人の糸は、勝己が家族と電話で話すことで家族の心配へと色を変えていく。
「……お前そういや充電なかったもんな。」
しかし、充電が15パーセントしかない。
なくなれば母親を心配させる。
しかし、間宮の気持ちは痛いほどわかった。
勝己はスマホを間宮に差し出した。
「ほら……家族心配なんだろ。」
勝己からスマホを受けとると、間宮は画面をみてから眉を寄せた。
「いや……お前15パーしかねぇじゃん……」
少し黙った勝己を見て、察したように間宮の顔が曇る。
「……悪ぃ。はは、大丈夫。ったく、充電こんな時に切れるなんてさ。やっちまたよな俺……」
「ほら、俺のでかけろよ」
横から一ノ瀬がスマートフォンを差し出した。
間宮が顔を向ける。
「……え、いいの?」
「……心配なんだろ。ったく。からあげ棒買う前にモバイルバッテリー買っとけよ今度は」
「からあげ棒は関係ねぇだろ!」
3人は目を見合わせ僅かに笑った。
間宮は一ノ瀬からスマートフォンを受け取ると、緊迫した表情で慣れた番号を入力する。
実家の八百屋の固定電話。
家族なら必ず誰かがいるはずだ。
呼び出し音が鳴る。

プルルルル……
一回。
二回。
三回。
間宮はスマートフォンを強く耳へ押し当てた。
四回。
五回。
「…………」
誰も出ない。
間宮は一度通話を切ると、すぐにもう一度かけなおした。
プルルルル……
再び呼び出し音が静かな和室に僅かに響く。
しかし、誰も出なかった。
間宮は肩を落としスマホ画面をみつめる。
いつもの元気はわかりやすく消えていた。
「……なんで出ねぇんだよ……」
三度目。
プルルルル……
同じ音だけが続く。
「間宮」
「ちょっと待てって」
「間宮」
「店にいるはずなんだよ」
声が少しずつ大きくなった。
「親父も母ちゃんも……翔平もいるし!誰か一人くらい出るだろ普通!」
一ノ瀬は黙って間宮を見ていた。
「もう一回――」
「いないんじゃねぇの」
間宮の指が止まった。
「……は?」
「……家にいるとは限らねぇだろ」
一ノ瀬は淡々と言った。
「避難所、あちこち開いてるって言ってた。家族で避難してる可能性もある」
「…………」
間宮は黙った。
それでも不安そうな顔は消えなかった。
「……じゃあ、なんで連絡ねぇんだよ」
一ノ瀬が間宮を見る。
「お前のスマホ、死んでんだろ」
「…………」
間宮が自分のポケットを見る。
電源の落ちたスマートフォンが入っている。
「……あ」
「連絡してきてたかもしれねぇ。まだ、決めつけんな」
「…………そうか……そうだよな。母ちゃん世話焼きだしよ。近所の年寄りとか連れて……多分避難所だよな……うん、そうだわきっと……」
その言葉を、自分に言い聞かせるように間宮は呟いた。
安心したわけではない。
今はそう信じることが間宮には僅かに救いになっていた。
勝己も一ノ瀬は、それ以上何も言わなかった。
間宮もようやく通話を切ると、一ノ瀬へスマホを手渡した。
「……悪ぃ。ありがとな」
「別に」
受け取った一ノ瀬は、そのまま画面を見た。
一瞬だけ。
一ノ瀬の指が止まった。
「……一ノ瀬お前は?」
間宮が尋ねた。
勝己も一ノ瀬を黙って見つめた。
「何が」
「何がって……母ちゃんに連絡しねぇの?」
一ノ瀬はすぐには答えなかった。
学校にいた時、最後に交わしたLINE。
母親は会社がある都心にいる。人が多い場所だ。更にそれ以降連絡は何も来ていなかった。
単身赴任中の父からもLINEは既読もついていなかった。
一ノ瀬は、LINEのトーク画面を開くと、母親と昼に交わした最後のメッセージを見つめると、指を動かした。
母さん、今どこ?
会社で避難できてる?
送信する。
既読を待たずに、また指が動いた。
俺は大丈夫だから。
勝己たちといる。
心配しないで、母さんは自分の身を守って。
画面を祈るように見つめるが、いつもならすぐにつく既読はつかなかった。
「……」
「……電話してみろよ。母ちゃん都心いるなら
会社いるんじゃねぇ?」
間宮の言葉にいつもなら軽くツッこむ一ノ瀬も少し黙ると、すぐにスマホを耳にあてた。
「……出たか?」
「……出ねぇ」
一ノ瀬はスマホを持った手を静かに降ろした。間宮が何か言おうとしたが、一ノ瀬が先に顔を逸らしながら呟いた。
「……まぁ」
ほんの少しだけ間が空いた。
「……大丈夫だろ」
勝己は一ノ瀬を見ていた。
一ノ瀬は、普段は根拠のないことを言う人間ではない。
分からないものは分からないと言うし、可能性があるなら、可能性として置くやつだ。
その一ノ瀬が呟いた「大丈夫だろ」は、どうゆう意味か、勝己には伝わっていた。
しかし、勝己は何も言わなかった。
いつもならお節介な間宮も、今はそれ以上聞かなかった。
古い和室に、雨音だけが響いていた。
⸻
「……つうかよ……マジでさみぃんだけど」
沈黙に耐えきれなくなったように、間宮が呟いた。大きな体を震わせながら辺りを見渡す。
一ノ瀬が溜息をつきながら顔を向ける。
「お前ツナギピチピチだから、寒くねーだろ」
「いやそれ関係ねぇわ!
つうかピチピチとか言うなし!「 」
間宮が即座にいつものように反応した。
勝己と一ノ瀬は、間宮の赤いツナギを上から下まで眺めると、一ノ瀬が真顔で言った。
「お前なんでLなのに寸足らずなんだよ」
「いや、真顔で言うなよ!」
勝己が少し吹き出す。
「勝己なに笑ってんだよ。ったく」
間宮はそう言うと、和室にあぐらをかこうとしゃがみ込んだ。
その瞬間。
ミシッ……
「…………」
一瞬の沈黙のあと、勝己と一ノ瀬が間宮を見る。間宮も勝己と一ノ瀬を見た。
一ノ瀬が間宮を見て言った、
「……今、なんか鳴ったぞ」
「鳴ってねぇ」
「いや、鳴った」
「鳴ってねぇ!」
勝己が横から間宮を見ると、静かに加勢した。
「……お前ケツ破れただろ」
「破れてねぇし!」
間宮の声が、古い家の中に響いた。
一ノ瀬が堪えるように小さく笑う。
勝己も続けて肩を振るわせ笑った、
「だから声でけぇって」
いつもと変わらないやり取りだった。
ほんの数時間前までなら、教室でも、帰り道でもしていたような。
世界が変わっても。
そんな変わらないものが、三人が三人でいる間だけは、まだ残っていた。
「ったく、人の不幸を笑いやがって!」
間宮は立ち上がりそのまま、一階の押し入れを開けると、古い布団が何組か残されていた。
「お!!布団あるじゃねぇか!」
間宮がうれしそうに声を上げると、早速布団を出そうと腕を伸ばしたが、手が止まった。
「……カビてね?」
一ノ瀬が近くまでいくと、じっと暗闇の中布団を見つめたあと、布団の端をつまんだ。
「……気のせいだろ」
「いや明らかに見えてんだよ」
「見なかったことにしろ」
「いやぁ……無理だろ〜……」
間宮がわかりやすく肩を落とした。
勝己はその横で、押し入れの下の古い衣装ケースも開けた。
古い靴下や肌着やタオルが数枚入っている。
何年使われていないのか分からないものばかりだったが、明らかに清潔ではなかった。
間宮が一枚の衣類をゆっくり指で掴みながら、持ち上げた。
「…………」
暗闇で妙に浮き立つ白い股引。
一ノ瀬がゆっくり間宮に視線を向けた。
「いいじゃん」
「何が」
「よかったな、あったかそうじゃん」
「お前履けよ」
「嫌だ」
「俺も嫌だよ!」
「さみぃって言ってたじゃねぇか」
「いや、赤に白の股引って紅白かよ!」
一ノ瀬が吹き出した。
そんな中、勝己は二人を横目に、使えそうな毛布を引っ張り出していた。
埃が舞うのが暗闇でもわかる。
「……使えそうなの、こっち持ってけ」
「お前普通に受け入れてんのな」
「寒いよりマシだろ」
結局、選べるほどの物はなかった。
今までなら絶対に使わなかったであろう古い布団も、タオルも、服も。
この夜だけは、そこに残されていたことがありがたかった。
一通りなんとか寝られる場所を作り終えると、再び静けさが戻ってきた。
間宮があぐらをかき、畳の上に座り込みながら真剣な表情で勝己と一ノ瀬を見つめた。
「……なぁ…俺さ……明日家行くわ」

勝己は間宮をみつめ、一ノ瀬も顔を上げる。
間宮が口に出す前から、なんとなく間宮の気持ちはわかっていた。
間宮は俯いたまま続ける。
「……わかってる、危ねぇのも……
でもやっぱり確かめてぇ。誰もいなかったら
避難所探せばいいし」
「…………」
「……翔平もいるし」
勝己は目を伏せた。間宮の気持ちは痛いほどわかったからだ。弟の優希の顔が浮かんだ。
「……あぁ、わかってる」
間宮が顔を上げる。
「……一ノ瀬、お前は?」
勝己の言葉に一ノ瀬は少し黙った。
古い布団に座ると、天井を見上げながら少し考えるように間を置いた。
「今、別れて動くのは危ねぇ。母さんは連絡がまだねぇし、都心なら変に母さんも動かないほうがいい。」
「でもよ……」
間宮が一ノ瀬をみて言いかけた言葉に被せるように一ノ瀬が言った。
「お前の家のがちけーだろ。お前一人ならすぐ死にそうだし」
「死ぬとか言うなし!……死んでたまるかよ」
「勝己は?」
一ノ瀬が勝己に聞き返した。
勝己は2人をみたあと、布団に静かに座った。
「……明日朝電話かける事になってる。
父さんも連絡とれねぇけど……父さんなら
なんとかする。」
少し間が空く。妙な沈黙と止まない雨音が響いていた。
「とりあえず明るくならねぇと動けねぇ。」
勝己は一ノ瀬を見たあと間宮に視線を向けた。
「……明日朝出る。間宮の家に3人で行くぞ」
一ノ瀬も反論しなかった。
「わかった。」
「……なんかわりぃ。ありがとよ……」
間宮は少し安堵したように言ったあと、申し訳なさそうに僅かに俯いた。
「明日はえーし早く寝るぞ」
勝己がいうと、3人は古い布団に横になった。
「やっぱり、カビくせー!!」
「我慢しろ」
「やっぱりくせーって……」
3人は目を見合わせ僅かに笑った。
やがて、静かに3人は目を閉じた。
しかし、眠れなかった。
雨音だけが、暗い家の中に響いていた。
その頃。
市民センターでは、まだ人の声が絶えず続いていた。慣れない場所で過ごす夜は、不安だが人がいる事が不安を僅かに和らげていた。
新しく避難してくる人や家族へ電話をかける人や、泣き疲れて、親の腕の中で眠る子供。
多目的ホールの明かりは、消されることなく点いたままだった。
受付の脇の
怪我人が集められたブルーシート。
その端で、首元に怪我を負っていた黒いコートの会社員が横になりながら体を丸めていた。
毛布を口元まで掛け、震えている。
額には、細かな汗が浮かんでいた。
「……はぁ……っ……さ、寒い……」
少し前まで、処置をされた後は、そう何度も繰り返し呟いていた。
けれど今は-
静かになっていた。小刻みに震えていた体も
動きを止めている。
人の声が行き交う市民センターで、そんな僅かな変化に誰も気づいていなかった。
怪我の処置をした職員が、男へ視線を向け声をかけようとしゃがみ込んだ。

「……具合はどうですか?痛み止めよかったら」
鎮痛剤とペットボトルの水を手に持ち、男に声をかけるが返事はない。
職員は僅かに眉を寄せながら再び声をかけようと、少し顔を寄せた。
「……すみません、聞こえますか?」
男は目を閉じたまま動かない。
肩へ手を置き、僅かに揺らしたが、全く反応はなかった。
「……あ、あの……すみません?」
もう一度、肩を揺らした時だった。
男の腕が毛布の端から力なく硬い床に落ちた。
「……え?」
男の口元へ顔をゆっくり近づける。
職員の表情が変わった。
そして、すぐに首元へ指を伸ばした。
「…………」
数秒、脈を確かめたあと、職員の顔から一気に血の気が引いていく。
「誰か……」
震えた小さな声に近くにいた一人が職員を見ながら、動きを止めた。
「だ……誰かはやく!はやく来てください!」
大きな声に、近くにいた人たちが一斉に振り返った。
外ではまだ、
冷たい冬の雨が降り続いていた。
