愛されたいんじゃなかった
私はずっと、愛されたいんだと思っていた。
だから可愛くなろうとしたし、嫌われないようにしたし、相手が欲しい言葉を考えて話した。
でも、何年も同じことを繰り返して気づいた。
私は愛されたいんじゃなかった。
愛されないことを確認したかった。
「やっぱりね。」
そう言える材料を集めていただけだった。
返事が少し遅い。
前より素っ気ない。
会いたいと言われない。
その程度のことでも十分だった。
証拠はいくらでも見つかる。
反対に、大事にされている証拠はほとんど見えない。
褒められても社交辞令だと思うし、好きと言われても、その場だけだと思う。
私の世界では、愛情より疑いの方が現実味を持っていた。
人は、自分が信じている世界しか見られないらしい。
もしそれが本当なら、私はずっと「愛されない世界」を信じて生きてきたことになる。
思い返せば、その世界は居心地がよかった。
苦しかったけれど、予想を裏切られない安心があった。
期待しなければ傷つかない。
信じなければ失望しない。
最初から諦めていれば、「やっぱりね」で終われる。
その方がずっと楽だった。
だから私は、誰かを好きになるたびに試してしまう。
離れるかもしれない。
嘘をつくかもしれない。
見捨てるかもしれない。
そんな未来ばかり想像して、まだ起きてもいない出来事に傷つく。
そうして、本当に相手が疲れて離れていくと、私は絶望し愛されないという気持ちの強度が増す。
ほら、やっぱり。
私の世界は間違っていなかった。
その瞬間だけは、悲しいのに安心してしまう。
人は正しさより、一貫性を選ぶことがある。
私は長い間、「誰にも愛されない私」という物語を守ってきた。
その物語は苦しいくせに、私を裏切らなかった。
最近になって思う。
もし誰かが私を本当に大事にしてくれたとして、一番困るのは私なのかもしれない。
今まで信じてきた世界が、全部間違っていたことになるから。
だから変わることは、救われることじゃない。
積み上げてきた絶望を、自分の手で壊すことだ。
それは案外、傷つくことより難しい。