
第三章 祖父の声
祖父の書斎は、まだそのままだった。
澪の母は「そのうち片づける」と言ったが、それは葬儀直後から言われていて、もう二週間が経つ。澪は書斎の前を通るたびに、引き戸に手をかけようとして、かけられなかった。祖父がまだそこにいるような気がしたわけではない。むしろ逆で、扉を開けたら確実に不在を確認することになる、その事実が重かった。
だが今日、澪は開けた。
潮の匂いが染みついた木の机。
古い地形図。鎌倉の古文書のコピー。
机の上は片づいていた。祖父は散らかすことを好まなかった。使ったものはすぐ元の場所に戻す人だった。それでも机の表面には、長年の使用が刻まれていた。インクのシミ。定規で引いた傷。円いコーヒーカップの跡。
澪は椅子に座った。祖父の椅子。木製で、背もたれが高く、座面が少しだけへこんでいる。長年の重さが染みついた形。
背中がすっぽりと収まる感覚に、澪は目を細めた。
一枚の紙に、赤いインクで線が引かれている。
由比ヶ浜から材木座、そして稲村ヶ崎へ。海岸線をなぞる線。ただのなぞりではない。特定の地点に印がある。浜の中央、古い寺の前、岬の手前。
その横に、こうある。
目印は、残る。
澪は目を閉じる。
書斎の静けさは特別だった。外の音が遠い。通りを走る車も、隣の家の声も、ここまでは届かない。潮の匂いだけが、かすかに漂っている。潮の匂いは窓を閉めていても染みこむ。長年かけて木に、布に、本の紙に、滲みこんだものだから。
祖父の声が、静かに蘇る。
「澪はな、目印になる名前だ」
それを言ったのは、澪が十歳か十一歳のころだった。由比ヶ浜で、夕暮れが来ていた。砂浜が橙色に染まって、祖父の影が長く伸びていた。唐突だったから、澪は返事ができなかった。目印って何の?と聞けばよかった。なぜそんなことを言うの?と聞けばよかった。
でも澪は黙っていた。
そして祖父も、それ以上を言わなかった。
澪標とは、水位を示す杭。
海に立てられ、船に位置を知らせる。水が増えれば、杭は短く見える。水が引けば、長く見える。
だが、もし水が引かなければ。
杭は、ただそこに立ち続ける。
澪は机の引き出しを開けた。文房具。消しゴム。古い切手。それから、小さな写真。
若い男女が浜辺に立っている。男は祖父だとわかった。女は、祖母だろうか。澪は祖母をほとんど知らない。澪が生まれる前に亡くなっているから。ふたりの後ろに海がある。空は白く、海も白い。影がない日の写真。
祖母の顔は、笑っているが、どこか遠い目をしている。
澪は写真をそっと戻した。
澪は鏡を見る。
書斎の隅の古い鏡。縁が少し曇っていて、映る顔がわずかにぼやける。澪は自分の顔を見ることが苦手だ。そこに何を見ればいいのかわからないから。人は鏡で何を確認するのか。存在を確認するのか。それとも何か別の何かを。
自分の名前を、ゆっくりと口にする。
みお。
それは水の道であり、目印であり、境界だ。
川の流れが作る水路を「澪」という。船が通れる、深くなった部分。浅瀬の中の、かろうじて通れる筋道。そこに杭を立てて、次の船に知らせる。
自分はそれだと、祖父は言いたかったのか。
いや、違う。自分ではなく、澪が、ということか。
祖父は、澪に何を託したのか。
それが問いなのか、あるいはすでに答えなのか、澪にはわからない。人が死んでから残した言葉は、文脈を失う。どんな気持ちで書いたか、どんな顔をしていたか、確かめる術がない。
残るのは、言葉だけだ。
浜辺で、澪はもう一度海に入る。
今度は膝まで。砂が足元でゆっくりと動く。波が来るたびに体重が揺れ、バランスを取り直す。この感覚が澪は嫌いではなかった。地面が動くことへの恐怖よりも、動くものの上に立っているという感覚のほうが勝った。
冷たさが骨に届く。
だが恐怖はない。
世界が傾いているのなら、誰かがそれを測らなければならない。傾きに気づかない人が多いほど、気づいている人間がどこかに立っていることが必要になる。
杭として。目印として。
澪は、水面を見つめる。
午後の光が差してきた。雲が薄くなり、光が角度を持った。水面に反射が生まれ、揺れる光の縞模様が砂底に届く。
そこに一瞬、縦の影が揺れる。
杭のような影。
それが実在するかどうかは、問題ではない。
光の屈折かもしれない。波の作る錯視かもしれない。あるいは本当に何かが、海の底から伸びているのかもしれない。澪にはわからない。
大切なのは、気づくことだ。
そこに何かがあるかもしれないという可能性に、目を開いておくこと。