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Photo byqingmu_art

それは「多様性」ではない

    「多様性」という言葉が割と当たり前に使われる世の中になった。それ自体はとても良いことだと思う。

    けど、同時に違和感も覚える。というのも、「多様性」という言葉をどうも捉え間違えている気がするからだ。

    「多様性」という言葉を「理解しなければならない」みたいな感覚と共に受け入れている人が多い気がしている。分かりやすい例として「LGBTQ」を挙げるが、「LGBTQのことを理解しなければならない」なんて風に考えているんじゃないかと思っているのだ。

    でも、僕が思う「多様性」に「理解」は不要である。必要なのは「放置」の方だ。

    「理解しなければならない」と思っている人は結局、「頑張ったけど理解出来なかった! だからやっぱり拒絶・拒否するし、批判・非難もする!」みたいに考えるような気がする。「どうにか理解出来るなら受け入れるが、理解出来なければ許容しない」というわけだ。

    そんなの、「多様性」じゃないだろ。

    僕は「理解」なんて要らないと思う。LGBTQの人たちだって恐らく、「不特定多数の人から理解されたい」なんて考えていないだろう。理解してくれる人がいれば嬉しいが、そうでないなら「ほっといてほしい」というのが基本的な感覚だと思う。

    「理解しなきゃ」なんて思っている人間からの「理解」なんて窮屈でしかないし、そんなもの誰も望んじゃいないだろう。「受容のプロセスとしての理解」なんか、マジで要らない。

    実害があるなら別だが、実害がないなら「理解できないものはほっとけ」と思う。「排除」と「放置」は全然違う。「排除」は「多様性」を実現させないだろうが、「放置」は「多様性」の実現に貢献するはずだ。

    だから、理解できないものはほうっておこう。

     
     
    「文庫X」とか「帯1グランプリ」とかやりました 『書店員X』(中央公論新社) 『このままなんとなく、あとウン十年も生きるなんて マジ絶望』(秀和システム) フラフラと適当に緩やかに生きていきたい https://note.com/bunko_x/n/n651a50538180

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