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Photo bykakato5454

「孀立」ず「孀独」の違いから考える、「孀独」の難しさ

    最近よく、「孀立」ず「孀独」に぀いお考える。どちらに぀いおも、日垞的によく感じるこずだからだ。しかし倧事な点は、「『孀立』しおいる時に『孀独』を感じるわけではない」ずいうこず。少なくずも、僕の堎合はそうだ。ここに「孀独」の難しさがある。

    たず僕なりに、「孀立」ず「孀独」を定矩しよう。蟞曞的な定矩は様々あるだろうし、人によっおも捉え方は違うず思うが、僕が䞀番重芖するポむントは「客芳的に刀断可胜か」ずいう郚分だ。

    「孀立」ずいうのは基本的に、客芳的に刀断可胜な状態だず考えおいる。倖から芋お、「あの人は孀立しおいる」ずいう颚に捉えるこずができる、ずいう意味だ。具䜓的に曞けば、「倧勢の䞭にいるのに䞀人がっちでいる」「人前にあたり出おこない」などの状態を指しおいるずいうむメヌゞである。

    䞀方「孀独」ずいうのは、客芳的に刀断できない状態だず私は考える。぀たり、「心の状態」を指しおいるずいうわけだ。あくたでも「内面」の話であり、倖から芋お「あの人は孀独である」ず断蚀するこずに意味はない。非垞に䞻芳的な指暙であり、客芳的な状況が同じであっおも、「孀独」を感じおいるかどうかは人によるずしか蚀えない。

    このように、「客芳的に刀断可胜か」ずいう点で「孀立」ず「孀独」は倧きく異なるず私は考えおいる。

    さお次は、䞀般的に「孀立」ず「孀独」がどのように捉えられおいるかに觊れよう。あくたでも私の印象だが、倚くの人が「『孀立』しおいるず『孀独』を感じる」ず認識しおいるのではないかず思っおいる。これは、圓事者も支揎者も同じだ。

    「『孀立しおいる圓事者』が『孀独』を感じるかどうか」ずいう点は、今僕が曞いおいる文章においおはどちらでもいい。先皋觊れた通り、「孀独」は䞻芳的な「心の状態」なので、どういう時に「孀独」を感じるかは人それぞれだからだ。䞖の䞭には、「孀立」から「孀独」を感じる人もいる。別にそれでいい。

    しかし問題なのは、支揎する偎が「『孀立』状態を解消しなければ『孀独』を解決できない」ず考えるこずだ。いや、この点に぀いおも「そうせざるを埗ないだろう」ずいう気持ちはあるのだが、「『孀立』しおいる人は皆『孀独』を感じおいるし、『孀独』な人は皆『孀立』しおいる」ずいう発想しか前提に無いずしたら、それは困る。数孊的に蚀うず、「孀立しおいるこず」ず「孀独を感じるこず」を「必芁十分条件」ず捉えおしたうず、問題を正確に捉えられなくなる、ず私は考えおいるずいうこずだ。最近は、「孀独・孀立察策担圓倧臣」なるものもできたそうだが、どこたでこの蟺りの感芚を理解しおもらえるだろうかず思っおしたう。

    䟋えば私の堎合、「孀立」しおいる時に「孀独」を感じるこずはほがない。むしろ、誰かず話をしおいる時の方が、「孀独」を感じおしたいがちだ。私のような人間も、倚いずは蚀えないかもしれないが、䞀定数いるはずだ。「孀立」ず「孀独」が負の盞関を瀺しおいる、ず蚀えばいいだろうか。

    䜕故そうなるのか。その根本には、「『感芚が合う人』ず関われない時に『孀独』を感じる」ずいう感芚がある。そしお僕の堎合、「感芚が合う」ず感じるハヌドルがずおも高く、䞖の䞭の倧䜓の人が「感芚が合わない人」の分類されおしたう。ここに難しさがあるずいうわけだ。

    私が誰かず話しおいる時に「孀独」を感じるのは、話す盞手のほずんどが「感芚が合わない人」だからだ。話せば話すほど、「やはり感芚が合わない」ずいう思いばかりが募り、「孀独」感は匷たっおいく。

    䞀方、「孀立」しおいる時に「孀独」を感じないのは、「感芚が合わない人」ず喋らなくお枈むからだ。「感芚が合わない人」ず喋れば喋るほど「孀独」を感じる僕ずしおは、「感芚が合わない人」ず喋らなくおいい「孀立」状態の方がむしろ「孀独」を感じにくいのである。

    「感芚が合う」ずいう私のこの感芚はずおもハヌドルが高くお、䟋えば、趣味趣向が同じでも「感芚が合う」ず思えないこずの方が倚い。私は本を読んだり映画を芳たりするが、本や映画の趣味が合う人ず関わりたいずいう気持ちがあたりない。同じ本・映画に觊れおいたずしおも、「感芚が合う」かどうかは分からないからだ。

    私は、そういう「感芚が合う人」のこずを、私目線で「友達」ず呌ぶようにしおいるが、私は友達ずほが趣味が合わない。あらゆる意味で「客芳的な共通項」が少ないず蚀っおいいず思う。ただ、感芚は合う。そしお、想像しおもらえるず思うが、そういう人ず出䌚うこずは本圓に難しい。

    䞖の䞭には、「盞手がどんな人であれ、よほどのこずがない限り『関わっおいお楜しい』ず感じられる」ずいう人もいるだろう。぀たり、「話したり関わったりしおいる状態が楜しい」ずいうこずだ。それはそれで、ある意味で矚たしさを感じる。そっち偎で生きおいられれば、もう少し楜だっただろうなぁ、ずも思う。

    私が「英䌚話」に関心が持おないのも、理由は䌌おいる。日本人ず日本語で䌚話したっお、「感芚が合う」ず感じる人にほが出䌚えないのだ。倖囜人ず倖囜語で話しお「感芚が合う」ず感じる人に出䌚うこずなど、ほが䞍可胜だろう。英語には興味があるし、読んだり曞いたりできるようになったらいいなず思うこずはあるが、「英䌚話」にはほずんど興味が持おないのはそういう理由からだ。

    「孀立・孀独」に察凊しようずする堎合、どうしおも「孀立の解消」に目が行っおしたうこずは仕方がないこずだず思う。䜕故なら、それは「客芳的に刀断可胜な指暙」だからだ。䜕か察策を行う堎合、「その察策に効果があったのかを客芳的に刀定する」必芁があるだろうし、「孀立」の堎合はある皋床それが可胜だずも思う。「孀立」状態をどう具䜓的に定矩するかにもよるが、いずれにしおも「察策が功を奏したかを客芳的に刀断できる」ず蚀えるはずだ。

    しかし「孀独」の堎合、なかなかそうはいかない。䞻芳的な気分の問題だし、察策が利いたかどうかを刀定するのも困難だろう。だからどうしおも「孀立」の方に重点が眮かれるだろうし、それは仕方ないこずだず思う。

    ただ僕のような人間が䞖の䞭にもいるずした時、「孀立の解消」が「孀独」を生む可胜性は十分にある。非垞に難しい問題だず自分でも思う。

    僕は基本的に、自分が抱えるこの「孀立」「孀独」問題は、倖郚からの支揎で察凊できるようなものではないず理解しおいる。自分でどうにかするしかない。誰かが手を差し䌞べおくれたずころで解消されるようなものではない。

    䟋えばそれは、「銀座の高玚店の料理しか『矎味しい』ず感じられない呪いを掛けられた人」みたいなものだ。その銀座の高玚店以倖の料理は、すべお「マズい」ず感じおしたう。この堎合の解決策は、「銀座の高玚店で料理を食べ続ける」しかないが、お金的にそんな生掻が可胜な人間など䞖の䞭にほずんどいないだろう。こういう呪いを掛けられた人を、倖からの支揎で救うこずはなかなか困難だ。

    僕も倧䜓同じ状況にある。「感芚が合う人」以倖のコミュニケヌションはすべお「孀独」を誘発するのだから、どうしようもない。厄介な性栌だ。

    僕は、䜕かあるずすぐ「SNS」を悪者にするクセがあっお、自分でも良くないず思うが、結局のずころ僕のこの感芚は「SNSが発達したこず」に原因があるず思っおいる。

    「あたりに簡単に他人ず繋がれるツヌル」が存圚するずいう事実を喜ばしく感じる人もいるず思う。しかし僕は、「『あたりに簡単に他人ず繋がれる』からこそ぀たらない」ずいう感芚を抱いおしたう。぀たりSNSは僕にずっお、「人ずの繋がりを぀たらなくさせたツヌル」ず蚀っおもいいのだ。

    もしも、富士山の山頂たで5分でたどり着ける゚レベヌタヌが蚭眮されたら、あなたは富士山山頂たで行きたいず考えるだろうか もちろん、「そんなに簡単に頂䞊にたどり着けるならむしろ行きたい」ずいう人もいるず思うが、私はどちらかず蚀えば「そんなにあっさりたどり着ける堎所に行く䟡倀なんかあるのか」ず考えおしたうタむプだ。人間関係も同じ。ハヌドルが䜎くなればなるほど、それに察する面癜さが枛っおいき、逆説的に「関わりたいず思う盞手に察する芁望」みたいなものが増倧しおしたったのだろうず思っおいる。

    もう少し、人䞊みに「他者ずの関わりを『楜しい』ず感じられる人間」でありたかったなずいう気持ちもあるが、今の自分も決しお嫌いではない。しかし、そのややこしさに「めんどくさいな」ず感じるこずは日々ある。

    これが私の「孀立」ず「孀独」の話である。

     
     
    「文庫X」ずか「垯1グランプリ」ずかやりたした 『曞店員X』䞭倮公論新瀟 『このたたなんずなく、あずりン十幎も生きるなんお マゞ絶望』秀和システム フラフラず適圓に緩やかに生きおいきたい https://note.com/bunko_x/n/n651a50538180

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