
旅の前に、もう旅をしていた
夏と冬のボーナスが出るたびに、
夫婦で少しだけ贅沢をする。
贅沢といってもささやかなものだが、
半年に一度、「お疲れさん」と言える時間になっている。
同居している長女は、
推し活を兼ねて韓国へ旅行中。
久しぶりに夫婦二人だけの夜だった。
昨日は最寄駅の近くにある寿司屋へ向かった。
店の予約システムがうまく機能しておらず、
夕方五時に到着した時には、すでに25組待ち。
少し心が折れかけたが、
せっかくの機会なのでテーブル席を予約し、
そのまま待つことにした。
結局、一時間ほどの待ち時間になった。
でも、不思議と退屈しなかった。
九月に予定している九州旅行の話で盛り上がったからだ。
今年、勤続三十年を迎えた。
永年勤続の祝いとして、
会社から旅行費用の補助を受けられることになっている。
由布院、阿蘇、高千穂などを巡る三泊四日の旅。
携帯電話で地図を見ながら、「ここは外せない」「この温泉も良さそうだ」と話しているうちに、待ち時間はいつの間にか過ぎていった。
ようやく席に案内されると、
普段の回転寿司ではなかなか手が伸びないネタを頼む。
のどぐろは一貫六百円。
回転寿司なら二百円の中トロでさえ少し考えてしまう夫婦だから、本来ならためらう値段だ。
それでも「今日は特別だから」と言い聞かせて注文する。
白えび。
うに。
のどぐろ。
二貫ずつ頼み、妻と一貫ずつ分け合う。
若い頃ほど量は入らない。
その代わり、一貫をゆっくり味わうようになった。
最初のビールを飲み終えると、地酒を冷やで頼む。
寿司をつまみながら、他愛もない話を続ける。
妻と知り合って三十五年になる。
振り返れば、本当にいろいろなことがあった。
笑った日もあれば、黙って夕飯を食べた日もあった。
子育てに追われた時期もあれば、
お互い仕事で余裕を失っていた時期もある。
それでも今の私たちは、
どちらかといえば夫婦というより同志に近い。
先を急ぐわけでもなく、
肩を並べて同じ景色を見ている。
そんな感覚がしっくりくる。
ほろ酔い気分で店を出ると、
帰り道の途中にあるミスタードーナツへ立ち寄った。
妻はお気に入りの一つを選び、
私はいつもの一つを選ぶ。
家に帰ってそれぞれ風呂を済ませ、
湯上がりの体でコーヒーを淹れる。
部屋に立ちのぼる香ばしい香り。
皿の上にはドーナツが二つ。
特別な出来事があったわけではない。
豪華な旅行でもなければ、
高級レストランでもない。
こうして時々少しだけ贅沢をして、
これからの旅の話をし、
帰りに好きなドーナツを買う。
そんなありふれた幸せが、
歳を重ねるほどに愛おしくなってきた。
九州への旅は、まだ少し先だ。
それでも昨夜の私たちは、
寿司を待つ一時間のあいだに、
もう旅の途中にいたのかもしれない。
コーヒーを最後の一口まで飲み干した。