
ヤコブの梯子 ―ある掲示板に残された世界改変の記録―
※この物語は、2000年代にインターネット掲示板に投稿された「梯子の物語」を原案としたモキュメンタリーです。
思うところがあり書きました。元の体験談は私のサイトをご覧ください。
あらすじ
2008年、雨の夜。コンビニの軒先で、フリーターの青年は岡田真澄に似た初老の紳士から奇妙なメモとピアスを託される。「2009年1月2日、13時43分。神社である女性に会いなさい」。
暗号めいたメモの意味を求めて青年が書き込んだネット掲示板のスレッドは、やがて15年間続く「記録」となる。亡くなったはずの両親が写る写真。「停点理論」を語る謎の女。裏切り、改変された家族、2028年の未来、そして人ならざる存在との契約――。時空の不思議な現象を在野で研究しているブロガーの「私」が、当事者への取材と膨大な掲示板ログからその全貌を再構成した、実話系サスペンスの到達点。これは、世界の「編集」に巻き込まれた、ある兄妹の物語である。
はじめに――依頼
2022年の春、私は、時空の不思議な現象を在野で研究するブログを通じて1件の依頼を受けた。
「自分の体験を、小説の形にまとめてほしい」
依頼主は東京在住の40代の男性。報酬は相場よりかなり良く、条件はただひとつ、「事実の順番を変えないこと」だった。
初めて会ったのは新宿の喫茶店だ。彼は疲れた顔のごく普通の会社員に見えたが、テーブルに置かれた紙袋には、古いICレコーダーが10数本、輪ゴムで束ねられて入っていた。
「全部、僕の声です。2009年からつけている、声の日記です」
なぜ文字ではなく声なのかと訊くと、彼は少し黙ってから答えた。
「声と匂いは、記憶に直接結びつくから。……自分の現実が嘘をついていないか、確かめる方法が、それしかなかったんです」
彼はネットの一部では知られた人物だった。ある巨大掲示板のオカルト板で、15年前から断続的に書き込みを続けている投稿者。スレッドでの愛称は――「梯子」。
以下に記すのは、彼の音声日記と本人への聞き取り、そして15年分の掲示板ログをもとに、私が再構成した記録である。
彼は取材の最後に、こう言った。
「僕には、絶対に言えないことがあります。必ず嘘をつく質問があります。約束に縛られているからです。……でも、小説という形なら、言えないことも、なんとか伝えられる気がするんです」
だからこれは小説だ。小説ということに、しておいてほしい。
第1章 雨の夜の紳士
2008年9月22日、東京は夜から強い雨になった。
S区のアパートに住む26歳の青年――のちに「梯子」と呼ばれる彼は、居酒屋で友人たちと飲んだ帰り、コンビニに寄った。煙草とスポーツドリンクを買って外に出ると、雨脚はさらに強くなっていた。軒先で煙草に火をつけ、小降りになるのを待つ。
ふと気づくと、隣に初老の男が立っていた。
仕立てのいいスーツ。銀髪をきれいに撫でつけ、彫りの深い顔立ちは、俳優の岡田真澄によく似ていた。男はじっとこちらを見ていた。
「雨が、強いですね」
「台風が近づいているせいでしょうか」
そんな世間話から始まったはずだった。男の物腰はやわらかく、警戒心を溶かすような不思議な間合いがあった。気がつけば梯子は、初対面の男に身の上話をしていた。
両親は中学生のときに事故で亡くなったこと。それから叔父の家に引き取られたこと。大学を出て就職のために上京したが、勤め先のトラブルで会社を辞め、いまはアルバイトをしながら大学院を目指していること。
胸を詰まらせながら、1時間も話し込んでいた。我に返ったのは、さっきまで一緒に飲んでいた友人からの電話だった。ひどく酔っていて、迎えに来てほしいという。
男は親切にも店員に頼んでタクシーを呼んでくれた。そして車を待つ間、ふいに口調を変えた。
「君はどんなに勉強しても、大学院には戻らないだろう。いまアルバイトをしている会社は、2年後になくなる」
梯子は笑おうとして、笑えなかった。男の目が、まるで済んだことを読み上げるように動いていたからだ。
「2009年1月2日、13時43分。S区のA神社で、ある女性と必ず会いなさい」
そのときタクシーが滑り込んできた。男は梯子の手に、折り畳んだメモ用紙と小さなケースを素早く握らせ、早口で何かを告げた。ドアが閉まる。雨の向こうで、男はもう別の方向を見ていた。
ケースの中には女物のピアスが入っていた。「Her diva」と書かれた付箋がついている。
メモには、几帳面な字でこう書かれていた。
――Qualeは物質へ干渉し因果律を支える。ネメアのlion。 ――西暦2009年1月2日13時43分、S区Aの神社。ショート、茶髪、ファーのロングコート、茶色のブーツ。ピアスを渡すこと。怪しまれないように。困難であるが、君自身を不審に思われてはいけない。誰よりも早く彼女に会い、彼女がその日話す最初の人物でなければならない。遅刻してはならない。 ――Jacob's Ladder was developed by Causal closure of physics. ――主観より始まりしものは、ついには客観に全て終わる。MaryはPaper Moonを歌わないし、月を踏む者は己を信じない。
裏面には、さらに奇妙なことが書かれていた。
――君のほかに2人いるが、補欠でしかない。 ――妹さんは叔父さん夫婦とうまくやっているが、叔母さんは1年後に精密な検査を受けなければならない。そのとき、妹さんと君は必ず帰省していなければならない。 ――翌年のお盆に、君は帰省してはいけない。ただし、神社の彼女ときちんと縁を触れ合わせることに成功した場合のみ。失敗したならば、君の好きにしてよい。 ――信じなさい。君の友と君自身を。未来も過去も現在も、すべて同じ板の上にある。
梯子は震えた。
男に、叔父夫婦のことも――妹がいることも、話していなかった。
その夜、友人を部屋に泊めた梯子は、寝つけないまま、なんとなくネット掲示板の「不可解な体験、謎な話」スレッドに、一部始終を書き込んだ。誰かに話さずにいられなかったのだ。
レスはいくつもついた。「釣り乙」「新手の宗教勧誘」「メモうp」。だがその中に、ひとつだけ毛色の違う書き込みがあった。
《これ以上はやめていただけないでしょうか。あなたが体験したことは、あなた自身で結果を確かめてください。ネメアは少しでもズレると修正が効きません。人にはそれぞれ役割というものがあります。あなたは、あなたの役割を果たすことだけを考えてください》
ネメアとは何か、と梯子が問うと、返信はこうだった。
《混乱されて当然だと思いますが、今は従ってください。必ず、すべてを理解できるときが来ます。そんなに遠い話ではありません。彼女と出会ってさえくれれば。――私もあくまで役割を果たしているに過ぎず、全体の一部でしかない。しかし、一部が不良を起こせば、全体がダメになる。あなたが彼と出会ったのは偶然です。が、役割を与えられたのは必然なのです》
スレッドの住人たちは、面白半分、本気半分でメモの解読を始めた。
Qualeはクオリア――主観的な意識の質感。それが「物質へ干渉し因果律を支える」。つまり、思考が現実に影響を与える、という意味か。
ネメアのlionは、ギリシア神話でヘラクレスに課された「第1の試練」。
Jacob's Ladder――ヤコブの梯子。旧約聖書で、ヤコブが夢に見た天へ届く梯子。それが「物理的領域の因果的閉包性によって開発された」。奇跡ではなく、純粋に物理的な技術として作られた、と読める。
MaryはPaper Moonを歌わない――「It's Only a Paper Moon」には「あなたの愛さえあれば、紙の月も本物になる」という一節がある。聖母マリアは紙の月を本物と信じない。この世界に、愛や奇跡の入る余地はない、ということか。
そして誰かが気づいた。メモの末尾に走り書きされた数式は、量子力学の「パウリの排他原理」――2つの粒子は、同一の量子状態を同時に占めることができない、という原理を表していた。
世界は、1つしかない。
この夜から、青年は「梯子」と呼ばれるようになった。天へ届く梯子を、知らずに登り始めた者として。
第2章 ありえない写真
約束の1月2日まで、3ヶ月あった。梯子は自分なりに調べ始めた。
あの夜のコンビニで店員に訊くと、スーツの紳士は少なくとも2度、来店していた。2度目は孫らしい男の子を連れていたという。人間として、生活の中にいる。幽霊のたぐいではない。それがかえって不気味だった。
ピアスは、友人の伝手でアクセサリー店に鑑定を頼んだ。ごくありふれた品だった。ただ、「Her diva」の付箋の裏に、小さく「11月1日」という日付と、飛行機のような線画が描かれていることがわかった。
10月、掲示板への書き込みが途絶えた。
再開された投稿は短かった。妹が、事故に遭った。
詳細は書かれなかったが、相当に深刻であることは文面から伝わった。梯子はアルバイトを休んで帰省し、妹の入院する病院と叔父の家を往復した。両親を亡くしてから、たった2人きりの兄妹だった。スレッドの誰もが、梯子がどれほど妹を大切にしているかを知っていた。
11月、梯子は退院した妹を東京に呼び、2人で新しいアパートに移った。
その頃だ。あの写真が現れたのは。
アルバイトの帰りが遅くなった夜、自宅まであと数百メートルの路上で、梯子は小学校低学年くらいの男の子に出会った。夜10時過ぎ。迷子だと思い、声をかけた。親の居場所を訊いても「わからない」と言う。仕方なく自分のマフラーを巻いてやり、近くの交番に連れて行った。
翌日の昼、警察から電話があった。保護者が見つかったという報告と――「お子さんが、あなたに借りていた物を返したいそうです」。
交番で渡されたのは、マフラーと、見覚えのないネームホルダーだった。
「これは僕のものじゃありません」
「でも、そこに写ってるの、あなたですよね」
ホルダーの中には、1枚の写真が入っていた。
成人した梯子。その隣に妹。そして――梯子が中学生のときに死んだはずの、父と母。
4人とも、いまの年齢のまま笑っていた。両親は、死んだときよりも確かに老けていた。旅行先らしい風景にも、着ている服にも、まったく見覚えがない。写真の裏には一言、「諏訪で」とあった。梯子は諏訪に行ったことがない。
合成を疑った。何度も光にかざした。どこにも不自然な継ぎ目はなかった。
それは、あり得たかもしれない家族の、あり得ないはずの記念写真だった。
第3章 ドトールの女
写真は、妹には見せなかった。事故から回復したばかりの妹に、これ以上の混乱を背負わせたくなかった。
数日後の昼、街を歩いていると、背後から名前を呼ばれた。
振り向くと、紺のスーツを着た美しい女が立っていた。肩からジュラルミンケースのような銀色のバッグを提げている。年齢は読めない。梯子より上にも、妹と同じくらいにも見えた。
「どうして僕の名前を」
「あなたが私に会うのは初めてですが、私はあなたをよく知っています」
女は少しだけ、悲しそうな顔をした。
紳士の仲間か。それとも宗教か。神経をすり減らしていた梯子は、思わず声を荒げた。「悪趣味な写真を寄越したのも、あんたたちの仕業か!」
女は目を丸くし、「ありえない……ここまで……」と呟いた。そして言った。「いま起きていることを説明します。喫茶店に行きましょう」
2人は近くのドトールコーヒーに入った。
女は入店するなり、注文もせずに席についた。梯子が怪訝な顔で立っていると、不安げに戻ってきて訊いた。「なぜ座らないんですか?」「……注文しないんですか?」「え?」
梯子がコーヒーを2つ買った。11月なのに女のスーツは薄手で、「寒いって、すごいですね」と妙な感想を言った。
のちにスレッドの住人たちは、この女を「ドト子」と呼ぶことになる。
ドト子はコーヒーを1口飲み、梯子のその日の行動――出社し、早退し、銀行に寄ったことまで――を、見てきたように言い当てた。尾行かと問うと、首を振った。
「可能性の、問題です」
そして彼女は、この世界ではまだ発見されていないという、ある理論の話を始めた。
「未来も過去も現在も、自分という意識を座標の中心に据えた場合の考え方で、実際には存在していません。本当に存在しているのは、数え切れないほどの、同時多発的な可能性だけです」
いまこの瞬間にも、15歳の梯子や40歳の梯子が存在している。それはパラレルワールドのような並行世界ではない。無数の可能性が1つの方向にうねって集まり、大きな流れを生む。人間はそれを「歴史」とか「時間の流れ」と呼んでいるに過ぎない。
「その同時多発的な可能性、1つひとつを――『停点』と呼びます」
停点とは、映画のフィルムの1コマのようなものだという。1枚では動かない静止画が、連なることで動いて見える。だが選ばれなかったコマも、消えるわけではない。停点として、ただそこに在り続ける。
「迷子の子供が残していった写真は、合成ではありません。1つの可能性の停点から、引っ張ってきたものです」
「……そんなことができるなら、過去や未来も変えられるんじゃないですか」
「この宇宙が誕生したとき、私たちが歴史と呼ぶものの『編集』は完了しました。過去や未来は変えられません。変えられるのは――」
ドト子はそこで言葉を切り、ポケットから奇妙なものを取り出した。プレパラートを大きくしたようなガラスの板と、鋭い針。針で板をつつくと、板は音もなく2枚に分かれた。
「ちょっと、調子が悪いんです」
その瞬間、梯子の耳の奥で、キーンという激しい音が鳴った。頭を1度、大きく揺さぶられたような感覚。視界が何重にもぶれ――
気がつくと、店内から音が消えていた。
さっきまで混み合っていたドトールに、誰もいない。テーブルも、照明も、窓の外の街並みもそのままなのに、人間だけが、いない。
立ち上がりかけたとき、喧噪が戻った。客たちが何事もなかったように笑い、レジが鳴っている。
「おわかりになりました?」ドト子は微笑んだ。「あれも、選ばれなかった1つの可能性です。この店に誰もいない可能性。停点は無限に存在します。文字が1文字だけ違う停点も、空気中の粒子が1つだけ違う停点も。……生命のいないシンプルな場所は、比較的、探しやすいんです」
それからドト子は、本題を切り出した。
2009年1月2日、13時43分。あの神社で、茶色いブーツの女性は、ある男性と出会うことになっている。その出会いをきっかけに、彼女の人生は大きく揺れ、その揺れが巡り巡って、あるドイツの青年に「停点理論」を発見させる。
停点理論が発見された世界は、優しい世界になるという。大きな戦争は起こらず、核は2度と人に向けられない。
「あなたに接触してきた人たちは、ある種、狂信的な考えを持つグループです。彼らはあなたをその男性の代わりに彼女と引き合わせ、縁を搦めて、停点理論の発見そのものを消そうとしている。……行かないでください。神社に」
梯子は黙っていた。ドト子の話を信じたわけではない。ただ、頭の中にはずっと、あの写真があった。
「あの写真みたいに……両親が生きている世界も、あるんですか」
「停点が無限にある以上、あります。でもそれは、正しい世界ではない。あなたのご両親が亡くなったことも、決められた流れの中の1つだった」
その一言が、引き金だった。
「じゃあ、僕の望む世界があるんですね」
「世界は1つなんです。パラレルワールドなんて存在しないんです!」
「でも、彼らの言う通りにすれば、あの写真みたいなことが望めるんでしょう。世界が1つしかないなら、それが『正しい』ことになるわけだ」
「あなたはわかっていない。編集をねじ曲げても、それは選ばれなかった可能性を繋ぎ合わせた偽物の世界です。そこには不安と恐怖と暴力が待っている」
梯子の願いは、単純だった。
妹に、両親の顔を見せてやりたい。自分の作る下手な料理ではなく、母の飯を食わせてやりたい。兄が代わりに行って恥をかかせた授業参観。飼ってやれなかった子犬。行かせてやれなかった遠足。全部を我慢して、ふがいない兄のために笑っていてくれた、あの子に。
その人生を「不遇」の一言で片付けたドト子を、梯子は許せなかった。
「僕は、世界の平和とか、知りません」
席を立った梯子を、ドト子は店の外まで追いかけてきた。「あなたは犯罪者に加担するんですか! どうして現実を受け入れられないんです!」
「過去も未来も現実も無いと言ったのは、あなたですよ」
ドト子はしばらく食い下がったが、やがて足を止め、「……もういいです」と呟いた。
振り返ったとき、彼女の姿は、通りから消えていた。
第4章 1月2日
その後、紳士のグループ――スレッドでの通称「岡田派」――から、2度の接触があった。掲示板に書き込むな、という警告。そして、神社に行かなければ妹がどうなっても知らない、という脅し。
一方で梯子の心は、静かに変わり始めていた。
きっかけは、スレッドの住人たちの、何気ない言葉だった。
《それって、本当に妹さんが望んだことなの?》 《妹の幸せは、妹自身が決めるべきじゃないか》 《妹さんにとって、あんたは大切な家族なんだろ。なんで離れる前提なんだよ》
岡田派の計画では、梯子の願いが叶ったとき、妹は両親と暮らす代わりに、兄と過ごした日々を忘れていくのだという。梯子の側の記憶は、もっとゆっくり消える。互いに別々の「帰る場所」ができ、兄妹だった事実そのものが、なかったことになる。
――それは、誰の幸せなんだ?
梯子は初めて、すべてを妹に話した。
妹は最初、黙って聞いていた。それから、兄の頭がおかしくなったと泣いた。だが、あの写真を見せ、何度も順を追って話すうち、少しずつ信じ始めた。そして、泣き止んだ顔で、はっきりと言った。
「ねじ曲げられた未来なんか、いらない。……私、いままでの毎日、幸せだったよ」
母の飯も、遠足も、子犬も、授業参観も。梯子が「取り戻してやりたい」と思い詰めてきたものすべてを、妹は「兄との日々」と引き換えにする気など、まったくなかった。
梯子が描いた妹の幸せは、梯子のエゴだった。
ドト子は、それを察したように再び現れた。駅の構内で、突然肩を叩かれた。
「それで――神社には、行くんですか」
梯子は正直に、わからない、と答えた。行かなければ妹に何かされるかもしれない。行けば、妹が「いらない」と言った世界になってしまう。
ドト子は言った。「行かないのなら、あなたも妹さんも、全力で私たちが守ります。行くのなら、ピアスは持って行かない。女性を見かけても、絶対に声をかけない。……岡田派は、すでに次の候補に接触している可能性があります」
悩んだ末、梯子は決めた。妹と2人で、1月2日の神社に行く。会うためではなく、見届けるために。ブーツの女性がこれから歩む人生を、遠くから祈るために。
ピアスはドト子に渡すつもりだった。だが、そのピアスとメモは、このとき梯子の手元になかった。筆跡鑑定のできる知り合いに、預けたままだったのだ。
それが、致命的な失着だった。
年が明けた。2009年1月2日。
前日の夜、妹が熱を出した。梯子は妹を家に残し、念のため友人に付き添いを頼んで、1人で神社に向かった。ピアスを預けた知り合いと、連絡がつかなくなっていたからだ。
嫌な予感は、境内に入った瞬間に確信に変わった。
13時35分、到着。初詣の人混みをかき分け、必死で茶色いブーツの女性を探す。13時40分、見つけた。ファーのついたベージュのロングコート。メモの記述、そのままの姿。
だが、彼女の前には、すでにあの知り合いが立っていた。
彼は女性にピアスを差し出し、何かを告げていた。梯子が岡田派から伝えるよう指示されていた、あの言葉を。
梯子は2人の間に割り込んだ。女性は不審そうに眉をひそめ、足早に立ち去った。人混みに紛れて、それきり見えなくなった。
知り合いは、笑っていた。「これで、俺の望みが叶う」
その瞬間、2人は、あの無人の空間にいた。音のない境内。人のいない参道。そこに岡田派の男が現れ、何かを話した――はずだが、梯子はその内容を思い出せない。気がつくと、自分のアパートの前に1人で立っていた。
その夜の梯子の書き込みを、スレッドの住人は忘れられないという。文面が、壊れていたからだ。
自分のせいで、優しい世界は消えた。停点理論は発見されない。ドト子の言っていた平和は、もう来ない。知り合いが岡田派に何を望んだのかはわからない。ただ、彼が数年前のある天災で大切なものを失っていたことを、梯子は知っていた。
そして、1月3日から、梯子は倒れた。
次にスレッドに現れたのは、10日以上経ってから――しかも、書き込んだのは梯子ではなかった。
《兄がお世話になっています》
妹だった。兄があまりに掲示板を気にするので、内緒で覗きに来たという。住人たちは半信半疑で質問を重ねたが、彼女は1つひとつ丁寧に答え、やがて誰もが本物だと認めた。
そして3月の末、ようやく本人が戻ってきた。第一声は、こうだった。
《僕の姉は、どこへ行ったんでしょうか》
スレッドが、凍りついた。
梯子には、妹などいなかったのだ。彼の唯一の肉親は、6つ年上の「姉」だった。両親を亡くした兄妹ではなく、姉弟。授業参観に来てくれたのは姉で、恥ずかしい思いをしたのは梯子のほうだった。
だが、目を覚ましたとき、姉は「妹」になっていた。
顔立ちは、そっくりではないが、面影がある。周囲の誰に訊いても、最初から妹だと言う。写真も、書類も、記憶も――梯子以外のすべてが、書き換わっていた。両親が亡くなった時期さえ、微妙にずれていた。
過去ログを読み返した住人たちは、青ざめた。梯子は最初の夜からずっと「妹」と書いていた。ドト子との会話も、写真の中の家族も、すべて「妹」で記録されている。
つまり、この掲示板のログさえも、書き換えられている。
ドト子の言葉が、遅れて意味を持った。
――未来が変わるのではありません。世界が、変わるんです。
第5章 ゆんゆん
それから梯子は、ゆっくりと壊れていった。
目の前の「妹」を、兄妹だと認められない。自分を心配そうに見つめる顔が、信じられない。それでも彼女が姉と「同じ存在」であることだけは、わかってしまう。仕事を辞め、現実と自分の記憶のどちらが嘘をついているのか、確かめる方法もないまま、梯子はただ、ドト子が再び現れるのを待った。
ドト子は、2度と現れなかった。
5月、感情を抑えられなくなった梯子は、口止めされていたことを、思い出せる限り掲示板にぶちまけた。
アメリカの大きな財団が崩壊する。不治の病がエイズでなくなる。豚インフルエンザなんて、序の口だ――。
ドト子の本名は、ハラマオユミ。岡田派の組織の通称は「ネクタール」。彼らがこの世界に仕掛けようとしていたのは「サイレントボックス」と呼ばれる、史上最大のジェノサイド計画。そして、岡田派が数いる候補から梯子を選んだ、本当の理由。
――梯子の血縁から、いずれ最低最悪の犯罪者が生まれる可能性がある。
彼らはあえて、その遺伝子の可能性を持つ梯子を、ブーツの女性と引き合わせようとしていた。
書き込みの直後、梯子のトリップで、奇妙な投稿が続いた。
《Disclaimer?》 《Disclaimer.》 《alteration. done.》 《alteration?》 《good bye :)》
権利放棄。変更、完了。さようなら。
のちに梯子は、この投稿を自分は書いていないと証言している。
それきり、梯子はスレッドから消えた。
4日後、入れ替わるように、「それ」は現れた。
《愚劣な人間を見ると私の心は安らぐ。いくら年が経とうが、人は変わらないんだと確認できるから》
人を食ったような態度で、スレッドの住人に謎かけを繰り返す、正体不明の投稿者。住人たちは、いつしか彼女を「ゆんゆん」と呼んだ。
彼女の謎かけは、たとえばこんなものだった。
《昔あるところに、天涯孤独の子どもがいました。子どもは独りでしたが、生まれたときからそうだったので、悲しくありませんでした。ただ、知恵がつくにつれて、変化に怯えるようになりました。自分の感じる幸せが、何一つ変わってほしくなかったのです。ある時、子どもは1人の魔女と出会いました。魔女は言いました。お礼に1つだけ、願いを叶えてあげましょう――さて、子どもは何をお願いしたと思う?》
《小雨の降る綺麗な夜だった。その日の食卓には父と母と姉と妹と弟がいた。翌朝に父と母が死んだが、弔う者は誰もいなかった。……さあ、忘れ去られた哀れな兄はどこ? 兄は、本当に、いたの?》
彼女はこの宇宙を、1冊の本にたとえた。
《バイブルは量が決められてるんだ。完成されたバイブルは1つだけ。あとは落丁のようなもの。しかしそれもまた、本編たりうる》
そして自らを、こう名乗った。
《私は数字の3。三角の、頂点》
ゆんゆんの最後の投稿は、2011年3月9日。東日本大震災の、2日前だった。
《いや 今日はやめておこう その時が近づいているから お前はお前のために時間をお使いね》
それきり、彼女もまた、消えた。
第6章 2028年
2014年4月13日。3年の沈黙を破って、梯子のトリップがスレッドに現れた。
《時節は到来しました。非難を覚悟で、すべてお話しします。これは、ある人との約束を果たすためでもあります。僕はきちんと、この物語を終わらせなければなりません》
彼が語った内容は、スレッドの誰の想像も超えていた。
あの「good bye :)」の直前――「ゲームの中で踊らされるのはもうごめんだ」と書き込み、エンターキーを押した瞬間、梯子は目眩に襲われ、腹の底に重い石が落ちたような感覚とともに、意識を失った。
目を覚ますと、いい匂いがした。豚汁の匂いだった。
梯子はソファーで昼寝をしていた。腹の上には、なぜかスイカが乗っていた。起き上がると、小さな男の子が駆け寄ってきて、笑った。
「パパ起きたよ。スイカだっこして寝てる、変なのー」
――パパ?
そこは、2028年の夏だった。
梯子は46歳になっていた。妻がいて、高校生の長女がいて、6歳の息子がいた。その世界の梯子は大学を出て通信会社に勤め、28歳で結婚していた。両親は生きていた。そして――姉も、妹も、最初からいなかった。
19年分の記憶が、他人の日記のように頭の中にあった。子供たちの寝顔も、妻の癖も、全部「覚えて」いた。ただ、幼少期の思い出だけが、映画のダイジェストのように薄かった。
彼はその世界で、3ヶ月を生きた。ときどき起こる頭痛と目眩に悩まされながら、それでも、あたたかい生活だった。
その2028年は、いまの世界の延長のようでいて、細部が食い違っていた。支払いは電子マネーが主流で、小銭を持ち歩く人間はほとんどいなかった。病院のカルテはすべてクラウドで繋がり、癌の早期発見率は驚くほど高かった。ニュースは38度線の撤廃を報じ、隣国の富裕層が北の土地を買い始めたと伝えていた。そして、なぜか国内ではキリスト教徒が急増していて、梯子の一家も毎年、家族でクリスマスを祝った。新型コロナの流行は――なかった。
あとになって梯子は、スレッドでこう答えている。
《僕のいた流れは、1980年代までは、この世界と同じ歴史だったという印象です。幹から外れた、持続できない流れだったのではないかと考えています。……ただ、それは、いまのこの世界が本流である証明には、ならないんですよね》
異変は、秋に始まった。
頭痛の検査のため有給を取った日、早く終わった娘を車で迎えに行き、自動販売機の前に車を停めた。電子マネーが反応しない。小銭もない。困っていると、背後に気配がした。
振り向くと、若い女が立っていた。肩までの黒髪。薄いピンクのセーター。娘と同じ年頃に見えた。順番を待っているのかと場所を譲ると、女は軽く頭を下げ、微笑んだ。
「煙草――あなたは、吸わないんですね」
それだけ言って、去っていった。
意味はわからなかった。ただ、懐かしいような、胸の奥を直接撫でられたような、説明のつかない違和感が残った。車に戻ると、ワイパーに1枚のメモが挟まっていた。
暗号めいた文面。そして、「S特区A神社」の文字と、1月2日という日付。
捨てられなかった。なぜか、捨ててはいけない気がした。
年末、大掃除の日。机の引き出しにしまったはずのそのメモが、棚の上に置かれていた。
梯子は家族に、初詣を提案した。妻も子供たちも賛成した。だが年が明けると、息子が熱を出し、妻は看病に残り、娘は友達と約束ができた。
結局、神社には1人で行った。
――1月2日に、家族の誰かが熱を出す。
20年前と、同じ形だった。
A神社は、区画整理で別の名前に変わっていた。やはり悪戯かと苦笑し、それでもせっかくなので参拝を済ませ、帰ろうとしたとき、靴紐が側溝に引っかかった。しゃがんで外そうとした、その瞬間。
初詣の喧噪が、消えた。
顔を上げると、あれほどごった返していた境内に、誰もいなかった。
そして、背後から肩を叩かれた。
振り返った梯子は、声を失った。衝撃的に美しい女が立っていた。ゆるやかにカールした髪、長い手足、水色のワンピース。人間の美しさの、少し外側にある美しさだった。肌には毛穴も産毛もなく、内側から発光しているように見えた。
女は、見とれる梯子を眺めて、笑った。
「なるほど。お前は、こういう女と出会えるかもと期待して、ここに来たわけだ」
梯子は我に返り、無人の境内を走り回った。誰もいない。車に逃げ込んだ。エンジンがかからない。そして次の瞬間、助手席に、女が座っていた。
悲鳴を上げる梯子に、女は静かに訊いた。
「今、幸せか?」
「……なんですか、それは」
「幸せと、言い切れるか? 日常の中に異物感を覚えたことはないか? カラーの世界に紛れ込んだ、モノクロの景色のような――一瞬の違和感を、感じたことはないか?」
どうしようもない怒りと絶望が、胸の底からこみ上げてきた。そしてその感覚を、いつかどこかで味わったことを、彼は思い出した。ハンドルに顔を伏せた梯子の脳裏に、ふいに、自動販売機の前の女の顔が浮かんだ。知っているようで知らない、でも懐かしい――。
「僕は……どうなってしまったんですか」
「夢を見ている。数限りない可能性の中から、こうありたかったと自分で編集した、小さな世界を覗いている」
「それでいい」梯子は言った。「たとえこれが1分前に始まった世界だとしても、僕はここで生きて、ここで終わりたい」
女は梯子を見た。その顔には、もう何の感情も浮かんでいなかった。
「お前が何を望もうと、私は私のやることをやるだけだ。人は厄介な生き物で、嫌になる。頭も心も体も嘘をつく。しかも、そのことに気づいて生きる者は少ない」
気がつくと、梯子の手は、46歳の手ではなくなっていた。20代の、あの頃の手に戻っていた。
「1つだけ、私からプレゼントをあげよう」
女は言った。
「魂で考えろ。そして、選べ」
次の瞬間、助手席は空になっていた。梯子は震える手でドアを開け、外に1歩、足を踏み出した。
地面が、ぐにゃりと沈んだ。
底なし沼のような暗い穴に呑まれながら、梯子は理解していた。あの女が、スレッドの住人たちが「ゆんゆん」と呼んでいた存在だということを。
第7章 契約
ここから先を、梯子は長いあいだ、誰にも語らなかった。
私が聞き取った音声日記と本人の証言によれば、穴に沈んだあと、梯子は「選ばなかった可能性の世界」をいくつも通過している。妹がいる世界。姉がいる世界。どちらもいない世界。そのすべてに、ゆんゆんは現れた。そして、その都度、同じことを語った。
「ありとあらゆる命は、停点として同時多発的に存在している過去と現在と未来を、魂で選ぶ。それを『時間』と呼ぶ。個の魂が選んだ時間と、個の魂が属する小集合体が選んだ時間、民族、種族という大きな単位で選んだ時間――魂の集合と無意識下の意思単位が大きくなればなるほど、選ばれた時間は不可逆のものとなっていく。それが本流であり、歴史だ」
すべての命は、意識の深いところで「次のコマ」を選び続けている。個人の選択は弱く、集団の選択は強い。人類という単位の無意識が選んだコマの連なりが「本流」――すなわち歴史になる。
だから、と梯子は言う。予言は当たらないのだ、と。
「終末の予言が話題になればなるほど、大勢の人が無意識に『そうならない』停点を選ぶ。ノストラダムスも、2000年問題も、マヤの予言も、騒がれたものは何も起こらなかった。起こったのは、いつも、誰も予想していなかったことだけです」
そして本流には「ポイント」がある。ポイントを辿らない流れは、本流になれない。
ポイントとは、出来事ではない。
――人だ。
あの神社のブーツの女性は、ポイントだった。だから2つの組織は、彼女が幼い頃からずっと、彼女の周りにいた。彼女に直接接触できなかったのは、どちらの組織も、彼女と面識があったからだ。
梯子はポイントではない。ただ、巻き込まれただけの人間だ。
では、なぜ梯子は帰ってこられたのか。
「僕は、僕と契約をしました」
取材のとき、彼はそう言った。冗談の顔ではなかった。
「『自分との約束』というような、綺麗な話ではありません。代償のある、非常に重く、縛りのある契約です。僕のことを僕よりも知っている僕との、契約です。そしてその僕は――ある意味で、彼女と同一の存在です」
そしてもう1つ。2028年の自動販売機の前で梯子に声をかけた、あの若い女性のことだ。
私はてっきり、ドト子が装置を使って未来に現れたのだと思い込んでいた。だが梯子は、静かに首を振った。
「顔も、声も――妹でした」
普通の人間が、20年後の、しかも別の流れの世界に立てるはずがない。立てるとすれば、方法は1つしかない。
「妹は、彼女と契約をしていたんです」と梯子は言った。「ゆんゆんと契約した人間は、ゆんゆんよりも立場が上になる。主従関係に、似ています。だから彼女の力を使って、どのページにでも行ける」
妹は、なぜ2028年へ行ったのか。妻子とともに幸せに暮らす「別の可能性の兄」を、自分の目で確かめるためだったのか。それとも、あのメモをワイパーに挟み、兄をあの神社へ導くためだったのか。
梯子は、その質問には答えなかった。
彼はそれ以上を語らない。語れば、契約に触れるからだという。ただ1つ、付け加えた。
「僕には絶対に言えないことがあります。必ず嘘をつく質問があります。……僕自身が、人の生き死にの運命を左右するような言動は、できないという意味です」
2022年2月28日、梯子は8年ぶりにスレッドへ戻ってきた。ロシアがウクライナに侵攻した、4日後だった。
《ご無沙汰しております。僕が一時的にいた世界では、ウクライナとロシアの自作自演でしたが、今回は様相が違っているようですね。そもそもウクライナの大統領は、違う人でしたし。……本流なのか? ここは?》
住人たちの質問に、彼は淡々と答えていった。
彼が通過した複数のタイムラインでは、2028年までに南海トラフ地震が起きていた。津波よりも建物の倒壊と地滑りの被害が大きい流れが多かった。2割ほどのタイムラインでは、富士山が噴火していた。共通していたのは、噴火の前年が異常な猛暑で、秋を飛ばして冬になったこと。38度線が撤廃された世界があった。金一族がロシアに亡命した世界。新型コロナが流行しなかった世界。ヒラリー・クリントンが大統領になった世界。日本の自衛隊が戦争に参加した世界――。
ただし、と彼は必ず付け加えた。
《タイムラインによって、発生時期も規模もまるで違っていました。同じ災害が、起こらなかった流れもあります》
なぜ違うのか。彼の答えは、一貫している。
《それぞれのタイムラインで、集合的無意識が選んだものが違ったからだと、僕は考えています》
つまり――理屈の上では、人々の無意識の選択によって、災厄の時期や規模は、ずらせる。
《だから、無関心にならないでほしいんです。他の世界で起こったのなら、この世界でも起こるかもしれない。「起こってほしくない」と大勢が思うこと自体が、停点の選択に働きかける。……僕が伝えたいのは、恐怖ではありません。関心です》
彼にはもう1つ、繰り返し語る願いがある。停点理論のことだ。
《停点理論が、はやくこの世界でも見つかってほしい。考案されるのではなく、発見してほしいんです。ドトールの女性が僕に話してくれたような流れに、なってほしい。僕はただの一般人ですから、そう願うしか、なすすべはありません》
ドト子は、停点理論を「発見する」と言った。考案ではなく、発見。私はこの言い回しがずっと引っかかっていた。理論とは、普通、考え出すものだ。発見という言葉が正しいのだとすれば、そのドイツの青年は、停点を頭で組み立てたのではなく――実際に、見たのではないか。梯子がそうであったように、偶然、選ばれなかったコマの側に迷い込み、そこに世界の裏側が実在することを知ってしまったのではないか。
だとすれば、停点を知覚できる人間は、これからも現れる。
梯子は、それを待っているのかもしれない。
《誤解してほしくないのは、僕は壮大な話をしたいのではありません。世界の謎を相手にしたり、高説を垂れたいわけでもない。身近な人を大切にして、自分を大切にして、1秒1秒を無駄にしないでほしい。そんな当たり前のことが、どれだけ得難いものなのか――それを伝えたいだけなんです》
終章 パッセンジャー
最後の取材の日、私はどうしても訊きたかったことを訊いた。
――この話は、フィクションですか。
彼は薄く笑った。以前、スレッドで同じ質問を受けたときと、同じ答えが返ってきた。
「僕が宣言することに、何の意味があるんでしょうか。とある視点から見ると、あなたも、フィクションであるのに」
現在の彼は、東京でごく普通の会社員をしている。結婚はしていない。妹とは、半年に1度、連絡を取る。
「妹さんと平穏に暮らす道を、選んだんですね」と私が言うと、彼は首を振った。
「とある点において、その推論は間違っています。……この物語の軸は、僕ではないんです。本当の主人公は、妹です。彼女はもともと、本流にいた。それを、彼女自身の願いのために、分かれたページにしてしまった。僕は本来、いなかったはずなんです」
私は、意味を測りかねた。彼はそれきり、口をつぐんだ。
原稿をまとめるにあたり、私は1度だけ、妹さん本人に会っている。
都内の喫茶店に現れた彼女は、物静かで、聡明な人だった。取材はつつがなく進んだ。兄の話と矛盾する点は、1つもなかった。あの2028年の世界で、自動販売機の前で兄に声をかけた女性――顔も声も妹だったというあの女性について訊ねたときだけ、彼女は答えず、窓の外を見た。
会計を済ませ、店を出る間際、彼女はふと足を止めて、私に訊いた。
「ブロガーさんは、あの謎かけの答え、わかりましたか」
「謎かけ?」
「天涯孤独の子どもが、魔女に叶えてもらった願いです」
私は、わからない、と答えた。彼女は少しだけ笑った。とても優しい、見たことのない種類の笑顔だった。
「――『この幸せが、何も変わりませんように』ですよ」
帰り道、私はスレッドの過去ログを読み返した。2009年、ゆんゆんが残した、もう1つの謎かけが目に留まった。
《さあ、忘れ去られた哀れな兄はどこ?》
《兄は、本当に、いたの?》
この原稿を書き終えたいま、私の手元には10数本のICレコーダーがある。2009年から続く、彼の声の日記。「自分の現実が嘘をついていないか、確かめるために」録りためられた声。
公開前の確認のため、私は一番古いテープを、もう1度だけ再生した。
初めて聴いたときには、気づかなかった。
録音の最後、彼が録音を止めようとする、その数秒前。マイクがかすかに拾っている。若い女の声だ。笑いを含んだ、歌うような声が、たしかにこう言っている。
「――お姉ちゃんに、貸してごらん」
(了)
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