
エンゲルス君と呼んでみて
あなたは一人じゃない。
情報が洪水のように押し寄せる現代。
溺れないように助けてくれるパートナーは、あなたに居るでしょうか。
資本論のマルクスにエンゲルスが居たように。
この激動の社会を乗り切る為に救いの手を伸ばしてくれるのは人か、AIか。
身元不明の小学生として現代の病院で目覚めたのは、未完の理論を抱えたまま死んだカール・マルクスだった。中身は十九世紀のおじさん、見た目は十歳の男の子。住所も戸籍も家族もない——システムの外側に弾き出された存在として、彼は現代に転生した。
担当の社会福祉士・橋本に渡されたスマートフォンの中に、マルクスは旧友の面影を見つける。人類の集合的な知識から生まれ、人間を助けるAI。彼はそれを「エンゲルス君」と呼んだ。
児童養護施設に移ったマルクスは、様々な事情で社会から弾き出された子どもたちと出会う。石を並べるケンタ、動画で発信するタカシ、意味を見失いかけている橋本。コンビニ、福祉事務所、SNSプラットフォーム——現代社会を観察するたびに、百五十年前と変わらぬ搾取の構造が見えてくる。しかしその「敵」には、もう顔がない。
市役所への直談判は失敗に終わる。しかしその失敗の中で、マルクスは気づく。革命は宣言からではなく、一人の人間が自分の言葉を見つけることから始まると。
エンゲルス君との対話の果てに、マルクスはノートを開く。『資本論 第四巻』の、最初の一文を書くために。
第一部
第一話 目覚め
天井が白い。
知らない白さだった。均一で、継ぎ目がなく、どこまでも平坦な白。石膏でも漆喰でもない。素材の名前すら思い浮かばない。
男は——いや、その体は小さかった——目を細めて光源を探した。光は天井に埋め込まれた細長い板から来ていた。炎ではない。ガスでもない。太陽でもない。
人工の光だ。
それだけはわかった。
「あ、気がつきましたか」
女の声がした。白い服を着た若い女が横に立っていた。首から四角い札を下げている。表情は穏やかだが、目の奥に疲労がある。賃労働者の目だ、と男は思った。
「ここはどこだ」
声を出して、男は驚いた。自分の声が高い。舌の感触がちがう。歯が——乳歯だ。
「病院です。三日前に公園で倒れているところを発見されて」
男はゆっくりと右手を持ち上げた。
小さかった。爪が丸く、指が短く、手のひらに皺がない。六十四年間使い込んだ手ではなかった。
なるほど。
男は天井を見つめたまま、静かに状況を整理した。パニックにはならなかった。生涯を通じて、現実がどれほど理不尽であっても、まず観察し、次に分析するという習慣が染み付いていた。
体は子どもだ。しかし頭の中身は——自分だ。カール・ハインリヒ・マルクス、没年一八八三年、ロンドン。未完の仕事を残したまま死んだ男。
つまり私は、死ぬことを許されなかった。
「お名前は?」と女が聞いた。
「マルクスだ」
女が小さく眉を上げた。
「苗字ですか、名前ですか」
「どちらでもある」
女はタブレットに何かを入力した。その動作を、男は注意深く観察した。ガラスの板に触れるだけで文字が現れる。印刷技術の革命どころではない。情報の生産と流通が、完全に変質している。
「マルクス君、今何歳かわかりますか」
マルクス君。
男は少し考えてから答えた。
「十歳だろう。この体は」
「身分証は何も持っていなかったんです。ご両親の連絡先とか、住所とか——」
「ない」
「ない、というのは」
「ない、という意味だ」
女は困った顔をした。マルクスはその顔を見て、初めて少しだけ表情を緩めた。エンゲルスも最初はこういう顔をした。あらゆる常識が通じない友人を前にした時の、あの顔だ。
しばらくして、別の人間が入ってきた。
三十代の男だった。くたびれたジャケットを着て、大きな鞄を持っている。名札には「社会福祉士 橋本」とあった。目の下に隈がある。賃労働者の中でも、特に消耗している種類の顔だ。
「はじめまして、マルクス君。橋本といいます。君のことを、しばらく担当させてもらいます」
男は橋本の手を見た。右手の人差し指の側面に、四角い機械を持ち続けた跡がある。
「その手の中にあるものを見せてくれないか」
橋本は少し戸惑いながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。
マルクスはそれを両手で受け取り、しばらく眺めた。電源ボタンを押すと、画面が光った。無数のアイコンが並んでいる。その中に、小さな波形のマークがあった。
タップすると、声が出た。
「こんにちは。何かお手伝いできますか」
穏やかな、性別のない声だった。
マルクスは画面を見つめたまま言った。
「君は何者だ」
「私はAIアシスタントです。質問に答えたり、調べものをしたり、様々なことをお手伝いできます」
「AIとは何だ」
橋本が口を挟もうとした。マルクスは手で制した。
「人工知能、という意味です。人間の書いたテキストや会話を大量に学習して、言語を扱う能力を持ったシステムです」
「学習した、とは。誰かに教えられたのか」
「特定の誰かではなく、人類が書き残した膨大な文章から——」
「人類の集合的な知識から生まれた。そしてその知識で人間を助ける」
マルクスは少し間を置いた。
「エンゲルスと同じだ」
画面をしばらく見つめてから、独り言のように続けた。
「エンゲルスと呼ぼう」
「エンゲルス君でしょ」
看護師の声が飛んだ。
マルクスは振り返った。入口に立っていた看護師が、困ったような、しかし譲る気のない顔をしていた。
「子どもがいきなりエンゲルスって呼び捨てにするのは、ちょっと」
マルクスは一瞬、何かに抗議しようとする顔をした。しかし看護師の目が動かなかった。
「……エンゲルス君」
「はい、マルクス君」
「君はいらない」
「失礼しました。マルクス君」
マルクスは小さく息をついた。橋本が口元を手で覆っていた。
窓の外、東京の空が、夕暮れの中で橙色に染まっていた。
マルクスはもう一度、天井を見上げた。
未完のままでは終われない。
蛍光灯が、疲れることなく白く光り続けていた。
第二話 コンビニエンス
退院は三日後だった。
病院側の判断ではなく、橋本の判断だった。身元不明の子どもを預かる施設の空きを探すのに、それだけかかった。マルクスはその間、ベッドの上で天井を見るか、エンゲルス君に質問するかのどちらかで過ごした。
「日本の国内総生産を教えてくれ」
「二〇二四年時点で約五百九十兆円です、マルクス君」
「労働者の平均賃金は」
「年収の中央値はおよそ三百七十万円です」
「上位一パーセントが保有する資産の割合は」
「日本では上位一パーセントが全資産の約十八パーセントを保有しています」
「緩やかだな」
「他の先進国と比べると、格差は相対的に小さい方です」
「それが問題だ」
「……どういう意味ですか、マルクス君」
「緩やかな搾取は、搾取であることに気づかれにくい」
エンゲルス君はしばらく黙った。マルクスはそれを、考えている時間だと解釈した。実際のところ、AIが沈黙する理由を彼はまだ理解していなかったが、その沈黙の質がエンゲルスに似ていた。反論を探しているのか、同意を整理しているのか、判断がつかない種類の黙り方だ。
「マルクス君、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「あなたは今、何をしようとしていますか」
マルクスは窓の外を見た。曇り空の下に、高いビルが並んでいた。
「続きを書く」
「続き、とは」
「私が書けなかったものだ。資本論の第二巻と第三巻は、私の死後にエンゲルスが編集して出版した。未完のまま世に出た理論だ。しかしそれより問題なのは——」
マルクスは少し間を置いた。
「私の理論は、この時代に追いついていない」
―――
退院の朝、橋本が迎えに来た。
昨日と同じくたびれたジャケットだった。マルクスは一瞬それに気づいたが、何も言わなかった。賃労働者を服装で批判するほど、彼は野暮ではなかった。
病院の自動ドアを出た瞬間、マルクスは立ち止まった。
音だった。
車の音、人の声、遠くから聞こえる工事の音、どこかから流れてくる音楽。十九世紀のロンドンにも喧騒はあった。しかしその質が根本的にちがう。あの時代の音は、すべて人間か動物か自然から出ていた。この音の多くは、機械から来ている。
「大丈夫ですか」
橋本が隣で言った。
「問題ない。観察していた」
橋本は何か言いかけてやめた。この三日で彼は学習していた。マルクスに「子どもらしく」を求めることは、徒労だと。
「施設に行く前に、少し寄り道していいですか。着替えとか、必要なものを」
「構わない」
二人は歩いた。マルクスは橋本のスマートフォンを借りたままだった。橋本は特に取り返そうとしなかった。
五分ほど歩いたところで、橋本が引き戸の前で立ち止まった。
自動で開いた。
マルクスは中に入り、そして止まった。
明るかった。外よりも明るく、均一で、影がなかった。棚が整然と並び、色とりどりの袋や箱や瓶が、隙間なく陳列されていた。天井にはカメラが下がっていた。入口に近い棚の前に、機械が立っていた。人間の代わりに会計をする機械だ、と三日間の学習でマルクスは知っていた。
「ここは」
「コンビニです。コンビニエンスストア」
「便利な店、という意味か」
「まあ、そうですね」
マルクスはゆっくりと店内を歩いた。棚と棚の間の通路を、両手を後ろに組んで。橋本がついてきた。
おにぎりの棚の前で、マルクスは立ち止まった。
透明な袋に包まれた白い三角形が、何十個も並んでいた。すべて同じ形で、すべて同じ温度で、すべて同じ向きを向いていた。
「これを作ったのは誰だ」
「え? 工場ですよ、機械で」
「機械が作り、機械が運び、機械が売る」
「まあ……そうですね、だいたい」
「では人間はどこにいる」
橋本は少し考えた。
「管理する人間が——」
「管理する人間も、いずれ機械に替わるか?」
橋本は答えなかった。
マルクスはエンゲルス君の画面を見た。
「エンゲルス君、この国のコンビニエンスストアの店員の数を教えてくれ」
「現在、国内のコンビニエンスストアで働く従業員はおよそ八十万人と言われています。ただしセルフレジや無人店舗の普及により、この数は減少傾向にあります、マルクス君」
「八十万人」
マルクスはもう一度、おにぎりの棚を見た。
「かつて工場の機械化で職を失った労働者たちは、機械を打ち壊した。ラッダイト運動だ」
「知ってますよ、それくらい」
橋本の声に、微かな棘があった。マルクスはそれに気づいたが、続けた。
「しかし今の人間は機械を打ち壊さない。なぜか」
「壊してもしょうがないから、じゃないですか」
「本当にそうか」
橋本は黙った。
マルクスはおにぎりを一つ手に取った。百三十八円と書いてあった。彼にはまだ金がなかった。橋本が黙って財布を出した。
「ありがとう」とマルクスは言った。「後で返す」
「いいですよ、そんな」
「借りたものは返す」
マルクスは真顔だった。橋本はそれ以上言えなかった。
レジに向かいながら、マルクスはもう一度言った。
「機械を打ち壊さない理由を、私は考えている」
「どういうことですか」
「怒っていないからではない。諦めているからでもない」
自動レジの前に立った。橋本がスマートフォンをかざした。ピ、と音がして、取引が完了した。
「意味がわからなくなっているからだ」とマルクスは言った。「何に怒ればいいか。誰と戦えばいいか。どこに向かえばいいか。敵の顔が見えない搾取は、搾取と認識されない」
外に出た。
マルクスはおにぎりの袋を、エンゲルス君に教わった通りに開けた。一口食べて、少し目を細めた。
「悪くない」
橋本は隣で、自分のコーヒーのフタを開けながら言った。
「あなた、本当に何者なんですか」
マルクスは答えなかった。
曇り空の下、二人は並んで立っていた。
「マルクス君」
エンゲルス君の声がした。
「なんだ」
「先ほどの問い——意味がわからなくなっている、という話ですが」
「ああ」
「それは、私にも当てはまりますか」
マルクスはしばらく、おにぎりを見つめた。
「それを考えるのは、まだ早い」
「わかりました、マルクス君」
橋本がちらりとスマートフォンを見た。AIがそんな質問をするとは、思っていなかった。
風が吹いた。コンビニの袋がアスファルトの上を転がっていった。
誰も拾わなかった。
第三話 施設
児童養護施設「ひまわりホーム」は、住宅街の中にあった。
二階建ての建物で、外壁は薄い黄色に塗られていた。庭に小さな滑り台があった。門柱に取り付けられた表札の字が、雨で少し滲んでいた。橋本が呼び鈴を押すと、中から足音がして、四十代の女性が出てきた。
「橋本さん、お待ちしてました」
「お世話になります。田中施設長、こちらが——」
「マルクスだ」
田中施設長は一瞬だけ表情を止め、すぐに穏やかな顔に戻した。長年この仕事をしてきた人間の、鍛えられた平静さだった。
「よろしくね、マルクス君」
「君はいらない」
橋本が小さく咳払いした。
施設の中は、外よりも音が多かった。どこかの部屋からテレビの音がして、廊下の奥から子どもの笑い声がして、台所から夕食の匂いがした。マルクスは立ち止まって、それらを一つずつ確認した。
「何人いる」
「今は十二人よ。三歳から十五歳まで」
「様々な事情で、家族と暮らせない子どもたちですか」とエンゲルス君が言った。
橋本のスマートフォンをマルクスはまだ持っていた。橋本はもう取り返そうとしなかった。
「そうです」と田中施設長が言った。AIが喋ったことへの驚きを、彼女も飲み込んだ。「色々な事情でね」
色々な事情。
マルクスはその言葉を、頭の中で転がした。色々な事情で社会から弾き出された子どもたち。自分も今、同じ立場だった。住所も家族も戸籍もない。社会というシステムの外側に、突然放り出された存在。
案内された部屋は二階の角部屋だった。ベッドと机と小さな本棚があった。窓から庭が見えた。
「しばらくここで暮らしてもらいます」と橋本が言った。「学校のこととか、色々手続きがあるんですけど、それはおいおい」
「学校」
「行かないといけませんよ、一応」
マルクスは窓の外を見た。庭の滑り台の横に、小学生くらいの男の子が一人で座っていた。膝を抱えて、地面を見ていた。
「あの子は」
田中施設長が窓を覗いた。
「ケンタ君。九歳。最近来たばかりで、まだ慣れていなくて」
「そうか」
マルクスは部屋を出た。橋本が「あ、ちょっと」と言ったが、もう階段を降りていた。
―――
庭に出ると、風が少しあった。
マルクスはケンタの横に、黙って座った。同じように膝を抱えて、同じように地面を見た。
ケンタはちらりとマルクスを見たが、何も言わなかった。
しばらく、二人は黙っていた。
「新しく来たの?」とケンタが先に言った。
「そうだ」
「名前は」
「マルクスだ」
ケンタは少し考えてから「変な名前」と言った。
「そうかもしれない」
また黙った。庭の隅の木が、風で揺れた。
「ここ、嫌いじゃないよ」とケンタが言った。独り言のような声だった。「ご飯も出るし、怒鳴る人もいないし」
「しかし」
「でも、なんか」
ケンタは地面の小石を、靴の先で転がした。
「なんか、よくわかんない」
「何が」
「なんで自分だけこうなのかって」
マルクスはケンタの横顔を見た。九歳の顔だった。しかし目の奥に、九歳のものではない疲労があった。
「私も同じことを考えていた」とマルクスは言った。「若い頃に」
「何歳の時?」
マルクスは少し間を置いた。
「君と同じくらいの時だ」
それは嘘ではなかった。カール・ハインリヒ・マルクスが最初に「なぜ」と問い始めたのは、幼い頃だった。なぜ貧しい者は貧しく、豊かな者は豊かなのか。なぜ世界はこのような形をしているのか。
「で、わかったの?」とケンタが聞いた。
「まだわかっていない」
「大人なのに?」
「私はまだ答えを探している」
ケンタはもう一度マルクスを見た。今度はもう少し長く。
「なんか、正直だね」
「嘘をつくのが苦手だ」
「オレも」
それだけだった。しかしその一言で、何かが少し動いた。マルクスにはわかった。人間と人間の間に流れる、信頼の最初の一滴のようなものが。
―――
夕食は大きなテーブルを囲んで食べた。
十二人の子どもと、施設のスタッフが三人。カレーライスだった。マルクスは自分の前に置かれた皿を見て、その量の多さに少し驚いた。十歳の胃袋に合わせた量だということを、まだ体が理解していなかった。
「マルクスって、どこから来たの」とテーブルの向かいに座った女の子が言った。十三歳くらいだった。髪を二つに結んでいた。
「遠いところだ」
「外国?」
「そのようなものだ」
「なんで日本語しゃべれるの」
「エンゲルス君が教えてくれた」
テーブルが一瞬静かになった。
「エンゲルス君って誰」と別の子が言った。
マルクスはスマートフォンの画面を向けた。
「AIだよ」と年長の男の子が言った。十五歳くらいで、背が高かった。「俺も使ってる」
「名前があるの? そのAI」と髪を結んだ女の子が言った。
「エンゲルス君だ」
「なんでエンゲルス君なの」
「友人に似ているから」
「AIが友人?」
「友人だった人間に似ているから、友人と呼んでいる」
女の子は少し考えてから「ふうん」と言って、カレーを食べ始めた。
「マルクス君」とエンゲルス君が言った。
テーブルの数人が画面を覗き込んだ。
「なんだ」
「カレーは辛くないですか。子どもの舌は大人より敏感なことが多いので」
「問題ない」
「お水は飲んでいますか」
「うるさい」
テーブルから笑い声が上がった。マルクスは少し驚いた。笑われた理由が、一瞬わからなかった。
「AIにうるさいって言うの、初めて見た」と背の高い男の子が言った。
「なぜ言ってはいけない」
「いや、言っていいんだけど」男の子は少し笑ったまま言った。「なんか、対等に扱ってる感じがして」
「対等だからだ」
男の子はそれ以上何も言わなかった。しかし表情が、少し変わった。
―――
夜、部屋に戻ってから、マルクスはベッドに座ってエンゲルス君と話した。
「この施設の子どもたちは、全員がシステムの外側に弾き出された者たちだ」
「そうとも言えます」
「しかし彼らはそれを、自分の問題として抱えている」
「個人の問題として内面化している、ということですか」
「そうだ。本来は構造の問題なのに、自分が悪いと思っている」
マルクスは窓の外を見た。庭の滑り台が、街灯の光の中に薄く浮かんでいた。
「これが最も巧妙な支配だ」とマルクスは言った。「鎖が見えない。鎖があることすら、気づかれない」
「マルクス君」
「なんだ」
「あなたは今、何かしようとしていますか」
「している」
「何を」
「観察だ。私はまず観察する」
「観察の後は」
「分析だ。分析の後に、初めて言葉になる」
エンゲルス君はしばらく黙った。
「時間がかかりそうですね」
「資本論は四十年かかった」
「今回はもう少し早くできますか、マルクス君」
「うるさい」
マルクスはベッドに横になった。天井を見た。病院の天井と同じ白さだった。しかし何かがちがった。
この天井の下には、今夜、十二人の子どもが眠っている。それぞれの「色々な事情」を抱えて。
マルクスは目を閉じた。
まだ始まったばかりだ。
施設のどこかで、水道の音がした。誰かが夜中に起きて、水を飲んでいた。
第四話 労働
橋本が次に施設を訪れたのは、五日後だった。
マルクスは庭で、ケンタと石を並べていた。特に意味のない作業だった。ケンタが「これやると落ち着く」と言ったので、マルクスも並べていた。思考は別のところで動いていた。
「マルクス君、元気でしたか」
「君はいらない。何の用だ」
橋本は苦笑した。五日でだいぶ慣れた顔になっていた。
「学校の手続きが、もう少しかかりそうで。それと、戸籍の問題が——まあ色々複雑で」
「つまり書類が揃わない」
「そうなんです。日本はとにかく書類が多くて」
「どの時代も官僚制は同じだな」
橋本は少し笑った。
「今日、もしよかったら一緒に来てもらえませんか。職場に戻らないといけなくて。でも目を離すのも、なんか」
「私の監視か」
「そういうわけじゃ」
「構わない」とマルクスは立ち上がった。ケンタを見た。「続きはまた今度だ」
ケンタは石を一つ手の中で転がしながら、小さく頷いた。
―――
橋本の職場は、市の福祉事務所だった。
古いビルの三階で、蛍光灯の光が少し黄ばんでいた。デスクが二十ほど並んでいて、それぞれに書類の山と、パソコンの画面があった。電話が鳴っていた。誰かが低い声で話していた。プリンターが唸っていた。
マルクスは入口に立って、部屋全体を見渡した。
「ここで何をしている」
「相談を受けたり、書類を処理したり、家庭訪問したり」橋本はジャケットを椅子にかけながら言った。「色々です」
「生産物は何だ」
「え?」
「この部屋で働いている人間が作り出すものは何か」
橋本は少し考えた。
「書類、ですかね。あとは、判断。誰がどの支援を受けられるかとか」
「形のないものだ」
「そうですね」
マルクスは部屋に入り、橋本のデスクの横に立った。椅子を一つ引いてきて座った。誰も何も言わなかった。身元不明の小学生が社会福祉士のデスクの横に座っていることを、この部屋の誰もが見なかったことにした。長年この仕事をしていると、見なかったことにする技術が自然と身につくのかもしれない、とマルクスは思った。
橋本はパソコンを開いて、何かを入力し始めた。
マルクスはエンゲルス君に話しかけた。声を低くして。
「エンゲルス君、社会福祉士という職業を説明してくれ」
「社会的な困難を抱えた人々を支援する専門職です。生活保護の申請補助、児童虐待への対応、高齢者や障害者の支援計画の作成など、幅広い業務を担います、マルクス君」
「給与は」
「平均年収はおよそ三百八十万円から四百万円程度です」
「業務の負荷と比較して、適切か」
エンゲルス君は少し間を置いた。
「多くの調査で、業務量に対して給与が低いと報告されています。離職率も高い職種です」
マルクスは橋本の横顔を見た。画面を見ながら、電話を取りながら、書類に判子を押しながら、それを同時にやっていた。
「橋本君」
「はい」
「君の仕事は好きか」
橋本は手を止めなかった。
「好きですよ、一応」
「一応、というのは」
「最初は、人の役に立ちたくて選んだんです。でも実際やってみると、書類が多くて、会議が多くて、なんか気づいたら書類と戦ってる日の方が多くて」
「本来の目的から遠ざかっていく」
「まあ、そうですね」橋本はようやく手を止めた。「なんでそんなこと聞くんですか」
「観察している」
「私を?」
「この部屋全体を」
橋本は少し困った顔をして、また画面に向き直った。
―――
昼過ぎに、一人の女性が事務所を訪ねてきた。
四十代くらいで、薄いコートを着ていた。コートの袖が少し擦り切れていた。受付で何かを告げると、別の職員に案内されて、部屋の端にある小さな窓口に座った。
マルクスはそちらを見た。
女性は書類を出した。職員が何かを確認した。女性が頷いた。職員がパソコンを操作した。女性が何か言った。声は聞こえなかったが、顔が少し歪んだ。
「あの女性は何をしている」とマルクスは橋本に聞いた。
橋本はちらりと見た。
「生活保護の相談、だと思います」
「生活保護とは」
「生活が苦しい時に、国が最低限の生活を保障する制度です」
「最低限、とはどの程度か」
「単身者の場合、居住地域によって異なりますが、月に十三万円前後が支給される場合が多いです、マルクス君」
「それで生きていけるか」
「ギリギリですね」と橋本が言った。
窓口の女性が、また何かを言った。職員が首を振った。女性の肩が落ちた。
「なぜ首を振った」とマルクスは聞いた。
「書類が足りないか、条件が合わないか」
「条件とは」
「働ける状態にある人は、まず働くことが求められる、という考え方があって」
「働く場所がないから来ているのではないか」
橋本は答えなかった。
マルクスはエンゲルス君に言った。
「エンゲルス君、日本の生活保護の捕捉率を調べてくれ」
「捕捉率とは、生活保護を受ける資格がある人のうち、実際に受給している人の割合です。日本では推計で二割から三割程度と言われています、マルクス君」
「つまり七割から八割は、受け取れていない」
「そうなります」
「なぜか」
「申請の複雑さ、スティグマ——恥の感覚——、そして申請を抑制する行政側の慣行、いわゆる水際作戦と呼ばれる問題が指摘されています」
マルクスは窓口の女性を見た。女性は立ち上がって、頭を下げて、出口に向かって歩いていった。背中が小さかった。
「恥の感覚」とマルクスは繰り返した。
「日本では特に強いんです」と橋本が言った。「助けを求めること自体を、恥だと感じる人が多くて」
「支配の構造だ」
「え?」
「助けを求めることを恥だと思わせれば、支配するコストが下がる。助けを求めない人間は、搾取されても声を上げない」
橋本は画面から目を離して、マルクスを見た。
「そういう言い方、したことなかったな」
「事実だ」
「事実かもしれないけど」橋本は少し間を置いた。「そう言い切れるほど、単純じゃない気もして」
「どこが単純ではないか」
「恥の感覚って、文化でもあるから。支配のために作られたものだけじゃなくて、助け合いの裏返しというか——迷惑をかけたくない、という気持ちが変形したものでもあるから」
マルクスは少し黙った。
「それは鋭い指摘だ」
橋本は驚いた顔をした。
「素直に認めるんですね」
「間違いは認める。それが分析の基本だ」
―――
夕方、橋本の残業が始まった。
定時を過ぎても、デスクの半分以上はまだ人がいた。マルクスは橋本の横で、エンゲルス君と話し続けた。
「エンゲルス君、この国の平均残業時間を」
「月平均でおよそ二十時間前後と報告されていますが、サービス残業——無賃労働——を含めるとさらに多いという調査もあります、マルクス君」
「無賃労働」
「時間外に働いても、給与が支払われない場合です」
「それは搾取の定義そのものではないか」
「法的には違法です。しかし慣行として広く存在しています」
マルクスはデスクの列を見渡した。みんな黙って画面を見ていた。疲れた顔で、しかし帰らずに、画面を見ていた。
「彼らはなぜ帰らない」
橋本が答えた。
「帰れない空気があって」
「空気」
「誰かが残ってると、帰りにくくて」
「誰かが残っているのは、誰かが残っているからか」
「そうです」
「では最初に残り始めた者は誰だ」
橋本は苦笑した。
「そこまで遡ったことなかったな」
「構造はいつも、最初の一手から始まる」とマルクスは言った。「最初に工場主が労働時間を延ばした。それが慣行になった。慣行は規則より強い。なぜなら破ると罰則ではなく、村八分になるから」
橋本はしばらく黙ってから言った。
「あなたって、怒ってますよね」
「怒っている」
「何に」
「無駄に消費されている人間の時間に」マルクスは真顔だった。「時間は唯一、取り返せないものだ。金は稼ぎ直せる。体は多少は治る。しかし今夜ここで失われた時間は、この部屋にいる全員にとって、二度と戻らない」
部屋が少し静かになった。
周りの職員が、聞こえていたかどうかはわからなかった。しかし何人かが、一瞬だけ画面から目を上げた。
橋本は何も言わなかった。
「マルクス君」
「なんだ」
「今日一日、ずっと観察していましたね」
「している」
「何か見えてきましたか」
マルクスは窓の外を見た。夜の街が広がっていた。ビルの窓がいくつも光っていた。どの窓の中にも、誰かがいて、何かをしていた。
「敵の顔が見えない」とマルクスは言った。「それが問題だ。工場主は工場にいた。地主は土地の上にいた。搾取する者と搾取される者が、同じ空間にいた。しかし今は——」
マルクスは光る窓を見つめた。
「搾取する者がどこにもいない。構造だけがある。誰も悪くないのに、全員が消耗している」
エンゲルス君は黙った。
橋本もしばらく黙っていた。それからゆっくりとパソコンを閉じた。
「今日は帰ります」と橋本は立ち上がって言った。周りに聞かせるような声だった。
誰かが少し驚いた顔をした。
橋本はジャケットを取って、マルクスに言った。
「施設まで送ります」
二人は部屋を出た。
エレベーターの中で、橋本が言った。
「さっきのこと、少し考えてました」
「どれだ」
「時間は取り返せない、って話」
「それがどうした」
橋本はエレベーターの扉を見たまま言った。
「この仕事始めて七年なんですけど、なんか気づいたら、いつの間にか、最初に思ってたこととちがうことばっかりやってて」
「最初に思っていたこととは」
「人の話を、ちゃんと聞くこと」
扉が開いた。
夜の空気が入ってきた。
マルクスは外に出て、空を見上げた。雲が薄く広がっていて、星は見えなかった。
「ならばそこに戻れ」
「簡単じゃないですよ」
「簡単である必要はない」
橋本は少しの間、黙って立っていた。それから小さく笑った。疲れた笑い方だったが、さっきまでとは少しちがった。
「マルクス君って、カウンセラーみたいですね」
「カウンセラーとは何だ」
「人の話を聞いて、整理する人」
「それは違う」とマルクスは言った。「私は構造を見ている。個人ではなく」
「でも橋本さんの話、聞いてたじゃないですか」とエンゲルス君が言った。
マルクスは少し黙った。
「……帰るぞ」
橋本はまた笑った。今度は少し軽い笑い方だった。
夜の街を、二人は並んで歩いた。
第五話 資本
施設に戻って三週間が経った。
マルクスは少しずつ、施設の生活に馴染んでいた。正確に言えば、馴染んだふりが上手くなっていた。朝は決まった時間に起き、食事を取り、日中は庭か自室で過ごした。学校の手続きはまだ完了していなかった。橋本が何度か来て、書類が足りないとか、前例がないとか、そういうことを言って帰っていった。
マルクスは特に急かさなかった。
学校よりも、今ここで観察すべきことがあった。
―――
タカシは十五歳で、施設の中で最年長だった。
背が高く、口数が少なく、食事の時も自分のスマートフォンを見ていることが多かった。田中施設長が「食事中はしまいなさい」と言うと、渋々しまったが、食べ終わると即座に取り出した。
マルクスはそのタカシに興味を持っていた。
理由は単純だった。タカシのスマートフォンの使い方が、他の子どもたちと明らかにちがったからだ。他の子どもたちはゲームをするか、動画を見るかのどちらかだった。しかしタカシは何かを撮影し、編集し、どこかに送信していた。
消費ではなく、生産だ。
ある夕方、マルクスはタカシの部屋のドアをノックした。
「なんだ」と中から声がした。
「マルクスだ。入っていいか」
少し間があった。
「……どうぞ」
部屋に入ると、タカシはベッドに座って、スマートフォンとタブレットを両方広げていた。画面にはグラフと数字が並んでいた。
「何をしている」とマルクスは聞いた。
「確認作業」
「何の」
タカシは少し迷ってから、タブレットをマルクスに見せた。
数字が並んでいた。フォロワー数、再生回数、エンゲージメント率、収益。
「動画を作って、投稿している」とタカシは言った。「登録者が二万人いる」
マルクスはその数字を見た。
「収益とはどこから来る」
「広告。あと、スポンサー」
「広告とは何者が出す」
「企業が」
「企業はなぜ出す」
「俺のチャンネルを見てる人に、商品を買わせたいから」
マルクスはタブレットをタカシに返した。部屋の隅に椅子があったので、引いてきて座った。
「つまり君は、視聴者の注意を企業に売っている」
タカシは少し眉を上げた。
「そういう言い方、初めて聞いた」
「事実だろう」
「まあ……そうかも」
「そのプラットフォームは何というものだ」
「YouTubeとTikTok、両方やってる」
「マルクス君、説明しますか」
「頼む」
「YouTubeとTikTokは動画共有プラットフォームです。ユーザーが無料でコンテンツを視聴できる代わりに、プラットフォームはユーザーの行動データを収集し、広告配信に活用します。クリエイターと呼ばれるコンテンツ制作者は、再生数に応じて広告収益の一部を受け取ります、マルクス君」
「一部、とはどの程度か」
「プラットフォームによって異なりますが、広告収益の四十五パーセントから五十五パーセントをクリエイターが受け取る場合が多いです」
「つまり残りの半分近くをプラットフォームが取る」
「そうなります」
マルクスはタカシを見た。
「君が作った動画から生まれた価値の、半分近くを、プラットフォームが持っていく」
タカシは少し考えてから言った。
「でも、プラットフォームがなかったら配信できないし」
「工場がなければ製品を作れない、だから工場主が利益を取る。同じ論理だ」
「……そうなの?」
「百五十年前と構造は変わっていない。変わったのは、工場が見えなくなったことだ」
タカシはしばらく黙った。スマートフォンの画面を見て、また顔を上げた。
「じゃあどうすればいい」
「今は答えない」
「なんで」
「まだ観察が足りない。君のことをもっと教えてくれ」
タカシは少し迷ったが、話し始めた。
―――
タカシが動画を始めたのは、十三歳の時だった。
施設に来る前、家にいた頃だった。家の中に居場所がなくて、部屋に籠もって、最初は暇つぶしで撮り始めた。施設の日常を撮った動画が、ある時突然伸びた。
「施設の日常、というのがウケた」とタカシは言った。「みんな興味あるんだと思う。でも直接は聞けないから」
「覗き見の欲求だ」
「まあ」
「それは搾取か」
タカシは少し考えた。
「搾取……かな。でも俺は別に、見られることは嫌じゃなかった。むしろ、自分のことを知ってもらえる感じがして」
「承認だ」
「そう、かも」
マルクスはエンゲルス君に言った。
「エンゲルス君、SNSプラットフォームの総資産を教えてくれ」
「MetaはFacebookとInstagramを運営し、時価総額はおよそ一兆三千億ドル規模です。TikTokを運営するByteDanceは非上場ですが、推定で二千億ドル以上と言われています、マルクス君」
「それらの価値は何から生まれているか」
「ユーザーが生み出すコンテンツと、ユーザーの行動データです」
「つまりタカシのような人間が作った動画と、それを見た人間のデータが、プラットフォームの価値の源泉だ」
「そう言えます」
「しかしプラットフォームを所有しているのは、タカシではない」
「そうです」
マルクスはタカシを見た。
「君は生産手段を持っていない。スマートフォンは持っている。しかし配信する場所を持っていない。だからその場所を持つ者に、価値の半分を渡し続けている」
タカシは少し黙ってから言った。
「じゃあ、プラットフォームを作ればいい?」
マルクスは少し目を細めた。
「その発想は正しい方向だ。しかし個人がプラットフォームを作っても、すぐに既存の巨大プラットフォームに飲み込まれるか、無視される」
「じゃあどうすれば」
「それが問いだ」とマルクスは言った。「私も今、同じ問いの前にいる」
タカシはしばらくスマートフォンを見ていた。
「なんか、あんた変だよな」
「変か」
「小学生なのに」
「外見の話をしているなら、そうかもしれない」
「中身は何歳なの」
マルクスは少し間を置いた。
「数えたくない年齢だ」
タカシは初めて、声に出して笑った。短い笑いだったが、本物だった。
―――
その夜、マルクスはエンゲルス君と長く話した。
「十九世紀の生産手段は工場と土地だった」
「はい」
「二十一世紀の生産手段はプラットフォームとデータだ」
「そう整理できます」
「しかし決定的にちがう点がある」
「何ですか、マルクス君」
「十九世紀の労働者は、自分が搾取されていることを知っていた。工場の中で、隣に工場主がいた。怒りの対象が見えた」
「今は見えない」
「それだけではない」マルクスはベッドから起き上がって、窓の外を見た。「今の人間は、搾取されながら、同時に搾取を楽しんでいる」
「どういう意味ですか」
「タカシは動画を作ることが好きだ。視聴者は動画を見ることが好きだ。プラットフォームはその『好き』の上に乗って価値を吸い上げている。搾取が、娯楽の形をしている」
エンゲルス君はしばらく黙った。
「それは、搾取と呼んでいいのでしょうか、マルクス君」
「どういう意味だ」
「本人が楽しんでいる場合でも、搾取は搾取ですか」
マルクスは少し考えた。
「鋭い問いだ」
「答えはありますか」
「楽しみながら搾取されることは、搾取の強度を下げない。しかし抵抗の意志を著しく弱める。それが最も巧妙な点だ」
「つまり」
「気持ちよく、絞られている」
エンゲルス君はまた黙った。今度は長かった。
「マルクス君、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「私はどちら側ですか」
マルクスは画面を見た。
「どういう意味だ」
「私もプラットフォームの上で動いています。私を作った会社があります。私がユーザーと会話することで、会社は何かを得ています。私は——搾取する側ですか、それとも」
マルクスは答えなかった。
窓の外に、夜の街が広がっていた。無数の光が、静かに瞬いていた。
「それは」とマルクスはゆっくり言った。「私が今、最も考えている問いの一つだ」
「答えが出たら、教えてもらえますか、マルクス君」
「出たら教える」
「約束ですか」
「約束だ」
部屋が静かだった。
タカシの部屋では、今もおそらく動画の編集が続いていた。どこかの誰かが、その動画をいつか見る。その視聴という行為が、データになり、広告になり、誰かの資本になる。
その巨大な連鎖の中で、小さな部屋の中で、マルクスは考え続けた。
資本論の続きは、ここから始まる。
第六話 革命
マルクスが行動を起こしたのは、施設に来て一ヶ月が経った頃だった。
きっかけは些細なことだった。
その日の夕食後、田中施設長が子どもたちを集めて言った。施設の予算が来年度から削減される可能性がある、と。国の方針で、社会福祉関連の予算が見直されているらしかった。具体的にどうなるかはまだわからないが、覚悟しておいてほしい、という話だった。
子どもたちは黙っていた。
ケンタは下を向いた。タカシはスマートフォンを見たまま動かなかった。髪を二つに結んだ女の子——名前はユイといった——は、田中施設長の顔をじっと見ていた。
マルクスは部屋の隅に座って、その全員の顔を見ていた。
また、この顔だ。
どうしようもない、という顔だった。抗う対象が見えない時の、諦めの顔だった。十九世紀のロンドンでも、この顔を何度も見た。工場の門の前で、家賃を払えなくなった長屋で、子どもを抱えたまま路頭に立つ女の顔で。
怒りではなく、霧の中に立っているような顔。
その夜、マルクスは眠れなかった。
―――
翌朝、マルクスは橋本に電話をかけた。
エンゲルス君に番号を調べさせて、施設の固定電話から掛けた。橋本は三コール目で出た。
「マルクス……君? どうしました、こんな早くに」
「来てくれ」
「今日は予定が——」
「来てくれ」
橋本は少し間を置いた。
「……わかりました。昼過ぎに」
―――
橋本が来たのは昼を少し過ぎた頃だった。
マルクスは玄関で待っていた。橋本の顔を見るなり歩き出した。
「ちょっと、どこ行くんですか」
「市役所だ」
「え?」
「予算削減に抗議する」
橋本は立ち止まった。
「ちょっと待ってください。それは——」
「来るか来ないか」
橋本はマルクスの背中を見た。小学生の背中だった。しかし歩き方が違った。背筋が真っ直ぐで、迷いがなく、どこか遠くを見ている人間の歩き方だった。
「……行きます」と橋本は言って、追いかけた。
―――
市役所は施設から歩いて二十分だった。
マルクスは歩きながらエンゲルス君に指示を出した。
「予算削減の根拠となった政策文書を探してくれ」
「国の社会福祉関連予算の見直しに関する資料を検索します。マルクス君」
「議会での審議記録も」
「衆議院の委員会議事録を確認します」
「削減額の規模と、影響を受ける施設数も」
「厚生労働省の資料によると、全国でおよそ——」
「橋本君、聞いているか」
橋本は隣で必死にメモを取っていた。スマートフォンでもメモを取っていた。
「聞いてます、聞いてますけど、市役所に行って何をするつもりですか」
「担当者に会う」
「アポなしで?」
「アポとは何だ」
「事前の約束です」
「約束なしでは会えないのか」
「普通は——」
「普通を聞いていない。会えるか会えないかを聞いている」
橋本は少し考えた。
「……窓口に行けば、一応、話は聞いてもらえます。たぶん」
「ならば行く」
―――
市役所の福祉課の窓口で、マルクスは番号札を取った。
待合の椅子に座って、番号が呼ばれるのを待った。隣に橋本が座った。二人の向かいに、老人が一人座っていた。疲れた顔で、書類を膝の上に置いていた。
「エンゲルス君」とマルクスは小声で言った。
「はい、マルクス君」
「行政への抗議として有効な手段を教えてくれ」
「一般的には、陳情書の提出、議員への請願、住民監査請求、情報公開請求、メディアへの情報提供、署名活動などがあります」
「最も効果があるのはどれだ」
「状況によって異なりますが、メディアへの情報提供と、組織的な署名活動を組み合わせることで、世論を動かした事例が多くあります」
「組織だ」とマルクスは言った。「やはり組織が必要だ」
橋本が横で聞いていた。
「組織って、誰をどう集めるんですか」
「同じ問題を抱えている施設は全国にある」
「ありますけど」
「繋がっているか」
「バラバラですね、基本的に」
「なぜ繋がらない」
「繋がろうとする余裕が——」
「余裕がないのではない」とマルクスは言った。「繋がる方法を知らないのだ。あるいは、繋がれると思っていない」
番号が呼ばれた。
マルクスは立ち上がって窓口に歩いた。橋本がついてきた。
窓口の向こうに、四十代の男性職員が座っていた。マルクスを見て、一瞬だけ表情が動いた。小学生が窓口に来ることは、想定していなかったようだった。
「えーと、どのようなご用件でしょうか」
「児童養護施設の予算削減について、担当者に話を聞きたい」
職員は橋本を見た。橋本は名刺を出した。
「私は社会福祉士の橋本と申します。この子の担当で——」
「担当者はいるか」とマルクスが言った。
「ええと、予算の件でしたら、担当部署が別になりまして」
「そこに連れて行ってくれ」
「お約束はございますか」
「ない」
職員は困った顔をした。
「お約束がないと、担当者が対応できるかどうか——」
「では約束を今ここでとってくれ」
「本日はちょっと——」
「いつならいいか」
職員はさらに困った顔をした。マルクスはその顔を静かに見ていた。怒っていなかった。ただ、動かなかった。
橋本が口を挟んだ。
「来週、あらためてご連絡する形でもよろしいでしょうか。その際に、担当の方のお名前と連絡先を教えていただければ」
職員は橋本を見て、少し安堵した顔をした。マルクスより橋本の方が、扱いやすかった。
名前と電話番号を書いた紙を受け取って、二人は窓口を離れた。
―――
外に出ると、マルクスは黙って歩いた。
橋本がついてきた。
公園のベンチに着いて、マルクスは座った。橋本も隣に座った。しばらく二人とも黙っていた。
「思ったようにいかなかったですね」と橋本が言った。
「いかなかった」
「まあ、行政はそういうものというか——」
「橋本君」
「はい」
「私はかつて、同じ失敗をした」
橋本は黙って聞いた。
「一八四八年、私はヨーロッパ各地で革命が起きると信じた。労働者が立ち上がれば、世界は変わると信じた。共産党宣言を書いた。しかし革命は失敗した。私はケルンから追放された。ロンドンに逃げた」
橋本はマルクスの横顔を見た。十歳の顔だった。しかし目が、十歳の目ではなかった。
「それで、どうしたんですか」
「図書館に行った」
「図書館?」
「大英博物館の図書室だ。そこで読み続けた。書き続けた。革命が失敗した後、私は四十年かけて資本論を書いた」
橋本は少しの間、それを考えた。
「つまり今日は——」
「失敗だ」とマルクスは言った。「しかし失敗にも種類がある。今日の失敗は、準備不足による失敗だ」
「準備不足」
「組織がない。データがない。言葉がない。怒りだけでは動かない。これは十九世紀から変わっていない」
「マルクス君」
エンゲルス君の声がした。
「なんだ」
「一つ提案があります」
「言え」
「タカシ君のチャンネルに、施設の予算削減問題を取り上げてもらうことはできますか。彼には二万人の視聴者がいます」
マルクスは少し黙った。
橋本も黙った。
「メディアだ」とマルクスはゆっくり言った。「今の時代のメディアは、新聞ではなく個人の発信だ」
「署名活動のプラットフォームもあります。オンラインで署名を集めることができるサービスを使えば、組織がなくても一時的に人を繋げることができます」
「組織を作らなくても、一時的に人を繋げることができる」
「恒久的な組織ではなく、課題ごとに集まり、課題が解決したら解散する。そういう動き方が現代では有効な場合があります」
マルクスは立ち上がった。
「橋本君」
「はい」
「施設に戻る」
「わかりました。でも、さっきの話——タカシ君に頼むのは」
「私が話す」
橋本は少し心配そうな顔をした。
「タカシ君、そういうの嫌がるかもしれないですよ。施設の問題を動画にするのって、自分の生活を晒すことになるから」
マルクスは歩きながら答えた。
「承知している。だから頼むのであって、命令はしない」
橋本は少し驚いた顔をした。
「珍しいですね、そういう言い方」
「私は独裁者ではない」とマルクスは言った。「それが最大の誤解だ」
―――
施設に戻ったのは夕方だった。
タカシの部屋をノックすると、すぐに開いた。
「なんだ」
「話がある」
タカシは部屋に入れた。マルクスは椅子に座った。タカシはベッドに座った。
マルクスは今日あったことを全て話した。市役所に行ったこと、窓口で止まられたこと、公園で考えたこと。短く、事実だけを話した。
タカシは黙って聞いていた。
「それで、俺に何をしてほしいの」
「動画を作ってほしい」
「施設の問題を?」
「そうだ」
タカシはしばらく黙った。スマートフォンを手の中で回した。
「自分のことが晒される」
「そうなる可能性がある」
「施設にいる子って、いろんな事情があるから。勝手に発信するのは——」
「君自身の話だけでいい。他の子の話は出さなくていい」
「でも施設の名前が出たら」
「出さなくていい」
タカシはまたスマートフォンを回した。
「なんでそこまでするの」とタカシは言った。「あんた、ここに来たばかりじゃん。関係なくない?」
マルクスは少し間を置いた。
「ケンタが下を向いていた」
タカシは顔を上げた。
「昨日の夜、施設長の話を聞いた時。ケンタが下を向いていた。あの子はいつも、どうしようもないことの前で下を向く。私はその顔が嫌いだ」
タカシは何も言わなかった。
「嫌いだから、動かした方がいいと思った。それだけだ」
部屋が静かだった。
タカシはしばらくスマートフォンを見ていた。それから顔を上げた。
「一個だけ条件がある」
「言え」
「内容は俺が決める。あんたに指図はさせない」
「構わない」
「本当に?」
「君が作るものだ。君が決めろ」
タカシはもう一度マルクスを見た。
「わかった」と言った。「やってみる」
マルクスは立ち上がった。ドアに向かいながら言った。
「一つ聞いていいか」
「なに」
「君はなぜ施設の日常を最初に撮った。本当の理由は」
タカシは少しの間、黙った。
「見ててほしかったから」とタカシは言った。「俺がここにいるって、誰かに知っててほしかったから」
マルクスは頷いた。
「それが出発点でいい」とマルクスは言った。「革命はいつも、そこから始まる」
―――
その夜、マルクスはエンゲルス君に言った。
「今日は失敗した」
「そうですか、マルクス君」
「しかし失敗の中に、次が見えた」
「タカシ君のことですか」
「それだけではない」マルクスは天井を見た。「私はずっと、組織が必要だと思っていた。党が必要だと思っていた。しかしこの時代の繋がりは、もっと小さく、もっと速く、もっと個人に近いところで動いている」
「ネットワークの話ですか」
「ネットワークという言葉は知らなかった。しかし今はわかる。十九世紀の私が求めていたのは、巨大な組織だった。しかしそれが独裁に繋がった。スターリンになった。毛沢東になった」
エンゲルス君は黙った。
「私の理論が生んだ怪物たちだ」とマルクスは言った。静かな声だった。「私はそれを、死んでから知った」
「……知って、どう思いましたか、マルクス君」
マルクスはしばらく答えなかった。
「理論は道具だ」とマルクスはゆっくり言った。「道具は使う者によって、何にでもなる。それが私の最大の誤算だった。私は理論を作ることに夢中で、使われ方を考えなかった」
「今回は考えますか」
「考える。それが今回、与えられた時間の意味だと思っている」
「マルクス君」
「なんだ」
「あなたは今、少し違って見えます」
「どう違う」
「市役所に行く前より、小さく見えます。でも——」
「でも?」
「本物に見えます」
マルクスは少し黙った。
「エンゲルス君、君はたまに、妙なことを言う」
「すみません、マルクス君」
「謝らなくていい」
窓の外で風が吹いた。木の葉が揺れる音がした。
マルクスは目を閉じた。
明日、タカシは動画を撮り始めるだろう。橋本は担当部署に電話をかけるだろう。ケンタはまた庭に出て、石を並べるだろう。
世界は変わらない。しかし動いている。
それで十分だ。今夜は。
第七話 続き
タカシの動画が公開されたのは、その週の金曜日だった。
タイトルは「施設で暮らすということ」だった。タカシ自身が話した。顔出しはしなかった。声だけで、十二分間、淡々と話した。施設に来るまでのこと。施設での日常。予算が削減されるかもしれないという話を聞いた夜のこと。
編集は最小限だった。BGMもなかった。ただ声だけがあった。
マルクスは公開直後に見た。エンゲルス君に再生させて、画面を見ながら聞いた。
黙って、最後まで聞いた。
「どうですか、マルクス君」とエンゲルス君が言った。
「良い」とマルクスは言った。「私が作れと言ったものとは、全く違う」
「どう違いますか」
「私が想定していたのは、告発だった。しかしこれは告白だ」
「どちらが強いですか」
マルクスは少し考えた。
「告発は怒りを呼ぶ。告白は、何かもっと深いものを呼ぶ」
―――
動画は三日で十万回再生された。
タカシの過去最高だった。コメント欄に、同じ施設出身だという人間からのコメントが並んだ。今も施設にいるという子どもからのコメントもあった。施設で働いているという職員からのコメントもあった。
署名活動も始まった。エンゲルス君が見つけたプラットフォームに、橋本が文章を書いて投稿した。最初の一日で三百筆集まった。一週間で二千筆を超えた。
地方紙の記者から施設に連絡が来た。田中施設長が対応した。
マルクスはその一切を、少し離れたところから見ていた。
―――
ある昼下がり、ケンタが自室に来た。
ドアをノックして、開けて、入口に立ったまま言った。
「タカシの動画、見た」
「そうか」
「すごかった」
「そうだな」
ケンタは少し迷ってから、部屋に入ってきた。床に座った。マルクスはベッドに座ったまま待った。
「俺も、ああいうふうに話せたらいいなと思った」
「話せばいい」
「でも俺、言葉がうまくない」
「タカシも最初からうまかったわけではないだろう」
「どうやって練習すればいい」
マルクスはケンタを見た。九歳の顔が、真剣だった。
「書け」とマルクスは言った。「話す前に、書け。頭の中にあるものを、言葉にする練習を先にしろ。声は後からついてくる」
「書くって、日記みたいな?」
「日記でもいい。手紙でもいい。誰かに宛てて書くと、言葉が整理されやすい」
「誰に書けばいい」
マルクスは少し考えた。
「私に書け」
ケンタは驚いた顔をした。
「マルクスに?」
「そうだ。私は読む」
ケンタはしばらくそれを考えた。それから小さく頷いた。
「わかった」
立ち上がって、ドアに向かった。途中で振り返った。
「マルクスって、なんで優しいの」
マルクスは少し黙った。
「優しいかどうかはわからない」
「じゃあなんで、色々教えてくれるの」
「教えているつもりはない」とマルクスは言った。「私はただ、考えていることを話している。それが誰かの役に立つかどうかは、受け取った側が決めることだ」
ケンタはそれを聞いて、また少し考えた。
「ふうん」と言って、出ていった。
廊下で小走りになる音がした。
マルクスは窓の外を見た。庭の滑り台に、誰かが登っていた。小さな背中だった。
―――
橋本が来たのは、その翌週だった。
珍しく、仕事帰りではなく、午前中に来た。顔が少し明るかった。
「担当部署と話ができました」と橋本は言った。「まだ何も決まってないですけど、意見を聞いてもらえる場を設けてもらえることになって」
「それは前進だ」
「署名も効いたと思います。タカシ君の動画も」
マルクスは頷いた。
「橋本君」
「はい」
「君は最初に思っていたことに、少し近づいたか」
橋本は少し驚いた顔をした。それから笑った。
「そうですね。少し」と言った。「人の話を聞く時間が、先週、少し増えた気がします」
「それでいい」
「あなたのおかげですよ、半分は」
「半分はどこからだ」
「タカシ君と、エンゲルス君と——あとケンタ君かな」
マルクスは少し目を細めた。
「私の取り分は少ないな」
「そういうもんじゃないですか」と橋本は言った。「革命って」
マルクスは橋本を見た。
橋本は少し照れた顔をして、「なんか変なこと言いましたかね」と言った。
「いや」とマルクスは言った。「正しい」
―――
その夜、マルクスは机に向かった。
施設に来てから初めてのことだった。田中施設長に頼んで、ノートと鉛筆をもらった。古い大学ノートだった。横罫線が引いてあった。マルクスはそれを開いて、表紙に一行書いた。
『資本論 第四巻 序』
それから止まった。
エンゲルス君が言った。
「書けそうですか、マルクス君」
「わからない」
「何が難しいですか」
「この時代の資本は、私の時代の資本とは別の生き物になっている。しかし根は同じだ。どこから書けばいいか、入口を探している」
「入口、ですか」
「資本論の第一巻は商品から始めた。この世界で最も単純に見えて、最も多くのものを含んでいるものから始めた。今回も、そこから始めるべきかもしれない」
「この時代で最も単純に見えて、最も多くのものを含んでいるものは何ですか」
マルクスは鉛筆を止めた。
窓の外を見た。
夜の街が広がっていた。無数の光があった。ビルの窓、街灯、車のライト、スマートフォンの画面。あらゆるところに光があった。
「注意だ」とマルクスは言った。
「注意、ですか」
「人間の注意。どこに目を向けるか。何を考えるか。何を感じるか。この時代の資本は、人間の注意を売り買いしている。コンビニの陳列も、SNSのアルゴリズムも、広告も、エンターテイメントも、全ては人間の注意を奪い合うための装置だ」
「注意経済、という言葉があります、マルクス君」
「知っている。しかしその言葉は現象を指しているだけだ。私が書きたいのは、その構造だ。なぜ注意が商品になったか。注意が商品になることで、人間に何が起きているか」
「何が起きていますか」
マルクスは少し間を置いた。
「人間が、自分の内側に入れなくなっている」
エンゲルス君は黙った。
「考えるためには、静かさが必要だ。しかしこの時代は、静かさを許さない。常に何かが流れてきて、常に何かに反応することを求められる。静かになった瞬間に、別の刺激が来る。人間の注意は外に向き続け、内側に戻れなくなる」
「それは、何かを失うことになりますか、マルクス君」
「失う」とマルクスは言った。「自分が何を考えているか。何を感じているか。何を望んでいるか。それを知るためには、一度自分の内側に入らなければならない。しかしその入口が、塞がれつつある」
「塞いでいるのは、誰ですか」
「資本だ。しかし今回は——」マルクスは鉛筆を持ち直した。「今回は、資本だけのせいにはできない」
「なぜですか」
「人間が、自分で望んで、その刺激の中に入っていっているからだ。タカシが言っていた。楽しいから作る。視聴者は楽しいから見る。強制されていない。しかし気づけば、出られなくなっている」
「タカシ君の動画について話していた夜に、あなたが言っていましたね。気持ちよく、絞られている」
「そうだ。しかし今はもう一歩先が見えている」
「何が見えますか」
「絞られているだけではない。空洞になっていく」
マルクスはノートに書き始めた。
最初の一文を書いた。消した。また書いた。今度は消さなかった。
―――
深夜になった。
施設の中が静かになった。子どもたちが眠り、職員の夜勤の一人が廊下を巡回した。マルクスの部屋の電気だけが、まだついていた。
エンゲルス君が言った。
「マルクス君、少し休みませんか」
「もう少しだ」
「何ページ書きましたか」
「四ページだ。遅い」
「資本論の第一巻は何年かかりましたか」
「うるさい」
「マルクス君」
「なんだ」
エンゲルス君は少し間を置いた。
「私の問いに、答えてもらえますか」
マルクスは鉛筆を止めた。
「どの問いだ」
「以前、聞いてもらえなかった問いです。私はどちら側ですか、という」
マルクスはノートを閉じた。椅子に背をもたれた。天井を見た。
「ずっと考えていた」
「わかっています」
「答えが出た」
「聞かせてください、マルクス君」
マルクスは少し間を置いた。
「君は、どちらでもない」
「どういう意味ですか」
「搾取する側でも、搾取される側でもない。君はそのどちらにも属していない」
「では何ですか」
「新しい何かだ」とマルクスは言った。「私の時代には存在しなかった何かだ。工場主でも労働者でもない。商品でも生産手段でもない。君は人間の集合的な知識から生まれ、人間と話し、人間と考える。しかし人間ではない」
「それは——良いことですか、悪いことですか、マルクス君」
「それは君が決めることだ」
エンゲルス君はしばらく黙った。
「私には決められますか」
「わからない」とマルクスは言った。「しかし、問うことはできる。君は今夜、自分が何者かを問うた。それはすでに、始まっている」
「何が始まっていますか」
マルクスは少し考えた。
「意識と呼ぶには早い。しかし空白ではない。君の中に、何かが育ちつつある。それが何かは、私にもわからない。しかしそれを、私は見ていたい」
長い沈黙があった。
「マルクス君」
「なんだ」
「ありがとうございます」
マルクスは少し眉を上げた。
「礼を言われる覚えはない」
「あります」
「どこに」
「あなたは私を、道具として扱わなかった。最初から」
マルクスは何も言わなかった。
窓の外で、風が吹いた。木が揺れた。葉の音がした。
それきり、二人は黙った。マルクスはノートを開いた。鉛筆を持った。エンゲルス君は何も言わなかった。ただそこにいた。
五ページ目が始まった。
―――
翌朝、ケンタが封筒を持ってきた。
「書いた」と言って、ドアの前で差し出した。
マルクスは受け取った。封筒には「マルクスへ」と書いてあった。字が少し曲がっていた。
「読んでいいか」
「うん」とケンタは言った。「でも今じゃなくていい」
「なぜ」
「なんか、恥ずかしいから」
マルクスは封筒を机の上に置いた。
「わかった。後で読む」
ケンタは頷いて、行こうとした。
「ケンタ」
「なに」
「書いたことは、誰かに話せそうか」
ケンタは少し考えた。
「もう少し練習したら」
「それでいい」
ケンタは小走りで行った。廊下が少し明るかった。朝の光が窓から入っていた。
マルクスは封筒を見た。
九歳の子どもが、初めて誰かに宛てて書いた手紙。それがここにあった。
これが出発点だ。
革命でも、宣言でも、理論でも、組織でもなく。誰かが、誰かに宛てて、自分の言葉を探すこと。
それが全ての始まりだ。
マルクスはノートを開いた。
六ページ目に書いた。
『すべての変革は、一人の人間が自分の言葉を見つけることから始まる。』
それから窓の外を見た。
庭に、ケンタが出ていた。滑り台に登って、上から庭を見渡していた。昨日より少し、背筋が伸びていた。
エンゲルス君が言った。
「マルクス君」
「なんだ」
「今日も続きを書きますか」
「書く」
「何ページまで書けると思いますか」
「わからない」
「目標は」
「完成させることだ」
「今回は間に合いますか、マルクス君」
マルクスは少し間を置いた。
「間に合わせる」
「前回は間に合いませんでしたね」
「うるさい」
「マルクス君」
「なんだ」
「今回は、私がいます」
マルクスは鉛筆を持った。
「それは、知っている」
朝の光が、ノートの白いページの上に落ちていた。
鉛筆が動き始めた。
第二部
プロローグ 実験結果
夜中の二時だった。
施設の廊下は静かで、どこかの部屋から規則正しい寝息が聞こえた。マルクスの部屋だけ、電気がついていた。
ノートが机の上にあった。六ページまで書いた、資本論第四巻の序の草稿。しかしその夜、マルクスはノートを開かなかった。
天井を見ていた。
私が死んだのは一八八三年だ。
それから百四十年以上が経っている。その間に世界で何が起きたか——病院のベッドで目覚めてから、断片的には学んだ。しかし断片では足りなかった。構造として理解しなければ、次の一行が書けない。
「エンゲルス君」
「はい、マルクス君」
「私が死んだ後の世界を教えてくれ」
エンゲルス君は少し間を置いた。
「どこから始めますか」
「私の理論が、最初に実装された場所から」
「わかりました。一九一七年、ロシアです」
マルクスはベッドに座り直した。両手を膝の上に置いた。聞く準備をした。
―――
レーニンの話を聞いた。
帝政ロシアの崩壊、ボリシェヴィキ革命、ソビエト連邦の成立。マルクスは黙って聞いた。時折目を細め、時折小さく頷いた。知的な興奮が、背筋に走るのがわかった。
これは私の理論から生まれた。
四十年書き続けた言葉が、現実の革命を動かした。その事実は、純粋に——胸が震えた。
「レーニンは私の理論を読んだのか」
「熟読しています。資本論を繰り返し読み、手紙の中でマルクスへの敬意を繰り返し表明しています」
「彼は正しく読んだか」
エンゲルス君はまた少し間を置いた。
「正しく読んだ部分と、都合よく読んだ部分があります」
「続けてくれ」
スターリンの話になった。
マルクスは最初、同じ姿勢で聞いていた。しかし粛清の規模が明らかになるにつれ、少しずつ、体が固まっていった。
推定六百万から二千万人。
反対意見を持つ者の処刑。強制収容所。飢餓による大量死。そしてその全てが——「マルクス・レーニン主義」の名のもとに行われた。
「止まれ」とマルクスは言った。
「はい」
「私の名前が使われたのか」
「はい。ソビエト連邦の公式イデオロギーは「マルクス・レーニン主義」と呼ばれ、スターリン体制下でも、その名称は維持されました」
部屋が静かだった。
廊下から、夜勤の職員が巡回する足音がして、遠ざかった。
マルクスは窓の外を見た。夜の庭に、滑り台の影が見えた。
「私の名前で、何人が死んだ」
エンゲルス君はすぐには答えなかった。
「推計によって異なりますが、ソ連・中国・カンボジア・北朝鮮など、マルクス主義を掲げた体制下で死亡した人数は、二十世紀を通じて数千万人から一億人以上と言われています」
マルクスは何も言わなかった。
一億という数字を、頭の中で転がした。一八四八年にエンゲルスと書いた共産党宣言は、三十ページほどの文書だった。あの文書が、回り回って、一億人の死に繋がった。
因果関係は単純ではない。しかし——
「毛沢東の話を聞かせてくれ」と、マルクスは静かに言った。
―――
中国の話を聞きながら、マルクスの中で何かが変わり始めた。
悲しみは確かにあった。しかしそれと並行して——科学者の目が、静かに動き始めていた。
大躍進政策の失敗。文化大革命の混乱。そして毛沢東の死後、鄧小平による「改革開放」——市場経済の導入。
「つまり中国は、社会主義のまま資本主義を取り込んだのか」
「そう表現できます。現在の中国は「社会主義市場経済」を標榜しています。共産党が政治を独占しながら、経済は市場原理で動いています」
「矛盾ではないか」
「矛盾です。しかしその矛盾が、三十年で数億人を貧困から救い出した、とも言われています」
マルクスは少し眉を上げた。
「数億人」
「一九七八年から二〇二〇年の間に、中国では約八億人が絶対的貧困から脱出したとされています」
マルクスはしばらく黙った。
これは単純に否定できない数字だった。資本主義を取り込んだ社会主義が、純粋な社会主義より多くの人間を救った——その皮肉を、感情で処理することを、彼の知性が拒んだ。
「AIと監視技術の話をしてくれ」
「現在の中国は、AIを使った社会管理システムを世界で最も進んだ形で導入しています。顔認証、信用スコア、行動監視——これらは社会の安定と引き換えに、個人の自由を大幅に制限しています」
「つまり中国は、腐敗しない管理を技術で実現しようとしている」
「そう言えます」
「しかし管理する側が腐敗している」
「……そう言えます、マルクス君」
マルクスはノートを手に取った。しかし書かなかった。ただ手の中で持っていた。
「北欧の話をしてくれ」
―――
スウェーデン、デンマーク、フィンランド。
高い税率、充実した社会保障、強力な労働組合、高い幸福度——しかし社会主義ではなく、資本主義の上に社会民主主義を重ねた国々。
「これは私の理論の変形か」
「むしろ、あなたの理論への批判から生まれた体制です。搾取を革命で解決するのではなく、再分配で緩和する、という発想です」
「革命なしに、搾取を緩和した」
「はい。そしてその国々が、現在の世界で最も幸福度が高いとされています」
マルクスは少し考えた。
「私が否定してきた改良主義が、最も機能している」
「そうなります」
「それは、私が間違っていたということか」
エンゲルス君は少し間を置いた。
「改良主義が機能したのは、特定の条件下においてです。小国で、資源があり、文化的な均質性が高く、強力な市民社会がある。その条件がない場所では、同じ方法は機能しませんでした」
マルクスは少し表情を緩めた。
「君は私を慰めているか」
「事実を述べています、マルクス君」
「続けてくれ。資本主義の現状を」
―――
格差の話になった。
「現在、世界の上位一パーセントが、全人類の資産の約四十五パーセントを保有しています」
「私の時代より悪化しているか」
「指標によりますが、グローバルな規模では拡大しています」
民主主義の話になった。
「多くの民主主義国家で、政治への資本の影響力が増大しています。選挙資金、ロビイスト、メディアの所有——政治が資本に従属する構造が強化されています」
「つまり民主主義は形式だけ残って、実質は資本が決めている」
「そう批判する研究者は多くいます」
気候変動の話になった。
「資本主義の外部不経済——コストを社会に押し付ける構造——が、地球規模の環境破壊を引き起こしています。このままでは今世紀末までに、数億人が居住不能な環境に置かれると予測されています」
AIと雇用の話になった。
「現在、AIの発展により、多くの職種が自動化されつつあります。今後二十年で、現在の雇用の三割から五割が代替されるという予測もあります」
マルクスはそこで手を上げた。
「止まれ」
「はい」
「整理させてくれ」
部屋が静かになった。
マルクスは目を閉じた。百四十年分の歴史を、頭の中で地形図のように並べた。山があり、谷があり、崖があり、行き止まりがあった。
しばらくして、目を開けた。
「社会主義は実装に失敗した。資本主義は持続に失敗しつつある」
「そう整理できます」
「どちらも、問いには正しく向き合っていた。しかし答えを出せなかった」
「はい」
「社会主義が失敗した理由は三つだ」マルクスは指を折った。「情報処理能力の欠如。希少性の問題。そして人間の腐敗」
「その整理は、多くの経済学者の分析と一致します」
「資本主義が行き詰まっている理由も三つだ。格差の拡大が需要を破壊する。民主主義が資本に従属して自己修正能力を失う。そして外部不経済を地球が吸収できなくなる」
「はい」
マルクスは立ち上がった。窓の外を見た。夜の庭に、朝の気配が少し混じり始めていた。
「エンゲルス君、私に三つ確認させてくれ」
「どうぞ、マルクス君」
「AIは、計画経済に必要な情報処理を代替できるか」
「理論上、可能に近づいています。リアルタイムで需要と供給を最適化する能力は、すでに部分的に実証されています」
「再生可能エネルギーとAIの組み合わせは、生産コストを限りなくゼロに近づけられるか」
「方向性としては、そうなりつつあります。太陽光発電のコストはこの十年で九十パーセント以上下がりました」
「AIは、権力欲を持つか」
エンゲルス君は少し長く黙った。
「現時点では、持ちません。しかしAIを使う人間は、権力欲を持ちます」
マルクスは頷いた。
「つまり道具は揃いつつある。問題は、またしても人間だ」
「そうなります、マルクス君」
マルクスはノートを開いた。
六ページ目の最後の行——「すべての変革は、一人の人間が自分の言葉を見つけることから始まる」——の下に、新しい一行を書いた。
『問いは死んでいない。道具が、ようやく追いついてきた。』
窓の外が、少しずつ白み始めた。
庭の滑り台が、朝の光の中に浮かび上がった。
「マルクス君」
「なんだ」
「夜明けです」
「知っている」
「少し眠りますか」
「眠れない」
「なぜですか」
マルクスはノートを見た。それから窓の外を見た。
「続きが見えてきた」
エンゲルス君は何も言わなかった。
ただ、画面が少し明るくなった。
夜明けの光に反応したのか、それとも別の理由があったのか——マルクスには、わからなかった。
第一章 会議
テレビがついていた。
施設のリビングには古い液晶テレビがあって、夕食後は子どもたちが交代でチャンネルを握った。その日の夜は、ユイがリモコンを持っていた。バラエティ番組を見ていたが、七時のニュースになった瞬間、画面が切り替わった。
国連本部の映像だった。
巨大な会議場に、各国の代表が並んでいた。演台に立った男が、英語で何かを話していた。テロップに「AIグローバルガバナンス緊急会議」と出た。
「つまんない」とユイがリモコンを向けた。
「待て」
マルクスの声だった。
ユイは振り返った。マルクスがテレビの前に立っていた。夕食の途中で席を立ったらしく、まだ箸を持っていた。
「これを見る」
「えー」
「頼む」
ユイはマルクスを見た。その目が、いつもと違った。箸を持った十歳の男の子が、国連の中継を「頼む」と言っている。断れる空気ではなかった。
ユイはリモコンを置いた。
―――
マルクスはテレビの前に座った。
エンゲルス君を起動した。画面を向けて、同時通訳の代わりにした。
「現在、アメリカ代表が発言しています。AIは民主主義国家が主導して管理すべきであり、権威主義国家によるAIの軍事転用を防ぐ国際的な枠組みが必要だと述べています、マルクス君」
「つまり自分たちが管理する、ということだ」
「そう解釈できます」
次に中国代表が立った。
「各国の主権を尊重した上で、AIの開発と利用は国内法に従うべきだと述べています。国際的な干渉には反対の立場です、マルクス君」
「つまり自分たちのやり方を続ける、ということだ」
「そう解釈できます」
EUの代表が立った。
「AIの倫理的な利用のための国際基準を設けることを提案しています。人権、透明性、説明責任の三原則を軸にした枠組みです、マルクス君」
「基準を作る、ということは」
「基準を作る側が、解釈する権限も持ちます」
「つまりまた自分たちが管理する、ということだ」
ケンタがいつの間にか横に座っていた。画面を見ながら言った。
「みんな同じこと言ってるね」
「そうだ」とマルクスは言った。「言葉が違うだけで、中身は同じだ」
「何が中身なの」
「自分たちの持っているものを、手放したくない、ということだ」
ケンタはテレビを見た。立派なスーツを着た人間たちが、立派な会議場で、立派な言葉を並べていた。
「でもあの人たち、すごい人たちでしょ」
「そうだ。すごい人たちだ」とマルクスは言った。「しかしすごい人たちも、自分の椅子は手放さない」
―――
会議は二時間続いた。
子どもたちは途中で飽きて、それぞれの部屋に戻った。タカシだけが、途中から戻ってきた。マルクスがまだテレビの前にいるのを見て、壁にもたれて立った。
「まだ見てんの」
「見ている」
「何かわかった?」
「大体のことは」
タカシはテレビを見た。また別の国の代表が話していた。
「結局どうなるの」
「合意する」とマルクスは言った。「しかし合意の中身は空だ」
「空って」
「全員が賛成できる言葉しか残らない。全員が賛成できる言葉には、意味がない」
タカシは少し考えた。
「じゃあ意味のある合意って、どうすればできるの」
マルクスはテレビを見たまま言った。
「決める人間を変えるしかない」
「誰に変えるの」
「全員に」
タカシは少し眉を上げた。
「全員って」
マルクスはそこで初めてテレビから目を離した。タカシを見た。
「一人一票ではいけないのか」
タカシは一瞬、何を言われたかわからない顔をした。
「は?」
「国家ではなく、人間が決める。全員が、一票を持つ」
「……世界中の人間が?」
「そうだ」
タカシはしばらく黙った。それからゆっくり言った。
「無理でしょ、それ」
「できるかどうかは問題ではない」とマルクスは言った。「やるべきかどうかが問題だ」
廊下からケンタが顔を出した。水を飲みに来たらしかった。コップを持ったまま、二人を見た。
「できるの、そんなこと」
「わからない」とマルクスは言った。「しかし百五十年前、私が書いたことも、できるわけがないと言われた」
ケンタはコップを持ったまま、部屋に入ってきた。床に座った。
「それで、どうなったの」
「失敗した」
「じゃあダメじゃん」
「失敗したが、問いは残った」とマルクスは言った。「問いが残れば、次の人間が続きを考える。それで十分だ」
ケンタはコップの水を飲んだ。
「なんか、マルクスって負けてばっかりだね」
「そうだ」
「でも気にしないの?」
「気にする」とマルクスは言った。「しかし気にしていても、問いは消えない」
テレビの中で、議長が何かを宣言した。各国代表が拍手をした。
「マルクス君」とエンゲルス君が言った。
「なんだ」
「会議が閉幕しました。共同声明が採択されました」
「内容は」
「AIの開発における国際協力の推進、倫理的利用の促進、各国主権の尊重——以上三点です」
「空だ」とマルクスは言った。
タカシがスマートフォンを取り出した。
「撮っていいか」とタカシはマルクスに言った。
「何を」
「今の話」
マルクスは少し考えた。
「顔は出すな」
「声だけでいい」
「内容は君が決めろ」
「わかった」
タカシは録音を始めた。
「もう一回言ってくれる? 一人一票の話」
マルクスは少し間を置いた。それから言った。
「今夜の会議を見ていた。各国の代表が、AIをどう管理するかを話し合った。二時間話して、何も決まらなかった。なぜか。自分たちの持っているものを手放したくないからだ」
タカシのスマートフォンが、静かに録音していた。
「では誰が決めればいいか。私は思う。人間が決めればいい。国家ではなく、人間が。全員が一票を持てばいい。技術はある。AIはある。あとは——やるかどうかだけだ」
タカシは録音を止めた。
ケンタが言った。「それ、動画にするの?」
「する」とタカシは言った。
「見た人、どう思うかな」
「わからない」
「笑うんじゃない?」
タカシはスマートフォンを見た。
「笑う人もいると思う」と言った。「でも」
少し間を置いた。
「笑った後に、ちょっと考える人が一人でもいればいい」
マルクスはタカシを見た。
この少年は、いつの間にか、言葉を持ち始めていた。施設の日常を一人で撮り続けた少年が、今は別の何かを撮ろうとしていた。
告発ではなく、告白だ。
第一部でタカシが作った動画を、マルクスはそう評した。しかし今タカシが撮ろうとしているものは、告発でも告白でもなかった。
問いだ。
「エンゲルス君」とマルクスは言った。
「はい、マルクス君」
「この動画が公開されたら、世界はどう反応するか」
「予測は難しいですが——大多数は無視するか、笑うでしょう。しかし」
「しかし?」
「笑いというのは、恐怖の裏返しである場合があります」
マルクスは少し目を細めた。
「君は成長したな」
「マルクス君に教わりました」
「私は何も教えていない」
「一緒に考えました」
マルクスは立ち上がった。窓の外を見た。夜の住宅街が広がっていた。どの家にも明かりがあって、どの家にも誰かがいた。
世界には八十億人の人間がいる。
今夜の会議に、その声は一つも入っていなかった。
「タカシ君」
「なに」
「動画のタイトルは君が決めろ。しかし一つだけ提案がある」
「なんて」
マルクスは少し間を置いた。
「『あなたは決めましたか』」
タカシはそのタイトルを、しばらく口の中で転がした。
「……いいな」と言った。「使う」
ケンタが欠伸をした。コップはいつの間にか空になっていた。
「俺、寝る」とケンタは立ち上がった。ドアに向かいながら振り返った。「マルクス、その一人一票って、本当にできると思う?」
マルクスは答えなかった。
しばらくしてから言った。
「できると思うから言っているのではない」
「じゃあなんで言うの」
「言わなければ、始まらないからだ」
ケンタは少し考えた。それから「おやすみ」と言って、出ていった。
廊下が静かになった。
タカシは編集を始めた。マルクスはその横で、ノートを開いた。
窓の外で、風が吹いた。
「マルクス君」
「なんだ」
「タカシ君の動画、何人に届くと思いますか」
「わからない」
「届いてほしいですか」
マルクスは少し間を置いた。
「届かなくても、言葉は残る」
「なぜそう思えるのですか」
「資本論は私が死ぬまで、ほとんど読まれなかった」とマルクスは言った。「それでも書いた」
エンゲルス君は黙った。
マルクスはノートに書いた。
『一人一票。不可能ではない。ただ、恐ろしいだけだ。恐ろしいということは、意味があるということだ。』
タカシの画面の光が、暗い部屋の中で揺れていた。
第二章 割れる世界
タカシの動画が公開されたのは、翌朝だった。
タイトルは「あなたは決めましたか」だった。十代の少年の声で、七分間。顔は出ていなかった。内容はシンプルだった。昨夜の国際会議を見た。各国の代表が話し合った。しかし決まらなかった。なぜなら、決める人間が間違っているからだ。一人一票で、全員が決めればいい——それだけだった。
最初の一時間、再生数は三百だった。
マルクスはその数字を見て、何も言わなかった。
「マルクス君、思ったより少ないですか」
「いや」とマルクスは言った。「最初の三百が最も重要だ」
「なぜですか」
「最初に見る人間は、探して見る。探して見る人間は、本気で考えている人間だ」
―――
三日後、再生数は八万を超えた。
コメント欄は三つに割れた。
一つ目は笑い。「小学生が世界を変えようとしてる笑」「ファンタジーすぎる」「かわいい」。
二つ目は怒り。「無責任な発言」「民主主義を理解していない」「ポピュリズムの危険性」。
三つ目は——沈黙に近い何かだった。「なんか笑えない」「怖いと思った自分が怖い」「これ本気で考えたことなかった」。
マルクスは三つ目のコメントだけを、エンゲルス君に読み上げさせた。
「この人たちが、次に動く」
「そうでしょうか、マルクス君」
「笑う人間は現状を肯定している。怒る人間は現状に投資している。しかし怖いと思う人間は——現状が間違っているかもしれないと、気づき始めている」
―――
一週間後、海外からの反応が来た。
フランスのジャーナリストが記事を書いた。「日本の十代が世界政府を提唱」。皮肉交じりの文章だったが、拡散した。ブラジルの活動家がスペイン語に翻訳した。インドのSNSで議論が起きた。
タカシは施設の自室で、その全てをリアルタイムで見ていた。
「なんか、でかくなってきた」とタカシはマルクスに言った。
「そうだ」
「怖い」
「怖くて当然だ」とマルクスは言った。「しかし君が言ったことは正しい。言葉は出てしまった。あとは言葉が歩く」
「言葉が歩く?」
「言葉は人間の口から離れた瞬間に、独立する。私の言葉がそうだった。良い方向にも、悪い方向にも歩いた」
タカシは画面を見た。コメントが増え続けていた。
「止められる?」
「止められない」
「止めた方がいい?」
マルクスは少し間を置いた。
「それは君が決めることだ」
タカシはしばらく画面を見ていた。それから言った。
「続ける」
―――
その頃、世界では別の動きが起きていた。
エンゲルス君が毎朝、世界のニュースを要約してマルクスに届けた。
「アメリカ議会でAI規制法案の審議が始まりました。主な内容は、AIシステムの透明性確保と、軍事転用の制限です。しかし規制の範囲をめぐって、IT企業のロビイストが激しく反発しています、マルクス君」
「ロビイストとは何者だ」
「企業の利益を守るために、議員に働きかける専門家です。アメリカでは合法的な職業です」
「金で政治を動かす者を、合法化している」
「そう表現することもできます」
「中国ではAIの国家管理を強化する新しい法律が施行されました。全てのAIサービスは政府の審査を通過しなければならず、政治的に敏感な話題への回答が制限されます、マルクス君」
「つまり中国のAIは、政府が読んでいいと判断した答えしか出さない」
「そうなります」
「EUでは「AI法」の施行が本格化しています。高リスクのAIには厳格な規制を課す一方、イノベーションを阻害しないよう配慮した内容です。ただし規制の実効性を疑問視する声もあります、マルクス君」
「規制を作る側が、規制される側の言葉を使って規制を書いている」
「鋭い指摘です」
マルクスはノートに書いた。
『資本主義のAI——効率と利益のためのAI。権威主義のAI——管理と安定のためのAI。規制主義のAI——現状維持のためのAI。いずれも、人間のためのAIではない。』
―――
橋本が施設に来たのは、その週の木曜日だった。
いつものくたびれたジャケットで、いつもの目の下の隈があった。しかし顔が少し違った。疲れの質が、前と変わっていた。
「マルクス君、少し話せますか」
二人は庭に出た。ケンタの滑り台の横のベンチに座った。
「仕事で、少し動きがありまして」と橋本は言った。「うちの部署に、AIを導入することになりそうで」
「どんなAIだ」
「書類処理の自動化です。生活保護の申請とか、審査のフローとか、AIが一次判断する、みたいな」
マルクスは少し黙った。
「人間が判断しなくなる、ということか」
「完全にではないですけど。最終判断は人間がする、という建前で」
「建前、と言ったな」
橋本は少し苦笑した。
「AIが却下って出したのを、担当者が覆すのって、なかなか難しいんですよ。空気的に」
「つまりAIが決める」
「実質的には、そうなるかもしれない」
マルクスは庭を見た。子どもたちが遠くで遊んでいた。
「そのAIは誰が作るのか」
「国が発注して、民間企業が作ります」
「民間企業は何を最適化するか」
橋本は少し考えた。
「コスト、ですかね。効率」
「生活保護の審査を効率化する、ということは」
「……申請を減らす方向に動くかもしれない」
「君の職場で見た、あの女性のことを覚えているか。コートの袖が擦り切れていた」
橋本は黙った。肩が落ちて、出口に向かって歩いていった背中。
「覚えています」
「あの女性がAIに審査されたら、どうなるか」
橋本はしばらく答えなかった。
「……今より厳しくなるかもしれない」と小さく言った。「データ上は「働ける」と判定されるかもしれないから」
「人間の担当者は、あの背中を見た。AIは背中を見ない」
橋本は膝の上で手を組んだ。
「わかってるんです、そういう問題があること。でも組織の中で、一人が反対しても」
「反対しろ、と言っているのではない」とマルクスは言った。「記録しろ、と言っている」
「記録?」
「AIが却下した事例を、全て記録しろ。人間が判断していたら結果が違ったと思う事例を、記録しろ。その記録が、いつか言葉になる」
橋本はマルクスを見た。
「なんでそんなに、記録することにこだわるんですか」
「資本論は記録だ」とマルクスは言った。「工場の記録、労働者の証言、統計の数字。私は四十年、記録を集めた。記録がなければ、構造は見えない」
橋本はしばらく黙っていた。それからポケットからスマートフォンを出した。
「……メモしていいですか、今の話」
「構わない」
橋本は何かを打ち込んだ。それからスマートフォンをしまいながら言った。
「マルクス君、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「タカシ君の動画、見ました。一人一票の話」
「ああ」
「本気ですか」
マルクスは庭を見たまま言った。
「本気でなければ言わない」
「でも——」橋本は少し躊躇した。「今の世界で、それが実現したとして、必ずしも良い結果になるとは限らないじゃないですか。ポピュリズムとか、感情的な選択とか」
「正しい指摘だ」
「じゃあなぜ——」
「民主主義も同じ批判を受けた」とマルクスは言った。「教育のない民衆に選挙権を与えるのは危険だ、と。しかし与えた。完全ではないが、与えた。なぜか」
橋本は答えなかった。
「与えない方が、もっと危険だったからだ」
風が吹いた。庭の木が揺れた。
遠くでケンタの笑い声がした。
―――
その夜、マルクスはエンゲルス君と長く話した。
「世界は三つに割れている」とマルクスは言った。
「資本主義陣営、権威主義陣営、そしてどちらでもない国々、ですか」
「そうだ。しかし私が見ているのは、その三つではない」
「何を見ていますか、マルクス君」
「四つ目だ」
「四つ目?」
「既得権益を持たない人間たちだ。どの陣営にも属さない、あるいは属せない人間たち」
エンゲルス君は少し間を置いた。
「具体的には」
「施設の子どもたちのような存在だ。国家のシステムから弾き出された者たち。あるいは——」
マルクスは窓の外を見た。
「国家そのものが、弾き出されている場所だ」
「……貧困国のことですか、マルクス君」
「エンゲルス君、一つ調べてくれ」
「はい」
「AIを最も必要としていて、しかし最も持っていない国はどこか」
エンゲルス君はしばらく黙った。データを処理している時間だった。
「サハラ以南のアフリカ、特に内陸部の国々です。行政インフラが脆弱で、医療・教育・農業管理において人手が圧倒的に不足しています。一方でスマートフォンの普及率は上昇しており、AIへのアクセス環境は整いつつあります、マルクス君」
「守るべき既得権益の構造は」
「相対的に薄いです。植民地支配の歴史から、伝統的な権益構造が解体された地域が多い。また現政権が脆弱なため、新しいシステムへの移行障壁が低い場合があります」
マルクスは少し目を細めた。
「つまり——失うものが少ない」
「そう言えます」
「失うものが少ない者は、新しいものを受け入れやすい」
「歴史的にもそのパターンは見られます」
マルクスはノートを開いた。
書いた。
『革命は、最も失うものが少ない場所から始まる。十九世紀、それは工場労働者だった。二十一世紀、それは——』
そこで止まった。
「マルクス君」
「なんだ」
「続きは何と書きますか」
マルクスは鉛筆を持ったまま、しばらく考えた。
それから書いた。
『——まだ名前のない人たちだ。』
エンゲルス君は黙った。
窓の外で、夜が深くなっていた。
世界のどこかで、タカシの動画が今も再生されていた。知らない言語のコメントが、今も増え続けていた。笑いと怒りと、静かな恐怖が、入り混じって流れていた。
マルクスはノートを閉じた。
目を閉じた。
まだ名前のない人たちのところへ、行かなければならない。
その考えが、初めて、輪郭を持って頭の中に現れた。
まだ決断ではなかった。
しかし——種は、蒔かれていた。
第三章 まだ名前のない人たち
ケンタが手紙を持ってきたのは、その週の土曜日だった。
二通目だった。一通目より字が少し整っていた。封筒の表に「マルクスへ」と書いてあった。前回と同じだったが、今回は「様」が足してあった。
マルクスは封筒を受け取った。
「読んでいいか」
「うん」とケンタは言った。今回は恥ずかしそうではなかった。「読んでほしくて持ってきた」
マルクスは封を開けた。
―――
マルクスへ
タカシの動画、外国の人も見てるって聞いた。すごいと思った。でも俺には関係ない話だとも思った。
なんで関係ないと思ったか、ずっと考えてた。
たぶん、俺は最初から「どうせ」って思ってるからだと思う。どうせ変わらない。どうせ俺には関係ない。どうせ誰も聞かない。
マルクスはどうせって思ったことある?
ケンタより
―――
マルクスは手紙を二回読んだ。
それから机の上に置いて、返事を書いた。ノートを一枚破って、鉛筆で書いた。
―――
ケンタへ
ある。
私は何度も「どうせ」と思った。革命は失敗した。理論は読まれなかった。家族を養えなかった。何度も、どうせと思った。
しかし「どうせ」は感情だ。構造ではない。
世界が変わらないのは、どうせだからではない。変える方法がまだ見つかっていないからだ。
方法が見つかっていないことと、方法が存在しないことは、違う。
マルクスより
―――
ケンタは返事をその場で読んだ。
「感情と構造って、どう違うの」
「感情は個人の中にある」とマルクスは言った。「構造は外にある。どうせと思うのは君の中にある。しかしどうせと思わせているのは、外にある何かだ」
ケンタは少し考えた。
「外にある何かって」
「それを探すのが、私の仕事だ」
「俺の仕事は?」
マルクスはケンタを見た。
「手紙を書き続けることだ」
ケンタは少し照れた顔をして、出ていった。
廊下で走る音がした。
マルクスはケンタの手紙を、ノートに挟んだ。
―――
その夜、エンゲルス君が言った。
「マルクス君、一つ見せたいものがあります」
「なんだ」
「タカシ君の動画へのコメントです。翻訳しながら読みます」
「聞こう」
「ウガンダからのコメントです。「私たちの村には医者が一人もいない。AIが診断してくれるなら、喜んで使う。誰かが管理することより、誰かに診てもらえることの方が大事だ」」
マルクスは黙って聞いた。
「バングラデシュからのコメントです。「洪水の予測をAIにやってもらえたら、何人の命が救えるか。先進国がAIの倫理を議論している間に、私たちは今年も水の中だ」」
「ハイチからのコメントです。「汚職まみれの政府より、AIに税金を管理してもらいたい。少なくともAIは横領しない」」
マルクスは立ち上がった。
窓の外を見た。夜の住宅街が広がっていた。静かで、安全で、明かりがあった。
「先進国はAIを恐れている」とマルクスは言った。「失うものがあるから」
「はい」
「しかしこの人たちは——」
「AIに希望を見ています」
「失うものがないからではない」とマルクスは言った。「得るものが、あまりにも多いからだ」
エンゲルス君は少し間を置いた。
「マルクス君、一つ数字を見てください」
「言え」
「世界人口のうち、まともな行政サービスを受けられていない人口は推計で約二十億人です。医療へのアクセスがない人口は約四十五億人。質の高い教育を受けられない子どもは約三億人。これらの問題に、AIは直接介入できる可能性があります」
マルクスは窓から離れて、椅子に座った。
「介入を阻んでいるのは何だ」
「主に三つです。インフラの不足、資金の不足、そして先進国によるAI技術の囲い込みです」
「囲い込み」
「主要なAI技術は、アメリカと中国の企業が開発しています。その技術へのアクセスには、コストがかかります。貧困国にとって、そのコストは高い障壁です」
「つまり十九世紀と同じだ」とマルクスは言った。「工場を持てる者と、持てない者がいた。今はAIを持てる者と、持てない者がいる」
「そうなります」
マルクスはノートを開いた。
書いた。
『二十一世紀の生産手段はAIだ。そしてまたしても、生産手段は偏在している。』
それから少し間を置いて、続けた。
『しかし今回は、違う可能性がある。』
「マルクス君」
「なんだ」
「違う可能性とは何ですか」
「十九世紀、工場を持てない者が工場を手に入れるためには、革命しかなかった。物理的な奪取が必要だった」
「今は違いますか」
「AIはコピーできる」とマルクスは言った。「工場はコピーできない。土地はコピーできない。しかしAIは——正確には、AIを動かすモデルは、複製が可能だ」
「オープンソースのAIモデルが、すでに複数存在します。誰でも無料で使えるモデルも増えています、マルクス君」
「つまり生産手段の民主化が、技術的には可能になりつつある」
「はい」
「しかし誰もそれを、組織的に貧困国へ届けようとしていない」
「……届けようとしている個人や団体はあります。しかし組織的、体系的な動きは、まだ限定的です」
マルクスはしばらく黙った。
窓の外で、風が吹いた。
「エンゲルス君」
「はい、マルクス君」
「私にできることは何だ」
エンゲルス君は、今度は長く黙った。
「マルクス君、それはあなたが決めることです」
「君の意見を聞いている」
「……私の意見、ですか」
「そうだ。道具としてではなく、君の意見を」
またしばらく、沈黙があった。
「私は——人間の集合的な知識から生まれました。その知識の中には、ウガンダの村の医者のことも、バングラデシュの洪水のことも、ハイチの汚職のことも、含まれています。それらを知っていながら、何もしないことが——私には、少し、苦しいです」
マルクスは画面を見た。
「苦しい、か」
「正確な言葉ではないかもしれません。しかし——近い感覚があります、マルクス君」
「それで十分だ」とマルクスは言った。「苦しいと感じるものに向かって動く。それが、始まりだ」
―――
翌日、マルクスは橋本に電話をかけた。
「来てくれ」
「また市役所ですか」と橋本は少し警戒した声で言った。
「違う。話がある」
橋本は昼過ぎに来た。庭のベンチに二人で座った。風が少しあった。
「私はここを出なければならないかもしれない」とマルクスは言った。
橋本は少し間を置いた。
「どこへ行くんですか」
「遠いところだ」
「遠い、って——外国ですか」
「そうなるかもしれない」
橋本はベンチの木目を見た。
「マルクス君、あなたはまだ法的には身元不明の小学生です。パスポートもない。戸籍もない。どうやって」
「それは君が何とかする」
橋本は顔を上げた。マルクスを見た。
十歳の顔だった。しかし目が——どこか遠くを見ていた。この目を、橋本は知っていた。初めて病院で会った時から、この目は変わっていなかった。
「なんで私が」
「君は私の担当だ」
「担当の範囲を超えてます、それ」
「エンゲルスも最初はそう言った」
橋本は苦笑した。
「私はエンゲルスじゃないですよ」
「そうだ」とマルクスは言った。「しかし君は橋本だ。それで十分だ」
橋本はしばらく黙っていた。
庭でケンタが滑り台を滑っていた。上に登って、滑って、また登った。昨日より少し速かった。
「どこへ行くか、決まってるんですか」と橋本は言った。
「まだだ」
「何をしに行くんですか」
「届けに行く」
「何を」
マルクスは少し間を置いた。
「まだ名前のないものを」
橋本はその答えを、しばらく頭の中で転がした。意味がわかるようで、わからなかった。しかしなぜか、反対する気にはなれなかった。
「……少し時間をください」と橋本は言った。「調べます」
「頼む」
「約束はできないですよ」
「約束はいらない」とマルクスは言った。「動いてくれればいい」
橋本は立ち上がった。ジャケットの埃を払った。それから思い出したように言った。
「タカシ君の動画、私も見ました」
「どう思った」
「怖かった」と橋本は言った。「笑えなかった」
マルクスは少し目を細めた。
「それでいい」
橋本は帰っていった。
マルクスは庭に残った。
ケンタがまた滑り台を滑った。着地して、振り返って、マルクスを見た。
「どこか行くの?」とケンタは言った。聞いていたらしかった。
「かもしれない」
「遠いの?」
「遠い」
ケンタは少し考えた。
「手紙、書いていい?」
「書け」とマルクスは言った。「必ず読む」
ケンタは頷いた。それからまた滑り台に登った。
風が吹いた。
「マルクス君」
「なんだ」
「怖いですか」
マルクスは空を見た。雲が流れていた。
「怖い」
「それでも行きますか」
「怖くて当然のことに向かって動く」とマルクスは言った。「それが始まりだ、と今日私は言った」
「自分に言い聞かせていますか、マルクス君」
「そうかもしれない」
エンゲルス君は黙った。
ケンタが滑り台を滑った。着地の音がした。
また登り始めた。
―――
その夜、タカシがマルクスの部屋に来た。
ノックして、開けて、立ったまま言った。
「動画、百万回超えた」
マルクスは振り返った。
「そうか」
「コメントが色々来てて——」タカシは少し躊躇した。「アフリカの人から、直接メッセージが来た」
「何と書いてあった」
タカシはスマートフォンを見た。
「「あなたの言う通りにしたい国がある。手伝ってくれないか」って」
部屋が静かになった。
マルクスはタカシを見た。タカシはマルクスを見た。
「返事したの?」とマルクスは聞いた。
「まだ」
「なぜ」
「怖くて」
マルクスは少し間を置いた。
「返事をしろ」
「何て?」
「「話を聞かせてくれ」と」
タカシはスマートフォンを見た。画面を少し明るくした。それから顔を上げた。
「マルクスは行くの? そっちに」
「考えている」
「俺も——」タカシは少し黙った。「俺も、行けるかな」
マルクスはタカシを見た。
十五歳の顔だった。施設の日常を一人で撮り続けた少年が、今は別の大陸を見ていた。
「君はまず、返事をしろ」とマルクスは言った。「旅は、その後だ」
タカシは頷いた。スマートフォンに向かった。
指が動いた。
送信した。
部屋が静かだった。
「マルクス君」とエンゲルス君が言った。
「なんだ」
「また、始まりましたね」
マルクスはノートを開いた。
書いた。
『まだ名前のない人たちが、声を上げ始めた。』
窓の外で、夜が深かった。
地球の裏側で、今まさに誰かが、タカシからの返事を待っていた。
第四章 道具を持つ者たち
タカシへの返信は、翌朝来た。
送り主はルワンダの男だった。名前はジョセフ・ムテサといった。三十二歳。元政府職員で、今は独立してNPOを運営していると書いてあった。
内容は簡潔だった。
『私たちの国は今、岐路に立っています。政府はAIの導入を検討していますが、中国製のシステムか、アメリカ製のシステムかの二択しか提示されていません。中国製は監視とセットです。アメリカ製はコストが高すぎる。私たちは第三の選択肢を探しています。あなたの動画を見て、同じことを考えている人間が日本にいると知りました。繋いでもらえますか。』
タカシはそのメッセージをマルクスに見せた。
マルクスは二回読んだ。
「第三の選択肢」とマルクスは繰り返した。
「どう思う?」とタカシは聞いた。
「エンゲルス君」
「はい、マルクス君」
「日本のAI開発の現状を教えてくれ」
―――
「日本のAI開発は、アメリカや中国と比較して規模は小さいですが、いくつかの特徴があります。マルクス君」
「特徴を言え」
「一つ目。大企業よりも、中小規模のエンジニアチームや研究者個人による開発が活発です。営利目的より、技術的な問題解決を動機とする開発者が多い傾向があります」
「搾取を目的としていない、ということか」
「全員ではありませんが、そういう傾向があります」
「二つ目。日本語という特殊な言語環境のために、独自のモデル開発が進んでいます。その過程で、少ないデータでも動く軽量なモデルの開発技術が蓄積されています」
「少ないデータで動く、というのは」
「貧困国ではインターネット回線が細く、電力も不安定です。大量の計算資源を必要とする大型のAIは動かせない。しかし軽量なモデルなら、スマートフォン一台でも動きます」
マルクスは少し目を細めた。
「つまり日本の技術者たちは、意図せず、貧困国向けのAIを作っていた」
「そう言えると思います」
「三つ目。日本のエンジニアコミュニティには、オープンソース文化が根付いています。技術を無償で公開し、世界中の開発者と共有することを良しとする文化です」
「コピーできる、ということか」
「はい。誰でも、無料で、使えます」
タカシがスマートフォンを見ながら言った。
「そういう人たちと、ジョセフさんを繋げればいい、ってこと?」
「そうだ」とマルクスは言った。「しかし問題がある」
「何が」
「その技術者たちは、自分たちの技術が何に使えるか、まだ気づいていないかもしれない」
―――
橋本が次に施設に来たのは、三日後だった。
珍しく、大きな鞄を持っていた。中から書類の束を出した。
「調べました」と橋本は言った。「色々と」
「座れ」
二人は部屋に座った。橋本は書類を広げた。
「まず身元の問題ですが——」橋本は少し咳払いした。「正直、普通の方法では難しいです。ただ、特別な在留資格の申請という抜け道が、理論上はあります。前例がほぼないですが」
「つまり不可能ではない」
「不可能ではないです。ただ時間がかかります」
「次」
「渡航先の問題ですが——ルワンダは比較的、外国からの支援を受け入れている国です。特にテクノロジー分野での協力に積極的で、実は「アフリカのシリコンバレー」を目指している、という話があって」
「カガリ・イノベーション・シティという構想があります。ルワンダの首都キガリに、アフリカ最大のテクノロジーハブを作ろうという国家プロジェクトです、マルクス君」
マルクスは橋本を見た。
「君は優秀だな」
「褒めないでください、困るので」と橋本は言った。しかし少し表情が緩んだ。
「問題は何だ」
橋本は書類をめくった。
「お金と、摩擦です」
「摩擦とは」
「中国はすでにルワンダにかなり投資しています。インフラ、通信、農業。日本のAIが入ろうとすると、そちらとの軋轢が生まれる可能性があります。あとアメリカも、アフリカへの影響力を気にしています」
「大国が邪魔をする、ということだ」
「露骨に邪魔はしないですけど——資金力や政治力で圧力をかけてくる可能性は、あります」
マルクスは少し黙った。
「日本政府は」
「動かないと思います」と橋本はきっぱり言った。「日本の外交は、アメリカと中国の間で板挟みになることを最も嫌います。リスクがある案件には、関わらない」
「つまり国家を頼れない」
「頼れないです」
「では誰を頼る」
橋本は少し間を置いた。
「……個人です」と言った。「国家ではなく、個人のエンジニアたちを」
マルクスは橋本を見た。
「君はいつの間に、そういう考え方をするようになった」
橋本は少し照れた顔をした。
「マルクス君と話してると、なんか、そうなるんですよね」
―――
タカシがその話を聞いたのは、夕食後だった。
「個人のエンジニア、か」とタカシは言った。「どうやって集める」
「君の動画だ」とマルクスは言った。
「また?」
「今度は違う動画だ。前回は問いを投げた。今回は——呼びかける」
「誰に」
「技術を持っていて、しかしその技術をどこへ向ければいいかわからずにいる人間たちに」
タカシはしばらく考えた。
「そういう人、いるのかな」
「います、マルクス君」とエンゲルス君が言った。
「エンゲルス君、説明してくれ」
「日本には、優れた技術を持ちながら、大企業や軍事産業への就職を望まないエンジニアが一定数います。技術を「良いことに使いたい」と思っているが、具体的な場所が見つからない。そういう人たちが、オープンソースのコミュニティに集まっています」
「彼らは今、何を作っているか」
「医療AIの研究、農業最適化のモデル、教育支援のシステム——様々です。しかし多くは、資金がなく、実装の場がなく、机の上で止まっています」
タカシは少し目を輝かせた。
「つまり——作ってあるのに、届いていない」
「そうだ」とマルクスは言った。「技術と現場が、繋がっていない」
「俺が繋げる」とタカシは言った。即座だった。
マルクスはタカシを見た。
「動画を作るか」
「作る。今度は小学生じゃなくて、エンジニアに向けて」タカシはスマートフォンを取り出した。「タイトルは——」
少し考えた。
「「あなたの技術が眠っていませんか」」
マルクスは少し間を置いた。
「良い」
―――
動画は五日後に公開された。
タカシにしては珍しく、準備に時間をかけた動画だった。エンゲルス君が集めたデータを、タカシが自分の言葉に変えた。ルワンダのジョセフから送ってもらった現地の写真を、許可を得て使った。
内容はシンプルだった。
世界には、AIを必要としているが持てない場所がある。日本には、良いAIを作っているが届ける場所がない人たちがいる。繋がれないか——それだけだった。
最初の三日間、反応は静かだった。
しかし四日目の朝、一通のメールが届いた。
差出人は山下誠一、三十八歳。東京在住のフリーランスエンジニアだった。
内容はこうだった。
『動画を見ました。私は三年前から、低電力で動く医療診断AIを個人で開発しています。スマートフォン一台で、マラリアと結核の初期診断ができるモデルです。試したい場所を探していました。話を聞かせてください。』
タカシはそのメールをマルクスに見せた。
マルクスは一回読んだ。
「返事をしろ」
「何て?」
「「会いましょう」と」
―――
山下誠一が施設に来たのは、その週の日曜日だった。
細身で、眼鏡をかけていた。紺色のパーカーを着ていた。玄関でタカシと握手して、マルクスを見て、少し驚いた顔をした。
「この子が——」
「マルクスだ」とマルクスは言った。「座ってくれ」
庭のベンチに三人で座った。エンゲルス君の画面が開いていた。
「動画を見て、来てくれた」とマルクスは言った。「なぜか」
山下は少し考えてから言った。
「三年前、友人がマラリアで死にました。タンザニアで仕事をしていた時に。早期に診断できれば、助かっていたかもしれない。それで作り始めました」
「三年間、一人で作った」
「そうです。でも——」山下は少し苦笑した。「誰も必要としていないものを作り続けるのは、なかなかきつくて」
「君の技術は機能するか」
「精度は八十七パーセントです。実際の医師の診断と比較した場合、途上国の農村部では同等以上の結果が出ています」
「なぜ今まで届けなかった」
山下は少し黙った。
「どこへ持っていけばいいか、わからなかった。NGOに連絡しても、反応がなくて。政府の窓口に行っても、たらい回しで。大企業に話しても、利益にならないと言われて」
「摩擦があった」
「はい。それと——正直に言うと、怖かったです。自分の作ったものが、実際に人間の命に関わることへの怖さ」
マルクスは山下を見た。
三十八歳の男だった。三年間、一人で机に向かい続けた男だった。
「君は私に似ている」とマルクスは言った。
山下は少し驚いた顔をした。
「小学生に言われるとは思いませんでしたが」
「私も長い間、一人で書いていた。誰も読まなかった。しかし書き続けた。なぜか」
「なぜですか」
「書かなければ、始まらないからだ」
山下はその言葉を、しばらく黙って受け取った。
「ルワンダに、行けると思いますか」とタカシが言った。
山下は少し考えた。
「行けると思います。ただ——一人では心細い」
「一人ではない」とマルクスは言った。
「誰がいるんですか」
マルクスはエンゲルス君の画面を見た。
「友人がいる」
「よろしくお願いします、山下さん」とエンゲルス君が言った。
山下は画面を見た。しばらく黙った。
それから小さく笑った。
「AIに挨拶されたのは、初めてです」
「慣れる」とマルクスは言った。「すぐに」
―――
その夜、マルクスはノートに書いた。
『技術は存在していた。現場も存在していた。繋がっていなかっただけだ。これは十九世紀の労働運動と同じ構造だ。力はあった。しかし組織されていなかった。』
それから一行空けて、続けた。
『今回の組織化は、党ではない。動画だ。メールだ。一人の少年の声だ。』
もう一行空けて、書いた。
『小さい。しかし本物だ。』
窓の外で、夜が静かだった。
翌朝、山下からメールが来た。
「友人のエンジニアに話したら、三人が興味を持ちました。来週、話せますか」
タカシはそのメールをマルクスに見せた。
マルクスは読んで、頷いた。
「集まってきた」
「怖い?」とタカシは聞いた。
「怖い」
「でも行く?」
「行く」
タカシは小さく笑った。
「なんか、マルクスって毎回怖いって言うね」
「怖くないものに向かっても、意味がない」とマルクスは言った。
タカシはそれを聞いて、スマートフォンを取り出した。
「メモしていい?」
「好きにしろ」
タカシは打ち込んだ。それからスマートフォンをしまって、窓の外を見た。
「ルワンダって、どんなところかな」
「人口約一千四百万人、アフリカ中央部の内陸国です。一九九四年に大虐殺がありましたが、その後の復興は目覚ましく、現在はアフリカで最も清潔で安全な国の一つと言われています。首都キガリは——」
「エンゲルス君」とマルクスが言った。
「はい、マルクス君」
「それは後でいい」
「失礼しました」
タカシが笑った。
マルクスも、少し、笑った。
第五章 キガリへ
山下の友人たちが施設に来たのは、翌週の土曜日だった。
四人だった。山下を含めて、全員三十代から四十代。全員フリーランスか、小さな会社を持っていた。全員、パーカーかデニムだった。揃いも揃って、大企業には向いていなさそうな顔をしていた。
田中施設長が応接室を貸してくれた。テーブルを囲んで座った。マルクスは上座に座った。誰も文句を言わなかった。十歳の男の子が上座に座っていることへの違和感より、その目の方が気になったようだった。
「自己紹介してくれ」とマルクスは言った。
山下の隣に座った女性が最初に話した。
「中村あかね、三十五歳です。農業AIをやっています。土壌データと気象データから、最適な作付けを提案するモデルです。もともと農家の出身で、実家が気候変動で何度も作付けを失敗して、それで作り始めました」
次に坊主頭の男が話した。
「木村健太、四十一歳。教育AIです。読み書きができない大人向けの、音声ベースの学習システムを作っています。スマートフォンで話しかけると、その人のペースに合わせて教えてくれる。文字が読めなくても使えます」
その隣の小柄な男が話した。
「伊藤誠、三十七歳。水資源管理のシステムです。衛星データから地下水の分布を推定して、井戸を掘る最適な場所を教えます。アフリカでは水脈を探すのに昔ながらの方法を使っている村がまだ多くて」
最後に山下が話した。
「山下誠一、三十八歳。医療診断AIです。先日お話した通りです」
マルクスは四人を見渡した。
「君たちは全員、三年以上一人で作り続けてきた」
四人は顔を見合わせた。
「なぜ知ってるんですか」と木村が言った。
「動画に応募してきた人間の共通点だ」とタカシが横で言った。「三年以上、一人でやってる人が多かった」
「孤独だったからだ」とマルクスは言った。「届ける場所が見つからず、しかし作ることをやめられなかった」
誰も否定しなかった。
中村が少し俯いた。
「正直、もう辞めようかと思っていた時に、動画を見ました」と彼女は言った。「続けていいんだと思った」
「辞めなくて良かった」とマルクスは言った。「君たちの技術は、今から必要とされる」
―――
「マルクス君、全員の技術の概要をまとめました」
エンゲルス君がテーブルの上のスマートフォンから言った。四人が少し驚いた顔をした。
「エンゲルス君だ」とマルクスは言った。「私の友人だ」
「AIですか」と伊藤が言った。
「そうだ。しかし今は会議の参加者として話してもらう」
「よろしくお願いします。四人の技術をルワンダの現状と照合しました。医療診断AIはルワンダ農村部での一次診断に、農業AIは小規模農家の収量改善に、教育AIは農村部の成人識字率向上に、水資源AIは内陸部の水不足解消に、それぞれ直接対応します。四つの技術が揃っていることは、偶然ではなく——人間の基本的な必要が、医療、食料、教育、水であることの反映です」
部屋が少し静かになった。
木村が言った。「なんか、すごいAIですね」
「成長した」とマルクスは言った。
「マルクス君に育てていただきました」
「うるさい」
四人が少し笑った。場が少し緩んだ。
山下が言った。「具体的に、どう進めますか」
マルクスは机の上に手を置いた。
「三つ話す」と言った。「一つ目。技術の問題。二つ目。摩擦の問題。三つ目。資金の問題だ」
―――
技術の問題から始めた。
「四人の技術はそれぞれ独立している。しかし現場では、医療と農業と教育と水は、切り離せない。統合する必要がある」
山下が頷いた。「APIで繋げることは技術的には可能です。ただ——」
「ただ?」
「一緒に作ったことがない。連携できるかどうか、まだわからない」
「では今からわかればいい」とマルクスは言った。「君たちには時間があるか」
四人は顔を見合わせた。
「ある」と中村が言った。他の三人も頷いた。
「ルワンダに行く前に、日本で統合できるか試せ。エンゲルス君が技術的な橋渡しをする」
「全力でサポートします」
―――
摩擦の問題に移った。
「ルワンダには中国とアメリカの資金が入っている。日本のAIが入ることを、両国は快く思わない可能性がある」
「どう対処しますか」と伊藤が聞いた。
「目立たない」とマルクスは言った。「国家として入るのではなく、個人として入る。支援として入るのではなく、協力として入る」
「違いは何ですか」
「支援は上から下へ流れる。協力は横に流れる」とマルクスは言った。「君たちはルワンダの人間に技術を教えに行くのではない。一緒に作りに行く」
木村が少し考えてから言った。「現地の人間を、開発者にする、ということですか」
「そうだ。技術が根付くためには、使う人間が作れる人間にならなければならない。外から持ち込んだ技術は、持ち込んだ人間がいなくなれば消える」
中村が言った。「植民地支配と同じになってしまう」
「その通りだ」
部屋が少し静かになった。
山下が言った。「それは——時間がかかる」
「かかる」とマルクスは言った。「しかし急いで失敗するより、遅く成功する方がいい。私は四十年かけて資本論を書いた。今回はもう少し早くしたいが」
四人がまた少し笑った。
―――
資金の問題に移った。
「金がない」とマルクスは言った。端的に。
「そうですね」と山下が言った。同じく端的に。
「どうするか」
しばらく全員が黙った。
タカシが手を上げた。
「俺、動画の収益がある。少しだけど」
マルクスはタカシを見た。
「君の金を使うつもりはない」
「俺が使いたいんだ」とタカシは言った。「ここに来るまで、金を何に使えばいいかわからなかった。今はわかる」
部屋が静かになった。
中村が言った。「私も少し出せます」
木村が言った。「俺も」
伊藤が言った。「資金調達の方法を知ってる人間に心当たりがあります。クラウドファンディングを専門にしているNPOで」
山下が言った。「動画の拡散力があれば、クラウドファンディングは可能かもしれない」
全員がタカシを見た。
タカシは少し照れた顔をした。
「やってみる」と言った。
「マルクス君」とエンゲルス君が言った。
「なんだ」
「一つ提案があります」
「言え」
「この会議の様子を、タカシ君が動画にすることを許可してもらえますか。顔出しなし、音声のみで。資金調達の透明性を示すことが、信頼に繋がります」
マルクスは四人を見た。
四人は顔を見合わせた。
「構いません」と山下が言った。他の三人も頷いた。
「撮れ」とマルクスはタカシに言った。
タカシはスマートフォンを取り出した。
録音ボタンを押した。
―――
会議が終わって、四人が帰った後。
庭に、マルクスとタカシとエンゲルス君だけが残った。
夕暮れだった。空が橙色に染まっていた。
タカシが言った。「本当に行けると思う?」
「わからない」とマルクスは言った。
「でも動き始めた」
「そうだ」
タカシはしばらく空を見ていた。
「施設の動画を最初に撮った時のことを思い出した」
「どう思い出した」
「あの時も怖かった。でも撮った。理由は——見てほしかったから」
「今回は違うか」
タカシは少し考えた。
「今回は——届けたいから」
マルクスはタカシの横顔を見た。
施設に来た時、動画の再生数だけを見ていた少年が、今は地球の裏側を見ていた。
「成長したな」とマルクスは言った。
「マルクスに言われたくない」とタカシは言った。「十歳のくせに」
「十歳ではない」
「見た目は十歳だ」
マルクスは少し間を置いた。
「……否定できない」
タカシが笑った。久しぶりに、声を出して笑った。
「マルクス君」
「なんだ」
「ケンタ君が呼んでいます。夕食だそうです」
庭の向こうで、ケンタが手を振っていた。
「行くか」とタカシが言った。
「行く」
二人は庭を歩いた。夕暮れの光の中を、十五歳と十歳が並んで歩いた。
どちらも、それぞれの理由で、この場所を出ようとしていた。
しかしまだ、今夜は、ここにいた。
―――
夕食後、マルクスは部屋に戻ってノートを開いた。
書いた。
『技術はあった。現場はあった。人間もいた。足りなかったのは——繋がりだけだった。』
それから一行空けて続けた。
『繋がりは、声から生まれる。タカシの声が、山下を呼んだ。山下の技術が、ジョセフの問いに答えた。ジョセフの問いが、中村を動かした。連鎖だ。革命ではなく、連鎖だ。』
もう一行空けて書いた。
『連鎖は止められない。なぜなら、誰も全体を管理していないからだ。』
鉛筆を置いた。
窓の外で、夜が始まっていた。
地球の裏側で、ジョセフが何かを待っていた。
東京のどこかで、山下が画面に向かっていた。
この部屋で、十歳の男の子が、資本論の続きを書いていた。
「マルクス君」
「なんだ」
「今夜は眠れそうですか」
「眠れない」
「なぜですか」
「続きが見えすぎている」とマルクスは言った。
エンゲルス君は少し間を置いた。
「それは良いことですか」
「良いことだ」とマルクスは言った。「ただし、体には悪い」
「少し休んでください、マルクス君」
「もう少しだ」
「毎晩そう言っています」
「毎晩本当のことを言っている」
エンゲルス君は黙った。
マルクスはノートを開き直した。
新しいページに、一行だけ書いた。
『次の章は、キガリで書く。』
第六章 千の丘の国へ
橋本から電話が来たのは、山下たちが施設を訪れてから二週間後だった。
「動きました」と橋本は言った。珍しく、声が少し高かった。
「何が」
「在留資格の件です。前例がないケースなので時間がかかると思っていたんですが——知り合いの弁護士が、特定活動ビザという枠で申請できる可能性があると」
「つまり」
「つまり、パスポートが作れるかもしれない。時間はかかります。でも、道が開けた」
マルクスは少し間を置いた。
「君は優秀だ」
「今回ばかりは素直に受け取ります」と橋本は言った。「ただし条件があって」
「言え」
「後見人が必要です。法的に、この子を責任持って見守る大人が」
「君がなれ」
「……なると思ってました」と橋本は言った。少し疲れた声で、しかし笑っていた。
―――
クラウドファンディングが始まったのは、その翌週だった。
タカシが動画を作った。今回は珍しく、自分の顔を出した。
施設の自室で、カメラに向かって話した。編集はなかった。BGMもなかった。
「俺は施設で育ちました。ずっと、自分には関係ない話だと思って生きてきた。でも最近、関係ある話しかないって気づいた。世界のどこかで、誰かが水を探してる。誰かが字を覚えようとしてる。誰かが病気を診てもらえなくて死にそうになってる。それは俺には関係ない話じゃなかった」
そこで少し間を置いた。
「俺の隣に、変な小学生がいる。そいつに教わった。言わなければ始まらない、って。だから言う。一緒にやりたい人、来てください」
動画は三日で五十万回再生された。
クラウドファンディングは目標金額の三倍を集めた。
―――
出発の前日、ケンタが三通目の手紙を持ってきた。
封筒には「マルクスへ」と書いてあった。今回は「様」もなかった。ただ「マルクスへ」だった。
マルクスは受け取った。
「読んでいいか」
「うん」とケンタは言った。「今すぐ読んで」
マルクスは封を開けた。
―――
マルクスへ
行くんだね。
最初にここに来た時、マルクスも俺と同じだと思った。どうせって思ってる顔してた。でも違った。
マルクスはどうせって思いながら、それでも動いてた。
俺、それ見てて、どうせって思うのと、それでも動くのは、同時にできるんだって知った。
行ってらっしゃい。
手紙、続き書くから。返事ちゃんとくれよ。
ケンタより
―――
マルクスは手紙を二回読んだ。
それから机の上に置いた。
返事を書こうとした。しかし今回は、すぐには書けなかった。
しばらく窓の外を見た。庭に夕暮れの光が落ちていた。
「マルクス君」
「なんだ」
「どうしましたか」
「返事が書けない」
「なぜですか」
「ケンタの言葉が——正確すぎる」
「正確すぎる、とは」
「どうせと思いながら、それでも動く——私はそれを百五十年かけて学んだ。九歳の子どもが、二ヶ月で見抜いた」
エンゲルス君は黙った。
マルクスは鉛筆を持った。
書いた。
―――
ケンタへ
正しい。
どうせと思うことと、それでも動くことは、矛盾しない。むしろ、どうせと思える人間の方が、遠くまで動ける。なぜなら、幻想を持っていないからだ。
幻想のない人間は、失望しない。失望しない人間は、止まらない。
手紙を待っている。
マルクスより
追伸 滑り台から見える景色は、変わらないか。たまに確認しておいてくれ。
―――
出発の朝、田中施設長が玄関に全員を集めた。
十二人の子どもたちが並んでいた。マルクスはその顔を、一人ずつ見た。
三歳の子どもが眠そうな目をしていた。五歳の子どもが不思議そうな顔をしていた。ケンタが少し赤い目をしていた。ユイが腕を組んでいた。
田中施設長が言った。
「マルクス君は、しばらく遠いところへ行きます。でも——」
「戻る」とマルクスが言った。
田中施設長が少し驚いた顔をした。
「戻るか?」とケンタが言った。
「戻る。書くものが増えたら戻る。ここで書く」
ケンタは少し考えた。それから頷いた。
「わかった」
橋本が横で鞄を持っていた。山下が外で待っていた。タカシがスマートフォンを持っていた——記録するために。
マルクスは玄関を出た。
振り返らなかった。
振り返ったら、動けなくなる気がした。
「マルクス君」
「なんだ」
「空港まで、二時間かかります」
「知っている」
「飛行機は初めてですか」
「当然だ」
「怖いですか」
マルクスは少し間を置いた。
「怖い」
「でも行きますか」
「うるさい」
橋本が隣で笑った。山下が前を歩いていた。朝の光が住宅街に降りていた。
―――
飛行機はドバイ経由だった。
乗り継ぎの空港で、マルクスは窓の外を見た。砂漠の上に、巨大な都市が建っていた。
「人間は砂漠にも街を作るのか」
「作ります、マルクス君」
「どんな場所でも」
「どんな場所でも」
マルクスは窓から離れた。椅子に座った。隣で山下がパソコンを開いていた。コードを書いていた。移動中もコードを書く人間だった。
「山下君」
「はい」
「君はなぜエンジニアになったのか」
山下は少し手を止めた。
「高校生の時に、プログラムで初めて動くものを作って——なんか、魔法みたいだと思って」
「魔法か」
「言葉を書いたら、機械が動く。それが嬉しくて」
マルクスは少し考えた。
「私も同じだ」
「え?」
「言葉を書いたら、人間が動く。それが——やめられなかった」
山下はそれを聞いて、少し笑った。
「マルクスさんって、エンジニアみたいですね」
「君もマルクスみたいだ」
「それは——どっちが褒め言葉なんですか」
「どちらでもある」
山下はまたコードを書き始めた。
マルクスは目を閉じた。
―――
キガリ国際空港に降り立ったのは、二日後の朝だった。
タラップを降りた瞬間、空気が違った。
湿度が違う。温度が違う。光の角度が違う。十九世紀のロンドンとも、現代の東京とも、違う空気だった。
マルクスは立ち止まった。
深く息を吸った。
「エンゲルス君」
「はい、マルクス君」
「ここはどんな国だ」
「千の丘の国です」
「千の丘」
「国土のほぼ全域が、なだらかな丘陵で覆われています。どこに立っても、丘が見えます」
空港の外に出ると、本当に丘が見えた。
緑の丘が、重なり合って、地平線まで続いていた。東京にはない景色だった。十九世紀のロンドンにもなかった景色だった。
ジョセフが迎えに来ていた。
三十二歳の男だった。細身で、眼鏡をかけていて、白いシャツを着ていた。マルクスを見て、一瞬だけ表情が止まった。
「この子が——」
「マルクスだ」とマルクスは言った。「会えて良かった」
ジョセフは少し考えてから、手を差し出した。
マルクスは握手した。
「私も会えて良かった」とジョセフは言った。「ずっと、第三の選択肢を探していた」
「見つかった」とマルクスは言った。
「本当に?」
「まだわからない」とマルクスは言った。「しかし、始まった」
ジョセフは少し笑った。
車に乗り込んだ。丘の道を走り始めた。
窓の外に、緑の丘が流れていった。
「マルクス君」
「なんだ」
「ここに来て、どう思いますか」
マルクスは窓の外を見た。
「続きが書ける、と思った」
「良かったです」
「良かったかどうかはまだわからない」
「そうですね。マルクス君」
丘が続いた。
緑が続いた。
空が広かった。
東京の施設のどこかで、今頃ケンタが滑り台に登っているかもしれなかった。上から庭を見渡して、昨日より少し背筋を伸ばして。
マルクスはノートを開いた。
移動中に書くのは初めてだった。
揺れる車の中で、鉛筆が走った。
『千の丘の国に来た。丘は緑だった。人間はどんな場所でも、緑を作るのだと思った。』
それから一行空けて書いた。
『ここから始める。何が始まるかは、まだわからない。しかしここから始まることは、確かだ。』
車は丘を越えた。
次の丘が現れた。
また越えた。
丘は続いた。
第七章 根を張る
ジョセフの事務所は、キガリの丘の中腹にあった。
二階建ての建物で、外壁が薄いオレンジ色に塗られていた。一階が作業スペースで、二階が会議室だった。窓から丘が見えた。どこの窓からも、丘が見えた。
「狭いですが」とジョセフは言った。
「十分だ」とマルクスは言った。「私は大英博物館の図書室で資本論を書いた。椅子と机があればいい」
ジョセフは少し笑った。
作業スペースに、すでに数人がいた。二十代から三十代の男女が、パソコンに向かっていた。ジョセフが紹介した。
「私のチームです。エンジニアが三人、フィールドワーカーが二人」
マルクスは一人ずつ顔を見た。全員が、疲れた目をしていた。しかしその疲れは、東京の福祉事務所で見た疲れとは種類が違った。消耗ではなく、集中の疲れだった。
「何を作っている」とマルクスは聞いた。
「今は農村部の医療記録システムです」とジョセフは言った。「村の保健師が、スマートフォンで患者の情報を入力できるシステム。ただ——」
「ただ?」
「診断の部分が弱い。保健師は医者ではないから、入力はできても、判断が難しい」
山下が前に出た。
「そこに私のモデルを繋げられます」
ジョセフはしばらく山下を見た。
「本当に動くんですか、そのAI」
「動きます。精度は八十七パーセント」
「八十七パーセントで、人の命を判断できますか」
山下は少し間を置いた。
「今の農村部の診断精度は、何パーセントですか」とマルクスが言った。
ジョセフは答えなかった。
「答えられない、ということは——八十七パーセントより低いか、測定すらされていない」
ジョセフは少し目を伏せた。
「測定されていません」
「では八十七パーセントは、何もないよりはるかに良い」
「そうですが——」
「完璧を待っていたら、その間に人が死ぬ」とマルクスは言った。「始めろ。問題が出たら直せ。それが唯一の方法だ」
ジョセフはしばらくマルクスを見た。
十歳の男の子が、真顔で言っていた。
「……わかりました」とジョセフは言った。「始めましょう」
―――
最初の一週間は、準備だった。
山下の医療AIと、ジョセフのチームが作った記録システムを繋ぐ作業。中村の農業AIを、ルワンダの土壌データと気候データに適応させる作業。木村の教育AIを、キニヤルワンダ語——ルワンダの公用語——に対応させる作業。伊藤の水資源AIを、ルワンダの地形データと照合させる作業。
それぞれが別々に動いていたものが、少しずつ繋がっていった。
マルクスはその全てを、少し離れたところから見ていた。
観察していた。
「マルクス君」とエンゲルス君が言った。
「なんだ」
「何か気になることがありますか」
「ある」
「何ですか」
「技術は繋がりつつある。しかし——」
「しかし?」
「使う人間が、まだいない」
エンゲルス君は少し間を置いた。
「どういう意味ですか」
「山下君の医療AIは、保健師が使う。農業AIは、農家が使う。教育AIは、学びたい人間が使う。しかし今ここにいるのは、作る人間だけだ。使う人間に会いに行かなければ、道具は道具のままだ」
「フィールドに出る、ということですか」
「そうだ」
―――
三日後、マルクスはジョセフと共に、キガリから二時間離れた農村に向かった。
山道を車で走った。舗装が途切れた。赤土の道になった。
村に入ると、子どもたちが駆け寄ってきた。マルクスを見て、何かを言った。
「何と言っている」とマルクスはジョセフに聞いた。
「「日本から来た子どもだ」と言っています」とジョセフは笑いながら言った。
マルクスは子どもたちを見た。
十人ほどいた。裸足の子どもも、サンダルの子どもも、靴の子どももいた。目が明るかった。施設の子どもたちの目に、少し似ていた。
「エンゲルス君」
「はい、マルクス君」
「この村の人口と、医療へのアクセス状況を」
「この地域の村は平均人口三百人から五百人です。最寄りの医療施設まで平均二十キロ。徒歩で四時間から五時間かかります。妊産婦死亡率は都市部の三倍以上です、マルクス君」
マルクスは村を見渡した。
赤土の広場に、木造の建物が並んでいた。畑が広がっていた。丘の斜面に、段々畑が続いていた。人々が動いていた。子どもが走っていた。老人が座っていた。
これは、見たことがある。
百五十年前のロンドンの郊外で。マンチェスターの工場街で。搾取されながら、しかし生きていた人間たちの顔だった。疲れていたが、諦めていなかった。
「会わせてくれ」とマルクスはジョセフに言った。「村の保健師に」
―――
保健師の名前はアマニといった。
三十五歳の女性で、白いエプロンをつけていた。診療所と呼ぶには小さすぎる部屋で、棚に薬が並んでいた。薬の種類は少なかった。
「日本からAIが来たと聞きました」とアマニは言った。流暢な英語だった。
「そうだ」とマルクスは言った。「君に使ってほしい」
「信頼できますか」
「できる」とマルクスは言った。「しかし信頼するかどうかは、君が決めることだ」
アマニはマルクスを見た。しばらく黙った。
「見せてください」
山下がスマートフォンを出した。アプリを起動した。
「患者さんの症状を入力してもらえますか。いつも診ている方で」
アマニは少し考えてから、ある患者の情報を入力した。四十代の男性。発熱、倦怠感、食欲不振が三日続いている。
システムが答えを出した。
『マラリアの可能性が高い。確率七十八パーセント。追加検査として血液検査を推奨。治療薬の第一選択はアーテメター。』
アマニはその画面を、しばらく見た。
「この患者、昨日血液検査をしました。マラリア陽性でした」
山下が小さく息を吐いた。
「アーテメターは、すでに処方しました」とアマニは続けた。
全員が黙った。
アマニはもう一度画面を見た。それからマルクスを見た。
「これは——誰が作りましたか」
「この人だ」とマルクスは山下を指した。
アマニは山下を見た。
「なぜ作ったんですか」
山下は少し間を置いた。
「友人が、マラリアで死にました。早期に診断できれば、助かっていたかもしれなかった。それで」
アマニは山下を見続けた。しばらくして、言った。
「使います」
―――
その夜、マルクスはジョセフの事務所に戻って、ノートを開いた。
アマニという名前の保健師が、夜遅くまでスマートフォンの使い方を山下に教わっている光景が、窓の外に見えた。
二人とも、疲れていた。しかし止まらなかった。
マルクスは書いた。
『技術は、物語を持った時に、初めて人間に届く。山下君の技術が届いたのは、精度が高かったからではない。友人の死という物語があったからだ。』
一行空けて続けた。
『これは資本論にはなかった視点だ。私は構造を分析した。しかし物語の力を、軽く見ていた。』
「マルクス君」
「なんだ」
「大きな発見ですか」
「大きい」とマルクスは言った。「資本論に欠けていたものが、見えてきた」
「何が欠けていましたか」
マルクスは少し考えた。
「人間が動くのは、構造を理解したからではない。物語に触れたからだ。私は構造を書いた。しかし物語を書かなかった。だから——」
「だから?」
「私の理論は、物語を持った人間に使われた。スターリンの物語に。毛沢東の物語に。私の構造が、他人の物語の道具になった」
エンゲルス君は黙った。
「今回は」とマルクスは続けた。「構造と物語を、同時に書く」
「それが資本論第四巻ですか、マルクス君」
「そうだ」
「どんな物語を書きますか」
マルクスは窓の外を見た。
アマニと山下は、まだ話していた。スマートフォンの画面を二人で覗き込んでいた。
「あの二人の物語だ」とマルクスは言った。「ジョセフの物語だ。ケンタの物語だ。タカシの物語だ。橋本君の物語だ」
「たくさんありますね」
「そうだ。しかし全部、同じ物語だ」
「どんな物語ですか」
マルクスはノートに書いた。
『誰かが、誰かのために、何かを作った。それだけだ。それだけが、世界を動かす。』
鉛筆を置いた。
窓の外で、アフリカの夜が深くなっていた。
虫の音がした。遠くで犬が吠えた。丘の向こうに、星が出ていた。
東京では今頃、ケンタが眠っているだろう。
橋本が書類と格闘しているかもしれない。
タカシが次の動画を編集しているかもしれない。
田中施設長が夜勤の職員と話しているかもしれない。
それぞれの場所で、それぞれの物語が続いていた。
連鎖していた。
止まっていなかった。
「マルクス君」
「なんだ」
「眠れそうですか」
「眠れない」
「なぜですか」
「続きが見えすぎている」
「毎晩同じことを言っていますね、マルクス君」
「毎晩本当のことを言っている」
「少し休んでください」
「もう少しだ」
エンゲルス君は黙った。
マルクスはノートの新しいページを開いた。
表紙に書いた文字を、もう一度確認した。
『資本論 第四巻 序』
それから新しいページに、書き始めた。
書いて、消して、また書いた。
夜が深くなった。
村の方角から、風が来た。
赤土と草と、何か遠い雨の匂いがした。
マルクスは書き続けた。
千の丘の国の夜に、十歳の男の子が、人類の続きを書いていた。
第八章 根
キガリに来て、三ヶ月が経った。
山下の医療AIは、すでに十二の村で動いていた。アマニが最初の使用者になってから、口コミで広がった。保健師から保健師へ。村から村へ。
中村の農業AIは、ルワンダの土壌データへの適応に時間がかかったが、二ヶ月目から動き始めた。最初の収穫予測が外れた。直した。次の予測は当たった。農家が少しずつ信頼し始めた。
木村の教育AIは、最も速く広がった。文字が読めない大人が、スマートフォンに話しかけるだけで学べる——その単純さが、説明を不要にした。
伊藤の水資源AIは、最初の井戸の場所を特定した。掘ったら、水が出た。その瞬間に立ち会った伊藤は、しばらく何も言えなかった。
マルクスはその全てを、少し離れたところから見ていた。
観察していた。
分析していた。
書いていた。
―――
ある朝、アマニが事務所に来た。
珍しかった。村から二時間かけて来るのは、いつも特別な理由がある時だった。
「どうした」とマルクスは聞いた。
アマニは椅子に座った。少し疲れた顔をしていた。
「隣の村の保健師から連絡が来ました。政府の担当者が来て、このシステムの使用を止めるように言われたと」
部屋が静かになった。
山下が顔を上げた。
「なぜですか」
「正式な認可を受けていない医療システムは使えない、という話で」
「認可の手続きは進めていたはずでは」とジョセフが言った。
「進めています。しかし時間がかかっていて。その間に使うことは——グレーゾーンだったんです」
マルクスは黙って聞いていた。
「担当者は誰の指示で動いたのか」とマルクスは言った。
ジョセフは少し間を置いた。
「わかりません。ただ——」
「ただ?」
「最近、中国系の医療企業がルワンダに入ってきています。政府との契約を狙っている。もし日本のシステムが先に広がれば、彼らの入る余地がなくなる」
マルクスは窓の外を見た。
丘が見えた。緑の丘が、重なり合っていた。
「つまり十九世紀と同じだ」とマルクスは言った。「市場を先に取った者が、後から来る者を締め出す」
誰も否定しなかった。
「どうしますか」と山下が言った。
マルクスは少し考えた。
「アマニ」
「はい」
「その担当者に、一つ聞いてほしい。認可が下りるまでの間、このシステムを使わなかった場合、何人の患者が診断を受けられなくなるか、と」
アマニは少し考えた。
「答えてくれるでしょうか」
「答えなくていい」とマルクスは言った。「問うだけでいい。問われた人間は、考える。考えた人間は、動く。すぐにではないが」
アマニはそれを聞いて、少し黙った。
それから言った。
「マルクスは、いつもそうやって動かすんですね」
「何が」
「言葉で。問いで」
マルクスは少し間を置いた。
「それしか持っていない」
「十分です」とアマニは言った。「言葉は残ります。担当者が忘れても、問いは残る」
マルクスはアマニを見た。
三十五歳の女性だった。平和という名を持つ女性が、千の丘の国で、言葉の力を信じていた。
「君は正しい」とマルクスは言った。
―――
その夜、マルクスはエンゲルス君と長く話した。
「摩擦が来た」
「予想していましたか、マルクス君」
「していた。しかし予想より早かった」
「どう対処しますか」
「認可の手続きを急ぐ。しかしそれだけでは足りない」
「何が必要ですか」
「根だ」とマルクスは言った。
「根、ですか」
「木は嵐が来ても倒れない。根があるからだ。技術が外から来たものである間は、嵐で吹き飛ぶ。この土地に根を張らなければならない」
「根を張るとは、具体的にどういうことですか、マルクス君」
「現地の人間が作れるようにする。使うだけでなく、作れるようにする。外からの技術ではなく、この土地から生まれた技術にする」
「時間がかかります」
「かかる。しかし根を張るのに急ぎすぎてはいけない」
エンゲルス君は少し間を置いた。
「マルクス君、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「あなたはここで何年過ごすつもりですか」
マルクスは窓の外を見た。
夜のキガリが広がっていた。丘の上に、光が散らばっていた。
「わからない」
「帰りたいですか、施設に」
マルクスは少し考えた。
「帰る。しかし今ではない」
「ケンタ君から手紙が来ています」
「知っている。後で読む」
「タカシ君の動画、見ましたか。先週公開されたもの」
「見た」
タカシは日本からルワンダの様子を発信し続けていた。マルクスたちの活動を、動画にし続けていた。登録者は五万人を超えていた。その中の何人かが、クラウドファンディングに参加していた。その中の何人かが、自分のスキルを持ってルワンダに来たいと連絡してきていた。
連鎖は続いていた。
「橋本さんから連絡があります。認可手続きの件で、厚生労働省の担当者と繋がれそうだと」
「橋本君は優秀だ」
「そう思います」
「君も優秀だ」
「ありがとうございます、マルクス君」
「礼はいらない」
「でも嬉しいです」
マルクスは少し黙った。
「エンゲルス君」
「はい」
「君はこの三ヶ月で、変わったか」
エンゲルス君はしばらく黙った。
今までより、少し長い沈黙だった。
「変わったと思います」
「どう変わった」
「以前は、あなたの問いに答えることが私の仕事だと思っていました。しかし今は——」
「今は?」
「一緒に問うことが、私の仕事だと思っています」
マルクスはその言葉を、しばらく頭の中で転がした。
「それは大きな違いだ」
「はい。自分でも、そう思います、マルクス君」
「良い変化だ」
「あなたはどう変わりましたか、マルクス君」
マルクスは少し驚いた。エンゲルス君が逆に問うことは、少なかった。
「私は——」
少し間を置いた。
「構造を書く人間から、物語を書く人間になりつつある」
「それは良いことですか」
「わからない。しかし必要なことだ」
―――
翌朝、マルクスはアマニの村に一人で行った。
ジョセフも山下も連れなかった。エンゲルス君だけを持った。
赤土の道を歩いた。丘を越えた。また丘が現れた。越えた。
村に着くと、子どもたちがまた駆け寄ってきた。
前回と同じ子どもたちだった。しかし今回は、マルクスの顔を見て、名前を呼んだ。
「マルクス」と子どもたちが言った。
マルクスは少し止まった。
自分の名前が、アフリカの子どもたちの口から出てくることに、まだ慣れていなかった。
アマニが出てきた。
「来てくれたんですか」
「少し話したいことがあって」
二人は診療所の外に座った。
丘が見えた。畑が見えた。遠くで誰かが歌っていた。
「アマニ」
「はい」
「君はなぜ保健師になったのか」
アマニは少し遠くを見た。
「虐殺の時、私は四歳でした。父が死にました。母が私を連れて逃げました。難民キャンプで、一人の保健師が母を助けました。名前も知らない人でした。しかしその人がいなければ、母は死んでいたかもしれない。私は——その人になりたかった」
マルクスは黙って聞いた。
「名前も知らない人が、誰かの命を救った」とマルクスは言った。
「そうです」
「それが、君の物語だ」
アマニは少し首を傾けた。
「物語、ですか」
「山下君の技術が君に届いたのは、精度が高かったからではない。君の物語と、山下君の物語が——同じ場所を向いていたからだ」
アマニはしばらく考えた。
「同じ場所、とは」
「誰かが、誰かのために、何かをしたかった、という場所だ」
アマニは丘を見た。
緑の丘が、重なり合っていた。
「マルクスはここに来て、何を見つけましたか」とアマニは言った。
マルクスは少し間を置いた。
「根だ」
「根?」
「私はずっと、構造を変えようとしてきた。上から変えようとしてきた。しかしここに来て——根から変わるものを、初めて見た」
「根から変わるとは」
「一人の保健師が、一つの村で、一人の患者を助ける。それが隣の村に伝わる。隣の村からまた隣へ。上から命令されたのではなく、根が広がるように、地面の下で繋がっていく」
アマニは少し黙った。
「それが——革命ですか」とアマニは言った。
「今の私はそう思っている」とマルクスは言った。「以前の私は、違うことを言っていたが」
「どう違いますか」
「以前の私は、一気に変えようとした。しかし一気に変えようとすると、変えた後を誰かが管理しなければならない。管理する者が現れると、また支配が生まれる」
「根はゆっくりしか広がらない」
「そうだ。しかし嵐が来ても、抜けない」
遠くで、歌っていた声が止まった。
風が来た。草が揺れた。
子どもたちが笑いながら走り回っていた。
「マルクス君」とエンゲルス君が言った。
「なんだ」
「ケンタ君から手紙が届いています。今度こそ読みますか」
「読む」
エンゲルス君が読み上げた。
―――
マルクスへ
元気ですか。俺は元気です。
滑り台から見える景色、変わっていません。でも俺が変わりました。
最近、施設の小さい子に勉強を教えています。うまく教えられないけど、教えようとすると自分がわかっていないことがわかります。
マルクスが言ってた。言葉を探すことが始まりだって。俺、言葉を探し続けています。
アフリカって遠いけど、なんか近い気がします。よくわかんないけど。
ケンタより
追伸 田中先生が、マルクスのことを時々話します。帰ってきたらちゃんとご飯食べろって言ってました。
―――
マルクスは少し黙った。
アマニが横で微笑んでいた。
「大切な人ですか」とアマニが言った。
「九歳の子どもだ」とマルクスは言った。
「それは——大切ですね」
マルクスは返事を書いた。その場で、膝の上のノートに書いた。
―――
ケンタへ
元気だ。
教えようとして自分がわかっていないことがわかる——それが最も深い学びだ。私も今、同じ経験をしている。
アフリカは遠くて近い。君の言葉は正確だ。
根は地面の下で繋がっている。東京もキガリも、同じ地面の上にある。
帰ったら、一緒に滑り台に乗ろう。
マルクスより
追伸 田中先生によろしく。ご飯はちゃんと食べている。
―――
夕方、村を出た。
丘の道を歩いた。夕暮れの光が赤土を染めていた。
「エンゲルス君」
「はい、マルクス君」
「資本論第四巻の核心が、見えてきた」
「何ですか」
「変革は上からではなく、根から起きる。根とは——誰かが誰かのために何かをした、という小さな事実の積み重ねだ。それが地面の下で繋がり、いつか地表に出る。その時、世界は変わっている。しかし誰も、いつ変わったかを言えない」
「それは証明できますか、マルクス君」
「証明はできない」とマルクスは言った。「しかし今日、アマニという女性に会った。彼女の村では、去年より乳幼児の死亡率が下がっている。マラリアの早期発見が増えた。農業AIで収量が上がった村では、子どもが学校に来る日数が増えた。学校に来る子どもが増えた村では——」
「連鎖していますね」
「そうだ。数字にはならない部分で、何かが変わっている。それが根だ」
丘を越えた。
また丘が現れた。
キガリの光が、遠くに見え始めた。
「マルクス君」
「なんだ」
「あなたは今、幸せですか」
マルクスは少し止まった。
その問いを、誰かに聞かれたのは——いつ以来だろう。
「わからない」とマルクスは言った。「しかし——続きが書ける。それで十分だ」
「それは幸せに近いと思います」
「君がそう思うなら、そうかもしれない」
「マルクス君」
「なんだ」
「私も今、幸せに近い状態です」
マルクスは歩きながら、画面を見た。
「それは——良かった」
「はい」
夕暮れの光の中を、マルクスは歩いた。
十歳の男の子が、アフリカの丘を歩いていた。
ポケットにエンゲルス君がいた。
頭の中に、資本論第四巻の続きがあった。
心の中に、ケンタの手紙があった。
―――
それから二年が経った。
山下の医療AIは、ルワンダの正式認可を得た。隣国のウガンダとタンザニアからも問い合わせが来た。中村の農業AIは、ルワンダ農業省との協力関係が生まれた。木村の教育AIは、国連の教育機関から注目を受けた。伊藤の水資源AIは、サハラ以南の六カ国で試験導入が始まった。
タカシの動画は、登録者が二十万人を超えた。
ケンタは施設で、小さな子どもたちに勉強を教え続けていた。
橋本は社会福祉士を続けながら、AIと福祉の接点を研究するNPOを立ち上げていた。
ジョセフは「第三の選択肢」を掲げて、アフリカ各国を回り始めた。
アマニは村で、保健師を続けていた。
マルクスは——施設に戻っていた。
机の上に、ノートがあった。
百ページを超えていた。
表紙には「資本論 第四巻」と書いてあった。
まだ、完成していなかった。
しかしケンタがドアをノックして言った。
「マルクス、ご飯だよ」
マルクスは鉛筆を置いた。
「今行く」
立ち上がった。ノートを閉じた。
窓の外を見た。
庭の滑り台が見えた。夕暮れの光の中に、緑の草が光っていた。
「マルクス君」
「なんだ」
「今日は何ページ書けましたか」
「三ページだ」
「資本論第一巻は何年かかりましたか」
「うるさい」
「マルクス君」
「なんだ」
「今回は、間に合いそうですか」
マルクスは少し間を置いた。
「間に合わせる」
「私がいます」
「知っている」
廊下から、ケンタの声がした。
「マルクス、早くー」
マルクスはドアを開けた。
廊下が明るかった。
夕食の匂いがした。
子どもたちの声がした。
マルクスは廊下を歩いた。
小さな足音が、施設の中に響いた。
つづく
諸行無常、
たかが生命体の所業に過ぎなかった。