西国の花嫁
あらすじ
ある架空の国の話。時は戦国時代。美里は王女に仕立てられ暴君の丹櫂のもとに嫁ぐがその婚姻は悲惨なものだった。命の危険を感じた美里は側室のアンジュの助けにより火事に紛れて王宮を逃げ出す。
名を変え、ある豪商の娘になった美里は絵師として再び王宮に上がるが、丹櫂にそれと気づかれる。
再び王宮を逃げ出す美里。それを追う丹櫂の隠密。そして美里を助けようとする汎陸。彼は美里の幼馴染であり、二人は思いあう仲だった。
美里だけでなく汎陸にもある出生の秘密。そして、暴君と言われた丹櫂の隠された真実とは・・・?美里と汎陸、そしてアンジュや丹櫂も含めて複雑に絡み合う関係性。そして、その末期は・・・?
西国の花嫁
居倉万子
その国、珀(ひゃく)は長い間、隣接する国々との長い戦いで、疲弊していた。特に、先の王が亡くなってから跡を継いだ王はそれを何とかする力がなく、相手国の一方的な要求に対抗する力さえなくしていた。
今回の交渉でも、重要な要所である土地を譲った挙句、次に提示されたのは、「王の娘を正式な王妃として迎えたい。これで婚姻が結ばれれば、両国の長い友好が築かれる」と、いう一見、耳聞こえの良いものだった。
だが、その国、甲斐の国の王、丹櫂(たんかい」は乱暴者で名が通っていた。戦に出ればどこまでも非情に相手国を攻めた。
丹櫂が通った後は草木も生えないといわれたが、実際はそれ以上の略奪を繰り返したから、丹櫂は父親の代で失くした領土を取り戻し、さらに広げていた。
今やその勢いはとどまるところを知らなかったが、残忍さは遠い珀の国まで届いていた。
二十六歳の男盛りの丹櫂にはすでに多くの側室がおり、後継者の王子たちにも恵まれていたうえ、先の王妃は丹櫂の逆鱗に触れ、惨殺されたともいわれていた。それが故に、その妃選びは難局を示していた。
今の珀の国の王女たちははまだ幼かったから、先の王の娘の中から選ばれることになった。だが、そんな丹櫂の評判を知っている王女たちは誰も丹櫂の元に嫁ごうというものはいなかったのだ。どの王女も様々な理由を挙げて断っていた。そうしたなかで、ある娘が選ばれていた。
その日、美里(みいり)は、山に薬草を取りに来ていた。母と二人暮らしの美里が採ってきた薬草は母と二人の暮らしを支えるには十分だった。
家が近くなって、美里は自宅周辺に人だかりができているのを不審に思い、騒然とした中を分け入った。だが、そんな美里に気づいた者が言った。
「美里さんが帰ってきましたよ」
その言葉で、みんなの目が一斉に美里に集まった。戸惑う美里のもとに家の中から母親が転がるようにして、駆け寄った。
「美里・・・」そう、声をかけた母の顔には悲壮感が漂っていた。
「お母さん、これはいったい何なの?」
その言葉に応えるように明らかにこのあたりの男とは違うみなりの男が言った。
「王女様、お待ちしていました。すぐに王宮に戻りましょう?」
「王女?王宮?いったい何のことです?」
美里は全く訳が分からず、母の顔を見たが、困惑した表情の母は美里の問いにすぐに答えてはくれなかった。それなのに、そばの男は母の代わりにこたえた。
「あなたは先の王、子義様の忘れ形見なのです。ずっと子義様が探し続けていたのを我々がようやく探し出したのです。ですから、あなたはこんなところにいるべき方ではありません。すぐに王宮に戻りましょう。もちろん、お母上の佐那さまもご一緒です」
美里は慇懃無礼ながら、有無を言わせない目の前の男に黙って従うしかなかった。母もまた、諦めたかのように男に従っていた。
地域の住人が見つめる中、美里が用意されていた豪華なつくりのかごに乗り込もうとしたとき、美里を呼び止める者がいた。
「美里!」
振り向くと、そこには美里の幼馴染の汎陸(はんりく)が立っていた。急いで駆け付けたのか、肩で大きく息をしながら、陸は言った。
「美里、行くな」
だが、美里が答える前に従者の男が言った。
「ご出立!」
その言葉に後を押されたように、美里がかごに入ると、すぐにかごは動き出した。
美里はかごの中から立ち尽くしている陸を見た。陸は怒ったような顔で、瞬きもせず、こちらをじっと見ていた。
美里はその顔を見ただけで胸が締め付けられる思いになった。
美里と母の生活を何かと支えてくれた二歳年上の陸とは、これからもずっとこのまま平和な関係が続くと信じていた。それなのに、そうはならなかった。
陸の父親は絵師だったが、陸もまた、父の跡を継いで絵師になる修行をしていたが、その隣にはいつも美里がいた。
美里もいつしか陸に倣って絵を描くようになっていた。
そんな美里を見て、陸の父親は「美里は絵の才能がある。陸以上かもしれない」そう言われても、陸は悔しがるでもなく「本当だね。美里の絵はなぜか人の心を打つものがあるよね」と、言って美里をほめてくれた。美里はそんな穏やかで心の広い陸が大好きだったのだ。
美里は後ろ髪を引かれる思いで、そんな陸と別れたが、王宮に向かいながら、今まで全く縁のなかった王宮というところに対する不安で心がいっぱいになっていた。
王宮に着いてから、周囲の物珍しげな視線にずっとさらされていた。その目はどこの馬の骨かといったさげすむ目であることを感じていた。だが、そんな美里たちの不安な気持ちをよそに、従者が言った。
「王様がお待ちです」
美里たちはこの国の王に初めて拝謁したが、王は二人にどこまでも優しかった。
「そなたが私の一番末の妹の美里だな?今まで、そなたたちの存在を全く知らず、苦労をかけて申し訳なかった」
だが、そういわれても、美里は戸惑うばかりだった。
「その様子だと、美里は何も聞かされていないらしいな?昔、父が遠征先から戻る途中に体調が悪くなり、地元の有力者の家で静養したことがあったが、そこで父とお前の母親は恋仲になり、お前を身ごもった。だが、父は体が回復すると、すぐに新たな戦地に向かった。だから、二人のことを知る者は誰もいなかったんだ」
「・・・」
「父が亡くなってから、二人の存在をようやく知った。それで、二人を探させたが、どこにも姿がなかった。だが、今回、徹底的に探させてようやく、二人を見つけ出すことができた。これからは今までの分も含めて王女として大事にしたいと思っている」
そういって、母の佐那を見て言った。
「今まで、ご苦労をおかけしました」
その言葉に母は「いえ、そんなことはありません」と言葉を返したが、終始一貫して、硬い表情を崩さなかった。
そんな母は美里と二人きりになると、それでも誰にも聞こえない様に声を潜めて言った。
「美里、気を付けて、決して甘い言葉に騙されないで」
「それってどういうことなの?」
「確かに先の王様は、私の家でけがが治るまで逗留した。そして、いつしか私たちは愛し合い、あなたを身ごもった。だけど、子供ができることを喜んでいた王様は必ず戻る約束をして出て行ったけど、ふたたび、戻ってくることはなかった。それなのに、私の命を狙うものが現れたのよ」
「お母さんを殺そうとしたの?」
「そうよ。でも、父と母が自分を犠牲にして私を逃してくれたのよ。私は身を隠した先で、たった一人であなたを生んだのよ。そして、後から、父母が何者かに殺されたのを知った」
「いったい誰が?」
「私たちの存在を喜ばない人たちよ。それは王宮の人以外には考えられない。だから、今になって、こうして、私たちを探したのはそれなりの魂胆があるに違いない。だから、気を許さないで」
「これから、どうしたらいいの?」
「ここは私たちがいる場所ではない。すぐにここを出ましょう。できれば、あなただけでもここから逃がしてあげる」
だが、周囲の監視が厳しく、何度か脱出を試みたがその都度失敗した。そんな美里親子の気持ちを無視するように美里のお后教育が始まった。美里はようやく自分が甲斐の国に売られることを知った。
「珀の国の王女が甲斐の国の妃として嫁ぐ」
今まで王宮とはまったくかかわりのなかった貧しい美里のもとにそんな華やかな話が届くはずはなかった。美里は結婚相手の丹櫂の評判を聞いて、初めて自分が選ばれた理由を知った。表向きは両国の友好のあかしと言いながら、まさに人身御供に出される心境だった。
一か月の妃教育の末、いよいよ甲斐の国に婚姻のために出立というときに王からとつぐ妹へはなむけの言葉があった。
「この婚姻には珀の国の今後がかかっている。どうか丹櫂に気に入ってもらって、末永く仲良く暮らしてほしい」
弱冠十六歳の美里の肩には珀の国の人々の幸せな未来がずっしりと乗っかっていた。
美里にしても、王から言われるまでもなく、自分でも汎陸との未来を犠牲にしてまで嫁ぐのなら、せめて丹櫂と幸せに暮らしたかった。それに、母もここにきて、逃れられない婚姻を前向きにとらえようとしていた。
「思ってみれば、美里も、この国の王族としてここで暮らすよりも、まったくかかわりのない国で新たにお后として暮らすほうがいいのかもしれない。美里、丹櫂にかわいがってもらうのよ。決して、里心から帰ろうなんて思わないで。甲斐の国に骨をうずめる覚悟で嫁ぎなさい。そして、私たち親子の縁もここまでにしましょう」
覚悟を決めた母は美里を見送った後は王族として、王宮で暮らすのではなく、元の家に戻ることを希望し、それは受け入れられていた。
旅立ちの日は多くの人が美里の婚礼の一行を見送ってくれた。その目には、急遽、王女に仕立てられ、甲斐の国の荒くれ男に嫁がされる哀れな娘への同情が込められていた。
美里は無事、甲斐の国に着いた。そして、着くと同時に婚礼の式が始まった。長旅の疲れをとる暇もなく、婚礼衣装に着替えさせられて、その席に立たされた。
そして、多くの参列者が集う中、美里の隣に大柄な男が並んで立った。美里は紗の覆いに顔を隠していたが、それでも自分の夫の顔を見ようとした。引き締まった横顔はりりしく見えた。
「思ったほど、怖い人ではなさそうだ」
美里が丹櫂を初めて見た印象は、決して悪くはなかった。
美里はその整った横顔を見ながら新たな生活に、それなりに期待を寄せた。
華やかな婚礼の式が終わると、美里は自室としてあてがわれた屋敷で新郎がやってくるのを待った。美里は十六歳ながら、お后教育の中で、新婚初夜に何が行われるかは聞かされていた。だが、その夜、いくら待っても新郎が美里のもとを訪れることはなかった。
婚礼衣装のまま、まんじりともできないまま、朝を迎えた美里にお付きの侍女は気の毒そうに言った。
「お召し換えしましょうか?」
美里はのろのろと着替えたが、それにしても王の妃としてはこの部屋は王宮とは思えないほど、あまりにもみすぼらしく見えた。それにお付きの者も、この女性以外誰もいなかった。
そんな美里の思いに気づいたかのようにその女性は言った。
「私は今日から王妃様のお世話をさせていただく侍女の由良と申します」
「珀の国からついてきた人たちは?」
「珀の国から付いて来た人たちはみんな珀に帰ってしまいました。その代わりとして、私が王妃様のお世話を任されました」
あんなに仰々しく美里についてきた者はみんな美里を置いて自国に戻ってしまっていた。だが、それを聞いても、いまさら美里は寂しいとも思わなかった。端から、まったくかかわりのない人たちに期待もしていなかった。
「あなたはなぜ、私の侍女になったのですか?」
「私は先の王妃様の侍女で、その王妃様が亡くなるまで、この部屋でずっと一緒だったのです、この部屋に愛着のある私が、また、王妃様付きの侍女に選ばれました」
「先の王妃様もこの部屋だったのですか?そして、あなたが先の王妃様の侍女だったのですか?」
美里はその奇遇に驚きながら、王妃には似つかわしくない部屋を見まわしていた。
「ええ、王妃様が亡くなるまで、王妃様とこの部屋で過ごしました。私は王妃様が亡くなってから、後宮を出る計画もあったのですが、再び、新たな王妃様のお世話ができる縁をいただいたことを、ほんとにうれしく思っています。今日からよろしくお願いします」
そう、挨拶をしてくる由良は慎み深く、美里はいい印象を持った。この人がいてくれてよかったとつくづく、感じていた。
だが、美里は正式な王の妃の部屋にしてはあまりにみすぼらしい部屋と、たった一人の侍女を前にして、この国が自分をどう扱うのかが見えて、深いため息をついた。婚礼の時、隣に立っていた王に抱いた甘い期待はすぐに捨てた。
だが、美里に感慨にふける暇はなかった。
「すぐに後宮に来るように」と、言われたが、わけのわからない美里に、由良が言った。
「王様の側室方たちが一堂に会して、王妃様にあいさつしたいと申しています」
美里がその部屋に入っていくと、みんなの目が一斉に美里に注がれた。と、同時に華やかなむっとするような熱気に圧倒された。そこには十人の側室たちとそのお付きの者たちが集まっていたが丹櫂の側室たちは誰もが、美里が見たこともない衣装や髪飾りで競うように着飾っていた。
美里は改めて自分の身なりを見直した。珀から用意された衣装はどうみても、ここでは見すぼらしく、見劣りするものだった。
そんな美里を品定めするかのように、見つめてくる華やかな側室たちの中でも、一段と美しい女が言った。
「皆さん、新しくこの後宮にお迎えすることになった王妃様です。今まで、ずっといなかった王妃様を新たにお迎えできて喜ばしい限りです。これからも王様を支える存在の私たちが一つになって頑張りましょう」
その言葉に同意するように他の側室たちが口々に「そうね」「頑張りましょう」と言った。
その言葉に満足げに頷いたその女は余裕のある笑顔を見せながら「王妃様から何か一言を」と美里に言ってきた。
「皆さんのお力をお借りして、一日も早く、ここでの生活に慣れたいと思います。よろしくお願いします」
美里のその言葉を軽く受け流すかのようにその女は言った。
「ところで、新婚初夜の昨夜はどう、過ごされましたか?まさか、王様が王妃様を放って私のところに来るなんて思いもしませんでしたから、きっとお一人で寂しい思いをされたのでしょうね。ごめんなさいね」
その女は悪びれた様子もなく、むしろ誇らしげな顔で、そう言った。すると、ほかの女たちも口々に言った。
「まあ、新婚初夜に王様が現れず、放っておかれるなんて、なんて屈辱的なの?私だったら恥ずかしすぎて人前に顔を出したくはないわ」
「それも、あの屋敷は先の王妃が幽閉されていた屋敷でしょう?あんなところが新たに迎えた王妃の屋敷だなんて、いったい何があったというの?」
「とても正式な王妃に対する扱いではないわね。王様はいったい何を考えてこんな婚姻をしたのかしら?ただ、若いだけで、大して美しくも魅力的でもないこんな子をなぜ、王妃に迎えたのかしら?」
それは誰よりも美里が知りたかった。
だが、美里は華やかな女たちに囲まれて、王に見向きもされない哀れな王妃の役を押し付けられたが、それを完全に演じ切っていた。そして、美里をそう追い込んだのはその美しい容貌から王の寵愛を独り占めし、後宮の実権を握っている愁貴(しゅうき)だった。彼女はこの新参者の王妃を立ち上がれないほどに打ちのめし、完全に勝利を手にしていた。
侍女の由良から先の王妃が王の勘気に触れたのも、この愁貴の讒言があったことを聞いた。彼女は自分の地位を揺るがす存在を決して許さない人間だったのだ。
美里はこれで愁貴からいらぬ敵意を向けられなくなったことをむしろ喜んだ。
だが、それ以降、美里が後宮に呼ばれることもなくなっていた。そして、王の丹櫂もまた、一度も美里のもとを訪れることはなかった。
美里は罪を犯したわけでもないのに、初めから王から冷遇され、先の王妃が幽閉された屋敷に、美里もまた幽閉されたかのように過ごした。
後宮の一番はずれにあって、誰も訪れる者のいない屋敷は、手を入れられず廃れるに任せて、目も当たられないほど荒れ果てていた。
美里は王妃という立場にありながら、まるで召使のように働いた。そんな美里を見て侍女の由良は「王妃様にそんなことをさせるわけにはいきません」と止めたが、美里がやらなければ、由良一人ではとても回らなかった。
それにすべての物資が乏しかった。王宮から届く食料や衣服、油や炭といった生活必需品も最低限、死なない程度のものしか配給されなかった。
そんな中でも侍女の由良は先の王妃の時の経験から、屋敷の庭に野菜を植え、食料の足りない分をそれで補った。またいろんな種類のハーブを植え、それで香り袋を作り、それを、様々なものと交換してきてくれた。
美里はこの二歳上の由良を信頼し、姉のように慕った。二人はまるで姉妹のように仲が良く、お互いがいればさみしさを感じなかった。
庭には四季折々の花が咲き、暇な時間は、書物を読み、趣味の絵を描いた。王宮の中にあってまるで別世界のこの場所が美里は嫌でなくなっていた。
王の寵愛をめぐって、側室たちが争うのを見るよりもずっと有意義な日々を送っていた。
甲斐の国にきて半年たったころには、それなりに美里もここでの生活に慣れてきていた。
そんなころ、美里は珍しく王宮からの使いを迎えていた。
「明日、羅の国からの客人が来るので出迎えるように」
次の日、美里は婚姻の日以来、二度目となる王宮に足を踏み入れた。そして、言われるがままに、華やかな衣装に身を包んだ美里の横に大柄な男が立った。美里はそれが誰であるかがすぐに分かったが、まともにその顔を見ることができなかった。王もまた、美里のほうを一瞥すらしなかった。
まさに、半年ぶりの王との再会だったが、誰が見ても二人の間には王と王妃とは思えない冷たい空気が流れていた。その様子を羅からの客人が心配そうに見ていた。それでも、王はそんな羅からの客人をねぎらった。
「今日はわざわざ我が国を訪ねて頂き、感謝しています。王妃とは積もる話もあるでしょうから、ゆっくりしていってください」
そういって王が姿を消すと。羅からの客人はすぐに美里のそばに寄ってきた。
「あなたが兄の忘れ形見の美里ね」
そう言って美里の手を取る女性は、自らを珀の国の先の王、子義の妹で美里の叔母の子葉だと名乗った。今は羅の国の王妃になり、久しぶりに実家に戻ったついでに、美里を訪ねてきたのだった。
「あなたのことは兄から聞いていたのよ。兄が緊急に戦地に向かう中で、気がかりなあなたたちのことを私が託されたのよ。だけど、迎えに行った時はすでに遅く、一家は皆、惨殺されたあとだった。だけど、あなたのお母さんの佐那さんの姿だけがなかった。その後もずいぶん探したけど、見つけることができなかったのよ。それなのに、今回、甲斐の国の丹櫂の輿入れにあなたが選ばれたと聞いて驚いたわ」
「・・・」
「生きていてくれて、本当に良かった」
そう言って叔母の子葉は美里のために涙を流してくれた。美里は王宮に入ってから初めて肉親の温かな気持ちに触れて、胸が熱くなった。子葉は、また、今の美里が置かれている立場を理解しているかのように聞いてきた。
「あなた、つらい目に合っていない?」
戸惑う美里に、子葉はさらに衝撃的な言葉を吐いた。
「大切にされているわけがないわね。丹櫂が珀の国からの王女を王妃として迎えたのには初めから魂胆があったのだから」
「えっ!魂胆ですか?」
「ええ、珀の国の人は忘れているだろうけど、丹櫂は子供のころ、人質として、珀の国にいたことがあるのよ。その頃の屈辱的な扱いをプライドの高い丹櫂は決して、忘れてはいないと思うわ」
「どんなことがあったのですか?」
「当時、人質だった幼い丹櫂に王女たちが自分たちの憂さ晴らしに、どこまでも陰湿な嫌がらせをしていたのよ。見ているだけだった私も、その執拗さに気の毒になるほどだったわ。それを丹櫂はひたすら耐えていた。だけど、その表情にはいつも憤りに満ちていたのよ。丹櫂が自国に戻るとき、今までいじめていた王女たちはそんなことを忘れたかのように涙を流して別れを惜しんでいたけど、丹櫂の目はどこまでも冷ややかだった」
「そんなことがあったのですね」
「それだけではなく、その後、珀の国と戦う中で、自分の父親が、拷問にかけられ、瀕死の状態で返されたことをずっと恨みに思ってきていたのよ。絶対に珀の国を許さない、必ず、それなりの報いを受けさせると言っていたと伝え聞いたわ」
「そうだったのですね・・・」
「その後、丹櫂が王座についてからは甲斐の国は見違えるように力をつけ、次々と領土を拡張していった。そして、今や弱小国となった珀の国と、甲斐の国は立場が完全に逆転した。そんな弱い国から王女を王妃に迎えるのには、父親と自分が受けた報いを王妃に受けさせようとしているとしか思えないのよ」
美里は、ここにきてようやく、自分が受けている仕打ちはすべて、丹櫂の報復だったことが分かった。だが、今は大国になった一国の王がこんな小娘に嫌がらせをする程度なのかと、その魂胆が笑えた。
美里はこの程度ならどのくらいでも耐えられると思った。叔母の子葉は別れ際まで、美里の今後を心配してくれた。
「生まれた時から多くの苦労をしてきたというのに、ここにきてまた、つらい目にあっているあなたに、どんな慰めの言葉も意味をなさないわね」
「いえ、そんなことは・・・」
「女の身で、あなたの力になれないけど・・・」
そういいながら、自分が身に着けていた指輪や腕輪や髪飾りなどの装飾品をすべて、美里に渡してきた。
「こんな物でも何かの役に立つかも知れないので、取っておいて」
美里は叔母のその気持ちがありがたかった。母親以外の身内で初めて心配してくれる存在を知って、その夜は美里は満たされた思いで深い眠りに就いた。
美里は自分への一連の扱いは丹櫂の幼いころ受けた仕打ちに対する報復だったと聞いて、改めて、先の王妃はどういった経緯で幽閉されるようになったかが気になった。美里はさりげなく由良に聞いていた。
「先の王妃様はどんな人だったの?」
「とてもお優しい方でした。私は十歳からこの王宮に来たのですが、初めから王妃様付きの侍女に配属されたのです」
「そうだったのね」
「そのころはまだ王様と婚姻されたばかりで、お二人ともとてもお似合いで、幸せそうに見えました。なんでも二人は幼馴染で、王様が人質時代も王妃様がずっと支えていたと聞いていました。いつも仲睦まじい二人でしたが、なかなかお子に恵まれなかったのです。王妃様もそれでいつも肩身の狭い思いをしていましたから、新たに側室を迎えることになっても反対もできなかったのです。そうして迎えた三人の側室の中に、愁貴さまがいたのです」
「愁貴さまがいたのね」
「ええ、若く美しい愁貴様に、王様はすぐに夢中になりました。そうして、愁貴様がすぐに身ごもり、後継ぎとなる男児を生んだのです。すると、王様は一層、わが子を産んだ愁貴さまを大事にされるようになったのです。新たな側室を迎えても、王様の愁貴様への寵愛は変わることがありませんでした。そんなお二人の姿を見て、王妃様は気がふさがれたように過ごすことが増えていきました
「そうでしょうね」
「それなのに、それに追い打ちをかけるような出来事があったのです」
「何があったのですか?」
「王妃様が王子様の端午の節句のお祝いに用意した着物に、毒が仕込まれていたと、愁貴さまから訴えがあったのです。全く身に覚えのない王妃様は強く冤罪を訴えましたが、誰も信じてくれなかったのです。誰よりも信じてほしい王様は愁貴さまの「王妃様が嫉妬心から、愁貴さま様親子を害しようとしている」という讒言にすっかり騙されていたのです」
「悔しかったでしょうね」
「そんなことが何度かあったうえに、決定的だったのは王子様が池に落ちたことです」
「そんなことがあったのですか?」
「ええ、たまたま庭を散策していた王妃様と私の目の前に王子様がお付きもなしで一人で歩いたのです。その先には池があるのを知って、王妃様が助けようと手を出す間もなく、王子さまは池に落ちたのです。あたりは騒然となりました。幸い王子さまはすぐに助けられましたが、誰が言い出したのか、王妃様が王子様を池に突き落としたという話が一気に広がっていきました」
「なんということなの!」
「今度も王様は王妃様の言葉には耳を貸すことはなかったのです。そして、謹慎処分として、当分の間、この離れの屋敷で幽閉することを言い渡されました。それでなくても失意の王妃様は、もう、立ち上がれないほどに心が疲弊していました」
「かわいそうに・・・」
「誰も訪れてこないこの屋敷に、私と王妃様は息をひそめるようにして過ごしましたが、生きる力を失ったような王妃様はそれから半年して、眠るように息を引き取りました」
「無念だったでしょうね」
「ええ、その無念な気持ちは今も私の心の中に残っています。ですから、愁貴さまの顔を見るだけで心がざわつきますし、今もそれは変わりません」
「そうでしょうね」
「だけど、私の思いとは全く関係なく、多くの側室を抱えたいまも愁貴さまは王様からの寵愛を受け、王妃ではないものの後宮一の実権を握っていますからね。先の王妃様のことを考えたら、なんとも気が晴れません」
「それでもいつかは、それなりの報いをきっと受けることになると思うわ」
「そうですね。きっと、そうなりますよね」
二人はそう言って慰め合ったが、相変わらず後宮での愁貴の権勢は揺らぐことはなかった。
甲斐の国に来て、初めて迎えた冬の寒さは、厳しく、耐え難いものだった。
加えて、支給される炭は少なく、十分な防寒具もなかった。そんな美里たちの生活を気遣ってくれる人は誰もいなかった。
美里は仕方なく珀の国を出るとき持たされた装飾品を売って、炭や防寒具を買った。それでも足りず、叔母がくれた装飾品も売った。それでも耐え難い寒さの中、美里と由良は抱き合って眠りについた。
長く厳しい冬が終わり、春が来て、ようやく息がつけた。
そんなとき、遠征に出ていた丹櫂が新しい後宮の住人を連れて帰ってきた。ハルマン国を征服した丹櫂はそこの国王の娘を自分のものにしていたのだ。
その娘の顔を一目見たものは誰もがその美しさに圧倒された。そして、誰もがそんな娘を手に入れた丹櫂の力を羨んだ。
アンジュという名のその娘が後宮に迎え入れられると、すぐに、後宮の勢力図が変わった。
今まで圧倒的にその栄華を誇っていた愁貴はすっかり影を潜めていた。丹櫂が毎夜、アンジュのもとを訪れ、片時もアンジュをそばから離さなかったのだ。王子を生んだ愁貴のことを粗末にはしなかったものの、それでも誰の目にも愁貴が王の寵愛を失ったことは明らかだった。愁貴のお得意の策略もことごとく裏目に出て、一層、愁貴を哀れに見せていた。
美里はそんな後宮の様子を由良から聞き、まさしく、由良と話した通りになったことを知ったが、ただ、それだけだった。自分とはまったくかかわりのない人たちのことに今更、興味がわいてくることはなかった。
そんな美里が最近、いつも考えていることがあった。
「何とかして、王宮から逃げ出したい」
甲斐の国にきて一年以上経ったが、今ではそのことばかり考えている自分がいた。 それなりに穏やかに過ごせるようになったというものの、ここには未来がなかった。判で押したような単調な毎日を過ごすだけで、ただ老いるだけのこの生活には将来に向けての展望が全く、描けなかった。
それに、王宮にいるのにもかかわらず、食べることに苦労をするしかない生活から抜け出たかった。一方で、自分が人質としてここにいる間は、珀と甲斐の国の友好が保たれていると思うと、簡単に逃げるわけにはいかず、悶々としていた。
そんな気が晴れない毎日を送る美里のもとに思いがけない訪問者がいた。それは唐突だった。
誰も訪れる者のない侘しい庭に、ある日突然、そこだけ光がさしているかのような美しい娘が立っていた。
アンジュは広い草原の自分の故郷をいつも懐かしんでいた。草原の風を感じながら、馬で駆け抜ける快感はここではもう、望むことはできなかった。
アンジュは甲斐の国にきてから、一度も幸せを感じたことはなかった。毎日を閉じ込められたかのような後宮での生活は、息をつくのさえ苦しかった。
それに、丹櫂から寵愛されるのはうれしくもなかった。それなのに、側室たちから一方的な敵意を向けられるのは本意ではなく、迷惑でしかなかったのだ。
アンジュは多くの侍女に囲まれながら、いつも孤独を感じていた。
その日もアンジュは息が詰まる思いを抱えていた。そして、ここではない誰もいないどこかで、思いっきり息を吸いたかった。
アンジュは、誰も気が付かないときに、そっと屋敷を抜け出していた。
あてどもなく歩き回り、いつの間にか、ある屋敷前にたどり着いた。そこは無人なのか、手が入れられずに荒れ果てた屋敷は門までも、しっかり閉まらず、わずかに開いていた。
アンジュはなんとなく、招き入れられるような気がして、門の隙間からするりと中に入った。すると、外からは想像できなかった世界が広がっていた。手入れの行き届いた庭には花が咲き誇り、いろんな種類の野菜が植えられていた。
そんな畑の中で、一人の女性が野菜の手入れをしていた。すると、屋敷の中から声が聞こえた。
「王妃様、私が行くまで、何もせず、待っていてくださいね」
すると、王妃と呼ばれた女性は手を休めることなく言った。
「由良さん、いつも王妃と呼ばないでって、言っているでしょう?私はそんなたいそうなものになんて、なりたくはないのよ。だから、お願いだから、美里って呼んでね」
「はいはい、わかりました。だけど、私はいつもの癖で、つい、そう呼んでしまうんですよ」
アンジュはここでは、自分のいる後宮とは比べられないほど、豊かで和やかな空気が流れているのを感じていた。そして、庭で手入れをしているのが一度も会ったことがない王妃であることを知った。
婚姻したものの王に冷遇されている王妃のことはアンジュも知っていた。後宮の中でも誰もその存在を認めていない王妃のことをアンジュは気の毒に思い、同情していた。だが、目の前で繰り広げられている世界はまさにアンジュがこう生きたいと思うようなものだったのだ。
アンジュは立ちすくんだまま、感慨にふけっていると、後ろから声をかけられた。
「どなたですか?」
アンジュが振り向くと、侍女が驚いた様子で言った。
「アンジュさまが、いったいなぜここに?」
その声に、野菜の手入れをしていた女性がこちらを向いた。
美しい娘だった。まだ、硬さはあるがいずれは美しく開花することが予想できる凛としたものを持っていた。
アンジュは王妃が冷遇されていると聞いていただけに、こんな美しい娘を全く、想像していなかった。それだけに、この侘しい屋敷に不釣り合いな娘の存在に、なんとなくうれしくなった。
この二つ年下の王妃とはなぜか仲良くなれそうな気がして、自然と笑みがこぼれた。
美里は突然、天から舞い降りたかのような美しい女性の出現に驚いていた。この人がうわさに聞くアンジュその人なのだと聞くまでもなく、その美しさに圧倒された。その人が目の前でほほ笑んでいるのを見ているだけで、美里の中で、まるで旧知の友に会ったかのような温かいものが広がった。
その日から二人は最も心許せる友になった。そして、アンジュは侍女たちの目をかいくぐって度々、この誰も訪れる者もないさびれた屋敷にやってきた。荒れた屋敷も二人の美しい娘たちがいるだけであたりが華やいだ。侍女の由良はそんな二人を見て、嬉しそうに言った。
「本当にお二人はお美しい。アンジュ様が華やかなバラだとしたら、王妃様は山百合のように凛とした美しさがありますよね。そんなお二人の姿をそばで見られる私は幸せ者です」
アンジュはこの国にきて、心から理解しあえる存在を得て、次第に元気を取り戻していた。美里もまた、由良と二人だけの世界にアンジュが加わって、毎日が新鮮だった。おかげでここから逃げたいという思いも影を潜めていた。
お互い、ここでの生活になじめず、できればここから逃れたいという思いを持っていることを知って、一層、絆が深まった。
そんなアンジュの変化にいち早く気が付いたものがいた。丹櫂だった。
丹櫂は美しいアンジュに初めから夢中になっていたが、アンジュがほかの側室のように、決して媚びてこないのに物足りなさを感じていた。初めこそ、そこが魅力的に見えていたのに、次第に、自分に対して無関心な様子にいら立つようになっていた。
故意にアンジュに嫉妬させるような振る舞いを見せても、アンジュがそれに乗ってくることはなかった。そうなればなるほど、アンジュに夢中になったが、丹櫂はアンジュの心を得ている自信がなくなっていた。それに、そんなアンジュの顔色が悪くなっていくことが心配になっていた。
だが、まるで生きていく力を失ったかのようだったアンジュが、ある頃から、生き生きしてきたのを感じていた。丹櫂はその理由が知りたかった。そして、アンジュ付きの侍女に聞かずにはおれなかった。
「最近、アンジュに何か変化はなかったか?」
「最近、お顔が明るくなってきたように思います。それに、じっと部屋から出なかったアンジュ様が、最近では一人でよく出かけられています」
「どこに出かけているか知っているか?」
「いえ、お供をすることを嫌がるので、それはわかりませんが、時にはお花を摘んで帰ってくることもありますので、散策だと思います」
「誰かに会ったりしていないか?」
「どうなんでしょう?何なら、今度、アンジュ様の後をつけてみましょうか?」
「いや、それには及ばない」
そうは言ったものの、丹櫂はアンジュがどこに出かけているのか知りたくてたまらなかった。
そんなある日、丹櫂はアンジュのもとに向かう途中で、アンジュがどこかに出かけていく姿を見かけた。丹櫂はそのままアンジュの後をつけた。
アンジュはまっすぐにある屋敷まで行くと、迷いもなくその屋敷内に入っていった。
丹櫂はそこが形式上の王妃が住む冷宮であることに驚いた。自分が一度も訪れたことのないこの屋敷は、すっかりさびれ、冷遇された王妃の処遇にふさわしく荒れ果てていた。
中に入るのを躊躇する丹櫂の耳に、アンジュの楽しそうな声が聞こえてきた。
「この花、なんという花なの?とてもいいにおいがするのね」
「ええ、ハーブの一種なのよ。それを香り袋にして、アンジュ様に贈りますね」
「ありがとう、楽しみだわ」
自分といるときには決して聞いたことのないようなアンジュの幾分はしゃいだ声を聞きながら、どんな女と一緒にいるのか見ずにはおれなかった。
隙間から女を見て驚いた。そこには質素な装いながら、華やかなアンジュと比べても、決して引けを取らない女がいた。整った横顔には意思が感じられ、毅然とした姿は凛として、どこまでも美しかった。
そんな女に侍女が声をかけた。
「王妃様、ハーブ茶をお持ちしました」
「またまた、王妃と呼びましたね。今日はこれで五回目ですから、罰として由良さんの得意な歌を披露してもらいましょうか?」
「許してくださいよ。私が音痴なのは美里様も知っているでしょ?」
「さあ、どうしましょうか?アンジュ様はどう思います?」
三人の会話はどこまでも楽しげだった。丹櫂は、アンジュが元気を取り戻したのはここにきてこんな楽しい時間を過ごしていたからだと思い知った。だが、同時に、丹櫂は衝撃を受けていた。自分が報復のために無視し続けた王妃はこんな美しい娘だったのか・・・。
丹櫂は自分が報復のために珀の国から迎えた王妃の顔を初めて見て、その美しさに驚いた。徹底的に王妃を無視し、王妃という立場にありながら見捨てられるみじめさや、悲しみを味合わせることが目的だったが、今、目の前にいる美里を見て、心が揺れていた。美里は誰よりも美しく、何より、楽しそうだった。
丹櫂は美里の姿を見てから、この美しい娘を今までその顔を見ることなく、自分の報復のために苦しめてきたこと後悔していた。そして、改めて、今後、美里の処遇をいかにすべきか思案していた。
丹櫂はまもなく実行されるある計画を前に、考え込んだ。
美里はそんな自分の姿を丹櫂に見られているなどとは、全く思ってもいなかった。
美里は二度目になる冬を迎えていた。今年はもう、売るべきものは何もなかった。だが、そんな状況を知ったアンジュが様々な形で助けてくれていた。
炭や油や食料までも、自分のところのものを回してくれた。それに、美里が描く絵を気に入ってくれ、それを高額な値段で買いとってくれた。
「私が描いたこんな絵を高い値をつけて買ってくれるなんて、ほんとに申し訳ないです」
「何を言っているのですか?私はあなたが描く絵がとても好きなのよ。それに、あなたには才能があるわ。絵師になったら、必ず一流の絵師になると思うの」
「そんなことは、ここでは全くの夢ですね」
美里はあのまま故郷にいたら、幼馴染の汎陸とともに競い合うように、絵の腕を磨いたかもしれなかったのにと思うと、そうはならなかった自分の運命を恨んだ。
厳しい冬もアンジュのおかげで乗り越え、再び、春を迎えていた。
そんなアンジュは以前よりも頻繁に美里のところに訪れるようになっていた。
「最近、以前よりもここを訪れることが増えましたね」
「ええ、今、王は戦に出ていて、しばらく留守にしているのよ。だから誰にも気兼ねせず、ここに来ることができるのよ」
「どこと、戦をしているのですか?」
「さあ、どこなのでしょう?私は王のすることに全く関心がないから、そんなことを聞いたこともないのよ」
「そうだったのですね」
「それより、今日はお願いがあってきたのよ」
「なんでしょう?私にできることは何でも」
「ええ、あなたにしかできないことなの」
「私しかできないこととは?」
「ええ、絵を描くことです。私の絵を描いてください」
「アンジュ様の絵を?」
「ええ、遠く離れた両親に、元気な私の姿を絵に描いて送ることで安心してもらいたいと考えたのよ」
「そうなんですね」
「それに、王がいない今だからこそ、気兼ねなくここに来れるでしょう?」
「わかりました。私でよければ、描かせてください」
そうして描き上がった絵をアンジュは、とても気に入ってくれた。
「ありがとう、とてもよく描けているわ。あなたにお願いしてよかった。なんだか送るのがもったいないくらい。このまま手元に置きたいと思ってしまうわ」
「そのように言っていただいて、私のほうが恐縮します。それに、こんな高額な報酬をもらっていいのか・・・」
「これは当然なものです。本当はもっと払ってもいいくらいだと思っていますから」
そう言って、アンジュはその絵を大事そうに筒に入れて帰って行ったが、美里は、再び描く喜びを感じていた。そして、本格的に描くことに取り組もうと考えていた。
そんな時、由良がある情報を仕入れて帰ってきた。
「美里様、王様が戦に勝って、間もなく凱旋されるそうですよ」
それを聞きながら、これからはアンジュとの楽しい逢瀬も、制限されることになると思ったが、アンジュも知らなかった相手国が気になった。
「王はどこの国と戦っていたの?」
「なんでも、友好国だった珀の国と戦っていたらしいのです。突然、友好国の約束を破棄され、一方的に攻め入られた珀の国は全く、抗戦することなく住民諸共、全滅したと聞きました」
美里は由良の言葉を最後まで聞いてはいなかった。
(珀の国を攻めた?美里が屈辱的な扱いを受けながらも、珀の国のために耐えてきたというのに、それを丹櫂は一方的に破棄したうえに、何の罪もない住民を巻き込んで全滅させた?)
美里は憤りで立っていられなくなっていた。そんな美里の様子に気づいた由良は、美里が珀の国から嫁いできたことにようやく気づき、自分が失態を犯したことを恥じ入っていた。
「申し訳ありません。美里様のお国が珀の国だったこと、まったく失念してしまっていました。ほんとに申し訳ありません」
由良は額を床に打ち付けながら、何度も謝った。その姿は美里のほうが気の毒に思うほどだった。
「そんなに謝らないでください。何も由良さんが悪いわけではありませんから。ただ、少し考えたいことがあるので、しばらく一人にしてください」
そう言われて、由良は美里のことを案じながら、部屋から出て行った。
しばらくたって、部屋から出てきた美里は先ほどとは打って変わったような迷いのない、すっきりした表情になっていた。
「由良さん、私、今夜ここを出ます」
「えっ、どういうことですか?」
「私がこの国に来たのは両国の安寧のためでした。王妃でありながら不本意な立場に追いやられても珀の国のためだと思い、私は耐えてきました。でも、丹櫂はそれを一方的に破棄し、珀の国を攻め落としました。もう、私がここにいる理由はなくなりました」
「そんなこと・・・」
「今までも、ないがしろにしてきた私は、丹櫂にとって、もう、利用価値のない不要なものになったのです。あの丹櫂なら、必ず私をそのままにはしておかないでしょう」
「そんな・・・」
「丹櫂は必ず、私を亡き者にするはずです。だけど、私はこのままここで命を終えたくはないのです。ですから、丹櫂が戻ってくる前に、ここを出るつもりです」
「どうやって?」
「この屋敷に火を放ち、闇夜に紛れて逃げるつもりです」
「私もお供します」
「いや、由良さんには関係ないことですから、今から、私の用事ということで、外に出ていてください」
「いえ、この屋敷以外のことは何も知らない美里様が一人で逃げるにはあまりにも不案内だと思います。それに、私は美里様がいなくなった後宮には、もういたくないのです。ですから、私もいっしょに行かせてください」
「それでは由良さん、私と一緒にここから抜け出しましょう」
覚悟の決まった美里の顔は一段と美しく輝いていた。
美里は怪しまれないように由良と同じ侍女の装いをし、手元にあるわずかばかりの金銭を手にし、屋敷に火を放った。おりしも強風が吹き荒れ、それでなくても老朽化した屋敷は一気に燃え上がった。
「さあ、先を急ぎましょう」それを由良が引き留めた。
「待ってください、先の王妃様から形見分けにもらったヒスイの指輪を持ってくるのを忘れました」
「いまさら、取りに戻るのは危険です」
「いえ、あれがあれば、これから先の逃亡生活の足しになると思うので、すぐ、とってきます」
そういって止める美里を振り切って再び、部屋に戻った由良はすぐに手にその指輪を持って出てきた。だが、あまりにも火のまわりが早く、由良は完全に火に包まれていた。そして、その由良を狙うかのように、天井板が崩れ落ち、由良はその下敷きになってしまった。美里が助け出そうとするのを由良が止めた。
「美里様、私はもうだめです。だから美里様だけでも逃げてください」
「そんなこと、できません」
「いえ、そうしてください。どうせ、先の王妃様が亡くなった後、私も死ぬ覚悟でしたから、これで、ようやく王妃様のもとに行けます」
「由良さん」
美里のその声は、燃え上がる炎の轟音にかき消された。美里は仕方なく、由良を置いて炎に包まれた屋敷を後にした。
屋敷の外に出ると、すでに火事に気が付いた人たちが、消火に駆けつけて来たが、美里はそれに逆行するかのようにひたすら走り続けた。だが、由良が心配したように美里は後宮をあまりにも知らな過ぎた。どこに行けば外に出られるのか全く分からなかった。
暗中模索で出口を探し求める美里だったが、強風にあおられた炎がほかの屋敷にも燃え移り、逃げ惑う者や消火に当たる者など、辺りは騒然としていたから、誰も美里に気づく者はいなかった。
だが、早く逃げなくてはと焦るからこそ、一層冷静さを失い、方向が分からなくなっていた美里に声をかける存在があった。
「ついに見つかってしまった」と観念して後ろを振り向いて驚いた。そこにアンジュが立っていた。
「よかった、無事だったのね」
「アンジュ様が一体、どうしてここに?」
「あなたの屋敷が火事だと聞いて、ずっと探し回っていたのよ。無事でほんとによかった」
そう言って美里を抱きしめてくるアンジュに、美里は本当のことを言うしかなかった。
「アンジュ様、実はあの火事は私が火をつけたものなのです。ここから逃げるのには、こんな方法しか考えつかなくって・・・」
「そうだったのね」
「だけど、逃げようにも、どこが出口なのか全くわからなくて、ただうろつくばかりだったのです」
そんな落胆した様子の美里を見ながら、アンジュが言った。
「わかっていたわ。あなたがいつかはそうすることを。私と全く同じ気持ちだから」
「そうだったのですね」
美里はアンジュの言葉を聞いて漸く安心できた。そして、そんなアンジュは
「黙って、私についてきて」と、言いながら、ずんずんと美里の前を歩き出した。
「いったい、どこに?」
「実は、私もいつの日にか、ここを出るときのために秘密の通路を見つけていたのよ。本当はあなたと一緒に出たかったけど、今回はあなたを先に見送るわ」
「ありがとうございます」
出口につくと、アンジュは名残惜しそうに美里の手を取って言った。
「元気でいてね。そして、いつの日にか必ず自由の身となって、再び会いましょう」
美里はアンジュに見送られながら、何とか王宮から外に出ることができていた。
そして、追手の手が届かないところまで来て、ようやく一息つき、王宮を振り返った。王宮は勢いを増した炎に包まれながら、闇夜の中でもそこだけ明るく、いつまでも燃え続けていた。
美里はその王宮を見て、自分が二年間、ここで幽閉された生活があったことを感慨深く思っていた。つらいことが多かったけど、それでも由良のおかげで幸せな時間もあったことを思い、改めて、そんな由良に感謝し、由良の冥福を祈っていた。
そして、きっと美里のことを心配しているであろうアンジュに「アンジュ様、あなたのおかげで無事脱出できました。ありがとうございます」と感謝をささげていた。
だが、美里にはゆっくりする時間はなかった。美里は丹櫂の凱旋の一行を避けながら、来るときは多くの従者につき従えられていたのに、帰りは一人で夜道を歩く自分を顧みていた。だが、今は自由の身となり、ただひたすら故郷に続く道を黙々と歩いた。
凱旋した丹櫂への第一報が冷宮が火事で焼失したということだった。そして、その焼け跡に、一体の焼死体があり、それが王妃の美里であるらしいと聞かされた。
お付きの侍女は火の手が上がった直後に、屋敷から逃げていくのを何人にも目撃されていた。それに焼死体はヒスイの指輪をしていた。それがゆえに王妃であると断定されたのだ。現に、王妃の姿はどこにもなく、王妃は火事に巻き込まれて死亡したと結論付けられた。
丹櫂は美里が死んだと聞かされても、すぐには納得できなかった。なぜか、そんなはずはないと打ち消す気持ちが強かった。
王妃として、自分のもとに嫁いできても、まったく縁を結ばなかった美里のことをいまさらながら懐かしく思っていた。たった一度だけ、その姿を見たが、あの美しく凛とした姿に、もう二度と会えないのだと思うと、なぜか、喪失感が襲ってきた。
丹櫂は身勝手にも一方的に珀の国を攻めはしたが、美里の命を奪う気はすでになく、珀の国とは関係なく、美里とは新たな関係を結びたいと考えていた。だが、それもすべて王妃の死とともに消えてしまった。
丹櫂はひそかに美里の死を悼んだが、丹櫂の複雑な胸の内を知る者は誰もいなかった。丹櫂はあんなに冷たかった王妃のために葬儀を執り行ったが、その盛大さに誰もが違和感を抱き、何かの策略かと疑う者もいた。
アンジュは自分が秘かに美里を逃したことなどは誰にも明かしていなかった。特に、丹櫂には絶対に気づかれないようにしていたが、それはうまくいっていた。
美里は珀の国に近づくにしたがって、着の身着のまま逃れてきたという、多くの被災した人たちに会った。
「今、珀の国はどうなっていますか?」
「何?あんたは珀の国に行こうとしているのかい?悪いことは言わない。このまま引き返すんだ」
「ですが、母が珀の国で待っていますので・・・」
「気の毒だが、きっと、あんたのお母さんも亡くなっていると思うよ。丹櫂は王宮だけでなく、住民までも殺戮しただけにとどまらず、街に火を放ったのだからな。それもみんなが寝静まっている時間を狙ったから、奇跡的に生き残った者はわずかで、それもみんな、逃げだしたよ」
美里は聞いていられなかったが、それでも、自分の目で確認しなくてはすまなかった。
「それでも、私は行きます」
「そうかい、だけど、気を付けるんだよ。街には金目の物を物色する盗賊たちがあふれているからな。それに、あんたのように若く美しい娘はまた、違った意味で狙われる可能性もあるわけだから、十分、注意をするんだよ」
「ありがとうございます」
美里はそう言いながら、はやる気持ちで先を急いだ。
珀の国に着くとそこは想像以上に惨劇のすごさを物語っていた。繫栄していた過っての珀の国はどこにもなかった。
多くの建物が焼け落ち、瓦礫となっていた。わずかに焼け残った屋敷も盗賊に襲われ、何一つ金目のものは残っていなかった。
美里は瓦礫をかき分けながら、我が家と思われる場所に来たが、そこに家はなく、ただ、焼け落ちた残骸だけが残っていた。
美里は母を探したが、母の姿はどこにもなかった。気落ちしながらも隣家の汎陸の家のほうを見た。汎陸の家も美里の家同様にがれきが積み上げられていた。だが、美里は隣家との境に二つの墓標を見つけた。
その一つの墓標には美里の母「佐那の墓」と記されており、その隣の墓標には汎陸の父「汎道雪の墓」と、記されていたのだ。
美里は母の墓標の前に額づき、ひたすら冥福を祈った。母はやはり、丹櫂によって命を落としていた。
甲斐の国に発つとき、「私たちの縁もここまでだと思いなさい」と、言われた母の言葉が、いまさら思い出されて、母とはもう、会うこともできないのだと思ったら、涙が止まらなかった。
美里は一縷の望みを絶たれて、改めて丹櫂の民間人まで巻き込んだその残虐性を憎んだ。そして、自分が甲斐の国で過ごした二年間がまったく意味をなさなかったことが悔しくて怒りを抑えられなかった。
ただ、美里は母の遺体を埋葬し、墓標を立ててくれたのは誰でもない汎陸であると確信していた。美里よりも先にここにきて、自分の父親だけでなく美里の母の遺体も埋葬し、墓標を立ててくれていたのだ。それに、がれきも確かに人の手によって片付けられた跡があった。
美里は汎陸の存在を知り、汎陸に会いたくて仕方がなかった。だが、生きてさえいれば必ず会えるという希望もわいていた。
美里は母と最後の別れをして、先の見通しも立たないまま歩き出した。
しばらく歩くと、がれきのそばで蹲ったまま立ち上がることもできない男と出くわした。美里はそんな男をそのままにしておけず、思わず声をかけた。
「大丈夫ですか?」
だが、その声も届いていないかのように、放心したかのようなその初老の男は何も反応を示さなかった。だが、折りしも雨が振り出し、美里は男の体を引きずるようにして、無人となった家の軒下まで連れてきた。
そのころになって、ようやく正気を取り戻した男は、自らのことを語りだした。
男の名は習慈英(しゅうじえい)と言った。このあたりでも有名な大店の旦那だったが、商談で遠方まで足を延ばし、家を空けていた間に家族が戦禍にあっていた。妻と年がいってようやく生まれた一人娘を亡くし、悲嘆に暮れていたのだ。
美里は同じ境遇のその男の気持ちが痛いように分かった。そして、男とともに、その男の妻と娘の遺体を埋葬し、見ず知らずの二人を弔った。
「それでは、ここでお別れとなりますね」
そういって別れを告げる美里に習慈英は言った。
「美里さんはこれから先、行く当てはあるのですか?」
「いえ、特にありませんが、とりあえず足の向くまま歩きながら、考えたいと思います」
「よかったら、私のところに来ませんか?」
「慈英さんのところに?」
「ええ、実は私は甲斐の国にも店を持っているのです。どうせ、ここでは店を続けられませんので、本格的に甲斐の国の店に力を注ぎたいと考えているのです。ですから、商売に興味があるのなら、手伝ってくれませんか?」
美里は甲斐の国ときいて、一瞬躊躇したが、遠くに逃げるよりも却って丹櫂の足元のほうが見つかりにくい気がした。
美里には断る理由がなかった。二つ返事でそれを引き受けた。
その日、甲斐の国のその店は新たに大型商社として生まれ変わり、開店と同時に多くの客を迎えていた。そして、その客を迎える習慈英の隣にその養女で、新たに名前を習美麗(しゅうびれい)と変えた美里の姿があった。
美里は美麗と名前を変えた時から、いかに商売をうまく回せるかに頭を使った。今まで全くかかわりのなかった世界だが、物の売り買いは、いろんな要素が含まれていて、楽しかった。それに母を亡くした悲しみを一時でも忘れることができた。
そんな美里を見て父となった慈英は喜んだ。
「美麗にそんな商才があるとは気づかなかったなあ。私にはうれしい誤算だよ」
「お父様の指導がいいからですよ」
二人はどこから見ても仲の良い親子だった。美里は毎日、店頭に立った。
だが、思いがけないことに、美里の美しさが注目されるようになっていた。
「あの習物産店には美しい娘がいる」
評判が評判を飛び、一目、美里を見ようと店を訪れる男たちであふれ、また、次々と縁談がもちこまれた。
商売の楽しさを感じ始めた美里には、男たちから騒がれるのは迷惑に他ならなかった。それに有名になることで、美里の正体がばれるようなことは絶対に避けたかった。
それからは美里は店舗に出ることを一切やめ、裏方に回ることを徹底した。そして、老齢になった父の慈英の代わりに、直接、商談にも出かけることも増えていた。
そんな店からはそびえたつ王宮が見えた。その王宮を眺めながら、過って自分もそこの住人であり、あの冷遇で息をひそめるように生活していたことを思い出した。だが、それが嘘のような今の自由を満喫していた。
美里が火をつけたあの屋敷は今は取り壊され、新たに屋敷が建っていた。
そして、明日は過っての親友だったアンジュが王妃になる日だった。美里は死んだとされていたから、新たな王妃にアンジュが選ばれるのは当然だったが、それを決して、アンジュが喜んではいないことが分かっているだけに、心中、複雑だった。
だが、あの丹櫂もまさか、火事で焼け死んだはずの美里が生きていて、こんなに近くにいるとは思ってもいないだろうと思うと愉快だった。美麗となった美里には丹櫂は憎むべき敵以外の何者でもなかった。
アンジュは明日が王妃としての戴冠式だと思うと落ち着かなかった。親友の美里がいなくなったというのに、自分がそのあとの王妃を継がなくてはならない皮肉な運命を受け入れがたかった。
自分もあのとき、美里とともに逃げていたらどうなっただろうと考えることはあったが、丹櫂の支配下にある故郷に残してきた父母のことを思うと、それができなかった。
「美里様、あなたは無事、逃げおおせましたか?今はどこにいるのですか?」
アンジュは月を眺めながら美里に語りかけていた。
その日、美里は新たに持ち込まれた絵に目が離せなかった。なぜかこの絵に懐かしさを覚えていた。雅号を見ると晩翠とあった。それはまさしく、子供のころに汎陸が考えた雅号だった。その汎陸の晩翠に対して美里が考えた雅号は翆玲だった。二人で絵を描いてはいっぱしの絵師を気取って雅号を入れたものだった。
その晩翠の雅号をここで見ようとは思ってもみなかった。
「この絵はどこで手に入れたのですか?」
だが、誰もそれに応えられる者はいなかった。
「なんでも放浪画家と言われる者が描いた絵がまわりまわって、ここに持ち込まれたらしいです」
「次にこの晩翠の絵が持ち込まれたときは、すぐに私に知らせえください」
そう、店の者に頼んだが、その機会は中々訪れなかった。
だが、それでも、美里はこうして、今も汎陸が絵を描き続けていることがうれしかった。そして、それが刺激となり、自分も絵を描きたいという衝動が抑えられなくなっていた。
美里はその日は、ある造り酒屋を訪れていた。ここの家に代々伝わる銅板鏡を見るためだったが、商談が終わった後、そこの当主が一幅の絵を持ってきた。
「昨夜、一晩泊めた男がお礼にと言って描いてくれたものですが、どうでしょう?金になりますか?」
それは見事な絵だった。山水画だったが、繊細な筆遣いでありながら力強さも感じられた。
「素晴らしい絵です。これだけ描ける絵師はなかなかお目にかかれませんよ。いいものを手に入れましたね」
「そうですか?いいものですか?」
当主は思いがけないお宝を手にして、満足げな表情を浮かべた。そんな当主の横顔を見ながら美里は雅号を確認した。そこには美里が探し求めていた晩翠の名があった。
「この人は今もここにいますか?」
「いや、今朝、早くに荷物をまとめて出ていきました」
「どこに行くとか聞いていませんか?」
「全く聞いていませんが、あの男がそれだけ有名な絵師だったのですか?」
「いや・・・」
と、言いながら、美里はもう一歩というところで、汎陸に会えなかったことに落胆した。
美里はその絵を破格の値段で購入した。実際、それ以上の値をつけても惜しくはなかった。
美里は持ち帰った絵をずっと眺めていた。これを汎陸が描いたと思うだけで懐かしく切なかった。また、汎陸が以前に増して力をつけてきているのが分かったが、今の自分は汎陸の足元にも及ばないと思うと、悔しくもあった。幼いころから力を競ってきたからこそ、その無事が確認できてからは、汎陸に負けたくないという気持ちが新たにわいてきていた。
美里も汎陸も、不得手な分野はなく、特に花鳥風月は二人とも得意だった。だが、美里は汎陸が見事な山水画を描いているのを見て、山水画において新たに境地を開いたのが分かった。
美里は以前、アンジュの姿を描いた時のことを思い出していた。アンジュから喜ばれたこともあったが、それ以上に、自分でも得心のいくものだったのだ。それがあったから美里はこれからは人物画、それも女性を対象に美人画を描こうと思い立っていた。
遅まきながら、美里は暇を見つけては絵を描くようになったが、美里が描いた絵は次第に若い女性の間で評判となり、次々と美里のもとを訪れ、「自分を是非とも描いてほしい」との依頼が後を絶たなくなっていた。それは本業に影響しかねない状態になり、美里は仕方なく、「今後は本業を優先するために絵の依頼はお断りします」の断りを出すまでになっていた。
丹櫂は遠く離れたアンジュの両親が次々と病で亡くなって以来、ずっと塞いだままでいるアンジュのことが気になっていた。アンジュは王妃に選ばれても全く喜ぶ様子を見せないばかりか、いつもうつろな目をし、食欲もまったくなかった。このままの状態が続けばいつ、倒れても不思議ではなかった。
丹櫂は何とかアンジュに元気を取り戻して欲しかった。そんな時、ある情報が寄せられた。
「最近、巷では若い娘たちが自分の肖像画を描くのが流行っているそうですよ」
「なに?肖像画?」
「ええ、その絵師の描く絵は本人以上に美しく、また内面までも描き出すといわれ、希望者が後を絶たないそうです」
「そんなに腕がいいのか?」
「なんでも王族の姫たちも順番を待っているのに、容易には描いてもらえないそうなのです」
「そんな絵師がいたのか?どんな男か?」
「いや、男ではなく女です」
「女が?」
「ええ、なんでも若く美しい娘だといわれています」
「女の絵師とは珍しい。そんな娘が描く絵を一度見たいものだ」
「では、早速、その絵をお持ちいたします」
そうして、王族の娘を描いた絵が持ち込まれた。予想にたがわぬその絵を見て、丹櫂は確信した。この絵師にアンジュの絵をかいてもらえば、アンジュもきっと元気を取り戻してくれるに違いないと。
丹櫂はすぐに依頼の使いを出した。だが、その返答は思いがけないことだった。
「今はどなたの依頼もお断りしています」
なんと、一介の絵師が王の頼みを平然と断って来たのだ。プライドの高い丹櫂は甚く傷ついた。王からの頼みを絵師ごときが断っていいわけがなかった。丹櫂はイラつき、怒りを抑えられなかった。丹櫂は何としてもその女の顔を見ないではすまなくなっていた。
美里は後で、王族の姫が絵の依頼に来ていたと聞いた時、なんとなく嫌な予感がしていた。
これでまた、王宮と縁ができ、あの丹櫂に繋がるようなことは何としても、避けたかった。それなのに、その嫌な予感は最悪な形で現実になった。
王宮から、絵の依頼が来たのだ。それも、あの忌まわしい記憶しかない丹櫂からだと聞かされた時は、思わずのけぞってしまった。
「王妃様の肖像画をお願いしたい」
そういわれても、その依頼を受けることは到底、できなかった。思わず、「今はどなたの依頼もお断りしています」と、言ったものの、このままでは済まないことは誰よりも、美里が一番、よく分かっていた。
先の王妃である美里は火事によって亡くなったと誰もが信じていても、やはり、心配だった。今や身分も名前も変え、新しい人生を生きているというのに、なおも不安を払拭できなかった。
王宮ではアンジュ以外に美里の顔を覚えている人間などいないに等しく、あの丹櫂でさえ、王妃だった美里の顔を一度もみてはいなかったのだから、たとえ、会ったとしても、それが先の王妃である美里だとは気づかれるはずはなかった。何度も、そう、自分に言い聞かせても、心は晴れなかった。
美里はその日から先の見えない不安の中で過ごすことになった。
そのころ、汎陸は東方の地域を歩いていた。国は違っても、人の暮らしは大きく変わるものではないことを実感していた。汎陸は初めて訪れるその国で自分が過ってないほどに歓迎されることに、居心地の悪さを感じていた。
汎陸が家を訪れると、まるで待っていたかのように家人が歓迎してくれた。そのうえ、一宿の恩に報いて絵を描くと、何枚もの絵を要求され、さらにとどまるよう、懇願された。それがその家だけのことではなかった。
この数か月はそんなことが続いていたから、汎陸は自分のあずかり知らないところで、自分の評価が変わる何かが起きていることを認めざるを得なかった。
汎陸は知らなかった。美里が汎陸の絵を高額で買い入れ、さらにその絵を探し求めていることはすぐに広まり、この遠く離れた東方の国にも届いていたのだ。
汎陸が、ある村を歩いていると、いきなり見知らぬ男から声をかけられた。
「あんた、もしかすると晩翠という有名な絵描きさんじゃないのかい?」
汎陸はそう尋ねられて、とっさに応えた。
「いえ、違います。あなたは晩翠と言う絵描きを探しているのですか?その晩翠という絵描きとはどういう関係なんですか?」
「いや、関係も何もまだ知り合ってもいないのだが、これから知り合いになりたい男なんだ」
「それはまた、どうしてですか?」
「いや、その絵描きが描く絵は高額で取引されるんだ。それで、誰もがその絵描きを早く見つけ、絵をかいてもらおうと、必死なんだ」
「そうなんですね」
「隣町に昨日、現れたと聞いたから、今日あたりはここを通るだろうと、待ち構えているんだがね。既に日も暮れようとしているから、もしかしたら見逃したのかもしれないな」
「ご苦労されますね」
「いや、その絵描きはまさしく動く宝といえるからな。その絵描きさえ手に入れれば、一生、楽をして暮らせるんだ。俺に娘がいたなら、絶対に一緒にさせるんだが、残念なことに、俺には甲斐性なしの息子しかいないんだよ」
汎陸はこの男の話を聞いて、自分の知らないところで自分の絵が高額で取引されていることを知ったが、なぜ、そんなことになったか全く見当もつかなかった。ただ、居心地の悪さも感じていた。それに、娘と一緒にさせたいというその言葉には思い至ることがあった。
それはある豪農の家でのことだった。一晩のつもりでその家の世話になったのに、その手厚い歓迎ぶりに、なかなか別れを言い出しにくく、つい、今までになく長居してしまっていた。
当然、そこで描く絵も増えていた。だが、それ以上にその家の娘がまるで、汎陸の嫁かと思うほどかいがいしく世話を焼いてくるのが気になった。
そんな娘と父親が話している会話を偶然、聞いてしまった時は驚いた。
「お前、うまくやるんだよ」
「わかっているわ。あの人が高名な絵師である以前に、あんなにいい男なんですから誰にも渡したくないのよ。だから、絶対に今夜、ものにして見せる。からだの関係さえできれば、あとはどうにでもなるわ。だから、任せて、私には自信があるの」
汎陸はそれが自分のことだとすぐに分かった。汎陸はその親子の餌食になりたくなくて、そのままその家を抜け出し、必死に逃げたのだ。
あの時のあの親子にもこういった魂胆があったのかとようやく納得したが、そこまでして自分の欲を満たそうとする人の強欲さが嫌になった。
汎陸は旅をして好きな絵を描きたいという純粋な気持ちが汚されたように気がして悲しくなった。もう、何も考えずに旅に出たあの頃には戻れなかった。
そして、同時に昔のことが懐かしく思い出され、美里と共に過ごした日々が無性に恋しくなった。それに、父と美里の母親の墓石がその後、どうなっているのかも気になった。汎陸は故郷へと自然と足が向いていた。
汎陸はやはり故郷へと急いでいた一年前のあの日のことを思い出していた。
南方を回る旅の途中で、甲斐の国が一方的に条約を破り、珀の国に攻め入ったという情報を耳にし、残してきた父のことや美里の母親のことが気になり出したら矢も楯もたまらず、わが家へと急いだ。
だが、時はすでに遅く、懐かしい我が家は焼け落ち、見るも無残な姿になっていた。そして、がれきの下で焼死体となった父親の姿を見つけたときは、思わず咆哮してしまっていた。そして、同じように焼け落ちた隣家のがれきの下から、美里の母親の遺体を見つけたのだ。そして、父親の隣に埋葬した。
二人の遺体を埋葬しながら、汎陸は美里と初めて会った日のことを思い出していた。
それは雨の日だった。母親に頼まれたお使いの帰りに一人の女の子に声をかけられた。
「助けてください」
「お母さんを助けてください」
そうして引っ張られるように連れていかれた小屋の中で、憔悴した女性を見つけた。息も絶え絶えの女性を前に、汎陸は自分の手に負えないことを判断し、すぐに両親に知らせた。
困っている人を見たら、そのままにしていられない汎陸の母親は二人を家に連れてきて献身的に看病をした。そして、元気を取り戻したその親子が行く当てがないことを知ると、自宅の離れに住むことを提案していた。
「いいんですか?私たちのような素性のわからないものを・・・」
そう、遠慮がちに言ってくるのをさえぎるように汎陸の母親は言った。
「大丈夫。もともと、人に貸すつもりだったけど、誰も借り手がなく、廃れる一方だったから、誰かが住んでくれるのは、こちらも助かるんです。だから、誰にも気兼ねせず、居たいだけ居てくれていいんです」
そして、その日から、二人は汎陸の家の離れに住むようになった。汎陸が七歳、美里が五歳の時ことだった。
「あの親子に家まで用意して大丈夫か?何者かに追われているらしいが、犯罪がらみではないだろうな」
そう言っていた汎陸の父親も次第に何も言わなくなっていた。そして、そのころには絵師の父親は美里が汎陸とともに絵を学ぶことを許していた。
二人の母親は薬草とりで生計を立て、まるで姉妹のように仲が良かった。そして、汎陸と美里もいつも一緒にいた。
二つの家族の平和な生活はその後もずっと続いていた。だが、三年前の冬、あんなに元気のよかった汎陸の母親がはやり病で突然なくなってしまった。
すっかり気落ちし、生きる力をなくした父親の代わりに、美里の母親が、一家の生活の面倒を何くれとなく見ていたのだ。
そんな父親がようやく、元気を取り戻した矢先に、王宮から、美里を迎える籠が来たのだ。
「おい、汎陸、おまえの家あたりに人だかりができていたが、何かあったかもしれない。直ぐ家に帰ったほうがいいぞ」
「人だかりが?」
「なんでも王宮からの使いだとかで、誰かを迎えに来たとも言っていたな」
汎陸はそれだけですべてが分かった。自分が恐れていたことが現実のこととなったことを知って、はやる気持ちで家へと走った。
汎陸は本人も知らない美里の素性を知っていた。
汎陸は成長するにしたがって、美里に特別な感情を抱くようになっていた。だが、そんな息子の気持ちを察した母親が汎陸に言った。
「陸、美里さんのことを好きになったら、お前が苦しむことになる。悪いことは言わない、美里さんはあきらめたほうがいい」
汎陸はそんなことを母親から言われて、納得できなかった。
「なんでだよ。母さんも美里のことは気に入っているじゃないか」
「そうだよ。いい子だから母さんも好きだよ。だけど、お前は美里さんとは一緒になれないんだ」
「だから、なぜ、なれないんだよ」
そう、汎陸に詰め寄られて、ついに母親が白状したことは容易に信じがたいことだった。
「このことは美里さんも知らないことだが、実はあの子は先の王の忘れ形見なんだ」
「そんな、嘘だろ?」
「いや、ほんとのことだよ。だからあの親子はずっと命を狙われ続けていたが、先の王が亡くなって、ようやく安穏な生活が送れるようになったんだよ」
そういわれて、美里と初めて会った時も誰かに追われていた様子だったことを思い出していた。
「だけど、今までは何もなかったじゃないか?」
「確かに今までは何もなかった。それに母親の佐那さんも、王宮とは何のかかわりのないところで暮らしたいといい、美里さんにも何も伝えてはいないからね」
「だったら、今までと何も変わらないじゃないか」
「それでも、お前と美里さんでは身分が違いすぎる。きっとお前が傷つくことになるから、自分の気持ちを抑えるんだよ」
母親にそう言われても、汎陸は納得できていなかった。
そんな汎陸に母親がなおも言ってきた。
「いつか、王宮から美里さんを迎えに来ることがあるかもしれない」
汎陸はあたかも予言したかのようなあの時の母親の言葉が頭から離れなかった。
家に着くと、多くの人の注目を浴びながら、美里がまさに籠に乗りこもうとしていた時だった。思わず声が出てしまっていた。
「美里、行くな!」
だが、美里は一瞬振り返ったものの、そのままか籠の中に消えた。
汎陸はそんな美里を乗せた籠が見えなくなっても、なおも、そこから目を離すことができなかった。誰もいなくなっても、その場に取り残されたような汎陸は、そこから動けず、ずっと立ち尽くしていた。
美里がいなくなってから、汎陸は周囲のものが驚くほど変わってしまっていた。無口になり、笑わなくなっていた。好きな絵も描かず、一日中、放心したように過ごしていた。そんな汎陸を見て、父親が言った。
「私はそんなお前を見たくない。どうせ、ここにいても絵も描けないんだったら、旅に出たらどうか?」
そう父親に言われて、汎陸は旅に出た。そして何も考えずにただ歩き、諸国を旅しながら、気に入れば絵を描いた。そうするうちに、傷ついた心も次第に癒されていった。
そんな旅も、自分を取り巻く環境が変わり、気ままで楽しいものではなくなってしまっていた。汎陸は自分の旅が終わったことを自覚し、再び、故郷を目指した。だが、汎陸は途中、なぜか美里のことが気になり始めていた。すでに甲斐の国の王妃になった美里のことを心配する立場でないことを自分に戒めながら、それでも、足は自然と甲斐の国に向かっていた。
汎陸は再び、甲斐の国を訪れていた。ここは焦土と化した珀の国とは違い、活気に満ちていた。通りを歩く人の顔は誰もが明るく、また、多くの店が繁盛しているのが分かった。
汎陸は一軒の飲み屋に入って、腹を満たしていた。隣の男たちの話を聞くともなしに聞いていた。
「おい、今度新しく王妃になったのは、美しさで有名なハルマンから来た女だろう?」
「うん、先の王妃が火事で焼け死んだから、当然一番、寵愛を得ていたアンジュ様が順当にその座を得たんだ」
「だけど、先の王妃は気の毒だったなあ」
「ああ、珀の国から友好の証に嫁いできたというのに、王からは見向きもされずずっと冷遇されてきたというからなあ」
「聞けば、食べるものも事欠いて、自分で野菜を栽培していたらしいよ」
「ああ、相当、過酷な生活を強いられたと聞いたよ」
「そんな王妃が、王が珀の国を制圧し、凱旋したその日に火事で亡くなったというのはあまりにできすぎていると思わないか?」
「ああ、邪魔になった王妃を王が火事に見せかけて、殺したんだというんだろう?その噂はあながち、間違いではないのではないかもしれないなあ」
「ああ、第一王妃も王に殺されたという噂があるからな。あの気性の激しい王だったら、人質として必要なくなれば、情け容赦なく殺害したとしても不思議じゃないよな」
汎陸はその話を冷静に聞くことができなくなっていた。顔面蒼白になった汎陸を心配して、店の者が声をかけてきた。
「お客さん、大丈夫ですか?」
その声で正気を取り脅した汎陸は、ふらふらと歩きながら、それでも信じられない話を必死に整理しようとしていた。
汎陸は王宮に戻った美里がすぐに甲斐の国に輿入れすることを聞いたが、もう、二度と美里とは会えないことを、諦めきれない思いのまま受け入れるしかなかった。
美里が甲斐の国に嫁いでいく日、多くの従者につき従えられている美里の姿を遠くから、目にすることができた。美しく着飾っている美里はもう、過っての美里ではなかった。自分の手の届かないところに行ってしまった美里のことはもう、忘れるしかなかった。
そんな美里のことを忘れたくて旅に出たが、やはり、美里への思いは断ち切ることができなかった。いつもどこかでその面影を追っていた。その美里は今も丹櫂のもとで幸せに過ごしていると思っていた。だが、そうではなかった。
美里はずっと苦しい生活を余儀なくさせられていたのだ。もしかしたら、自分に助けを求めていたかもしれなかったのに、自分はそんなことも知らずに気楽な旅をしていた。そのことが今更ながら悔やまれた。
しかし、汎陸はどうしても美里が死んだことが信じられなかった。まだ、どこかで生きている気がしてならなかった。
汎陸は自分の目で、美里の死を確認するまでは今も美里は元気で生きていると思うことにした。自分が美里は生きていると思う間は美里は生き続けてくれる。そう思い、汎陸は再び会える日を楽しみに故郷に向かっていた。
汎陸はすぐ目の前にある「習物産店」に、恋しく思う美里が、今は習美麗と名前を変え、そこの店主の娘として、元気で過ごしているとは思いもしないことだった。
その美里は王宮からの要求をいったんは断ったものに、このままでは済まないことは承知していた。
そんな美里のところに前触れもなく、いきなり王が訪れた。もう、逃げることさえできず、覚悟を決めるしかなかった。それなのに、突然、「習物産店」に現れた王に、習慈英は慌てることなく、応対した。
「これは王様。わざわざ、私どもの侘しい店においでいただいて、恐縮です。言っていただけたら、こちらからお伺いいたしましたのに・・・」
習慈英は妻と娘が目の前の丹櫂に殺されたというのに、そんな恨みは微塵も感じさせることはなかった。
「ところで、今日はどんなご用向きで?」
「こちらの翆玲という絵師に、王妃の肖像画を描いてもらいたいと、直接頼みに来た」
「それは、それは、わざわざ王様が来ていただいたのに、申し訳ないのですが、娘はもう、絵は描かないと申しています」
「それはどうしてだ?」
「娘は絵を描いている間はほとんど飲み食いをせず集中してしまいますから、すっかり体調を崩し、今は静養しているところです」
「ずいぶん悪いのか?」
「はい、本来、体が弱いのに、無理をしてしまったようです。ですから、回復までに時間がかかりそうです」
「それでも、回復したら、絵は描けるんだろう?」
「いや、私のほうが、そんな娘を見ていたくないのです。だから、今後、二度と娘が筆を執ることはないと思います」
「筆を折るのは勝手だが、それでも、王妃の絵は何が何でも描いてもらう」
そう言って、丹櫂は椅子をけるようにして帰っていった。
美里は丹櫂と習慈英との二人のやり取りを隣室から聞いていた。
習慈英の商人でありながら、毅然と王と対峙している姿にずっとやきもきしていた。習慈英の態度に丹櫂が憤り、いきなり、その命を奪うことにならないかと、心配したが、そうはならなかったことにほっとしていた。
ただ、次の日には王宮から丹櫂付きの医者が美里のもとに遣わされ、最高の医療と薬が施された。
もう、美里に逃げ場はなかった。
美里は覚悟を決めて、王宮に上がった。ただ、顔の下半分を紗の覆いで隠した。誰も自分の顔など覚えている者はいないだろうと思っても、安心できなかった。いらぬ心配事は避けたかった。
丹櫂に挨拶をするときも、極力、目を合わせないように気を付けた。
そんな丹櫂は前回の強硬的な態度とは打って変わって、機嫌は悪くなかった。
「王妃に喜んでもらえる絵を描いてほしい、そのために必要なものはこちらで準備するから気兼ねなく言ってくれ」
「ありがとうございます。今のところは特に必要なものはなさそうです。それよりも、描いている間は私と王妃様以外は誰も部屋に入ってこないでほしいのです」
「わかっている。集中したいからだというのだろう?了承した。いい絵を描いてほしい」
美里は王宮には二度と来たくはなかったが、アンジュには会いたかった。王妃の部屋に案内されながら、アンジュが自分に会ったらどんなに驚くかと思うと、会う前から緊張した。
「王妃様、絵師の翆玲様がお見えです」
その声にアンジュがこちらを振り向いた。以前に比べ窶れはしていたが、相変わらず美しかった。アンジュは目の前の絵師が美里だとは全く気付いていなかった。
「翆玲です。よろしくお願いします」
そう、挨拶してもアンジュは頷いただけで、こちらを振り向くことえしなかった。
侍女が出て行ってから、始めて美里は紗の覆いを外した。
「アンジュ様、私です。美里です」
その声にアンジュが反応した。
「誰ですって?美里様?」
「そうです、美里です。あの時、アンジュ様に逃がしていただいたおかげで、こうして今も元気に過ごせています」
「ほんとに美里様なのね。あの時、逃がしはしたものの、その後、あなたのことがずっと心配だったのよ。だけど、誰にもあなたの消息を聞くこともできず、日々、祈る思いで過ごしていたのよ」
「ほんとにご心配かけて、申し訳ありませんでした」
「だけど、あなたが有名な絵師の翆玲だったのね。ほんとに信じられない。こうして元気なあなたと再会できたこと、私には奇跡だとしか思えないの」
「私もアンジュ様にお会いできて、ほんとにうれしいです」
その日、二人は三年ぶりに再会できたことを喜び、いつまでも話は尽きなかった。
丹櫂は絵を描かれるようになってから、アンジュが目に見えて元気になったことを喜んだ、絵も順調に書きあがっていることを聞き、この翆玲という絵師に頼んだことが間違いでなかったと喜んでいた。
ただ、二人きりの部屋でどんな会話が交わされているのか気になった。それに絵の進捗状況も知りたかった。
丹櫂は二人がいる部屋に近づいていた。もとより、描いている間は誰も近づかないでという約束は自分には該当しないと思っていた。王である自分の思い通りにならないことがこの国において、存在するはずはなかった。
丹櫂が部屋に近づくと、中からアンジュの楽しそうな声が聞こえてきた。あの絵師と短期間の間にこれほど、気を許せる中になったことが意外だった。丹櫂はその部屋の前まで来て、聞くともなしに二人の会話に耳を傾けた。
絵はほとんど描き上がっていた。あとは翆玲の落款を入れるだけだった。
「アンジュ様、絵もほとんど描きあがっていますが、私がここに来なくなった後のアンジュ様が心配です」
「私も美里様がいないこの王宮には、何の楽しみもないわ」
「アンジュ様さえ、その気になれば、私がここから逃がしてあげます。アンジュ様があの時、私を王宮から秘かに逃がしてくれたように、今度は私が逃がして差し上げます」
「そんなことをしたら、美里様、あなたが危険な目に合うわ。せっかく、死んだことになり、今は美麗として自由を手に入れたというのに、それを失うことになるかもしれないわ。そんな危険をあなたに負わせたくないの」
「大丈夫です。私にはひそかに練った策があるんです。アンジュ様さえ覚悟ができれば、無事、この王宮から逃げることができます」
丹櫂は二人の話を聞いていて、驚きを隠せなかった・
何よりアンジュが絵師を美里と呼んでいることが信じられなかった。絵師が美里?
美里は火事で焼死したと信じられていたのに、死んではいなかったのか?美里が生きていること自体、大きな驚きだったが、それ以上に、その逃亡を助けたのは他ならぬアンジュだったということは信じたくないことだった。それなのに、アンジュはこともあろうか、ここから逃げ出そうとさえ思っている。
丹櫂は誰よりもアンジュを信頼していた。それなのに、そのアンジュは丹櫂を欺いていた・・・。
丹櫂はアンジュと美里に完全に騙されていたことが許せなかった。
ふつふつと湧き上がる怒りを何とか抑えている丹櫂に、それと気づいたお付きの者が声をかけてきた。
「王様、こんなところで、どうかされましたか?」
その声に美里とアンジュは丹櫂が扉の影にいたことを初めて知った。そして、自分たちの会話をすべて聞かれてしまったことを覚悟した。二人の会話を聞いて、丹櫂が何もしないわけがなかった。美里は自分がすっかり気を抜き、注意を怠っていたことを今更ながら後悔した。
騙されていたことを知った丹櫂が、今後どのように出るのか予想がつかないだけに、恐怖が先に立った。美里はそんな丹櫂の顔色を窺った。
美里は初めて丹櫂を真正面から見た。その顔は恐ろしいほど美しく整っていた。丹櫂という男の残虐性を知らなければ、その美しさに心を奪われたかもしれなかった。そう思ってみるからか、美しさの陰に残忍さが見える気がした。
だが、そんな丹櫂を前に、アンジュも美里も何も声を発することさえできずにいた。だが、丹櫂は二人の追い詰められた心境を知ってか、知らずか、表情一つ変えることはなかった。
「絵の進捗状況が知りたくて、来てみたが、どうだ?順調に進んでいるか?」
丹櫂は何事もなかったかのように言った。
「ええ、翆玲さんのおかげで、私もすごく気に入った絵を描いていただきました。あとは落款を入れるだけのようです」
アンジュが丹櫂の顔色伺いながら、美里に代わって答えた。すると、丹櫂は美里を見て言った。
「翆玲さんに依頼してよかった。いい絵を描いてもらったうえに、王妃に親切にしてくれた。おかげで王妃が嘘のように元気になり、何より、よく笑うようになった。何もかも翆玲さんのおかげだ。翆玲さんには絵の謝礼以外に特別な褒美も考えている」
「いえ、私は言われるような、特別なことは何もしていませんので、どうぞ、お気遣いは無用にしてください」
そう、答える美里の顔を丹櫂は食い入るように、じっと見つめながら言った。
「一国の王の褒美を断ってはならない。明日は翆玲さんの最高の日にしてみせる。楽しみにしていてほしい」
丹櫂にそう言われて、その言葉の裏を測りながら、美里はアンジュと言葉を交わせないまま王宮を後にした。
王宮の門を出ると、緊張が一気に解けたが、同時に汗が噴き出した。
丹櫂は美里たちの話を聞いたはずなのに、そんな様子はおくびにも出さず、平然とした態度が逆に不気味だった。
美里はすぐにでも甲斐の国から逃げ出したかった。だが、アンジュをそのままにはできなかった。必ず逃がしてあげるといいながら、自分だけ逃げるような卑怯な真似はしたくなかった。
美里は習慈英にすべてを打ち明けた。習慈英は驚きながら最後まで聞いてくれた。そして、言った。
「そんなことがあったのですか。だけど、丹櫂はきっと気づいています。そして、素知らぬ顔をして、あなたの出方を見ているのです。悪いことは言わない。今夜にもここから逃げることです」
「だけど、アンジュ様のことが気がかりで、一人では逃げられないのです」
「それは、私に任せなさい。私はこう見えて、少なくとも、小国の王に匹敵するほどの富と力は持っているのです。当然、王宮の中にも私の手の者がいます。私がアンジュ様を王宮から必ず、逃がしてあげます」
美里は習慈英に、そう説得されても、そうできなかった。
「明日、一日だけ時間をください。王宮に行き、そして、私の口からアンジュ様にともに逃げるよう、説得したいのです」
「十分気を付けてください。私のほうはすぐに逃げられる準備をしていますから」
美里が絵に落款を入れるのを待っていたかのように従者が言った。
「こちらの衣装に着替えてください」
美里はまるで花嫁衣裳のようなその衣装を見て、何となくいやな気がしたが、その従者の有無を言わさぬ態度に仕方なくその衣装に腕を通した。そして、案内されるがまま、アンジュと王宮の大広間に来ていた。
多くのものが集まった大広間は、まさしく今から宴会が催されようとしていたところだった。
美里はその華やかな雰囲気の中を案内されるままに、丹櫂の隣に立っていた。そして、同じく丹櫂の向こう隣にはアンジュが立った。その三人の姿に集まった人たちが注目すると、重臣の一人が声高らかに言った。
「お集りの皆さん、今日は王様からうれしいお知らせがあります」
丹櫂が、まさに口を開こうとした瞬間、隣にいたアンジュが頽れた
「アンジュ!」
「王妃様!」
騒然とする中、意識をしなったアンジュは居室のほうに運ばれていった。
そんなアンジュを不安そうに見ながらも、丹櫂は美里のそばを離れなかった。
美里はただ、アンジュのことが心配だった。果たして今日、アンジュは自分とともにこの王宮を出ることができるのだろうか?美里はそのことだけが気がかりだった。
だが、アンジュのもとから戻ってきた従者が言ったその一言で、広間の雰囲気が変わった。
「王様、お慶びください。王妃様がご懐妊なされました」
それを聞いて広間に喜びの声がどよめいたが、一人、美里だけはこれで、アンジュがこの王宮を出る可能性が限りなく低くなったことを悲しんでいた。
それなのに、丹櫂の次の言葉は、美里には到底、受け入れがたいものだった。
「王妃が懐妊したことは大変、喜ばしいことだが、それに匹敵するほどの吉事を皆に知らせよう」
皆の目が丹櫂に集まったところで丹櫂が言った。
「今まで死んだとされていた先の王妃が元気な姿で戻ってきたのだ」
会場のみんながあっけにとられた表情を浮かべているのに、丹櫂は美里を見ながらお構いなしに話を続けた。
「このように再び、先の王妃の美里を迎えることができて、私は感慨深く、誰よりもこのことを喜んでいる」
先ほどから王の隣に立っている女に誰もが気にしていたのだ。だが、その女が先の王妃と言われても、ピンとくるものは誰もいなかった。先の王妃の顔を見たものは一人としていなかったのだ。だから、王の言葉にその場にいたすべての者はただ、唖然とするだけだった。
アンジュの華やかな美しさと比べて、その女には透き通るような美しさがあり、決して、アンジュに引けはとっていなかった。と、言うより、人を寄せ付けない気高さがあって、におい立つような美しさは他を圧倒していた。
そんな女が先の王妃と言われ、誰かが王におもねるように言った。
「王様、おめでとうございます。アンジュ様のご懐妊といい、美里様のご帰還といい、喜ばしいことばかりですね」
すると、それに追従するように皆、口々に喜びの言葉を口にした。
そんな喜びの声のほかに不安を口にする者もいた。
「今はアンジュ様が王妃だけど、先の王妃が戻ってきたのなら、いったいどちらを王妃と呼べばいいんだろう?」
その声に応えるように丹櫂が言った。
「アンジュも王妃なら美里も王妃である。二人を王妃として崇めるように。そして、今日から美里は王妃として、再び、この王宮に暮らすことになる」
美里は自分とは関わりのないところで、丹櫂の王妃にいきなり返り咲いたこの予想外のシナリオに暗澹とした気分になっていた。
何とかここから逃れたいと思っても、屈強な二人の男がわきを固めており、それはかないそうになかった。
「ここが美里様の部屋になります。必要なものがありましたら、なんでも私どもに言いつけてください」
まだ、宴が続いている大広間から、連れてこられた部屋は奇しくも美里が三年前まで侍女由良とともに幽閉されていた屋敷だった。
だが、あの当時の屋敷の面影はどこにもなく、新しく建てられた屋敷はどこも豪華なしつらえになっていて、ここに住む者が丹櫂に厚遇されているのが分かった。
「この屋敷は誰の屋敷だったのですか?」
「はい、最近、側室になられた美鈴(めいりん)さまの屋敷だったのが急遽、屋敷替えになったのです。美鈴様は違う屋敷に、そして、この屋敷は美里様をお迎えするために急遽、整えられました」
「そんなことがあったのですね」
「ええ、私どもは美里様付きになった侍女ですが、王様がここまで気遣われている美里様のお世話ができて、光栄に思っています」
そう言う侍女は三年前まで、この王妃が王から冷遇されていたことなど全くなかったかのようにふるまった。そして、侍女三人は、美里が逃げ出さないよう、一時も美里のそばを離れようとしなかった。それに、部屋の前には先ほどの屈強な男どもが蟻一匹通れないよう見張っていた。
美里はどこにも逃げ出す隙を見つけられずにいた。
屋敷は新しくなっても、あの当時と同じ幽閉された状況に美里は昨夜、習慈英に言われたときに逃げ出さなかったことを後悔した。あの時、逃げ出しさえすれば、こんな最悪な状況は避けられたのにと、思うと今更ながら、自分の甘さが恨めしかった。
あの時、すべてを知ったうえで、自分たちを欺いた丹櫂の狡猾さを見抜けなかった自分の愚かさを責めていた。だが、すべてが遅かった。
美里は待ち受けている自分のこれからのことを考えて、暗い気持ちになっていた。丹櫂は、裏切り欺いていた自分のことを決して、許しはしないだろうことだけは確信を持てた。
丹櫂は、体調を崩しているアンジュのもとにいた。
アンジュの妊娠はすでに何人もの男児に恵まれている丹櫂にとっては特別なことではなかったが、アンジュのために喜んだ。子供ができれば、アンジュも郷愁の思いから解放されると思っていた。
だが、一方で、そんなアンジュが素知らぬ顔で王である自分を裏切っていたという事実を容易に受け入れることができなかった。
二人の王妃を立てたのは、どちらも捨てがたかったのと、自分を裏切った二人への懲罰の意味もあった。丹櫂は表面上、アンジュをいたわりながら、その一方で、美里のことを考えていた。
実際のところ、丹櫂は美里について今後、どうするという具体的な考えはなかった。ただ、三年ぶりに美里に会って、その美しさに磨きがかかっているのを見た瞬間から、この女を誰にも渡したくないという思いに囚われていた。
美里は決意していた。何としてもここから脱げ出し、もう一度だけ、汎陸にあいたかった。汎陸に会って、あの時、何も言わずに別れたことを詫びたかった。
美里はずっと自分のことを守ってきてくれた汎陸に会って、自分の気持ちを伝えたいと思っていた。
そんな汎陸は珀の国に戻っていた。
汎陸は故郷に帰り、自宅を再建した。まだ、町は復旧していなかったが、汎陸が戻ってきていることをどこから聞いてきたのか、汎陸の絵を求める人間が後を絶たなくなっていた。
「いったい、どうして、私の絵を欲しがるのですか?」
「それは、甲斐の国にある習物産店に持って行ったら、破格の値段で引き取ってくれるからだ」
汎陸は自分の絵の価値は自分で分かっていた。まだ修行の身であれば、そんな値が付くはずはなかった。
汎陸は自分の絵に破格の値段を付けた人物に会いたいと、甲斐の国にやってきていた。そして、その目当ての「習物産店」はすぐに見つかった。だが、まだ閉店には時間があるというのに、なぜか店は閉められ、しっかり鍵がかけられていた。
汎陸は腹を満たすために通りに出た。だが、町が祝賀ムードに染まっているのを不思議に思い、道行く人に聞いていた。
「今日は何かのお祭りですか?」
「いえ、王宮でおめでたいことがあったのです」
「どんなことがあったのですか?」
「一つは王妃のアンジュ様がご懐妊されたこと。そして、もう一つは、なんと火事で死んだと思われていた先の王妃様が生きて戻られたんです」
汎陸は思わず、聞き返さずにはおれなかった。
「先の王妃が生きて戻った?その王妃とは珀の国から嫁いできた美里王妃のことですか?」
「そうです。美里王妃は悲劇の王妃と言われ、王様から冷遇されたまま屋敷の火事で焼死したといわれていたのに、そうではなかったのです」
「やはり、生きていたのですね」
汎陸はその言葉を感慨深くかみしめた。
「王様はたいそうお喜びで、美里様をアンジュ様同様、王妃の待遇で迎えられたのです。そして、今日が美里様の二度目の輿入れの日として披露されたのです」
「王が、美里様を王妃として迎えたのですか?」
「ええ、一時は王様が美里様を殺したともいわれていましたが、それらがすべて単なるうわさに過ぎないことが分かりましたね」
汎陸は美里が生きていることを喜びながら、再びかごの鳥になってしまっている美里の境遇を憂い、「何とか王宮から連れ出したい」と、そのことをばかりを考えていた。
そのころ、「習物産店」では、王宮に忍び込んでいた習慈英の手のものが報告に戻っていた。
「旦那様、大変です。美麗様が王宮にとどめ置かれ、帰れなくなってしました」「何?いったいどうしたというのか?」
「丹櫂は美麗様の正体が先の王妃の美里様だと見破っていたのです」
「やはり、昨日のうちに逃がすべきだったか・・・」
習慈英は強引でも、あの時、行動しなかったことを後悔していた。
「それで、美麗は今、どうしているのか?」
「新しく建て替わった屋敷に軟禁させられています」
習慈英はもう、残された時間がわずかで、すぐに救出の手立てをとらなければならない事態に追い込まれていた。
丹櫂が美里の部屋を訪れる前に、なんとしてでも屋敷から連れ出さなければならず、それにはゆっくり考える猶予がなかった。
「すぐに実行に移してくれ」
美里は新しくなった屋敷の中で、まるで死の宣告を待つ死刑囚のように過ごしていた。丹櫂が自分を再び王妃として迎えるといっても、全く信用していなかった。
自分の死を偽装して逃げた美里のことをあの丹櫂が許すはずはなかった。どんな形にしろ、自分の死は確実だったから、何としてでも美里はここから逃げ出したかった。
だが、三人の侍女たちは全く監視の目を緩めなかった。それも一時も美里から離れようとしないことに美里は息苦しさを感じ、何とか逃げる手立てはないかと考えているときに、突然、男たちが乱入してきた。
そして、三人の侍女たちを抵抗する間も与えず、次々と気絶させた。驚いている美里にその中の男が言った。
「美麗様、遅くなって、申し訳ありません。わたしは習慈英さまの手のものです。ここからすぐに逃げましょう」
戸惑う美里に、その男は尚も言った。
「もう、時間がありません。間もなく、丹櫂がこちらに向かってくると思われます。今だったら、王宮全体が祝賀ムードに酔いしれていますので、監視の目もゆるくなっているのです」
「だったら、アンジュ様も・・・」
「アンジュ様の体調は今すぐ回復するものではありません、それもご懐妊されているのであれば、なおさらここから逃げるには難しいと思います」
「では、一目会って別れの挨拶をしてから・・・」
「美里様、我々は危険を冒してここにいるのです。それに、我々が捕まれば、当然、旦那様も無関係ではいられないのです。どうか、そこを理解してください」
美里はそう言われて、気持ちを切り替えざるを得なかった。部屋の外に出ると、護衛の男たちも既にみな意識を失っていた。美里は侍女の服装に着替えて、誰にも見つからずに、王宮の外に出ることができた。
「私ができるのはここまでです。ここに旦那様から預かった手紙がありますので、これからはその手紙に書いてあるところを目指してください」
「お父様に別れの挨拶をしないことには・・・」
「それはご遠慮してください。最後に美里様が旦那様に会ったと分かれば、旦那様の言い訳が立たないと思いますので・・・」
「そんな危険を承知で私を助けたのですか?」
「それは美里様が実の娘同様だったからだと思います。旦那様は、どんな結末が待っていようと後悔はないとおしゃっていました。ただ、美里様の無事だけを祈っておられるのです」
美里はそんな習慈英の気持ちが分かって、ただ涙があふれた。
「さあ、美里様、今は一時でも早く、この地を離れることです。そして無事逃げおおせることで旦那様の気持ちに応えることになるのです」
その言葉に背中を押されるように美里はさらに王宮から離れた。そして落ち着いてから習慈英の手紙を開いた。
そこには、宜の国(ぎのくに)に行くように書かれていた。習慈英は温暖な気候の宜の国を気に入り、いずれは妻と二人で野菜や果物を育てながら晩年を過ごそうと広大な土地と屋敷を手に入れていた。
だが、妻と娘に先立たれた今、それを美里に譲ると書かれていた。そこは丹櫂の手が到底、届かないところだった。
美里は習慈英の温かさがいまさらながら胸を打った。この恩をどうやって返していいのかわからなかったが、今はただ、先を目指すことだけを考えた。懐には習慈英が用意してくれた十分な金があった。
そのころ、王宮ではようやく、美里が何者かの手によって王宮から逃げ出たことが丹櫂に伝えられていた。丹櫂は美里がまともや逃げ出したことに、烈火のごとく怒った。その怒りは容易に収まらず、美里の三人の侍女や護衛のものも、有無を言わさず、その場で切り捨てられた。
丹櫂の怒りはとどまるところを知らず、怒りは美里の友人でもあり、前回、その逃亡を助けたアンジュにも向かっていた。
ひどい貧血で立ち上がることもできないアンジュに向かって厳しく問い詰めていた。
「アンジュ、美里が逃げたのはまさか、お前がかかわっていないだろうな?」
「美里様が逃げ出した?いつのことですか?それで、美里様は無事ですか?」
アンジュの反応に、アンジュへの疑いを解きはした。だが、誰の仕業なのか王宮の中での大胆な王妃の拉致行為は、それはそのまま王である丹櫂への挑戦状と思えて、丹櫂の怒りはますます上がり続けていた。
王宮のすべての出入り口を閉じ、美里の姿を探させたが、美里はどこにもいなかった。
丹櫂は美里の養父である習慈英を王宮に呼びつけた。
丹櫂は一介の商人に過ぎない習慈英なのに、なぜか、いつもこの男から威圧されるものを感じていた。
今日も王に呼びつけられたというのに、習慈英はまったく動じた様子を見せなかった。丹櫂は美里の逃亡にこの男の関与を疑っていたが、それなのに、平然とした態度が一層、丹櫂をイラつかせた。
「今まで、絵師の翆玲と名乗っていた養女が、王妃だったことを、父親のお前が知らないはずがない。すべてを知ったうえで、王をだましていたのか?」
「いえ、私もまったく知らなかったことです。今日、王宮から、知らせを受けて、王妃さまだったということを初めて知りました。それに、先の王妃さまは火事で亡くなったと聞いていたので、まさか、私が助けた娘が王妃さまだったなどとは思いもしないことでした」
そういって頭を下げる習慈英にどこかうさん臭さを感じていたが、その思いを気付かせないよう、言葉を選んだ。
「今日はそんな美里を再びこの王宮の王妃として迎えた。だから、もう、習美麗としてお前のもとに帰ることはない。今日を限りにお前との縁は切れることになる」
「はい、わかっています。先の王妃の美里様ということであれば、それは当然のことです」
「ところで、美里のほうから、お前のほうに何か言ってきたか?」
「いえ、まったくありません。こちらに上がってから美麗とは会ってはいません。美麗に何かありましたか?」
丹櫂はこの老獪な男の腹の中を読めなかった。顔色一つ変えず、逆に尋ねてくる習慈英のしたたかさを思い知らされていた。
丹櫂もまた、習慈英への疑念を抱きながらも美里が逃亡したことは隠し通した。そして、この鼻持ちならない習慈英の首を取ってしまいたい衝動を必死に抑えながら、そうした時、戻ってきた美里は自分を決して許さないだろうと、究極な考えを封印した。とりあえず、今は美里を無事に王宮に連れ戻すことを最優先した。
丹櫂は習慈英にさえも、美里の逃亡は隠し通した。そして、習慈英もそれと知ったうえで何食わぬ顔をして、何も知らない商人を演じたのだ。
習慈英は王の丹櫂が美里の逃亡を隠していることに安堵した。丹櫂が美里の逃走を隠している間は、まだ、差し迫って美里の命の危険はないと思えた。プライドの高い丹櫂が王妃から二度も逃げられたという汚名は何としてでも隠したいと思うのは当然のことだった。
だから、美里の逃亡は徹底的に隠し、秘かに美里を取り戻すために、その行方を探しているのだと理解した。習慈英はこの事態を喜び、そして、美里が無事、逃げおおせることを祈っていた。
習慈英が店に戻って来ると、店の前に一人の男が立っていた。そして、習慈英を見ると、声をかけてきた。
「すみません、この店の方ですか?」
「はい、そうですが、どちら様ですか?」
「私は晩翠という雅号を持つ絵師ですが、こちらで私の絵を高額な値段で引き取っていただいていると聞き、こうして訪ねてきました」
「あなたが晩翠?では、美里さんの幼馴染である汎陸というのはあなたですか?」
「どうして、それを?」
「実は美里さんは私の養女になったのですが、偶々、あなたが描いた絵を入手したのです。そしてあなたのことをずっと探していたのです」
習慈英は目の前の美里の幼馴染という汎陸にすべてを話すつもりになっていた。美麗が美里であり、生きていることが丹櫂にばれてしまった今、もう、誰にも、隠し立てする理由はなかった。それに目の前の男は善良そうで、美里が信頼していた通りの人物に見えた。
「立ち話もなんですから、中に入りましょうか?」
家の中に入ると、汎陸は性急に訪ねてきた。
「やはり、美里は生きていたのですね。そしてあなたの養女になった。それなのに、なんでまた、美里は逃げた王宮に戻って再び、王妃になったのですか?」
「あなたもそのことを知ったのですね」
「巷でも、そのことを喜ぶ声が多く聞かれましたから。美里は王から冷遇されてきたというのに、あなたはそんな美里を王に売ったのですか?」
習慈英は美里のことを心配する汎陸にすべてをかける気になった。
「実は、美里さんは再び、その王宮から逃げ出しました。すべて、私が手はずを整えて、美里さんを王宮から逃がしたのです。今、美里さんは宜の国に向かっているところです」
「美里は今、一人で逃げているのですか?誰も守る者もなく、たった一人で?」
「ええ、ですから、あなたに美里さんを守ってほしいのです。今なら、急げば美里さんに追いつけるはずです」
そう言われて、汎陸は「わかりました。必ず、私が美里を守ります」と、そのまま、宜国に向けて走り出した。
丹櫂はすでに美里が王宮の外に出てしまったことを認めざるをえなかった。
王宮のどこにも、美里の姿を見つけ出すことができず、そのいら立ちを誰に向けることもできずにいた。
アンジュには何の落ち度もないというのに、身重なアンジュに優しい言葉をかけるどころか、ついアンジュを責める言葉を吐いていた。
「お前も美里とともに逃げたかったのだろう?そんなにここが嫌ならば、今すぐにでも美里の後を追ってもいいんだよ。俺は引き止めないから」
そう、丹櫂に責められても、アンジュは何も言い返すこともなく、ひたすら耐えていた。そして、美里が無事、逃げおおせることを祈っていた。
丹櫂は、徹底的なかん口令を敷いた。だから、美里が再び王宮から逃げ出ていったことを知るものはごくわずかだった。
そして、誰にもわからないように美里を見つけて、必ず無傷で連れ戻すよう、命令を下していた。二度も同じ王妃に逃げられた哀れな王の汚名だけは、何としてでも避けたかったのだ。
美里を見つけ出し、二人の美しい王妃を持つ壮健な王のイメージを守りたかった。そして、それはすぐに叶うと思われていた。
丹櫂の優秀な影の者たちはその道に通じていて、今までも丹櫂の期待を裏切らなかった。
美里は途中、古着屋によって町娘の装いに変えていた。これだけで、美里が王妃だと気づかれることもないはずだった。
美里はそれとなく、そこの主人に探りを入れた。
「王宮で何か変わったことはなかったですか?」
「ああ、死んだと思われていた先の王妃が生きて帰ってきたんだよ。王はたいそうお喜びになって、アンジュ様同様、美里様も王妃に迎えるといわれたそうなんだ」
「それだけですか?」
「いや、それだけでなく、アンジュ様のご懐妊までわかって王宮の二重の喜びに町がわいているんだよ」
王妃が逃走したという話はどこからも聞かれなかった。さすがの丹櫂も逃げた王妃のことは公にはしたくなかったのだと思うと、幾分、気持ちが軽くなった。それでも、丹櫂があきらめるような人間ではないことを知っているだけに、早く美里を見つけ出したかった。
汎陸はひたすら、美里の後を追っていた。宜の国に行くにはこの道しかなかったので、いつかは美里にたどり着けると信じていた。ただ、宜の国までの道のりは遠く、その間に丹櫂の手のものに見つからないという保証はなかった。汎陸は逸る気持ちを抑えながら、ただ、美里の後を追っていた。
汎陸は宜の国のことは知っていた。温暖な気候で農業が盛んなその国は、住んでいる人たちも穏やかで暮らしやすいところだと聞いていた。何より、宜の国の王が民の人々の暮らしを第一に考える人で、他国とも友好な関係を築いていたから、争いがなく平和だった。だから、そんな国の王は人々から尊敬されていた。
汎陸は自分もいつかは宜の国を訪れてみたいと思っていたのが、こんな形で叶えられるとは思ってもいなかった。
汎陸は五年ぶりになる美里との再会を夢見て先を急いだ。
美里はその日の宿を探していたが、どこの宿も、女一人の投宿を怪しまれた。また、美里も目立ちたくなかった。美里は仕方なく、荒れ果てて無人となった寺をその日の宿に決めた。だが、そこには先客がいた。部屋の隅に母親と娘が抱き合うように座っているのを見て、美里が声を上げるのと同時に、二人が驚きの声を上げた。
「あなたは?」
「あっ!昼間、助けてくれたお姉ちゃんだ」
その日、偶々入った蕎麦屋で、そこの店主が怒鳴り声を上げているのに遭遇した。そして、その店主の前には小さく身を縮めた母娘がいた。それが未央(みおう)親子と初めて会った時だった。
「金がないのに、平然と蕎麦を食べて、そのまま逃げるつもりだったのだろう?全くいい度胸をしているよ。俺の家で無銭飲食するなんて、俺は絶対、許さないからな」
「すみません、許してください。お金は働いて、必ず返します」
母親はひたすら謝っていたが、店主の怒りは一向に収まる気配はなく、そのそばで幼い娘が怯えている様子を見て、美里は黙っていられなかった。
「そのお金、私がお支払いします。おいくらですか?」
「あんたがこの親子のそば代を払うっていうのかい?あんた、この親子とどんな関係なんだい?」
「単なる行きずりにすぎませんが、私にはお二人のそば代を払えるだけのお金があります。ですから、そのお代を払わせてください」
「そんなに言うのならあんたに払ってもらおうか?こちらとしては払ってもらえれば、文句は言えないからな」
美里が支払いを済ませると、店主は感心するように言った。
「全く、今時、他人のことを気遣えるなんて奇特な人だよ。あんたたち、いい人に出会ったな」
その言葉に応えるように、その親子は美里に感謝の言葉を述べた。
「ありがとうございます。このご恩は決して忘れません」
そういって頭を下げてくる母親の手にお金を手渡して言った。
「これで、娘さんに甘いものでも買ってあげてください」
母親はそのお金を握りしめながら、頭を下げ続けた。
その親子にここで再び会うことになるとは思いもよらないことだった。お互いにこの奇遇を喜び合ったが、その母親は素直な疑問を口にした。
「あなたのような方がなんで、こんなところにいるんですか?望めば、どんな宿でも泊まれるでしょうに」
「いえ、女一人だと、何かと憶測を生みますので、そのわずらわしさを避けたかったのです」
「そうだったのですね」
その母親は一人で旅をしているこの美しい娘が人に言えない事情を抱えていることを察していた。
美里はこの未央親子が、先の戦で珀の国から逃れてきたことを知った。
「夫も戦で死んで、住む家もなくなってしまったあの珀の国にとどまることはできなくなってしまいました。それで、姉を頼って宜の国に行こうとしたのですが、手持ちのお金が底をついてしまって、あんな恥ずかしい姿を見せることになりました」
五歳くらいだろうか、そばの娘はそんな母親から一時も離れられない様子に、美里は遠い昔の自分たちの姿を重ね合わせていた。
美里は物心ついたころから、母と二人だった。汎陸に出会うまでは長く一か所にとどまれず、各地を放浪するような生活だった。
母が住み込みの仕事をみつけてもまた、何者かに追われるように新たな町に越す生活だった。身寄りはなく、親しい友もできない中で、頼れるのは母だけだった。
母がいなくなったらと思うと一時も母から離れられなかった。
まさしく、目の前の未央親子は昔の自分たち親子の姿だったのだ。だから、蕎麦屋でも見捨てることができずに助けてしまったが、ここでまた会うことになるとは思ってもいなかった。
「これから、宜の国に行かれるのですか?私もなのです。こうしてお会いできたのも何かのご縁です。なんでしたら、私と一緒に行きませんか?」
「私たちと一緒に旅をするということですか?でも、私にはもう、旅を続けるだけのお金がないのです」
「それは私のほうで何とかします。私も女一人旅は何かと詮索されて、実際、難しさを感じていましたので、私とともに旅をしていただければ、私のほうも助かります」
「そんなこと、あまりに厚かましくて、そこまで図々しくなっていいものかどうか・・・」
「いえ、そうしていただけたら、私の方が助かります」
その言葉で、すべてが決まった。
美里と未央親子は一緒に旅をする約束をした。すぐにでも旅立ちたいと思う美里の気持ちとは別に、親子はここで出来た知人に別れの挨拶をしたいと言って出かけて行った。
美里もまた、親子の旅支度を整えるために、町に買い出しに出た。だが、美里は知らなかった。丹櫂が放った隠密たちが、もう美里のすぐ近くまで迫っていることを。
隠密たちは昨日、蕎麦屋で美しい娘が無銭飲食の親子を助けたことをつかんでいた。そして、隠密たちはその娘こそ、美里だと辺りをつけて、その親子を探していたのだ。そして、その親子が無人の寺に寝泊まりしている情報を聞きつけて、そこで親子を待ちぶせていた。
寺に戻った未央親子は自分たちを待っていた、目つきの悪いの男どもの姿に驚いた。
「あなた方は誰ですか?」
「私どもは人を探しているのです。協力してくれれば、それなりの報酬を渡します」
口調は丁寧だが、有無を言わせぬその態度に嫌な感じを受けたが、母親は素知らぬ顔で尋ねた。
「誰を探しているのですか?」
「昨日、蕎麦屋であなたを助けてくれた人です」
「なぜ、その人を探しているのですか?」
「夫殺しで、手配を受けている女です」
「あの人が人殺し?とてもそうは見えない。美しくて優しいあの人が人殺しだなんて、とても信じられない・・・。一緒に旅をする約束までしていたのに・・・」
「一緒に旅を?いったいどこに?」
そう聞かれて母親はかろうじて踏みとどまった。恩人を売るようなことはしたくなかった。
「いえ、どこと言って当てがあるわけではなく、とりあえずここではないところにです」
「今、その女はどこにいるのですか?」
それにどう応えようか思案していると、男が言った。
「だから、あなたもそんな人と関わっていいことはない、あなたにまであらぬ嫌疑をかけられることになるかもしれない。正直に言ってください」
「今、買い物に出かけているので、間もなく戻ってくると思います」
仕方なくそう言うと、男ども納得したようにそのままそこに居座った。
母親は何とか美里にこの状況を知らせたかったが、その手段がなかった。すると娘の未央が沈黙を破るかのように突然言った。
「母さん、おしっこ」
「ご不浄に連れて行ってきます」
「わざわざ遠くに行く必要はない。我々の目の届く、そこの庭の片隅にでもさせるように」
母親はこの機会に男どもに見つからないように美里に知らせたかった。そんな気が気でない状況の中、ようやく美里の姿が遠くに見えた。
母親は美里に体全身を使って知らせようとしたが、美里にはそれがなかなか伝わらなかった。
そんな母親を見て男の中の一人が言った。
「いったい、いつまで時間がかかっているんだ」
その声にようやく美里も男たちの存在に気が付いた。母親が口で「逃げて」というのを見て、美里はすべてを察した。丹櫂の手の者が自分を捕らえようと待ち構えているのだと。
美里はそのまま踵を返すと後も振り返らず、懸命に逃げた。男どもがようやく逃げていく美里に気づき後を追ったが、美里の姿は巷の雑踏の中に消えてしまっていた。
男どもは母親が美里を逃がしたことに気づいたが、今はこの親子にかかわる時間はなかった。美里の後を追うことが優先された。
美里は追手の男どもから逃れられたと感じた時に、ようやく、貴重品の全てをあの寺に置いてきたことに気づいた。だが、それらを取りに戻る気にはならなかった。今はただ、追手の手から逃れることだけを考えた。
あの親子がそれに気づいて、自分たちの生活のために使ってくれればそれで十分だった。
危ういところを寸でのところで逃れられたが、あのまま、丹櫂の手の者につかまっていたらと思うと、今更ながら、あの親子に救われたことに感謝していた。
だが、今回は幸運だったが、残虐な丹櫂が二度も自分を欺いた女を許すはずはなく、もし、見つかった時のその仕打ちは想像したくもなかった。美里は一時の油断のないよう、さらに気を引き締めた。
だが、未央親子は美里のお金に気づいたが、自分たちのものにする考えは持たなかった。なんとか美里にそのお金を返そうと美里の後を追った。
そのころ、汎陸は昨日、美里がいた蕎麦屋にいた。そして、そこの店主が思いがけないことを話すのを聞いていた。
「昨日、ここに無銭飲食の親子を助けた女がいたんだ。今時、他人を助けるような奇特な女がいるもんだと感心していたら、なんと、その女は夫殺しの犯人だというんだ。とても、そうは見えなかったよ。まるで天女のような美しい女だったからな」
汎陸は思わず聞いていた。
「その人はどんな人でしたか?何歳ぐらいでしたか?」
「二十歳そこそこに見えたなあ。粗末な装いをしていてもその美しさは隠せなかったよ」
「それで、その女性はどうなったのですか?」
「わからないなあ。ただ、あの親子と一緒ならば、街の外れにある寺にいるはずだが、女の後を追って、男たちもあの寺に向かって行ったからな。そのあとはどうなったかは知らないよ」
汎陸は急いで聞いた寺に駆け付けた。だが、男どもはおろか美里の姿はどこにもなかった。ただ、若い女が身に着ける香り袋が落ちていた。汎陸はそれが美里の物であるような気がして、それを手に取った。そして、美里が追っての手に落ちていないことを祈りながら、美里の情報を探ったが、美里につながる情報を得ることができなかった。
汎陸はやはり丹櫂の手の者が美里を追っていることを知って、気が気ではなかった。一時も早く美里を保護したいという思いで先を急いだ。
そのころ、丹櫂はもう一歩というころで美里を取り逃がしたことの報告を受けていた。たった一人の女でさえも捕らえることができない、男たちのふがいなさに憤慨し、厳しく叱責していた。
「いったいどうしたというのだ。それでも、優秀と言われる私の密偵なのか?お前たちの手に余るというのなら、今すぐ、代わりの者と変わってくれていいんだぞ」
「いえ、私どもにやらせてください。結果を必ず出します」
「この一両日中に、必ず見つけて、私のもとに連れてくるように」
「わかりました」
「必ず、無傷で見つけ出してくれ」
丹櫂はそう言いながら、どこまでも自分から逃れようとする美里のことを思うと、苛立ちを隠せなかった。どんな女も向こうから近づき、丹櫂の歓心を買おうと懸命になったというのにアンジュもそうだが、美里も全くそんなそぶりを見せなかった。二人の女に対しては、一筋縄に行かないことが面白くなかった。
だが、丹櫂は美里の誤解を解きたかった。美里が初めて輿入れをしてきたときは、美里を知らなかったこともあり、積年の恨みを珀の国の王女で晴らそうとし、徹底的に冷遇した。だからこそ、今回は今までとは違う自分を見せたかった。
新たに美里とやり直したいという思いだったのに、それが美里に伝わっていないことが無念だった。
丹櫂の頭の中は美里を何としてでも、王宮に迎えることだけで占められていた。
アンジュは起き上がれない日が続いていた。
妊娠していることが判明したが、うれしいとも思わなかった。これでまた、この王宮から逃げ出せなくなってしまったという無念な思いのほうが強かった。
それに食欲は全くなく、食べたものはそのまま吐いた。痩せる一方のアンジュに周りの者は一様に心配した。
だが、最近の丹櫂はそんなアンジュを見ても心配するそぶりさえ見せなかった。
アンジュは今までとは違う丹櫂をみて、「ついにその時が来た」ことを実感していた。
そもそもアンジュはこの国に連れてこられた時から、すべてをあきらめていた。丹櫂に許婚を殺されていたのだ。だから、いくら丹櫂から愛されても、愛せるはずはなかった。アンジュは初めから愛のなかった丹櫂からの寵愛を失ったことを淡々とした気持ちで受け入れていた。
後宮では、新たにアンジュと共に王妃になった美里が、王宮から逃げたとのうわさが広がっていた。そして、残ったもう一人の王妃のアンジュも身ごもったにもかかわらず、関心を示さない王の態度に、側室の誰もがアンジュが王の寵愛を失ったことを確信した。
王妃がいないに等しいこの状況に、側室たちは喜んだ。そして、その後釜を狙って、側室たちがしのぎを削る中、第一王子の母である愁貴はこの機会を見逃さなかった。再び、過っての栄光を取り戻そうとあれこれと策を練っていた。
美里はその後、旅芸人の一座に紛れて旅を続けていた。だが、その一行とも別れた後は人目を避けて、ただ、宜の国を目指していた。
美里は丹櫂の追手だけではなく、汎陸が自分を守るために後を追ってきているとは思いもしていなかった。それに、未央親子もまた、美里のすぐ近くまで来ていることなど、知る由もなかった。
美里の後を追っていた未央親子だったが、数日前に降った雨に打たれた後から、娘の未央が体調を崩してしまっていた。高熱にうなされている娘を目の前にしながら、どうすることもできず、母親は自分の無力さに腹を立てていた。医者のもとに駆け込んだが、医者は母親の身なりを一瞥しただけで、母親の目の前で扉が絞められた。母親はその扉を必死に叩いた。
「お願いです。娘を助けてください」
そう、必死に訴えている姿を、通りを行く人々は遠巻きにしながら、ただ眺めているだけだった。
だが、一人だけ、この状況を見過ごさない男がいた。
「どうしたのですか?」
「娘が高熱を出して苦しんでいるのです。何とか診てほしいとお願いしたのですが、見てもらえないのです」
「わかりました。私に任せてください」
そういうと、その男はその扉をたたき、中から出てきた男と何やら話していたようだが、そのまま中に消えた。
しばらくして、再び出てきた男の隣に医者がいた。
「さあ、娘さんのところに行きましょう」
そうして、医者を伴って、ある家の納屋に寝かされていた娘のもとを訪ねた。高熱で苦しんでいた娘も、医者から処方された煎じ薬を飲ませたら、薬が効いたらしく、すぐに熱が下がった。
その未央親子を助けたのは、汎陸だった。その汎陸に未央の母親は心から感謝の気持ちを伝えていた。
「ありがとうございます。あなたは娘の命の恩人です。なんとお礼を言ってよいものやら・・・」
「いえ、お気遣いなく、私は自分ができることをやっただけですから」
「私たちは、先日の女性といい、あなたといい、なぜか困った時に助けてくれる人が必ず現れるという幸運に恵まれているのです」
汎陸は、その女性のことが気になった。
「その女性とは誰のことですか?」
「いえ、蕎麦屋で困っている私たちを助けてくれた女性がいたのです」
汎陸は親子を目の前にして、美里が助けた親子を自分もまた助けたという奇遇に驚きの声を上げた。
「あなた方だったのですね?美里が会ったというのは・・・。私はあなたたちをずっと探していたのです」
「どうして、私たちを?」
「私は、その女性、美里の幼馴染です・・・」。
汎陸は自分が美里を助けるために後を追っていることを伝えた。すると、未央の母親はほっとしたように言った。
「では、あの人は夫殺しなんかではなかったのですね。私が男たちから逃がしたことは間違いではなかった」
「あなた方が助けてくれたのですか?では、美里は無事逃げおおせたのですね」
「はい、でも、美里さんは貴重品のほとんどを置いて行ってしまったので、その貴重品は私が預かっています。そして、それをなんとか美里さんに渡したいと、ずっと後を追っていたのですが、なかなか追いつけなくて・・・」
自分たちは金に困っているはずなのに、自分の物にしようとしなかった母親に汎陸は思わず声をあげた。
「何を言っているのですか。そのお金はもうあなた方のものですよ。あなたに使ってもらってこそ、美里も自分を逃がしてくれた恩を返せると思っていますよ。どうぞ、娘さんのために使ってください」
そういうと、未央の母親はほっとした様子を見せた。
「ほんとにそうでしょうか?」
「そうですよ。それに直に私が追い付きますから、お金のことは心配しないでください」
「そう言っていただけると気持ちが軽くなりました。今はこのお金をありがたく使わせていただきます。ところで、先ほどの医者に何の謝礼もしていないのですが、大丈夫だったのですか?」
「大丈夫です」
汎陸はあの時、医者の家の庭に咲いている水仙の花を描き、医者に渡していた。
「この絵を甲斐の国にある習物産店にもっていけば高額な値段で引き取ってもらえます」
その言葉を聞くまでもなく、医者は晩翠の名を知っていたらしく、二つ返事で、ついてきたのだ。
汎陸は美里が追手に追われているうえに、金銭的に困窮していることを聞き、一刻も早く美里を見つけなければという思いで、気が逸っていた。
そのころ、美里は川のたもとにきていた。だが、数日間続いた大雨で川が氾濫し、その川にかかる橋さえも濁流に飲み込まれていた。
宜の国に行くにはその橋が唯一の道だったのに、それがなくなって多くの人間がそこでいやおうなしに足止めを食らっていた。
そんな人間で普段は静かな街に人があふれていた。
橋が流された今、向こう岸にわたる手段として、渡し船が出るという話を聞いたが、それもすぐというわけではなかった。荒れ狂うかような川の流れはまだまだ激しく、船が出ればたちまち波に飲み込まれてしまいそうだった。
当分は川の流れが落ち着くのを待たなければならなかった。そのうえに、その法外な運賃に誰もが驚き、宜の国に行くのを仕方なく断念する者が出てきていた。
美里はその日の宿賃さえおぼつかないというのに、その渡し船に乗るお金などどこにもなかった。
美里は思案に暮れていた。この状況下でも宜の国を目指すべきなのか、それとも、どこか行く先を変えるべきかと。それに、ここに長く留まれば、それだけ、丹櫂の手の者に見つかる危険性が高まった。
だが、美里はここまでほぼ不眠不休で歩いてきたから、体は疲弊していた。どこかで体を横にしたいと思っても、どこも休むところはなかった。
そんな中、足止めを食っている旅人のために役所の広間を開放してくれているという情報が入ってきた。美里はそんな人の集まる所は避けたかったが、美里のそばにいた老夫婦が声をかけてくれた。
「あなたは一人旅ですか?よかったら、私たちと一緒にどうですか?」
美里はその言葉に救われた。老夫婦の娘のようにして、三人で部屋の隅に居場所を見つけた。これで敵の目を欺けるはずだった。
美里がうとうととしかかった時、なんとなくざわめく雰囲気に目を覚ました。
「あの人たちは誰なんだ?」
「なんでも人を探しているらしいよ」
「いったいだれを?」
「誰なんだろう?いずれにしろ俺達には関係ない人だよ」
「それにしても、雰囲気の悪い男たちだなあ」
美里がそのほうを見ると、男たちが何やら人相書きらしきものを持って、一人一人の顔を確認しながら、こちらに近づいてきていた。
もう、美里はそのままそこで男たちが近づくのを待っていることができなくなっていた。美里はそっと起きだすと、隠れるようにして広間を出ようとした。すると、それに気づいた老夫婦が声を上げた。
「あなた、どこにいくの?」
その声に皆の視線が美里に集まった。
当然、追手も逃げ出そうとしている美里に気付いた。美里はもう、あとも見ずに一目散に走った。ただ、逃げる途中に誰かとぶっつかったが、それに気を払う余裕もなかった。
美里は後ろを振り返る余裕もなく、ただ前だけを見て、懸命に走った。だが、行きついたその先には道がなかった。懸命に逃げる美里は、知らぬ間に流された橋のたもとにきていたのだ。だが、あるべき橋はなく、そこから先は渦を巻きながら濁流が音を立てて流れている川だった。追い詰められ後のない美里に追っ手の男が言った。
「これ以上、逃げ場はありません。いい加減、観念して、王様のもとに戻りましょう」
そう言いながら、男は美里に一歩近づいたが、岸の際に追い詰められた美里は思わず後ずさりした。だが、その先はなかった。美里の体は、そのまま川に落ちていった。
「人が川に落ちたぞー」
その声に誰もが川を見た。川に落ちた美里の体は一度沈んだのち、再び浮き上がったものの、たちまち濁流に飲み込まれて、すぐに見えなくなってしまっていた。
「あれは助からないな」
「かわいそうに、まだ若い娘のようだったがな、こんなところで命を落とすなんて、無念だっただろうな」
そういいながら、その場にいた者は一様に、若い娘の冥福を祈っていた。この状況で助かるはずはなかった。そして、そう思ったのは、美里を追っていた男たちも同様だった。
男たちは美里の体が完全に荒れ狂う波の中に消えてしまっても、しばらくはあきらめきれない様子でその場に立ち尽くしていたが、その後、何事もなかったように消えていた。
だが、ただ一人、流されてゆく娘を助けようとするかのように必死に後を追う男がいた。
「みいりー」とその名を呼びながら、懸命に美里の姿を追いかける男こそ、汎陸だった。
汎陸は大雨で橋が流されたことを聞いて、必ず、ここに美里が足止めされていると期待した。それで、あちこちと美里の足取りを探したが、容易につかめなかった。
その中で役所が広間を開放してくれているという情報を得て、そちらに向かっていたが、途中、一人の女がいきなり汎陸にぶっつかってきた。
挨拶もなく、そのまま走り去っていく女の後姿を見ながら
「いったい何があって、そんなに急いでいるのか?」といぶかる間もなく、すぐその後を数人の男たちが女の後を追っていった。
それで、ようやく、汎陸は逃げて行ったのは美里であり、後を追うのは丹櫂の手の者かもしれないことに気づいた。
汎陸も、懸命に後を追った。だが、追いついたその時は、美里は川の岸に追い詰められていた。そして追手の男が美里に一歩近づいたのと同時に美里の姿は川の中に消えていた。
「みいりー」と呼ぶ声も激しく流れる轟音に消えていた。
汎陸は美里の姿を追って、懸命に走った。だが行く手を川岸に打ち上げられた多くの流木に邪魔され、それをかき分け、躓きながらもひたすら走っていた。
その後、王宮では丹櫂が「王妃が川に転落し、濁流にのまれて死んだ」という報告を受けていた。その報告に丹櫂は烈火のごとく怒った。
「いったい、お前たちはなんてことをしたんだ。私は必ず無事に王妃を見つけてくるようにと言ったはずだ。それができなかったお前たちをどう、罰したらいいと思うか?」
「どうか、許してください」と、懇願する男たちを丹櫂は容赦なく切り捨てた。その一方で丹櫂は「たとえ、死体になっていようが必ず、王妃を見つけ出すように」という指令も新たに出していた。
だが、丹櫂は判断を迫られていた。王宮では美里の不在が隠せない状態になっていた。
「王妃が二度にわたって王のもとを逃げた」
そんな不本意な噂が立つのだけは避けたかった丹櫂は後宮に入った美里が突然の病で亡くなったことにした。そして、遺体の入っていない棺まで用意し、美里の葬儀を執り行った
これで完全に王妃、美里は後宮で亡くなったことになり、美里が王のもとから逃げたことは隠しおおせた。
一方、その後、側室たちの壮絶な覇権争いは見えないところで、一層激しくなっていた。特に第一王子の母である愁貴は多くの臣下たちからの愁貴詣でに、すっかり昔の栄光を取り戻していた。
このまま行けば、王の後継者は第一王子になるはずだった。見渡しても王子の中に愁貴の第一王子の右に出る者はいなかった。だが、愁貴はそれを確実なものにしたかった。特にアンジュが身ごもっている子のことが気がかりだった。
アンジュが王の寵愛を失ってもまだ、王妃の位にあり、アンジュが王子でも産めば、再び寵愛を得るかもしれなかった。それに、アンジュを見た医者がお腹の子を「男児だ」と言ったとのうわさにじっとしていられなくなっていた。
アンジュはつわりも落ち着き、少しずつ体力もついてきて、昔のように庭を散策する日も増えていた。そして、アンジュは昔、美里の住んでいた古い屋敷を思い出し、そのあたりまで足を延ばしていた。
アンジュはあの日、美里が王宮を出たことを習慈英の手の者から聞いていたが、その後の美里の行方がずっと気がかりだった。だのに、その美里が、後宮で突然、急死したという報を受け、その葬儀まで行われたことに違和感を持っていた。
美里が死ぬはずがないと思っていても、やはり不安だった。何とか情報を得たいと思っても、それを知る手段がなかった。アンジュは心許せる友がいない中、孤独に耐えていた。
ただ、喜べなかった妊娠だったのに、おなかの子が成長するにしたがって、母親としての喜びを感じ始めていた。アンジュは味方のいない王宮の中に新たな生きる希望を見出していた。
愁貴はアンジュが度々散策に出ることを聞いていた。愁貴はこの機会を見逃さなかった。
「王妃は必ず、この道を通るはずだから、ぬかりのないように王妃を襲わせて」
愁貴は黒い大型犬を待機させ、いきなりアンジュに襲い掛からせた。
不意を突かれたアンジュは転倒しながらも、必死にお腹を守っていた。大型犬はなおも執拗にアンジュを襲っていたが、侍女の助けを呼ぶ声に、人が集まってくると、犬笛に呼ばれた大型犬も消えていった。
アンジュは幸い、流産は免れたが、犬の歯に毒が仕込まれていたのか、高熱を出し、このままだと、胎児はおろか王妃の命も危うい状態になっていた。
丹櫂は母子ともに命の危険があるといわれ、初めて、アンジュを失うかもしれない恐怖を感じていた。自分のアンジュへの思いにようやく気づいた丹櫂は医師に命じた。
「何があっても、王妃の命を救うように」
丹櫂はたとえ、お腹の子の命を失うことがあったとしても、アンジュだけは失いたくなかった。
丹櫂は片時もアンジュのそばから離れようとせず、寝ずにアンジュの看病をした。その思いが通じたのか、アンジュの熱が下がり、アンジュが再び目を覚ました。手を尽くしたおかげで、完全に解毒され、お腹の子への毒の影響も見られなかった。
アンジュが犬に襲われた一件は一部始終を見ていた侍女によって、王に報告されていた。王は身重なアンジュを狙ったこの卑劣な事件をあいまいにしなかった。
「必ずだれが襲わせたのか、明らかにする」
丹櫂のその言葉に一番怖れ慄いたのは誰でもない、愁貴、その人だった。
愁貴はアンジュの流産を目論んでいたが、その思惑は見事に外れ、自分への疑いを減らすために、しばらくは身を慎むことを余儀なくされた。
アンジュは今回のことにより、命を狙われていることを自覚することになった。最悪な事態は免れたが、これから先、どんな事態が起きるか予想が付かないだけに不安が先に立った。
アンジュは子どもの命を守るため、一層、慎重にならざるを得なかった。
アンジュは月が満ち、無事女の子を生んだ。アンジュは生まれた子が女の子だったことを心から喜んだ。これで王宮内の王位継承をめぐって無駄な争いごとに巻き込まれずにすむことにほっとしていた。
丹櫂は多くの王女がいるのにもかかわらず、予想に反してアンジュの子を特にかわいがった。璃妃と名付けられた王女はアンジュに似て目鼻立ちがはっきりした美しい顔立ちをしていた。丹櫂はこの子を目に入れてもいたくないほど、かわいがった。
そして、アンジュは望まないのにもかかわらず、再び丹櫂の寵愛を受けることになっていった。
あれから一年が経っていた。その街ではある男が何かと人々の注目を浴び、特に、女たちの間では評判がよかった。
「あんなにいい男なのに、体が不自由な奥さんを一筋に尽くしているんだから、全く、うちの夫に、あの人の爪の垢でも煎じて飲ませたいよ」
「本当だね。あんないい男はめったにいるもんじゃないのに、そこまで尽くされる奥さんというのも相当美しいんだろうね」
「なんでも、奥さんというのはあの洪水のあった時に上流から流されて来た女性らしいよ。見つかった時は水死体として片付けられたんだそうだからね」
「死んではいなかったんだ」
「ああ、そこに旦那だという、あの人が現れてから奇跡的に息を吹き返したんだ。それからは、奥さんのために近くに家を借りて、寝ずの看病をした結果、今では起き上がれるくらい回復したらしいよ」
「あのいい男は何をしている人なんだい?」
「なんでも晩翠という有名な絵師らしいよ」
「金を稼げて、妻一筋に尽くしてくれる、あんないい男を旦那に持てるなんて、奥さんという人は、よほど前世で徳を積んだんだろうね」
「だけど、まだ体の自由が利かず、夫に介護されるだけの生活らしいからね。いくらいい夫を持ったといっても、そんな状態で生きながらえたいとは私は思わないよ」
そう、女たちに言われているとも知らず、汎陸は今日も市場にきて、その日の食材を探していた。
「何かいいものは入っていないですか?」
「今日は、新鮮な太刀魚が入っていますよ」
この町は比較的、海が近いので新鮮な魚が手に入った。汎陸はこれを焼いて美里に食べさせるつもりだった。骨が多いものの、太刀魚は美里の好物だったのだ。
汎陸は家路を急ぎながら、こうして美里と過ごせる日常に幸せを感じていた。
あの日、濁流に飲み込まれながら流される美里の後を必死に追いかけたが、追いつくことは土台無理だった。川岸には流れ着いた多くの流木が汎陸の行く手を阻んだ。
それでも汎陸はあきらめきれず、美里の姿を追い求めて下流の街を探した。そしてある街で耳寄りな情報を耳にした。
「今日もまた、上流から流れ着いた水死体が川岸に打ち上げられたらしいよ」
「さっきは馬も流されてきたというからね。被害は人間だけにとどまらないよ」
「そういえば、昨日、流れ着いた水死体は、きれいな女だったよ。まだ二十歳そこそこと思われる若さだったが、あの美しさだったら、優雅な人生も送れただろうに、かわいそうな話だよ」
汎陸はその話を聞き流すことができなかった。
「その水死体には、どこに行けば会えますか?」
そうして、汎陸は美里が収容されている施設にきていた。そして美里に対面した。だが、美里は顔色こそ悪かったが、死んでいるとは思えなかった。
汎陸は必死に美里の名前を呼び、体をさすった。すると、それに応えるかのように美里が大きく息を吹き返した。
美里は死んではいなかった。汎陸はすぐに医者に診てもらったが、全身打撲の上に、脱臼や骨折をしていた。
脱臼や骨折を修復してもらったが、美里は体に受けたダメージが大きいのか、すぐに目覚めることはなかった。
汎陸は近くに家を借りて、そこで看病しながら美里が目覚めるのを待った。
そして、美里が意識を取り戻したのはその一か月後だった。
「美里、ようやく、目覚めたんだね」
「陸兄さんがなぜ?」
美里は目覚めても、自分の状況がすぐには理解できなかった、それに会いたいと思っていた汎陸が心配そうに顔を覗いるのを不思議な気持ちで見ていた。
確か、自分は濁流に飲み込まれたはずなのに、恋しいと思っていた汎陸に会っていること自体あり得ないことだった。自分はすでにこの世の者でなくなったのかと聞いていた。
「私、死んだの?」
その美里の問いに汎陸は笑いながら答えた。
「死んでなんかいないよ。それに、そんなに簡単に死んでもらっては困るよ。折角、こうして、美里に会えたんだから」
「私、川に落ちたはずなのよね?」
「ああ、濁流に飲み込まれながら、奇跡的に生還したんだ」
「兄さんが助けてくれたの?」
「いや、美里の生きる力が強かったんだ。ただ、全身打撲で、あちこち骨折しているから、まだ、動けるようになるには、かなりかかりそうだけで、気長に頑張ろう」
「ありがとう、兄さんが見つけてくれなかったら、私の命も尽きていたかもしれないわ。全て、お兄さんのおかげです」
美里は半年もたたないうちに、汎陸の献身的な介護のおかげで、支えがあれば、自分で歩けるほどに回復していた。時には庭に出て花を愛でることもあった。二人は誰に邪魔されることもない穏やかな日々を過ごしていた。
汎陸は美里との穏やかな生活の中で、当初は丹櫂からの追跡の影におびえていたが、今ではその不安もなくなっていた。
あの時、追手は目の前で美里が流されていく姿を見ていたから、美里が生還したとは思うはずはないとは思っていた。だが、念のために調べた。
すると、美里が川に流された後、王宮で美里の葬儀が盛大に行われたことを知った。これで、丹櫂自らが美里の死を認めたことになり、再び美里を追い求めるはずはなかった。それに、あれ以来、美里の周辺を探る怪しい影を感じることはなくなっていた。
二人はようやく不安に怯えることなく、自由な毎日を楽しめていた。
美里が完全に回復したころには、二人で街に出かけることも増えていた。そして、そんな二人を見た人たちは思わず感嘆の声を上げた。
「まさしく美男美女の夫婦だね。見ているこちらが幸せになれるよ」
二人はどこでも好意的に受け入れられた。
二人は夫婦を装ってはいたが、まだ本当の夫婦にはなっていなかった。
汎陸はいつかそうなりたいと願っていたが、美里の回復が優先され、そのタイミングを失っていた。
美里も同じ思いだったが、それを自分から言い出せなかった。それでも周りから、そう勘違いされることは嫌ではなかった。
「汎陸さん、今日は奥さんと一緒なんだね。美しい奥さんを持ってうらやましいよ」
「ありがとうございます」
その汎陸の言葉に美里は恥じらいながらもうれしさを隠せなかった。汎陸と美里は穏やかな日常を心行くまで味わっていた。
そんな二人はこの地が気に入っていたが、このままここに住み続けるか、それとも当初の目的地の宜の国を目指すのか迷っていた。
「これから先、どうします?」
「もう、丹櫂に追われる心配もなくなったのだから、わざわざ、宜の国まで行く必要はなくなった。だったら、我が家に帰らないか?」
「私たちが住んでいた家は火事で消失しているはずだけど・・・」
「私が家を再建し、住めるようにしている。それに父母の眠る墓もあることだから、あのままにしておくのはやはり心残りなんだ」
その言葉で美里は珀の国に戻る決心をした。そして、そのことは習慈英に封書で伝えていた。
汎陸は珀の国に戻ったら正式に美里に結婚の申し込みをするつもりだった。今は誰も反対するものはなく、美里の気持ちも汎陸に伝わっていた。
二人が帰国の準備をしているころ、王宮では丹櫂が放っていた隠密から意外な報告を受けていた。その隠密は丹櫂から「死体でもよいから美里を見つけてくるように」と、密命を受けていた者だった。
「王様、美里様らしき人物を見つけましたが、それが果たして美里様かどうか?」
「その人物は生きているのか?」
「はい、生きていて夫と二人で暮らしています」
「夫?」
「はい、近所でも似合いの夫婦と評判を取っています」
「夫は何をしているのか?」
「絵師らしいです」
その言葉に丹櫂はピンとくるものがあった。美里もまた絵師だったことを思い出していた。だが、死んだはずの美里が生き返り、夫までいるというのが信じられなかった。丹櫂は自分の目で確かめずにはおれなかった。
丹櫂は二人が住む町にきていた。そして、二人が暮らす家の様子を窺っていた。そうして、その家から出てきた女は紛れもない美里だった。
やはり美里は死んでなどいなかった。死んだという報告はいったい何だったのか?丹櫂はどこにも向けようのない怒りで、いっぱいになっていた。
だが、美里が以前と変わらぬ美しい姿に思わず声をかけようとして、それをかろうじて思い留まった。
「美里、ちょっと待って」
そう、美里の名を呼びながら、男が家の中から出てきた。これが美里の夫と言われている男か?丹櫂はその男を食い入るように見た。
身長は高く、絵師にしておくにはもったいないほどの整った顔立ちをしていて、二人が似合いだといわれているのも納得できた。
「まだ十分回復していないんだから、風邪などひかないように十分、気を付けて」
男は美里の肩に上掛けをやさしくかけた。
「ありがとう」
そう返す美里も、丹櫂が見たこともないやさしい笑みを浮かべてみた。
二人は誰が見ても美しく似合いの夫婦だった。こちらが恥ずかしくなるほど、二人の間には愛し合い、信頼しあう者同士の甘い空気が漂っていた。
丹櫂はそんな二人を見て、激しく嫉妬した。王である自分が欲しくても手にすることのできなかった美里の心がこの若い男にあることが許せなかった。
今すぐにでもこの男を切り捨てて、美里を奪い去りたかったが、なぜかそうできない何かがあった。
丹櫂はそばの男に「あの男の素性を調べたか?」と聞いた。
「はい。あの男は・・・」と、言いかけたところで隣人らしい男がやってきて、
美里の夫に声をかけた。
「汎陸さん、あんたたち、この町から出ていくって聞いたけど、本当なのか?せっかくいい隣人に恵まれて喜んでいたというのに、そんな悲しいこと言わないでくれよ」
「ああ、もう聞かれたのですか?別に、今すぐというわけではありませんが、いずれは故郷に戻ろうと考えているのです」
「じゃ、今すぐってことじゃないんだな?みんなそのことを聞いて寂しがっているんだ。それで代表して俺が聞きに来たわけだが、まだ、考える余地はあるんだろう?」
「いや・・・」
「ねえ、奥さん、奥さんからも旦那にお願いしてくださいよ。このままここに残るって・・・」
丹櫂はそんな会話が交わされているのに、全く耳に届いていなかった。
(この男が汎陸?)
丹櫂は汎陸の名前を知っていた。丹櫂の父親が今わの際に丹櫂に打ち明けた話は今も耳にはっきり残っていた。
丹櫂の父親の丹昂(たんこう)は王にふさわしい男ではなかった。やさしいだけが取り柄の丹昂が王になると、たちまち他国から侵略され、幼い息子を人質に出さなければならない屈辱を受けていた。
優柔不断な丹昂は甲斐の国のかじ取りもすべて、王妃の助言なくしてはできなかったのだ。父親の代に比べて、すっかり弱小国になったものの、それでも何とか息子の丹櫂に国を譲ることができたのはすべて、妻の王妃のおかげだった。
丹昂はそんな妻に気兼ねして、終生、王妃以外に側室を迎えることはなかった。
おかげで、他国のように腹違いの兄弟はなく、後継者問題で争うこともなかった。
だが、丹櫂は争うことがあってもやはり兄弟が欲しかった。時には競い、時には腹を割って話し合う、そんな兄弟の存在がいてくれたらと、度々考えたものだった。
だから、自分には兄弟はなく、両親の子は自分だけだと信じていた。だが、そうではなかったのだ。
父親の丹昂が珀の国の手に落ちて、捕虜となっていたのが解放され、戻ってきたときは、あまりに変わり果てた姿に驚いた。大柄だった父は痩せて小さくなっていた。体のいたるところに痛めつけられた跡があった。栄養状態が悪いうえに、食も受け付つけられなくなった丹昂は次第に衰弱していった。
そんな丹昂は、息絶え絶えになりながらも、人払いした後に丹櫂に言った。
「今から話すことは、絶対に王妃に気づかれてはならない。お前の胸に収めるという約束をしてくれ」
丹櫂は分からないままに父親と約束をさせられた。
「実はお前には腹違いの弟がいる」
丹櫂はいきなり、そう言われてもにわかに信じがたかった。
「いったいどう言うことなのですか?」
「私は王妃が嫌がることもあって側室はとらなかった。王妃は気が強いところはあっても私のことを大事に思ってくれていたからね。私も王妃のその思いに応えようとした。それに多くの側室を抱えることで受けるストレスは避けたかったからね」
「母上は父上のことを母上なりに愛していましたからね」
「それは私もよくわかっている。だが、あるころから、私は凛香(りんか)と言う一人の女性を愛するようになっていたんだ。その女性が持つ柔らかさや優しさに癒されたんだ。彼女は王妃付きの侍女だったが、王妃の目を盗んで逢瀬を重ねた。王妃に対する罪悪感はあったが、惹かれる思いはどうしようもなかったんだ」
「・・・・」
「だが、彼女が私の子を身ごもった。日々大くなるお腹を見て、私は判断を迫られた。プライドの高い王妃は決して彼女を許しはしないことは分かっていた。お腹の子供だけでなく彼女の命さえ、激した王妃が害さない保証はなかったんだ」
「・・・」
「二つの命を救うために、私はその当時の宮廷絵師の汎道雪を利用することを思いついた。凛香のお腹の子は絵師の汎道雪の子で、道ならぬ恋に落ちた二人は人知れず王宮から逃げたことにしたんだ。汎道雪は私の提案を嫌がらなかった。また凛香も大きいお腹を抱えて他に選択の道はなかった。二人はそうして王宮から逃げ出した」
「母上には気づかれなかったのですか?」
「全く気付いていなかった。まさか気弱な私が王妃以外に好きな人をつくるなんて考えてもいなかったと思うよ」
「それで、逃げた二人は、それからどうなったのですか?」
「旅の途中で男の子を産んだという報告は受けた。そして、名を汎陸と名付けたことも・・・。だが、その後の行方は全くつかめなくなってしまった」
「そうですか・・・」
「私は自分の命が尽きようとしている今、その子のことがどうしても気がかりなんだ。櫂、お願いだから、汎陸のその後を調べてほしい。そして手助けが必要なら、何等かの形で助けてほしい」
そう言って丹櫂の手を握った。丹櫂はその手を握り返しながら言った。
「わかりました。必ず、汎陸のその後を調べ、助けが必要なら助けますから・・・」
父親はその言葉を聞くと安心したように目を閉じたが、再び目覚めることはなかった。
丹櫂はその日のことを改めて思い出しながら、全く父との約束を果たしていない自分を振り返っていた。父の死後、一度は汎陸の行方を探そうとした。だが、そのことによって母親が今まで知らなかった夫の裏切りを知ることになり、傷つくようなことは何があっても避けたかった。
それに、今更、見つけ出して、兄弟の契りを結びたいとも思わなかった。丹櫂はわずらわしさが先に立ち、自分と八歳違いの弟のことを亡きものとした。そして、それ以降、一度も思い出しもしなかった。だが、今、その弟が目の前にいた。
丹櫂はその弟を目の前にして、不思議な感覚を味わっていた。一度も会ったことがないのに、なぜか懐かしさを感じていた。
丹櫂は父親に似ていた。そして目の前の汎陸も父親の丹昂の面影を随所に残していた。
ひときわ高い身長や、整った顔立ちはまさしく父のものだった。丹櫂は汎陸の中に父親の面影を探しながら、同じ父親を持つ息子として、汎陸の存在を認めざるを得なかった。
その丹櫂のそばで、男がなおも汎陸の調査結果を報告していた。
「汎陸の父親は絵師の汎道雪で母親の凛香とともに、珀の国に三人で住んでいました。そして、その家の離れに住んでいたのは、他ならぬ、美里様親子だったのです」
丹櫂はその言葉を聞き洩らさなかった。
「なに?美里と汎陸は昔からの知り合いだったのか?」
「はい、幼馴染で、汎道雪に二人ともに絵を習い、お互い腕を競い合っていたといいます」
「二人は何がきっかけで出会うことになったのか?」
「先の王の忘れ形見である美里様親子はずっと、その存在を快く思わない者から執拗に命を狙われていました。そして、その逃亡生活の果てに行き倒れた二人を助けたのは汎陸で、そんな親子を見捨てずに献身的に面倒を見たのが汎陸の母親だったのです」
「美里は王宮で恵まれた環境で育ったのではなかったのか?」
「いえ、王宮で育った王女たちが嫁ぐのを嫌がったために、美里様を探しだし、急遽、王女に仕立てたのです」
丹櫂は初めて聞く、美里の境遇にいまさらながら同情した。
そして、本来なら、珀の国の王女として恵まれた環境に育ったはずの美里と、甲斐の国の王子である汎陸はその生まれを知らないがゆえに、王宮とはかかわりのない場所で庶民として生きてきていた。
そんな本来は出会うはずがない二人が出会ったのは、この二人が不思議な縁で結ばれているとしか思えなかった。
丹櫂は二人の仲睦ましい姿を見ながらそこに自分が割って入る余地のないことを感じていた。そして、自分の美里に寄せる思いは一方的な横恋慕に過ぎないことを痛感していた。
丹櫂は会う前はどんなことがあっても、美里を王宮に連れ戻そうと考え、そのためには相手の男の命さえ奪う気だったのが、その思いはすでになかった。
自分が甲斐の国の王子であることも知らないで育った弟から、愛する人まで奪うことはできなかった。
それに、自分が仕掛けた報復に、王宮とはかかわりのなく育った美里が犠牲になったこともわかり、美里にも、これ以上の苦痛を与えたくなかった。
知らぬ間に自分の思いの中に入り込んでいた丹櫂は、隠密の男が自分を呼ぶ声にようやく気付いた。
「王様、どうですか?やっぱり、美里様で間違いないですか?」
「いや、よく似ているが、やはり違う人間だ」
ばの男は、目の前の男女は美里と汎陸としか思えないのに、王のその言葉に驚いた。
「えっ?違うのですか?」
「ああ、違う。他人の空似だ。だから、あの二人のことは忘れてほしい」
「何もしなくていいのですか?」
「何もしなくていい」
王がそう言ってもその男は信じられなかった。美里と汎陸をそのままにする王の真意を図っていたが、臣下である男には王の考えなど到底理解することなどできず、王の言葉に従うしかなかった。
丹櫂は二人のことにはかかわらないことに決めた。汎陸について今更、自分が兄だと知らせたところで混乱させるだけだと思えた。
丹櫂は今では絵師としても認められ、周りの人からの信頼を受けている汎陸の姿を見て、兄として誇らしく思えていた。だが、その汎陸をそこまで育てたのは他ならぬ汎道雪であり、汎道雪の子どもとして穏やかに育ったからこそ、今の汎陸がいるのだと思えた。
丹櫂は二人の幸せを願いながら王宮へと戻っていった。
王宮に戻った丹櫂だったが、日を重ねるに従って、汎陸のことが気になって仕方がなくなっていた。兄と名乗らなくても、汎陸に会い、言葉を交わしたいと思うようになっていた。今までの暮らしの中で悩みや苦労はなかったか?あれば、力になってあげたいとも思っていた。なにより、父親との約束を満足に果たしていないという引け目が丹櫂の中にあった。
丹櫂は身分を偽って汎陸に会っていた。
料亭の離れで待っていると、汎陸が案内されて部屋にやってきた。
「ああ、汎陸さん、わざわざ足を運んでいただいて恐縮です。私は王孔明と申す商人です」
「王孔明さん?あなたがなぜ、私に会いたいと?」
「実は私は昔、あなたのお父様の汎道雪さんに一方ならぬお世話になったのです」
「父にですか?」
「ええ、実は昔、汎道雪さんとは家が隣同士だったのです。そして、父が病身で食べるものもろくにない私たち親子を汎道雪さんは何くれとなく面倒を見てくれたのです。おかげで、私たちは何とか生きながらえることができました。あのとき汎道雪さんがいなかったら、今の私もいなかったと思います」
「そうだったのですね。そんなことがあったなんて、全く知りませんでした」
「初耳ですか?」
「ええ、初耳です」
「ではそのころ、汎道雪さんは甲斐の国の宮廷絵師だったことをご存じでしたか?」
「いえ、知りません。父が宮廷絵師だったなんて、初めて知りました」
「汎道雪さんは、ある晩、逃げるようにして、引っ越して行きましたが、何があったのか聞いていませんか?」
「いいえ、まったく聞いたことはありません。何があったのでしょう?甲斐の国に住んでいたことも初めて知りました。父は寡黙で自分のこともあまり話さない人でした。ですが、穏やかな人で、絵を描くこと以外には関心を持たない人でした」
「よいお父様だったのでしょうね」
「ええ、口に出さなくても、父から愛情は肌で感じてきました」
「お母さんとの夫婦仲もよかったのですか?」
「夫婦仲は周りが羨むほどでした。しっかり者の母がすべてを仕切っていましたが、そんな母を父は信頼して任せていました」
「幸せな子供時代を送られたのですね」
「はい、これ以上ないくらい幸せな家族でした」
「そうですか?でも、もし、あなたがある国の王子の生まれだと判明したら、それまでの家族との生活を捨てて、王子としての生活を選ぶのではありませんか?」
「いえ、全くそんな考えはありません。私は両親のことを尊敬し、二人の息子として生まれたことを誇りに思っていますから。それに、王子などありえないことですが、もしそうなったとしても、そちらを選ぶことなどは全く、考えられないことです」
「そうなのですね。さすが汎道雪さんの息子さんだけありますね。汎道雪さん同様、気概があります。でも、お父様もお母様も、もう、亡くなったと聞きましたが?」
「はい、母は数年前に突然の病で亡くなりました。そして、父は丹櫂の一方的な襲撃で命を落としました」
丹櫂は思わぬところで自分の名前が出て、思わず汎陸の顔を見たが、汎陸は目の前の男が丹櫂その人だとは気づいている様子はなかった。
「そうだったのですか?残念でしたね。やはり、丹櫂には許せない思いがあるでしょうね?」
「それは憎くないといえばうそになりますが、いつまでも憎しみを抱いて生きていては人生を無駄にしそうで、今は自分が幸せであることを大切にしたいと思っています」
「そうですね」
丹櫂はそう答えながら、内心は複雑だった。その内心を隠しながら、さらに言葉をつないだ。
「実は私は手広く商売をしていて、昔の恩を汎道雪さんの代わりに、あなたに返したいと考えてきたのです。私がお手伝いできることがあれば、何でも言ってください。今の私にはできないことの方が少ないですから」
「ありがとうございます。その言葉だけで十分です。それに、昔の父の話を聞けたことが何よりうれしいことです。今日は王孔明さんに会えたこと、とても幸せな時間でした。ありがとうございます」
そう、言いながら丹櫂を見つめてくるその目は純粋で、少なくとも丹櫂の周りにいる少しの隙も見逃さず、絶えず相手の先を行こうとする人間たちのエゴとは無縁の目をしていた。
丹櫂は汎陸が部屋から出ていくと、思わず、天を仰ぎながらいった。
「お父上、あなたの息子の汎陸は、とても素晴らしい人間に育っていましたよ。かえって、王宮で王子として、育たなくてよかったのです。これからも汎陸が幸せでいられるよう、見守っていてください」
汎陸は父親の話が聞けて、満たされた思いで表に出た。すると、待っていたかのように店の女将が近づいてきて言った。
「汎陸さん、あの立派な身なりの人はあなたとは、どんな関係の人ですか?」
「いえ、昔、私の父親と知り合いだった人です」
「そうですか?単なる知り合いですか?そうには見えませんでしたが・・・」
「どういうことですか?」
「あまりにも汎陸さんとあの方は似ていましたから、年の離れた兄弟に見えましたよ」
「私は一人っ子で、兄弟はいませんから、他人の空似でしょうね」
「そうですか?」
女将はそう言われてもまだ納得していない様子を見せた。だが、汎陸にしても、なぜか、王孔明に初めて会った人間とはおもえぬほど、親近感を抱いていた。
汎陸には兄はいなかったが、兄がいれば、きっとこんな感じだろうと思えるほど安心できた。できれば、これからもずっと付き合っていきたい思いを持っていたのだ。
丹櫂が表に出てきたとき、少し前を汎陸が歩いていた。丹櫂は付ける気はなかったのに、自然と汎陸の後を歩いていた。そして、そんな汎陸に町の人たちが次々と声をかける様子を見ていた。
「汎陸さん、今日は一人でお出かけかい?きれいな奥さんは一緒じゃないんだな?」
「汎陸さん、今日はサンマの生きのいいのが入っているよ」
そう、声をかけてくる者一人一人に丁寧に応える汎陸に、丹櫂は自分との違いを見ていた。
家の前では通りを掃きながら、美里が汎陸の帰りを待っていた。
「美里、ただいま」
「おかえりなさい、それで、あなたに会いたいという人は知っている人でした?」
「いや、父の昔の知り合いで、父にお世話になったから、その恩返しをしたいといわれたが、私にはその気持ちだけで十分うれしかったよ」
「そうだったのですね。おじさんも素晴らしいけど、昔の恩を忘れずにわざわざ探し出して尋ねてくれる、その人も素晴らしい方ですね」
「そうなんだよ。初めて会うのに、なぜか懐かしさを感じさせてくれる人で、また会いたいと思わせられたよ」
「いい出会いがあったのですね。きっと、また会う機会があると思いますよ」
「そうだね」
二人はそう話しながら家の中へと消えていった。
丹櫂はその後姿を見送りながら、二人の間には愛し合い、信頼しあう者同士が醸し出す豊かな空間が広がっているのを感じていた。それは今まで丹櫂には得られなかったものだった。
丹櫂はこれまで多くの女性に囲まれていた。大国の王として多くの側室を抱えることは王の力を示すステータスであると思っていた。だが、愁貴をはじめとする多くの側室たちは、ただ、自分の欲を満たすために丹櫂の寵愛を得ようと媚びへつらい、如何に他に抜きん出るかでしのぎを削っていた。
丹櫂はそんな女たちの姿は見たくなかった。多くの女に囲まれていてもいつも孤独で決して幸せではなかった。
丹櫂は自分のことを心から愛してくれる相手がほしかった。だが、望んでもそんな女性はどこにもいなかった。丹櫂はそんな自分の人生が無性に虚しかった。、だが、その原因は自分にあることも分かっていた。
丹櫂はある頃からそれまでの自分の生き方を変えていた。
それまでの丹櫂はどちらかというと、父親に似て優しく気弱なところのある子だった。そんな丹櫂を母親は強くなるよう、叱咤激励した。
「あなたがそんな風だったら、この国はどうなるの?今でさえ、国として存続するのが難しくなっているというのに、たった一人の王子がそんなに軟弱では、どう、この国を守れるというの?」
丹櫂は母親の厳しい叱責にも、どう変わればいいのか、実際のところ、よくわかっていなかった。
だが、他国から一方的に攻められ、国を割譲することになっても何も反撃できない状態に、丹櫂もこの国の王子として、今のままでいられないことを痛感するようになっていた。そのうえ、自身が珀の国に人質として送られたことで、それまでの丹櫂が大きく変わらざるを得ないきっかけとなった。
珀の国で、丹櫂は毎日を屈辱の中で生きていた。弱小国の王子である自分は不当な扱いや陰湿ないじめにも、ただ耐えることしかできなかった。だが、それ故に、それに屈しない強い精神力を培われていた。
長い人質生活が終わっても、甲斐の国は相変わらず弱く、すぐには状況は変わらなかった。そのうえ、父親の丹昂は戦いの途中で、百の国にとらわれ、拷問されて瀕死の状態で戻ってきたときは、さすがの丹櫂もこのまま終われないと思った。この頃から丹櫂が変わった。
王になった丹櫂は誰よりも強くたくましく、そして厳しくなった。誰にも弱さを見せなくなった。やられる前に相手を徹底的につぶすことで、甲斐の国も変わっていった。戦いに負けることがなく、全戦全勝した。もう、過っての弱小国の甲斐の国ではなくなっていた。
そして、丹櫂も、もう、そのころには昔の面影がなかった。強くたくましく、威厳のある王はいつしか、誰よりも高圧的で、横暴な王になっていた。だが、その分、孤独で、苦しくても人に弱みを見せられない人間になっていた。そして、人と親しくし、距離を縮めることができない人間になっていた。
丹櫂は改めて、そう、ならなければならなかったとはいえ、時間をかけて愛を育てることをしなかった自分を振り返っていた。
丹櫂は汎陸と美里の二人を見ながら、あの二人のように、自分も愛する人と心から信頼しあえる関係を培っていきたいと思うようになっていた。
その日は汎陸と美里の婚儀の日だった。二人が正式の夫婦でないことを知った町の人たちが二人のために婚儀を整えてくれたのだった。
「なんて美しい花嫁なんだろうね。こんな美しい花嫁は見たことがないよ」
「全くだよ。それにまた、花婿も花嫁に劣らない美男子ときているからね。うらやましい限りだよ」
「こんな婚儀に立ち会わせてもらったことは私の自慢になるだろうね」
汎陸と美里はみんなの祝福を受け、晴れて夫婦になった。
その日の二人は幸せに満ち、神々しいまでも美しかった。
汎陸と美里は過っては珀の国の領土だった故郷に戻っていた。荒れ果てていた土地にも少しづつ人が戻り、新たに町として復興しつつあった。だが、そんな街には行き場もなく、食べることに困窮する人たちも多く集まってきていた。
汎陸と美里はそんな人たちを見過ごすことができず、いつのころからか、炊き出しをするようになっていた。
「ありがとうございます」
「あなたたちのおかげで飢え死にせずにすみます」
そう感謝して、炊き出しに並ぶ者の中に美里のことを知っている者もいた。
「あなたは、たしか過っての珀の国の王女ですよね。そして、甲斐の国に王妃として嫁がれた美里様ですよね」
「いや・・・」
「あなたこそ、この国の一番の被害者ですよ。この国のために嫁いだというのに、丹櫂は必要なくなったら王妃でさえ追い出したのですから、丹櫂ほど非情な人間はいないよ。あんな男には天罰が下ればいいんだよ」
そんな会話に周りにいたものも加わってきた。
「この方は、珀の国の王女様なのかい?」
「そうだよ。世が世なら、俺たちが目にすることもできない方なんだ」
美里は勘違いしている目の前の男たちの間違いをただすこともせず、ただ、自分が生きていることを丹櫂にだけは知られたくないと思っていた。
だが、二人は炊き出しだけでなく、そんな困っている人たちのための宿泊所を建て、そこから雇用も生み出してもいた。
その資金源になっていたのは汎陸の絵が以前に増して、高額で取引されるようになっていたからだった。純粋に汎陸の絵を求める者も多くなってはいたが、それ以上に、丹櫂が人知れず汎陸の絵を買い求めていたからでもあった。前以上に高額で売れるようになったのは丹櫂のおかげだったが、そのことを汎陸は知る由もなかった。
町には汎陸と美里の評判を聞き、二人に助けを求めて人が集まり、また、各地に散らばっていた同胞たちも戻ってきていた。だが、同時に、丹櫂に家族を殺され、故郷を追われた恨みを抱くものも増えていった。そして、丹櫂殺害の計画を口にする者たちが集まり、一大勢力に育ちつつあった。
美里も汎陸も昔の住人が戻ってきて、以前のように幸せに暮らせることを望んでいたが、丹櫂に復讐したいと考える者たちが、珀の国の王女である美里をその旗頭に考えているとは夢にも思っていなかった。
そのころ王宮では丹櫂が正式に後継者になる皇太子を選ぼうと考えていた。
丹櫂は汎陸と美里の姿を見てから、早期に王位を譲り、後半の人生はゆっくりとアンジュと共に過ごしたいと思うようになっていた。だが、それと知った愁貴が誰よりも早く動き出した。
誰よりも優秀な自分の子が皇太子に選ばれる自信はあったが、それでも安心ができなかった。中でも最近、急にその頭角を現し始めた第三王子が気になっていた。
今まではどちらかというと愚鈍だと馬鹿にしていたのに、長ずるにしたがって力をつけてきたのが気に入らなかった。また、王に似た面差しも憎らしかった。
愁貴は近く開催される馬術大会に目を付けた。それには王子たちも参加することになっていた。愁貴は秘かに第三王子の馬具に、馬をけると同時に針が出るように仕掛けをしていた。それによって、驚いた馬にてこずる王子に王が落胆してくれさえすればよかったのだ。
だが、現実はそうはならなかった。
その日、第三王子が乗る馬は朝から落ち着きがなく、急遽、ほかの馬が検討されたが、その日は、どの馬も空きがなかった。
それと知った第一王子はこともなげに言った。
「だったら、私の馬に乗ったらいいよ。それに、この馬はもとは、私が乗っていた馬だから、馬とも気心が知れている。だから、私がこの馬に乗るよ」
第一王子は母親の愁貴と違い、思いやりがあって優しい男だった。
愁貴の思惑を知る由もない第一王子は針の仕掛けられた馬に乗った。そして、走り出すと同時に蹴られた馬は針が深く体の中に入り、大きくいなないたと同時に第一王子を背中から振り落としていた。そして、方向を失った馬はそのまま暴れながら疾走した。
だが、足が馬具に引っ掛かったままの第一王子は荒れ狂う馬に何も抵抗できないまま、無残にも引きずられるだけだった。誰もがこの状況に驚き、暴れ馬となった馬を制止しようとしたが、誰も馬を制御できるものはいなかった。
最後に馬は壁に激突して停止したが、まだ、興奮状態にあった。その馬が今にも足元に転がっている王子を踏みつけようという時、追ってきた男に制御された。寸でのところで助けられた王子ではあったが、誰の目にも王子が瀕死の状態にあることは明らかだった。顔は腫れ、頭は陥没していた。
あたりが騒然とする中、観覧席から転げるようにしてやってきた愁貴は王子を抱きかかえながら必死に声を張り上げていた。
「誰か、誰か王子を助けて」
丹櫂もまた、目の前で繰り広げられた光景が信じられず、しばらく呆然としていたが、泣き叫んでいる愁貴の姿を傍らに見ながら、鬼気迫る様子を隠すことなく、馬の前に立った。
そして、多くの者に囲まれ、一層興奮している馬を刺し殺すと、その日の馬の飼育係三人と、厩舎の責任者もまた、一刀両断のもと殺していた。
その場にいた誰もが、目の前で行われた惨劇を信じられない思いで見ていたが、丹櫂の殺気立った怒りに、関わりを恐れて誰一人、近づく者はいなかった。
それから三日後、第一王子は目覚めることなく命を落としていた。
愁貴は傍目も気にせず悲しみを表現した。泣き叫び、神を罵り、周りの人間に八つ当たりしながら、次第に狂気じみてきた愁貴の姿を見て、同情する者は少なく、どこか冷ややかだった。
王子の遺体を抱き、片時も離そうとしない愁貴をようやく離し、王子の葬儀が行われた。だが、まだ若く前途のあった王子の葬儀は人々の涙を誘った。
その葬儀にかろうじて参列してはいたが、まるで放心状態の愁貴は以前の愁貴ではなかった。後宮で実権を握っていた、過っての愁貴の姿はもう、どこにもなかった。
一方、期待していた第一王子を不可解な事故で亡くした丹櫂の表情は怒りに満ちていた。なぜ、第一王子が死ななくてはならなかったのか、丹櫂はその死の真相を探っていた。
なぜ、日ごろは大人しい馬があの日に限って暴れだしたのか?そして、なぜ、第一王子が狙われたのか?だが、狙われたのは実は、第三王子であり、当日,,針が仕込まれているとも知らずに、第一王子が馬を代わっていたことが分かると、犯人にすぐにたどり着いた。本当は、第三王子を狙ったものであり、それら全てが愁貴の犯行であることを明らかにしていた。
丹櫂は持っていきようのない憤りに悶絶していた。第一王子を殺害したのは他ならぬその母親である愁貴であることが許せなかった。
それなのに、肝心の愁貴は「王子、王子」と、第一王子の姿を求めてあらぬ方向を見つめ、完全に自分を見失っていた。
愁貴の果てしない欲望が、自らの手で我が子の命を奪う結果になって、正気ではいられないにしても、丹櫂は愁貴を許すことができなかった。
罪を問おうにも本来の姿ではなくなった愁貴には何を言っても無駄だった。
丹櫂は愁貴の今までの様々な悪事をすべて把握していた。アンジュを大型犬で襲わせたのも愁貴だと調べていたそして、傷心の中、亡くなった先の王妃の数々の事件もすべて、愁貴の策略だったこともつかんでいた。
それも、第一王子の生母であるということで見逃してきた経緯があったが、丹櫂はそれが間違いだったことをつくづく後悔していた。
丹櫂はただむなしかった。王である自分はわが子でさえ、守ることができないのだと思ったら、生きているのさえむなしかった。そんな丹櫂の気持ちとは裏腹に、愁貴以外の側室たちは次の皇太子候補にしのぎを削っていた。
丹櫂はそんな後宮での動きが煩わしかった。側室たちの誰にも会いたくはなかった。
そんな時、丹櫂は冷遇送りになっていた愁貴の遺体が池から上がったという知らせを受けていた。
丹櫂は愁貴を冷遇送りにしていたが、そこは、第一王妃や、美里が住んでいた屋敷よりもさらに廃れ、人が住めるようなところではなかった。丹櫂はそんなところに侍女を一人つけて愁貴を送っていたのだ。
だが、その頃の愁貴は昔の面影はなく、化粧っ気のない顔に、梳かれない髪はまさに老婆だった。そんな愁貴は侍女の目を盗んではあちこち徘徊をしては、驚く人の表情を見ては喜んでいた。愁貴は完全に自分を失っていた。そんな愁貴を見たものは誰もが愁貴を憐れんだ。
「知っているかい?あの誰よりも権力を誇っていた愁貴さまが今、どんな状態になっているか?」
「ああ、すっかり狂人になっていると聞いたよ」
「ああ、哀れだよな、自らの手で大事な息子を死に追いやったのだから、狂いでもしなければ、生きていけないだろうな」
「ああ、まったくだよ、王家も後継ぎ問題で何かと大変だよなあ。そう思うと、平民で生まれてよかったと思うよ。」
そう囁かれていた愁貴に何があって、池に落ちたのか?
「自殺か?」「他殺か?」
誰もその場面を見たものはいなかったから、さらに人々は勝手な憶測で話を盛り上げていた。
「あの池は昔、幼かった第一王子が落ちた池だろう?きっと濡れ衣を着せられて無念の死を遂げた第一王妃の呪いだよ」
「なんで、第一王妃から呪われるんだ?」
「知らなかったのか?池に落ちそうになった王子を助けようとしたのに、突き落としたと濡れ衣を着せられたのはすべて愁貴さまの讒言があったからなんだよ」
「じゃあ、あの事件は第一王妃の仕業ではなかったのか?」
「ああ、それなのに、王からも疎まれて、傷心のまま死んでいったのだから、第一王妃の誰にも理解されない無念さは計り知れないんだよ。だから、その思いが呪いとなって愁貴さまを池に誘ったのだと思うよ」
「そうだったのか・・・」
いつの間にか、愁貴の死は第一王妃の呪いによるものだということがまことしやかに語られるようになっていた。
丹櫂は愁貴の死を聞いても今更、動じることはなかった。
「王宮から葬儀を出すことは許さない、無念仏と一緒に埋葬せよ」
その言葉一つで、あんなに王宮内での繁栄を夢見ていた愁貴の王宮での人生は完全に終わり、墓碑一つ建てられることはなく、打ち捨てられた。
丹櫂の第一王子を亡くした悲しみは、愁貴がなくなったと聞いても薄れることはなかった。そんな丹櫂の悲しみに寄り添ってくれる者は、ただ一人、アンジュだけだった。アンジュは何も言わずに丹櫂のそばにいてくれた。
それに、何よりも、丹櫂の心を癒してくれたのは幼い王女である璃妃だった。丹櫂は璃妃の無心さに救われた。毎日、璃妃と過ごすだけで、慰められ、傷ついた心も少しづつ回復していった。
だが、丹櫂が深い悲しみの中にいるとき、丹櫂の非情さを口にするものが増えていた。王子が落馬した場にいた多くの者たちは丹櫂が顔色一つ変えずに、馬だけでなく馬の飼育係とその責任者を有無も言わせずも切り捨てたことで、その残忍性が、今更のように語られるようになっていた。
「あの時の王の顔を見たかい?思わず震え上がるような恐ろしい形相をしていたな」
「ああ、あれほどの衆人の前で、いくら怒りで感情を抑えられなかったといっても、一国の王のあんな蛮行は見たくなかったよ」
「それも、四人とも、たまたまその日、そこにいただけで、まったく事件には関与してなかったのだろう?それなのに、有無も言わさず殺されたんだから、無念だったろうよ」
「全くだよ。だけど、王の残虐性は今に始まったことではない」
「ああ、今までも、なんの罪もないままに殺されたものは数えきれないだろな」
「ああ、それを側近たちが表に出ないように、すべて隠ぺいしてきていたんだが、それも隠し切れないところまで来ているらしいよ」
「大体、王は気性が激しく、いつ、王の勘気に触れるかわからず、側近たちはいつも、王の顔色を窺って、びくびくしているらしいよ。だが、それに耐えきれずに逃げ出すものもいると聞いたよ」」
「それに戦いの場ではもっと激しいらしいよ。丹櫂が通った後は草木も生えないといわれるほど、残虐の限りを尽くすらしいからな」
「あれが自分の国の王だとは思いたくないなあ」
「そうだよな。確かに戦に強い王ではあるが、あんな王だと、自分たちもいつ命を奪われるかわからないだけに、安心できないな。できれば変わってほしいくらいだよ」
今までは怖くて口に出すことさえできなかったことが、次第に、丹櫂に向けての不満を口に出すものが増え、また、それに同調するものも確実に増えていた。
だが、丹櫂はそんな周囲の変化に全く気付いていなかった。ただ、すべてが煩わしく、政務にも熱心になれなかった。毎日の朝議にも顔を出さず、重臣に任せて表に姿を現さなくなっていた。その中で不穏な空気は確実に大きくなっていった。
そんな空気に全く気付かず、丹櫂本人は毎日をアンジュとの間に生まれた璃妃と過ごす時間が増えていた。璃妃の無心な笑顔に救われ、璃妃が見せてくれる成長だけが楽しみだった。毎日をアンジュと璃妃と三人だけで穏やかな時間を過ごした。
丹櫂はここに来て初めて、夫婦としてのあり方を見つめなおし、本来あるべき家族の幸せをしみじみとかみしめていた。
今の丹櫂には、他は必要なかった。アンジュと璃妃さえ,居てくれればよかった。甲斐の国を大きく強くしたいという気持ちも薄れ、外に向けての関心もなくなっていた。
もう、王である権威も権力も欲しくなかった。皇太子を誰にするのかさえも、考えたくなかった。誰かほしいと思う者で、適当な人がいれば、そっくり譲りたいと思うほどだった。そして、自分はアンジュと璃妃との三人で、誰も知らない土地で静かに暮らしたいと思うようになっていた。
だが、そんな丹櫂の幸せは長く続くことはなかった。
最愛の娘、璃妃を突然の病で亡くしたのだ。
それは何の前触れもなく、突然にやってきた。その日の朝まで元気だった璃妃が夕方からいきなり嘔吐し、その後も、高熱にうなされながら、夜半にはもう、息も絶え絶えになっていた。
王室御用達の医者は、首をかしげるだけで、何ら有効な手立てとれずに目の前で苦しむ璃妃をただ見ているだけだった。
「こんな急変する病気に私たちも、どう、手立てをとっていいものか・・・」
「幼い子供は大人と違いますから、突然、病状が変化することもあるわけで・・・」
どこまでも言い訳するだけで、有効な手立てをとれない医者の姿に丹櫂は我慢がならなかった。結局、丹櫂は愛する娘を目の前で黄泉の国に見送ることになってしまっていた。
丹櫂はこの信じられない状況を到底、受け入れることができなかった。
どこにも向けられない怒りはそのまま、三人の無用な医者に向けられた。丹櫂は必死に命乞いをしてくる医者を有無も言わせず、その場で切り捨てた。
そして、この病が巷でも流行っていて、幼い子供が命を落としていることを聞いた丹櫂はその病を娘の璃妃にうつした人間を徹底的に探し出した。
そして、アンジュの侍女が最近、実家に戻り、幼い弟が璃妃と同じ症状を呈していたことを知った。その弟は亡くなっていなかったが、璃妃の病がその侍女が持って帰ったことを確信すると、その侍女と侍女長もその場で殺していた。
またもや、怒りを抑えられずに、五人もの命を奪った丹櫂の蛮行に誰もが怖れを抱き、丹櫂の王としての資質を疑問視する者が増えていった。
今回のことで、それまでも丹櫂に対し、くすぶっていた不満はここにきて、一気に燃え上がった。そして、そんな不満分子たちが丹櫂に代わる王を擁立しようとする動きが活発になっていた。
その一派は当初、第三王子を王に立てる考えだったが、第三王子は丹櫂によく似ていた。外見も丹櫂に似ていたが、気性もまた丹櫂そっくりだった。
また、同じ歴史が繰り返されることを危惧し、第三王子の擁立は見送られた。そんな中で、誰かがもたらした情報に誰もが飛びついた。
「王には腹違いの弟がいるらしい」
その情報の真偽が徹底的に調べられた。
昔、当時の王妃に仕えていた侍女が、王と侍女の道ならぬ恋の一部始終を記憶していたのだ。
「そして、王の命令により、宮廷絵師の汎道雪という男が王の子を身ごもった侍女と共に王宮を出ました。そして、逃げる途中で男児を生み、汎陸と名付けられたのです」
その情報をもとに汎陸の行方が探されたが、汎陸と美里のもとにたどり着くのに、そう時間はかからなかった。
丹櫂の廃位を目論む者たちは、秘かに汎陸の人となりを探っていた。そして、汎陸が丹櫂と違い、穏やかで優しく、何より人々から信頼が厚いのを知り、丹櫂に代わる王としてふさわしい人物であると容認された。
美里はその日、汎陸とともに最近建てたばかりの養護院を視察していた。
町には、先の戦いで親を亡くした多くの子供たちがいたが、美里と汎陸の夫婦はそんな子供たちの施設として養護院を建てていた。
愛するものを失った子供たちが単に衣食住を満たすだけでなく、愛の中で育つことで、人への信頼感を育ててほしいと考えていた。そして、そこでの子供たちが表情も明るく、生き生きと育っているのを見て、理念通りの運営が行われていることに満足していた。
養護院を後にしたところで、いきなり、一人の女の子が二人の目の前に現れた。
「お願いです。私のお母さんを探してください」
そう、訴えてきたのは五歳くらいの女の子だったが、その訴えに、すかさず汎陸が応えた。
「お母さんを探しているんだね。お母さんとはどこではぐれたのかな?」
汎陸が女の子と同じ目線で話を聞いている姿に、美里はふっと忘れていた遠い昔の光景を思い出していた。
自分も幼かったころ、こうして助けを求めたことがあったのだ。
それは美里と母がまだ、一か所に安定して住処を得られていない頃のことだった。母親の佐那が働きに出かけている間は美里は部屋で母の帰りを待っていた。だが、その日は外の喧騒に我慢できず、この町に来て間もない美里はよく知らない街に一人で出かけた。
夜の街は、昼とは全く別の顔を見せていた。
何かのお祭りなのか賑やかな通りには多くの人で混み合っていた。どこからか楽隊の音や、人を呼び込む声が聞こえ、街灯に照らされた夜の華やいだ世界に美里はすっかり酔いしれていた。
人ごみに紛れてあちこちと回っている間に、気づけば、まったくなじみのないところまで来てしまっていた。美里は全く知らない街並みを見て、急に不安になった。
何とか自力で戻ろうと、今、来た道を引き返したが、迷路のような道にますます迷い込んでしまっていた。美里は近くの大人に助けを求めたが、幼い子供の声に足を止める人は誰もいなかった。
美里は多くの人が行き交う中にいながら、自分が大海原に一人取り残されたかのような孤独と恐怖を感じていた。だが、そんな美里に誰も気づいてはくれなかった。
美里は人ごみの中、不安でいっぱいになりながら泣くこともできず、ただじっと立ち尽くしていた。
だが、そんな美里に気づいて声をかけてくれる人がいた。
「どうしたの?お母さんとはぐれたのかな?」
そういって声をかけてくれた人の方を見た。そこには優しい目をしたお兄さんが立っていた。美里はその言葉に緊張が一気に溶け、そして、涙があふれた。すると、そのお兄さんは慌てたように言った。
「急に声をかけて、驚かせたね。怪しいものではないよ。ただ、困っていることがあれば、力になりたいと思っただけだからね」
その優しい言葉に美里はようやく口を開いた。
「帰る家が分からなくなったの。お母さんのところに帰りたい」
「そうだったんだね。実は私もこの国に来たばかりでよくわからないけど、一緒に探そうよ。君の家の近くに大きな建物とかなかった?」
そのお兄さんは跪き、美里と同じ目線になって優しく聞いてきた。そう、言われて美里は母親が働くことになった旅籠屋を思い出した。母親と美里はそこの近くに住んでいたのだ。
「わかった。ではその旅籠屋を一緒に探そう」
お兄さんはそう言うと、美里の手を引いて、いろんな人に旅籠屋の場所を尋ね歩いてくれた。そして、常に、美里に安心させるように「大丈夫だからね」と声をかけることを忘れなかった。
時間はかかったが、無事旅籠屋までたどり着くと、美里の安否を心配していた母親は顔を涙でくしゃくしゃにしながら駆け寄り「ごめんね、ごめんね」と美里に謝った。美里は強く抱きしめられながら、美里は母がなぜ謝るのかが分からなかった。母との約束を守れなかった自分こそ叱られて当然なのだ。
「お母さん、ごめんなさい」
「ううん美里は何も悪くない。こんなに小さな美里を一人にして、寂しい思いをさせたお母さんが悪かったの。これからは決してさみしい思いをさせないわ」
「うん」
母と娘は最後は笑顔になっていた。そんな二人を先ほどからずっと黙ってみている少年にようやく母親が気付いた。
「ごめんなさい。娘がお世話になったのに、きちんと挨拶もできずに・・・」
「大丈夫です。そんなに感謝されるほどのことを何もしていませんから。私のほうも街を一緒に歩けて楽しかったですから」
「そんな・・」
尚もお礼を言おうとする母親の言葉を制しながら少年は美里のほうを見て言った。
「元気でいてね」
美里と共にその少年を見送りながら母が言った。
「いったいどこの方なんでしょう。着ている物も庶民が着るものではなかったし、何より、品があって高貴さが漂っていたけど、美里はあのお兄さんのこと、何か聞いている?」
「ううん」
美里は何も聞いてはいなかったが、美里はお兄さんの温かさが残る手の感触をいつまでも忘れなかった。
美里は目の前の汎陸と女の子の様子を見ていて、あの時の親切なお兄さんのことを思い出したが、なぜか、汎陸があのお兄さんに重なって見えていた。それに、美里があのお兄さんに会ったのはその時だけではなかった。
そのころには、美里親子は汎陸の家族に救われて、汎家の離れに住むようになっていた。そして、母親たちの薬草取りも、安定した収入を得ることができていた。
その日は、母親たちと買い物に来ていたが、母親たちと別れて、汎陸と二人であれこれと店を見て回っていた。だが、突然、美里が何かを思い出したように声を上げた。
「私、さっきの店で、巾着を忘れてきた」
「美里はここで待っていて、すぐにとってくるから」
そう、言うなり、汎陸は美里の巾着のために店に向かって走っていった。
美里は汎陸が走っていく後姿を見ながら、美里に対してどこまでも優しい汎陸の存在がありがたかった。それは母と二人で隠れるようにして暮らしていた時には、決して、味わえなかったものだった。
そんな思いに浸っているときに、いきなり、声をかけられた。
「偶然だね」
そう、声をかけてきたのはあの時の優しいお兄さんだった。
「あっ、お兄さんだ」
「元気にしていた?」
そう、懐かしそうに尋ねてくるお兄さんは相変わらず、やさしかった。
「うん、元気にしていたよ。それに、あれから新しく家も変わったよ」
「家、変わったんだ?」
「うん、昔みたいに、もう、何度も家を変わらなくてよくなった」
「よかったね。今日も一人?」
「ううん。お母さんたちと買い物に来たんだけど・・・」
そう、話していると、お兄さんは誰かに呼ばれらしく後ろを振り返った。そして、美里に優しく言った。
「じゃ、またね。元気でいてね」
美里が見送りながら、手を振っていると、戻ってきた汎陸が尋ねた。
「今の人、誰?」
「うん、前に迷子になった私のことを助けてくれたお兄さん」
「へえー、そうなんだ」
汎陸は美里のことで自分が知らないことがあることに、なんとなくおもしろくない気持ちになっていた。それでも気を持ち直して言った。
「ほら、美里の巾着、ちゃんとあったよ」
その後も、二人は大道芸人たちの芸を見たりして楽しみ、母たちの待つ場所に急いでいた。すると、町の人たちの注目を浴びている一行に遭遇した。
華やかな装いをした三人の女性はお付きの者とともに買い物をしていた。そして、買った先からその荷物を一人の少年に持たせていた。
他にお付きの者がいるというのに、なぜかその少年だけに更に荷物を持たせ、少年が荷物を載せられてよろめくと、みんなであざけるように笑った。
「何、そのくらいでよろけるの?」
「全く、頼りないんだから・・」
「やはり、何をやってもダメなのよ」
遠くではあったが、美里はその少年がさっき別れたばかりのお兄さんであるのに驚いた。あのお兄さんは女性たちの嫌がらせに、何も言わずに耐えていた。美里には優しく頼れるお兄さんが、急に小さく見えて、美里は悲しかった。ただ、自分のことのように心が痛かった。
そんな一行の姿を見ていた町の人が声を潜めるように話していた。
「あれは王宮の王女たちだろう?いくら王女だからと言ってあんな傲慢な態度は見ているこちらが嫌な気持ちになるよ」
「ほんとに、この国の王女として恥ずかしいよ」
「だけど、あの少年は誰だろう?王子ではないだろう?」
「誰なんだろうな?だけど、王女たちに比べて遜色がない高貴な雰囲気があるよな」
「うん、だけど、あれでは少年がかわいそうだよ」
美里はそんな大人の話を聞きながら、あの親切なお兄さんが誰であるにしろ、ないがしろにされている姿を見たくなかった。それに、お兄さんも、そんな姿を美里には見られたくないだろうと思って、気づかれないようにそっと.物陰に隠れた。
そのお兄さんとはそれっきり、会うことはなかった。だが、数年後のある日、美里は母親に頼まれたお使いに出かけて、あのお兄さんを見かけた。
その日のお兄さんは馬に乗っていた。だが、美里の姿を見つけると馬から降り、美里に言った。
「また、会えたね。ちょっと見ないうちに大きくなって・・・」と、言いながら、美里の顔を懐かしそうに眺めてきた。
そんなお兄さんは身長が伸び、一層、りりしくなっていた。美里はそんなお兄さんがまぶしく見えて、どぎまぎしながら思わず、敬語で話していた。
「お兄さんはどこかに出かけるのですか?」
「うん、この国を離れることになったから、もう、きみとも会うことはないと思うが、元気でいてね」
美里はその言葉を聞いて、急に寂しくなったが、お兄さんはそんな美里の思いに気づくことなくそのまま、馬に乗って去って行った。
美里は女の子と話している汎陸に、あの時のお兄さんの姿を重ねてみていた。昔のことなのに、今も鮮明にあの時の場面がよみがえっていたのだ。
あの時以来、会うこともない名前も知らないあの時の兄さんが、どこかの国できっと、幸せに暮らしているだろうと思っていた。
その親切なお兄さんこそ、今はその残虐さで人々を恐れさせている丹櫂、その人だった。
丹櫂は七歳の時から五年間、珀の国に人質として暮らしていた日々を忘れてはいなかった。ただ、ただ屈辱に耐える日々だったが、そのおかげで優しいだけでは自国を守れないことを学んだし、なにより、何事にも屈しない強い精神力を養えていた。
珀の国では楽しい思い出など、全くなかったが、たった一つ、あの少女との出会いは今も、丹櫂をあの当時の純粋だった頃に戻し、温かな思いに浸らせてくれた。
あれから、長い年月が経ち、あの時の少女が、まさか、美里だとは思いもしない丹櫂はあの娘がきっと、立派な女性に成長していると想像し、その人生が幸せなものであってほしいと思っていた。
そして、その人質生活を支えてくれたのはのちの第一王妃となった容であることを、丹櫂は今更ながら、後悔の念とともに思い出すようになっていた。
人質生活の中で、容から届く手紙だけが楽しみだった。とりとめのない事柄が描かれた内容でも、それが甲斐の国からのものであるだけでうれしかった。その手紙を何度も何度も読み返しては故郷のことを思い出していた。
それなのに、のちに王妃となった容を自分は追い詰め、結果的に死に至らしめていた。
丹櫂は愁貴の言葉に乗せられたにしろ、大事な存在だった容にした自分の行為を今になって振り返り、誤った道を選択した自分を罰するように、悔いる毎日を送っていた。
今や、当時の勢いを失ったかに見える丹櫂の姿に、反対勢力はこの機を逃さなかった。汎陸を新たな王に擁立する動きが活発になっていた。
そして、このことにいち早く気が付いたのはほかならぬ、美里と一時、親子の契りを結んだ習慈英だった。王宮に放っていた密偵から報告を受けていたのだ。
「旦那様、今、王宮では新たな王を擁立しようとしています」
「誰を擁立しようとしているのか?」
「それが、先の王の烙印であるといわれている汎陸という絵師です」
「何?今、汎陸と言ったか?」
「はい、汎陸が、王の隠し子という確認も取れています」
「あの汎陸さんが甲斐の国の王子だったのか?そういわれれば、人柄は全く、異なるが、丹櫂に似ているような気もする。それで、汎陸さんも自分の生まれを知っているのか?」
「いえ、まだ、本人は知ってはいないようです」
「汎陸さんなら、人物もしっかりしていて、あの人なら任せられる。私が汎陸さんの説得係になろう」
珀の国に暮らしている汎陸と美里とは結婚した今も深い親交があった。今も二人は習慈英への恩を忘れず、折に触れ、習慈英へ珍しいものがあれば贈り、相変わらず養父に対する礼を尽くしていたのだ。
そんな汎陸と美里に会うために習慈英は珀の国を訪れていた。
習慈英は自分の妻と娘を殺された恨みをまだ忘れてはいなかった。表向きは何事もないように温和な顔をしていたが、今も習慈英の心の中には、丹櫂への憎しみがまだふつふつと煮えたぎっていたのだ。
汎陸は突然、習慈英が訪ねてきたことで戸惑っていた。それも、甲斐の国の重臣という人たちを伴っていることで、その真意がわからないだけに不安になっていた。
「汎陸さん、あなたは甲斐の国の王子なのです」
汎陸は、そう、重臣の一人に言われてもにわかに信じられずにいた。
「いえ、私の父は汎道雪という絵師です。甲斐の国とは何のかかわりのない人間です」
「あなたが父だと信じている汎道雪さんは、昔、甲斐の国で宮廷絵師だったのをご存じですか?」
汎陸はそう言われて、以前、王孔明という人から聞いた話を思い出していた。その人も父が宮廷絵師だったと言っていた。
「私は父から聞いたことはありませんが、宮廷絵師だったことはあるようです」
「汎道雪さんは先の王に頼まれて、王の子を身ごもったあなたのお母様と逃げたのです。そして、旅の途中で生まれたのがあなただったのです」
「そんなこと、ありえません」
「あなたが信じないのも当然だと思います、お父様もお母様も徹底的にあなたの素性を隠してきたのですから」
「そんなこと、信じられません・・・」
なおも、納得しようとしない汎陸に、重臣たちは口をそろえていった。
「あなたが先の王の子であるのは確実です。それに、あなたは先の王にそっくりなのです」
汎陸は、そこまで言われてもまだ認められなかった。
「それで、私にどうしてほしいというのですか?」
「丹櫂に代わって、甲斐の国を治めてほしいのです」
汎陸は、予想もしていなかったその言葉に驚き、強く拒否した。
「一介の絵師にしすぎない私に国を治める力はありません。それに、何より、私にその気はありません」
「だけど、このまま、甲斐の国を丹櫂に任せておいていいと思いますか?丹櫂のせいで罪のない多くの人が命を落としているのです。丹櫂の残虐性は、年を経るにつれて激しくなり、側近たちさえも丹櫂を恐れて、そば近くに寄れない状態なのです」
「それに、丹櫂は好戦的で、絶えず他国と戦をし、そのおかげで国は疲弊しています。それに、戦では多くの若者が命を落としています。他国とは友好的な関係を結ぶべきなのに、丹櫂にはその気がありません。我が国の王として丹櫂はふさわしくないのです」
「私たちは穏やかな生活を送りたいだけなのです」
「では、丹櫂をどうするつもりですか?」
「丹櫂を亡き者にしないことには、これまでと同じことが繰り返されます。丹櫂の命を奪ってこそ、平和な世界が戻ってくるのです」
「そんな、人の命をいくら悪いといわれる人間でも、簡単に奪っていいものではないと思います」
今まで、汎陸と甲斐の重臣たちの話を黙って聞いていた習慈英がおもむろに口を開いた。
「ですが、今となってはそうも言っていられない状況にきています」
「どういうことですか?」
「この珀の国でも、丹櫂によって家を奪われ、家族を殺された人たちが復讐を誓い、今や一大勢力になっているのです」
「そんなことが?」
「それに、あなたのお父様も丹櫂の凄惨な戦で命を失ったではありませんか?それに、何より、美里様への丹櫂の仕打ちを忘れてはいないと思います」
汎陸は改めて、妻となった美里と丹櫂のことを思っていた。
無理やり王妃に仕立て上げられて嫁いだのに、王妃としての扱いはされず、何年も捨て置かれた挙句、死を装って逃げた美里と、二度も強引な婚姻を結ぼうとしたこと。そして、再び逃げ出した美里をどこまでも執拗に追い続けた丹櫂の仕打ちを汎陸は改めて思い出していた。
それによって、美里は命を落としかけたことを思うと、汎陸の中にも、許せない気持ちが持ち上がってきた。
だが、それだからと言って、このような形で報復することが正しいのか?汎陸は頭を抱えた。
そんな汎陸を見ながら、習慈英はさらに言葉をつないだ。
「実は、そんな珀の国の人々が別室で待機しているのです。その人たちは珀の国の王女である美里様を旗頭にして、丹櫂を打とうとしているのです」
「美里を旗頭に?」
「ええ、奇しくもあなたたち夫婦を頭に頂いて、丹櫂打倒で、甲斐の国と珀の国の志のある人たちで手を組んだのです」
「私たちのあずかり知らないところで、そんなことが進んでいたのですか?」
「ええ、初めから話していたら、きっと、あなたたちは反対していたでしょう。ですから、すべて、水面下で話が進められていたのです」
「そんなこと・・・」
「あなたたちは誰よりも非情で残酷な丹櫂の暴政に苦しめられたではありませんか?今、ここで、丹櫂の暴走を止めなくては甲斐の国、そのものもなくなり、何より庶民が苦しむことになるのです。全ては市井の人々のためです。どうぞ、皆を助けると思って立ち上がってください」
そう、習慈英に促されても、汎陸はまだ悩んでいた。汎陸は暴力的なことはもちろん、人を害するような行為を何より嫌っていた。すべて話し合いで解決できると考える人間だった。
汎陸は自分だけでは決断できず、美里と二人で話し合った。二人が話し合っている間も屋敷の外では、丹櫂打倒に燃えた人たちの「打倒、丹櫂」を唱える声が途絶えることなく聞こえていた。
汎陸も美里もそんな人たちの熱い思いを止めることができなかった。もう、その勢いは堰を切って流れ出た水のように、多くの人たちを巻き込んで、どこまでも留まるところを知らなかった。誰かがその指揮をとらなければ暴れ水は、あらぬ方向に行きそうな事態になっていた。
汎陸は美里とともに、その旗頭になることを了承せざるを得なかった。ただ、二人は誰一人犠牲者を出さないことを条件に入れた。王宮にいる丹櫂の正室や側室たち、そして、丹櫂の子どもたちも含め誰一人犠牲者を出さないだけでなく、丹櫂の命さえも奪うことなく無血開城することを要求した。
初めは渋っていた者たちも、汎陸の決心が固いことに仕方なく了承した。
甲斐の国の丹櫂は相変わらず傷心の中にいた。誰にも会わず、アンジュの部屋でアンジュと共に、終日過ごしていた。そんな丹櫂は王宮の中はおろか、王宮の中の異変にさえも全く気付きもしなかった。ほとんどの者が丹櫂のもとを離れて、新しく立った汎陸支持に回った者たちで占められていたのに、それに気づく由もなかった。
丹櫂はすでに、以前の独善的で、暴力的な丹櫂ではなくなっていた。本来の優しく、そして、どちらかと言えば気弱な丹櫂に戻っていた。そんな丹櫂のもとに一人の男が突然、会いに来ていた。
丹櫂は習慈英の突然の面会に驚いた。この男の商人とも思えない不敵なところが嫌だった。
その男とは美里が王宮から出て以来、会うことが少なくなっていたのに、その男がいまさら、会いに来たことに不審な思いを持っていた。
あの美里の逃亡も結局はこの男がかかわっていたと思わざるを得なかったが、丹櫂はそう、疑いながらも習慈英とはその後も何食わぬ顔で付き合ってきたのだ。だが、今ではそんなことさえ、遠い過去の出来事に思えていた。
丹櫂の目の前に座った習慈英は相変わらず、一介の商人とも思えない圧倒的な存在感を漂わせていた。
「今日は王様のご尊顔を排しまして・・・」
「そんな堅苦しい挨拶は抜きにして、用件だけにしてくれないか?それに、どうせ、私に対しても、そんな尊敬の念もないのだから」
「恐れ入ります」
そういって、習慈英はおもむろに切り出した。
「王様、今日、私は王様に王の位を降りていただくよう、お願いに上がりました」
丹櫂は習慈英のいきなりの要望に驚いた。この男の真意が全くわからなかった。
「いったい、何のことだ?」
「王様、今、王宮がどんな状態になっているかご存じですか?ほとんどの者が王様のもとを去っていきました。残っているのはほんのわずかな人間だけなのです」
丹櫂はそういわれて、初めて王宮内に人が少なくなっていることに気づいた。
だが、それがなぜなのかさえ不審に思うことなく、毎日を自分の悲しみの中にいて、周りの状況を頓着しなかったことを悔やんだ。もっと、早くに異変に気付くべきだったのに、そうしなかった。
すべて、自分の慢心が招いたことだけに後悔しきれなかった。習慈英はそんな丹櫂の思惑など関係なしに話を続けた。
「あなたのこれまでの傍若無人で人を人とも思わない所業に苦しめられた多くの側近たちも、遂にあなたを見限りました。」
習慈英の言葉はどこまでも厳しかった。
「それだけでなく、王が攻め入った残虐な戦で家族を失った他国の人々が、今や王様への復讐を掲げて、結集したのです。そしてその勢力と我が国の中に育った王に離反した勢力とが手を結んだのです。今や二つの勢力が王様に速やかに廃位することを望んでいるのです」
丹櫂は全くの寝耳に水のこの話をすぐには受け入れることができなかった。
「突然、やってきて、廃位とは聞き捨てならない。いったい何のいたずらか?」
丹櫂はいつもは王の座を降りられるのなら、どんな犠牲も厭わないと思っていたのにこんな形は望んではいなかった。
「あなたには突然な話に聞こえるでしょうが、決してそうではないのです。それまで耐えていたあなたの度重なる残虐的な行動に我慢できなくなった人たちの積もり積もった思いなのです。これは自らが招いた結果なのです」
そう言って、習慈英が合図をすると、部屋の扉が開かれた。すると、そこには武装した多くの男たちが合図さえあれば、今すぐにも部屋になだれ込んで来そうな状態で待機していたのだ。
丹櫂はここにきてようやく自分が置かれている状態が理解できた。今までの安穏としていた状態から、のど元に刀の切っ先が突き付けられている状態に追い詰められ、自分には他に選択肢がないことをようやく認めた。
それでも、丹櫂は平常心を装いながら言った。
「なるほど、習慈英殿はそんな私に最期の印籠を渡しに来たわけか?」
「王様が冷静な判断をなさることを期待しています」
「ところで、私を廃位に追い込んでいる直截な者は誰なのか?せめて、それだけは聞いておきたい」
「それは二つの勢力、それぞれに旗頭になる人がいるのです」
「二人が立っているのか?」
「はい、お二人います。お一人は王様によって国を追われ、家族を殺された恨みを持つ他国の人たちの思いを理解してそのけん引力になった方です」
「その他国とは?」
「王様がすべてを焼き尽くすかに攻め落とした残酷な行為の中を生き残った珀の国人たちはそれを忘れてはいないのです。その人たちが、珀の国の唯一の生き残りの王女を旗頭にして、王様への復讐を誓って結集したのです」
「珀の国の王女?」
「ええ、王様もよくご存じの方です」
「私が知っているものとは?」
それは美里以外にはいなかった。
「美里なのか?」
「そうです。美里様です。王様からの冷酷な扱いで二度も王宮から逃げた美里様が無事、逃げおおせたのです。そして、今は珀の国に住み、人々から信頼されているんです。そんな恨みを持つ人々からの願いを受けて、今回、その旗頭に押されたのです」
丹櫂は思いがけなく懐かしい人の名前を聞くことになり、その皮肉なめぐりあわせにただ、驚いていた。
「それでは、甲斐の国の旗頭は誰がなっているのか?」
「それは、王様はご存知ないかもしれませんが、王様の腹違いの弟である汎陸様です」
丹櫂はその名を聞いて、思わず崩れ落ちそうになった。
「大丈夫ですか?確かに一人きりだと思っていたご自分にまさか弟がいたとは信じられないと思いますが、確かに、先の王様のお子なのです。それに、先の王様によく似た外見なうえに、性格も穏やかで人からの人望も厚いのです」
丹櫂は習慈英の話を聞きながら、自分が会った時の汎陸の姿を思い出していた。
父親によく似ていた。そして地域の人から信頼されている姿も見ていた。汎陸なら、自分に代わってこの国を見事に引っ張っていってくれると信じられた。
「その人望も厚い汎陸は私をどうしたいと言っているのか?」
「ほとんどの者が王様だけでなく、王様の係累たちの命を奪ってこそ、安心した未来が描けると、粛清を口にしていました。でも、汎陸様と美里様はそれを許しませんでした。それだったら自分たちは手を引くとまで言われれば、みんなはそれ以上、粛清を口にすることはできなかったのです」
「・・・」
「王様の血を引く王子たちだけでなく、王女や側室たち、そして、王様自身の命も奪うことなく、王宮を制圧することを条件に、お二人はみんなの意向に従うことを了承したのです」
丹櫂は信じられなかった。自分が今まで攻め落とした国々では無条件に従わない場合は、その国の王の血筋は一人残らず絶やしてきたからこそ、あまりに違いすぎるその対応に、驚いた。
「私の命を奪うことなく助けたなら、再び、復権し、王位につくかもしれないのに、その不安はないのか?」
「私たちもそのことは十分考えました。そして北方にある小島に流刑することでみんなの意見が一致しました。しかし、それもまだ、確定ではないのです。汎陸様が反対されていますから」
「そうか・・・。それで、これからのこの国の王には当然、汎陸が着くことになるのだな?」
「いや、それはないと思います。汎陸様は今回だけは、仕方なく討伐軍の意向に沿うことになりましたが、お二人とも王権に全く興味がなく、、王位に着く気はサラサラないようです」
丹櫂はそれを聞いて、うらやましくなった。
本当は自分もそう、生きたかったのに、自分にはその選択肢はなかった。その、あまりに自分と違いすぎる汎陸の人生が妬ましくさえあった。
「とにかく、汎陸様は人命を何より尊ぶ方ですので、今後も、決して王様を含めてお子様たちの命を害することはないと思います。ですから、安心して王権を手放してほしいのです」
丹櫂は習慈英のその言葉にすぐに答えることはなかったがしばらくして、ようやく重い口を開いた。
「今、私が置かれている立場はよくわかった。だが、あまりに突然なことで、私も整理する時間が欲しい。せめて、三日の猶予をくれないか?」
「わかりました。三日の猶予を与えましょう。しかし、くれぐれも逃げようなどとは思わないでください、一歩でもこの部屋から出たら、命はないと思ってください」
美里は汎陸とともに、丹櫂の説得に出かけた習慈英の帰りを固唾をのむ思いで待っていた。何も言わずにじっと瞑想しているかのように硬く目を閉じている汎陸の横顔を見ながら、美里は改めて、その横顔が丹櫂に似ていることに気づいたが、それを言葉にするのは憚れた。それに、二人はあまりに違いすぎた。
優しく穏やか、そして何より人を大切にする汎陸が先の王の子であり、丹櫂の弟であると聞かされた時は正直、信じられなかった。
だが、その時の汎陸の衝撃はそばにいた美里の驚きをはるかに超えていた。しばらくは声さえ出ない様子だったが、そんな状態の汎陸の思惑などお構いなしに、丹櫂討伐を叫ぶ者たちは、声高く持論を吐き続けていたのだ。
美里はあまり、多くを語らない夫の苦悩に満ちた横顔を見ながら、夫が自分以上に苦しんでいることを理解していた。
美里は汎陸の端正なたたずまいに、また、違う人を思い出していた。
幼いころに出会ったきりの優しいお兄さんのイメージが唐突に現れていたが、美里自身、なぜ、お兄さんを思い出したのか、自分でも説明できなかった。ただ、汎陸とあのお兄さんはどこか似ていた。やさしく穏やかなところや、何より、困った人を見捨てないところが共通していた。
あのお兄さんにはその後、会うこともなくなったが、きっと、汎陸と同じように人から信頼される人になっていることが想像できた。美里はできれば、あのお兄さんに出会って、成長した自分と、そして、愛する夫を紹介したかった。美里は今回の一件が落ち着いたら、本格的にあのお兄さんを探したいと思っていた。
「習慈英さんが戻ってきました」
その言葉で美里は現実に戻されたが、さっきまで瞑想しているかに見えた汎陸はすぐに、立ち上がって言った。
「すぐにお通ししてください」
一同が集まったところで習慈英は皆から矢継ぎ早に質問された。
「それで、丹櫂はこちらの提案に素直に従いましたか?」
「王は自分が置かれている状態を聞いて、驚いていましたか?」
「もとより、提案などと生ぬるいことなしに、王の命を奪えば一発で、終わることなのに、ずいぶん配慮した提案だったのだから、王としてはこれ以上ない好条件を断るなんて、馬鹿なことはしなかったでしょうな」
習慈英はそんな男たちの性急な質問をなだめながら、冷静にその時の丹櫂の様子を伝えた。
「王様は確かに驚いた様子でしたが、自分が今、どんな状態におかれているのかすぐに理解され、落ち着いた様子でこちら側の提案を聞いていました」
「それで、丹櫂は何と答えたのですか?」
「急なことなので、自分なりに整理して考えたい。三日の猶予が欲しいと言っていました」
「それで、三日待つつもりですか?」
「誰の命も失わず、王権を放棄されるのですから、三日ぐらい待って当然です」
汎陸のその毅然とした言葉に誰もが口を閉じた。
汎陸はこうなった今でも、自分の行為はほんとに正しいのか、何度も自問自答していた。
汎陸は改めて子供のころを思い出していた。何も知らず汎道雪と凛香の子どもとして、野山を駆け巡り、そして、美里とともに、絵の腕を競い合っていたころが懐かしかった。
汎陸は自分が甲斐の国の王の血筋であることを幸運には思っていなかった。一生、何も知らないままに美里とともに市井の人として人生を終えたかったのに、そうはならなかった。
自分が望んでもいないのに、烏合の衆ともいえる討伐軍の長として、幾度となく、厳しい局面に立たされ、その判断を迫られた。それはいつも人命と深くかかわることであり、その選択をゆだねられる身は正直、つらかった。
汎陸は丹櫂の生き方を認めてはいなかったが、ただ、自分がそういう立場になり、はじめて、丹櫂のつらい気持ちがわかる気がしていた。
一度も会ったことはない兄であったが、丹櫂が王として孤独に生きるしかない人生に同情していた。そして、弟としてそんな兄に「お兄さん、お疲れさま」と声をかけてあげたい気になっていた。
汎陸は、一度、兄と会い、膝を突き合わせて話したいと思っていた。
丹櫂は習慈英が去った後もしばらくそこから動けなかった。
全ては自分の身から出た錆であり、自業自得とはいえ、やはり、家臣を含め、自分の周りの人たちの心が完全に自分から離れてしまったことが寂しかった。今更、後悔しても、すべては後の祭りだった。こんなはずではなかった。
自分が暴君として人々から忌み嫌われる存在になり下がっていたのに、それさえ気づけなった愚かな自分を自嘲していた。
丹櫂は習慈英から三日の猶予をもらっていたが、心はすでに決まっていた。
丹櫂は王の地位をはく奪されても尚、生きながらえようなどとは思ってもいなかった。何より、丹櫂には王としてのプライドがあった。そんな生き恥をかいても、まだ、生きていくほどの精神力はなかった。
丹櫂は幸いにも、妻子たちの身の安全を保証してくれることに安心しながら、自分は一人、命を絶つ覚悟を決めていた。
そんな丹櫂の気持ちを察しているのか、アンジュは片時も丹櫂のそばから離れようとしなかった。そんなアンジュに丹櫂はさりげなく声をかけた。
「君もこんなことになって疲れたろう?ずっと私のそばにいなくても大丈夫だから、部屋に戻って休んでいなさい」
「いえ、私は大丈夫です」
「いや、私がじっくり、考えたいと思うので、しばらく一人にしてくれないか?」
すると、アンジュは丹櫂の胸の内を知っているかのように言った。
「王様は一人で逝こうとなさっているのではありませんか?王様が旅立ってしまうのを見送るつもりはありません。私もいっしょに逝かせてください」
丹櫂はアンジュの言葉に驚きながら言った。
「幸いなことに討伐軍は王妃である君の命までも求めてはいない。現に今まで数多くの人を殺めた暴君の私の命さえ、助けようとしている。だから、君まで、命を無駄にする必要はない」
「いえ、私の気持ちはすでに決まっています」
「今まで、意に沿わない形でこの国に連れて来られ、異国の土地でつらい日々を送らせてしまって、申し訳なかった。これからは私との縁も切れるわけだから自由に生きてほしい」
そんな二人の会話を中断するように侍女が部屋に入ってきた。
「アンジュ様に会いたいという方がみえています」
「私に会いたいとは、いったい誰なのでしょう?」
「先の王妃だった美里様です」
「美里様が?」
アンジュはずっと会いたいと思っていた美里が会いに来てくれたことに、驚きながらも、自分がいない間に丹櫂が一人で逝ってしまいそうで、心が揺れていた。すると、そんなアンジュの心を読んだかのように丹櫂が言った。
「私はここで待っているから、安心して、会ってきなさい」
アンジュはその言葉に押されるように部屋を後にしたが、それでも、もしかしたら、という不安はぬぐい切れなかった。
だが、部屋に入ると、懐かしい顔に出会えて、今までの不安な気持ちはどこかに消え去っていた。
「アンジュ様」
「美里様」
二人は五年ぶりの再会に言葉もなく抱き合って涙を流していた。そして、ようやく落ち着いて、相手の顔を眺める余裕が出てきた。
久しぶりに会う美里は益々、その美しさに磨きがかかっていた。今を盛りに咲く花のように美里からはいい匂いがした。
「美里様、ますます美しくなりましたね。結婚もされたと聞きましたがお幸せなのでしょうね」
「アンジュ様こそ、相変わらずお美しいです」
美里はそう、言ったものの、内心、アンジュのやつれた姿に心が痛んだ。
「アンジュ様がかわいい盛りの璃妃様を急な病で亡くされたと聞き、心を痛めていました。それなのに、それに追い打ちをかける形で、さらにつらい目にあわせて申し訳ありません」
「私もこうなったいきさつを聞きました。美里様が旧珀の国の討伐軍の指揮をとられていると知り、正直、驚いています」
「私も自分で望んだわけでもないのに、この立場に立たされて、つらい気持ちなのです。夫の汎陸も甲斐の国の血筋であるというだけで、いつも選択を迫られて苦悩しています」
「いえ、私は別に美里様のことも汎陸様のことも恨みに思っているわけではないのです。今までの丹櫂の所業を見れば、こうなって当然だと思っています」
「だったら、アンジュ様、このまま私と一緒に逃げてください。もしかしたらプライドの高い丹櫂がこちらの要求を無視して投降せず、強行手段に出るかもしれません。そうなったら一番にアンジュ様に危険が及びます。今度こそ、私と一緒に逃げてください」
そう、美里に言われてもすでに心を決めているアンジュは動かなった。
「美里様、私は最後まで王と共にいるつもりです。丹櫂にはもう、私以外に誰もそばにいませんから。そんな丹櫂のことを見捨てることなんて、私にはできません。それに、第一王子を亡くし、かわいがっていた私の娘さえもなくしてしまった丹櫂はもう、以前の傍若無人で人の心を解さない男ではなくなりました。どこにでもいる子供を相次いで亡くした傷心な一人の父親なのです」
「ええ」
「それに、彼と長く付き合うようになって初めて気づいたのですが、本当は彼は誰よりも繊細な心の持ち主だったのです」
「ええ?」
「もろく傷つきやすい心を激しい言動で覆い隠していたのです。当時、弱小国だった彼の養育時代が今の暴君としての丹櫂を作り出したと思っています。彼にはそう、生きるしかなかったのです。でも、子供を亡くした悲しみを共有する中で、彼が本来の姿を私には見せるようになったのです」
「そうだったのですね」
「そんな彼を私は見捨てることができません。今は夫婦として誰よりもお互いを深く理解し、ともに居たいと思わせてくれています。だから、どんなことがあろうと、私は丹櫂のそばを離れるつもりはありません。最後まで、彼と運命を共にするつもりです」
「そうなのですね」
美里はアンジュの揺るがぬ決心に何も言えなくなっていた。
「あなたも汎陸さんという伴侶を得ているからわかると思いますが、私もようやく丹櫂という最高の伴侶に出会えたのです。どうか、私たちをそっとしていてください」
美里はアンジュの言葉を聞きながら、自分が今まで持っていた丹櫂という人間について、自分が先入観にとらわれて、その一部分しか見ていなかったかもしれないと思いなおした。
丹櫂と汎陸が同じ父の血を引く兄弟だと考えれば、汎陸と同じように誰にでも優しく穏やかな部分があっても不思議ではなかった。
美里は再び、幼いころに出会ったあの優しかったお兄さんのことを思い出していた。もしかしたら、あのお兄さんは珀の国に人質に出されていた丹櫂だったかもしれないという思いにとらわれ始めたら、そうとしか思えなくなっていた。
そんな美里にアンジュがなおも話しかけた。
「ですから、これで、美里様と会うのは最後になると思います」
美里はそれでもまだ、アンジュと別れる決心がついていなかった。
「どうか、安易に命を絶つことだけはしないでください。夫の汎陸もそれを恐れています。それで、夫から王様にあてた書状を預かってきました。本当は夫自らが兄である王に会って気持ちを伝えたいと望んだのですが、周囲の反対にあって実現できなかったのです」
「なぜ、反対されたのですか?」
「王は自分の腹違いの弟の存在など認めないだろうということと、そんな弟が討伐軍の長となって自分の地位を狙っていると知ったら、無事では済まないと思っているのです」
「そんな・・・」
アンジュはその言葉に深く傷ついていた。実はアンジュは丹櫂が身分を偽って秘かに汎陸に会いに行った時のことを聞いていたのだ。
「本当にいい男だったよ。穏やかで人から信頼されていて、自分の弟ながら誇らしい気持ちになった」
そういって汎陸のことをうれしそうに話す丹櫂にアンジュはさらに踏み込んで聞いていた。
「だったら、自分が兄であることを明かせばよかったのではありませんか?」
「いや、自分の兄が悪名高い丹櫂であることを知らせたくないんだ。それに、王孔明と名乗っていた男が兄と分かれば一層、落胆させるだけだからね。何も知らないほうがいいんだよ」
そういって寂しそうに笑った丹櫂をそばで見ていただけに、アンジュは丹櫂が誤解されていることが悔しかった。
そんな丹櫂が弟の汎陸を害するはずはなかった。アンジュは美里の言葉を黙って見過ごすことができなかった。
「いや、王様はそんな人ではありません。大切な弟の命を害そうなどとは思ってもいませんから」
美里は急にアンジュが語気を強めて怒る理由がわからず、ただ、黙ってアンジュを見つめていた。その美里の目を見て我に返ったアンジュは恥ずかしそうに言った。
「ごめんなさい、一人で興奮してしまって。ただ、王様が誤解されていることに我慢できなくて・・・」
美里はいつも冷静なアンジュが王のためにここまで憤る姿を見て、改めて、アンジュの丹櫂を思う気持ちを見せられた気がしていた。
「王様の弟である汎陸に対する気持ちを夫にも伝えようと思います。きっと、夫は喜ぶと思います」
そう言いながら、美里はアンジュを見つめた。アンジュもどこかはかなげな様子で美里を見つめ返した。二人の視線は交差したまま、言葉もなく時間だけが流れていた。
「美里様、お時間です」
お供の者のその言葉に、われに戻った美里だったが、アンジュとはこれが最後になるかもしれないと思うと、その場を立ち去りたかった。
美里は汎陸から託された封書をアンジュに渡しながら、この封書で丹櫂とアンジュの二人の決意が翻ることを願いながら、王宮を出た。
封書の中で、汎陸は会ったこともない丹櫂に弟であることを名乗りながら、改めて弟として、心を尽くし、兄が生きながらえてくれるよう、お願いしていた。
この世にたった一人の血のつながった兄とこれから新しい関係を作っていきたいという趣旨の内容に丹櫂が生きる理由を見つけてくれることを願っていた、汎陸は祈る思いで美里の帰りを待っていた。
アンジュは美里とはこれが最後なのだとわかりながら、お互い何も言わないまま別れていた。涙が知らぬ間に頬を伝って流れていたが、急に丹櫂のことが気になった。自分のいない間に一人で旅立ったりしていないことを祈りながら、部屋の扉を開けた。
だが、そこには血を流し、倒れている丹櫂がいた。アンジュは丹櫂を抱き起し、その名を呼んだが、すでに丹櫂は旅立った後だった。
「なぜ?なぜ?一人で逝ってしまったのですか?」
アンジュは丹櫂を責めたが、自らもすぐに思いを行動に移していた。
「あなたを一人で逝かせはしない」
そう言って、アンジュは丹櫂が自死した、血に染まったその刀で自らの首を刺した。どくどくと、自分の体から血が流れてゆくのを感じながら、アンジュは穏やかな気持ちになっていた。
思えば、波乱万丈と言える人生だった。強制的にこの国に連れてこられ、意に添わぬ婚姻を結ばされたことで、ずっと、丹櫂は憎むべき存在だった。
だが、丹櫂の中にある悲しみや苦しみ、そして、そう生きるしかなかったやるせなさなどに気づくようになってからは、誰よりも丹櫂のそばにいて、丹櫂の理解者になっていた。そして、アンジュはいつしか、丹櫂を深く愛するようになっていた。
アンジュは丹櫂とともに旅立てることを幸せに感じていた。
誰にも邪魔されず、二人だけの世界にいられる喜びに、アンジュは至福の思いの中で丹櫂と共に黄泉の国に旅立った。
丹櫂とアンジュが自死したことはすぐに、汎陸のもとに知らせが入った。
汎陸はその知らせに、自分の封書が何も役に立たなかったことにむなしさを感じていた。その封書は封を切られないまま、丹櫂のそばに置かれていた。
汎陸は遂にこの世では弟だと名乗ることができないままに兄の丹櫂を送ったことが無念で仕方がなかった。
汎陸は丹櫂が自分の兄と分かってからは丹櫂を暴君と悪しく言う人たちの言葉を聞いていられなかった。きっと、そうなったのにはそれなりの理由があったのだと信じていた。
そして、そんな兄と心ゆくまで語り明かしたかった。だが、もう、それはかなわぬ夢となってしまったのだと思うと悲しかった。そして、そうなるように追い詰めたのは、ほかならぬ弟の自分なのだと思うと、ただ、虚しかった。
肩を落とし、放心したように立っている汎陸のそばで、美里は何も言わずにそばに寄り添った。
「兄と心ゆくまで語りたかった」
そう、つぶやく汎陸に美里はアンジュから聞かされた話を口にした。
「あなたはお兄さんに会っていますよ」
美里の思いがけないその言葉に汎陸は反応した。
「いつ?どこで?」
「あなたが会った王孔明という人こそがあなたの兄の丹櫂、その人です」
「王孔明?あの人が?」
「ええ、王もまた、弟のあなたに会いたくて、身分を隠してまで、あなたを訪ねてきたのです。」
「王孔明さんが私の兄だったのか?」
汎陸は王孔明に会った時、どこか懐かしさを覚えたことや、兄のような親しみを感じたことを思い出していた。
「なぜ、兄と名乗ってくれなかったのだろう?」
「自分が悪名高い丹櫂だと知ったら、きっと落胆するだろうと、敢えて名乗らなかったとアンジュ様が言っていました」
「アンジュ様が?」
「ええ、アンジュ様は王が弟のあなたのことを誇らしげに話していたとも言っていました」
「私のことをそんな風に思ってくれていたのか?」
汎陸はそんな兄とはもう語ることもできないのだと思うと、丹櫂を失った悲しみが一気に押し寄せてきた。
美里はそんな汎陸を見ながら、自分もまた、アンジュを失った悲しみに暮れていた。
アンジュに会った時にこうなることを予想していたが、やはり、現実に二人がもう、この世にはいなくなったと思うとつらく、悲しかった。自分の人生に大きく関わった二人がいないと思うだけで、全てのものが彩を失って見えた。
だが、二人の悲しみに気づかぬ周りの人たちは正直に喜びを口にした。
「丹櫂が死んだぞ、自ら命を絶ったのだ」
「これで、ようやくこの国にも平和が訪れる」
「虚しく死んでいった人たちの何よりの供養になる」
「丹櫂、没す」
このことは歓喜の声とともに、すぐに国中に知れ渡った。
暴君だった丹櫂の死は甲斐の国や珀の国だけにとどまらず他国にも朗報として受け入れられていた。
だが、国が落ち着くと、今後のかじ取りを誰が担うかに話が進んでいた。甲斐の国の重臣たちは当然、汎陸を押した。だが、珀の国の住人だった者たちはそれを良しとせず、その対抗馬として美里を押してきたのだ。
夫婦なのに、二つのそれぞれの国から、その国の長としての役割を勝手に押し付けられた汎陸と美里は今度こそはきっぱりと断った。
「私たちにその気は全くありません。それに、このことは決起したときにすでに了承されたことです」
「それでも、ほかに次ぐに値する人がいないわけで・・・」
「それでも、討伐軍との関係もここまでです。私たちはこれからは一介の平民として市井に生きていきます。今後は一切連絡をしてこないでください」
汎陸と美里は故郷に戻ってきていた。
汎陸は相変わらず絵をかき、美里も家事の合間に絵を描いた。二人が続けていた炊き出しなどの慈善活動は国がそのまま受け継ぎ、困窮者のための住まいや生活を支えてくれるようになっていった。
珀の国は今では甲斐の国から独立して、新たに美里の従兄を国王として迎えていた。美里の唯一の肉親となった羅の国の叔母には二人の息子がおり、その第二王子が母の生まれ育った国の王となったのだ。
だが、彼は王としての資質を備えており、期待以上の結果を出していた。
彼が次々と打ち出す政策によって、国が見違えるように豊かになっていた。珀の国の住民に笑顔が戻っていた。
以前以上に豊かになったこの国には新たに安住を求めて人々が集まるようになっていたが、ある親子もまた、そういう気持ちで珀の国に戻ってきていた。そして、その親子は汎陸と美里のもとを訪ねてきたのだ。汎陸と美里はその親子の懐かしい顔を見て思わず駆け寄った。
「懐かしいですね。お元気でしたか?」
「はい、おかげさまで、私たちは美里様が残してくれたお金で、何とか生き延びることができました。そして、その後、無事、宜の国にたどり着くことができたのです」
その親子は丹櫂から逃れる途中に出会った未央親子だった。
「そうだったのですね。ほんとに無事でよかったです。あれ以来、全く消息を聞くことがなかったので、ずっと心配していたのです」
「私たちこそ、お二人のこと、忘れたことがなかったです。お二人は私たちの窮地を救ってくれた恩人ですから、いつもお二人の無事を祈っていました」
「ありがとうございます。こちらこそ、あの時逃がしてくれたから、今の私たちがありますから、その恩を忘れていません」
「お二人は結婚されたのですね。お二人の活躍は遠い宜の国にも届いてきました。そうしたら、いてもたってもいられなくなり、こうしてまた故郷に戻ってきたのです」
汎陸と美里はこの浅からぬ縁のある未央親子に今後のことを聞いていた。
「今後の予定とかあるのですか?」
「実は、私たちが住んでいた家が奇跡的に残っていることが分かったのです。それで、そこを修復して雑貨店を開こうと思っているのです」
「そうだったのですね。私たちが手助けできることは何でも言ってください」
「ありがとうございます」
その日の夜は未央親子との尽きない思い出話に夜を明かしていた。
一方の甲斐の国は後継者がなかなか決まらなかったが。丹櫂の第五王子に白羽の矢を当てたが、まだ幼い王子には後見人が必要だった。
結局は重臣だった二人と、習慈英が三人で後見人になった。特に習慈英は第五王子の養育係も兼ねていた。
習慈英は戦で妻子を亡くし晩年を寂しく送るはずだった自分の人生に新たな生きる希望を見出していた。習慈英は第五王子を立派な王に育てるよう、心を尽くしていた。そのおかげで、第五王子は穏やかで英知を備えた王に育ちつつあった。甲斐の国もまた、未来に向けて希望が持てる国になっていた。
汎陸と美里はある墓地を訪れていた。そこは町が一望できる高台にあったが、だれ一人訪れる者はいなかった。二つ並んだ墓に花を手向けながら、二人は一心に祈っていた。
二つ並んだ墓は丹櫂とアンジュのものだった。
丹櫂の亡き後、さらし首にするというものや無縁仏として葬るというものを制止して汎陸が二つの遺体を引き取り、この高台に埋葬し、墓を建てたのだった。
美里は今では会うことも叶わなくなったアンジュとここにきてはいつも会話していた。
ここに来ると毎回癒される気になった。
今や精霊となった二人が自分たちを守ってくれていることが信じられた。美里の隣で手を合わせていた汎陸もどこか満たされた顔をしていた。
二人は顔を見合わせながら、墓を後にした。下り道に差し掛かると、すかさず汎陸が美里に手を差し伸べた。
「大丈夫?足を滑らせないように気を付けて。今はお腹に赤ちゃんがいるのだから」
「ええ、大丈夫ですよ。私たちの子どもですから、誰よりも元気に生まれてきてくれると思います」
「そうだね」
そんな二人の頭上を二羽のトンビが悠然と舞っているのを見ながら、二人はこれからの未来がさらに、豊かになることが信じられていた。
(終わり)