【読み切り】『ゴールドフィッシュ』(短編小説)
結果を見れば、正しかったのはあの男の方だった。
もしも、あのとき僕が彼の忠告を聞き入れていたなら、きっと千夏は今も僕の隣にいたはずだ。
そのことを、考えずにはいられない。
あの夏、千夏はその生命に付随した何もかもを投げ捨てた。
そして同時に、僕は千夏を失った。
あるいは、彼女を失ったのは、この世界と言ってもいいのかもしれない。
この世界は千夏を失った。
二度と取り返しのつかない形で。
そしてそのことを、世界はもう気にしていない。
夏が終われば、秋が来る。
冬になれば吐く息が白くなり、やがて春になれば、何事もなかったように桜が咲く。
そしてまた夏になれば、空には昨年とよく似た入道雲が浮かぶだろう。
夏の空というのは版画のようなものであり、パターンが限られているのだ。
きっと、世界はそういうふうにできている。
僕からすれば、誰かがいなくなったという理由だけで、季節の一つくらい欠けてくれてもよさそうなものだ。
けれど、そんなことは決して起こらない。
蝉は鳴くし、雨は降る。
月は満ちては欠け、海は寄せては返す。
まるでそれを、僕だけが硝子の反対側から見ているようだった。
熱も、音も、ぼんやりとしか届かない。
硝子を通して僕が見ているのは、向こう側の景色と、反射した僕の背後の景色。
それらが重なり合った不鮮明な像を頼りに、今日も世界と関わり続けなければならない。
僕はときどき、世界の義務について考える。
硝子の向こうのあの世界は、一体なにに突き動かされているのだろうか、と。
世界の義務は、おそらく二つ。
流れ続けることと、存在し続けること。
立ち止まることは、決して許されない。
世界には、死者を記憶しておく義務がない。
けれど、僕は違う。
青信号で立ち止まっていても誰も困らないし、インドで野垂れ死んで犬に食われようが、自由だ。
僕がこのまま彼女との記憶に溺れ、深く沈んだところで、誰に迷惑がかかることもない。
だからこそ、そういうことを考えないために、僕はなるべく忙しくしてきた。
千夏が死んだあの夏から、今日までずっと。
仕事はその点、都合がよかった。
朝から晩まで数字を眺めて、他人の会社の問題について考える。
売上がいくら足りないとか、どこを削れば利益が出るとか、来年度までに何をどうすればいいとか、そういうことを考えている間、人間は自分の人生について考えなくて済む。
問題には原因があり、原因が分かれば対策を立てられる。
少なくとも仕事の上では、だいたいそういうことになっていた。
だから僕は、仕事が好きだった。
人事の人間が誰かの肩を叩く際に僕の名前を出して悪者にしようが、不採算プロジェクトをいくつも潰して憎まれようが、仕事を嫌う理由にはならなかった。
むしろ、経営コンサルタントとしての仕事を着実にこなしている実感に繋がった。
そんなとき、僕はようやく息を継ぐことができた。
僕の頭の中には、まだあの日の海が焼き付いていた。
そこにあるのは、実際の記憶と脳内のイメージとが奇妙に混ざり合った、歪な心象風景だった。
うらぶれた海水浴場を、僕は沖から見ている。
岸では灰のように白い砂浜が日差しを弾いている。
足首には何だか訳の分からない腐りかけの海藻が絡み付き、僕を海中へ引きずり込もうとする。
水面から辛うじて出していられるのは顔だけで、強烈な日差しが目の奥を刺し貫いてくる。
それはなんとも形容しがたく、息苦しいものだった。
けれどそこには、救いも用意されている。
小さな木切れや発泡スチロールのようなゴミがぷかぷかと浮かんでいて、それらを掴むことで一時は沈まずにいられる。
僕にとって仕事こそが、この海に浮かんだいくつものゴミなのだ。
一方で、この海と海藻の説明をするには、いくつかの重要なポイントを押さえなければならない。
その一つが、あの男との最初の会話だ。
大学四年の夏。
まだ千夏がこの世界にいた頃。
とても暑い日だった。
それが何年前だったのか、もちろん僕は正確に覚えている。
千夏が死んだ“あの夏”の、一つ前の年だからだ。
けれど、それを数字にしてしまうことには、今でも抵抗があった。
数字は時間を一方向に並べてしまう。
それらが僕から遠ざかり続けていることを、否応なく証明してしまう。
だから僕は、千夏が死んだあの夏だけを「あの夏」と呼ぶ。
何年経とうが、僕にとってのあの夏と言えば、あの年の夏しかあり得ないのだ。
その日も、遠くで蝉が鳴いていた。
僕らがいたのは、大学の中でも古い棟だった。
多くのゼミ室が詰め込まれ、昼間でも廊下の奥まではろくに光が届かない。
僕らはそのさらに奥、ほとんど人の通らない小さな談話スペースで向かい合っていた。
窓だけは大きく、外の夏がやけに明るく見えた。
男は僕の向かいに座っていた。
久我圭介という名前だった。
彼は千夏の従兄で、僕と同じ大学で心理学を専攻していた。
同い年だが、話していると、ときどきそう思えなくなることがあった。
やたらと物腰が落ち着いていて、顔にはいつも自信を浮かべていた。
この男は、仮に大地震が来たとしても、絶対に机の下に潜り込んだりしない。
家具という家具が倒れても動じず、揺れが収まったあとで「ほらな」と一言、無傷で言い放つ。そういうタイプだ。
一方、僕と千夏は同じ経営学部だった。
僕は圭介のことを、付き合い始めたあとで千夏から聞いた。
「従兄が心理学部にいるんだ」と。
僕が「わざわざ同じ大学に入るなんて、よほど仲がいいんだね」と言うと、千夏は「たまたまなんだ」と、少し困ったように笑っていた。
圭介は、内容とは不釣り合いなくらい、穏やかな口調で話していた。
「俺からすればさ、人間なんて多かれ少なかれ呪われてるもんだよ。
自覚の有無とか、支障の程度とか、そういう違いはあれどね。
それをなんのかんのと騒ぎ立てる方が、君、不都合じゃないか」
僕は反射的に言葉を返そうとして、一度それを飲み込んだ。
呪い、という言葉が気に入らなかった。
この男が言うそれの定義は分からなかった。
それでも、その言葉は今の千夏を的確に表現しているように思えた。
だからこそ、その言葉を千夏に向けて欲しくなかった。
「……お前の言う“呪い”について、今は詳しく知りたいと思わない。
僕のやろうとしていることが、不都合を招かないとも言い切れない。
だとしても、本人がそれを求めている場合はどうなるんだ?
現に千夏は、僕に助けを求めている」
僕の言葉に、圭介は一つ頷いてみせた。
まるで器量の良い教師が、出来の良い生徒にそうするみたいに。
僕にとってそれは耐え難いことであったが、それと同時に、今は耐えるべきことでもあった。
「なおのこと、放っておけばいいさ」
圭介は妙に柔らかい口調で言った。
「考えてもみろよ。本人にとっての最善を、本人が理解しているとは限らないだろ。
むしろ、自分のことほどよく見えないのが人間ってもんだ。
客観的に見て、放っておく方が好都合だと見えたのなら、やはり手を出すべきじゃない。
本人が何と言おうがね」
「僕は助けたいと思っている」
「どうかな。俺が見る限り、君には迷いがあると思うけど。
わざわざ面識もない俺のところに相談に来たっていうのも、一つの判断材料だ」
外で、金属が擦れる音がした。
ゴムの削れた自転車のブレーキ音。
あるいは古い扉の音だったのかもしれないが、今となっては分からない。
駅から離れた古い大学の構内には、自転車も古い扉も腐るほどあった。
不思議なものだ。
あの夏と、そこへ続いていく記憶。
それらは僕の頭にこびり付いていて、思い描くものは手に取ることができそうなほど鮮明なのに、その内容には随分と偏りがあった。
何度あの季節を繰り返したところで、そこにあるのは僕の印象に残った物事だけだ。
そして、そのほとんどが彼女に関係することだった。
「僕は千夏の問題を解決する手がかりを得る為に、お前に会いに来たんだよ。
目的は、あくまで情報収集だ。
これは“お悩み相談”の類ではないし、ましてやお前の心理学の講義を受けるつもりもない」
「ああ、そうかい。
だけど忠告だけはさせてくれよ。あとで何かあって、俺のせいにされても困るからな」
圭介は面倒くさそうに言った。
「まあ、呪いなんてのはさ、どうにかしたいと思えば思うほど、それだけ強く意識してしまって、深いところまで入り込んでくるもんだ。
藻掻けば藻掻くほど、絡め取られるようになっている。
時間が勝手に解決してくれることもある。迂闊に手を出すべきじゃない」
「僕だって、性急なやり方をするつもりはない。
時間をかけて対処することと、放置することは違うだろ」
「そこは賛同するが、君はそもそも勘違いをしているんだよ。
千夏の呪いは、必要だから生まれたものだろ」
圭介はそこで初めて、何かを考えるような間を置いた。
けれどそれは、単にそういう振りをしているようにも見えた。
僕は窓の外に目をやった。
そこでは、光が白く焼けていた。
夏の光というものは、どうしてあんなにも容赦がないのだろう。
いくら太陽が地球の全てを照らそうと意気込んだところで、その明暗だけが、ただはっきりと分かれていくだけだというのに。
「あれは、その瞬間に必要だったから発生した呪いだ。
自分で自分を呪った――そう言えば、君にも意味が分かるだろ?
人間にはさ、縛られることでしか、何かを保てないときがある。
俺からすれば、君もそういう傾向が強いタイプに見えるが……それはまあ、今はいいだろう」
僕は言い返そうと口を開いたが、圭介は構わず続けた。
「千夏に限った話じゃない。
さっきも言ったが、多かれ少なかれ誰だって呪われている。
そういうもんは、どうしたって残るんだよ。
役目を終えても、そこに居座り続ける。で、自力では抜け出せない。
本人にとって必要かどうかは、もうこの時点では関係がない。
人間を悩ませる呪いってやつは、全てこのパターンで説明がつく。誓ってもいい。全てだ」
「大した決め付けだな。
お前がどうしてもこの世界を病人だらけにしたいことだけは分かったよ」
「逆だよ。俺はそういう状態が自然だって言っているんだ。
病気ってのは、自然状態との対比で生まれる相対的なものだろ」
「なら、千夏のあの状態も自然だから放っておけって言うのか?」
「そうだ。俺は初めからそう言ってる。
ようやくちゃんと伝わったみたいで嬉しいよ」
「なら、それには賛同しかねる。
僕は、千夏がちゃんと自分の人生を楽しめるようにしてやりたい」
「そうかい。
だけど千夏にしたって、初めから自分の人生を軽く見ていた訳じゃないぞ。
むしろ逆だ。
あいつは人一倍、生命の重さとか、尊さとか、人生の価値とか、そういうものを真面目に受け取っていた。受け取りすぎたんだ。
だから、その重さから逃れるために、自分に“無価値”の呪いをかけた」
僕の頭の中にはいくつもの反論が浮かんでいた。
言うべきことは、いくらでもあった。
けれど、この男に対して何かを言うのが、僕はすでに嫌になり始めていた。
「自分の命には、大した価値なんかない。失ったって構わない。
そういうことにしておけば、少なくとも、自分が死ぬことを四六時中怖がらなくて済む」
「でも、それは――」
「分かってるよ。歪んでる。
だから呪いなんだろ」
圭介は僕の言葉を遮り、続けた。
「ただ、歪んでるからって、役に立ってないとは限らない」
そう言って、手の中の缶コーヒーをひっくり返した。
自動販売機から出たときにはよく冷えていたその缶は、プルタブを開けられないまま常温になろうとしていた。
「千夏にとって、その呪いがまだ必要である可能性について考えたか?
そんな女が、もしも今からもう一度、自分という生命には価値があるって本気で思うようになったとしてさ、それに耐えられるのか?」
蝉の声が聞こえた。
それまでずっと鳴いていたはずなのに、そのとき初めて僕はそれに気が付いた。
いくつもの声が重なり合って、窓硝子の向こうで一つの大きな音になっていた。
一匹一匹の声を判別することは、もうできなかった。
「耐えるって……何にだよ」
「命の重さにだろ」
圭介は、話を聞いてなかったのか、とでも言いたげな表情だった。
こういうところが、いちいち勘に障った。
「あいつはそれに耐えられなくて、一度逃げたんだろ。
もし今度また耐えられなくなったとしてさ、君」
圭介はそこで一度言葉を切り、僕を見た。
「二度目は無いぜ」
「二度目は無い……」
「そうだ」
圭介は、今度は頷かなかった。
口だけで肯定し、そしてその目をまっすぐ僕に向けていた。
「責任取れるのかよ」
――責任。
その言葉が、はっきりと耳の奥に残った。
責任を取る、ということについて、僕はそれまで深く考えたことがなかったのだと思う。
失敗したなら謝ればいい。
壊したなら弁償すればいい。
傷つけたなら、その傷が癒えるまで傍にいればいい。
どこかで、そう考えていた。
けれど、取り返すことのできないものに対して、人はどうやって責任を取るのだろう。
失われたものが、もう二度とこちら側へ戻ってこないのだとしたら。
僕には、答えがなかった。
「……それでも、決めるのは俺たちじゃない」
圭介は僕を見た。
その顔から、わずかに表情が消えた。
「彼女でもない」
「……言ってる意味が分からない」
「だろうね」
圭介はそう言いながら、缶のプルタブを引いた。
そして、とっくにぬるくなったコーヒーを一息に飲み干した。
「……喉乾いてたなら、さっさと飲めばよかったのに。
変な奴だな、お前」
「冷たいの苦手なんだよ、俺。
猫舌の逆って、なんて言うんだろうな」
「知らないよ」
「だろうな」
僕は小さくため息をついた。
この男の前で、取り繕う必要ももう感じなかった。
圭介は少しだけ目を細めてこちらを見た。
「君はさっきから、本人が望んでいるならって言ってる。
けど、その望みがどこから来たのかについては、ずいぶん無頓着なんだな」
「本人の望みは本人のものだろ」
「そう思えるのが羨ましいよ」
圭介は小さく息を漏らした。
心底羨ましがるように。
その仕草は、妙に僕の神経を逆撫でした。
自分の声に力が入るのを、もう止められなかった。
「お前は自己決定権を軽視してる。
本人が自分の人生について決める権利は、守られるべきだ」
「ああ、自己決定権の必要性については、俺も否定しないよ」
「なら、本人の望みに寄り添って、何が悪い」
「権利と意思は別物だって言ってるんだ」
圭介は空になった缶を手の中で弄んでいた。
「自分のことを自分で決める権利は必要だ。
けど、そのときに下された決定が、何にも影響されていない純粋な本人の意思だなんて、俺は思わない」
「何にも影響されていない意思なんて、誰も言ってない」
「じゃあ、どこまで影響されていいんだ?」
「それは、本人が“自分で決めた”って言える範囲だ」
僕が即答すると、圭介は少し驚いた顔をした。
「君、意外と頭の回転が速いんだな。
それとも、普段からそういうことばかり考えてるのか?
だけど、あいにく俺は自由意志ってやつの存在自体を信じてない。
それは、“ある”と信じたときだけ生まれる宗教みたいなもんだろ。
君はその信者みたいだから、悪いとは思うけどね」
「……心理学部って、お前みたいなやつが多いのか?」
「さあな。俺は“俺みたいなやつ”ってのが、よく分からん」
圭介は笑った。
その笑い方だけを見れば、普通の大学生のそれだった。
「たとえばさ、今夜の夕飯を何にするか。
そんなものすら、俺は自由に決められると思ってない」
「夕飯?」
「腹具合があるだろ? そして、財布の中身がある。行きたい店が開いてるとも限らない。冷蔵庫に残ってる食材がある。昨日ステーキを食ったなら、今日は魚にしようと思うかもしれない。健康診断の結果が悪けりゃ、ラーメンをやめるかもしれない。
そういう無数の条件に囲まれて、最後に残ったものを選んでるだけだ。
それは自由意志って呼べるのか?」
「自由意志だろ。
今の話のどこに、他者からの強制がある?」
圭介はまた目を細めた。
その視線は、心の底を見透かそうとしているようにも、単に議論を楽しんでいるようにも見えた。
僕は構わず続けた。
「腹が減ってることも、昨日ステーキを食ったことも、病気を怖がってることも、お前の過去も習慣も、全部ひっくるめてお前だろ。
なんでそこから影響を受けたら、お前の意思じゃなくなるんだよ」
「なるほど」
圭介は嬉しそうに微笑を浮かべた。
こういう表情が、妙に画になる男だった。
特筆するような美男子と言う訳でもない。
けれど、その自信に満ちた立ち振る舞いと合わさると、どこか高貴なものを感じずにはいられなかった。
千夏もただ美しいだけでなく、どこか気品の漂う女性だった。
この血筋には、何かしらそういう部分があるのかもしれない。
僕たちはそのとき、二十二歳だった。
僕は経営学を学んでいて、圭介は心理学を学んでいた。
二人とも大学を卒業する前から、人間について何かを知っているつもりでいた。
今から考えれば、ずいぶん呑気なものだ。
だが結局、それなりに年を重ねた今でも、人間について分かったことなど、ほんの一握りだ。
知っている死者の数が増えて、その終わり方にいくつかのパターンを見いだした。その程度だ。
僕はどのパターンに属することになるのか。それが目下の興味対象ではあった。
「でもな」
圭介が少しだけ語気を強めた。
「その“全部ひっくるめて本人だ”って考え方を、どこまで貫ける?」
「どういう意味だよ」
「本人が、自分を壊すことを望んだときだよ。
それも本人の意思だから尊重するのか?」
「極端な話に持っていくなよ」
「極端なところで破綻する理屈は、極端じゃないところでも同じ穴が開いてるもんだぜ。
スイスチーズみたいなもんだ。いや、レンコンか?
まあ、なんでもいい」
「詭弁だ」
「そうかもな」
圭介はあっさり認めた。
そこが、この男の嫌なところだった。
自分の言葉に執着していない。
間違っていたら捨てればいいと思っている。
だから議論で圭介を追い詰めたところで、勝った気がしない。
「まあ、自由意志があるかどうかなんて、今日決めなくたって、君も俺も困らない。
そもそも君は、そんな話をするためにこんな陰気臭いところに来たわけじゃないだろ」
圭介は手の中の空き缶を、ようやくテーブルに置いた。
その上に、ズボンのポケットから出したボックスのマルボロと、見るからに安物のライターを重ねて置いた。
それから、僕の顔を見て少し笑った。
「しかし、どこがいいんだかね」
「何が?」
「千夏だよ。
たしかに見た目はいいかもしれんが、それだけだろ、あいつ」
「そんなことはない」
僕は眉を寄せた。
思ったより強い声が出た。
「彼女は賢いし、優しい」
「へえ」
圭介が面白そうに僕の顔を覗き込んだ。
「正直僕は、お前が千夏を密かに狙って同じ大学に入っていたって、驚かないよ」
途端に圭介は、露骨に嫌そうな顔をした。
「おいおい、やめてくれよ。
俺とあいつは“平行いとこ”だぜ?
インセスト・タブーってやつだ」
「平行いとこ?」
「レヴィ=ストロースだよ。
『親族の基本構造』くらい、経営学部だって読んだらいいのに」
「悪かったな。
それでお前はその、なんたらタブーってやつを、守ってるのか?」
「違う違う」
圭介は片手をひらひらと振った。
「人類に広く見られる近親者への性的忌避の話だよ。
俺が高尚な倫理観で欲望を抑圧してるって話じゃない」
「じゃあ、別にお前が千夏を好きでもおかしくないだろ」
「おかしいんだよ。
少なくとも、俺にはな」
外を車が一台通った。
大学の構内には車道が整備されていたが、車が通ることは稀だった。
窓硝子に反射していた白い光が、一瞬だけ圭介の表情を揺らした。
「ガキの頃から知ってる女なんて、そんな目で見られるかよ。
まあ、優しいってのは認めるけどな。
昔からそうだった」
「昔から?」
「ああ」
僕は身体を少し前に傾けた。
圭介はそれを見て、面倒そうに息を吐いた。
「そういう話を聞きに来たんだろ、君は」
「そうだ」
「だったら最初からそう言えばいいのに」
「言ったよ。
お前が勝手に呪いとか自由意志とか話し始めたんだろ」
「そうだったか?」
「そうだよ」
「じゃあ悪かった」
まるで悪いと思っていない言い方だった。
圭介は少し考えてから、窓の外へ目を向けた。
「あいつは昔から、自分より他人を優先するやつだったよ。
そしていつからか、それが度を超えるようになった」
「……例えば?」
「そうだな」
圭介は眉間に薄く皺を寄せた。
「君は、大山って登ったことあるか?」
「どこの大山?」
「丹沢の」
「ないよ」
「そうか。まあ、1,200メートル以上ある山で、普通なら小学生が登る高さじゃないんだ。
けど、あそこはケーブルカーがあって、それで中腹まで行ける。だから、小学生でもそこからなら山頂まで登れるんだよ。
それで、親戚連中で登ったんだ。学校じゃなくてな。俺と千夏もいた」
「何歳のときの話だ?」
「小学六年だ。
俺の妹もいて、そのとき四年生だった」
圭介は少し目を細めた。
どこか懐かしむように。
「秋口だったけど、思ったよりも日が出て暑かった。
木陰に入ればまだ涼しいんだが、小学生にはとにかくきつい山だったよ」
「それで?」
「妹がさ、暑いからって水をがぶがぶ飲むもんで、すぐに水筒を空っぽにしちまったんだよ」
「なあ、いい加減に千夏の話をしてくれないか?
僕も暇って訳じゃない」
「まあ、いいから聞けって。
それで千夏は、“暑いから仕方ないよね。そんなこともあると思って、私は多めに入れてきたから”とか何とか言いながら、自分の水筒の中身を分け与えたんだ」
「……千夏なら、そうするだろうな」
普通なら、微笑ましい光景なのだろう。
けれど、今の僕にはそれを笑うことはできなかった。
むしろ、嫌な予感が背筋を這った。
「ああ、ここまでなら普通の話だ。
けど、君も知っているとおり、あいつはちょっと普通じゃない。
それから登り続けて、山頂までまだ結構ある地点で、千夏が倒れたんだ」
「……脱水症か?」
「そうだ、察しがいいな。
あいつは飲み物を飲んでなかったんだよ。
というか、持ってなかった」
「全部あげたのか」
「ああ、俺の妹にな」
「なんで誰も気づかないんだ。大人もいたんだろ?」
「いたよ。うちと、千夏の両親。
きっちり4人、大人がいた。
つまり、全員揃って騙されたのさ」
「騙されたってなんだよ。意味が分からない」
「だろうな。
あいつが水筒に手を付けないことに、叔父さんは気づいていたよ。
けど、そのことを言うと、“まだ喉が渇いてないし、大事な水分だから、温存してるんだ。トイレが近くなるのも嫌だし。ちゃんと喉が渇いたら飲むから心配しないで。ほら、まだたくさん入ってるから”とか言って、水筒を振るんだよ。
すると、中からカランカランと涼しげな氷の音がするわけだ」
「あるじゃないか」
「いや」
圭介は首を振った。
「あいつ、石を入れてやがったんだ」
「なんだって?」
「石だよ。
俺の妹に中身を全部やっちまうときに、自分の水筒には石を入れたんだ」
「なんで……」
「気を遣わせないためだろ」
「誰に?」
「全員に。
水がないって分かったら、誰かが自分のを千夏に分ける。親なら当然そうするだろ。
そうしたら今度は、その人間の水が減る。あいつはそれが嫌だったんだ」
「別にそんなの、どうにでもなるだろ」
「その通り。
千夏だって、それは分かってはいたはずだ」
「じゃあなんで」
「自分が困るくらいなら、構わないと思ったんだろ」
圭介は窓の外を見た。
「“従妹は水がなきゃ困る。でも私は我慢できる。皆の水を減らす必要もない。自分が我慢すれば、一番丸く収まる。”
そういうことだろ」
「収まってないじゃないか」
「文句なら千夏に言ってくれよ。
もちろん大騒ぎさ。
叔母さんは泣くし、叔父さんは怒るし、うちの親父は自分の水を全部千夏に飲ませようとするし。
妹は、自分が千夏の分まで飲んだって知って泣き出した」
「千夏は?」
「謝ってたよ」
「何を」
「迷惑かけてごめんなさいって」
僕は思わず顔をしかめた。
言葉が出てこなかった。
外では相変わらず蝉が鳴いていた。
「落ち着いたあとで、俺は訊いたよ。
なんで全部やったんだって」
「それで、千夏はなんて答えたんだ?」
圭介は少し考える素振りをした。
「正確な言葉は覚えてない。
子供の頃の話だからな」
それから、ゆっくりと続けた。
「でも、だいたいこういうことを言ったよ。
“だって、あの子は喉が渇いてたけど、私はまだ我慢できたから”って」
「……それだけか?」
「ああ。あいつの中じゃ、それで全部説明がついてた」
圭介は空き缶を指先で軽く突いた。
マルボロとライターが小さく揺れたが、崩れはしなかった。
「従妹は困っていた。自分はまだ困っていなかった。
だから自分のものを全部渡した。以上。それで終わり」
「でも、その結果、自分が困ることになる」
「そうだな。
千夏を見てると、ときどき思うんだよ。
あいつは目の前にいる他人には気持ち悪いぐらい優しいくせに、少し未来の自分には驚くほど冷たくできる」
この日の会話で僕がはっきりと覚えているのはここまでだった。
けれど、圭介から聞いた少女期の千夏は、僕の知っている千夏と驚くほどよく繋がった。
僕は最初、彼女を単に優しい女性なのだと思っていた。
千夏は、人から何かを頼まれるとほとんど断らなかった。
ゼミの飲み会で幹事を代わってほしいと言われれば代わったし、アルバイト先で欠員が出れば、自分に予定があっても都合をつけた。
それでいて、自分から誰かに頼みごとをすることはほとんどなかった。
付き合い始めた頃、僕はそういうところも好きだった。
人の都合を考えることができる。
困っている人間を放っておけない。
それは一般に、美点と呼ばれるものだった。
けれど、いつからかそこに違和感を覚えるようになった。
ある日、千夏と昼飯を食べる約束をしていた。
昼休みになっても来ないので連絡すると、
《ごめん、少し遅れてる。》とだけ返事が来た。
20分ほどして現れた千夏は、財布を持っていなかった。
「忘れたの?」
「ううん。私、今日お昼食べないから」
それだけ言って、僕の向かいに座った。
聞けば、同じ講義を受けていた学生が財布を落とし、昼飯を買えないと言うので、手持ちの金を貸したらしい。
「全部?」
「ほとんど」
「なんでそんなに貸すんだよ」
「だって、私はキャッシュカードもあって、ATMまで行けばお金はあるから。
でも、あの子は財布が見つかるまで、何も買えないし、お金だって下ろせないんだよ?」
「じゃあ、下ろしてからくればよかったじゃないか」
「だって、これ以上、直哉を待たせたら悪いと思って」
「……あのさ、スマートフォンがあって、キャッシュレス決済とかが使える店に行けば、その子だって一旦は凌げるだろ。
いや、仮にそれができなかったとしても、千夏が有り金全部渡す理由にはならない」
「全部じゃない。ほとんど、だよ」
僕は思わずため息をついていた。
結局、その日は僕が二人分払った。
断ろうとする千夏に、半ば強引に定食を押し付ける形で。
別の日には、雨の中を傘も差さずに大学へ来た。
家を出たときには持っていたという。
駅で、傘が無くて困っている女の子に貸したらしい。
「知ってる子だったの?」
「ううん」
「返ってこないだろ」
「まあ、ビニール傘だし」
「……君のその服も、ビニール製なのかい?」
千夏は笑った。
びしょ濡れになった肩を揺らして。
僕はそれ以上何も言わなかった。
どちらも、大した話ではない。
金なら僕が払えばいい。
服なら乾かせばいい。
けれど、そういうことが何度もあった。
自分の時間を使う。
自分の金を使う。
自分が面倒を引き受ける。
千夏にとっては、それらが同じ軸の上に乗っかっているようだった。
相手が困っていて、自分がまだ困っていない。
それだけで十分な理由らしかった。
決定的だったのは、付き合い始めて半年ほど経った頃だった。
その日は夕方から会う約束をしていた。
待ち合わせ場所に現れた千夏は、ひどく顔色が悪かった。
「どうしたの?」
「何が?」
「顔」
千夏は自分の頬に触れた。
「あ、ちょっと寝不足かも」
少し問い詰めると、前日の夕方からアルバイトに入り、そのまま翌朝までほとんど眠っていないことが分かった。
本来は夜までの勤務だった。
けれど、次の時間帯に入る予定だった学生の母親が倒れたらしい。
千夏は、その学生に帰るよう言った。
店長が代わりを探している間だけのつもりが、結局ほとんど最後まで残った。
どうやら店長も散々帰宅を勧めたらしいが、それだとお店が回らないからと、千夏が進んで残ったらしい。
「だって、私がその子を帰らせちゃったから。それで店長に迷惑をかけられないでしょ」
それが千夏の言い分だった。
「……あのさあ、君が言わなければ、店長がその子を帰したに決まってるだろ。常識的に考えて」
「それは分かってるけど、でも、結局それでもお店は回らないんだから、同じことでしょ?」
「……それで、なんで今日来たんだよ」
「直哉と約束してたから」
「断ることもできただろ。
僕はそんなことで怒ったりしない」
「でも、私のバイト先の問題と直哉は関係ないから」
意味が分からなかった。
「だから?」
「私の都合で、直哉との約束まで駄目にするのは違うでしょ」
僕はしばらく千夏を見ていた。
たぶん、そのとき初めてだった。
僕は千夏のそれを、優しさとは思わなかった。
「今日は、もう帰ろう」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない」
「寝れば治るって」
「だから帰るんだよ」
「そうじゃなくて」
千夏は困ったように眉を下げ、小さく笑った。
その顔にも、僕は腹が立った。
誰かに迷惑をかけないためなら、自分が困ることについては何とも思わない。
自分が困っているという事実そのものを、千夏はそもそも勘定に入れていなかった。
「千夏」
「なに?」
「お前、自分のこと、どうでもいいと思ってないか?」
千夏の表情が、一瞬止まった。
時間にすれば、ほんの一秒か二秒程度だった。
けれど、その反応を僕は見逃さなかった。
「……どうしてそう思うの?」
「その反応は、もう肯定だろ」
千夏は何も言わなかった。
僕は千夏を追い詰めたい訳ではなかったし、もう怒ってすらいなかった。
ただ、ここでうやむやにすることは、千夏の為にならないという確信だけがあった。
「他人のためなら、金も時間も体力も平気で使う。
でも自分が困っていても、ずっと大丈夫って言う」
「だって、本当に大丈夫だから」
「鏡見て来いよ」
千夏は目を逸らした。
「……別に、自分を嫌ってるとか、そういうんじゃないよ」
「じゃあ何なんだよ」
しばらく返事はなかった。
駅前を人が流れていた。
帰宅する人間と、これからどこかへ向かう人間が、それぞれ同じ方向へ歩いていた。
「私、死ぬのが怖いの」
ようやく口を開いた千夏から出て来た言葉が、それだった。
僕はその意味を懸命に汲もうと思ったが、やはりどうやっても文脈が繋がらなかった。
「何?」
「死ぬのが怖いんだ。すごく」
声は小さかった。
「……いつから?」
「小学生のときから」
千夏はまた少しだけ黙った。
それは話す内容を考えているのではなく、話すべきかどうかを迷っている、そういう間だった。
「……震災があったでしょ」
もちろん僕にも覚えがあった。
多くの人が死んだ地震だった。
津波が起こり、原発事故まで起きた。
「被災したのか?」
「ううん」
千夏は首を振った。
「知ってる人が死んだわけでもない。ただ、テレビで見てただけ」
「それで?」
「人って、こんなに簡単に死ぬんだって思った」
僕はそこから何か特別なエピソードが続くのだと思い、しばらく待った。
けれど、話はどうやら本当にそれだけのようだった。
「……なあ、たしかにあれはひどい出来事だったよ。
あの頃の日本にいた人間なら、多かれ少なかれ何かを感じたはずだ。
けどさ、千夏のことを説明するには、少し足りないんじゃないかな」
「……昨日まで普通に生きてた人が、次の日にはいなくなる。
誰も、朝起きたときには、その日に死ぬなんて思ってなかった」
「まあ……そうだろうけど」
「最初は、地震が怖かった。
でも、そのうち地震だけじゃないって気づいた。
車でも死ぬし、病気でも死ぬし、階段から落ちても死ぬ。川でも、海でも死ぬ。寝てる間に死ぬ人もいる」
「考えすぎだよ」
「分かってる。
でも、分かったからって止まらないんだよ」
その言葉だけは、少し強かった。
「……人の命って、すごく大事なものみたいに言うでしょ」
「まあな」
「人命は何より大切だとか、命より大事なものはないとか」
「うん」
「だったら、もっと必死に守ればいいのにって思った」
「どういう意味?」
「危ないことなんて、全部やめればいいじゃん。
車にも乗らない。海にも入らない。山にも登らない。外に出るのが危ないなら、ずっと安全なところにいればいい」
「そんなことしたら、生きられないだろ」
「そう」
千夏は頷いた。
「だから分からなくなった」
「何が?」
「そこまでして守るほどのものじゃないなら、どうして命は何より大事なんて言うんだろうって」
僕が返答に困っていると、千夏は続けた。
「みんな、命は大事だって言いながら、普通に危ないことをする。普通に道を歩いて、普通に電車に乗って、普通に海に行く」
「生きる為には、ある程度仕方ないだろ」
「うん。
今なら、そういうものだって分かるよ」
「じゃあ」
「でも、分かることと、怖くないことは別なんだよ」
また僕は黙った。
千夏の言葉には不思議な説得力があった。
それはきっと、彼女の抱える切実さが、言葉の一つ一つに乗った結果なのだろう。
「夜、寝るのが怖い時期もあった。
目を閉じて、そのまま起きなかったらどうしようって」
「誰かに相談しなかったのか?」
「しなかった」
「なんで」
「相談したって、死ななくなるわけじゃないから」
「……それで、どうしたんだ」
「考え方を変えた」
「どんなふうに?」
千夏はまた少しだけ迷った。
「……命には、本当は大した価値なんてないんじゃないかって」
僕は思わず千夏の目を覗き込んだ。
その瞳の奥には、僕が見たことのない種類の空洞があった。
「本気で言ってる?」
「本気……というか、そう思うことにしたの。
価値があるって思うから、失うのが怖いんだと思った。
だったら、最初から大したものじゃないって思えばいいって」
「……それで、楽になったのか?」
「少しは」
千夏は静かな口調で答えた。
「世界にとって、なくなって困るものじゃない。特別なものじゃない。
そう思うようにしたら、前よりは眠れるようになった」
「でも千夏は、他人のことは大事にするだろ」
「うん」
「他人が困ってたら全力で助ける。
それなのに、命には価値がないって、それじゃ理屈が通らない」
「分かってる。
だから、私だって困ってるんだよ」
千夏は初めて、少し苛立ったように言った。
それから、すぐに声を落とした。
「ごめん」
「謝らなくていい」
「……これは、後付けかも知れないんだけど
――他の人の命には価値がある。でも、自分のはそうじゃない。そう思ってる方が楽だった。
結局のところ、それなんだと思う」
「それを、今でも信じてるのか?」
「信じてるっていうか。たぶん癖みたいなもの」
「癖?」
「うん。たぶん、悪い癖」
「じゃあ……直したい?」
千夏はすぐには答えなかった。
駅前の信号が変わった。
人の流れが一度止まり、また動き出した。
「直したい」
小さな声だった。
「最近は、ちょっと変だなって思うことが増えたから」
「変?」
「うん。だって、直哉が大事にしてくれるでしょ、私のこと。
大事にされると、自分が大事じゃないっていう方が、だんだん変に感じる」
千夏は僕を見た。
「だから、変われるなら変わりたい」
「変われるよ」
僕はすぐに言った。
千夏はまた困ったように笑った。
そこで会話は終わった。
少なくとも、僕の記憶の中ではそうなっている。
その日、僕は初めて、千夏自身が今の自分から抜け出したいと思っていることを知った。
だから僕は、助けようと思った。
それが間違っている可能性について、その時点では考えなかった。
もしかしたら、あえて考えないようにしていたのかもしれない。
今となっては、それも分からない。
僕が久我圭介に会いに行ったあの日は、この数日後ということになる。
問題に対処するとき、なにより大事なのは情報収集だ。
僕には過去の千夏に関する情報が圧倒的に不足していた。
それを補うために、千夏の従兄である圭介に会いに行ったのだ。
そして、圭介と話した後でも、僕の選択は変わらなかった。
むしろ、よりはっきりした。
千夏が変わりたいと言っている。
それならば、僕はその意思を尊重したかった。
仮に圭介の言う通り、千夏の呪いが今も何かの役に立っているのだとしても、それを理由に本人をそこへ縛りつけておくことには納得できなかった。
圭介と会った数日後、千夏にもう一度訊いた。
「この前言ってたこと、まだ変わってない?」
「変わりたいって話?」
「うん」
「変わってないよ」
その言葉で、十分だった。
僕は圭介に会ったことも、その内容も千夏には話さなかった。
代わりに、僕なりに考えたことを話した。
「世界にとって価値があるかどうかなんて、どうでもいいんじゃないか」
千夏は黙って僕を見た。
「少なくとも、僕にとってはあるよ。
千夏がいなくなったらすごく嫌だ」
「……嫌なだけ?」
「とても悲しい」
「あとは?」
「たくさん泣く」
「それで?」
「食事も喉を通らないし、何も手に付かない」
「いつまで?」
「ずっとだよ。
きっとカロリーメイトとか、ゼリーとか、そういうもので栄養だけ間に合わせるんだ」
「痩せちゃうね」
「うん、筋トレもやめるからね。
すぐに年老いたキツネザルみたいになるかも」
「それは嫌だなあ」
千夏は笑った。
「……なんだか、“生きなきゃ”って気持ちになってきた」
「それはよかった」
「だから、もう一声」
千夏は悪戯っぽい声を出した。
いつの間にか、期待に満ちた目で僕の顔を覗き込んでいた。
僕は少しだけ考えた。
千夏を失った人生。
それはひどく味気のないものに思えた。
「たぶん、生きていけない」
僕がそう言うと、千夏は満足そうに笑った。
それから、ゆっくり頷いた。
もちろん、それですぐに何かが変わったわけではない。
千夏は相変わらず人に優しかったし、困っている人間を見れば手を貸した。
ただ、その中に少しずつ、自分も含めるようになった。
「今日はちょっと疲れたから、帰ってもいい?」
そんなことを、自分から言うようになった。
頼みごとをされたときも、無理なら断るようになった。
風邪を引けば大学を休み、僕が見舞いに行こうとすると、「ありがとう。でも、今日はこのまま一人で寝ていたい」と言った。
その程度の変化だった。
けれど、僕には十分だと思えた。
春になり、僕たちは大学を卒業した。
卒業式の帰り、川沿いの桜並木の道を二人で歩いた。
「五年後とか十年後でも、こうやって見られるのかな」
千夏が桜を見上げながら言った。
「見られるだろ。桜は毎年咲くんだから」
「そうだよね。また必ず来ようね」
「ああ、まずは来年だな」
「うん、そうだね」
千夏はそう言って、屈託なく笑った。
それは春の日差しをいっぱいに受けた、とても素敵な笑顔だった。
それなのに僕は、なぜだか圭介との会話を思い出した。
二度目はない。
そのときの僕には、圭介が間違っていたようにしか思えなかった。
千夏は、自分の未来について話していた。
僕はそれを、呪いが解けた証拠だと思った。
たぶん、実際にそうだったのだと思う。
そして今になって思えば、それこそが問題だった。
春から、僕は都内のコンサルティング会社で働き始めた。
入社して最初に覚えたのは、会社という場所では、一日というものが24時間であるとは限らないということだった。
朝9時に始まった仕事が、気が付けば夜の12時を過ぎている。
資料を作り直し、数字を確認し、上司から戻されたものをまた直す。
それを終えると、翌朝までに必要な仕事が新しく増えている。
最初の数ヶ月は、それだけで精一杯だった。
千夏も春から働き始めていた。
大学にいた頃のように、何となくで会うことはできなくなった。
会うには予定を決める必要があった。
金曜の夜。
日曜の午後。
来週が駄目なら、その次の週。
そうやって、二人で同じ時間を確保すること自体が、一つの予定になった。
そして、その予定を潰すのは、大抵僕の方だった。
金曜の夕方に仕事が増える。
土曜に呼び出される。
日曜の夜までに資料を送れと言われる。
僕はそのたびに千夏へ連絡した。
《ごめん。今日無理そう。》
返事は、だいたい短かった。
《分かった。》
あるいは、
《仕事なら仕方ないよ。》
千夏は怒らなかった。
正直に言えば、僕はそれに救われていた。
睡眠を削りながら仕事をこなし、そのうえ千夏とのトラブルを抱えることは、そのまま生活の破綻を意味していた。
それぐらい、時間的にも体力的にも切迫していた。
そのことについて、申し訳なくも思った。
けれど、その申し訳なさについて考えている時間さえ、あまりなかった。
一度だけ、約束の時間に2時間近く遅れたことがある。
駅に着いたとき、千夏は本屋にいた。
「ごめん、遅くなって」
「うん」
「怒ってる?」
「ちょっとだけ」
千夏は本をパタンと閉じた。
僕は少し驚いた。
「千夏も怒るんだ」
「怒るようになった」
千夏はそう言って、表情を崩した。
それから少しだけ意地悪そうな顔をして、
「前の私の方がよかった?」と言った。
僕は笑った。
嬉しかった。
千夏は本当に変わったのだと思った。
自分の時間を、ちゃんと自分のものとして扱っている。
怒らない千夏に助けられている自分も、千夏の変化を喜ぶ自分も、どちらも本当だった。
それでいいと思った。
「何か奢るから、許してもらえないかな?」
「じゃあ高いやつ」
「たとえば?」
千夏は腕を組み、首を傾げた。
そして、しばらく考えた後で、諦めたように口を開いた。
「ちょっと思いつかないや。
普段高い店に行かないから」
僕たちは笑った。
それから結局、近くの適当な店で夕飯を食べた。
それが、その春に二人で過ごした数少ないまとまった時間の一つだった。
六月になる頃には、僕は仕事に少し慣れていた。
仕事量が減ったわけではなかった。
ただ、忙しい状態で動き続けることに身体が慣れただけだった。
千夏からの連絡は自然に減っていた。
僕から送ることもあまりなかった。
それを関係が悪くなったとは思わなかった。
社会人になれば、そういうものなのだろうと思っていた。
大人の交際関係とはこういうものなのだと思い、感慨深くすらあった。
実際、会えば千夏は変わらなかった。
よく笑った。
仕事の愚痴も言った。
疲れたと言った。
週末は何もせず寝ていたいと言うこともあった。
僕はそういう言葉を聞くたびに、かえって安心した。
千夏はちゃんと、自分の疲れと向き合うことができていた。
ある夜、仕事を終えて会社を出ると、千夏からメッセージが届いていた。
《夏休み取れそう?》
僕は歩きながら返した。
《ちょっと厳しいかも。》
少しして返事が来た。
《そっか。》
そのあとに、
《じゃあ秋でもいいね。》と続いた。
僕は、
《秋なら何とかする。》と返した。
千夏からは、笑っている顔のスタンプが一つ届いた。
それで会話は終わった。
僕はそのとき、二人には秋が来ることを疑っていなかった。
夏が終われば秋が来る。
それは、世界における最も確実な出来事の一つだと思っていた。
千夏が死んだのは、七月の終わりだった。
その日は朝から客先にいた。
昼を過ぎても会議は終わらず、ようやく自分のスマートフォンを見たときには、知らない番号から何度も着信が入っていた。
その番号が千夏の父親のものだと知ったのは、折り返してからだった。
「直哉くんか」
低い声でそう言われた。
「はい」
その後に言われたことを、僕は正確には覚えていない。
千夏が死んだ。
たしかに、そういう内容だったはずだ。
けれど、その言葉はうまく頭に入ってこなかった。
“千夏”という名前と、“死んだ”という言葉の組み合わせには、何かしら文法上の誤りがあるようにしか思えなかった。
「……千夏が?」
僕は訊いた。
返事があった。
だからもう一度、「千夏が?」と訊いた。
同じ返事があった。
僕は電話を切ったあと、しばらく会議室の前に立っていた。
中ではまだ誰かが話していた。
硝子越しに、スクリーンへ映されたグラフが見えた。
僕が今朝作った数字だった。
その数字が持つ意味を、僕は理解することができなかった。
千夏の遺体は、海で見つかったらしい。
それは僕たちが行ったことのない海だった。
名前を聞いても、最初は場所さえ分からなかった。
調べると、かつては夏になるとそれなりに人が集まったらしいが、今では海水浴客も減り、周囲の店もほとんど開いていないようだった。
海水浴場という名前だけが、昔の賑わいをまだ引きずっているような場所だった。
千夏はそこで見つかった。
岩場に打ち上げられていた。
警察は真っ先に事件の可能性を調べた。
けれど、不審な点は見つからなかった。
すぐに遺書も出てきた。
事件性はないと判断され、自殺として処理された。
その説明を聞いても、僕にはあまり実感がなかった。
事故ではなかった。
誰かに殺されたわけでもなかった。
千夏が、自分でそうした。
事実としては、それだけだった。
僕には、それが一番理解できなかった。
遺書は長いものではなかった。
家族への言葉があり、僕への言葉もあった。
けれど、なぜ死ぬのかについては、書かれていなかった。
僕が知りたかったことは、そこには無かった。
最後の方に、一つだけ、こんなことが書いてあった。
『私はちゃんと、自分の命を大切に思えるようになりました。』
何度読んでも、意味が分からなかった。
命の大切さを知った人間が、なぜ死ぬのか。
僕には分からなかった。
葬式の前に、一度だけその海へ行った。
そうしなければ、千夏を送り出してはいけない気がした。
誰にも言わなかった。
電車を乗り継ぎ、そこから少し歩いた。
よく晴れた日だった。
海水浴場には、ほとんど人がいなかった。
古い海の家のシャッターは閉じたままで、色褪せた看板が風に揺れていた。
砂浜は白かった。
日差しを強く跳ね返し、長く見ていると目の奥が痛くなった。
海は、やけに青かった。
海流のせいか、空の色のせいか、あるいは海水浴客がいないせいか。
少しだけ考えて、すぐにどうでもよくなった。
僕はしばらく岸に立っていた。
千夏がどこにいたのかは知らなかった。
どこから海へ入ったのかも知らなかった。
知りたいとも思わなかった。
ただ、千夏がここに来た。
その事実だけを確かめたかったのだと思う。
波は一定の間隔で寄せてきた。
そして、そのたびに何事もなかったように戻っていった。
僕は無性に腹が立った。
何に腹を立てているのか自分でも分からないまま、ただ腹の底から湧き上がる激しい怒りを感じていた。
圭介の言葉を思い出した。
二度目は無いぜ。
責任取れるのかよ。
あのとき、僕には答えがなかった。
そして今となっては、答えを出す必要ももうなかった。
責任を取ろうにも、相手がいない。
謝ろうにも、聞く人間がいない。
傷が癒えるまで傍にいようにも、傷ついた本人がもういない。
僕は千夏に、自分の命には価値があると教えた。
大事にしろと言った。
未来のことを考えていいと言った。
千夏はそれを受け入れた。
少なくとも僕には、そう見えていた。
そして、生きたいと思えるようになった。
そのあとで死んだ。
結果だけ並べると、随分と馬鹿みたいな話だった。
僕は海には入らなかった。
靴も脱がなかった。
ただ波打ち際から少し離れたところに立って、しばらく海を見ていた。
沖にはほとんど何もなかった。
手前になんだか訳の分からない海藻やらゴミやらが浮かんでいて、ずっと向こうに水平線があった。
あの場所で何を考えていたのか、今ではもうよく覚えていない。
ただ、その海だけは僕の頭の中にはっきりと焼き付いてしまった。
やけに白い砂浜と、青すぎる水面。
強烈な夏の日差し。
そして、もう千夏はどこにもいないという事実。
それから僕は、その海へは二度と行くまいと心に決めた。
千夏が死んだあと、圭介には二度会った。
一度目は、千夏の葬式。
二度目は、圭介の勤めるカウンセリングルームだった。
葬式で名刺を渡され、
「平日なら、日中はここにいる。落ち着いたら会いに来い。空振りが嫌なら、直前に電話してくれ」と言われた。
特に何かを期待したわけじゃない。
ただ、世間を賑わせている“入水自殺した美女”が僕の恋人だと職場に知られ、半ば強引に休暇を与えられ、それを持て余したのだ。
何をしたらいいのか分からず、直近で声をかけてきた男に会いに行った。
ただそれだけだった。
「おいおい、随分と落ち着くのが早いじゃないか、君は。
普通こういうときはさ、仮に大丈夫だったとしても三ヶ月とか、せめて一ヶ月とか、それくらいは開けてから来るもんだぜ?
それをさ、君、まだ葬式やってから三日しか経ってないじゃないか」
「……お前こそ、身内が死んだってのに、もう普通に働いてるんだな」
「知らないのか?
四親等じゃ忌引きにならないんだよ。こういう小さい職場はさ。
君んとこの大手企業とは違うんだ」
「知ってるよ。
いろんな企業で就業規則の見直しもやった。
僕が言ってるのは、そういうことじゃない」
「じゃ、お互い様だ」
「違う。僕は混乱してるんだよ。
お前と違って」
「それで、どうしたらいいか分からなくなって俺に会いに来たのか?」
「そんなところだ」
「だったら約束が違う。帰れよ」
「……そうか。
じゃあ、落ち着いたらまた来るよ」
僕は椅子から立ち上がり、入り口の方を見た。
「……ちょっと待て」
一歩踏み出したところで声をかけられ、振り向くと、圭介はすぐに僕から視線を逸らした。
それからバツが悪そうな声で、「まあ、なんだ」と濁した。
そして、「君のせいじゃない」と言った。
僕は足を止めていた。
けれど、もう一度椅子に座る気はなかった。
「千夏のことだよ」
僕が黙っていると、圭介がそう補足をした。
「分かってるよ」
「そうか、分かってない顔をしてたから」
「お前に僕の何が分かるんだよ」
「さあな。
でも、君が今ここにいる理由くらいは想像できる。
自分が千夏を殺したって思ってるんだろ」
「……思ってるんじゃない。
実際、僕が殺したんだ」
圭介は黙っていた。
僕は心のどこかで否定の言葉を期待して、ここに来たのかもしれない。
そうでなければ、思い切り責めてくれてもよかった。
「圭介。
……お前はちゃんと忠告していた。
二度目はないって。
千夏が自分の命には価値があるって、本気で思うようになったら、それに耐えられるのかって。
お前は言った」
「ああ。まあ、言ったな」
「その通りになった」
「だから?」
「僕がやったんだよ」
声は思っていたよりも静かに出た。
「僕が千夏に、自分を大事にしろって言った。
千夏が自分を後回しにするたびに止めた。
お前の命には価値があるって、何度も言った」
圭介は黙って僕を見ていた。
「それで、本当にそうなった」
「そうなったって、何だよ」
「千夏は変わった。
自分のことを大事にするようになった。
疲れたって言うようになった。嫌なことは嫌だって言った。風邪を引いたら病院にも行った。
次の秋の話もした。来年の話もした。
ちゃんと、生きようとしてた」
「そうかい」
「だから死んだんだ。
何もかも、お前の言う通りだった」
圭介は小さく息を吐いた。
「それは飛躍だ。
表面上は俺の言う通りのことが起こったかもしれない。
だけど、その裏にある心理までは、分からないだろ。
違う原因から同じ結果が生じることだってあるし、その逆だってある。
俺はむしろさ、君は被害者だと思ってるよ」
「被害者?」
「ああ。だってそうだろう?
千夏という、自殺すべくして自殺した女のせいで、一生ものの傷を負ってしまった。
運が悪かったな。
関わらなきゃよかったんだ。
まあ、そういう意味では自業自得ってやつか。
今言った被害者ってやつ、撤回してもいいかい?」
「好きにしろよ」
「まあ、どっちでもいいんだがね」
圭介は本当にどうでもよさそうに言った。
「……お前はさ」
僕は無意識につばを飲み込んでいた。
「何だ?」
「お前は、関わらなきゃよかったと思っているのか?」
僕の問いに、圭介はすぐには答えなかった。
ただ椅子の背もたれに身体を預け、視線を落としていた。
「千夏を失ったのは僕だけじゃないんだって、なぜだかお前を目の前にして、ようやく思えた」
僕がそう言ったきり、部屋には沈黙が落ちた。
天井のスピーカーからサティの『ジムノペディ第2番』が小さな音で流れていた。
この曲にはたしか、何か悲しげな言葉が添えられていた気がしたが、僕はそれを思い出せなかった。
やがて圭介が小さく口を開いた。
「俺は従兄だからね。
選択の自由はなかった」
僕はその言葉を聞いて、初めて圭介の顔をまともに見た。
そこにいつもの自信に満ちた表情はなかった。
「そうか」
「まあ、遅かれ早かれってやつさ」
圭介は机の上にあったボールペンを一本取り、指の間で回した。
「……まさかそれ、慰めてるつもりか?」
「一応」
「このカウンセリングルームがなぜガラガラなのか、よく分かった」
「ああ、俺みたいに腕がいいと、みんな治ってここに来なくなっちまうんだ」
「好きに言ってろよ」
僕と圭介は、互いに顔も見ずに笑った。
「……世の中にはさ、“間違った選択”なんてものは無いんだよ」
圭介が、ぽつりと言った。
それは残念ながら、今の僕にはとても賛同できそうにない言葉だった。
僕が黙っていると、圭介が続けた。
「選択の積み重ねが人生なら、そこには痛みを伴う選択と、伴わない選択があるだけだ」
「……そうか」
僕は初めて、この男を抱擁したい気持ちになった。
そして同時に、僕たちが会うことは、もう二度と無いのだろうと思った。
最後にもう一つ、僕の頭の中に繰り返し浮かぶ光景がある。
おそらくは、いつだかに見た夢の景色なのだろう。
金魚を海へ放つ自分だ。
どこから連れてきた金魚なのかは分からない。
金魚鉢があったのか、それとも祭りの屋台ですくったものなのか、それすら曖昧だった。
ただ、僕は手の中に一匹の赤い金魚を持っている。
目の前には海がある。
よく晴れた夏の日で、水平線まで青い。
僕はその金魚を海へ放す。
逃がしてやる、という気持ちだったように思う。
こんな狭いところにいる必要はない。
もっと広い場所へ行けばいい。
どこへ泳ぐのかは、自分で決めればいい。
たぶん、そんなふうに考えていた。
金魚は僕の手を離れると、一度だけ尾を振る。
それから、波の向こうへ消えていく。
そこでいつも、僕は思い出す。
金魚は海水では生きられない。
そんなことは、子供でも知っている。
それでも夢の中の僕は、何度でも同じことをする。
金魚鉢はきっと狭かった。
水は濁っていたのかもしれない。
そこから出たがっているように見えたのかもしれない。
だから僕は、外へ出した。
少なくとも、そのときの僕には、それが正しいことに見えた。
海は広かった。
自由だった。
そして、金魚が生きられる場所ではなかった。
圭介はきっと、最初から分かっていた。
あの水槽が単なる檻ではなく、金魚が生きていくために必要な場所でもあったことを。
僕には分からなかった。
ただ一つ分かるのは、僕が金魚を海へ放したあと、その海の中へ自分も入ってしまったということだった。
今では、溺れているのは僕の方だ。
足には海藻が絡みつき、頭上では夏の光が白く焼けている。
それでも、ときどき水面に浮かんだ木切れを掴む。
発泡スチロールでも、ペットボトルでも、何でもいい。
沈まなければ、それでいい。
仕事も、その一つだった。
金魚はもうどこにもいない。
それでも僕は、あの海から上がることができない。
『ゴールドフィッシュ』 完
