
エピローグ 旅のあと
春だった。
暖かな風が吹いていた。
草原が揺れる。
花が揺れる。
遠くで子供たちの笑い声が響く。
青空の下。
世界は静かに生きていた。
あの日から数年が過ぎていた。
灰に覆われていた世界はもうない。
空には太陽が昇る。
夜になれば星が輝く。
人々は畑を耕し。
家を建て。
歌を歌い。
泣き。
笑い。
そして生きていた。
争いが消えたわけではない。
悲しみがなくなったわけでもない。
それでも。
人々は空を見上げることを思い出していた。
それだけで。
世界は以前とは違っていた。
風が吹く。
丘の上に一本の木が立っている。
若い樹だった。
まだ細い。
だが。
真っ直ぐ空へ向かって伸びている。
その木の下に一人の青年がいた。
レインだった。
少し大人になった顔。
穏やかな瞳。
かつて戦場を歩いた兵士の面影は残っている。
だが。
その表情には静かな優しさがあった。
レインは空を見上げる。
青い空。
白い雲。
そして。
昼の空にかすかに残る朝の星。
リングが脈打つ。
ドクン。
ドクン。
穏やかな鼓動。
今も変わらず。
胸の中で生き続けている。
その時。
丘の下から声が聞こえた。
「レイン!」
振り返る。
セレナだった。
銀色の髪が風に揺れる。
以前よりも柔らかな笑顔。
月の継承者としてではなく。
一人の人間として生きている顔だった。
その後ろにはアストラもいる。
相変わらず無口だったが。
昔より少しだけ穏やかになっていた。
レインは微笑む。
「遅かったな」
アストラが肩をすくめる。
「お前が早いんだ」
セレナが小さく笑う。
三人は並んで空を見上げた。
しばらく誰も何も言わなかった。
風の音だけが響く。
心地よい沈黙だった。
その時。
遠くから子供たちが駆けてくる。
元気な声。
泥だらけの顔。
その中の一人が叫んだ。
「レイン!」
小さな手には青い花が握られている。
レインは目を細める。
あの花だった。
灰の世界で見つけた花。
希望の花。
子供は笑顔で差し出した。
「咲いたんだ!」
レインは花を受け取る。
胸が暖かくなる。
「そうか」
小さく頷く。
それだけだった。
だが。
それで十分だった。
世界は変わった。
本当に少しずつ。
少しずつ。
誰かが花を植えたから。
誰かが手を差し伸べたから。
誰かが諦めなかったから。
風が吹く。
青い花が揺れる。
世界樹の方角を見る。
遥か遠く。
巨大な樹が空へ伸びている。
今も世界を見守っている。
その時。
リングが静かに脈打つ。
ドクン――
レインは無意識に胸元へ手を当てた。
中央の五芒星。
長い旅を共にした光。
絶望の中で受け取った聖なる意思の石。
あの日。
石はリングと一つになり。
五芒星の中心で眠り続けていた。
その五芒星が。
今。
淡く輝いている。
レインはゆっくり空を見上げる。
青空の向こう。
昼の光の中。
朝の星が静かに輝いていた。
そして。
気付く。
リングの五芒星と。
朝の星の輝きが。
まったく同じ光であることに。
ドクン。
リングが応える。
遠く離れた友へ、返事をするように。
その瞬間。
五芒星の中心から暖かな光が広がる。
レインは思い出していた。
焼けた村。
倒れていた老婆。
運命のリング。
青い花。
セレナ。
アストラ。
火星の守護者。
リュナ。
ミリア。
世界樹。
そして。
長い旅の中で出会った無数の命。
全ての始まり。
全ての奇跡。
その中心にあったのは。
あの小さな石だった。
レインはようやく理解する。
聖なる意思とは。
特別な力ではなかった。
世界を支配する力でもない。
運命をねじ曲げる力でもない。
それは。
どんな絶望の中でも消えない希望。
人がもう一度立ち上がろうとする意志。
誰かを想う心。
その光だった。
そして。
朝の星は。
ずっとその光を見守っていた。
世界が灰に覆われていた時も。
人々が希望を忘れていた時も。
静かに。
消えることなく。
ずっと。
レインは静かに微笑んだ。
その時。
風が丘を吹き抜ける。
青い花が揺れる。
子供たちの笑い声が響く。
セレナが空を見上げる。
アストラも静かに微笑む。
世界は生きている。
悲しみを抱えながら。
傷を抱えながら。
それでも。
希望を忘れずに。
前へ進んでいく。
レインは空を見上げる。
青空の向こう。
朝の星が静かに輝いていた。
リングの五芒星もまた。
その光へ応えるように脈打つ。
ドクン。
ドクン。
その鼓動は。
もう運命に導く鼓動ではない。
未来へ歩き続ける者たちの鼓動だった。
――完――