
千葉県香取市佐原のテナガエビ甘露煮
千葉県香取市佐原。
水のある町は、歩いているだけで時間の流れがゆるくなる。
小野川沿いに並ぶ古い商家。黒っぽい板壁。柳の影。観光客を乗せた舟が、川面をすべるように進んでいく。
「北総の小江戸、か……」
井之頭五郎は、古い町並みを見上げながら、ひとりつぶやいた。
仕事は思いのほか早く終わった。
古民家を改装した小さな土産物店に、輸入雑貨の飾り棚を納めるだけの用件だった。
相手の主人は、古い町並みに合うものを、と何度も言った。
派手すぎず、安っぽくなく、けれど観光客の目に留まるもの。
難しい注文だったが、嫌いではない。
町に似合うものを考えるのは、料理に似ている。
足しすぎると台無しになる。
引きすぎると記憶に残らない。
「さて……」
腕時計を見る。
昼には少し遅い。夕飯にはまだ早い。
こういう時間が、いちばん危ない。
仕事は終わった。
腹は、まだはっきりとは主張していない。
だが、鼻と目が勝手に食べ物を探し始めている。
川沿いを歩いていると、店先から甘辛い匂いがした。
醤油。砂糖。みりん。
それに、魚の煮詰まった匂い。
「おっと……これは、いけない匂いだ」
五郎は足を止めた。
店の看板には、川魚の佃煮とある。
小鮒、ワカサギ、モロコ、鯉のうま煮。
木の棚に並ぶ小さな袋や折箱は、どれも地味だ。
しかし地味なものほど、こういう店では強い。
五郎は店内に入った。
「いらっしゃいませ」
奥から女将が顔を出した。
店の中は、濃い煮汁の香りに満ちていた。
甘い。だが、甘いだけではない。
醤油の角があり、魚の旨味が沈んでいる。
ガラスケースの中で、ひときわ目を引くものがあった。
赤茶色に照った、小さなエビ。
「これは……テナガエビですか」
「はい。甘露煮です。佐原では昔からよく食べますよ」
テナガエビ。
名前は知っている。
川や湖にいる、腕の長い小さなエビ。
だが、こうして甘露煮になって並んでいる姿は、妙に艶っぽい。
赤というより、茜色。
夕焼けを煮詰めたような色だ。
五郎はしばらく見つめた。
「これ、少しください」
「ご飯のおかずにも、お酒にも合いますよ」
「そうでしょうね」
五郎は思わずうなずいた。
酒。
たしかに合うだろう。
だが、今の俺は酒ではない。
今の俺に必要なのは、白い飯だ。
店を出てから、五郎の中で腹がはっきり目を覚ました。
甘露煮を買った。
それだけで済むはずがない。
この町で、川魚を前にして、ただ土産だけを持って帰るのは、いかにも惜しい。
「飯だ。飯を探そう」
小野川沿いを少し歩くと、小さな食事処があった。
表には「川魚定食」「小鉢」「ご飯」と書かれている。
派手さはない。
だが、こういう店は、たまに当たりがある。
暖簾をくぐる。
「ひとりです」
「お好きな席へどうぞ」
窓際の席に座る。
川が少し見える。
舟がゆっくり通っていく。
メニューを開く。
鯉のうま煮定食。
ワカサギ南蛮。
小鮒の甘露煮。
しじみ汁。
白飯。
そして、店の小鉢に「テナガエビ甘露煮」とある。
「なるほど。ここでつながるわけか」
五郎は決めた。
「すみません。鯉のうま煮定食に、テナガエビの小鉢をつけてください。あと、ご飯は普通で」
言ってから、少し考える。
「いや、大盛りで」
自分で言って、自分で納得した。
ここは普通ではない。
水郷の町だ。
飯も、少し舟を出していい。
しばらくして膳が来た。
鯉のうま煮。
しじみ汁。
漬物。
そして、白磁の小皿に盛られたテナガエビの甘露煮。
五郎はまず、その小皿を見た。
小さなエビたちが、照りをまとっている。
赤茶色の殻。細い髭。丸まった胴。
小皿の上に、夕暮れの川が閉じ込められているようだ。
「これは……見た目でもう、うまい」
箸で一尾つまむ。
軽い。
しかし、箸先に確かな存在感がある。
口に入れる。
まず殻。
小さく、ぱりっと砕ける。
次に香ばしさ。
エビ特有の香りが、鼻に抜ける。
そのあとに甘辛さが来る。
醤油。みりん。砂糖。
しかし甘ったるくない。
煮詰めた味の奥に、川の生き物らしい濃い旨味がある。
「うん……これは、飯だ」
五郎は白飯を口に運んだ。
甘露煮の濃い味を、飯が受け止める。
飯粒が、煮汁の記憶をほどいていく。
もう一尾。
また飯。
「小さいくせに、飯を動かす力がある」
鯉のうま煮にも箸を入れる。
こちらはどっしりしている。
甘辛く煮られた身は、ほろりと崩れ、川魚特有の風味がある。
テナガエビが小さな鈴なら、鯉は太鼓だ。
同じ甘辛でも、音が違う。
しじみ汁をすする。
「ああ……いい」
味噌の中に、貝の出汁。
甘露煮で濃くなった口を、じんわり戻してくれる。
五郎はふと、以前訪れた琵琶湖の町を思い出した。
滋賀県高島市今津町。
湖のそばの静かな町。
魚屋のガラスケースに、生きたテナガエビが袋に入って売られていた。
あの時は、天ぷらにした。
薄い衣の中で、テナガエビは鮮やかに赤くなった。
塩だけで食べると、殻がぱりぱりと弾け、身の甘みがふっと広がった。
甘露煮は、時間を食べる味。
天ぷらは、瞬間を食べる味。
同じテナガエビでも、まるで違う。
「川と湖で、同じエビが違う顔をする。面白いな」
五郎は、佐原の小皿に戻った。
甘露煮をもう一尾。
今度は少しゆっくり噛む。
殻の香ばしさ。
煮汁の深さ。
小さな身の甘み。
派手な料理ではない。
肉厚でもない。
豪華でもない。
だが、これには土地がある。
川があり、舟があり、古い町並みがあり、煮詰めてきた暮らしがある。
「こういうものは、急いで食べちゃいけない」
そう思いながら、五郎の箸は止まらない。
矛盾している。
しかし、うまいものの前では、人間はだいたい矛盾する。
白飯が減っていく。
テナガエビも減っていく。
しじみ汁をはさむ。
漬物で口を締める。
また甘露煮。
小さな皿なのに、膳全体を支配している。
「これは主役だな。小鉢の顔をした主役だ」
最後の一尾を前に、五郎は少し迷った。
一気にいくか。
飯に乗せるか。
それとも、しじみ汁のあとに単独で締めるか。
結局、白飯の上に乗せた。
赤いテナガエビが、白い飯の上に横たわる。
小さな舟のようだった。
五郎はそれを口に入れた。
甘辛い。香ばしい。飯がうまい。
最後に、エビの余韻が舌に残る。
「ごちそうさまでした」
店を出ると、夕方の光が川に落ちていた。
小野川の水面が、甘露煮と同じような赤茶色に光っている。
五郎は手に持った土産袋を見た。
中には、さっき買ったテナガエビの甘露煮が入っている。
店で食べ、家でも食べる。
少しやりすぎかもしれない。
だが、こういうやりすぎは悪くない。
水郷の町で出会った小さな赤いエビ。
川魚の文化。
保存食の知恵。
旅先の空腹。
それらが全部、ひとつの小皿に乗っていた。
五郎は川沿いを歩き出した。
「佐原、侮れないな」
腹は満ちている。
しかし、心のどこかで、もう次の飯のことを考えている。
それが旅というものだ。
そして、ひとり飯というものだ。